この話は『Reminiscent Christmas』の前に当たる話です。
未読の方はそちらもどうぞ!




1. 如月翡翠

「ここには来てねぇよ」
 さらりと答える男を、如月は不審を隠さない目つきで眺めた。
 口の端に薄い笑みを貼り付けた男は、しかしその胡散臭い見た目に反して実に手強い。
 生真面目な所のある壬生や、言いたくない事は笑顔で誤魔化す龍麻などは、その様子から隠し事の有無くらいは判別出来るのだが、何せこの男はいつもこの調子だ。秘密の保持者としては、この真の意味でのポーカーフェイスは理想的だろう。短い付き合いではない相手だが、未だにこの男の表情は読み切れない部分がある。
 しかし、それに躊躇していてもはじまらない。
 一つ咳払いして如月は更に言葉を重ねた。
「この近くに来ていたのは確かなんだが」
「ふん……ま、だからってここに顔出すとは限らないだろうが。先生だって色々あるだろうしな」
「それは、そうだが。しかし…」
 言い淀む如月に対し、
「―――どうした?今日は妙に絡むじゃねェか」
 今度ははっきりと人を食った笑みを浮かべる男に、如月の眉が跳ね上がった。
 如月が龍麻を見かけたのはついさっき、繁華街からさほど遠くないこのマンションの入り口でだ。龍麻がこの建物の中に、この部屋以外の目的地があるとは思えない。
「別に、大したことじゃない。丁度龍麻に用があったんだ。下で丁度姿を見かけたと思って来てみたんだが…」
 匂わせた程度では、男はびくともしなかった。
「へぇ?似た奴でも居たかねぇ?」
 恐らく…否、間違いなく探す相手はここにいるという確証があるのに、隙のない男の前では押し切る事も出来ない。
 かといって強硬手段に出ればこの場合、間違いなく逆効果。逃げられてしまう。
 溜息を吐いて如月は譲歩する事にした。
「わかった。僕は帰るが、もし龍麻が寄ったなら、店の方へ顔を出してくれと伝えてくれ。遅くなっても構わないからと」
「ああ、伝えとく」
 顔を出したらなと、わざとらしく付け加える男に、如月は逆に薄く笑んで一歩踏み込んだ。笑みを浮かべたままの男の耳を力任せに摘み上げた。
「いいか村雨。これは、貸しにしておく。わかっているとは思うが、安く済むとは思うなよ?」
 押さえた、しかし凄みを籠めた声色でそれだけ告げると、如月は何事もなかったかのように失礼すると言い置いてくるりと身を翻す。
 背を追ってきたちょっと待てという焦りを含んだ言葉に少しだけ溜飲を下げて、如月は後ろ手に扉を閉じた。

