「ひーちゃん、帰ろうぜ〜」
 いつもの調子のお気楽な声と、背中にのし掛かる重みに、龍麻は息を吐いて読みかけの文庫本を閉じた。
 案の定、大きな図体をして背中に懐いているのは、龍麻の親友兼相棒。
「部活は終わったのか?」
 日も傾いてきたとはいえ、普通の運動部員はまだ部活に励んでいる時間帯である。早いんじゃないかという意味も込めて尋ねると、京一はにやりと笑った。
「へへへへっ、抜けてきた」
 予想通りの答えに、龍麻は呆れて息を吐いた。
「副部長の苦労が忍ばれるな…」
「んだよ、今日はちゃんと真面目に稽古付けてきたぞ?」
 京一の弁解をぴしゃりと遮ったのは、龍麻の向かいで、こちらは課題のプリントをこなしていた小蒔だった。
「部長自ら一番早く上がってどうするんだよ?そういうのは真面目って言わないだろ?」
 小蒔の言葉に、京一は不満そうに眉を寄せた。
「んだよ、お前だって部活サボってるじゃねェか」
「素行不良の剣道部部長と一緒にしないでくれる?今日は道場の整備で弓道部は休部なの!」
「休部?んじゃなんで残ってンだよ?」
「別に京一を待ってる訳じゃないよッ!ひーちゃんが残ってるから、葵や醍醐クンを待って、みんなでラーメン食べに行くの!」
 帰宅部の龍麻がこの場に残っているのは、京一を待っての事なのだから結局は一緒なのだが、京一は不満だったらしい。
「ひーちゃんは駄目だぞ。今から帰るんだからなッ」
「京一?」
 当然一緒に行くものだと思っていた相手の意外な拒否に、龍麻は僅かに眉を曇らせた。
 何のかんの言って、ラーメンには目のない京一が、ラーメンの誘いを断るというのは珍しい。それも、龍麻を誘ってわざわざ先に出ようとするとなれば、理由は恐らく一つだけ。
 京一が目のないもう一つのもの。
 同じ考えに至ったのか、小蒔が顰めっ面になる。
「京一、まーたひーちゃんを悪の道に誘い込むつもりだろ?」
「悪の道ってなんだよ。俺は正しい青少年の姿をだなぁ…」
「要はナンパじゃないか」
 軽く言われて一瞬黙り込んだ京一だったが、ここで引っ込むような可愛らしい性格はしていない。すぐに開き直って言い返した。
「ナンパの何処が悪いんだよっ」
 青春を謳歌しているだけだと胸を張る京一に、小蒔は馬鹿にしたような視線を投げた。
「悪いも何も…あれだけ何回も挫折して、それでも懲りずにひーちゃんを引っ張り回してるじゃないか。ひーちゃんにしてみれば良い迷惑だよ。それを悪の道と言わずしてなんて言うのさ?」
 ぐっと詰まった京一が、
「何回も挫折って…なんでンな事知ってるんだ?」
 その言葉に、端で聞いていた龍麻は頭を抱えた。
(京一…墓穴を掘ってどうするんだ…)
 案の定、小蒔はにやりと人の悪い笑みを浮かべた。
「ほ〜ら、やっぱり失敗続きなんじゃないか。それのどこが青春を謳歌してるんだよ?」
 きっぱりと言い切られて、京一は龍麻に泣きついた。
「ひーちゃんッッ!一緒に行くよなっ?」
 縋るような眼差しに、龍麻は思わず溜息を漏らす。
「ひーちゃん、こんな馬鹿に付き合うことないって。ラーメン食べてた方がよっぽど正しい青春だよ」
「男の癖にナンパの醍醐味もわかんねーヤツは黙ってろ!」
「誰が男だっっ!」
