「言っとくけど、お金はないわよ?新聞部は予算不足、それを背負ってる私も当然、苦しいんだから。あと、情報源のリークもお断り。それに、今のところアンタが食いつきそうな女の子ネタも持ってないから」
開口一番立て板に水の勢いで並べ立てられて、京一は眉を寄せてアン子を睨んだ。
「お前…俺をどういう目で見てるんだ?」
「だから、そういう目よ」
即座に返ってきた答えに、京一はがくりを肩を落とす。それを見てアン子は声を上げて笑った。
「ま、冗談はおいといて。珍しいわね、アンタが用なんて。あり得ないとは思うけど、もしかしてホントにネタ提供?」
意気込むアン子に、京一は苦笑して手を振った。
「馬鹿、そんなんじゃねェよ。ちょっと、聞きたいことがあんだよ。お前、莎草って知ってるか?」
アン子は思い返すように額に手を当てて考え込む。
「さのくさ…んー、聞いた名前ねぇ。ああ、前にアンタたちのクラスに居たんじゃない?確か、フルネームで莎草覚。去年転校していったんじゃなかったっけ?」
校内の情報網は流石にしっかりしているらしい。京一は覚えていなかったが、アン子は莎草の転校時期までしっかり覚えていた。
「そう、そいつ。そいつの事ちょっと知りたいんだけどよ。なんかお前の食いつきそうなネタとか、なかったか?」
「そう言われても…新聞のネタになるような話があれば覚えてると思うんだけど、思い当たらないわね。どっちかっていうと陰気で取っつきにくい奴だったと思うわよ?」
「そうか…」
アン子の記憶に引っ掛かるようなことでもあれば参考になると思ったのだが、そう簡単にはいかないらしい。
「なに?莎草君がどうかしたの?」
きらりと目を輝かせたアン子は、好奇心を隠そうともせずに身を乗り出してきた。
「さぁな、何かあるとは思うんだが…」
一瞬悩んだものの、京一はすぐに決断した。
アン子に首を突っ込まれるのは面倒ではあるが、一度聞いてしまった以上、隠す意味はない。なによりアン子の情報網が頼りなのは間違いないし、暴走を防ぐ意味でもここは頼んでおいて釘を差す方がいい。
「お前、莎草の転校していった先とか知ってるか?」
「そりゃあ、調べればわかると思うけど」
「んじゃ、ちょっと調べてみてくれねェか?転校先での奴の評判とかよ」
それを聞いたアン子は意外そうに目を見開いた。
「なによ、アンタがそんなこと知りたがるなんて、珍しいわね。なんかあったの?」
「さぁな、まだわかんねェよ。けど、この件は内緒で頼むわ」
「内緒って…誰によ?」
「誰ってことはない、余所で喋るなってことだ」
「それって、龍麻君や醍醐君達にも?」
少し驚いたように聞き返すアン子に、京一はきっぱり頷いた。
「ああ、他言無用で頼む」
「ふーん…もしかして訳あり?」
京一は、いかにも『獲物を狙う猛禽類』といった目つきでこちらを伺うアン子を出来るだけ直視しないようにして、これ以上聞くなと身振りで示す。
不満そうに頬を膨らませたものの、アン子は意外にあっさりと頷いた。
「ま、いいわ。アンタに貸しを作っておくのも悪くなさそうだしね。あとで説明くらいはしなさいよ」
貸しを作る、という言葉に今更ながらに寒いものを覚えたが、撤回する訳にもいかない。渋々頷くと、アン子は満足そうに頷いた。
「ところで、龍麻君は教室にいる?ちょっと聞きたいことがあるんだけど。好評だった特集第二弾について詰めたいのよね」
ころりと変わった話題に、京一は眉を顰めた。
「お前、相変わらずくだんねェことやってんなァ。あいつは今日は休みだよ」
「くだらないとはなによ。読者のニーズに応えてると言って欲しいわね」
京一をぎろりと睨んだアン子は、しかしすぐに仕方なさそうに息を吐いた。
「けどまぁ、休みなら仕方ないか。でも…珍しいわね、龍麻君が休むなんて。さぼり癖のある誰かさんとは違って真面目なのに」
「おい、その誰かさんって誰のことだ?」
「さぁねー。んじゃもう行くわね。何かわかったら教えるから」
ひらひらと手を振るアン子の背中に、
「ったく、人を引き合いに出すなっての。龍麻の奴が出てきたら、絶対あいつの企画には乗るなって言っとかねーと」
そうぼやきつつ、京一は小さく息を吐いた。
アン子に、わざわざ龍麻が居ない時を見計らって声を掛けたのは、少しだけ後ろめたい気持ちがあったからだ。
