柔らかにお互いを探り合うようなキスの後、頬に触れてきた指の冷たさに九龍は我に返った。
「な、なんだよ…」
「汚れてるぞ」
 そう言って、皆守は頬に着いているらしい汚れを指で拭い取っている。頬を撫でられているような感覚と、何より酷く優しい皆守の表情に、九龍の頬にかっと血が上った。
「いいよそんなの…」
「大人しくしてろ、すぐ済む」
 そう言う皆守はどこか楽しげですらある。
 諦めてされるがままになりながら、九龍は赤くなっているであろう己の顔を意識しないようにしてほうっと息を吐いた。
 ほんの何時間か前、この遺跡に最後の調査のつもりで足を踏み入れた時は、こんな展開は想像していなかった。
 データを取って報告書を仕上げ、ここでの仕事に区切りをつけて、この學園を出る。
 そしてここでの出来事は、必要最低限のデータ以外は完全に、なにもかも全部、綺麗さっぱり忘れてしまう。
 特に、今、目の前で柔らかい表情で自分を見つめているこの男のことは絶対に忘れてやる。
 仲良くなった仲間達のことを思うと胸が痛むが、背に腹は替えられない。この男に関することを思えばどうしたって、プロらしからぬ感情に支配され、自分を見失ってしまいそうになる。
 だから、忘れる。―――絶対に。
 そう固く決意していたのに、一体何をどう間違えてこんなことになったのか。
 自分でもちょっと信じられなかったが、気持ちは数時間前よりもずっと楽だった。
 抑え込まれていたものが解放されたような、そんな感覚すらある。
 あの夜からずっと、皆守のことを思うとどうしても冷静では居られなかったのに、今はそんな自分を冷静に見ることが出来る。
 多分それは、九龍の気持ちが皆守の告げた想いと同じところにあるからなのだろう。
 それに気づいてやっと、九龍はあの夜の衝撃から立ち直れたのかもしれない。だから今、こんなにも気が楽なのだ。
 勿論、楽ばかりではない。
 皆守の手を取ることは、面倒や胃が痛くなるような事態が山程待ちかまえていることも意味している。今までのことから考えて、寧ろこれからの方がずっと大変だとも思う。
 それでも、この事態を喜んでいる自分が、照れくさいような恥ずかしいような、変な気持ちだった。

 しかし、念押しはしておかなくてはいけない。

 九龍はようやく頬から手を離した皆守に向き直った。
「ひとつ確認しとくけど…」
 九龍は、皆守の真意を窺うように見た。
「もし…万が一またこの遺跡で何かあったとしても、本当にもうあの時みたいな馬鹿はしないか?」
「もうしない。誓うって言っただろう?」
「阿門が何か言っても、付き合うんじゃなくってちゃんと止められるんだろうな?」
 皆守は苦笑して肩を竦めた。
「信用がないな…。まぁ無理のない話だが、念書かなんか書くか?」
 いつもの皆守と変わらない、少し皮肉めいた言い方に、逆に九龍は安堵した。
「いいよ、信用しとく。出来たばっかの恋人に先立たれて…ってのは洒落にならないけど、恋人を信用出来ないのも問題ありだしな」
 九龍はほっと息を吐いて笑った。
「まあ、もうこの遺跡でそうそう危ないこともないと思うけど、一応気をつけて…どうしたんだ?」
 皆守の様子がおかしいことに気が付いて、九龍は言葉を切った。
 皆守は口元を掌で覆い、気まずそうに視線を逸らしている。
「なんだよ?具合悪いのか?」
「いや、違うんだが…」
 そこでようやく、九龍は皆守の耳が真っ赤なのに気が付いた。
「かお、真っ赤…熱でも出たのか?」
 驚いて言えば、皆守は妙に疲れたように肩を落とした。
「お前…さっきまで小難しい顔して嫌いとか言ってたのに、よく堂々と恋人って言うな…」
 思ってもみなかったところを突かれて、九龍は眉間に皺を寄せた。
「だって、そういうことじゃないのか?お前が好きつって、俺が同意した訳だから。言うだけ言ってそれだけってのはないだろ普通。……って、違うのか?」
 なんとも言えない表情をしている皆守を見ているうちに、九龍は少し心配になってきた。
 九龍は日本人だが、日本で過ごした期間は極端に短い。
 しかも、大人の中で色々な場所を回って、その場その場の流儀を受け容れて生活していた為、母国の同世代の感覚には、はっきり言って自信がない。
 もしかして日本では告白の次には何か踏むべき段階があるのかもしれない。
 九龍の感覚では、気持ちが通じ合って合意すれば、その後は恋人と呼んでなんの差し支えもない。
 それがこんな反応を返されてしまうと、妙に不安になってきてしまう。
「甲太郎?」
 いつの間にか顔を下に向けてしまっている皆守を覗き込もうとすると、不意に強い力で引き寄せられた。
「おい…」
 その身体が小刻みに震えているのに気が付いて、九龍は焦る。
「どうしたんだよ、いきなり。もしかして…」
 泣いてんのかと言いかけて、押さえきれずに低く漏れる声に気づく。
「お前、何笑ってんだよ」
 それを切欠に、皆守はぷっと吹き出した。
「はははははっ」
「甲太郎…喧嘩売ってんのか?」
 しっかりと肩に手を回したまま馬鹿笑いを続ける皆守に、九龍は眉を顰める。
「悪い。なんというか…ちょっとツボに入ったんでな」
 ひとしきり笑いを爆発させたあと、皆守は目尻を押さえながら少し身体を離した。
「俺も、恋人として一つ質問がある」
 笑いの余韻は残しながらも、意外に真剣な顔をしている皆守に、九龍はちょっと首を傾げた。
「なんだ?」
 恋人としてとわざわざ断られると、心当たりがない。危ないからハンターを辞めろとは言わないよな等と考えていた九龍だったが、皆守の口から出たのは意外な言葉だった。
「俺の部屋とお前の部屋、どっちがいい?」
「部屋?」
 何のことを言われたのか解らずに聞き返すと、言葉の代わりに、皆守の指が柔らかく肩から腰へと滑った。
 その動きだけで質問の意味を悟った九龍の顔に、かっと血が上る。
「い、いきなり何を…」
「恋人としての当然の欲求だと思うがな?」
 先程の赤面振りが嘘のように、皆守はさらりとそんなことを言う。
 確かにそういう話になってもおかしくはないが、なにも恋人になったその日にそこまで急がなくてもいいのではないか。
 ちょっと待てよと言いかけて、九龍は気づいた。