「そうだ美少年、お前も行くか?結構モテるかもしんねーぞ?」
「なんだとッ」
「いやあ、今まで誘ってやんなくて悪かったなッ。お前も男の端くれならナンパの一回や二回体験しないとな〜」
「きょ〜いち〜」
 段々と不穏になってきた空気に、龍麻は読みかけの文庫本を鞄に押し込みながら割り込んだ。
「京一、行くんだろう?早く出ないと遅くなるぞ?」
 途端に、ぎりぎりと小蒔と睨み合っていた京一の顔がぱっと明るくなる。
「へへっ、そうこなきゃ!さすが相棒!」
 その時、京一の背中に勢い良く振られる尻尾を見たのは龍麻だけではないようだった。
「ひーちゃん、甘すぎ!毎回京一の馬鹿に付き合うことないんだよ?」
 うんざりしたように言う小蒔に、京一が子供のような仕草で舌を出す。
「へっ、何とでも言え!行こうぜ、ひーちゃん!」
 京一に押されるようにして教室を出る龍麻の背中に、小蒔の声が掛けられる。
「ひーちゃん、王華に居るからね。その馬鹿に付き合いきれなくなったらいつでも戻ってきなよ〜」
「誰が馬鹿だっ!」
「んなの決まってるだろ?馬鹿京一。口惜しかったら一回くらいナンパ成功させてみれば?」
「…覚えてろよ、美少年。絶対吠え面かかせてやるからな!」
「美少年って言うな!」
 放っておけば何時までも続きそうなやり取りに、龍麻は再び割り込んだ。
「京一、行くぞ。小蒔、また明日」
「うん、じゃーね、ひーちゃん!京一が討ち死にしても助けてあげなくていいんだからね!」
「うるせェよ、小蒔!」
「はいはい、わかったから行こう、京一」
 今度は龍麻が京一の背中を押すようにして教室を出る。
(懲りないと言うか何というか…)
 小蒔相手に口で勝つ事の方が珍しいのに、京一は一向に懲りることを知らない。
 出際まで小蒔に悪態を吐いていた京一だったが、龍麻の視線に気づくとすぐに笑顔になった。
「不景気なツラしてたら子羊ちゃん達が逃げちまうよなッ。男の風上にも置けない美少年に一泡吹かせる為にも、今日こそカワイイ子をゲットだぜッ」
 にぱっと笑うその表情は人懐っこい犬のようなのだが、如何せん発言の中身がよろしくない。
(まったく、その通りだよ小蒔。俺はどこが良くてこれに付き合ってるんだろうなぁ…)
 しみじみと思ってしまうのは、龍麻自身もこのナンパ行を楽しんでいる訳ではないからだ。
 龍麻自身は、京一のようにナンパに青春を捧げている訳ではない。街で可愛い女の子を見かけても、可愛いと思うことはあっても、声を掛けて仲良くなりたいとまでは思わないし、それに、単に美醜の問題を言うのなら、龍麻の回りには正統派美人タイプから、女王様タイプまで、実に色々なタイプの女の子が揃っている。別にわざわざ街に出て探しに行かなくてもいいのだ。
 しかし、誘われると断れない。その理由が、最近の龍麻の一番の悩みだった。



 新宿駅前の喧噪は相変わらずだった。
「ひーちゃん、どっから行く?」
 意欲満々な京一に対し、龍麻はその気がない分、返事も素っ気ない。
「京一に任せるよ」
 龍麻のやる気のない返事を気にした風もなく、京一は喜々として辺りを物色し始めた。
 その様子をぼんやりと眺めながら、龍麻はつらつらと考えた。
(それにしても…なんで京一は俺を誘うかな?)