2. 村雨祇孔

 扉の向こうに消えていく、いつもより少し強張った背中に、村雨は深々と溜息を吐いた。
 あれはかなり、怒っている。
 次に会う時には何か穴埋めをしないことには、今後如月邸に出入り禁止を食らいかねない。
 今は日本を離れているとはいえ、古い馴染みとの間に火種を抱えるのは村雨の本意ではない。それに、仕事柄如月は御門との付き合いもある。如月の機嫌を損ねたままでは、何かと不都合が多いのだ。
「ったく、面倒な事に…おい、先生。こりゃ、高くつくぜぇ?」
 溜息と共に声を掛ければ、奥からすまなそうな笑みを浮かべた龍麻が顔を出した。
「あはは、悪い。なんとか捲けたら良かったんだけど、やっぱ如月相手に半端は駄目だな。村雨が居てくれて本当に良かった」
 失敗したと舌を出しつつ、手を合わせてごめんと頭を下げる龍麻に、村雨は肩を竦めて返した。
「ま、つけとくから今度まとめて返してくれ。それで?理由はなんなんだ?」
 予告もなくいきなり駆け込んできて、とにかく匿ってくれの一点張り。
 その慌てた様子に驚いてとにかく部屋に上げたのだが、後を追ってきたのが如月と知って、更に驚く羽目になった。
 勿論、顔に出すような下手は打たなかったが。
「…理由って?」
 途端に明らかに視線を泳がせ、そわそわと落ち着かない様子を見せている癖に、龍麻は言葉の上ではしらばっくれる。
 しかし、とばっちりを食って要らぬ負債を抱え込んだ村雨は強気だった。
「惚けるのは、なしだぜ?先生が、あの如月から逃げ出さなきゃいけない理由ってのは何だって聞いてんだよ」
「……………」
「あいつのとこの馬鹿高い商品を壊しでもしたのか?」
 違う事は承知で、村雨はわざとそんな事を聞いてみる。龍麻を主と思い定めているふしのある如月は、例え龍麻が店で一番高い物を壊したとしてもそれを咎め立てる事はしないだろう。
「そんなんじゃない」
 案の定、即座に返ってきた否定に村雨はさらりと返した。
「じゃ、なんなんだ?」
「う………」
 言葉に詰まった龍麻は、しかし視線を逸らさない村雨にまいったという風に手を上げた。
「なんと言えばいいか…怒られそうでさ」
「怒られる?」
「うん、まぁ……」
 恐ろしく言いにくそうに言葉を濁す龍麻に、村雨は大体の事情を察した。
「つまり、あれか?如月の奴が血相変えて怒り出すような危ない真似をした、と」
「う…そこまでじゃないけど…」
 詰まりながらも頷いて、龍麻は村雨を窺うように見た。その様子に、村雨はぷっと吹き出す。
「別に、俺ァ説教はしねぇよ。何をしたかは知らねぇが、そこまで口を出す謂われはねぇしな」
「そっか」
 少しほっとしたような龍麻に、村雨は苦笑いを浮かべた。
「まぁ、如月の奴もちっとばかし過保護なとこがあるからな」
「うん……心配してくれるのは有り難いんだけどな」
 如月のお説教は長いんだよと笑う龍麻に、違いないと頷いた村雨はしかし釘を刺すのも忘れなかった。
「ま、あいつの気持ちもわからなくはねぇよ。アンタ時々危なっかしいからな」
「危なっかしい?」
 眉を寄せて首を傾げる龍麻に、
「まぁな」
 と答えて村雨は煙草を銜えた。
 龍麻は、村雨の知る中で最も『強い』部類に入る人間だ。
 およそ荒事とは無縁の見た目を裏切る圧倒的な強さと、出会った時に既に感じた器の大きさ。
 人当たりがいいかと思えば、変なところで頑固で衝突も辞さない頑なさは村雨のように斜に構えて世の中を見ている人間をも惹きつけるものがある。
 嘗て、この東京を護る為に龍麻の周りに人が集まったのも、彼らが自然と龍麻をリーダーとみなしていたのも、自然な成り行きだったと村雨は思っている。
 龍麻には、人に彼ならば大丈夫だと思わせる何かがあるのだ。
 しかし、久しぶりに会った龍麻には何処か違和感のようなものがあった。
 特に、何が違うということではなく、態度がおかしいということでもない。
 ただ、なんとなく感じるものなのだが、村雨はこの手のことに関する自分の勘には絶対の自信があった。
 現に、今も。
 探るような村雨の視線に居心地悪げに視線を逸らしている龍麻は、いつもの彼ではない。
「ま、人間色々あるだろうけどよ」
 紫煙を吐き出して村雨は付け加えた。
「あんま無茶はすんなよ?アンタになんかあったら、如月を宥めるじゃ済まなくなる」
「……とにかく、助かった。今度酒でも持ってくるから」
「そう急がずに、ゆっくりしてったらどうだ?」
 よほど居心地が悪いのか、そそくさと出ていこうとする龍麻を人の悪い笑みを浮かべて引き留めた村雨はふと眉を寄せた。
「………?おい…」
 この日、龍麻は黒っぽいシャツにGパンという至ってカジュアルな格好だった。そのシャツのプリントが、奇妙に途切れて見えたのだ。
「その、染み…」
「んじゃ、ありがとな、村雨!」
 問い質すより早く、龍麻はぱっと身を翻し、玄関の扉の向こうに消えてしまう。
 取り残された形の村雨は、一瞬追おうとしたのだがすぐに諦め、厳しい表情で窓辺に歩いて下を見下ろす。
 程なく、マンションの玄関から龍麻が出ていくのが見えた。
「ったく、何をやってんだ…」
 村雨は、基本的に何をしようが龍麻の行動に口を出すつもりはないし、如月のように説教をするつもりもない。

 だが、龍麻自身に実害があるとすれば話は別だ。

 あの染み―――黒っぽいシャツの色に紛れてわからなかったが、あれは血の跡だった。
 あの龍麻が、出血を伴うような事態に遭遇したとすれば―――当然、村雨はそんなものを黙って見ているつもりはないのである。
 村雨も結局の所、龍麻という人間に惹かれている者の一人なのだから。
「動けなくなる程の傷じゃあねぇ。けど怪我はしてる、か…」
 少し考えて村雨は携帯を手に取った。
 呼び出し音は短く、すぐに相手が出る。
「おう、いきなりで悪ィが、ちょっくら野暮用がある。お前今、何処だ?」


