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 優雅にチェアに腰掛ける男の前にあるデスク。そのデスク上の明かりだけが、その部屋の唯一の光だった。
 読みかけだった古めかしい本に栞を挟んで閉じ、男はデスクの上に本を置いた。
 夏本雄治は、その光景にゴクリと生つばを飲み込んだ。心の奥底から沸き上がる恐怖、男の醸し出す圧倒的な威圧感。そしてこの部屋に漂う、重苦しい空気。
 薄明かりの中で、男のゆっくりとした動作は、ひどく禍々しいものに見えた。
「その依頼、受けよう」

外道狩人死神探偵

「no exit」
ACT1


 舞台は数日前に遡る。
『デッドボール!夏本、この場面でまたもデッドボール!!』
 テレビから流れる野球中継の実況アナウンサーの叫びに、ため息をつく者、げんなりする者、悪態をつく者……皆がなんらかのリアクションを示していた。
 ここは野球チーム「大阪ティーゲルス」のファンが集まることで有名な居酒屋「猛虎斑」。遠征先のトキオドームでの試合を観戦する、ティーゲルスのファン達で今日も賑わっていた。
「これで十人目かいな……」
 誰かがぼそりと呟いた。
「まだ決まったわけじゃないやろ!」
「もう九人も病院送りになっとんねや!!」
 怒鳴り合いになった店内のテレビモニタには、がっくりとうなだれ、コーチに肩を抱かれてマウンドを降りる夏本の姿が映されていた。

 夏本雄治。プロ七年目の29歳。ドラフト一位でティーゲルスに入団し、一年目で17勝を挙げ、新人王のタイトルを獲得。MAX155km/hの速球と、切れ味鋭いカーブとフォークを武器に、ティーゲルスのエースとして活躍を続けてきた。
 それが今年に入ってからは大乱調だった。と言っても打たれ込んでいるわけではない。肝心な時にコントロールが乱れるのだ。なんの前触れもなしに突然に手元が狂いだす。そして与えるデッドボール。
 デッドボールは死球とも呼ばれる。夏本のデッドボールは、まさに死球だった。既にシーズン中、九人もの選手が夏本によるデッドボールで入院を余儀なくされた。ある者は頭蓋骨陥没でシーズン中の復帰は絶望的、ある者は内臓破裂で引退の危機。骨折、打撲を含めれば両手両足では数えきれないだろう。
 そして誰ともなく言うようになった。死神ピッチャー夏本、と。
 必死に投球練習を重ねた。元々コントロールは良い夏本は、練習ではいつも通りのピッチングができた。なのにマウンドに上がると、必ずどこかでデッドボールが出るのだ。
 監督やコーチ陣も首を傾げていた。
「ちょうど替えようと思ったらぶつけよるんや」
 しかしデッドボールを出すまでのピッチングは、日本球界ナンバーワンと賞される、いつもの夏本なのだ。ローテーションから外すにはもったいない。
「なぜだ……なぜなんだ……」
 宿泊先のホテルへ向かう帰路。タクシーの後部座席で、窓の外の景色をぼーっと眺めながら、夏本は独り呟いた。
 そのとき、ふっと何かが視界を横切った。別に光っていたでも目立つ何かだってでもない。強いて言えば、何か見えないもの、おばけのようなものでも見たような気がしたのだ。
「運転手さん、止めてください!」
 慌てて財布を取り出して一万円を握らせ、夏本はタクシーを飛び降りた。
(さっき通り過ぎたあの小道の奥、あれは……なんだ?)
 根拠のない焦燥感と好奇心、そして何かの予感めいた感情に突き動かされ、夏本は走った。大通りから小道へと曲がり、奥へと突き進む。しかし、そこには何もない。
 がっかりするよりも憤りが先に来た。見間違いとかそういうものじゃない。いや、見たというよりも、夏本はこの場に……
「僕を呼んだのは誰だッ!?」
 深夜の街に夏本の声が響く。
「その強い意志を狙って憑いたのね、きっと」
 凛とした声は、夏本のすぐ後ろから聞こえた。慌てて振り返ると、そこには黒と白を基調にしたレースが過剰に施された服に身を包んだ少女が立っていた。こういうのをゴシックロリータとでも言うのだろうか。真っ白な肌と、透き通るようなブロンドの髪をもつのその少女は、不自然なくらいに美しすぎた。小娘と呼んでもいいような歳にしか見えないが、圧倒的な威厳がある。この世のものとは思えない存在が、まさに目の前に在った。人間の姿をしているが、これは人間ではない。なぜだか夏本はそう直感していた。
「聞こえるのね。そして視えるのね」
 悪戯っぽく、少女はクスリと笑って見せた。
「君が……君が僕を呼んだのか?」
 その問いを、のどの奥から絞りだすのが精いっぱいだった。
「あなたが魅かれてきたのよ」
「魅かれてきた?!君はいったい……」
「案内するわ。あなたを救う男の許へ」
 長いスカートを翻し、少女は夜の闇の中へと消えていった。
「待ってくれ!」
 微かに見える少女の姿を追い、夏本は必死に走った。少女はゆっくりと歩いていて、夏本は必死に走っているのに、その距離は縮まらない。ほんの少し目を離した間に、曲がり角で視界から外れた途端に、さらには瞬きの間に、縮まりかけた距離が一気に開く。
 いつしか夏本は狭い階段を下っていた。どこかのビルだろう、昔一度だけ来たことのあるライブハウスが、こんな感じの階段を降りたところに在ったような気がする。
 階段の先には、不自然に立派なドアが一つ。その前に立った直後、
「さあ、あなたが開くの」
 背後から少女が耳元で囁いた。意を決し、いや、何かに取り憑かれたかのように、夏本の手が伸びる。
 ドアノブを回し、ゆっくりと押し込む。ギィっとわずかに音を立て、その扉は開いた。