龍麻の口から莎草という名前を聞いたのは一度だけだ。
確か、初めて旧校舎に潜った時のことで、唐突に出てきた名前に戸惑ったことを覚えている。どさくさに紛れて詳しい話を聞きそびれてしまったが、あの時の龍麻の様子はどこかおかしかった。
莎草が何か特別な『力』を持っていて、龍麻はそれを知っている…そんな風に聞こえたのだが、あれっきり龍麻が莎草の名を口に出すことはなかった。
もう一度聞こうにも、記憶に残るあの時の龍麻の厳しい表情が、尋ねることを躊躇させる。まだ転校したてだったあの頃に比べれば龍麻は随分と柔らかくなったとは思うのだが、それでも直接聞くのは躊躇われた。
本当は、影でこそこそと動くのは京一の流儀ではない。
けれど、あの時のことは、京一の意識の隅で抜けない棘のようにその存在を主張してくる。
それがどうしても気になって、不本意ながらもアン子を頼ることにしたのだ。
自分でもらしくないとは思う。いつもなら、明らかに触れられることを嫌がっている相手の事情に踏み込むのは、京一の好むところではない。
しかし、不思議と龍麻のことは気になった。
時折示される微かな手がかりを追いかけて、隠している本心を確かめてみたいという衝動は、出会った時からずっと京一の中にあった。
その龍麻は、今日は珍しく朝から姿が見えない。
気分が乗らなければ朝からサボるというのはわからない感覚ではないのだが、龍麻はそんなタイプではない。
調子でも悪いのかとはちらりと思いはしたものの、京一はそれほど心配はしていなかった。
何も連絡はないし、明日には出てくるだろうと、そう思っていたのだ。
この時は、まだ。
しかし結局、翌日もその翌日も、龍麻は登校してこなかったのだ。
「そう…風邪気味だって、そう言ってたのね」
マリアは溜息を吐いてわかりました、と頷いた。
「マリア先生、私たち、今日の放課後に家を訪ねてみようと思うんです。もしかしたら、悪化しているのかもしれないし」
「アラ…いえ、そうね。ワタシも行こうかと思っていたのだけれど、あなた達が訪ねる方がいいかもしれない。お願いできるかしら?」
美里の言葉に少し躊躇ったものの、マリアはよろしくねと言い置いて教室に戻っていった。
「はぁ、なんとか誤魔化せたね。危なかった」
小蒔が大きく息を吐いてずるずるとその場に座り込む。
「でも、このままじゃいずれマリア先生にも話さなければいけなくなるわ」
龍麻が欠席を続けて既に三日が過ぎている。担任のマリアが連絡が取れない事を不審に思い、友人達を呼び出して話を聞きたがるのも無理のない話だった。
「何か面倒に巻き込まれてるのなら、大げさに騒がない方がいい。マリアちゃんには悪ィが、もう少しこっちで探した方がいいだろ」
そう言って当面誤魔化すことを主張した京一に誰も文句をつけなかったのは、頻発する異常な事件を見てきた経験があったからだろう。闇雲に事態を大きくしても、解決には至らないことを全員が知ってしまっている。
しかし、今のままではいずれ隠し通せなくなることも確かだった。
「龍麻クン、家には居なかったんだよね?」
「ああ、静かなモンだった」
京一は既に昨日、龍麻のマンションを訪ねていた。中に人の気配のなかったことは確認済みである。
「静かって、家の人とかは?」
「あいつは一人暮らしだからな。家族が事情を知ってる可能性は低いと思うぜ」
「え?そうなの?」
「何か用があって、実家に帰っているのだとしても、連絡がないというのは龍麻君らしくないものね…」
その場に広がった何とも言い難い雰囲気を断ち切るように、醍醐が一つ息を吐いて纏めた。
「とにかく、放課後もう一度龍麻の家に行ってみよう。居ないようなら、龍麻が最後に立ち寄ったところを探す。その時は他の奴らにも協力してもらった方がいいだろうな」
「京一、ちょっと」
教室へ帰る途中、廊下の端で手招きしているアン子に気づいて京一は顔を顰めた。
はっきり言って今は相手をしたい気分ではない。
気づかない振りで通そうかとも思ったが、アン子の情報網は侮れない。何か情報があるかどうか、確認はしておいた方がよかった。
「なんだよアン子。あいにく俺はお前を構ってやれる気分じゃねェんだ。それより聞きたいことがあるんだけどよ」
不機嫌を隠さない京一に、アン子の目がすっと眇められる。
「なによその態度。アンタが頼んできた事でしょ?」
