「京一、今日も行くよな?」
 黒髪の麗人は、そう言って夜色の瞳をふうわりと緩めて笑んだ。その様は、日頃それを間近に見ている者でも―――いや、いつも傍らにある故により深く捕らわれるのか、抵抗を許さない鮮やかさでその対象を束縛する。
「おぅ、勿論っ!」
 反射的にそう答えてしまい、京一は頭を抱えた。
(ああっ、また言っちまった〜)
 今日こそは、この誘いに一言差し挟もうと思っていたのに。
 落胆を必死で押し隠す京一とは正反対に、言い出した本人―――龍麻は笑みを深くする。
「今日は170階くらいまでは行きたいよな?」
 嬉しそうに言われては、今更それはちょっとなどとは言えない。
「じゃ、図書館で待ってる。終わったら来いよ」
 思わず見惚れるような鮮やかな笑顔を残して、龍麻は教室を出ていってしまう。
 残された京一は、がっくりと肩を落として椅子に座り込んだ。
「くっそ、今日も負けた〜」
 ここ数日、決意を新たにしては挫かれるの繰り返しを続けている京一としては、今日こそはと意気込みだけは十分だったのに。
「あの、笑顔が駄目なんだよなぁ…」
 只でさえ整ったあの顔が、目を奪われること確実の艶やかな笑みを浮かべてこちらを窺ってくるのだ。その時点で、世の大半の人間は落ちてしまうのではないかと思われるのに、京一の場合は更に厄介な事情付きだ。
「抵抗の余地ナシ、だもんなぁ…」
 人の目を奪わずにはおかないほど魅力的な笑顔、それが想い人のものならば尚更、抵抗など出来ようはずもない。
 勝ち目がないと知っていても退けないのが、京一の辛いところだった。


 高校も三年ともなると、三学期は殆ど授業がない。受験勉強に専念する者や、卒業までの時間を利用して免許獲得に走る者など、学校には出てこない生徒の方が圧倒的に多い中、それまでは決して真面目な生徒ではなかった京一が真面目に学校に来ているのは勿論、理由あってのことだ。

「お前の場合、三学期丸々補習でも足りないくらいだ」
 宿敵とも言える相手の無情な宣告に、京一も最初は反論を試みた。
「なんでだよっ、最近はサボってねーぞっ!」
 2年までは問答無用で留年決定と言っても無理ないほどサボりまくっていた自覚はあるが、3年になってからは真面目に授業にも出ている。少なくとも、1月の全てを補習に費やすほどやばい状況ではないと自分でも思う。
 しかし、
「いくらサボらなくてもお前の授業態度は最悪だ。結果、成績も良くない。補習で卒業できるんなら有り難いと思うんだな」
という言葉には、完全に反論の余地などある筈もなく。
 結果、出たくもない補習に毎日出てくる羽目になったのだ。
 当然、面白みも何もないつまらない補習は京一にとって辛いだけだったのだが、ある一言でそれが一変する。
「俺、気分転換に旧校舎に行くけど、補習終わったらお前も行く?」
 つまらない補習に腐っていた時に、そう問いかけてきたのは京一の親友兼相棒。
「いいのかよ、ひーちゃんっっ!」
 中国での修行を志す京一にとって、補習は卒業のための苦行でしかない。しかし、京一と違って龍麻はこの時期、受験勉強最後の追い込みの筈だった。
「ま、京一と違って真面目に授業受けてたからね。ちょっと位はいいかなって」
「あ、言ったなこのやろ!」
「口惜しかったら、犬神先生の補習のプリント、全部埋めてみせてみ?」
「……ううう」
 上目遣いになる京一に、龍麻がくすくすと笑う。
 その笑顔を、京一は複雑な想いで眺めた。


 一緒に、中国に行かねェか?


 そう龍麻を誘ったのは、そんなに昔のことではない。それに対して、龍麻は奇麗に笑って、いいなと言ってくれた。

 あの時のこと…覚えてるか?