3. 壬生紅葉

 随分と珍しい相手からのコールは、最初から命令調だった。理由なく無茶を言う相手ではないとは承知しているが、一応訳くらいは聞かせて欲しい。そう訴えると返ってきた短い説明は、壬生を動かすには充分なものだった。壬生の位置から考えれば、相手が急いているのも無理はない。
 だが、壬生は特に心配はしなかった。

―――お前なら、間に合う。どうもそんな気がするからな。

 そういう『予感』に置いては、まず外れたことのない相手の言葉なのだ。恐らく、間に合うのだろう。

 果たして、一つ角を曲がった先に求める姿があった。
「あれ…?」
 驚いて立ち止まる相手に、壬生は足を止める事無く近づく。
「………なんで紅葉がいるんだ?」
 不思議そうな龍麻に、壬生は肩を竦めて答えた。
「仕事だよ。この辺りで少しばかり気に掛かる動きがあってね」
 仕事と聞いた途端、僅かに龍麻の眉が動いたのを壬生は見逃さなかった。やはり、との思いが胸を掠めたが、表面には出さずに淡々と続ける。
「あちこちに凝って形を成してなかった陰気が、突然一ヶ所に集まったかと思えば、まるで爆発したかのような勢いで一気に消える。そんな事態がここ―――新宿で起こったとなれば、無視は出来ないからね」
「そんなことが、あったんだ?」
 微妙に視線を逸らす龍麻に、壬生は強い視線を当てて頷いた。
「ついさっきね。まさかこんなに早いとは、予定外だったよ。もう少し余裕があるかと思ってたけど、間に合わなかったし」
「間に合わないって…」
「いくら強くても、万全なものなどこの世にはないし、危険な事には変わりないからね。出来うる事なら止めたかった」
「……………」
 黙り込んでしまった龍麻に、しかし壬生は追及の手を緩めてやるつもりは毛頭無かった。
「そう思って如月さんにも頼んでおいたんだが、会わなかったかい?」
「如月に…」
「…?」
「如月に、なんて?」
 窺うような視線を向けてくる龍麻の言いたい事を察して、壬生は少しだけ口元を緩めた。
「龍麻がどうも危ない事に首を突っ込もうとしているから、探すのを手伝って欲しい。そう頼んだ」
「紅葉…」
 少し憤慨し、少し安堵しているかのような声色に壬生は改めて龍麻に強い視線を当てた。
「君が、僕のような仕事をしたいというのなら止めはしない。君の力にもなれると思う。だが好んで危険に足を踏み入れようとするのなら、それは容認出来ないし、傍観するつもりもない」

 きっぱりとした物言いに、龍麻は少し鼻白んだようだった。
「危険って…そんな大げさな」
「大げさじゃないだろう。現に君は怪我をしている」
 途端、龍麻は反射的に一歩下がったが、見越していた壬生はその差を一足で縮めて手を伸ばした。
「…………っ」
 腕を掴んだ途端、顔を顰めた龍麻に壬生の眉間の皺が深くなる。
「龍麻」
 低く抑えた呼びかけに、龍麻の腕から強張りが解けてすとんと肩が落ちる。
「―――どうして紅葉にはわかるかなぁ」
 それが、怪我をしたことではなく、怪我に至った経緯について言っている事はすぐにわかった。
「気に掛けているからだろう」
 さらりと返した答えは、しかし龍麻の気に入るものではなかったらしく、
「絶対気づかせるつもりなかったし、上手くやったと思ったのに…」
 不満げな龍麻に、壬生はちょっと笑った。
「わかるな、という方が無理な相談だけどね」
 龍麻は陽(ひかり)だ。
 陰(かげ)たる自分がその異変に気づかないなど、あり得ない。
 ただ、龍麻が本気で隠してしまいたいと思えば、壬生とて気づくのは不可能だろう。壬生に気づかせてしまう辺りが、龍麻らしからぬところだった。
 その辺りに気づいているのかいないのか、眉間に皺を刻んだまま考え込む龍麻を壬生はさりげない仕草で促した。
「ともかく、その傷は手当てしないといけない。行こう」
「そんな、大した怪我じゃないって…」
 明らかに気乗りしない風の龍麻に、壬生は肩を竦めた。
「素直に行くのなら、桜ヶ丘まで送るよ。けど、何か異論があるのなら、その後北区まで出向いて君の無謀について他の意見を聞いてみるかい?」
 流石に、たった今逃げ出したばかりの相手と顔を合わせるのは気まずいと思ったらしい。龍麻は渋々といった風に頷いた。
「わかったよ、わかったけど…」
 たか子先生に怒られるのはなぁ…
 溜息を吐いた龍麻の渋面に、壬生は思わず口元を崩しつつも出来るだけ厳然と答えた。
「仕方ない。これも無謀のつけだと思って諦めるんだね」