「頼んだ…?ああ、莎草のことか」
「そう、ちょっと興味があったから速攻で調べてみたのよね。これが大当たりよ」
今はそんなことよりと言いかけた京一は、大当たりという単語に興味を引かれて口を噤んだ。
「最初に、莎草君が転校した先を調べてみたの。これがなんと明日香學園!これで俄然やる気になって調べたのよね。そしたらこれがきな臭いのなんの…」
明日香學園という名前には聞き覚えがあるような気もしたが、そんなに強い印象はない。何故そこでやる気になるのかと突っ込みたかったが、アン子の勢いは口を挟む隙がなかった。
「まず、莎草君が転入した直後から、明日香學園やその周辺で怪事件が頻発してるの。生徒が衆人環視の前で目を突いたり、いきなり暴れ出したりする事件が数件。人が空中に浮いたって話まであるそうよ。ねぇ、これってどっかで聞いたような話だと思わない?」
確かに、その異様さには覚えがある。
まるでここ数ヶ月、自分たちの周りで起こっている事件の焼き直しのようだ。
「被害者が揉めてた相手ってことで、生徒の間で莎草君が関わってるんじゃないかって噂も流れたらしいのよね。ところが!」
次第に声高になっていたアン子は、ここで急に声を潜めた。
「莎草君は突然失踪してるの。理由は不明、書き置きや連絡は一切ないそうよ。今もその行方はわかっていない。そして彼の失踪後、明日香學園を中心に起こっていた事件はぴたりと止んだそうよ。その二ヶ月後、今度は龍麻君がこの真神學園に転校してきた…」
アン子はそこで言葉を切って京一を見た。
「どう?スクープでしょ?」
「ちょっと待て、なんでそこで龍麻の名前が出て来るんだよ」
それを聞いたアン子は、呆れたように息を吐いた。
「何を言ってんの。明日香學園って言えば、龍麻君が居た学校じゃない!」
言われて初めて、京一はその校名に何故覚えがあったのかを思い出した。
「そういうことか…」
龍麻が莎草を知っていたのは、何のことはない、転校生として自分の学校に来たからだったのだ。
「さあ、説明してもらうわよ。これってやっぱり、龍麻君絡みなの?」
アン子がぐっと身を乗り出してきたが、その先は京一にもわからないことだった。莎草との間に何があったのかは、龍麻本人に聞くしかない。
「調べてもらったことには礼を言うぜ。けど、説明は後だ。今はそれどころじゃねぇし」
「…それも、そうね」
アン子は珍しく反論せずに口を噤んだ。龍麻が欠席を続けていることは知っているらしい。
「ったく、ずるいわよね、調べさせるだけ調べさせといてさ。この貸しはきっちり返して貰うから」
「悪ィな」
珍しく本気でそう思ったのを聞き取ったのか、ちょっと肩を竦めたアン子は口調を改めた。
「ところで、龍麻君のことだけど…クラスメートが、龍麻君が校門のところで女の子と話してるのを見た、って言ってたわ。数日前のことだそうよ」
「女の子?」
「ええ、線の細い、可愛い子だったって。少し話して、それから連れだって歩いていった、って」
龍麻はその整った顔立ちと目立ちやすさ―――目立つ理由の半分程度は一緒に居る面々にもあるのだが―――から時々声を掛けられているのは知っている。
だが、一緒に歩いていった、というのが気になった。
京一の知る限り、龍麻はいつもそういうお誘いに関しては丁寧だが断固とした口振りで断りを入れているからだ。
「…わかった。サンキュ」
「龍麻君が戻ってきたら、ちゃんと説明してもらうからね」
しっかりそう言い残して背を向けたアン子を見送ってから、京一も教室へと足を向ける。
本当は授業など受ける気分ではないのだが、他の面々の手前もある。
龍麻は強いし、頭も回る。さほど心配することはないだろうと思いたいのに、何故か胸騒ぎが消えなかった。
「お願い。緋勇さんを助けて…」
校門前で待っていた少女は、短くそう告げてそのまま走り去って行った。
時折見かけて声を交わしたこともあるが、あまりよく知っている訳ではない。その口から龍麻の名が出たことは京一を驚かせたが、呼び止めようにも少女の姿は既に視界から消えていた。
「彼女…確か比良坂さん、だっけ?なんかちょっと様子がおかしくなかった?」
「ああ、こんなのをくれた。ラブレター…じゃあねぇな、残念ながら」
京一は渡された紙片を広げてみた。書いてある住所に特に覚えはない。だが、彼女の切羽詰まった表情は気になった。
