Crimson Eyes
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01:PHANTOM Brother (Act-1)



   気がつくと、少年は波を見ていた。
 太陽の光に照らされ輝く波。瞳に差し込む光に彼はゆっくりと現実を取り戻していく。そして何が自分の身に起きたのかを知る。
「……きょうすけ」
 我に返った少年は弟の名を呼ぶ。だが応えはない。隣を見ても誰もいない。少年は首をめぐらしあちこちを見る。
「きょうすけ?!」
 遠くにいるのかと思い大声で叫んでも、弟の声は聞こえない。姿も見当たらない。少年は近くにいた青年を見るが、彼の視線に気づいたのか、青年は視線を逸らす。
 おぼれたんですって? 遠くでそんな声が聞こえる。
 なんでも高波にさらわれたみたいで。一人は助かったみたいなんだけど、もう一人は――
 かわいそうに。 
「うそだ……」
 周囲の言葉から事実を知り、少年は呟く。
「そんなの、うそだ!」
 髪の毛から海水を滴らせながら少年は声を張り上げる。握りしめた拳からは潮に濡れた砂がこぼれ落ちる。
 波は静かに揺れている。先ほどの大波が嘘のような平穏。
 しかし、彼はいない。ほんの5分前まで一緒に泳いでいた弟の姿はどこにもない。
「いやだ……」
 少年はゆっくりと首を左右に振った。やがてそれは激しくなる。
「いやだ!」
 叫んだと同時、少年は立ち上がった。そのまま目の前の海へ駆け出そうとする。
 しかし、力強い腕が少年の身体を抱きしめた。
「はなせ!」
 その腕を振り解こうと少年は懸命に身をよじる。
「はなせよ!」
 しかし、その腕は決して少年を離そうとせず、むしろさらにきつく抱きとめる。
「はなせぇっ!」
 叫んだそのとき、少年は背後から母親の嗚咽を聞いた。そのすぐそばには、全身ずぶ濡れの父親が愕然とした表情で海を見ている。
 再び砂浜に膝をついた少年の顔に波しぶきがかかる。
「……」
 塩辛くそして暖かな水滴が少年の頬をつたって口の中に入る。
「きょうすけ……」
 もう二度と会えない弟の名を呟き、少年は意識を失う。

 そして、10回目の夏が訪れようとしている……

T


  「ほんっとーにいいの?」
 椅子の脇に立て掛けていた鞄を手に取ろうと少年が身体を屈めたとき、後ろから舌足らずな声が聞こえてきた。見ると、小柄な少女が心配と不安の入り混じった瞳で自分を見つめている。
「本当のほんとーにいいの?」
「あぁ」
 訊き返す少女――古賀環に小さくうなずき、彼は鞄を手に取る。
「だけど……」
 それでも納得がいかないらしく、何かを言いかける環の肩に手が乗せられた。彼女の後ろには二十歳過ぎの青年が立っている。
「悟ちゃん」
「環が心配するのはわかりますけどね」
 悟ちゃんと呼ばれた青年が穏やな口調で環を諭す。
「残念ながら百瀬さん以外に適任者が今はいないんですよ」
「でもね。でもねっ…」
 悟のほうを振り返り、言葉を続けようと環が口を開いたとき、
『くどいぞ、ちびたまき』
 と、少年のすぐ脇から冷ややかな声が割って入った。それを聞いたとたん、環の表情が不安から怒りに変わる。
「『ちびたまき』じゃないって言ってるでしょ!」
 と、環は怒鳴る。
「その言い方やめてっていっつも言ってるのに!!」
『真実を口にしてどこが悪い?』
 その揶揄は確かに少年のすぐそばから放たれているのだが、彼の周りに人の姿はない。
「むー!」
「やめろ、大我」
 環が口を尖らせて唸る。背後を横目で見ながら「大我」を静かにたしなめた後、少年は環を見る。
「心配することはない。大丈夫だ」
「……うん」
「それではお願いします」
 一礼する悟に
「わかった」
 と無表情のまま短く答え、少年はきびすを返した。夏服の胸ポケットに入れてあった眼鏡を取り出しかけると、部屋を出る。
「――本当に大丈夫かなぁ?」
 少年が出て行ったドアから悟へと視線を移しながら、環は不安気に呟く。
「大丈夫ですよ」
 環の頭を撫でながら、悟は言う。