4. 比良坂紗夜

「いらっしゃいませェ〜」
 のんびりとした声が響くのは、桜ヶ丘ではいつもの光景だったが、その後に続いた言葉に比良坂紗夜は顔を上げた。
「あれ?ダーリンだ〜」
「久しぶり、舞子」
 応じる声は紗夜にもなじみ深い人物のものだが、心なしか声のトーンが高い。処理中の案件を手早く片づけて玄関を覗くと、産婦人科には不似合いな二人連れの姿があった。
「龍麻に、壬生さん?」
 思わず声を上げると、気づいた龍麻が笑顔で手を振ってくる。
「紗夜も、元気にやってるか?」
「ええ、何とか…」
 笑顔で言いかけて、紗夜は龍麻とは対照的に無表情で沈黙を守る壬生に気づいて少し表情を改めた。
 壬生が桜ヶ丘を訪ねることは珍しくはないが、龍麻が予告もなく訪れるのは稀な事なのだ。
「龍麻、今日はどうして?」
 途端に笑顔に陰りの見えた龍麻に代わって、壬生が淡々と答える。
「怪我をしてるんだ。手当をお願い出来るかな?」
 誰が、と聞くまでもない。
 壬生が怪我を負っているのなら、龍麻が大騒ぎしている筈だ。
「こちらへ」
 今すぐ事情を聞きたい気持ちを抑え込み、紗夜は奥へと二人を案内した。

 長袖のシャツの袖をたくし上げると、右腕にはハンカチが巻き付けてあった。それをそっと解いて現れた傷口に、紗夜は小さく息を飲んだ。
 傷そのものは肘から手首に近い部分まで引き連れたように続いている。ハンカチで出血を押さえていた部分は傷が深く、少し黒ずんで熱を持ってきている。以前、幾度か見たことのある傷口だった。
 平穏無事な日常を送っているのならば決して負わないはずの、人ならざる者の残した痕跡―――
 一瞬唇を噛んだものの、紗夜はてきぱきと傷口を拭き取りながら尋ねた。
「痛む?」
「少しね」
 その答えに紗夜の眉は更に深い角度を描いた。幸いなことに、筋や骨に達している風ではない。しかし、きちんと浄化しておかなければ、腕が腐り落ちてしまうこともあるのだ。
 手当をしながら、紗夜は龍麻の顔をさりげなく窺った。
 大人しく手当を受ける龍麻の表情は、穏やかに見えるがどこか硬く、今は廊下で待つ壬生の表情も似たようなものだ。
 処置を終え、きっちりと包帯を巻き終えると、紗夜は真顔で龍麻を見た。
「他は…?」
「大丈夫。これだけだから」
「悪寒とか、吐き気とかは…?」
「ない。平気だよ」
 ありがとうと言った龍麻がそそくさと袖を直すのを待って、紗夜は単刀直入に切り出した。
「何処で、これを?」
「…………ちょっと、その辺で」
「これは、普通の怪我じゃないですよね?一体何をしてこんな怪我をしたの?」
「…………」
 半端なことを言っても誤魔化せないと知っているのか、龍麻は言いにくそうに視線を逸らしたまま何も言わない。こうなってしまうと、龍麻は手に負えない程頑固になる。粘ってみても何も聞き出せはないだろう。
 頑なな横顔に、紗夜は溜息を吐いた。
「わかりました。もう聞きません。けど、一つ約束して」
 目を瞬かせる龍麻に、紗夜はにこりと笑った。
「怪我したら、必ずここに来ること。それで今日の所は勘弁してあげます」
 紗夜の笑顔に龍麻の表情も緩んだが、ふと気づいたように尋ねた。
「怪我って…その、どの辺まで…?」
「怪我は怪我。血が出ても打ち身でも怪我って言いますよね」
「え、それは……」
「言いますよね?」
 思い切り愛想良く聞き返した紗夜に、龍麻は引きつり気味の笑みで応じた。
「わかりました。ちゃんと顔出します」
「はい、お願いします」
 そう笑いながらも、紗夜は心の中でそっと付け加えた。
 そう、顔を見れば安心も出来るし。
 別に怪我ではなくてもいい、顔を見せてくれればいいのだ。こちらが心配すると、それを逆に気に掛けてしまう龍麻相手ではおちおち心配も出来ない。
 人に弱味を見せたくない意地っ張りの身を案じるのにも色々苦労があるのだ。
 廊下に出ると、壁に凭れていた壬生が身を起こす。
 苦笑に近い笑みを浮かべて壬生に視線を送ると、壬生はひょいと肩を竦めてみせる。
 壬生には珍しいその仕草は、恐らく怪我をした龍麻をここまで引っ張ってきた壬生の本音だろう。似たような苦労をしていると思うとつい笑みが深くなり、紗夜は思わず口に手を当てて笑い出してしまった。
 でも、―――仕方ない。
 そういう部分もまた龍麻であることは間違いないし、それもまた魅力でもあるのだから。
 つられたのか、壬生もまた、珍しく声を上げて笑う。
 それを見咎めた龍麻が不審そうな目つきで二人を眺めたが、二人の笑い声は暫く止まらなかった。


