色々と口うるさい雄慶の説教を避けて、京梧はふらりと町中を歩いていた。丁度昼時で空腹になったのも手伝って、何となく引かれるようにいつもの蕎麦屋を目指す。
 今日は、会えるような気がしたのだ。
 果たして予感は的中し、蕎麦屋の前に覚えのある姿を見つけて、京梧の顔は綻んだ。何かを考え込んでいるように往来の隅で動かない背中は、京梧の気配にまるで気づいていないようだった。
「よ、居たのか」
 そう言って背後から肩を引き寄せれば、振り返った顔はまともに歪んだ。
「触るな!」
 京梧の腕を邪険に払いのけて、龍斗はきっとこちらを睨んでくる。
 まるで、毛を逆立てた猫のようだと思いながらも、京梧は怯むことなく平然と返した。
「大声出すなって。驚かせてどうするよ?」
 露骨に顔を顰められるのはいつもの事なのだ。そんな事よりも、『会えた』という事実の方が、京梧には大きい。それに、目立つと困るのは龍斗の方だと知っているから、それを指摘すれば龍斗はいつも大人しくなる。案の定、周りの人間が何事かと目を向けているのに気づいた龍斗は、顔を歪めながらも声を落とした。
「貴様がいきなり出てくるのが悪いんだろうが」
 不機嫌そうにそう言う龍斗は、背中を取られた事がよほど気に入らなかったらしい。そう言えば、この頃はいつも龍斗を驚かせてばかりな気がして、京梧は苦笑した。
「なんだ、俺が、お前を驚かしちまったか?そりゃ悪かったな」
 その親しげな様子に、何事かと足を止めていた人々も再び動き始める。
「さて、と。俺らも蕎麦でも食うか?」
 断るのを承知でそう誘えば、予想通り龍斗は冷ややかに眉を寄せた。
「俺は、蕎麦を食べに来た訳じゃない」
 しかし、ここで怯んでいても仕方ない。龍斗の目的を承知している京梧は、構わず
「そう言うなって。俺は腹減ってんだ。付き合え」
 と言い置いて、蕎麦屋の暖簾を潜る。
 少し遅れて店内に入ってきた気配に、京梧はこっそり笑った。
「親父、いつもの奴。コイツの分もな」
「はいよ」
 顔馴染みの主人は、大体予想していたらしく、手早く銚子を運んでくる。猪口を差し出すと、龍斗は嫌そうに首を振った。
「構うな」
 その、あからさまに不機嫌な態度が逆に面白くて、ついつい突いてしまいたくなる。
「ちょっとくらい良いだろが。蕎麦屋に来て、そんな仏頂面で座り込んでると迷惑だぜ?何しに来たんだ、ってな」
 そう言えば、龍斗の顔が一層歪んだ。
「俺は、お前と酒を飲む為にここに来たんじゃない」
「なら、蕎麦食えよ。まだ昼は食ってねェんだろ?」
「だから、俺は!」
「お、来た来た。ざるでいいだろ?何か付けるか?」
「………それだけでいい」
 根負けしたように、京梧が差しだした箸を取って蕎麦に口を付ける龍斗に、京梧は満足げに笑って自分もまた箸を取った。こうやって、傍らで蕎麦を啜れる事が単純に嬉しい。
「へへへっ、ここの蕎麦は美味ェよな。結構色んなとこに行ったけどよ」
「…………」
 返事を返さない龍斗はいつもの事だ。気にせず京梧はあれこれと話しかけた。
「うどんは上方の方が美味かったけどな。あれはあれでいいけど、やっぱ麺は蕎麦が一番、ってな」
「…………」
「江戸は団子も美味ェしな。お花ちゃんとこの団子は絶品だぜ?」
「…………」
「そうだ、蕎麦食ったら行ってみるか?」
 それまで沈黙を守っていた龍斗は、がしゃんと箸を置いて京梧を睨み付けた。
「蓬莱寺、いい加減にしろ。さっきからずっと…一人でべらべらと喋って楽しいか?」
 勿論、楽しい訳がない。京梧にしてみれば、やっと時折会えるようになったのに、その貴重な逢瀬が不機嫌な仏頂面ではつまらない。にこやかに笑い合う…とまではいかなくても、せめて会話ぐらいは楽しみたいではないか。龍斗が聞けば更に怒りを深くする事は間違いないが、それが京梧の本音だった。
「そう思うんなら、ちっとは返事しろよ。せめて相槌打つとか…一人で喋ってるってのは、これで結構疲れるんだぜ?」
