少年は、サンタクロースはいると信じていた。なぜなら、その日の朝、少年が目覚めると、決まって枕元には欲しかった何がしかのお菓子や玩具が置かれていたから。クリスマスの夜には、何度か遅くまで起きて、サンタクロースの姿を見ようとしていたが、いちどもその姿を見ることはなしに大きくなった。何歳ころまで、サンタクロースを待っていたかは分からないが、いつの間にか、サンタクロースのプレゼントがなくなって、それを変だとも気づかないままに大人になった。

 そんな少年は30年ほどの歳月を経て、3人の子供のサンタクロースになった。12月のその日には、玄関の外に、手にしたプレゼントを隠して帰宅し、子供たちが眠ってから、そっと枕元に、プレゼントを置いた。翌朝、幼い日々の子供たちは、サンタクロースからのプレセントをとても喜んで奪い合うようにして遊んでいたが、やがて、サンタクロースはお父さんだと疑うようになった。そのようにして、いつの間にかサンタクロースの役目も終え、長い時間が過ぎ去ってしまった。2008年のクリスマスには、孫の保育園からクリスマス会の案内が届いた。孫の親が共稼ぎのために、まだ2歳にしかならない幼子は、小さな保育園に入れられて、早すぎる世間の荒波にもまれ、そこでの人間関係に苦労をしている。よく泣かされたり、顔に怪我をさせられたりしていると聞いていた。老妻とともに出かけてみると、サンタクロースに扮した園長先生や受け持ちの先生たちと、一緒に歌ったり、踊ったり(ただ飛び跳ねているだけだが)、けっこう、日々、楽しく過している様子が垣間見えて、少し安心をすることができた。

 男は外国のクリスマスも経験している。20代から30代の初めにかけての4年間、男とその家族はアメリカで暮らした。ミネソタ州の州都、セントポール/ミネアポリスから、南に100マイルほど離れたオースチンという小さな町に、男の勤めるホルメル研究所(ミネソタ大学付属研究所)があった。郊外は地平線が見えるほど、遠くまでコーン畑や牧草地がひろがっており、みどり豊かなのんびりとした田舎町であった。夏はゴルフや、プールでの水泳、郊外でのピクニックを楽しむことができたが、冬は街も郊外も、一面が白銀の雪に覆われ、日中でも−10〜−30℃になる厳寒の地であった。毎年、12月のクリスマスシーズンには、所員の子供たちを集めて研究所内でクリスマスパーティーが開かれた。所員の一人がサンタクロースに扮して、子供たちにプレゼントを贈っていたが、そのサンタクロースはやたら陽気で、「オーホッホッホ! オーホッホッホ!」と大声で笑いながら、子供たちを楽しませていた。

 男はキリスト教徒ではないが、近隣の知人に誘われて、教会でのクリスマスイブのミサに参加したことがある。荘厳な静寂のなかでの信者による信者のためのクリスマスイブであった。また、その知人のお宅に招かれて、クリスマスの夜を過した。そこには、サンタクロースは来なかったが、室内に飾り付けられたツリーの下にはクリスマスプレゼントがたくさん用意されていた。大きな箱、小さな箱、リボンで飾られて積み上げられていた。それらのプレゼントは子供たちだけでなく、家族の一人ひとりに贈られた。お父さんも、お母さんも、おじいちゃんやおばあちゃんも、みんなプレゼントをもらって嬉しそうだった。招かれた男の家族にも、一人ひとり、みんなにプレゼントが用意されていた。その夜は、クリスマスパーティーで、たくさんのご馳走が出るのかと思って楽しみにしていたら、オイスタースープだけで、他には何もなかった。すすめられるままに、スープを2、3杯お代わりしたもののやたらお腹がすいて、眠った子供たちを抱き上げながら、すごすごと帰ったことを覚えている。