「その住所…行ってみるか?」
手元を覗き込んできた醍醐がそう問うてくるのに、京一は躊躇無く頷いた。
メモの住所にあったのは、人気のない古びた建物だった。何かの工場跡なのか、敷地そのものは大きいが、人の気配は感じられない。
しかし、その地下には設備の整った研究室のような空間が広がっていた。
「なんだこりゃ?」
「なんか気持ち悪い標本とかあるよ。何かの研究所?」
醍醐は周囲を見回す小蒔や美里の目から脇の棚をさりげなく隠すように動いて、京一に目配せをした。
「おい、京一」
「…これは」
棚にはどうみても人体の一部、それもまっとうな手段で手に入れたとは言い難い状態のものが、瓶詰めで並べられていたのだ。
「こんなモンが置いてあるってことは…」
嫌な予感を口に出しかけたその時、
「危ない、逃げろ!」
耳に覚えのある声の直後、押し殺した悲鳴のような叫びが響く。
「奥だ…!」
不気味な標本部屋の更に奥には扉があった。何も考えずに飛び込んだ京一は、そこに広がっていた光景に息を飲んだ。
手前の部屋よりも随分広い部屋には色々な機械が並べられ、その脇には白衣の男が立っている。傍らには明らかに人間とは言えない、異相の化け物が居たのだ。
思わず身構えた京一は、しかし男の目が酷く虚ろに一点を眺めていることに気づいてその視線を追った。
「…っ、龍麻!」
その手前、部屋の中央に置かれたストレッチャーの前にうずくまっているのは龍麻だった。
そしてその足下には、不吉な、禍々しい紅が広がっている。
「龍麻、おい、大丈夫か?」
怪我をしているのかと焦ったが、血は龍麻本人ではなく、その腕の中に伏している少女の身体から流れ出していた。
呼び声にはっと顔を上げた龍麻は、京一を認めて一瞬表情を歪めたように見えた。
しかしそれはほんの一瞬のことで、すぐにその目は背後に向けられる。
「手当を!」
美里は惨状に目を見開いたものの、すぐにその場に膝を突いた。
「これは…」
傷口を見た美里が言葉に詰まる。
大量の出血で見えにくかった傷口は、露わにしてみると余計にその大きさがわかる。
ぐったりと目を閉じていた少女がうっすらと目を見開き、ゆるりと龍麻を見た。
「ごめん…なさい、本当に。龍麻さん…」
龍麻は一瞬痛みを堪えるように唇を噛み、ゆっくりと首を振った。
「謝らなくていい。そんな必要は、どこにもないんだから」
それを聞いた少女は、少し口元を緩めて安堵したように再び目を閉じる。
そのまま事切れるのではないかと思うような儚い仕草に反応したのは、立ちつくしていた白衣の男だった。
「何故…どうしてだ紗夜!何故そんな男を庇う!」
少女は目を閉じたまま答えない。
男は狂気に満ちた眼差しを少女から龍麻へと向けた。
「…そうかお前か。お前が紗夜を誑かしたのか!」
龍麻は答えない。
しかし京一は、少女を支える龍麻の手が細かく震えているのに気づいた。
「お前が…!お前が紗夜を迷わせたんだ!お前が居なければ、紗夜はずっと僕の傍にいた。お前が紗夜を騙しているんだ…」
「黙れ!」
その一喝は垂れ流される男の繰り言を止めるだけではなく、その場の全員が思わず竦み上がるほど激しいものだった。
うつむいたままの龍麻の身体から立ち上る怒気ははっきりと視認できそうな勢いで、小蒔や醍醐すらごくりと息を飲んでいるのがわかる。
しかし、それほどの怒気を向けられている当の本人だけは怯んだ様子はなかった。
「そうだ、そうなんだ。それなら話は早い。お前を消してしまえば、紗夜はまた戻ってくる…!」
男の呪詛に満ちた叫びに呼応するように、傍らの化け物が動いた。
「行け、腐童!あいつを殺せ!」
龍麻は慎重な手つきで抱えていた少女を美里の手に委ねると、ゆっくりと立ち上がった。その顔を同じ高さで見て初めて、京一はその異変に気がついた。
「おい…」
今まで血に染まる少女に気を取られて気づかなかったが、龍麻の状態も相当酷いものだった。顔を見てないのはたった三日ほどなのに、はっきりとわかるほどやつれ、目の下には隈ができている。半裸の上半身のあちこちに何かを押しつけたような跡や痣が出来、手首にははっきりとわかる拘束具の跡が大きな傷になっていた。そして顔色は青を通り越して蒼白に近い。
「龍麻!」
