日陰に逃げ込んでいた筈なのに、いつの間にか顔に掛かる日差しに起こされて、京一は目を開けた。吹き抜ける風は気持ち良いが、強くなった日差しにまともに晒されたら、流石に目を閉じてはいられなかった。
「……って、今、何時だぁ?」
 昼を食べて、それからそのまま屋上で横になってうとうとして―――影は移動しているが、まだ校内が静かなところをみると、授業は終わってないらしい。
 妙に中途半端な時間に目覚めたことが口惜しいが、もう目を閉じても眠気は戻っては来なかった。
 代わりに思い浮かぶのは、殆ど習慣になってしまった感のある同じ顔、同じ事。
 その人物が、この同じ建物内に居ると意識しただけで、やたらと熱くなる自分が信じられない。
「ちっ、寝れるかっての…」
 呟いた京一は、寝ることを諦めて座り直した。



 先日、この場所―――真神学園の屋上で、京一はちょっとした賭にでた。前日、自覚したばかりの恋の相手に、いきなり告白したのだ。
 自分の無自覚のせいで、酷く傷つけた事を謝りたい気持ちと、もしかしたら―――と抱いた期待を混ぜた、複雑な想い。
 それらを全部すっきりさせたくて、玉砕覚悟で自分の気持ちを伝えた。
 そうしたら―――返ってきたのは、胸を抉られるような、けれど京一にとってはその痛みすら甘い言葉で。

「お前が、俺の知らないところで可愛い子と仲良くなるのも、ナンパに走るのも、嫌だ」

 その、どこか痛みを堪えるように吐き出された言葉を聞いた時には、歓喜で目の前が白くなった。
 それは、間違いなく自分が想われているという証だったから。
 それが嬉しくて、ちゃんと自分の気持ちを伝える前に、思わず行動に移してしまったくらいだ。
 しかし、絶妙のタイミングで入った横槍に、続きはあえなくお預けとなって………そのまま、である。
 それこそが、現在京一の頭を占めている最大の悩みだった。



 今まで、好きになった相手が居なかった訳ではない。オツキアイも、それにまつわるあれこれもちゃんとこなしてきた。しかし、今回ばかりはどうにも勝手が掴めない。
 親友で―――初めて背中を預けられると感じた相棒には、今までの調子で突き進んでもいいものかどうか。
「キス、はしたんだよな…」
 うっかりと触れた龍麻の唇の熱さを思い出して、京一は焦ってそれを振り払った。今の自分では、あれを思い出すと洒落にならない。
「あの時は、いー感じだったのになぁ…」
 引き寄せても逃げなかったし、その後の反応も実にいい感じで、『いけるっ!』と固く拳を握ったのはつい一週間前の事だ。
 しかし。
 しかしである。
「なーんでこうなるんだか…」
 あれから、一週間。
 まっっったくと言って良いほど進展していない事態に、いい加減京一の我慢は焼き切れてしまいそうだった。

 取りあえず仲直りは済ませたものの、いいところで葵に龍麻を浚われた京一は、復活したその足で龍麻を追った。殴り倒されてそのままでは前途多難は確実、なんとか挽回しようと追いかけて捕まえたのだが。