 柔らかくして言ったつもりだったが、それでも龍斗の怒りを呼んでしまったらしい。
「どうして俺が、お前の言う事に一々相槌を打たないといけないんだ!」
 声を荒げる龍斗に、京梧はさらりと返した。
「どうしても何も、折角二人で一緒に飯食ってるのに、黙ったまんまじゃつまんねェだろ?」
 龍斗は、きつい眼差しで京梧を睨み付けた。
「寝惚けた事を言うな。俺はお前と蕎麦を食う為にここにいるんじゃない。お前を……」
 言葉を切った龍斗は、一度目を伏せて言い切った。
「殺しにきたんだからな」
 先日と、同じ言葉。
 しかし、京梧にはそれに動揺しないだけの確信があった。
「へぇ?まだ諦めてなかったのかよ」
「諦める筈がないだろうが」
 睨んでくる眼差しに、どんなに殺意が混じっていても信じられるはずもない。
「いいんだぜ?ここで狙っても」
 そう言って左胸を差すと、龍斗は口惜しげに唇を噛んで俯いた。
「出来るものなら、とっくにしてる…!」
 その答えに、京梧はふっと口元を緩めた。
 それだから、安心していられるのだ。
 いくら殺意を口にしていても、龍斗はこうやって、京梧の隣に腰掛けて蕎麦を啜っている。本気で京梧の命を狙っているのであれば、人目など気にせずにやっているか、表面だけでも誤魔化して京梧の隙を狙うだろう。そのどちらも選んでないのは、龍斗自身が無意識にそれを望んでいない証拠だ。
 些か楽観的だが、京梧はそう信じていた。
「ま、その話は後でだな。取りあえず、食っちまおうぜ?まずくなっちまったら勿体ないしな」
 そう言って再び箸を持つと、龍斗はそれ以上何も言わなかった。

 残すことなく全て蕎麦を平らげた京梧は、湯飲みを手にしている龍斗のざるを眺めてちょっと眉を寄せた。
「なんだ、お前もう食わねェのか?」
 かなりの量が、手をつけられずに残っている。ぼうっとして食べる様子のない龍斗に、京梧は訝る視線を向けた。
「ただでさえ細っこいのに、食わねェと余計縮むぞ」
 そう言えば、龍斗がむっとしたように間髪入れずに言い返してきた。
「余計な御世話だ」
 その反応が妙に気安いようで、それが嬉しく感じられて、京梧は笑みを零した。
「もしかして気にしてんのか?」
 即座に足が飛んできて蹴られてしまったが、京梧にはその痛みも心地よく思える。
 そう、こんなやり取りはまるで『以前』のようでそれがどうにも嬉しいのだ。他愛のない事で怒ったり、笑ったり…
「出て、どっか行くか?」
 浮き立った気持ちのままそう訊ねれば、龍斗は憮然として短く答えた。
「人気のない所」
「へェ…もしかしてお誘いかい?」
 途端に、固まった龍斗の反応に、京梧は羽目を外しすぎた事を悟る。顔色を変え、きつく唇を噛んだ龍斗は、乱暴に席を立ってしまった。
「お、おい緋勇?」
 恐ろしい勢いで外に出ていく龍斗の背を慌てて追いながら、京梧は舌打ちを零した。気が緩んで調子に乗りすぎてしまった。殆ど走り出しそうな勢いで歩く龍斗の背を必死で追う。
「ちょっと、待てって!」
「着いて来るな」
 こちらを振り返ろうともしない龍斗に焦れて、京梧は足を速めた。
「ったく足速すぎだ、お前…」
「来るな、って言ってるだろ!」
 肩に手を伸ばした瞬間、くるりと振り返った龍斗の顔を見て、京梧はいたたまれなくなった。
 酷く傷ついたような、痛い表情。追いつめたい訳ではないのに、つい気が緩んでしまったらしい。
「待てつってんのに…」
「お前を待つ必要など何処にもない。着いて来るな」
 素っ気ない言葉に、京梧は素直に謝った。
「あー、その…悪かった。ちょっとからかっただけだからよ。だから……そんな顔、すんなって」
 本気で厭われていないにしても、龍斗が自分に対して複雑なものを抱えている事を忘れて、つい気持ちが浮き立ってしまった。傍らにいるのが嬉しくて、京梧に強いられた行為は、龍斗にとっては苦痛だという事実を忘れそうになる。
 京梧の謝罪に、龍斗の緊張を孕んだ顔が少し緩んだ。
