ベッドに身体を横たえると、青島は思わず呻き声をあげた。
「……うーっ」
「大丈夫か?」
 すかさず、背後から声が掛けられる。
 同居人の室井が心配そうにこちらを覗きこんでいた。
 二人はともに警察官で、同性同士でありながら恋愛関係にある仲だ。
 但し、同じ警察官といっても、室井は警察庁の官僚だが、青島の方は湾岸署の現場捜査員、末端の刑事にすぎない。
 まだ室井が警視庁の管理官として、捜査の指揮を取っていた頃に、捜査員になったばかりの青島と出会い、紆余曲折を経てこういう付き合いになった。
 共に暮らすようになってからも、もう数年が経過している。
 それ故に青島は、慣れ親しんだ気安さで答えた。
「あ、大丈夫っす。怪我してる訳じゃないから」
 顔だけを振り向かせ、室井に笑みを見せる。
「してるじゃないか」
 そう言って、室井が心配そうにそっと左頬に触れる。
 室井の指先がなぞるそこは、数時間前に被疑者の撃った弾丸によって僅かに掠められていた。
 治療を必要とする程の傷ではなかったので、とりあえず絆創膏を貼っただけで済ませていたが、もしこれが数ミリずれていたら、今頃青島は死体となって横た わっていたかもしれない。
 撃たれた瞬間はさすがの青島もゾッとしたものだ。会議室から指示を飛ばしていた室井も、銃声とその後に続く爆音には肝を冷やした事だろう。
 安堵の思いを噛みしめるかのように、室井は呟いた。
「無事でよかった……」
 心配を掛けてしまった事に恐縮して、青島は再度明るく告げる。
「ま、悪運強いんで。それに折角の室井さんの指揮で怪我してる場合じゃないですよ」
 双方ともに辞職勧告という思いも寄らぬ事態によって、現場から長く遠ざかっていた室井が久方ぶりに指揮を取った事を、青島は喜んでくれているらしい。
 室井が出世して警察をより良く変革する事は二人共通の願いだが、現場で一緒に捜査をする事にはやはり格別の思いがあるようだ。
 だが、数年ぶりに指揮を取った事で、以前との違いにも室井は気が付いていた。
 現場から離れていた年数分、青島も年を取っている。いつまでも捜査員になりたての頃の、若さがあるから失念してしまうが、昔と変わらない信念と突破力が あっても、身体は以前と同じようには動かない。
 携帯電話から漏れ聞こえてくれる音に感じた不審は、署に戻ってきた青島を見て理解した。
 負傷こそなかったが、青島は十年以上も前に包丁で刺された個所を庇って、怪我人同様の態を示していたからだ。
 青島のその傷は、室井に一因がある事だったので、そうした姿を見るとどうしても自責の念が湧いてしまう。
 それ故に自宅に帰って以降は、いつも以上に青島の世話を焼いていた。
 仕事では立場に雲泥の差のある二人だったが、家の中ではそれは全く関係ない。
 同居をする際に、家事は先に帰ってきた方が行う、というルールを決めてあったものの、実際には室井がその殆どを負担していた。
 室井は就任する役職によって忙閑が大きく変わるが、現在の肩書きになってからは、青島よりも早く帰宅する事が多かった。
 室井が家事をするのは単純にそのせいでしかなかったが、もしもどちらかの職場の人間がこの光景を見れば、驚きに目を剥く事だろう。
 警察庁長官に直属する、官房審議官ともあろう者が、平同然の所轄捜査員に、食事の支度から風呂の世話まで事細かにしてやっているのだから。
 青島の方も平然としたもので、当たり前のような顔をしてそれを享受している。どのみち日夜事件に振り回されている青島には、したくとも室井に尽くす暇が 無いのだ。
 その上、今日の青島はろくに身体を動かす事が出来ずにいる。
 捜査で駆けずり回った疲れに加えて、過去に包丁で刺されて以来、起こるようになった腰の痛みに苛まれていたからだ。
 これまでも冷え込むと痛みを感じていたようだが、取りたてて訴える程ではなかったのに、今回は捜査の最中に倒れこむほど激しい疼痛が起きたらしい。
 おそらく疲労が積み重なりすぎたのだろう。
 拳銃射殺事件と誘拐事件が続けて起き、どちらも湾岸署に特捜本部が立てられていたが、その前には所轄の張り込み捜査で二週間も家に帰っていなかったの だ。
 立て続けの捜査に一時も休めず、その上に青島のせいではない、不当な辞職勧告通知までもがもたらされた。