 そう聞きたいけど、何事もなかったかのように振る舞う龍麻にそれを言い出せなくて。


 今日も京一は、溜息と共に愛しい相手と旧校舎へ潜っている。


 旧校舎、地下175階。
「京一っ!」
 鍛え上げられた身体が、無駄のない動きで敵を捕らえる。いつ見ても鮮やかなその動きを追って、京一も木刀を閃かせた。
「おうよ、っと!」
 龍麻が吹き飛ばした餓鬼を迎える形で放った一撃は、完全に異形の者の急所を捕らえる。
 地面に崩れ落ちた餓鬼の断末魔の呻きが消えると、もうこのフロアに動くものの姿はなかった。
「ひーちゃん、そろそろ上がらねェ?」
 京一の言葉に、龍麻は小さく首を傾げた。
「そうか?俺はまだ全然余裕だけど?」
「別に、しんどいって訳じゃねーけどよぉ…」
 京一とて、余裕を振りまく相棒を相手に弱音を吐きたいわけではないが、そこは育ち盛り(?)の高校生。我慢できないものもある。
「いい加減、腹が減ったんだよ」
 少しばかりみっともないが、これは我慢できない。空腹度をアピールするように情けない声を上げると、龍麻はくすりと笑って肩を竦めた。
「仕方ないなぁ。じゃあ、その辺のめぼしい物、頼むな」
 その言葉に、京一の眉が眇められる。
「まーた、骨董屋のとこに行くのかよ?」
 不満そうな京一の表情など意に介さず、龍麻は周囲の地面を物色している。
「そりゃ、こんなもの引き取ってくれるのは如月骨董品店くらいだからな」
「そんなの、捨てて行きゃいいだろ?」
 呆れたように、けれど正直な本音に対して帰ってきたのは、間髪入れぬ即答だった。
「駄目。勿体ないだろ?」
 最近の龍麻は、何事にか目覚めたかのような勢いで、旧校舎のアイテム収拾に血道を上げている。
 受験勉強のストレス解消もあるのかもしれないが、異形の隠し持つ様々な道具を喜々として拾い上げている様は、某骨董品店の店主を思わせて、京一としては気分が良くなかった。
 更に面白くないのは、この後の展開が容易に予想できる所為でもある。
 しかし、
「あ、この指輪ははじめて見るんじゃないか?黒い石なんて珍しいよな」
 楽しそうな龍麻に何も言えないのもまた、悲しいかな事実なのだった。