「この程度のこと、百瀬さんにしてみればたいした問題じゃないでしょう」
 悟の突き放したような口調に環は困惑した表情で悟を見上げる。
「悟ちゃんは……」
「? 何です?」
「悟ちゃんは百瀬のお兄ちゃんが嫌いなの?」
 環の問いに悟はわずかに目を瞠る。
「――嫌いじゃないですよ」
 自分をまっすぐ見める環の眼差しからほんの少し視線を外し、悟は答える。
「百瀬さんには感謝しています」
「うん、そうだよね。百瀬のお兄ちゃんがいなかったら、環たち、なんにもできなかったもん!」 
「ええ…」
 そう、あの人がこちら側いるから僕達は「奴ら」と対等でいられる。うなずきながら悟は思う。
 しかし、彼は純粋なこちら側の人間ではない。裏切りの可能性がある以上、絶対的な信頼をおくことはできない。
 これから起こりうるであろう対峙のために、彼が決して裏切らないという明らかな保証が欲しい。
 そのためには、あの少年を――
「…ちゃん?」
 誰かが呼んでいる。
「悟ちゃん? 悟ちゃん!」
 気が付くと、環が心配そうに自分を見上げている。
「どうしたの、怖い顔して? おなか空いたの?」
「そういえば、そんな時間ですね」
 辛うじて微笑みを作り、悟は答える。
「ラウンジで朝ごはんでもいただきましょう」
 そう言って悟は環とともに部屋を出る。
 
 これから起こること。
 悟にとってそれは賭けだった。


 6月17日、天気予報によると今日も晴れらしい。
「うー……」
 叶駿介は唸った。
(ねみぃ)
 激烈に眠い。いったい何がこんなにも自分を眠くしているのだろう。
(月曜日だからか?)
 それは当たっていなくもないだろう。しかし今日の眠気はいつもの月曜日の格段上をいっている。もしバスが揺れてなければ、立ったまま鼾をかいていただろう。
 駿介は大きく欠伸をする。とにかく眠い。
(寝不足だとしたら…アレのせいか)
 眠気の原因に思いあたった駿介の表情は暗い。
(5年…いや6年ぶりか、10年前の時の夢を見るのは?)
 目を閉じると、今でもあの時の光景が浮かび上がる。
 波の音と潮の香り。
 はしゃぎ声が一瞬にして悲鳴に代わり
 穏やかなはずの波が急に襲いかかり、口や鼻に大量の塩辛い水が入り込んだ
 息苦しさから意識は遠のき
 そして、目を覚ましたら――双子の弟、匡介は消えてしまった。
「……」
 駿介は目の前の窓ガラスを見た。窓には16歳の自分が映っているが、駿介が思い出しているのは6歳の頃の、もう一人の自分の顔だ。
 活発そのものだった自分に対して弟の匡介は遠慮というか、どこか一歩引いたようなところがあって、自分から何かをすると言うようなことはなかった。
 ところがあの日、突然海に行きたいと言い出して…。めったに自己主張をしない匡介の言葉に両親は驚き、そして喜びながらみんなで海に向かい――あの事故に遭った。
 時々思うのだが、もしかしたらあいつは生きているのではないだろうか?
 結局、どこの浜にも匡介の遺体はあがらなかった。だからかもしれないが、実は匡介は誰かによって事故直後に助け出されており、けれども記憶喪失か何かで自分達のことを忘れているのではないだろうかと、そんなことを考えてしまう。
 だとしたら、今頃あいつもどこかで今の自分のように眠い目をこすりながら、学校に向かっているのだろうか? そんなことを思い、駿介は小さく笑う。
 無論、そんなことはありえないのだろうけど、でももし…万一この想像が事実であったなら
(逢いてぇよな……)
 と。
「痛っ!」
 突然の耳鳴りに駿介は顔をしかめる。そして、
 ――叶わないわ。
 不意に聞こえてきた女の声に駿介はぎょっとなった。
 あたりを見渡し、声を主を探すが、両隣は眠気と必死戦っているが敗北寸前のサラリーマン。後ろは同じ制服を着た男子学生。
 目の前のシートにOLと思しき女性が座っているが、声は二十歳前――というより駿介と同じ年頃の少女が発したもののように聞こえた。第一、目の前のOLは眠っている。
 女子高生の姿がないわけではないが、駿介の位置からは遠すぎる。
(誰だよ?)