 逃げられる、のである。

 なんのかんのと理由を付けて、するするとそれは見事に。

 これが、厭われて避けられているのなら―――それはそれで大問題だが―――まだ、わかる。しかし、龍麻の様子はそんな風ではなく、京一が行動に出なければ……有り体に言えばふたりっきりになろうとしなければ、龍麻はいつものように振る舞っているのだ。
 しかし、ひとたび京一が『その気』になって話を振ろうとすると、まるでそれを読んでいるかのような見事さで逃げられてしまう。
 逃げようと構えるとちょっと早口になる物の言い方とか、僅かに赤く染まる頬とか、明らかにこちらを『意識』しているのがわかるのに―――何故、逃げられるのか。
 その辺りが京一にはさっぱりわからない。
 逃げるのには何か理由があるのだと思う。その理由を問いつめたいのは山々だが、一度酷く傷つけた自覚もあるので今ひとつ、踏み込めないのだ。
(あの時みてーな、痛い表情、させたくねーしな…)
 自覚のないまま、嫉妬で龍麻を傷つけたのはつい先日だ。結果的にはそれが自覚の切欠にもなったのだが、傷つけた事には変わりない。
(それに…)
 踏み込めないもう一つの理由に思い至って、京一の顔に朱が上る。
 その時だった。
「京一?」
 不思議そうな声と共に、視界に飛び込んできた影に、京一は文字通り飛び上がった。
「なっっ…」
 今の今まで、胸の裡で想っていた顔が目の前に現れたのだ。言葉もない京一に、龍麻は眉を寄せて更に顔を覗き込んできた。
「…具合でも、悪いのか?顔赤いぞ?」
 間近で見るその貌は、男にしておくのが惜しい秀麗さである。いや、京一はもう、男でも全然構わなくて、それがちょっとやばいのだが。
 赤くなって黙ったままの京一を訝しんでか、龍麻が首を傾げて手を伸ばしてくる。何の他意もなく、ただ額に手を伸ばされているだけだと解っていても、それだけで熱が跳ね上がる。
「熱、はないよなぁ…」
(やべェ…)
 触れた指は少し冷たくて、その感触が心地良い。首を傾げる龍麻とは反対に、間近の貌に京一の熱はどんどん上がっていく。これだけ近いと、否が応でもあの時の龍麻の頬の赤味とか、切なげな吐息とかを思い出してしまうのだ。
「ひーちゃん、なんで…」
 辛うじてそう言えば、龍麻は呆れたように肩を竦めた。
「寝惚けてるのか…」
「………?」
「やっぱり、気が付いてなかったのか。授業、終わったぞ?」
 そう言われれば、いつの間にか校内にざわめきが戻ってきている。目をぱちぱちとさせた京一に、龍麻は仕方ないなという風に笑った。
「お前、寝過ぎ。そのうち、閉められたことにも気づかずにここで一晩明かす羽目になるぞ?」
 その言葉に、龍麻が自分を迎えに来てくれた事に気づいて京一の熱は限度を超えた。
 放課後、屋上、ふたりっきり。
 もしかしなくても、狙っていた絶好の機会である。
「ひーちゃん」
 名を呼んで、身を起こせば、それだけで龍麻がびくりと肩を揺らしたのが解った。
「起きたのなら行くぞ」
 慌てて背を向けようとするその腕を、逃がさずに捕まえる。
「話がある」
「…な、なに?」
 少しだけ、上擦った声。
 逸らされた首筋の、ほんのりとした朱。
 それら全てに誘われて、京一は掴んだ腕に力を籠めて引き寄せた。
「俺は…」
「ちょっと待てよ、京一。その…早く行かないと」
 逃げるように顔を背けたままの龍麻に、京一はぐっと顔を寄せる。この機会を逃したらただの馬鹿だ。
「ひーちゃん…」
 しかし、京一の決意は切羽詰まった龍麻の叫びにあえなく挫かれた。
「ホントに、やばいんだって!」
「…何が?」
「マリア先生が待ってるんだよ!」
「……って、ひーちゃんをか?」
「堂々と授業をサボったお前に決まってるだろ!」
 そこまで言われてやっと、京一の頭にその言葉が染みる。
「結構怒ってたから、早く行った方がいいから!」
「……げ」
 流石に、担任であるマリアの機嫌を損ねれば後が怖い。いくら理解のある担任でも、流石に堂々のサボりは容認してくれなかったようだ。
「わかったら、早く行けって…っ」
 叫ぶ龍麻を前に、京一はしばし考えた。
 確かに、行かなければまずい。しかし、ここでただこの手を離すのもやっぱり馬鹿だ。
 そう再認識して、京一は掴んだ手に再度力を籠めた。
「ひーちゃん、待っててくれるよな?」
「…なんで?」
「話がある、つったろ?」
 逃げを許さない眼差しで見つめれば、龍麻が困ったように目を伏せて…それでも息を吐いて答える。
「…教室で、待ってる」
 視線を逸らし、ぶっきらぼうな言い方だが、やっぱり首筋の赤味は消えていない。
 その仕草に。
 本能のままに引き寄せて抱きしめて、吐息を奪いたがる自分をなんとか押さえて、京一はその腕を解放した。
「すぐに終わらせっからよ」
 そう言えば、やっと視線を戻した龍麻が、小さく口の中でおうと呟いた。