立ち上がった途端、ぐらりと揺れた身体に思わず手が出たが、龍麻はそれに縋ろうとはしなかった。
「お前も手当が必要だろう。ここは俺たちがやるから休んでいろ」
醍醐が心配してそう声を掛けたものの、龍麻は頑なに首を振った。
「平気だ。ちゃんと動ける」
その顔を見れば、何を言っても無駄なのはわかる。
京一はお前も止めろと視線で訴えてくる醍醐に肩を竦めてみせた。止めようにも、龍麻は既に戦闘態勢に入っている。
京一は袱紗の紐を緩めながら溜息のように零した。
「止めて止まるもんじゃねぇだろ、あれは。フォローはするが、どうだかな…」
詳しい事情はわからないが、状況を見れば大体の想像はつく。
そしてその想像が当たっているなら、同じ状況に置かれた時には自分も冷静ではいられないと思う。それは醍醐も同じ思いらしく、そっと息を吐いて頷いた。
「仕方ない…手早く終わらせるぞ」
龍麻の攻撃はまるで火のように激しかった。
元々戦闘時に突っ込んで行きたがる傾向はあるのだが、それはどう動けば自分が効果的な囮と成り得るのか、計算尽くで動いてのことだった。
しかし今日の龍麻は、全く自分の身を省みない勢いで、ただ攻撃のみに専念している。
見かねた何度も醍醐が声を掛けるのだが、龍麻はまるで意に介さない。
否、本当に聞こえてはいないのかもしれなかった。
全身を包んでいる怒気は、傍らにいる京一にも痛いほどに伝わってきた。
だが、その気迫に身体がついていっていない。
足をふらつかせる場面が何度も続き、とうとう京一は龍麻の腕を掴んで制した。
「龍麻、もういいだろ?そのくらいにしとけ」
「放せ、京一!」
「振り払えない癖に何言ってやがる。それに…もう充分だろ?それともあいつを殺す気か?」
言われて初めて、龍麻は自分が追い詰めていた相手が壁際で動けなくなっていることに気付いたようだった。
「あ…」
それを見てようやく我に返ったのか、ほうっと息を吐いた龍麻は、しかしすぐに身を翻した。
「比良坂…!」
戦闘から外れた一角には、はっきりと解るほど濃厚な死の気配が漂っていた。美里の癒し以上の速さで着実に流れ出す血は床を染め、誰の目にも明らかなほど、その時が近いことを窺わせている。
横たわる少女は、それでも龍麻の呼びかけに反応するようにゆるゆると目を開いた。
「龍麻、さん…」
夢現を彷徨うような眼差しが、龍麻を捕らえるとふわりと微笑んだ。
しかし、その視線が龍麻の腕に及ぶと、少女の表情は曇る。腕の拘束の痕は、激しい戦闘でざっくりと口を開ける酷い傷痕になっていたのだ。
「ごめんなさい…」
少女はゆっくりと腕を伸ばしてその傷に触れる。
「ごめんなさい、本当に…」
「いいんだ、大した事ない。謝らなきゃいけないのは俺の方だ」
龍麻は少女の手を取って安心させるように微笑んだ。
少女は掠れた低い声で白衣の男が自分の兄であると語り、龍麻に幾度も詫びを繰り返す。
「もういい、もういいんだ。だから休んで。もう、終わったから」
「ありがとう…少し、疲れちゃった…」
少女は少し悲しげに微笑んで、再び目を閉じてしまう。
「病院に、早く運ばないと…」
額に汗を滲ませている美里の顔つきは硬い。
「そうだな、この状態で俺達が動かすよりも、救急車を呼んだ方がいいだろう」
「そうだな、ここじゃ電波が入らねェから、一旦上に……」
辺りが一気に赤く染まり、何処か人を食ったような声が聞こえてきたのはその時のことだった。
「鬼道五人衆が一人、我が名は炎角―――」
地下の炎が地上にまで達し、野次馬が集まり始めた時点で、京一達はその場を離れた。京一の上着を着せてはいるが、龍麻の状態は他人の目に晒せるようなものではなかったし、関係を疑われるのもまずい。
誰もが胸に重い凝りと疑問を抱えてはいたが、口には出せずに黙々と歩く。
人通りのある通りまで戻ってきたところで、龍麻が足を止めた。
「龍麻?大丈夫か?肩を貸した方がいいか?」
醍醐の問いかけに、龍麻は伏せていた顔を上げる。
「ああ、ありがとう。大丈夫、歩ける」
炎に包まれる地下室を脱出してからずっと、一言も口を開かなかった龍麻が返事を返した事に、醍醐だけではなく美里や小蒔もほっと安堵の息を吐く。
「そうか。ならもう少し歩けるか?ここからなら桜ヶ丘も近い。お前も手当をしなければいけないだろう」
しかし、龍麻は静かに首を振った。