 明日の朝には、協会からの迎えが来る。

 次に何時戻ってこられるかは、九龍自身にもわからないのだ。
 そして脳裏に、綺麗に片づけてきた寮の部屋が浮かぶ。
「…じゃあ、お前の部屋で」
 暫く逡巡した後でそう言うと、皆守は少し目を見張り、それから酷く優しい目で笑った。




「もうひとつ聞いておきたいことがあるんだけど…」
 部屋に入るなりそう切り出した九龍に、皆守は少し眉を寄せた。
「なんだ?」
「お前、いつから、俺のどの辺を好きになったわけ?」
 正直なところ、九龍は面と向かって言われるまで、皆守の気持ちには全然気がつかなかった。
 というより、考えてなかったと言うべきか。
 この學園で過ごした三ヶ月強の時間は、決して長い時間とはいえない。
 その中で、皆守を怒らせたことも、呆れさせたことも何度もあった。
 しかし、皆守はなんのかんのと文句を言いつつもそんな自分に付き合ってくれた。
 それは単に、皆守が自分で思っているよりもずっと良い奴だからなのだと九龍は思っていた。
 最後に『好きだ』と来るとは本当に予想外だったのだ。
 かなり勝手気ままに振る舞ってきた自覚のある九龍としては、皆守が自分のどの辺りに惹かれたのか、非常に興味があったのだ。