 誘われて一緒に来るものの、龍麻はナンパに協力したことなど殆ど無い。というか、どちらかといえばその逆だ。
 京一が声を掛けた女の子と話すのに付き合いはするが、積極的な態度には出ないし、自分からもあまり喋らない。見た目がそれなりらしいので女の子は喜ぶのだが、曖昧な笑みを浮かべるだけではその気がないことぐらいすぐに気づかれてしまう。龍麻は一人でやった方が成功率が高いんじゃないかと時々思うのだが、京一はその事で文句を言ったことはなかった。声を掛ける時にも、ちゃんと二人連れを選んでくる。
「おっ、あれ!あの子ら!」
 そう言って京一が指差したのも、二人連れだった。壁際で、何やら話し込んでいる制服姿の二人連れは確かに可愛かった。
「よしっ、行くぞひーちゃん!」
 龍麻が何か言う前に、京一はさっさと行ってしまった。信じられないような速度で人混みをすり抜け、目的の二人連れに既に話しかけている。人混み慣れしていない龍麻は、人並みを渡るのにも苦労する有様なので、ようやく辿り着いた頃には、3人は既に楽しそうに喋っていた。
 薄く茶の入ったショートボブの可愛い感じの子に、ちょっと舞園さやかを思わせる笑顔の子。
 もろ、京一の好みである。京一の好みをしっかり把握してしまっている自分が情けないが、これほど始終ナンパに付き合っていれば、それも仕方ないだろう。
(やばい、かも…)
 龍麻の中で危険信号が回り出す。龍麻を振り返った京一の顔が笑み崩れているのを見て、危険信号は更に強くなった。
「遅いぞ、ひーちゃん!」
 その笑顔が、この時ばかりは恨めしい。
「やだ、格好いい!」
「ひーちゃんっていうの?」
 二人連れが、龍麻の顔を見て黄色い声を上げる。
 それを見て、龍麻は内心激しく舌打ちをした。
(俺が気に入られてどーするんだよっ)
 そう、龍麻が嫌々ながらも京一のナンパに付き合う理由はただ一つ。
 ナンパを失敗させる為なのだ。

 最初にその想いに気づいた時、龍麻は頭を抱えたくなった。真神に来て以来、一番傍にいた親友で、戦闘時は背中を預けられる大事な相棒。そんな相手に何を間違ったのか、ちょっとベクトルの違う想いを抱いている自分が、最初は信じられなかった。
 何度も、気の迷いだ、間違いだ、錯覚だと思いこもうとしたのだが、呆れるくらいに心は正直だった。気が付けば目で追ってしまうし、いつもの調子でおねェちゃんと騒がれれば腹が立つ。時々、小蒔やアン子とじゃれあっているのにすら苛立ちを覚えるのに至って、認めざるを得なくなったのだ。
(認めたから、どうって訳じゃないけど…)
 何せ、相手は自他共に認める大の女好き。そして、龍麻はれっきとした男である。どうにもこうにもお話にすらならない。玉砕して今の関係を失うことを考えれば、自分の中に閉じこめるしかない想いだった。

 進展を望まない想いの自覚が、果たして良いことなのかは別にして、はっきりと自覚してしまうと吹っ切れた部分も多かった。しかし、自覚は別の問題もまた連れてきてしまった。
 それが、京一のナンパ好きである。
(本当に、好きだもんなぁ、ナンパ…)
 それまでにも誘われて付き合ったりはしていたのだが、その度ごとに挫折していたから、最初はあまり考えなかった。
 けれど、ナンパに誘われるのが頻繁になるにつれ、不安も芽生えて来たのだ。
 もし、万が一ナンパが成功して、京一に彼女が出来たりしたら。
 幸か不幸か、現在京一には彼女はいない。その所為か、何かと行動は一緒だったし、一番近くにいると自分でも思う。しかし、彼女が出来ればそういう訳にもいかなくなるだろう。想いを隠し通す覚悟はしているものの、流石に親友の位置で彼女の惚気話を聞かされるのは避けたかった。
 だから、悪いとは思いつつ、京一のナンパに付き合うと見せかけて、上手く行きそうな時はそれをぶち壊すべく努力しているのだ。もっとも、龍麻がぶち壊す回数より、京一が自滅する時の方が遙かに多かったのも事実だが。
 そんな龍麻の内心の葛藤など全く知らない京一は、お茶しようなんぞと誘いを掛けている。対する女の子達もまんざらではない様子で。
 元々、あの見え見えの下心さえ無ければ、京一の自称『真神一のイイ男』はあながち誇張でもないのだ。しかし、ここで上手く行かれては龍麻が困る。
(どうしようか…)
 龍麻が思案する間もなく、
「う〜ん、お茶したいのは山々なんだけどね。一応、待ち合わせしてんの。もう一人来るのよ」
 申し訳なさそうに言うその子はかなり残念そうで、断る口実というのではなさそうだった。
 龍麻はほっとしたのだが、収まらないのは京一である。好感触だっただけに引っ込みが付かないのだろう。
「んじゃ、その子も一緒にどうよ?」
「一緒でも良い?」
 残念そうな表情から一変、嬉しそうに笑う二人連れはすっかり乗り気だ。
(こっちにも聞けよ、馬鹿京一!)