 耳鳴りに苦い表情をしながら、あちこちを見回していた駿介の視界の端に白いものが映った。あわてて前を向くと、
(なっ……)
 駿介は絶句する。なぜならそれまで自分を映していたはずの窓ガラスに自分の姿はなく、代わりに少女がいるからだ。
 白い服――それが駿介の視野に入ったものだろう――を着た、整ったというより整いすぎて冷たい印象を与える顔立ちをした少女だ。
 あまりにも現実離れした出来事に声も出せず、駿介は硬直する。と、
 ――あなたの願いは叶わないわ。
 先ほど聞こえてきたものと同じ声が少女の口から発せられる。
(叶わない? 願い?)
 少女の言葉を駿介は頭の中で繰り返す。
 ――だって……
 少女は悲しげな表情を見せる。
 ――あなたの願いが叶ったら、わたしのたった一つの願いが叶わないもの。
 耳鳴りが辺りの音を掻き消していたが、なぜか少女の声だけははっきりと耳に届く。
「あ、あのさ…」
 なぜか駿介の口から叫び声はあがらなかった。どうもあまりにも突然かつ現実離れした状況に思考が麻痺してしまったらしい。言葉の意味を尋ねようとうつむいてしまった少女、即ち窓ガラスに駿介は声をかける。その姿は傍目から見れば奇怪を飛び越え異様に映るだろう。しかし、なぜか駿介の言動に注目する者はいなかった。また駿介自身、自分の周りにいる人の存在を忘れていた。
「えーっと……」
 ――だから、叶えさせない。
 耳鳴りはまだ続いている。何度も唾を飲み込みながら、駿介は窓に映る少女に声をかける。が、どう話を展開させればいいかわからず、駿介は途方に暮れる。
「あーっと……」
 ――それでもあなたが叶えると言うのなら……
 駿介の言葉を遮って、うつむく少女の唇が動いた。
「え?」
 不意に低くなった少女の声音に駿介の背中にぞくりと冷たいものがはしる。少女はゆっくりと顔を上げた。
 ――わたしはお前を……
 見据える少女の目は緋い。まるで血の色だ。駿介は後ずさる。
 ――あの人は誰にも
 突き出された手の指先、伸びきった鋭い爪が今にも自分を裂きそうで、駿介は悲鳴を上げた。
『次は〜、鷹条高校前〜』
 駿介の悲鳴にバスののんびりとしたアナウンスが重る。駿介は我に返った。
 周囲の怪訝そうな眼差しに気づき、駿介は顔を伏せる。と、シートに座っているOLと目が合った。
「すいません…」
 安眠を妨害され、不機嫌この上ないといった風のOLに小声で謝った駿介はガラス窓を見る。そこに映っているのは少女ではなく、気まずそうな表情を浮かべている自分だ。
 耳鳴りはいつの間にか消えている。
(なんだったんだ、いったい?)
 駿介は首をかしげる。幻…と呼ぶにはあまりにも強烈な出来事だ。凍るほどに冷たい少女の面差しも悲しげな声も、まだ駿介の記憶の中に残っている。
 願いは叶わないと告げた少女。
 ――願い。自分が何を願っているのか、駿介自身わからない。
(あぁ、でも……)
 奇跡を信じたり、自分の想像が現実になることを望むことなどを願うというのであれば、自分の願いは……
『鷹条高校前〜、鷹条高校前〜』
 間延びしたバスのアナウンスに気がつき、駿介は周りの、自分と同じように制服をきた生徒達とともにバスを降りた。
「はぁ〜」
 駿介はため息をついた。ありがたいことに眠気は完全に吹っ飛んでいる。と、
「よぉっ!」
 ばしっと背後から背中を思い切り叩かれ、駿介は思わず前につんのめる。
「なーにやってんだ、駿?」
 地面に座り込みそうになるところを辛うじてこらえる駿介の背後で呆れたような声がする。駿介は疲れきった眼差しで相手を見る。
 こんな子供じみた方法で朝の挨拶をするのは、やはりというか案の定、加藤雄二。保育園の頃からの幼馴染みだ。
「…どうでもいいだろ」
「おろ?」
 反撃を想定し、雄二は防御の構えを見せていたのだが、駿介からその気配が感じられない。それによく見ると相手はやけに疲れた顔をしている。雄二は不思議そうに駿介を見た。
「なんかあったのか?」
「……」
 バスの中での出来事を説明しようと駿介は口を開いたが、
「なんでもない」
 ため息とともに駿介は別の返事を口にする。
 上手に説明できそうもなかったし、第一言ったところで別の意味で心配されるのがオチだ。