 皆守は、しばらく黙っていた。

 その表情がどんどん複雑なものに変化していくのを目の当たりにして、九龍は妙に心配になってきた。
 結果、皆守がようやく口を開いた時、九龍はかなり身構えてしまっていた。
「まず、無鉄砲だな」
「……それは認める」
「それから、人の話を聞かない」
「………耳が痛い」
「意味もなく楽天的で、肝心な時にミスを犯す傾向がある。後先を考えない」
「………………」
「こうと思ったら、とことん突っ走る。他人の都合はお構いなしでな」
「……………………」
「妥協を知らないから、つっこみすぎて大怪我も多々、だな」
「あのな!」
 ついに黙っては居られなくなって、九龍は口を挟んだ。
「俺は、俺のどこに惚れたのかって聞いたのであって、俺の短所を聞いた訳じゃないぞ!」
 ぎっと睨み付けても、皆守はまるで動じなかった。
「だから、そういうところにだ」
 そう言って笑った皆守の表情は、今までに見てきたどんな表情とも違っていた。
 穏やかで柔らかで、何よりとても幸せそうな微笑み。
「あーもう!」
 一気に顔に血が上ったのを誤魔化すように声を上げて九龍は皆守へと手を伸ばした。
「そういうのは、褒めてることにならないって覚えとけ」
 皆守を包み込むように腕を伸ばして、その身体をしっかりと抱きしめる。
「でもまぁ、今はそれで誤魔化されといてやるよ」
 そう言えば、応えるように背中に腕が回される。
 だが、その手は何故か肩へ置かれて九龍の身体をそっと離した。
「…甲太郎?」
 訝しげに名前を呼ぶと、皆守は眉を顰めて着込んだままのアサルトベストを引っ張った。
「この物騒なものを脱げ」
 下手に触って爆発でもされたらごめんだと仏頂面で言う皆守に、九龍は自分の胸元を見下ろしてみる。
 確かに、ニトロマイトが二個ほどぶら下がってはいるが、さっきはそんなことを気にした風ではなかったのに。
「さっきはこの上からがばっとやったのに」
「脱がし方がわからないんだよ」
 間髪入れずに返ってきた答えに、九龍はなるほどと納得した。
 確かに、アサルトベストは簡単には脱げないように少し特殊な細工がある。
「脱ぐのはいいけど…俺、さっきまで遺跡の中に居たんだぞ?シャワーくらい浴びたいんだけどな」
「却下」
 一言の元に切り捨てられて、諦めてベストに手を掛ける。
 これを脱がないとはじまらないのだと、そう考えると照れはあったが、九龍はなるべく考えないようにそれを脱いでそっと床に落とした。
 途端に伸びてきた手に顎を掬い取られ、唇が重ねられる。
 するりと入り込んできた舌が、歯列の裏を辿り、九龍のそれを柔らかく絡め取る。
「ふ…っ」
 ぞくりと背を走る感覚はキスの所為だけではなくて、気が付けばシャツの前は全開だった。
 一方的な行為に文句を言おうにも、顎を掴む手の力は強く、何よりも唇は完全に皆守の支配下にあった。
 いいように嬲られて、時折きつく吸われる。
 そこからじわりと押し寄せる心地よさの波が、九龍の思考を侵食してしまう。
 ようやく唇が解放された時、既に九龍のシャツは肩から落ちかかっていた。
「甲太郎…っ!もう少し加減しろ!」
「加減?」
 九龍の抗議に、何故か皆守はふっと口の端を上げた。
 その、皮肉っぽくも面白そうな笑みは、九龍には嫌という程覚えがあった。
 こういう表情をする時の皆守は、開き直っているか、ろくなことを言わないかのどちらかなのだ。
 案の定、皆守は妙に嬉しそうに笑って言った。
「なんだ、優しくして欲しいのか?」
「…………っっ!」
 咄嗟にがくりと力が抜けそうになった膝を必死に支えて、九龍は吠えた。
「あのなあ、誰がそんなことを言った!自分だけ勝手にさくさく進んでいくなって言ってんだよ!」
 九龍にだってプライドというものがある。例え呼び方が『恋人』に変わったとはいえ、つい先日までの『親友』に一方的に剥かれていいようにされました、というのは流石に引っ掛かるものがあるのだ。
 ぎっと睨み付けてやったのだが、皆守にまるで動じた様子はない。
 それどころか平然と、
「こういうのは、早い者勝ちだ」
 きっぱりと言い切られ、絶句している間にいつの間にか背をベットに押しつけられていた。
「あのな、甲太郎…」
「冗談だ」
 そのまま流されるのはどうにも業腹で、更に抗議を続けようとした九龍だったが、抵抗は続かなかった。
「ただ、我慢出来ないだけだ」
 その低く掠れた低音と、
「だから、自分のペースを守りたけりゃ、俺以上に焦がれてみろよ」
 薄く上がった口の端とは裏腹の酷く飢えた眼差しに、九龍の抗議は飲み込まれてしまう。
「もっとも、そんなのはどう足掻いたって無理な話だと思うがな」
 勝手に決めつけるなと、そう言ってやりたかったのだが、再び落ちてきた唇に、言葉は口の中で消えた。