「人をどうこう言う前に、自分の顔を見てみろ。絶対お前の方がおかしい」
 ぶすりと言い返されて、京梧はちょっと笑って肩を竦めた。
「なら、お互い様って奴だ。折角来たんだ。もうちょっと付き合え」
「貴様に付き合うつもりはない」
 素っ気なく言いつつも、和らいだ空気に京梧はほっと息を吐いた。
「じゃあ、俺がお前に付き合うってのはどうだ?」
 そう言えば、龍斗はぎこちなくも頷いて促すように背を向けた。どこに行くにせよ、もう少し一緒に居られれば、京梧に否やはない。
 しかし、さほど行かない内に、知った顔に行き会って、京梧の足は止まった。
「蓬莱寺さん?」
「お、ほのかちゃんじゃねェか」
 目立つ服装の大人しげな少女は、先日仲間になったほのかだった。頭を下げる少女に、京梧も笑って手を振る。
「今日は、皆様とはご一緒ではないのですか?」
「へへ、ちょっとな」
「あ、失礼いたしました。お邪魔をしてしまって…あら?貴方は…」
 ほのかは、龍斗に目を止めると小さく首を傾げた。
「以前、お目に掛かった事が…?」
 その言葉に、京梧は少し驚いてほのかを見た。ほのかもまた、『緋勇龍斗』を知って―――『覚えて』いるのだろうか。
「………」
 しかし、無言で顔を伏せる龍斗にほのかはそれ以上言葉はかけなかった。その様子に奇妙に安堵しながらも、京梧は小さく息を吐いた。俯いてしまった龍斗の様子も気になるし、この場は早めにやり過ごした方が良さそうだった。
「今日はどちらへ行かれるんですか?」
「ちょいと野暮用でな。ほのかちゃんは?」
「私は、お手伝いの為に長屋の方へ」
「あぁ、この間の所かい?」
「はい、先日は手伝っていただいて、ありがとうございました」
「大したこっちゃねェよ」
「いえ、本当に助かりました。また…よろしかったらご一緒して下さると嬉しいのですが」
 ほのかに信頼の眼差しで見つめられて、京梧の背中を一筋の汗が流れる。
 切支丹であるほのかは、長屋の雑用を奉仕活動とやらで手伝っている。京梧も時折手伝うのだが、その献身ぶりは相当なもので、一日付き合った日には確実に翌日は寝過ごす羽目になるのだ。
「ほのかちゃんの頼みなら、いつでも」
 努めてにこやかに言いながらも、強張っている京梧の片頬に気づいているのかいないのか、ほのかは嬉しそうに笑って一礼すると、約束があるからと行ってしまった。或いは、一言も喋らない龍斗を気遣ってそう言ったのかも知れない。京梧はありがたくそれに乗る事にしてまたなとほのかに手を振ると、龍斗を振り返った。
「待たせたな、緋勇…」
 しかし、龍斗は京梧の声を聞いていなかった。なにやら、難しい顔をして考え込んでいる。
 その厳しい表情に、京梧は眉を顰めた。揺るがない信念と、しかしどこか陰りを感じさせる表情は覚えがあった。
 今まで闘ってきた相手―――鬼道衆に共通するものだ。
 わかっている。
 龍斗は『鬼道衆』の一員だ。けれど、承知していてもその事実を見せつけられるのが嫌で、京梧は乱暴に龍斗の肩を掴んだ。以前とは比べものにならないほど顔を合わせるようになったとはいえ、四六時中一緒にいる訳ではない。一緒にいる時くらい、こっちをちゃんと見て欲しいのだ。
「おい!」
 少し声を張り上げると、掴んだ肩がびくりと揺れた。
「い、いきなりおどかすな!」
 驚いたのか、龍斗の声も少し上擦っている。
「呆けてるお前が悪いんだろ?」
 そう言えば、龍斗はちらりと周囲に視線を走らせて首を傾げた。
「…あの子は?」
 どうやら、それすらも見ていなかったらしい。
「帰った」
 一言で片づけると、京梧は眉を寄せたまま訊ねた。
「お前、さっき何考えてた?」
「ああ?」
 何を言われたのかわからなかったのか、龍斗は眉根を寄せて聞き返してくる。
「今、さっき。考え込んで、話しかけても返事しなかったじゃねェか」
「それは、お前が話し込んでたからだろうが」
 憮然と言い捨てた龍斗は、慌てたように付け加えた。
