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日本酒、この多様さ

 


加藤良一
 




 いい日本酒はちょっと冷やして飲みたい。どの程度冷やすかは酒にもよるだろうし、飲む人の好みもあろう、もちろん季節によってもちがうだろう。夏はやや冷たくし、冬には適度に冷えているていどでいい。日本酒は温めても飲めるが、熱燗は、あのむっとくるアルコール臭を嫌がる人もいる。

 燗酒は、すでに千年以上前の平安時代のはじめにあったという。当時の記録によると「酒のかんは九月九日より翌年の三月三日たるべし」とあり、季節によって冷酒と飲み分けていた。現代の九月はまだお燗がほしい気温ではないが。

 あるときあるところで、酒の温度を厳密に調節して、温度による味の違いを確かめたことがあった。一つの酒を、10℃、20℃、40℃、50℃の4点で順に飲み比べるもの で、半信半疑で飲みはじめたが、これが同じ酒かと思うほどのちがいがあって、びっくりした。温度が低いほど甘さを強く感じ、温度が上がるに従ってすっきり感が出てくるのが実感として分かった。家庭でこのテストをやるのはたいへんだが、やる気があればできないことではない。ただし、一つのお酒を順に温度を変えていたのでは、前の温度の味を忘れてしまうであろうから、4点の温度は、同時に並べておかないと比較するのがむずかしい。

 酒の温度には、5℃間隔でしゃれた名前が付いている。日本人の酒に対するこだわりであろう。
 まず、もっとも低いのが“雪え”(ゆきひえ)といって5℃である。これ以下では冷たすぎて味も何もないだろう。真夏の夕暮れ時、雪冷えにきりりと冷やした酒で暑さを忘れたいものである。雪冷えのつぎの温度が“花冷え”(はなひえ)といわれる10℃。春も近づき、そろそろ花が蕾をほどく頃の温度はこんなものだろうか。つぎが、冷酒のうちでもっとも高い温度である15℃の“涼冷え”(すずひえ)である。これはとくに冷蔵庫に入れるまでもない。

 冷酒から燗酒に移り変わる20℃と25℃にはとくに名前がついていない。この温度帯にはなぜ名前がないのか。このあたりの温度は、いわゆる室温とか常温などと呼ばれる範囲である。冷たかったり熱かったりすれば舌に働きかけるものがあるが、室温ではとくにこれといって特徴がない味になるからだろうか。

 さて、これから先はいわゆるお燗の温度になる。30℃は“日向燗”(ひなたかん)と呼ばれていて、冷酒がぬるくなってしまったのか、あるいはお燗が冷めたのか、どっちだかわからないような温度である。35℃は“人肌燗”(ひとはだかん)といわれるとおり人の体温に近い。いくら人肌だからといって、酒瓶を抱きしめていても、なかなかこの温度にはならないだろう。40℃くらいになるといかにもお燗らしくなって温かくなるが、それでもまだ“ぬる燗”という。
 ぬる燗じゃ半端だという向きには、45℃の“上燗”(じょうかん)がある。これでも物足りない人のためには50℃の“あつ燗”がある。ここまでくると、杯を口に近づけたときにむっとアルコール臭が鼻をつく。これでもかと温めたのが、55℃以上の“とびきり燗”で、よい酒をここまで熱くするのはあまりお奨めできない。でも、真冬の寒い夜、おでんの屋台で安酒をやるなら、なんといってもとびきり燗がよい。徳利の消毒にもなるし…。

 雪冷えまで冷やした酒だってだらだら飲んでいたら、花冷えから涼冷えへと移りゆく。あつ燗だってほっとけば、上燗からぬる燗、人肌燗と冷め、仕舞には日向燗になってしまう。こうしてみると、毎日二三種類の酒を飲んでいることになるようだ。とにかく出された酒は、さっさと飲むことである。