 すぐに戻るからと言い置いて、職員室へと下りて行った京一の後を追えずに、龍麻は屋上の壁にもたれてずるずると座り込んだ。見上げる空の青が目に染みる。
「…っくしょ…」
 落ち着いて考えると、先程晒した自分の醜態が蘇ってきて羞恥で顔から火が出そうだった。
 名を呼ばれただけで過激に反応し、腕を掴まれて思い切り狼狽えて。
 そんな自分がどうしようもなく恥ずかしかった。
(それも、これも…っっ)
 あの、京一の眼差し。
 あれがいけないのだと龍麻は思う。
 普段、調子よく騒いでいるときにはまるで見せない、真剣で―――『焦げてしまいそうな』眼差し。あんな目で見られて、平静でいられる訳がない。

 好きになったのは、自分が先だと思う。親友に惹かれて、それが道に外れた思いだと自覚してからは、嫉妬したり、こっそりナンパの妨害に走ってみたり、そんな苦労も多かった。
 しかし、それも今にして思えば可愛らしいものだった気がする。京一の声や、眼差し一つに捕らわれて醜態を晒している現状に比べれば、あの頃の苦労など可愛いものだ。
「……俺、こんなに情けなかったかな?」
 何気ない眼差しや、声や仕草に過敏に反応してしまうなど、情けないことこの上ない。余りのみっともなさに、眩暈すら覚える。
 もちろん、なるべく普通を心がけるようにはしている。いつもの『親友』の位置で笑ったり喜んだり呆れたり怒ったりするのは割とクリアできてるんじゃないかと思う。
 けれど、一度京一の眼差しや声に『熱』を感じてしまうともう駄目だった。それだけで、全身が熱くなって、もう自分が何を喋ってるのかも解らなくなって、結局尻尾を巻いて逃げ出すというかなり情けない状態が、ここ数日ずっと続いている。
 こんなにも、狼狽えた自分が情けなくみっともないものだとは思わなかった。
 けれど、完全に逃げ出すには、龍麻の心は京一に傾きすぎている。今だって、恐らく京一が一人で居るであろう屋上に足を運んだのは、何のかんのいって顔が見たくて声が聞きたかったからに他ならない。
「こんなの…絶対ばれたくない…」
 そればかりを思って、やばいと思ったらなるべく逃げ出すようにはしているの、だが…
 どうも今日は、逃げ損ねてしまったらしい。
「はぁ…」
 龍麻だって京一が何を言いたいかということは、想像が付く。他ならぬこの場所で、熱を絡ませ合うようなキスを交わしたのはつい先日の事だ。
 叶うとは思っていなかった恋に、きっぱりとけじめを付けるつもりで覚悟を決めていたのに、思わぬ方向に話は流れて。
 誤解を解いて笑った京一の顔が近づいてきた時、これは都合の良い夢なんじゃないかと疑ったりもしたけど、触れた熱さは本物で。
 しかしそれからというもの、前にも増して京一の行動の一つ一つが気になるようになって、龍麻は頭を抱える羽目になってしまったのである。
 一度意識してしまうと、見つめられるだけで鼓動が早くなって、話していて唇に目が止まっただけで、あの時のキスを思い出して身体が熱くなる。
「そりゃ、俺だって中途半端は嫌だけど…」
 殆ど諦めて、隠し通す事を決意していた想いだけに、いざ上手くいって…という展開に、心がついていけない。
 要するに、急激な変化に追いつけてないのだ。
 こんな状態で京一の話とやらを聞いた日には、それこそどんな醜態を晒すやらわからない。
 今日も、なんとかして上手く誤魔化して逃げないといけないが、流石にこのまま置き去りにする訳にもいかないだろう。
 何とか、教室に人の居る内に、京一が戻ってきてくれることを祈るのみである。
 もう一度空を見上げて息を吐き、龍麻は重い足取りで階下に向かった。