5. 緋勇龍麻

「送っていくよ」
 そう言う壬生の表情は、未だ笑いの余韻を含んでいる。
「いいよ別に。遠回りになるし、面倒だろ」
 なるべく、何気なく―――と思っていたのに、思い切り低いトーンで響いた声に、龍麻は思わず顔を顰めた。
 もう充分みっともない所を見せているのだから、せめて八つ当たりという最悪の醜態だけは見せたくない。そう思っていたのに、結局まるで隠せていないのが情けなくて嫌になる。
 自己嫌悪の波に沈みそうになる龍麻に、しかし壬生はそれを気にした風もなくさらりと言った。
「いや、どちらかと言うと、送って行く事で僕が安心したいだけだ」
 余裕と、気遣いすら感じさせる物言いは、龍麻を更に憂鬱な気分へと追い込んでくれる。
 だが、それを露わにしてしまえばもっと情けない事になる。
 じゃあ、と何とか捻り出して身を翻すと、壬生はそれ以上は何も言わなかった。



 別に、無謀をしたい訳じゃなかった。
 自分の周りに良くない『モノ』が集まるのは珍しい事じゃなかったし、少し気を張っていれば、大半は寄ってはこられない。たまに大物が引っ掛かれば、大事にならないうちに始末するのも慣れていた。
 ただ、ほんの少し。
 ほんの少しだけ気が緩んで、聞きたくもない事を聞いてしまったのだ。
《ホントウハ、―――タカッタクセニ》
《ズット、―――シイトオモッテルノニ》
 吹き込まれたその『悪意』に、少しばかり頭に血が上ってしまった結果が今日のこの様だ。


 油断して心を暴かれたことよりも、突き付けられた中身の方が、ちくちくと心を刺して落ち着けなかった。
 まるで人の不調を見越してるように増えた『モノ』達にも、腹が立った。
 半分―――否、殆ど憂さ晴らしのつもりで纏めて片づけてやろうと思ったのが多分いけなかったのだろう。
 思った以上に負の念が集まりすぎて怪我をしたのも、如月に見られて追いかけられたのも、村雨に怪我を気づかれたのも、壬生に見つかって紗夜に心配をかけたのも。
 全部、どう考えても龍麻自身の、信じられないくらい間の抜けたミス。
 情けない…っていうのを通り越して、どっぷり落ち込んでくるのも当然だった。
「龍麻……」
 壬生の声にはっと我に返った龍麻が顔を上げると、そこは既にマンションの前だった。
「……あれ?」
「何処か、寄り道があるのかい?」
 言われてやっと、危うく家の前を通り過ぎるところだったのに気が付く。
「あはは、呆けてた」
 壬生は少し目を細め、じっと龍麻を見つめた。こういう時の壬生は、何か言いたい事がある事が多い。
 そこまでは予想していた龍麻だったが、壬生の次の言葉は全くの予想外のものだった。
「龍麻。最近…蓬莱寺はどうしてるのか、知ってるかい?」
「は?京一?」
 思いもかけぬ名前に、思わず龍麻は裏返った声で聞き返した。
「龍麻?」
 思わぬ大声に、壬生は呆気に取られたような表情になる。
「ああ、ごめん、びっくりして。でもなんで…」
 京一なんだ?って言いかけて、龍麻は口を噤んだ。壬生の言いたいことに気が付いたのだ。
「…………」
「もう、5年になるだろう?そろそろ帰ってきても言い頃じゃないかと思ったんだけどね」
「さあ…ね。どうかな?アイツ放浪癖あるし」
 龍麻の答えは、壬生には満足のいくものではなかったらしい。眉を寄せてそうかと呟く壬生は明らかに何か言いたげだった。
 それを極力見ないようにして、龍麻は淡々と続けた。
「わからないよ。アイツの事は。卒業してこの方、一度も連絡はないし、こっちからじゃ何処にいるのかもわからない」
 中国へ渡った当初は、同行していた劉が時折連絡をくれた。しかし京一から直接は何も連絡はないし、その後劉と別れてから後のことは全く知らない。
 事実には違いなかったが、口にした途端胸の凝りが増えたようで、龍麻はぎゅっと唇を噛んだ。
「龍麻………」
「じゃあ。わざわざ送ってくれてありがとな」
 何か言いたそうな壬生を振り返らずに、エレベーターまで早足で歩く。
 ドアが閉じる瞬間、複雑な表情のままの壬生と目があった。
 