 北区、如月骨董品店。
 ここ一年ですっかり客層が若くなったと評判の骨董店の若店主は、訪れた二人を―――歓迎されているのは主にその片方なのだが―――微笑んで迎え入れた。
「やあ、龍麻。今日も旧校舎かい?」
「今日はちょっと変わった指輪見つけたんだ。見て貰えるか?」
「見せてもらうよ。ああ―――黒曜石の指輪だね。いい品だよ」
「あ、やっぱり。じゃあ、色を付けて貰える?」
「それは、まあ…それなりに、だな」
 龍麻には完全に心酔していると言い切れるほど甘い如月だが、こと商売事に関しては妥協を許さない。対する龍麻も、なかなかに強かな商売人との駆け引きを楽しんでいる節がある。
 買い取りの価格交渉など、京一に出来る筈もなく、こうなるとただ黙って見ているしかない。うっかり邪魔をしようものなら八雲あたりを食らいかねないからだ。
 龍麻は、優美な外見に反して結構気が短く、気に触ると容赦なく拳にものを言わせる。しかし、その被害に遭っているのは専らその相棒だけだったので、世間一般では物静かで穏やかな人間として知られている。それが京一にはちょっとばかり不満だったが、こればかりは仕方ない。それだけ自分が特別なんだと、苦しい言い訳で自分を誤魔化しているのが切ないところだ。
「あと、伏姫の弓と七星剣もある。七星剣は探しているって言ってなかったっけ?」
「…確かに、探求品として依頼は受けているよ」
「だろ?そう言ってたのを思いだして拾ってきたんだ。勿論、これもプラス要因だよな?」
 それを微塵も疑ってないような眼差しと笑みを向けられて、如月が仕方ないと言わんばかりに苦笑する。
「まったく、君には敵わないね」
「期待してるよ?若旦那」
「他ならぬ君の依頼だ。考慮しよう。それと―――例のもの、用意できそうだよ」
「本当か?」
 途端に、龍麻の表情がそれまでとは違う含むもののない笑顔になる。
「そのことで、後で壬生が寄るそうだ。もうじき顔を出すと思うんだが…」
 その言葉に、京一は嫌な予感がして眉を寄せた。旧校舎から直行でここまで来たため、腹は既に鳴りっぱなしだ。しかし、この会話の行方からすると…
「わかった。待ってるよ」
「じゃあ、お茶でも煎れようか」
「ちょっと待てひーちゃんっ!メシっ!ラーメン食いに行くんだろ!?」
 荷物を抱えたままでは嫌だと言う理由でここまで我慢していたのに、ここでお預けでは堪らない。だが、龍麻は無情にもきっぱりと言い切った。
「ごめん、紅葉にちょっと用があってさ。もう少し、ここで待ってる」
「茶菓子ならあるけど。食べるかい?蓬莱寺」
「茶菓子で腹が膨れりゃ世話ねェよ…」
 がっくりと肩を落とす京一に、当の龍麻があっさりと止めを刺してくれる。
「何だったら、先に帰ってくれててもいいけど?」
 全く、京一の内心など知らないであろうある意味非情な言葉に、京一の落胆に拍車がかかる。
 しかし、それでも京一としてはこう言うしかない。
「………待ってる」
「そう?」
 無理はするなよ?と無邪気に笑う龍麻には、京一の気持ちなどきっぱり伝わっていないだろう。
 そのまま、楽しそうに如月とアイテム談義なんぞを始めた龍麻を眺めて、京一は小さく溜息を漏らした。
(そりゃあ…わかっちゃいるけどよ…)
 京一は、一緒にいるだけで幸せを噛みしめられるのに、対する龍麻の何とあっさりしたことか。
 しかも、最近では旧校舎から如月の店、そこであれやこれやと時間を潰して…のパターンが完全に定着してしまっている気すらする。勿論、如月の店での京一の立場ははっきり言って置いてある招き猫以下の扱いだ。その煽りで、以前は頻繁に出入りしていた龍麻の家にも、ここ最近はすっかりご無沙汰している。
 もしかして俺は便利な旧校舎要員じゃないのか?という疑惑は、追求すれば自爆は間違いなしなので考えないようにはしているが、こんな場面では流石に噛みしめざるを得ない。
(あーあ、なんでこんなに…)
 これなら、まだ去年の方が一緒に居る時間も長かった。柳生を倒し、折角の平穏を楽しむはずが、あれ以来京一の気分は限りなく低空飛行だ。
 聞こえてくる楽しげな会話を意識しないように努めて、京一は座敷にごろりと横になった。