「朝から元気だなぁ」
「おぅ! いつだってオレは元気さ!」
 雄二は大きくうなずく。
「はぁ」
 皮肉のつもりがまじめに返答され、駿介はただため息をつくのみ。
「どしたぁ? ずいぶんお疲れだなぁ」
「まぁな」
 その何割かはお前のせいだと言う代わりに、駿介は力のない声で返事をする。
「まぁ、そんなにプレッシャー感じないほうがいいとオレは思うぞ」
「……は?」
 雄二の言葉の意味が分からず、駿介は眉をひそめる。
「何言ってんだ、お前?」
「え?! 部活のことじゃねぇの?」
 素っ頓狂な声を上げ、雄二が驚く。
「てっきりそのことで悩んでるのかと思ったんだけど、オレ?」
「あぁあぁぁぁぁ……」
 今朝の夢、そしてバスの中の出来事ですっかり忘れていた現実を思い出し、駿介は頭を抱える。
「そうだよ。そいつもあったんだよ……」
「忘れてたのかよ」
 突っ込む雄二の横で、駿介はその場にしゃがみこむ。
「イヤなこと思い出させやがって……」
「オレのせいかよ!」
 駿介の八つ当たりに、苦笑しながら雄二は再び突っ込む。
「別にいいじゃん。中学のバスケ部のときお前、SG(シューティング・ガード)もやってただろ?」
「それにしたって入部してまだ2ヶ月くらいだぞ?」
 しゃがみこんだまま、くぐもった声で駿介は言い返す。
「何でおれなんだよ……」
 ――叶! お前来週からSGな!
 先週末、いきなりキャプテンの問答無用の宣言に反論する間もなく決定されたのだが、正直言って自信はない。
「大体他にも選手はいるだろう? 例えば杉下先輩とか……」
「そらまぁ、確かに」
 うなずきながら、雄二は腕時計に目をはしらせる。8時25分。もうそろそろ予鈴が鳴る頃だ。駿介に気づかれないよう、雄二はゆっくりと昇降口に向かう。
「そりゃレギュラー入りしてうれしいさ」
 遠ざかる雄二に気づかず、駿介は言葉を続ける。
「けどな、新人をレギュラーにするか、普通?」
 そういって雄二からの答えを待つが、返事は一向に返ってこない。
「雄二?」
 不思議に思いながら駿介は顔を上げる。当然そこに雄二の姿はなく。
「!」
 驚き、立ち上がった駿介に向かって、
「先行ってるぞ〜」
 とっくに校舎に入り、靴を履き替えた雄二が昇降口前で手を振る。
「おいっ!」
 慌てて駆け出す駿介を急き立てるように予鈴が鳴る。
「うわぁぁぁ!」
 全力疾走で校舎に向かう駿介の頭の中からバスの中での出来事はすっかり消えていた。

 そうなんだよな。予鈴が鳴り終わる直前に教室に滑り込み、席に着いた駿介はぼんやりと考える。レギュラー入りと言っても、怪我をした先輩の代わりに入るよう言われたのだから即スタメンと言うわけではない。
 中学時代にSGをやっていた(後にフォワードになったが)からとりあえず様子見で入れてみよう。そんな感じでキャプテンは言ったのかもしれない。
「そうだよな」
 そんな深刻に考える必要はないか。そう言い聞かせ納得していた駿介は、教室内がやけに騒がしいことに気が付いた(今更だが)。時計を見ると、ホームルームが始まってもおかしくない時刻だが、教卓に担任教諭である飯島の姿はない。
「なぁ」
 前の席に座るクラスメイトの背中を指でつつきながら、駿介は尋ねる。
「飯島の奴来ないけど、何かあったのか?」
「転校生が来るから遅いんじゃないの?」
 関心ないといった口調でクラスメイトが答える。
「へぇ〜、転校生。男? 女?」
 と尋ねたが、相手のつまらなそうな口調と女子生徒らのテンションの高さから、自ずと答えは出てくる。
 何だと呟き、駿介が肩をすくめたとき、教室の前の扉が開いた。飯島だ。
「……あー」
 朝の挨拶を終え、しばらくたってから飯島が口を開いた。
「転校生を紹介する。……その前に、叶」
 と、飯島は駿介を呼ぶ。
「なんスか?」
「あー……」
 口を開き、飯島は何かを言いかけたようだが、
「いや、なんでもない。――入りなさい」
 と、開いたままの扉の向こう、廊下で待っている転校生を促す。
「……」
 興味津々の眼差し(これは女子)ととりあえずと言った感じの視線(これは男子)が扉口に向けられる。当然、駿介も後者に属していたのだが――
(……!)
