『彼』は、今までに出会ったことのないタイプの人間だった。

 何事にも無関心で、折り紙付きの”不健康優良児”。

 そんな、紹介されたとおりの人間だと思ったのは最初だけで、じきにそうではないことに気が付いた。

 無関心な風で、実は興味深くこちらを観察しており、突き放しているようで、その実とても優しい。

 見た目通りではない人間など珍しくもないが、その中でもとびっきり変わっている。

 そう、感じた。

 その人となりをより深く知るにつれ、それには何か事情があるのだろうとは思った。

 けれど、その頃には面と向かって聞いても答えはしないだろうということも解るようになっていたから、待つことにした。

 自分に出来ることは、いずれやってくるであろう時にその事情を正面から受け止めることだけだったから。

 そして、最後の扉の前に立った時、ようやく彼は話してくれた。
 最後の扉の前でというのがいかにも腰の重い彼らしかったが。

 迷いを口にしながらも、全力で挑んできた彼に手を抜くことは出来なかった。

 全力で受け止めたつもりだった。

 受け止めることが出来たと思った。

 これまで、ずっとそうしてきたように。

 けれど、それは間違いだった。

 最後の最後にそれを突き付けられた時―――

 九龍は初めて、自分の進んできた道に疑問を持った。






 

「あ、来た来た。皆守クン、こっちこっち!」
 マミーズに入るとすぐ、聞き慣れた声が皆守を呼んだ。
 見れば、八千穂が奥の席で大きく手を振っている。傍らには、九龍と神鳳という少々変わった組み合わせが腰を下ろしていた。
「お前な…一体何回メール寄越せば気が済むんだ」
 朝から何度も同じようなメールを寄越され、安眠を妨害された皆守の口調は苦い。
 しかし、八千穂は皆守の抗議をものともしなかった。
「だって、返事がないから届いたかどうか心配でさ。学校も休みに入っちゃったし、男子寮は女子禁制だし。ほっといたら、皆守クンお昼過ぎまで寝てそうだから丁度良かったじゃない」
「……俺は、休みの日までお前に叩き起こされる理由はないと思うんだがな」
 しかし、皮肉な呟きを八千穂は既に聞いていない。注文を頼むべく店内に響き渡る声で奈々子を呼んでいる。
 少なからず力の抜けた皆守に、座っていた九龍がちょっと笑って声を掛けた。
「座れよ。折角来たんだ。昼飯まだなんだろ?」
「ったく、なんであいつはああも無駄に元気なんだ…」
 そう零しつつ、促されるままに腰を下ろした皆守は神鳳を見て片眉を上げた。
「随分珍しい顔だな」
「入り口の所で偶然ばったり会ったんですよ。折角なのでご一緒させてもらおうかと」
 にこりと笑う神鳳の笑顔に邪気はないが、皆守もそこそこ、この相手とは付き合いがある。それが偶然だったとはとても思えなかった。
「偶然、ねぇ…」
 神鳳は、以前から生徒会の業務やら何やらで多忙な身だ。特に今は、《墓》の後始末に追われていて、こんなところに顔を出す暇は無いはずなのだ。
 ちらりと傍らの九龍を窺ってみるが、特に気にした風もなく、
「確かに、神鳳とマミーズで会うのは初めてだな」
 なぞと言いながら、にこやかに笑っている。
 しかし、その笑顔に何処か硬さを感じて、皆守はまじまじと九龍を見た。それに気づいた九龍が、何気ない風に視線を逸らす。
 そこへ、奈々子が注文を取りにやってきた。
「お揃いですか?ご注文は―――」
「あたし、ハンバーガー!」
 何故かやたらとテンションの高い八千穂が片手を上げる。
「鮭定食をお願いします」
「カレーライスだ」
「俺は…」
 九龍が口を開いたその時を見計らっていたかのように、軽快な電子音が響いた。