「べ、別に、俺はお前が誰と話そうが、知ったことじゃないけどな」
 少し拗ねたような物言いは可愛かったが、それに誤魔化されるつもりもなく、京梧は眉を寄せたまま続けた。
「さっき、連中の事考えてたんじゃないのか?」
「連中?」
 一瞬考える表情になった龍斗だったが、その指すものに気づいたのか、顔を顰めた。
「そんな事お前には関係ないだろう」
 関係ない、ではない。大いにあるのだ。
「関係あるだろう」
「…どういう意味だ?」
 警戒の色を強く浮かべた表情にも、京梧は引くつもりはなかった。京梧にとっては、大切な事なのだ。
 京梧が欲しいのは、『緋勇龍斗』の関心そのものなのだから。
「どうもこうも…考えるなよ、折角こうしてるのに」
「…は?」
「あのガキや、九桐と一緒の時みてェなツラ、すんなよ」
 警戒が消え、不思議そうに首を傾げる龍斗に、京梧はにやりと笑いかけた。
「俺と居る時は、俺の事だけ考えとけ、ってこった」
 露骨な物言いだったが、流石にこれはもろに通じたらしい。一瞬の後、龍斗の顔は火がついたように真っ赤になった。
 本人も気づいたのか、顔を逸らしてそれを隠そうとしたのだが、首筋まで赤く染まっていれば隠しようがあるはずもない。
 思った以上の反応に、京梧も思わず笑みを零してしまう。
 そう、こんな反応が返ってくるから、京梧は信じていられるのだ。
 曖昧に揺れる、自分の中のもう一つの記憶を。
 その中にある、龍斗の柔らかな微笑みを。
 しかし、効果が大きすぎたのか、赤味の引かない顔に焦れたように、龍斗はくるりと京梧に背を向けた。
「おい、緋勇…」
「お前には、付き合いきれない!」
 捨て台詞のように投げつけて、龍斗は殆ど駆け出す様な勢いで歩き出した。
「おい、ちょ…」
「着いてくるなっ!」
 言い捨てて、龍斗は駆けだしてしまう。その後ろ姿を見送って、京梧は小さく息を吐いた。
 折角良い雰囲気だったのに、今日はここでお預け、らしい。
 しかし、顔を朱に染めた龍斗の様子は、去っていった今でもほんのりと京梧の胸を暖めていた。




 成り行きで住み着いた竜泉寺は、周囲には幽霊寺で通っている。その所為か、日が落ちてからは周囲は通る者もなく、時折得体の知れない獣の声が聞こえる以外はひっそりと静まりかえっている。それでも、寺の主である百合や何かと口うるさい雄慶、他の仲間達が訪ねてきている時はそれなりに賑やかなのだが、今日は誰も居ないせいか、余計に強く静けさを感じる。
 ごろりと畳に横になった京梧は、ぼんやりと天井を眺めてうとうとしていた。普段から夜遊びには厳しい雄慶も、雄慶のような説教はしないものの、時折やっかいな頼み事を寄越す百合も居ないのだから、出かけるのも何をするのも自由な筈なのだが、こんな時に限って何も浮かばない。何より、少々寂しい懐具合では、ちょいと吉原にしけこんで…と言う訳にもいかない。いっそ寝た方がましかと思い始めていた京梧は、覚えのある気配に気が付いてむくりと起き上がった。
 驚くべき事に、躊躇無く庭まで入り込んできたのはやはり龍斗だった。百合や雄慶の不在を承知の上での事なのか、それとも何か思惑があっての事なのか…とにかく、龍斗は一人だった。連れの居る気配もない。
「どうした?こんな時間に来るたぁ、珍しいじゃねェか」
 そう声を掛けた京梧だったが、月光に浮かぶその顔を見た瞬間、思わず眉が寄ってしまう。
「緋勇、お前…」
 龍斗は、何か、酷く思い詰めたような表情をしていた。そして、恐ろしくぴりぴりと緊張している。
「一人なのか?」
 硬い声で訊ねる龍斗に、京梧肩を竦めた。は
「今日は誰も居ねェよ。雄慶はどっかの寺に助っ人で行っちまったし、百合ちゃんは役目とやらで出かけてる」
 龍斗は、それを聞くと酷く不自然な笑みを浮かべて唇を舌で湿した。
「それは、好都合…」
 次の瞬間、龍斗の身体が地を蹴った。
「お前を殺すのに、邪魔が入らなくて済む!」