 静かに「彼」は教室に入ってきた。その姿に、
「うそっ!」
「おい…マジかよ」
「やだー、超似てる〜」
「うそだろ……」
 驚きがあちこちで囁かれる。
「あー、静かに!」
 騒然となる教室内に飯島の注意を聞く者はいない。
「どうなってんだよ、いったい?」
「もしかして……兄弟?」
「静かに!」
「……」
 駿介は呆然となっていた。クラスメイトのざわめく声も飯島の悲鳴に近い訴えも駿介の耳には届かない。
 なぜなら目の前に立っているのは――
「静かに!」
 叫ぶ飯島の傍らに立つ彼の顔に動揺の波は伺えない。まるで最初から知っていたかのように平然としている。
「静かにしないか!」
 驚愕の中で、ゆっくりと駿介の唇が「彼」の名を呟いた。
「――匡…介…!」
 眼鏡こそかけているが間違いなく目の前に立っているのは、叶匡介。
 10年前、海で死んだはずの双子の弟、その人だった。


「叶!」
 バスケ部キャプテン戸田の怒声が体育館に響く。
「お前、これで何回シュートミスした!」
「……すいません」
「お前、何ほかの事考えてんだ!?」
 黙りこくる駿介の姿に戸田は苦々しい表情を見せていたが、
「もういい、しばらく頭冷やしてろ。――杉下ぁ、叶と代われ!」
 と、冷淡に言い放ち、後ろに控えている部員──杉下に声をかける。
「……」
 杉下の気の毒そうな視線を受けつつ、駿介はうつむいたままコートを離れる。自分が痛いほどに唇を噛み締めていることに駿介は気づかない。
「大丈夫?」
 タオルを渡しながら心配そうに尋ねてくるのは桂友恵。新米マネージャだ。
「あぁ」
 言葉少なに答ると、駿介はもらったタオルを頭にかける。
「ちょっと、頭冷やしてくる」
 そう言って、駿介が体育館を出ようとした時
「たるんでんじゃねーの?」
 明らかな悪意を持った声が駿介の足を止めた。
「……」
 振り返った先には松葉杖をついた少年が立っている。
「レギュラーに選ばれたからって、気ぃ抜いてんじゃねーの?」
「金子先輩…!」
 友恵が声を上げる。
「そんな言い方、ひどいじゃないですか!」
「桂、いいから」
 言い返そうとする友恵を抑え、駿介はタオルを首にかけなおすと金子をまっすぐ見る。
「すいません、気をつけます」
 頭を下げる駿介の姿を金子は不愉快そうに見た後、
「ふん!」
 と鼻を鳴らし、駿介から離れていく。
「叶くん……」
「水飲み場に行ってくるわ」
 片手をひらひら振りながら、駿介は体育館を出た。
 校舎との渡り廊下の途中にある水飲み場に向かい、駿介は思い切り蛇口をひねった。そして勢いよく流れる水の中に頭を突っ込む。
(くそっ)
 駿介は思う通りにプレイができない自分に悪態をつく。初めてだった。
(何やってんだよ、オレは!)