 端末を取りだし、確認した九龍の表情が曇る。
「ごめん、ちょっと用が出来た」
「九ちゃん?」
「また今度な!」
 止める間もなく、九龍は慌ただしく出て行ってしまう。
「…九龍君は、随分忙しそうですね」
 その慌てぶりに驚いたのが、神鳳がぽつりと漏らす。
「…………」
 パイプを銜えて火を点けようとした皆守の目に、先程とは打って変わって硬い表情の八千穂が映る。
「やっぱり…」
 眉間に深い皺を刻み、九龍の去った方向を見ていた八千穂は皆守を振り返ると噛み付くように言った。
「やっぱり、おかしいよ!皆守クンもそう思うでしょ?」
 その剣幕に、皆守は思わずたじろぐ。
「ああ?」
「ずっと、何かヘンだと思ってたけどやっぱり何かヘン。あんな風に行っちゃうなんて、絶対に何かあるよ。仕事のこと?でも、困ってるんならどうして何も…」
「ちょっと、待て!最初から話せ」
 立て板に水の如く喋りだした八千穂にようやく口を挟むと、八千穂はぴたりと口を閉ざした。
 その、悩んでいるような苦しそうな表情に、皆守は溜息を吐いた。
 八千穂のこういう表情を見るのは初めてではない。
 普段が明るい八千穂には珍しい表情なのだが、それだけに見る者に与えるインパクトも大きい。
 そして皆守は、この表情がどうにも苦手だった。
「聞いてやるから、落ち着いて話せよ。すっ飛ばして話されても訳がわからねぇだろ」
 皆守の静かな声に、八千穂も少し落ち着いたようだった。
「うん…ごめんね」
 水を一口飲んで喉を潤すと口を開く。
「九ちゃん…様子がおかしいと思わない?」
 大体予想通りの言葉に、皆守は息を吐いて逆に聞き返した。
「なんでそう思う?」
「だって…私、昨日も誘ったんだよ?昼も、夜も今みたいに用が出来たって行っちゃって…」
「九ちゃんだって、忙しい時だってあるだろ。特にここんとこはばたばたしてたしな」
「だって、奢るって言ったんだよ?食べずに行っちゃうなんて絶対おかしいよ!」
「…なるほど」
 それを聞いてようやく、皆守は八千穂の焦燥を理解した。
 九龍はとにかく金銭感覚が大雑把で、『本業』に励む余り、財布が空という事態に陥る事も珍しくない。
 探索依頼などでそれなりに稼いでもいるはずなのだが、『宝探し屋』の装備維持には何かと費用が嵩むらしい。
 当然、そのしわ寄せは日常生活にくることになる。
 遺跡で見つけた怪しげなものをせっせと組み合わせて食用にしていたくらいなのだ。
 その九龍が、奢られる機会を自ら放棄するというのがいかに異常事態なのか―――傍にいた人間ならば理解出来る。
 八千穂は眉根を寄せたまま続けた。
「一度ならともかく、二度三度と続くのはおかしいよ。いつもの九ちゃんなら、用があっても食べてから行くよ、絶対」
「…………」
「それにね、それ以外にも何ていうか…雰囲気が何かおかしいって言うか」
 八千穂は少し逡巡したようだったが、顔を上げて皆守をまっすぐに見た。
「あの時、墓地から帰ってきてから。皆守クン、あそこで…何があったの?」
「………………」
 何と答えていいか判断に悩み、皆守は深く煙を吸い込んだ。
 あの時―――あの最後の闘いの場に居合わせたのは、皆守と阿門、白岐と九龍の四人だけだった。
 九龍は何故か、他のバディを連れずに地下に潜ったのだ。
 派手に崩れた遺跡といい、その遺跡からの摩訶不思議な脱出劇といい、同行しなかった面々が詳細を聞きたがるのは無理のない話だ。
 だが、九龍は「終わったんだ」というだけで詳しい話はしなかった。
 九龍が何を思って沈黙しているのかはわからない。
 皆守も、敢えてその話をしようとは思わなかったし、何より話す機会がなかったのだ。