「あ…っ」
 首筋を辿る生暖かい感触に、自然と唇が解ける。
 その間にも、少し冷たい皆守の手が、柔らかく、だが容赦なく九龍の身体をまさぐっていた。胸を掠め、脇腹を辿り、ベルトを片手で器用に外してしまう。
「ちょっと…待てって…っ」
 負けて溜まるかと九龍も手を動かしたりしてはいるのだが、悲しいかな、ようやくシャツの前を外した頃には殆ど裸に剥かれてしまっていた。
「九ちゃん…」
 低く呼ばれると同時に、熱く凝りはじめている自身を掌で包み込まれて、九龍は呻いた。
「く…っ」
 右手は相変わらず剥き出しになった肌の上を滑っているのに、左手は器用に根元から先端に指を絡めて九龍の熱情を引き出していく。
「ああ…ん…っ」
 全身が朱に染まるに従って、皆守のシャツがひらりと肌を掠めていくのにすらびくりと身体が反応してしまう。
 最初は冷たかった皆守の手が、今は酷く熱かった。
「ちょっと…くぅ…っ」
 焦らすことなく敏感な部分を強く擦り上げる指の動きに、九龍は絶えきれず声を上げた。
「まず…出るって…っ」
「いいから、出しとけ」
 その囁きすら刺激になって、九龍はぎゅっと目を閉じた。
「―――っっ」
 殆ど一直線の勢いで追い上げられ、一瞬反るように身体を浮かせた九龍はそのままベットにどさりと倒れ込んだ。
 一気に上り詰めた所為か、息が上がり、力が抜けた身体に意識の方が追いついていないような感じがする。
「甲太郎…」
 これは流石に一方的すぎると息を整えながら目を開けた九龍の視界に、とんでもないものが映る。
「ちょ…ストップ…!」
 殆ど懇願の響きを滲ませた制止だったが、皆守はそれを聞いてはくれなかった。
「く…ぁっ!」
 熱を吐き出したばかりの余韻も冷めやらぬ自身を暖かく柔らかいものが包み込む。
 舌を這わせるだけでは飽きたらぬと言わんばかりに、皆守は唇でそれを挟んだ。
「甲太郎…っ!このば…か…!」
 初っぱなからここまでやるかとか、少しはこっちのことも考えろとか、言ってやりたいことは色々あったのだが、舌で扱かれ、歯を立てられては言葉などまともに紡げない。
「はな…せ…こら…っ!」
 流石にこのままもう一度…は避けたい。
 避けたいのだが、皆守にはまるで容赦がない。
「んん…っっ、ふ…っ」
 先端に歯を立てられる感触に震える腕をどうにか動かして髪を思い切り引っ張ると、ようやく皆守は顔を上げた。
「九龍?」
 上から覗き込んでくるその顔に浮かぶ色に、九龍はごくりと唾を飲み込んだ。
 あの夜、最終決戦の場で九龍を見据えた、昏く、どこか狂おしいものを秘めた瞳が目の前にある。
 あの時とは異なる、けれどとてもよく似た視線に捕らえられて、九龍はもう一度唾を飲み込んだ。
 ここで逸らしたら、この先ずっと弱味のようなものを感じてしまうような気がして。
 そんなのは無理な話だと皆守は言い切ったが、自覚はなくても九龍にも葛藤はあったのだ。
「お前…勝手に決めつけて、ないで…」
 精一杯の意地で、その瞳を見つめ返して、
「来いよ…焦らすな…っ」
 整わない息の下からどう言ってどうにか笑ってみせると、皆守の視線がふっと緩んだ。
「熱烈なお誘いだな」
 俯せになるよう促されて身体を入れ替えると、首筋に微かな痛みが走った。
「あ……っ」
 噛まれたのだと理解する前に、そこをぺろりと嘗め上げられる。
「くすぐった…っ」
 その感触に耐えている間に、ぬるりと湿った指が奥の蕾に触れた。
「………っっ」
 指が入り込んでくる感触は、覚えのないものだけに身体が強張る。指一本で掻き回されるのも苦しかったが、九龍は歯を食いしばって首を振った。
「だから…早く来いって…」
 先程から腰に触れる熱い固まりが九龍を駆り立てている。
 手を伸ばして触れたいのだが、俯せになった今の状態では、それもままならない。
「甲太郎…っ!」
 もう一度急かすように名を呼ぶと、指の代わりに熱いものが押し当てられる。
「く……あぁぁ…っ」
 焼けるような熱と痛みが下肢を裂く。
「きつい…か?」
 覗き込まれて、九龍は緩く首を振った。
「少し…ゆっくり……」
 そう言って、九龍はきつく目を閉じた。
 繋がった部分から熱く、痛みの混じる鋭い感覚が全身に広がる。
 じわりじわりと、だが確実に、絡め取られていくように侵食されていく。
「ん…っ…ああ…っ」
 熱い楔に繋ぎ止められて、焦がされているのは自分の方だと九龍は思う。
 観客の振りをして勝負を避け、そのくせクライマックスに大勝負を仕掛けて失敗した根性ナシのギャンブラーの癖に、最後の手札は最強だというのは絶対に反則だ。
「いい、か?」
「こう…た…ろう…っ」
 いつの間にか、九龍を貫く楔は動きを変え、深く抉るように貫かれて同時に前を嬲られる。
「あ…あっあっ」
 痛みと熱さと快楽が同時に押し寄せて、シーツを掴む手に力が籠もる。
「く…っ」
 自分の中を熱いものが満たしていく、その感覚に堪えきれずに弾けたものが腹を濡らすのに九龍はぶるりと震えた。
「九龍…」
 皆守は、身体を繋いだまま、突っ伏した九龍の背に唇を寄せてくる。
 どくんと、繋がった部分が熱く脈打ったのを感じて九龍は深い息を吐いた。