 と、内心悪態を吐いてみるが、この時点で龍麻に断る術などない。安堵も束の間、龍麻の胸中が再び憂鬱に染まりそうになった時だった。
「ゴメ〜ン、ちょっと遅れた?」
 飛び込む勢いで現れたのは、大きな目の印象的な、威勢の良い少女だった。
「あき!遅いよ!電話も繋がんないし!」
「何か奢れ!って言いたいとこだけど、今日はナイスタイミングだったから許してあげる」
「何よ、それ?もしかして、人のことをほっといてお喋りなんかしてたの…って、京一?」
 あきと呼ばれた少女が、京一を認めて目を丸くする。
「あき?」
 京一も驚いた表情で少女を眺める。
「うっわ、元気だった?」
「そっちも相変わらず威勢良いじゃねェかよ」
 何やら親しげな二人に、好奇心一杯の表情の二人連れが突っ込んだ。
「なに?どういうこと?」
「二人とも知り合いなの?」
「うん、中学の時の同級生だよ。ひっさしぶりだね、京一」
「おう、1年ぶり…くらいじゃねェ?」
「相変わらず、木刀持ってナンパしてるんだ?」
「っせぇよ、いいじゃねェか。これは俺の一部なんだよ!」
「あはは、ホントにそれ、いっつも持ってたもんねぇ」
 笑い合う二人に、龍麻の胸がずきんと痛んだ。
(中学の時の、同級生…)
 龍麻が知る前の、京一を知る女の子。
 そう、これでも京一はもてるのだ。現在はナンパに精を出しているが、龍麻が転校する前は彼女も居たと、小蒔から聞いたことがあった。
 もしかしたら、この、あきという子もそうなのかもしれない。
 嵐が吹き荒れている龍麻の胸中など知らない二人は、相変わらず楽しそうに話している。
「で、ナンパに励んでた、と。あれ?今日は一人じゃないの?」
 不意に少女の視線が、背後にいた龍麻を捕らえた。
「私、羽村亜希子。あきでいいよ。京一の友達?」
 まっすぐな視線を向けられて、龍麻はたじろぐ。
「あ、うん…」
 請われるままに名乗った龍麻の顔をじっと眺めて、亜希子はにやりと笑った。
「ふふふん、京一?」
「な、なんだよ?」
「京一のことだから、お茶でもって誘ってたんじゃない?」
「わ、悪いか?」
 何故か腰の退けている京一に、亜希子はにっこりと笑いかける。
「ううん、悪くない。お茶しようじゃない。但し…」
 亜希子は龍麻の肘を取って腕を絡めた。
「こっちの彼は、貰っていくからね」
(へ?)