 ごめんな、心配かけて。
 そう謝りたかったが、口にする事が出来ぬまま、エレベーターのドアは静かに閉じた。
 一人きりになった狭い空間で、龍麻は壁に背を預けると大きく息を吐いた。

 もう、5年になるだろう?

 不意打ちに食らった言葉は、龍麻の動揺を引き起こすには充分なものだった。

 そろそろ帰ってきてもいい頃じゃないかと思ったんだけどね―――

 壬生は、今日の龍麻の行動に京一のことが関係していると思っているのだろうか。
 そうでなければ、このタイミングで京一の名前など出さないだろうから、恐らくそう思っているのだろう。

 だが、しかし―――

 龍麻の口元が皮肉に歪んだ。
「帰ってきたとしても、もう前とは違うんだよ、紅葉―――」
 呟きは、聞く者の居ない空間に広がって消える。
 不意に押し寄せた悪寒に龍麻は目を閉じ、深く息を吸い込んで、吐いた。
 脇腹が酷く熱を持って熱い。
 先刻、上着を脱げと言われなかったのを幸いに黙っていたが、脇腹にも一発食らっているのだ。
 出血がある訳ではないが、痣ぐらいにはなっているかもしれない。
 先程はこれ以上心配させたくはなかったので隠していたが、部屋に戻ったら傷口を確かめておかないといけないだろう。こういう時の負傷を甘く見てはいけないことは、龍麻にもよくわかっていた。
「ったく、ついてないったら…」
 そう呟きながらも、どうしても心は今聞いた名前へと向かってしまう。


 京一とは、5年前のあの日からお互い全く接点のない日常を送っている。京一の事だから、恐らく元気にやっているのだろう。
 仮に今、京一が帰ってきたとしたら―――正直どう接していいのか龍麻にはわからない。
 ただの友達―――親友なら、再会は喜ばしいことだろう。
 笑って肩を叩いて無事を喜んで、連絡も寄越さない不義理を冗談交じりで責めてから、土産話でも聞かせて貰うのだろう。
 けれど、別れた時に龍麻と京一の間にあったものは、友情で括れるものではなかった。
 なんと名付ければいいのかよくわからない感情ではあったけれど、あの頃は京一がずっと傍らに居ることを疑いもしなかった。
 今にして思えば、それが如何に根拠のない自信だったのかよくわかる。
 いっそ、何もなかった方が良かったのかもしれない。
 それならば、自分でも制御出来ない感情に振り回されることも、こんな風に友人達に迷惑をかけることも、きっとなかったのに―――


 ぼんやり考えている内にとっくにエレベーターは止まっていたらしく、気が付けば扉が静かに閉じるところだった。
 慌てて開ボタンを押して外へ出た龍麻は、廊下の奥、自分の部屋の前にあり得ないものを見た。



 部屋の扉に、鳶色の頭が寄りかかっている。



 急に心臓の音が大きくなったように感じて、龍麻は思わず負傷した腕と脇を押さえた。早くなる鼓動と呼応するように、痛めた部分が熱くなる。
 人目も憚らず、ぺったり座り込んで身じろぎもしないその人物に、ゆっくりと近づいてみた。
 見覚えのある紫の袱紗と、季節を間違えてるかのような場違いなコート姿。
 そこには、5年ぶりに見る顔が平和そうな寝顔を晒していた。




「…………」
 完全に扉を塞いでいる身体をどけないと、どうにも部屋には入れそうにない。肩なり腕なりを掴んでどかしてもいいが、引きずるのはかなり骨だし、叩き起こす方が手っ取り早い。
 冷静にそう分析しながらも、龍麻は動くことが出来なかった。
 丁度京一の事を考えていた時に、まるで見ていたかのようにぽっかり本人が現れたのだ。
 受けた傷が響いて、質の悪い幻覚でも見ているような気分になる。
「幻って……末期かな、俺も」
 溜息混じりに自嘲した龍麻だったが、それが幻覚ではないことはあっさりと証明された。
 人の気配を感じたのか、垂れていた頭がゆらりと揺れて顔が上がる。
「よ、おかえりひーちゃん」