 分かっているのに。ちゃんと動けなければと思っているのに動けない。運良く思い通りの場所に動けたとしても動作が鈍い。全身が重く、まるで自分の身体でないようだ。
 頭を冷やせと戸田が怒るのも当然だ。たるんでいると金子が嫌味を言うのももっともだ。特に金子は怪我とは言え、レギュラーの座を駿介に取られたのだから一番憤りも強いだろう。
「くそ!」
 駿介は怒鳴る。何で思うようにプレイできないのだろうと自問しなくても理由は分かる。
 ――あの転校生の存在だ。
『百瀬匡介です』
 無感動に告げる彼の名前は漢字までも弟と同じものだった。
 休み時間、何度となく話しかけようと思ったのだが、なんと言えばいい? まさか「お前はオレの弟か?」などと聞けるわけもない。
 分かっている、他人の空似だと知っているのに、心のどこかで「もしかしたら」と期待している。期待するあまり、赤の他人だという事実を突きつけられたくなくて、迷っている。
 そんな風にわだかまりをずるずると引きずった結果が今日のプレイだ。
「くそ!」
 大きく叫んだ駿介の背中に
「おいおい、そんなに長時間、水に浸かってたら顔がふやけるぞ」
 のんびりとした口調で雄二が話しかけてきた。
「……」
 顔を上げ、髪から水を滴らせたまま駿介は睨むように雄二をにらんでいたが、、
「わりぃ」
 自分の感情がひどく逆立っていることに気づき、駿介はため息とともに雄二に謝る。
「気にすんなって」
 笑顔で雄二は答える。
「なんとなく理由は分かるからさ。ま、だてに保育所からの付き合いじゃねぇってことか?」
「…だな」
 タオルで顔を拭きながら言ったところで、駿介はふとひらめく。
「桂に言われたのか?」
「ん? まぁ…そんな感じかな?」
 マネージャの桂友恵と雄二はつい最近付き合い始めた仲である。きっと駿介の様子が心配になって友恵が雄二にフォローを頼んだのだろう。
「へぇ…、いい子じゃん」
「とーぜん」
 自慢たっぷりの口調で答える雄二に駿介は笑おうとしたが、ひどく引きつった表情しかできなかった。
「――気になるか、やっぱ?」
 笑えない駿介に気が付き、雄二は真剣な面持ちで尋ねる。
「…まぁな」
 と、小さく駿介は答える。
「だよなぁ」
 マジそっくりだし、と雄二はうなずく。保育園からの幼なじみである以上、当然、雄二も駿介の弟、匡介のこと――その存在や彼が海の事故で死亡したこと――は知っている。
「びっくりしたもんな、ホント。つーか、腰抜けるかと思ったぞ、オレ」
「『抜ける』か、じゃなくて『抜けてた』だろ?」
 駿介が茶化す。
 それは3時間目の休み時間のことだ。教科書を忘れたから借りようとした雄二は、近くにいた生徒に駿介を呼ぶつもりで廊下側の窓を開けたのだが、その頼もうとした相手が匡介だったのだ。
 匡介を見た瞬間、雄二は廊下じゅうに響き渡るような大声で悲鳴を上げ、廊下に座り込んでしまった、というわけなのだが。
「おい、言っとくが別にあいつがお前にそっくりだから驚いたわけじゃないぞ! あ…あれはだなぁ。あまりにも近くにあいつの顔があったから、それで驚いて……」
 真っ赤になって言い訳する雄二に駿介はにやにや笑う。
「匡の奴が生き返ったかと思ったとかそういうことは――」
 と言って、雄二は口をつぐむ。気まずそうに、
「わりぃ」
「いや」
 駿介は首を横に振る。
「正直、おれももしかしたら…なんて考えてる」
 地面に視線を落とし、駿介は呟く。
「匡介の奴が生きてるんじゃないかって、10年経った今でも思ってる…」

 ――競争しないか?
 あの日、不意に匡介はそう言ったのだ。
 ――競争? そんなのオレが勝つに決まってんじゃん!
 ――そんなことないさ。絶対バカ駿より僕の方が泳げるって!
 ――『バカ駿』って言うなって言ってんだろ!