 その叫びを聞いた時、京梧は龍斗の苦しげな表情の意味を悟った。
 ああ、ついに龍斗が本気で俺を殺しに来たのか。
 そう思っても、不思議と胸は騒がなかった。
 どんなに理由を付けても、龍斗にこちらを見て欲しくて非道い事をしたのは事実だ。そうして、それを非道いと思っていても、京梧は悔いてはいないのだ。だから、報いが来た時はこの身で受け止めるのは当然の事だった。
 飛び込んでくる龍斗の拳を避けることなく、京梧はまともに吹き飛ばされた。

 衝撃で、僅かの間気を失っていたらしい。気が付けば傍らに龍斗の気配があった。
 そうして、喉元に感じる冷たい感触。
 死を迎えるのだと思っても、不思議と恐怖は湧かなかった。
 しかし、喉元の刃は一向に動かなかった。刃を振りかざす気配はしているのに、一向にそれは落ちてこない。
 不思議に思って目を開ければ、先程よりも更に酷い表情の龍斗が、殆ど泣きそうな有様で京梧を見下ろしていた。
「どうした?」
 衝撃の名残か、掠れてしまった声に、龍斗の肩がまともに揺らいだ。
「やらねェのか?」
 重ねてそう問えば、龍斗は縋るような眼差しを向けてくる。その酷く辛そうな表情を見れば、龍斗の真意など容易に知れた。
 自分でも性質が悪いと思ったが、沸き上がる歓喜は隠せない。
 龍斗の表情が辛そうであればあるほど、苦しげであればあるほど、龍斗の迷いは深くいということになる。それは即ち、『賭け』の勝利に近づくということだ。
 しかし、同時に胸を刺す痛みもあった。護りたいと、そう思った相手を、ここまで追いつめているのは他ならぬ自分なのだ。
「言ったろ?お前になら、殺されてもいいってな。だから良いぜ?それで首を掻き切ればいい」
「…………」
「でも、お前は、したくねェんだろ?」
 確信を籠めてそう言えば、龍斗の顔が更に歪んだ。
「……どうして」
「俺とおんなじだからな。そのくらいわからァ」
「そんな、ことは…」
「違うか?」
刃をおろしてしまった龍斗の頬にそっとてを伸ばして京梧は囁いた。
「お前が本当に望むなら、俺の命くらいくれてやるよ。だからもう…そんな顔すんな」
 龍斗にならば、殺されるのもいいだろう。
 これだけ追いつめ、苦しめているのだから報いは覚悟の上だった。しかしそれで逆に、龍斗が傷つくのは嫌だった。
「そんな…しんどそうな顔、すんなよ」
 身を起こしてその顔を覗き込めば、龍斗は苦しそうに呟いた。
「お前は…敵だ」
「…………」
「敵だから…こんな風に触るのはおかしい」
 言い聞かせるようなその声に、京梧は口元を緩めた。
「でも、俺はこうしたい」
「敵だ、から…お前は、俺に辱めを与えたから…だから…」
 必死に言い募る力のない声を遮るように、京梧は笑って告げた。
「俺は、お前に会いたかった」
「…………」
「抱きたかったから、そうした。会いたかったから、お前の気配を感じると探した。やりたいようにやっただけだ。だから、お前がそれを辱めと感じたのなら、刺しな。弱みにつけ込んだのは確かだから、お前にはその権利がある。…お前が、それを望むのならな」
 そう言えば、龍斗は激しく首を横に振って俯いた。その手から、懐剣が高い音を立てて滑り落ちる。
 俯いてしまった龍斗を、京梧はそっと引き寄せた。慰めるように、髪や、額に唇を落とす。
 頬に手を掛ければ、泣き笑いのような複雑な表情を浮かべた龍斗が腕を伸ばして縋り付いてきた。その瞬間、『賭け』に勝利した事を知って、京梧は思いのままにその身体を強く抱きしめた。
 思うさま抱きしめて龍斗を確かめたら、その後で自分の持つ記憶の事を龍斗に話そうと思う。
 それが、龍斗に混乱をもたらすのか、安堵をもたらすのかはわからない。けれど、話す事で、「敵」に心惹かれたと苦しむ龍斗を救う事が出来ればいい。
 何があってももう、きっとこの腕は離せないのだから。
 熱の籠もり始めた息に誘われるように、京梧はもう一度その唇を塞いで漏れる喘ぎを封じ込めた。