 少し頬がこけて随分と大人びたように見える顔の中で、これだけは以前と変わらない鳶色の瞳を見た瞬間、何故か激しく揺れていた龍麻の心は唐突に凪いだ。

「お前、こんなとこで何してんだ?」
 こんな図体のでかい奴が家の前で寝てたら、普通不審者として通報するよなぁと他人事のように思いながら、座り込んでいる京一に立つように促す。
「ひーちゃんがなかなか帰ってこねーから眠くなったんだよ。結構待ったんだぜ?」
「待たされたくないのなら、事前に連絡ぐらい入れろよ。まるっきり予告もナシじゃ文句は言えないだろ」
「ま、そりゃそうだ。悪かったな」
 ちょっと肩を竦めて笑うその仕草は変わらないのに、表情は以前よりも大人びて見える。
「相変わらずだな、お前は」
 胸を刺すなにかを押し隠して、龍麻は扉を開けた。
「立ち話もなんだし、入れば?」
 そう言えば、京一は何故か驚いたように龍麻を見た。
「………いいのかよ?」
「いいもなにも、お前そのつもりで待ってたんじゃないのか?」
 京一は、何故か一瞬複雑そうな表情を見せたが、
「…んじゃまぁ、遠慮なく」
 と、扉を潜った。



「その辺、座っとけよ」
 そう言い置いて、龍麻は食器棚を覗いた。
「ポカリとお茶、どっちがいい?」
「…………」
 返事がないので振り返ってみると、京一は眉を寄せて辺りを見回している。
「京一?」
「ああ?」
 聞いてなかったのが良くわかる反応に、龍麻は眉を寄せて繰り返した。
「だから、ポカリとお茶、どっちがいいかって」
「んじゃポカリ。…あんま変わってねぇな、ここ」
 しみじみと言う京一は、まだ周囲に視線を走らせている。龍麻は些か乱暴にグラスを置いてポカリを注いだ。
「それはお前の気のせいだろ。5年もあれば変わってないものの方が珍しいよ」
 5年前の部屋の細部など、龍麻自身も覚えていない。

 そう、5年もあれば変わって当然なのだ。

 顔つきやふと見せる表情が変わるように、人の気持ちや感情も。

 そんなことが頭を過ぎったのが悪かったのか、閉めようとしていたポカリのキャップが手の中から転がり落ちる。
 反射的に取ろうと身を屈めて、龍麻は顔を顰めた。脇腹のことをすっかり忘れていたのだ。
「おい、ひーちゃん?」
 訝しげな声に、龍麻ははっとした。
 そう言えば、京一は怪我とか不調には妙に聡いところがあったのだ。
 そんなところは変わっていないのだなと思いつつ、龍麻は何気ない表情を装って顔を上げた。気づかれると面倒なことになりそうだったからだ。
 しかし、龍麻の努力はあっさり水の泡になった。
 予想もしていないくらい、息がかかりそうな程の距離に京一の顔があったのだ。
 冷静に考えれば、覗き込んできた京一と顔を上げたタイミングが被っただけだとわかったのだろうが、その時の龍麻にはそんな余裕はなかった。
 息を詰め、ぽかんと京一の顔を見つめることしか出来ない龍麻を見て何を思ったのか、京一もじっと視線を返す。

 その唇が、何か言いたげに動いた。

 何を言っているのかと確かめる間もなく、視界から京一の姿が消えた。
 そのうち肩と胸がじわりと暖かくなってくる。
 暫く経ってようやく、抱き寄せられているのだと気が付いた。
「…………きょうい、ち?」

 何をしているんだとか、どうかしたのか、とか。

 聞きたいことが頭の中をぐるぐると回っていたが、どれもまともな言葉にならなかった。
 ただ、たった一つの考えだけが頭の中を占拠している。

 これは違う、と。

 この腕は、もう5年も前に手の届かないところへ行ってしまって、もう二度と戻らないものなのだ。

 早くこの腕を振り払って、冗談は止めるよと溜息混じりに苦笑してみせなければいけないと。

 そう思っているのに、身体は一向に動かなかった。

 背中に回された手は、緩く添えられているだけで、動きを拘束されている訳ではない。
 軽く振り払えばそれだけで簡単に腕は解ける筈なのに、どうしてもそれが出来なかった。
 逆に、そろそろと腕を上げながら、龍麻は何度も頭の中で繰り返した。