「別に、何もないさ。親玉を九ちゃんが倒して、それで終わりだ」
 真実をそのまま話すことも躊躇われ、そう片づけた皆守を八千穂は疑わしそうな目つきで睨んだ。
「白岐サンに聞いたら、私の口から話せることじゃないから皆守クンに聞けって言われたもん」
 皆守は辛うじて舌打ちを堪え、代わりに頭を掻いた。
「別になんもねぇよ。白岐は後から来たから、その前の事は俺に聞けってことじゃないのか」
「………本当に?」
 そう言いつつも、八千穂の目は完全に皆守の言う事を信じていない。
 その時、それまで沈黙を守っていた神鳳が口を開いた。
「八千穂さん、九龍君のことはやはり九龍君本人に聞いた方がいいと思いますよ」
「え…?」
 八千穂が驚いたように神鳳を見る。
 沈黙を守っていた神鳳のことを、殆ど失念していたらしい。
「九龍君の様子がおかしいと思っていて、それを確かめたいというのなら、本人に確かめてみるのが一番です。そうでしょう?」
 神鳳は、場の空気に溶け込むことも上手いが、穏やかに言葉を紡いで相手を論破することにも長けている。
 穏やかな微笑みで言い切られ、八千穂は首を傾げた。
「でも、九ちゃん約束してもさっきみたいに行っちゃうし…」
「だから、こちらから行くんですよ。九龍君は校外に出ている訳じゃない。寮に居なければ校内の何処かでしょう。なんなら、寮の方は僕が見てきましょう」
「そっか、捕まえればいいんだよね!」
「墓地は入り口が崩れていて入れませんから。それ以外となると場所も限られます。ここで、このわからない人と不毛な口論を繰り返すよりよほど建設的だと思いますよ」
「おい…わからない人ってのは、どういう意味だ」
 皆守の抗議はあっさりと無視される。
 八千穂は目的を定めたことで安心したのか、目を見張る勢いで注文した運ばれた昼食を平らげると立ち上がった。
「じゃあ、男子寮の方はよろしくね!居なかったら校舎の方で手分けして探そうよ。三人居ればそんなに時間もかからないだろうし…」
「ちょっと待て、なんでそうなる?俺は行くなんて一言も…」
 いつの間にか頭数に入れられている事に、慌てた皆守が口を挟むが、八千穂は迫力満点の笑顔で返した。
「皆守クン、ここで抜けるなんて友達甲斐のないこと言わないよね?」
「いや、だから…」
「言わないよね?」
「…………」
 有無を言わせない迫力に抗しきれず、皆守は渋々頷いた。
「ちっ、わかったよ…それで気が済むんなら付き合ってやる」
「えへへ、ありがと。じゃあ、私先に行くね!成果をメールするから!神鳳クンもよろしくね」
 嬉しそうに笑うと、八千穂はマミーズを飛び出して行った。
 残された皆守はやれやれと溜息を吐いて、神鳳を睨んだ。
「お前が余計なことを言ってくれたお陰で、俺までとばっちりを食う羽目になったじゃねえか」
 優雅な手つきで食後のお茶を楽しんでいた神鳳は、片眉を上げて面白そうに皆守を見た。
「おや?助け船を出したつもりだったんですが、余計なことでしたか」
「どこがだよ、ったく…」
 苦い表情の皆守に、神鳳はちょっと笑った。
 しかしすぐに笑顔を消して真顔になる。
「それに、九龍君のことが気になるのも事実です。話をしたいと思っていたのに、逃げられてしまいましたし」
「…………」
 視線でその先を促すと、神鳳は淡々と続けた。
「昨日の夜、姿を見かけたんですよ。どうも墓地に行っているらしい」
「墓地?」
 墓地のある一帯は、今は瓦礫の山の筈である。
「あそこは入り口が崩れちまって、今は入れないだろうが」
「ええ、その筈です。今朝も見に行ってみましたが、少なくとも見た目は出入り出来る状態じゃない。瓦礫をどけないと無理でしょう」
