E-33

 

  テレビの功罪

 


加藤良一
 


     

今年はテレビ放送が始まって50年、それを記念する番組が盛んに放映されている。テレビとの付き合い方はひとさまざまであろうが、まったく無縁のひとはごくすくないにちがいない。いまやテレビはわれわれの生活のなかに確実に定着している。
 テレビは同じ電波放送であるラジオとは根本的にちがっている。動く画面で見せる視覚性を特徴とするメディアだからだ。「百聞は一見にしかず」、視覚に訴える高いコミュニケーション能力を持つだけに、使い方によっては絶大な影響力を発揮する。

 最近、北朝鮮のテレビ放送が紹介されることが多くなったが、あの放送を見ればある意図を持って人民を誘導する力さえ具えていることが理解できる。ところで、テレビにおいてほんとうに「百聞は一見にしかず」は成り立つのであろうか。最近、北朝鮮のテレビ放送が紹介されることが多くなった。お馴染みになったあの女性アナウンサー。アジ演説まがいの喋り方、将軍様を称える一本調子の徹底振りは、怖さを感じる。北朝鮮の報道姿勢は、「百聞は一見にしかず」の正反対にちがいない。

 さて、目を国内に移せば、取材のしかたの問題、性的表現や暴力的表現の過多、ワイドショーなどの娯楽一辺倒番組の氾濫が問題視され、しばしばテレビ有害論となるのだろうが、これはあくまで使い方の問題である。まちがってもテレビ・イコール・有害ではない。核融合反応にしても使い方しだいで大量殺戮兵器にもなれば、人間社会に平和的に利用されることもあるからだ。
 では問題は何か。それは、よくいわれる「意図的悪用」である。もっとも典型的なものに「やらせ」がある。どれが「やらせ」番組だと正確に述べるほどテレビを見ていないので詳しく述べることはできないが、おそらくこれをお読みの方々も「やらせ」番組の二つや三つはすぐ思いつくのではないか。それほど「やらせ」は蔓延(はびこ)っている。

 同志社大学文学部/新聞学の渡辺氏は、「やらせ」の内容と原因をつぎのようにまとめている。

@ 世論を誤導(ミスリード)する意図をもった全体の構成と仕組み
A 個々の事例の偏向解釈
B 編集上における意図的な事実の削除あるいは添加
C 番組内の個別事項のまちがい
D 番組内容の誇張表現
E 虚偽、捏造
F 事実の脚色と歪曲
G 事実の時系列説明の変更
H 速報性の過大視と映像主体に番組構成するテレビの特性に起因するもの

 「やらせ」には、放送局側の意図的操作と、そうではなく意図していなかったが結果的にそうなってしまう場合がある。前者はほとんど説明の必要がないだろうが、たとえば、外部からの圧力や制作担当の個人的嗜好などが上げられる。後者には、無知や不注意によるチェックミス、事実の解釈逸脱や誤解あるいは単純なミス、画面だけが事実と取られやすいテレビの特性から必然化するものなどがあるという。

 テレビの特性と関連して思い出すことがある。ひと昔まえ、学生運動が社会問題化していたときの新聞報道のあり方を問う話しである。鉄パイプなどを持って機動隊と対峙し、投石する学生運動家集団の「闘争」をどう報道したか。
 あるメディアでは、学生たちの攻撃を受け、ジュラルミンの楯をかざして“じっと防御する機動隊員だけの写真”が掲載されていた。写真には、一方的に理不尽な攻撃をかけられる機動隊という印象が漂っていた。また、別のメディアでは同じ現場を取材したにもかかわらず、圧倒的な機動隊の権力と物量の前に、“無力感に打ちひしがれる学生の姿だけ”が写っていた。
 つまり「写真」というものは、そういうものなのである。写真であってもある意図をもってトリミング──ここに「編集」という操作が入るが、そうすることによって、一見素直で客観的な事実報道のように見えても、必ずある「解釈」や「意図」を伴っているのである。われわれはつねにそのことを銘記していなければならない。

 人気番組の一つ、NHKのプロジェクトXは、最近すこしネタ切れの感じがしないでもなくなった。前出の渡辺氏によれば、プロジェクトXは、「情緒に訴えて実相をぼかす」手法がみえるという。そういわれれば、情緒的な箇所はけっこう多いし、過大な取り上げ方ではないかと訝しく思う場面に出くわすこともある。

 いずれにせよ、受け手としてのわれわれオーディエンス(視聴者)が賢くならなければならないのである。つねに批評的な態度を忘れずに情報を受け止めるようにしたい。

 

(2003年2月9日)