「ごめん。………悪いけど一人にしてもらえるかな?」
その言葉に、微かに緩んだ空気が再び凍り付く。
「龍麻クン、でも…」
「大丈夫だよ。まっすぐ家に帰るから」
「龍麻……」
何か言いかけ、旨く言えずに唇を噛んだ醍醐に代わって美里が心配そうに龍麻を見る。
「なら、せめて手当をさせて。怪我…血が出てるわ」
「ああ、これ」
龍麻は腕を一瞥して、ふっと口の端を緩める。
「いいんだ、こんなのは。ほっときゃ治る」
「え…」
口元は笑っているのに、冷ややかな眼差しは深い自嘲の色に染まっている。普段殆ど見せたことのない表情を晒されて、美里はそれ以上の言葉を封じられる。
「ごめん。今日は…来てくれてありがとう。助かった」
そう言って、龍麻はにこりと笑ってみせる。
笑顔で誤魔化すのは龍麻の常套手段ではあったが、今回に限ってはそれは成功しているとは言い難い。完全に他人を拒否しているのがはっきりと滲み出てしまっている。
歩き出したその背を誰も追えずに立ちつくす中、京一は深い溜息を吐いて袱紗を担ぎ直した。
「京一?」
「家までついてく。あれを一人には出来ないだろ」
遠ざかる龍麻の背を顎でしゃくると、醍醐がほっとしたように息を吐いた。
「そうだな…頼む」
「後で連絡入れるわ」
そう言うと、京一は距離を保って龍麻の後を追った。
「おい」
呼びかけても、龍麻は振り返ろうとはせずに歩く速度を上げる。だが、途端にもつれた足元に京一は舌打ちして龍麻に追いついた。
「待てよ龍麻」
「……一人にしてくれって、言わなかったか?」
「邪魔はしねぇよ。家に帰り着くまでだ。美里やら小蒔の顔つき見ただろ?それっくらいさせろ」
「…………」
硬い顔つきの龍麻が、それでも速度を少し緩める。
京一は手首の怪我に障らないように気をつけながら、その肘をそっと掴んだ。その僅かな抵抗にぐらりと崩れる体勢が、今の龍麻の状態を如実に表している。
思わず零れそうになる舌打ちを堪えて、肘を緩やかに引く。
「京一…!」
「そっちじゃなくてこっち。家に帰るんだろ?こっちの道のが早ェんだよ」
強張った龍麻の身体が、少しだけ緩む。
本当は支えて歩いた方がいいのだろうが、それを本人が望んでいないことは明らかだった。京一は歯がゆさを覚えながらも、掴んだ肘をゆっくりと離す。
「行こうぜ、ほら」
先に立って歩けば、背後からゆっくりと龍麻がついてくる気配がした。
結局龍麻は、自宅までの道を京一の手を借りることなく歩ききった。
しかし、それも自宅前までの話で、マンションの入り口にたどり着くと、龍麻はふらりと身体を揺らした。
「龍麻!」
慌てて支えたものの、龍麻の身体は恐ろしく冷たく、反応が鈍い。
「ち…っ!」
やはりタクシーか救急車で桜ヶ丘に担ぎ込んだ方がいいかと思った時、龍麻が顔を上げた。
「部屋に…」
「けどお前…」
「いい、から…」
半分気絶したような状態で、それでも龍麻は頑強に病院を拒む。
「…この、頑固者が」
仕方なく、京一は腕を回して龍麻の身体を部屋まで運んだ。
どうにか鍵を開け、中に龍麻を担ぎ込む。
「ベットに…おい、龍麻!」
支えがあっても立っていられず、膝をついた龍麻は、肩を貸していた京一を見上げ、
「ここで、いい」
それだけ言って、龍麻はその場に座り込んだ。
「……………」
改めて見れば、本当に龍麻は満身創痍だった。
腕や身体に残る傷だけではなく、精神的なダメージが大きいのだろう。喋るのも億劫そうな様子からすると休ませるのが一番だろうが、腕の傷は手当をしないとますます悪化しそうだった。
「おい、救急箱は?確か置いてただろ?」
「…くていい」
「あん?」
「手当はいらない。いらないから……一人にしてくれ」
「…あのなあ」
感情を抑え込んでいた緊張感が、それ以上の苛立ちに取って代わられるのを感じながら、京一は強引に龍麻の腕を取った。
「………っ!」
堪えきれずに声を上げた龍麻を、ほらみろと言わんばかりの目で睨み付ける。
「こんなの、放って置いたらどうなると思ってる?」
ここで目を放したら、まず龍麻は手当などしないだろう。それを見過ごしたら、何のためにここまでついてきたのかわからない。
しかし、龍麻は頑なに首を振った。
「ほっときゃ治るんだ、こんなのは。第一、関係ないだろう、京一には」
その瞬間、京一は僅かに残っていた自制を放棄した。
「いい加減にしろ!」