「お前の勘違いじゃないのか?見間違いとか、たまたま通りかかっただけとか」
 しかし、神鳳は首を振った。
「いいえ、僕が見たのは装備を揃えていた九龍君です。この學園に銃の携帯が必要な場所など他にないでしょう」
「そりゃそうだが…」
 皆守は首を傾げた。
「もし、仮にそうだとしても、別に構わないだろう。何か、問題があるのか?」
 墓地―――遺跡に封じられていたものは天へと還っていった。
 九龍がなんの思惑で再び遺跡に足を向けるのかは知らないが、何か理由があるのだろう。それを今更《生徒会》が止める理由はない筈である。
 神鳳は硬い表情のまま頷いた。
「ええ、こちらに問題はありません。しかし…」
 そこで言葉を切って、神鳳は皆守を窺った。
「貴方は九龍君が墓に行ったことを知っていましたか?」
「いいや?初耳だ」
「ならばやはり問題です。昨夜九龍君と行動を共にした人間はいない。彼は…一人で潜ったことになる」
 皆守はちょっと考えたが、じきに首を振った。
「それがどう問題になるんだ?たまたま一人でってことじゃないのか?お前が顔色を変える理由には弱いと思うがな」
 わざとからかうように言った皆守に対して、神鳳ははっきりと否定した。
「言ったでしょう、崩れた墓場に出入りの後はない。痕跡を消してるんです。そして、連れて行った人間もいない。つまり、九龍君は墓場に出入りするのに人目を憚っていることになる」
 神鳳は真剣そのものだったが、皆守にはその態度の理由がよく理解出来なかった。
「それこそ、お前の見間違いだろう。なんで今更そんなことをする理由がある?」
 九龍は《生徒会》との対立していた時も、墓場に出入りすることを取り立てて隠したりはしていなかった。
 勿論、ある程度の用心はしていたらしいが、時々その遠慮のなさに呆れる程、大胆に振る舞っていたのだ。
 それを今になって、こそこそと隠すことなど考えられない。
 というより、意味がない。
「だから、おかしいんですよ。そう思いませんか?」
皆守は少し考えて答えた。
「そこまで言うなら付き合ってやるよ。どうせ八千穂の奴にも言われてるしな。それで勘違いがはっきりすれば、お前も八千穂も気が済むだろう」
「ええ、勘違いだったらいいんですが…」
 神鳳はなんとも言えない表情で言葉を継いだ。
「阿門様はそうは思わなかったようです」
「阿門が?」
「ええ、僕がこの話をすると、暫く考え込んだ後、九龍君を呼んできて欲しいと。あの方は後始末でまだ自由には動けませんから」
「……………」
「阿門様には心当たりがあるようですが、話しては下さらなかった。だから敢えて、貴方に聞きます。あの時―――一体何があったのか」
「お前もそれを聞くのかよ…」
 舌打ちした皆守だったが、神鳳はじっと視線を当てて動かない。
 八千穂は知らない『事情』を知っている分、神鳳の問いからは逃げにくかった。
 しかし、正直に話すのも業腹で皆守はパイプを銜えた。
 ゆっくりと煙を吐き出して何と答えるべきか思案していると、見ていた神鳳が大きな溜息を吐いた。
「喋る気はない、ということですか」
 そうではなく、単になんと言えばいいのかわからないだけなのだが、言わずに済むならそれに越したことはない。
 皆守が黙っていると、神鳳は一口茶を含んでから口を開いた。
「実は、大体の所は想像出来るんですけどね」
「…………」
「貴方のことだから、九龍君と闘ったのでしょう?彼が余人を交えなかったのもその辺りが理由でしょうし」
「…俺は、誰も連れて行くななんて言ってないぞ」
 寧ろ、皆守は地下に降りる前に誰か連れてこいと言ったのだが、九龍は危険だからと言って聞かなかったのだ。