 
 そんな言い合いの後、二人で泳ぎに出、そしてあの事故だ。
「今でも…」
「ん?」
 雄二は駿介を見る。
「どうしても分からないことがあるんだ」
「何?」
「何であいつ、急に競争しようなんて言い出したんだろう…」
「ふむ」
 駿介の言葉に雄二は考え込む。
「一番あいつらしくないことなんだよ、競争するなんて」
「うーん」
 雄二は唸る。かけっこをするにしても、野球で遊ぶにしても勝負を挑むのは駿介や雄二の方で、匡介は仕方なしに付き合っていたといった感じだった。
「そうだよなぁ。匡って勝負事っていうか、争うの嫌いっぽかったよなぁ…」
「だろ?」
 なのにあの日は匡介が勝負を挑んできたのだ。
「なんでだ?」
「知るかよ、おれが!」
 本人に訊けよと言いかけ、それが不可能であることに気づき、駿介は表情を曇らせる。
「あの日のことは本当に分からないことだらけなんだよ……」
 突然海に行きたいと言った匡介。
 砂浜で遊んでいたら、いきなり競争を持ちかけてきた匡介。
 そして、あんなに穏やかだった波が急に、あの一瞬だけ荒れ狂った訳。
 すべてが謎で包まれていて、何も見出せないのだ。
「……」
 うつむいたまま顔を上げようとしない駿介に声を掛けようとした雄二は、
「あ……」
 遠くの方にいる人影に気づき、小さな声を上げる。
「?」
 雄二の声に駿介は視線だけを幼なじみのほうに向ける。
「噂をすれば…」
 その声に、駿介は慌てて顔を上げる。
「百瀬……」
 駿介は呟いた。駿介らが今いる校舎とは別棟の校舎の一階の渡り廊下に彼がいる。
「呼んでみるか?」
 雄二の問いに駿介はためらう。それほど離れていない距離。呼べばおそらく声は届く。
 呼ぶのは簡単だ。しかし声をかけて、それから自分は何を話せばいいのだろう? 死んだ双子の弟のこと? 君にそっくりだと言って、そして? その次は?
 無言の駿介を雄二はじっと見る。と、
「雄二君、叶君。集合だよ」
 友恵が体育館の扉から顔を覗かせ、二人を呼んだ。雄二は駿介を見る。
「いい」
 あっけないほど簡単に、駿介は答えた。
「どうせ明日もあいつには会うんだし」
 明日も明後日も。会おうと思えば、話そうと思えばこれからいつでもできる相手なのだから。
 急ぐ必要はない。
「……そうだな」
 雄二はうなずいた。
「んじゃ行こうぜ」
 雄二の後に続いて体育館の入ろうとして、駿介はその手前で足を止めた。振り返った先に彼の姿はもうない。
「消えたりしないさ」
「? 何か言ったか?」
 駿介の呟きを聞き、雄二が振り返る。駿介はかぶりを振った。
「なんでもない。行こう」
 そう言って、雄二の背中を押すようにして駿介は体育館の中に入っていった。


 教室のある棟とは別の棟の校舎を歩いていた匡介はその気配に気づき、表情を鋭くした。
 それは校舎の向こう側、即ち裏庭から発せられている。匡介は階段脇の扉を開き、室内履きのまま外に出た。
 裏庭には緑色の芽を覗かせた花壇があったが、それに目もくれず、匡介はある一点を見据え、その場所へと歩き出した。立ち止まった匡介の目の前には一本の木があった。さほど幹は太くはない。高さも4階建て校舎の2階部分までしかない。
「……」
 匡介は視線を下に移した。つい最近、誰かが蹴ったのだろう。幹の皮がところどころ剥げている。匡介は静かにかけていた眼鏡を外した。と、それまで地面を見ていた匡介の瞳の色がだんだん黒から緋色へに変わっていく。
 そして、完全に双眸が緋色になったとき、匡介は右手を上げた。
「大我」
 と呟いた次の瞬間、匡介の右腕は青白い手甲に包まれた。手甲で守られた右手を一瞥すると、匡介は木に触れた。刹那、幹がぐにゃりと歪み、匡介の手を突っ込んだ。
 異物の進入を拒んでいるのか、匡介の手が触れている部分から白い火花がばちばちと音をたてて飛び散る。
「…っ」
 火花のいくつかが頬をかすめ、匡介の表情が小さく歪んだが、臆することなく匡介は右手をさらに奥へと進ませる。と、指先に何かが触れた。緋色の双眸を細め、匡介はそれをつかむ。
 匡介がそれを握ったと同時に火花は消えた。それを握ったまま、匡介は木から腕を抜き出す。
 完全に腕が木から離れると、匡介は大きく息を吐いた。同時に彼の右手を守っていた手甲が消える。
「……」
 黒に戻った瞳で、匡介は開いた手の上にあるものを見た。それは小指の先ほどの大きさの紅い結晶体だった。日の光を受け輝く結晶体は、血の雫のように見える。
『どうやら、一足遅かったようだな』
 匡介の背後、やや右上辺りから男の声がする。匡介は右手で拳を作ってそれを握りつぶすと、その名を吐き捨てるように呟いた。
「千寿……」


To be continued.
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