 男は、後年、フンボルト大学(東独)へ留学する機会があって、初冬の12月初めから早春の2月末まで、3ヶ月の間、冬の東ベルリンで過したことがある。フンボルト大学は、相対性理論で有名なアインシュタインや、伝染病の研究で有名なコッホが教授を務めたこともあり、かつて日本からは森鴎外や北里柴三郎、寺田寅彦らが留学した大学でもある。男が滞在した当時の東ベルリンは、ホーネッカーの率いる社会主義の時代で、東京の夜の街の明るさを見慣れたものには、とても寂しく暗い都会であった。その頃の町にサンタクロースがいたかどうか、いたとは思うが、いまは記憶にない。緯度が高く、冬のベルリンはやたら夜が長く、暗くて、寒くて、寂しい日々だった。朝の通勤時間、8時を過ぎても、あたりはまだ真っ暗で、市内の通勤バスや電車、自動車は、どれもライトをつけて走っていた。午前10時を過ぎる頃から、午後3時頃までは、太陽も南の空の低い位置に顔を出しているが、日差しは弱々しく、4時頃にはもう暗くなりはじめ、5時を過ぎた帰宅時間には、あたりは真っ暗、全ての車がライトをつけて走っていた。雪はそんなに多くはなかったが、夜は−10℃以下になる厳しい寒さの毎日であった。そんな寒さの中、単身赴任の男は、外に出ても、レストラン以外には行くところがなく、帰宅後は、ひたすら研究論文を読んで過した。Prof. R.T.Holmanの総説を翻訳したのもこのベルリンの一室で、帰国後、それは原一郎監修「油脂の栄養と疾病」(幸書房)の第1章となって残っている。

 クリスマスシーズンを挟んで、東ドイツでは、教会での音楽会が頻繁に開かれていた。小さな教会から大きな教会まで、わずか3ヶ月の滞在期間中に、男は20回近いコンサートに出かけた。現地の友人に誘われたり、一人で出かけたりしていた。事前にチケットを買って行く場合もあれば、教会に入ってから、何がしかの寄付をしてコンサートを聞く場合もあった。とても音楽が生活の身近にある国だと思った。

この東ドイツでの冬の体験で、一つ感じたことがある。ドイツの古い教会はとても大きい。ドイツに限らず、イタリアから北欧にかけて、どこの国でも古い教会はいずれもドームと呼ばれる高い天井の大きなホールがある。壁画や、窓のステンドグラスも長い歳月を経たものが今も残っており、15世紀、16世紀の絵画が、なんの気取りもなく壁に掛けられている。そんな大きな教会を見ながら思った。テレビもラジオもなかった時代、人々がこの地で、寒くて、暗くて、長い冬の夜を過すためには、教会に集まって、皆で歌でも歌っていなければ、とても乗り切れなかったのではないか・・・と。だから、教会での聖歌やパイプオルガンの演奏が人びとの生活の中に溶け込み、必要に応じてこんなにも大きな教会が建てられたのではないかと思った。キリスト教はローマなど地中海から北に向かって広がり、仏教はインドから中国や、日本など東に向かって広がった。仏教は寒い方には伸びず、キリスト教は暖かい方には伸びなかった。イスラムは砂漠地帯で発展した。男は新彊ウルムチ(中国)を中心に、イスラム圏の生活も、垣間見てきたが、ここでは触れないことにする。

キリストの誕生がなぜ1225日なのか、それは東ベルリンで生活をしてみて、冬至に関係があるのではないかと思った。東欧では12月の初めから冬至に向けて、一日、一日、昼間が短く、夜が長くなって行く。しかし、冬至を過ぎると、逆に、一日、一日、はっきりと感じられるほど昼間が長くなる。夜は短くなって、太陽の明るさは日々、増して行く。同時に、男の心まで、明るく華やいだものになって行った。そこに1225日のキリストの誕生が重なった。キリストの誕生した日から、日々、明るくなり、人々の心の中まで太陽がさすようになって行く。その地で生まれ育った人には分からないだろうけれど、突然、社会主義時代の東ベルリン(ベルリンの目抜き通りでさえ、ビルにはネオンサインもイルミネーションもほとんどない暗い都会)に移って、一冬を過した男には、異常なまでの冬の夜の長さと、冬至を過ぎた後の明るさの復活とその喜び、昼間の長さの変化を肌で感じることが出来た。キリスト教は、そんな人々の心の変化の中で育て行ったように思う。


エピローグ

読者のなかには、キリスト教を信じる方々も少なくないであろう。信者の皆様には、男の勝手な記述をお詫びしなければならないが、何年か前、オーストラリア出身のキリスト教宣教師に、このことを話したことがある。キリストの誕生と冬至には関係がない、と叱られたのは当然だが、男は今でも自身の体験を信じている。




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クリスマス

島 崎 弘 幸 (2008年12月30日) E-73