 そこだけは黙っていられなくて口を挟んだのだが、神鳳はあっさりと頷いた。
「誰も貴方がそうさせたとは言ってませんよ。九龍君なりに気を使った、というところですか」
「…………」
 そうではないか、とは思っていたのだが、はっきりと第三者に言われるとやはり、重い。
 九龍は皆守が隠してきた事に気が付いていたのだ。
 皆守と対峙した時、九龍は短くその理由を問うた。
 そして、どうせ止めても聞かないんだろうと言って皆守と闘うことを承知した。
 避けられない闘いの時には必ず二人は連れて行く仲間を、あの時に限って連れて行かなかったのは、恐らくそれを予期していたから。
 皆守の立場を、慮ったのだろう。
 それを思うと、終わってしまった今でも皆守の胸は痛む。
「…手加減抜きでやったからな。あいつがおかしいってのはその辺りが原因かもな」
 自嘲を籠めてそう呟くと、神鳳は静かに首を振った。
「九龍君はそれが後をひくような人ではないでしょう。現に僕も、彼とは闘っている」
「お前と俺じゃ、立場が違うさ」
 最初から立場をはっきりとさせていた他の面々と、最後の最後、本当に追い詰められるまで本当のことを言えなかった自分。
 先程感じた、九龍の妙に硬い笑顔が思い出された。
 墓から脱出した後、九龍とは二言三言言葉を交わしただけである。
 九龍がこの場から逃げ出したのは、自分を避けてのことだとしたら―――
 そう考えるのは恐ろしく苦いことだったが、自業自得である以上仕方ない。
「やっぱり、俺は行かない方がいいだろう。俺がいなければ、九ちゃんも逃げ出しはしないだろうさ。八千穂には適当に言っておいてくれ」
「さあ、それはどうですか…」
「…………?」
 神鳳はなんともいえない表情になる。
「大体は想像出来る、と言ったでしょう?九龍君の変調は、貴方と闘ったことよりも寧ろ、その後の事に原因があるのではないですか?」
 皆守が鋭く神鳳を見た。
「……阿門に聞いたのか?」
「あの方は何も言わなかったと言ったでしょう。けれど、戻らなかった時の指示を貰いましたから。あの方の覚悟は伝わってきた」
「…………」
「そして、貴方が意外に義理堅い事も、知っているつもりです。それを考えれば、何があったのか―――聞かなくても想像出来ますよ」
 そう言うと、神鳳は立ち上がった。
「貴方の言うとおり、僕と貴方では立場が違う。九龍君ときちんと話が出来るのは貴方だけだと思いますけどね」
「そういう訳ですから、逃げないでください。逃げたら八千穂さんに言いつけますよ」
 表面上はにこやかに、しかし言葉裏に凄みを籠めてそう言うと、神鳳は行ってしまった。
 取り残された形の皆守は、火の消えたパイプを噛みしめて目を閉じた。
 神鳳が匂わせていることはわかる。
 墓場と運命を共にしようとした阿門と、それに付き合うつもりだった皆守。
 二人の思惑は、最後に双子が現れたことで外れてしまったが、皆守はその選択を今も後悔してはいなかった。
 そうするしかないと。
 例え九龍が皆守を倒し、その上で手を差し伸べてくれたにしても、自分達のやったことが消え去る訳ではないのだからと。
 今でもその気持ちは変わっていない。
 実際は思わぬ出来事で命を拾う結果にはなったのだが。
 じゃあな、と、そう言った時に九龍の顔に浮かんだ、ぽっかりと何処かへ落ち込んでしまったかのような表情が瞼の裏に蘇る。
「ちっ……」
 皆守は舌打ちして目を開けた。
 こそこそと行動を隠して墓場に出入りしているというのは神鳳の勘違いだとしても、九龍の態度に違和感があるのは皆守も感じたことだ。
 もしそれが自分に端を発することなら、きちんと向き合うのは皆守の義務のはずだった。