龍麻の胸ぐらを掴んで引き上げ、その目をまっすぐ見据えて怒鳴りつける。
「お前のその有様を見て、関係ないだなんて割り切れると思ってんのかよ!」
龍麻も、負けじときつい声音で言い返す。
「関係ないだろう、俺が怪我しようが何しようが、京一には全然関係ない!」
本気で振り払おうと抗う龍麻の力は、しかしいつもの彼からは想像出来ないほど弱々しい。それが更に京一の怒りを煽った。
「お前、馬鹿か?関係ないなんて思えたら、そもそもこんなとこまで来やしないだろうが!」
「誰も、頼んでないだろ…っ!」
「知るか、頼まれなくったって気になるものは気になるんだよ!そんなに俺は頼りないか?そんなに信用出来ないかよ!」
「そんなこと言ってないだろ!」
「言ってなくても行動が示してるじゃねぇか。いっつもいっつも…そうやって、なんでも一人で抱え込もうとするなってんだ…!」
その言葉の何が引っかかったのか。
強張っていた龍麻の身体からがくりと力が抜けた。その頬に光るものを見つけたような気がして、京一は咄嗟に目を逸らした。
見てはいけないものを見てしまったような気がしたのだ。
身体を支配していた怒りは、それによってすっかり鳴りを潜めてしまった。
ずるずると座り込んだ龍麻の腕を離すと、京一は一瞬逡巡したものの、少し距離を取って腕を組んで背を壁に預けた。
龍麻が一人にしてくれと言った気持ちはわかる。同じ立場に立たされたとしたら、京一でも同じ事を思うだろう。
しかし、京一は敢えて踏みとどまった。
どうしても、今の龍麻を一人にしておきたくなかったのだ。今一人にしてしまえば、次に顔を合わせた時には、いつもの食えない笑みで全てを誤魔化されてしまうような予感があった。
最近になって、ようやく見えてきた気がする龍麻の本音が、今を逃せばまた遠ざかってしまう。
部屋の冷たい沈黙を裂くように、京一はゆっくりと口を開いた。
「莎草と…なんかあったのか?」
立てた膝に顔を埋めるようにして動かなかった龍麻の肩がぴくりと揺れる。
「………どうして、そんなことを?」
長い沈黙の後、短くそう問い返してきた龍麻に、京一はほっと肩の力を抜きながら答えた。
「前に、言ってただろ?莎草を知ってるか、って。あれ、ずっと気になってた。もしかして真神に来る前、莎草となんかあったんじゃないのか?」
本当は、他にも聞きたいことは沢山あった。
しかし、敢えて莎草のことを聞いたのは、以前龍麻自身がその名を口にしていたからだ。今それを口にするのはフェアじゃない気もしたが、逆に今なら、誤魔化しのない本音が聞けるような気がした。
「…転校生だったんだ、莎草は」
僅かの沈黙の後、龍麻はぽつりぽつりと話し始めた。
「前の学校で…あいつが転校してきてから、変な事件が起きるようになって…最初は莎草が関わってるなんて思ってもいなかったんだけど、ある人に忠告された。莎草には関わるなって」
「ある人…」
ある人という表現は気になったが、話の腰を折るのも嫌で、京一は追求はせずに先を促す。
「けど、そうこうしてるうちに、友達が莎草に目をつけられて連れて行かれた。助けようとして別の友達も連絡が取れなくなった。行ってどうなるものでもないだろうって止められたけど、どうしても黙っていられなかった」
その辺の無鉄砲さは今と変わらないらしい。それが妙に嬉しくて、京一は少しだけ頬を緩める。しかし、語られる話の内容に、その笑みはすぐにかき消える。
「俺が辿り着いた時、友達は酷い怪我をしてて、莎草は目の前であっという間に鬼に変生した。…その時だよ。俺が初めて《力》を使ったのは」
「………………」
やはり、という思いがあった。龍麻は最初から《力》のことを知っていたのだ。
「俺は鬼になった莎草を斃した。莎草はあっという間に砂みたいに消えていって、跡形も残らなかった」
龍麻の口調は淡々としていたが、その時の衝撃は京一にも想像がついた。
あの、初めて旧校舎に入った時に龍麻が見せた表情。
まるで泣きそうな、本当に辛そうな顔。
あれは、もし京一達が莎草と同じ《力》を持っていて、同じように暴走してしまったらという畏れ故だったのではないか。
「忠告をくれた人に言われたんだ。これは始まりに過ぎない、このままだといずれまた、同じようなことが起きるだろう。その時はどう足掻いても必ず訪れる。その時お前はどうするつもりなのか、って」