「なぁにぃぃぃ!?」
「あき、独り占めはずるいわよっ!」
「そうよっ、こっちにも回しなさいよ」
「有美も理恵も人のこと差し置いてナンパに乗っかろうとしたんでしょ?良いじゃない、そっちは貸してあげるから」
 展開に付いていけずに目を白黒させる龍麻を引っ張って、亜希子は悠々と歩き出した。



                      *****



 珍しく、ナンパに成功したにも関わらず、京一の機嫌はあまり良くなかった。なんとか、表面上は取り繕っているものの、どうしても視線は一つ置いた隣のテーブルに向かってしまう。
 会話が聞こえるか聞こえないかの微妙な距離で座っているのは、京一の親友兼相棒と、かつてちょっと良い感じだった同級生。
 京一の機嫌を降下させているのは、その親友の表情だった。
 龍麻が、柔らかい表情で笑っている。
(なーんで、あんな顔してんだよ…)
 今まで、何度と無く一緒にナンパはした。だが、いつでも龍麻は仕方ないなぁという曖昧な笑みで笑うばかりで、積極的な行動に出たことはない。
 それが、声を上げて笑っている。
 何を話しているのか、ちょっと大げさな身振りで腕を広げる亜希子に、堪え切れぬといった風に吹き出して笑顔を見せて。



 龍麻が真神に転校してきたのは今年の春のこと。美人の転校生を期待していた京一にとって、龍麻はあまり歓迎できた存在ではなかった。美人は美人でも同性となれば問題外である。ライバルにしかなり得ないとわかっていて、歓迎は出来ない。
 しかし、その転校生…緋勇龍麻は、不思議に人を惹きつける存在で、それは京一も例外ではなかった。
 会って間もない男相手に、自分でも不思議なくらいに惹かれ、その後、奇妙な『事件』が頻発した所為もあって、気が付けばいつも傍にいる。
 見た目も良く、モテる割にまるで女っ気のない『相棒』が同じ男として気になると言って、ナンパに引っ張り出したのはいつだったか。あまり乗り気ではないようだったのに、京一が誘えばいつでも龍麻は付き合って来た。しかし、自分から女の子に笑いかける事など一度もなかったのに――――――

「京一君?」
 窺うように覗き込まれて、京一ははっと我に返った。
 どうやら、自分の考えに沈んでしまっていたらしい。幾ら、龍麻を亜希子に持って行かれたとは言え、目の前には自分好みの可愛い女の子。しかも両手に花という美味しい状態なのに、話しかけられて上の空という不覚を取ったらしい。
「あ〜ゴメン。呆けてた」
 悪ィ、と手を合わせると、二人は顔を見合わせて苦笑めいた笑いを浮かべ、京一の方へ身を乗り出してきた。
「さっきから、あっちばっか気にしてるよね?ひょっとして、京一君ってあきの元彼?」
「実はまだ好きだとか?」
 好奇心で目を輝かせて身を乗り出してくる二人に、今度は京一が苦笑する。
「いんや、んなんじゃねーよ。ホント、只のダチ」
 確かに、良い雰囲気になったことはあった。けれど、亜希子はさっぱりとした性格で、恋人と言うより気の置けない友人といった感じで、それ以上進展しなかったのだ。
「それにしては、気にしてるように見えるけど?」
「別に、あきのヤツを気にしてる訳じゃ…」
 そう、亜希子を気にしている訳ではない。気になるのは…うっかり飛び出そうになった言葉を、京一は慌てて飲み込んだ。
(やべェ…俺、何考えてたんだ?)
うっかり口走りそうになった内容が、自分でもかなり変だという自覚はあった。
 そこへ、当の本人がひょいと顔を出した。
「なぁ〜んの話よ?」
「ふふん、聞きたければそっちも独り占め止めてこっちに座りなよ」
「座るのは却下。もう時間でしょ?」
 亜希子が左手の時計を示すと、
「あ、やだホント!」
「時間って、どっか行くのかよ」
 そう尋ねる京一の声がいささか不穏な響きを帯びていたのに、亜希子は気づかないようだった。
「ふふっ、今からライブよ!」
「そうなの。苦労して手に入れたチケットだしね」
「楽しかったわ。ありがとね、京一君」
 先に二人を送り出した亜希子は、にこりと笑って京一の手に白い紙を押しつけた。
「ごちそうさま、京一」
「あ、こら!お前の分は自分で払えッッ!」
 その叫びを気に止めることもなく、亜希子はひらひらと手を振った。
「じゃ、またね!龍麻君」
「またね、羽村さん」
 その言葉に、亜希子が頬を膨らませる。
「もう、あきでいいって言ったでしょ?」
「あ、ごめん…」
 申し訳なさそうに言う龍麻に、亜希子は笑顔でもう一度手を振った。
「改めて、またね!」
「はいはい、またね、あきちゃん」
 龍麻が、にこりと笑って手を振る。
 その仕草に、京一の胸の不可解な凝りは、一層重たさを増したようだった。


「京一?どうしたんだよ?」
 亜希子達と別れてから、京一は黙ったまま一言も発しない。もろに、不機嫌です−−−と書いて貼ってあるような背中が、ずんずんと先に行くのを、龍麻は小走りになって追いかけなくてはならなかった。
(なに、怒ってるんだよ?)