 九龍はやたらと早鐘を打つ心臓を無理に抑え込んで、屋上への階段を上っていた。
 幸いにして、人気のない校舎の中では変色しているであろう顔を誰かに見られることもない。
 あの時、あのタイミングでメールが入ったのは本当に助かった。
 あのまま、横に座って何気ない話をしながら食事をする―――その簡単なことが、今はとても難しかった。
 顔を見ると、思う存分罵ってぶん殴りたくなる。
 これがあまり知らない相手なら感情を隠すのも容易いことなのだが、皆守は万事に無関心なようで、結構鋭い。天香に来て三月余り、殆ど行動を共にしてきたのだから無理もないのだが。
 それに、あの場には同じ条件の八千穂も居た。逃げ出す切欠があったのは本当に運が良かった。
 それにしても、まだここに来て三月しか経っていないのだ。
 そのことに気が付いて九龍は少し笑った。
 三ヶ月。
 短いようで長いようで、でもあっと言う間だったというのが今の正直な感想である。
 色々あったが、精一杯やってきたつもりだった。
 途中、目指す宝が存在しない事がわかっても、後悔はしなかった。
 トレジャーハンティングにはガセネタもつきものだったし、それ以上に大事なものを手に入れたという自負もあったからだ。
 最後の最後、あの瞬間までは。
 蘇る苦い記憶に九龍は眉を顰めた。
 幸い、遺跡の未踏破だった部分の調査にも目処が付いた。
 協会からの帰還命令も届いている。
 明日にも、天香を離れる事が出来るはずだ。
 仲良くなった面々にきちんと挨拶が出来ないのは残念だったが、それをすると皆守や阿門も避けては通れない。
 そう思うだけで胸がざわつくのを押さえられないのだから、仕方ない。不義理は許して貰うしかなかった。
 この地を離れて、そして忘れる。
 情けないことこの上ないが、この先きちんと進んで行くには、天香での結末は余りにも苦かったのだ。
 正直、忘れられるかどうか自信はなかったのだが、それは自分でなんとかするしかない。
 屋上は良く晴れていて誰も居なかった。
 風は冷たかったが、この類の冷たさは寧ろ心地良い。
 金網に凭れて、九龍は眼下に広がる天香の敷地を眺めた。
 暫くその風景をぼんやりと視線で辿る。
 天香は九龍にとって、初めての本格的な仕事だった。それだけに、多少の感傷もある。
 これが最後のつもりであれこれ思い出していると、不意に背後の扉が音を立てて開いた。
 びくりと振り返った九龍は、そこに意外な人物を見つけて目を丸くした。
「白岐…」
「こんにちは、九龍さん」
 長い髪の少女は、音を立てずに近寄ってきて九龍の隣に並んだ。
「身体はもういいのか?」
 一時は立てない程衰弱していた白岐である。もう出歩いていいのかと疑問に思ったのだが、白岐は微笑んで頷いた。
「ええ、元気よ。ずっと感じていた枷が、今はもうない。とても…軽い感じがする」
「そうか…」
 確かに、白岐を拘束するように在った鎖はもう存在しない。
「それはよかった」
 そう言えば、白岐は柔らかく笑った。
「ありがとう。ここにこうしていられるのは貴方のお陰だわ」
 その言葉に、九龍はちょっと眉を寄せた。
「俺は何も…助かったのは双子のお陰だし」
 どうしても苦さの混じってしまう口調を感じたのか、白岐が九龍をそっと窺った。
「いいえ、貴方が遺跡の闇を祓ってくれなければ、私はここには居なかった。そうでしょう?」
 そう言われても、遺跡での結末は九龍が望むようなものではなかった。双子の存在がなければ、生きて出ることも叶わなかったかもしれないのだ。
 黙り込んだ九龍をどう思ったのか、白岐はちょっと口調を変えた。
「今日は、皆守さんは一緒じゃないの?」
「いや。一緒じゃないよ。………どうして?」
 辛うじて動揺を出すのを抑え、九龍は問い返した。
「だって、いつもここには二人で居たから」
 そう言われて、九龍は納得すると同時に切なさにも似たものを感じた。
 そういえば、皆守と初めて会ったのもここだった。
 そんな風に考えると、この學園の何処を見ても、皆守の顔が浮かんでくるような気がする。
 そう、たった三月の話なのに。
 更に何か言いたそうな白岐を遮るように、九龍は一つ大きな伸びをした。
「俺、ちょっと用を思い出した。もう行くよ」
「そう…」
「元気で」
 それだけ言って、九龍は屋上を後にした。