 室井にも下されたその命令は最終的に撤回となったが、それらの全てが青島に極度の負荷を与えたのだろう。捜査の最中に、古傷が倒れこむほどに痛みだし た。
 それでも被疑者の潜伏先を突き止め、事件を無事解決に導いたところはいかにも青島らしいが、全てが片付いた後もまだ腰の痛みは治まらないらしい。
 倒れこむように家に帰りついた後は、食事も風呂も早々に済ませ、這々の体でベッドに潜りこんだ。
 痛む左側を上にして、室井に背を向けた状態で横たわっている。
 疲れ切った青島を労って、室井も同じベッドの傍らに静かに身を滑らせた。
 就寝するにはまだ早いが、青島がこの状態なら仕方がない。
 本音を言えば、久方ぶりに青島が家に帰ってくるのを心待ちにしていたのだが、今はそんな事を言える状況ではなかった。
 けれど、青島の方もそれが気にかかっていたらしい。
「……すいません。俺、何にも出来なくて」
 すまなさそうに詫びる青島を遮って、室井が慰める。
「いいから、気にするな。早く治す方が先だ。明日も休まないんだろう?」
「二週間も張り込みやってた所に、今回の事件でしょ。やる事たまってんすよ。あ、でも、治すっても、腰は悪くなってないんです。冷えと疲労ですって。…… こんなに痛いのに、労災下りないんだもんなぁ」
 とりあえず、診察はしてもらっていたらしい。
「悪くなってないのなら、良かった」
 ぼやく様子に僅かに表情を緩めて、室井は言った。
 今になって、重大な後遺症が現れたのなら事だ。懸念が一つ無くなって、内心ひそかに胸を撫でおろす。
 冷えと疲れなら、休めば治る。
 もっとも、この落ち着きのない男は強制でもしない限り、ゆっくり休んだりなどしないだろう。ベッドに縛り付けた方がいいんじゃないかと、時折思う事もあ る。
 それでも倒れこむようにしながらであっても、自分から早々に寝床に入ってくれたのだから、今日は良しとしよう。
 横たわる青島を見つめながら、寝室の電気を消そうとすると、意外そうな声が掛けられた。
「あれ、室井さんもう寝るんですか?」
「君が寝るんだろう」
 呆れたような室井の言葉に、軽快な調子の答えが返ってくる。
「や、横になってる方が楽なんで。……けど、疲れすぎたのかなぁ。全然、眠くなんない」
「ああ」
 神経が高ぶりすぎているのだろう。肉体は疲労していても、それが眠気に繋がらないのは、よくある事だ。
 まだ落ちつかない様子の青島に、室井もそのまま話の相手をする。
「……お互い、辞職にならなくて良かったですね」
「……そうだな」
 当初、被疑者を拘束した後に、青島も室井も辞職勧告の段取りになっていたが、それを命じた警察庁長官らが逆に辞職勧告されるという事態に至り、結果二人 は不問になった。
 もしそれが起きなければ、二人とも本当に辞職していたかもしれない。
「俺、警察辞めさせられたら、からあげ屋やろうかなぁ、なんて、一瞬思っちゃいましたよ」
「からあげ屋?」
 突然、思いもかけない言葉が飛び出してきて、室井が疑問を投げかける。
「あれ、メールで言ってませんでした? ほら、張り込みですみれさんとからあげ屋の店出したんですよ。これがもう、評判良くって、儲かっちゃって! 俺っ て商売の才能あんのかなぁ」
「ああ……」
 二週間もの間、青島が家に帰らなかった理由をあげられて、室井が頷く。
 捜査であるからには仕方がないが、青島が長く帰って来ない事に、やはり侘しさを覚えていた。
 メールのやり取りはしていたものの、顔を見られないのは物足りない。だからそれを知った時は、一瞬、そこまで見に行きたいと思ったくらいだ。
 無論、そんな不審な真似は出来ないから、あくまでも考えがよぎっただけだったが。
 思い返す室井の傍らで、青島も回想に浸る。
「あれ、楽しかったなぁ。すみれさんと夫婦役やってたんですけどね。これがもう、息ぴったりで! 味も良いし、仲も良いって評判で、繁盛したんですよ。 あー、室井さんにも食べさせてあげたかったなぁ」
 青島の口から飛び出した単語に、室井が固まる。



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