 明らかに、京一は怒っている。しかし、その理由が龍麻には想像がつかなかった。
 亜希子に押しつけられたレシートは龍麻が精算したし、残りの二人の分は流石に龍麻も払ってやる気にはなれない。それに、そんなことで怒るのは幾ら何でも筋違いというものだ。
(好みの女の子二人で両手に花状態だったのに、なんでこんなに機嫌が悪いんだ?)
 最初は、彼女達と上手く行かなかったのかと思ったのだが、別れ際の様子ではそんな感じはなかった。別れた途端に黙り込んだのだから、龍麻が何かを言って―――――というのでもない。しかし、それ以降きっぱり黙り込んでいるのだから、理由はその辺にあるはずなのだ。
 不機嫌の理由がさっぱりわからない龍麻は、仕方なく何も言わない京一の後を着いて歩いている。
「なあ、京一。どっかでなんか食べないか?」
「………」
 話しかけても、返ってくるのは沈黙ばかりで、正直龍麻は途方に暮れてしまった。
 良くも悪くも、京一は単純でわかりやすい。怒るにしても拗ねるにしても沈黙とは縁のない方で、こんな風に、黙り込んで何も言わなくなる事態など初めてだった。
「京一、聞こえてるか?」
 もう一度、少し大きな声で呼びかけると、京一は前を向いたままはっきりとしない声でもごもごと返事を寄越してきた。どうやら、聞こえてはいるらしい。
(聞こえているのに返事無しってのは、幾ら何でも態度悪いんじゃないか?)
 その、人を馬鹿にしたような態度がかちんときて、龍麻は強引に京一の前に回り込んだ。
「京一、さっきから何怒ってるんだよ?」
 やっと正面から見た京一の顔は、やっぱり不機嫌そのものなもので、ますますわからなくなる。
「別に、怒ってなんてねェよ」
「じゃあ、拗ねてる」
「拗ねてなんかねェって」
「なら、どうしてそんな不機嫌な顔してずんずん先に行くんだよ。俺、何かしたか?」
 先刻の彼女達に原因がないのなら、残る要素は龍麻自身が、何か気に障ることをしたとしか考えられない。けれど、自分でもわからないことで不機嫌になられてもこっちも困る。
 そう思って尋ねてみたのだが、京一はすっと目を逸らしてしまうだけだった。
「何でもねェ」
「何でもないって顔じゃないだろ?」
 ぷいと横を向いてこちらを見ない京一に、龍麻も眉を寄せて黙り込んだ。
(大体、俺が怒るんならともかく、なんでお前が怒らなくちゃいけないんだ?)