 そこはいきなり部屋だった。何かの店や、エントランスとかそういうものではなく、ごく普通の書斎だった。12畳くらいありそうな部屋に並んだたくさんの本棚。そしてその片隅に置かれた重厚なデスク。そしてチェアに腰掛けて、デスク上のランプの明かりで本を読む一人の男。
「客か。ライカンジェ」
 読んでいる本から目を外さず、男は尋ねた。
「そうよシード」
 少女、ライカンジェはそう答えて微笑む。
「ならば話したまえ」
「ま、待ってください、あなたがたは誰で、何者なんですか?!」
「俺はそいつからはシードと呼ばれている。気に入らなければ支奴とでも呼べ。名前に意味などはない」
「私はライカって呼んでね。よろしく、夏本雄治さん」
 クルリと回転し、ライカはバレリーナのような仕草で頭を下げた。もはや、なぜ名前を知っているのかなど、どうでもいいことだった。
「俺は、お前に判りやすく言うならば、探偵であって狩人だ。Search and Hunting、まぁ本業も副業もそんなところだ。本業は運命に基づいた者を、副業はそれを乱す外道を探して狩るのさ」
「探偵?狩人?わからない、わからない!」
「彼はあなた達の言う、死神というものよ」
 ライカが澄ました顔で言った。その説明に、支奴が微かに顔をしかめる。
「そう呼ばれるのは嫌いだといつも言っているだろう。それは群体を示す言葉であって、俺を指し示す言葉じゃない」
「そう。だからあなたも私も、固体名を持った。だから人間の世界にはぐれ落ちたのよね」
「黙れライカンジェ。口が過ぎる」
 一瞬だけ本から目を逸らし、支奴はライカを睨みつけた。
「もう、シードはだから世間に馴染めないのよ」
 口をとがらせるライカを無視し、支奴は再び本に視線を落とした。
「俺には本があれば充分だ。さあ、何が起きているのか語れ、夏本雄治」
 支奴の低い声は、夏本の耳ではなく心臓から伝わってくるようだった。
「ぼっ、僕は野球選手で、それで……」
 あとは必死だった。自分が何をどう語ったのかも覚えていない。その間、支奴は平然と本を読み続け、ページをめくっていた。
「僕を助けてください!」
 最後にそう絶叫し、夏本はがっくりと肩を落とした。ひどく心身が疲れている。服の下は汗だくだ。言葉を発するたびに、いや、ここにいるだけで、命を削られているような気さえする。
「……人助けはライカンジェの領域なんだがな」
「でもこのケースはあなたの縄張りじゃなくて?」
 支奴とライカが互いを牽制するように言葉を交わす。
 読みかけだった古めかしい本に栞を挟んで閉じ、男はデスクの上に本を置いた。デスク上の明かりが微かに揺れる。
 夏本雄治は、その光景にゴクリと生つばを飲み込んだ。心の奥底から沸き上がる恐怖、支奴が醸し出す圧倒的な威圧感。そしてこの部屋に漂う、重苦しい空気。
 薄明かりの中で、支奴のゆっくりとした動作は、ひどく禍々しいものに見えた。
「その依頼、受けよう」
 陽炎がゆらめくような、ゆらりとした動きで、支奴は静かに腰を上げた。


To be continued.
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