「もう誰かが傷つくのは嫌だった。何も出来ずにただ見ているのも。だから、その人に頼んで稽古をつけてもらった。力が…ちゃんと自分で制御できる《力》が欲しかったんだ」
淡々としていた龍麻の口調に、初めてはっきりとした感情が表れる。
「本当は、薄々気がついてた。比良坂が何かに迷っていたのも、俺に助けを求めていたのも。だからあの時、あいつの誘いに乗ったんだ。なのに…」
「龍麻…」
「どうして、俺を庇ったりなんか…っ!」
京一の脳裏に、先刻の情景が蘇った。
炎の中に自ら進んで残った少女は、何度も何度も謝りながら、それでも何処か満足げに微笑んでいた。
自ら死を選ぶその心境は、京一にはわからない。
けれど、少女が自分の思いを貫いたことだけは理解できた。
彼女の協力がなければ、京一達は龍麻の元へは辿り着けなかった。どんな思惑があったにせよ、少女が本当に龍麻のことを救いたいと思っていたことだけは確かなのだ。
「紗夜ちゃんが何を思ってたのかは俺にもわからねぇ。けど、何を望んでたかは知ってるぜ」
「………」
「紗夜ちゃん、真神まで来てお前の居場所を教えてくれたんだよ。あの娘はお前を助けたかった。だからお前を庇ったんじゃないのか」
「……………俺は、手を伸ばすことさえ、出来なかった。何も、出来なかったのに」
「馬鹿、間違えんな。お前は出来ることはやっただろ。紗夜ちゃんもそうだ。そこんとこ、間違えるんじゃねェよ」
そう言って京一は、蹲る龍麻の前に立った。
「俺もそうだからな」
「………………」
「俺も、他の連中も、好きでお前に関わってるんだからな」
膝を抱いて座り込んだ龍麻の背に自分の背を合わせるようにゆっくりと腰を下ろす。
闘いの場で、自然に背を合わせる時のように。
見えない部分をカバー出来るように、触れるか触れないかの距離を保って告げた。
「ここくらいは、護ってやれる。少しは信用しろよ、俺のこと。お前は一人じゃない。何もかも抱え込んじまうことねェんだよ」
龍麻は暫く何も言わなかった。
「お前…馬鹿だな」
そう言った後、京一の背に暖かいものが触れる。
「本当に…馬鹿だ」
背中の重みはどんどん増していき、龍麻が京一の背を支えにするように寄りかかってきているのがわかった。
それでも、京一は動かずにじっと黙っていた。
龍麻が、声を出さずに泣いているのがわかったからだ。
泣き顔を見られるのは、龍麻にとって本意ではないはずだった。
強張った身体から力が抜け、声なき慟哭が途切れるまで、京一は龍麻の背を支え続けたのだった。
背中の重みが増したのを感じて、京一はそっと身体をずらし、滑り落ちそうになった身体を支えた。
「寝た…ってよりは気絶、だろうなこりゃ」
疲労の色の濃い顔は、目を閉じていると余計に顔色が悪く見える。
額に触れると案の定、指先から尋常ではない熱が伝わってきた。特に酷い腕だけではなく、上着の間から見える素肌にはいくつもの傷がある。改めて沸き上がる怒りを堪え、京一はそれらを慎重に確認した。
やはり一番酷いのは手首の傷で、後の傷は出血も止まっていて緊急を要するものはなさそうだった。それでもきちんと処理はしなければならないだろうし、体力や精神的な消耗も激しい。本当なら、このまま桜ヶ丘に直行するのが一番いいのだろう。
京一は、眠る龍麻の青白い頬に残る痕を見つめ、その身体をそっと横たえると、立ち上がって携帯を取りだした。
「もしもし。ああ、龍麻の家。あいつは今寝たとこ。一応、落ち着いた。…ああ。今晩はここで寝かせとこうかと思ってる」
受話器の向こうで、醍醐が病院に連れて行った方がいいんじゃないかと不安そうな声を上げる。京一はそれに、覚えのある場所を漁って応急処置の道具を引っ張り出しながら答えた。
「んー、確かにそっちが間違いないとは思うけど、無理に動かすのもどうかって感じなのさ。本人は行きたくないって言ってたしな。…わかってる、やばそうだったら引きずってでも桜ヶ丘に連れてくから。なんかあったら連絡する。美里達にも大丈夫だって言っといてくれ。んじゃ」
携帯を切ると、京一は龍麻の顔を改めて見つめた。
青白い、疲労の色の濃い顔は、それでも一時の安らぎに微睡んでいる。
せめてその眠りが穏やかなものであるように。
京一はそう祈らずにはいられなかった。
|