 自分が、女の子相手にでれでれしている京一を見て不愉快になるのは、いい。勿論、京一本人には言えないが、龍麻の立場上仕方のない事だ。しかし、ナンパにも成功し、女の子と楽しくお喋りしていたはずの京一が、何故ここまで不機嫌なのか。
(折角良い雰囲気だったのに、途中で行っちゃったから、拗ねてる、とか)
 もう、その位しか思いつかない。
 とにかく、この何とも言えず重い空気をなんとかしなければと、龍麻は口を開いた。
「羽村さん…あきちゃんだっけ?お前の中学の同級生なんだってな。可愛いよな」
 あきちゃん、と言った瞬間、京一の眉がぴくりと動いたのに龍麻は気づかなかった。
(最初はどうなることかと思ったけど…)
 腕を取られて別の席に着いた時にはどうしようかと思ったのだが、亜希子はあっけらかんと笑って言った。
「私ね、いい男を鑑賞するの、趣味なんだ。ちょっと、付き合って頂戴ね」
 明るく言い切られて、その時点でかなり肩の力が抜けた。それから、亜希子は色々と龍麻にとっては楽しい話を聞かせてくれた。正直、もう行かないとと亜希子が言い出した時には引き留めたかったくらいだ。
「色々、面白い話聞いたよ。お前さぁ…」
 話題を変えようと、わざと明るく言いかけた龍麻の言葉を、京一は低い声で遮った。
「…ひーちゃん、あきと仲良さそうだったな」
「え?」
「結構、気があってたみたいじゃねェか」
 相変わらず、こちらを見ずにそう言う京一はさっきよりも更に機嫌が悪くなっているようだった。
「そりゃ、楽しい子だとは思ったけど…」
 言いかけて、龍麻は気が付いた。
 京一の不機嫌の理由。
 さっきから、龍麻の顔すら見ようとしないその態度。
 それは、もしかして…
(彼女と、俺が仲良くしてたから?)
 そう思った途端、胸を刺す痛みに龍麻は唇を噛んだ。
 京一がそのことで機嫌が悪くなるのなら、京一が怒っているのはやっぱり龍麻に対してだ。
 龍麻が、彼女と楽しげに喋っていたから、京一が不機嫌になる。と、いうことは…
(カノジョガ、スキナノカ?)
 頭の中で生まれた単語は、それだけで龍麻の全身を締め付けるようだった。全身が熱くなって握りしめた拳が痛い。
(ったく、情けない…)
 締め付けられる痛みが、嫉妬によるものだという自覚がある分、情けなさも相まって惨めな気持ちになる。それに…
(なんで、好きな相手に嫉妬されなきゃなんないんだ?)
 それは、京一が悪いわけではない。龍麻が京一を好きなのは龍麻の勝手な感情だし、それを京一は知らないのだから、責められる立場にはない。そう思っても、持って行き所を失くした感情は、どうしても目の前の男に向かってしまう。
(人の気も知らないで…っ)
 知られていれば、それはそれで困るのだが、今の龍麻にそれを考える余裕はない。
 いきなり黙り込んでしまった龍麻を訝かしんだのか、京一が視線を戻して龍麻を見ている。
「可愛い、いい子だよな。さっぱりしてるし」
 やめよう、こんなの、不毛なだけだ――――――そう思っているのに、口は止まらなかった。
 龍麻の言葉に、京一の眉が跳ね上がる。
「へ、え…珍しいじゃねーか。ひーちゃん、ああいうのが好みだったんだ?」
「ああ、好みかもしれないな」
 その途端、更にきつくなった眼差しに、龍麻ははっと我に返った。そんなつもりでは無かったのに、けれど吐き出した言葉は戻らない。
「あんな騒々しいのが好みだったのか?結構変わってるよな」
「別に、彼女は騒々しい訳じゃないだろ?」
「騒々しいじゃねーか。さっきも何話してたんだか、大きな声で笑ってたし」
「それは俺もだよ。彼女は俺を気遣ってくれただけだ」
「ふ〜ん、それで、何喋ってたんだよ?」
「別に、なんだっていいだろ?なんでそんなことしつこく聞くんだ?」
「今まで全然乗り気じゃなかったひーちゃんが、随分楽しそうだったし?そんなにあきが気に入ったのなら、一緒に行けば良かったのに。…上手くやれたかもしんないのに、勿体ないことしたな」
 京一の言いたいことを理解して、一瞬、目の前が赤く染まる。
「…そんなこと、京一には関係ない!」
 殆ど怒鳴るような勢いで言い切った龍麻を、京一は昏い目で見つめた。
「関係ない、ね…」
 それだけ言って、京一はくるりと背を向けた。
 そして、そのまま龍麻を置いて歩み去ってしまう。
 一人、残された龍麻はきりりと唇を噛んだ。
「馬鹿、野郎…」
 それが、去っていった京一に対するものか、自分に対するものかは,龍麻自身にもわからなかった。