 止めておいた方が、いいと。

 今ここで振り払っておかないと、多分この先一生捕らわれてしまう―――

 そう解っているのに、腕はまるで言う事を聞かない。

 記憶よりも少し広い肩にそっと腕を回すと、掠れた囁きが耳に届いた。
「ひーちゃん…龍麻?」
 それを聞いて、龍麻はようやく気が付いた。
 心は凪いでいた訳ではなく、単に驚きと動揺で麻痺してしまっていただけなのだ。

 5年間なにしていたんだとか、何時帰ってきたんだとか―――どうして、今になってここに来たのか、とか。

 ちゃんと聞きたかった筈なのに、触れた部分から伝わる熱がそれを邪魔する。
 背中に添えられた腕に、次第に力が籠もっていく。
 言葉を形作るのを放棄して、龍麻はほんの少し身体を離して、頬を傾けた。
 寄せられる唇を、きちんと受け止める為に。







 丁寧に包帯を巻き直す京一の手元を、龍麻は横になったままじっと見つめていた。
 意外に器用なのは昔からだが、心なしか以前よりも手つきが良いように見える。そんな所にも、流れた年月の長さを感じてしまい、龍麻は少し憂鬱になる。
 視線に気が付いたのか、京一が顔を上げた。
「痛むのか?」
「別に、痛くない。元々かすり傷だし。包帯も大げさだって」
 そう言えば、京一は眉間に皺を寄せて龍麻を睨んだ。
「あのな。腕も腹もやっといて、大げさもなんもないだろが。包帯が嫌なら少しは自重しろ」
 居丈高に言われて龍麻もかちんとくる。
「そんなの、お前に関係ないだろうが」
 不機嫌に言い返すと、京一は真顔で龍麻を見た。
「ひーちゃんは、俺が怪我しても関係ないって済ませるのか?」
「………っっ」
 さらりと、当たり前のように返されて龍麻は言葉に詰まった。
 そういう状況に陥れば、勿論龍麻は平静ではいられないだろう。文句の一つも言いたくなる。
「お前さぁ…」
 見透かされた形になったのが腹立たしくて、龍麻は京一を睨んだ。
「俺に恋人が居るとか、そんなことは思わなかったのかよ?いきなり抱きつくか普通?」
 京一が、ろくに話もせずに腕を伸ばして、その手があっさり受け容れられると予測していたのだとしたら、それは龍麻にはかなりの衝撃だった。
 なにせ龍麻は、京一の顔を見るまで、その手に触れるまで、自分が『餓えていた』ことすらまともに自覚していなかったのだから。
 京一はきちんと包帯を巻いた腕を置くと、龍麻の頬に指を伸ばしながら答えた。
「ここに居なかったら、そう思ったかもな」
「ここにって…」
「もし田舎に帰ったり、住所変わったりしてたら恋人が出来たんだろうなって思ってた。あと、住所は同じでも部屋の中が変わってたり、雰囲気とかが違ってたら。でも、変わってなかったからな」
 だから多分、恋人は居ないと思った。
 そう言われて龍麻も思い出す。
 確かに京一は、部屋に入った直後、中の様子をあれこれ見回していた。あれはそういう事を気にしていたのだろうか。
 しかし、京一はすぐに笑って肩を竦めた。
「なーんて、な。ホントは我慢出来なかっただけ。ああ、ひーちゃんだ…って思ったら手がでちまった」

 あっさりと笑う京一に、龍麻はやっと思いだした。

 強引で我が儘で、自分勝手で直情型で。

 それでも、5年経っても忘れられないくらい、自分は京一の事が好きだったのだ、と。

「そう言えば、言ってなかった」
「ん?」
 何をと首を傾げる京一に、龍麻は小さく息を吐き、そして吸い込んだ。
 色々、聞きたいこともある。
 話したいことも、言いたいことも。
 そんな諸々の気持ちを全部後回しにして、区切りをつけるように。
「―――おかえり」
 と、龍麻は笑った。



蛇足ながら。
如月→村雨→壬生→比良坂→龍麻と来たこの話。
当然あるはずのオチ、京一の部分が抜けております(^_^;
無いわけではなく、ここまでにしておかないと年内が厳し…あわわ(爆)
そちらはこっそり(?)後日アップします。年明けかなぁ…←をい
詳しい事情は12/16の日記参照に。
なんのことはない、自分の首を絞めてるだけですが(笑)