 サボりに対するマリアの怒りは、予想以上に大きかった。ここ最近、割と真面目に授業を受けていた反動か、はたまた虫の居所が悪かったのか。京一にとって運の悪いことに、そこへ来合わせた犬神までもが一緒になって説教を始め、気が付けばすっかり空は茜色。おまけに課題を押しつけられたとくれば、もう泣くしかない。サボったのが5限の生物、六限の英文法だったから、仕方ないと言えばそうなのだが。
 もしかして、もう帰ってしまったかもしれない。
 そう思えば自然と足取りが速くなる。
 ちょっと息を切らす勢いで着いた教室はがらんとして、人気がなかった。部屋全体が夕日の彩に染まっているのが妙に寂しい。
「ち…っ」
 やっぱり間に合わなかったかと肩を落とした京一は、ふと視界の端を掠めた黒いものに目を細めた。
 教室の後ろ、前からでは見えにくいロッカーの扉にもたれて、龍麻が座り込んでいた。規則正しくゆるやかに上下する胸は、龍麻がすっかり寝入っていることを示している。
 僅かに上を向いている顔は夕日に染まって、まるで上気しているように見える。
 今度はやばいと思っても止められなかった。前に膝をついても目覚めない龍麻の頬に触れれば、長い睫毛が僅かに揺れる。
 ゆっくりと頬を撫で、親指で唇を辿れば、瞼が更に震え、その裏に隠されていた印象的な目が現れた。
「きょ…」
 何か言いかける唇を最初指で、次いで自分の唇で封じる。その柔らかい感触に、奥まで探りたい気持ちを押さえて、辛うじて触れるだけに止めた。
「いいだろ?」
 今度は頬に口づければ、掠れた声で龍麻が囁いた。
「だ、駄目だ…」
「…なんで?」
 そう聞き返せば、漆黒の色が戸惑ったように京一を見つめ返して来た。
「………」
「駄目なこと、ないだろ?」
 夕日のものではない赤く染まった頬に、戸惑ってはいても本気で逃げていない身体。これで弱々しく駄目だなんて言われても、真実味がまるでない。
「人が…」
「誰も、来ねェって」
 そう言って、今度は深く唇を合わせる。舌を絡ませれば、ぎこちなく応じてくるのが余計に京一を熱くする。
 いつの間にか京一の腕をぎゅっと掴んでいた龍麻の手をそっと外し、そのまま上着の中に掌を滑らせる。シャツのボタンに手を掛ければ、龍麻がぴくりと身を竦ませた。
 そっと唇を離して様子を窺えば、それが不快によるものではないとわかる。
「京一…」
 紡がれる名前と、そろりと伸ばされた腕が、そっと背中に回される感覚。それらに満足した京一が、喉元に唇を寄せ、更に指を進めようとした、その時―――

 小さな物が、床に落ちるような小さな異音が響いた。

 聞こえた微かな物音に、辛うじて気が付いたのは正に僥倖だった。動きの止まった京一に、龍麻もまたそれに気づいて京一の胸を強く押す。
 慌てて立ち上がった京一が、龍麻を隠すように扉に身体を向けた直後、扉はからりと開いた。
「あら―――京一君」
 もしかしたら、とは思った。このタイミングには、嫌と言うほど覚えがある。
 果たして、現れたのは葵だった。
 真神の聖女との呼び声も高い美少女だが、先日から京一はこの相手に痛い目ばかりを見せられている。
「今日は、一人なの?」
 笑顔と共に尋ねられて、京一は思いっきり絶叫した。
(お前、絶対見てただろう―――――ッッ!)
 もちろん、口には出せない。胸の裡だけでの絶叫だったが、京一の心情としては、大声で叫んでも叫び足りないくらいのものだ。
 葵は、京一に取っていわゆる『恋敵』だ。最初に龍麻に告白しようとしてこけたのも、葵の見事な横槍があった為だ。まあ、それには少しばかり『借り』の要素もあって仕方のない事かと京一も諦めた。
 あれから特に、葵からの横槍は感じたことがなかったのだが、それは葵云々の前に、龍麻本人に逃げられていたという感覚が大きかった。
 しかし今日。
 人気のない午後の教室で、これ以上は無いというシュチュエーションを邪魔されたのははっきり言ってものすごく痛かった。痛いだなんてものではない。熱の籠もった身体は冗談抜きで洒落にならない。
 京一の背後で、がたりと音を立てて龍麻が立ち上がった。
「俺…ごめん先に帰る!」
「あ、ちょ…ひーちゃんっ!」
 引き留める間もなく、龍麻は脱兎の勢いで、後ろの扉から出ていってしまった。
 その様子にくすりと笑う葵を見て、京一は見られていたことに確信を抱いた。
「美里…」
 呟いた声が些か剣呑に響いたのは仕方のないことだろう。
 京一は女性に向ける剣は持たない。しかし、だからといってこれを見逃せるほど人間が出来ている訳でもないのだ。
 しかし、その続きが京一の口から出ることはなかった。
「京一君、丁度良かった。犬神先生が探してらしたわ」
 美里に続いて、犬神が教室に顔を出したのだ。
「忘れ物だ」
 そう言って犬神が寄越したのは、生物の課題プリント。
「げ…」
「わざわざ持ってきてやったんだ、有り難く思え」
 ありがた迷惑だと顔全体で表して、ふてくされたように顔を顰める京一に犬神が呆れたように、眉を寄せる。
 そのまま本の角で頭をどつかれた京一は、当然、美里が手の中のシャーペンをくるりと回して笑ったことなど気が付かなかったのだった。