「…じ、き…ろ。…うら…っ!」
「んーーーっ」
 いつの間にか、寝入ってしまっていたらしい。聞こえてきた誰かの声に眉を寄せれば、今度は思わぬ至近距離で声が響いた。
「蓬莱寺っ、起きないか!」
「なっっ!…んだ、如月かよ…」
 覗き込んでいる如月の不機嫌な顔に、京一は現在の状況を思いだした。そう、如月の店で龍麻を待っていたのだ。その間に眠り込んでしまったらしい。
「さっさと起きるんだよ。ほら」
 差し出されたのは、電話の子機。
「なんだよ?」
「龍麻からだよ」
「ひーちゃん?って…なんで?」
 ここにいるはずの龍麻からの電話という矛盾に、京一は首を傾げる。しかし確かに、見回してみても室内に龍麻の姿はなかった。
「いいから、出たらどうだい?君がなかなか起きないものだから、随分待たせてしまっているんだ」
 苦い顔の如月に説明を求めることを諦め、京一は大人しく差し出された子機を受け取る。耳に当てれば、馴染んだ声が流れてきた。
『京一?』
「ひーちゃん、どうしたんだよ?」
『ゴメン、ちょっと紅葉と用があってさ。お前よく寝てたし、そこに帰るつもりだったから起こさなかったんだけど、ちょっと長引きそうなんだ。悪いけど先に帰ってくれるか?』
「長引きそう、って…」
 部屋の時計を見上げて京一は驚いた。時間はもう10時を回っている。
「こんな時間まで、なにやってんだよ?」
 声が、不機嫌に響いたのは仕方ないと思う。しかし、それに対して龍麻は全く屈託がなかった。
『ん、ちょっと。野暮用だよ』
 こんな時間まで、壬生と出歩くその用件の内容が気になる。
「だから、野暮用ってなんなんだよ?」
 重ねて問えば、電話の向こうでくすりと笑う気配がする。
『怒ってんのか?ゴメン、悪かったって。今度ラーメン奢るからそれで勘弁しろよ』
「…別に、そういう事を言ってるんじゃねーよ」
『なんだよ、ラーメンじゃ不満なのか?贅沢な奴だなぁ。んじゃ、餃子もつけるからさ』
 京一の思惑など知らない龍麻の答えに、京一は深く息を吐いた。
「わーったよ」
『よしよし、今度ちゃんと奢ってやるからさ、あんま拗ねんなって』
 その、子供をあしらうかのような物言いに、寝る前までのもやもやが蘇って更に情けない気分になる。それに追い打ちをかけるように、龍麻は付け加えた。
『あ、それと明後日の日曜、補習は休みだけど旧校舎に潜るのに付きあえよ。翡翠にちょっと良い話も聞いたしさ、もうちょっとで200階行くし』
「旧校舎って…お前、また行くのかよ?ベンキョーはどうなってんだ?」
『京一の補習よりはちゃんと進んでるぞ?』
「だぁっ、からかうなっ!本気で言ってんだ!」
 受験戦争には縁のない京一でも、龍麻の余裕振りは目に付く。それに、旧校舎潜りに何か思惑があるのなら、自分にも話して欲しかった。
 しかし、返ってきた答えは、
『いいじゃないか。どうせ暇だろ?』
 その一言に、京一の中で何かが音を立てた。
「悪ィな、その日は用があるんだわ」
『え、だって、補習はないだろ?』
「あのな、補習じゃなくても俺にだって用くらいあるっ!」
『ちょ、別にそういう意味じゃ…』
「じゃーな」
 続く言葉を聞かずに電話を切ると、目の前にいた如月にそれを投げて返す。
 受け取った如月はくすりと笑ってそれを電話受けに戻した。その意味ありげな笑顔がカンに触って、京一は如月を睨んだ。
「なんだよ」
「いや。喧嘩したのかい?君にしては珍しい」
 目の前で京一の受け答えを聞き、その表情の変化を見ていた如月には、電話の内容などお見通しらしい。
「別に。ンなんじゃねーよ」
 そう、変な話、切った後で落ち込んででもいてくれたらまだ望みもあるのだが、きっと龍麻は気にもしていないだろう。その様子が想像できてしまうのがなんとも情けない限りで。
 それを再確認するかのように、如月が面白そうに言う。
「そうだね。君と龍麻では喧嘩にはならないだろう」
 その言葉がぐさりと突き刺さる。言い返すことが出来なくて、京一は如月に背を向けた。
「邪魔したな」
 そう言い捨てるのが今の京一には精一杯なのが、何よりも口惜しかった。


 短い辞去の言葉を投げて、京一が出ていった店の中で、如月はくすりと笑みを零した。さっき、京一に向けた皮肉めいたそれではなく、本当に楽しげな笑顔で如月は呟く。
「まったく、面白いね。人間がこんなに面白いものだとは。ああ、それも龍麻が居ればこそ、だが。しかし…」
「それが、君にわかっているのかい?蓬莱寺?」
 静寂の中にある店内からは、当然返る答えは無い。
 それを承知の上で更に如月は言葉を重ねた。
「君に、彼を支えることが出来るのか…?」
 疑問の形を取りながら、しかしその答えを良く承知している如月の笑みは、酷く優しいものだった。