 暖かい気配がそっと離れていくのを感じて、皆守はうっすらと目を開けた。
 まだ暗い室内で、さっきまで傍らにあった温もりの主が、音を立てないよう静かに動き回っている。
 衣擦れの音とかすかな金属音の後、その気配はもう一度ベットへと戻ってきた。
 目を閉じて寝たふりをする皆守の顔を、じっと見つめている気配がある。
 不意に頬に暖かいものが触れ、柔らかな感触が唇を軽く掠めた。
「もう…行く。またな」
 そう言って離れて行く気配を、皆守は腕を逃して捕まえた。
「甲太郎…」
 目の前には、驚いたような九龍の顔がある。
「次の仕事か?」
 そう尋ねると、九龍は複雑な表情をしたものの、はっきりと頷いた。
「もうすぐ、協会の迎えが来る。もう行かないと」
「何も言わずに行くつもりだったのか?昨日の今日で、ずいぶん薄情だな」
 茶化すように言うと、九龍の顔が赤く染まり、次いで微妙に歪んだ。
「仕方ないだろう。昨日の夜まで、黙って行くつもりだったんだから」
 それに関しては、皆守も立場が弱い。
 苦笑すると、更に九龍がぼそぼそと続けた。
「協会の迎えは基本的には無料なんだけど、こっちの都合で変更したら実費を取られるんだよ。飛行機の燃料は馬鹿みたいに高いから、出来るだけ避けないと…って、何笑ってるんだよ!
 九龍の言葉が終わらない内に、皆守はベットに突っ伏して笑い出してしまっていた。
「実費…ねぇ。おまえらしいな」
 そういいながらも笑い続ける皆守に、九龍が憤然と叫ぶ。
「お前な!そうやって笑うけど、一回のチャーターで一体幾らかかるのか知ってんのかよ。絶対馬鹿には出来ない金額なんだぞ」
「別に馬鹿にしてる訳じゃないさ」
 くつくつと笑いながら、皆守は肩を竦めた。
 皆守はただ、九龍の様子が以前と変わらないものに戻ったことが嬉しかったのだ。

 皆守の知っている、素のままの葉佩九龍。

 あの夜無くしそうになったそれを今度こそ見失わなければ、たぶん離れていても大丈夫だ。
 今ならばそう思える。
 まだむくれている九龍の身体を引き寄せて、皆守は言った。
「必ず、帰ってこい」
「甲太郎…」
「卒業までにはまだ間がある。必ず、またここに帰ってこい。待ってるから」
 九龍は少し驚いたように目を見開き、それから鮮やかに笑った。
「ああ、必ず、帰ってくる」
「そうしてくれ。でないと俺もちょっとやばいことになる」
「やばいこと?」
「お前、八千穂やら外の面々に何も言ってないだろうが」
「あ……」
 眉を寄せる九龍は、そのことを今の今まですっかり忘れていたらしい。
 いくらまた戻ってくるとはいっても、八千穂や神鳳、白岐辺りから話が広がって、仲間たちに責められる展開になるのは皆守も想像がつく。
 その辺りを考えると、九龍には何が何でも戻ってきてもらわなければならない。
 なによりも皆守自身が、まだこの學園で九龍と共に時間を過ごしたかった。
「ああ、ちゃんと帰ってくる。お前のところに」
 九龍は、皆守の唇に軽く口づけてくすりと笑った。
「なんか、昨日はいいように扱われたような気がするから。今度会う時はリベンジ、覚悟しとけよ。今度は絶対勝ってやる」
 徒っぽく艶めいた笑みに、皆守もにやりと笑って返した。
「それこそ、そんなのはどう足掻いたって無理な話だと思うがな」
 
イベントで配布にしたのにアダルト部分(笑)を追加しました。
や、本当はここまで書いて本にするはずだったのに、時間が足らなかった…