 一方。
 教室から逃げ出した龍麻の方は、ひたすら熱い顔を隠すように、全力で走っていた。
(おおおお、俺、今一体なにを〜〜〜〜〜ッッ!!)
 誰も居なくなってしまった教室で、一人机に向かっているのが妙に恥ずかしくなって人目に付かない後ろに行ったのは覚えている。いつまで経っても帰ってこない京一を待ちくたびれて、おそらくうたた寝でもしてしまったのだろう。

 はっと気が付けば目の前に京一がいて、その鳶色に見据えられただけで頭が沸騰して。
 あろうことか、誰が来るとも知れない教室でキス、しかも葵が来なければ下手をすればその先まで……
「うわ…っっ!ちょっと待て!」
 思わず浮かんだ想像の恐ろしさに、龍麻は必死で頭を振ってそれを振り払った。
「そ、その先って……」
 ぐるぐると眩暈を覚えそうな感覚に、龍麻の頭がふらりと揺れる。
 京一に弱いのは自覚している。
 みっともないほど狼狽えて、醜態を晒すのも自覚済みだ。
 だがしかし、放課後の教室で、危うくコトに及びそうになるほど弱かったとは、はっきり言ってショックだった。
 仕掛けてくる京一も信じられないが、それに抵抗すら出来なかった自分はもっと問題外である。熱に浮かされていたようではっきりとは覚えていないが、背中にまで手を回してしまったような気もするのだ。
「駄目だ、こんなんじゃ!」
 思わず大声を上げて、それからばしんと掌で頬を打つ。
 全速力で走っていたかと思うと、いきなり立ち止まって大声を上げる学生に、通りかかった何人かがぎょっと視線を向けるが、龍麻には、それにかまけている余裕はまるでなかった。
「もっと…ちゃんとしないと!」
 拳を固く握って、息を吐く。流されっぱなしなんて、いくらなんでもみっともなさすぎだ。
「せめて、普通に話が出来るようになんないと…っ!」
 こんな調子では、いつまでたっても『そういう意味』で話をすることすらできない。
 龍麻とて男である。こんな状態ではそのうち京一が怒り出すであろうことも想像が付く。
 …それに、龍麻とて京一のことが好きなのだ。好きな相手から逃げ回る情けない現状に満足できている筈もない。
 この状況を打破するためには、方法は一つ。
 ―――先手必勝。
 京一を目の前にして、さっきのような場面に陥る前に、こちらから告白する。
(そうすれば、ちゃんと…逃げないでいられる筈だっ!)
 そう、今まで受け身で逃げ回っていたから、駄目だったのだ。先にこちらから話を振って主導権を握れば、展開も違うはずだ。上手くすれば、実に自然にこの難関をクリアできる。
 そんな考えにはまった龍麻の頭には、当然『先手』を取ったその後のことなど浮かんでいない。そして、少々おかしな方向に向かいはじめた龍麻の思考を止める者も、もちろん居ない。
(見てろよ、俺は負けないっっ!)
 そうと決まれば、善は急げである。
 龍麻は、くるりと踵を返すと、来た道を早い足取りで戻り始めた。