〜 リュウイン篇 〜

 

【第92回】

2005.6.1

 

 支度には一ニクルかかった。

「あたしも行くの!」

 リズが主張してきかず、大荷物をまとめたからだ。

 当然、リズの教育係であるマム、サミー、リリーも荷物をまとめることとなった。

 ヒースは道中食べるはずのパンをパクついていた。

 畑仕事して、帰ってみりゃ昼過ぎ。もう、待てねーよ。

 あいつらも腹へってんじゃねーかなあ?

 中をぶらつくと、リズの部屋で三人の姿を見つけた。

「もう! どうして取れないの?」

 エドアルは棚の上に手を伸ばしていた。

 酷なことを。

 チビに頼むことじゃないだろ。ご学友に頼めよ。

 そのご学友は、鞄の上に体重をかけ、必死でふたを閉めていた。

「ほらよ」

 パンを放ると、ヴァンストンは反射的に飛び退いた。

「な、なんだ?」

「差し入れ。腹へってるだろ?」

「デュール、いいとこに来たわ。あれとって。エドアルじゃダメなの」

「脚立使えよ」

「だって、持ってくるの、面倒くさいんだもん」

 残りのパンをふたりに渡して、ヒースは手を伸ばした。

 埃だらけだ。

「こんなガラクタ、どーすんの」

 咳きこむ。

「失礼ね!」

 舞いあがる埃に、リズとエドアルは顔をしかめた。

 いや、エドアルのほうは、埃のせいばかりではないらしい。

 睨むなって。あんたの背丈は、オレのせいじゃねぇよ。

「あっ!」

 リズが声をあげた。

「あたしの! 飲んじゃダメ!」

 ヴァンストンがパンを平らげ、コップの赤い液体を飲んでいる。

「後で飲もうと思って、とっといたのに!」

 イヤな予感に、肌がピリリとした。

「なんだ?」

 リズは舌を出して笑った。

「内緒よ? もったいないから、ちょっとだけもらってきちゃったの。さっきのイチゴジュース」

 反射的に体が跳ねた。

 コップを奪い、ヴァンストンを床にうつぶせにした。

「吐け! 今すぐ!」

「なにをする! この下賤……」

「死にたくなかったら吐け! そいつは毒だ! リズ! 水を持ってこい! 今すぐだ!」

 ヴァンストンは疑うようにヒースの顔をうかがい、その迫力に気圧され、凍りついた。

 リズは部屋を飛びだし、エドアルは蒼ざめてすわりこんだ。

「死、死にたくない……」

 ヴァンストンが情けない顔をした。

「じゃあ、吐け! とにかく、すぐ吐け!」

 背をさする。

 ヴァンストンは口を開けた。

「ダメだ。吐けない」

 ヒースは、そのノドに指を突っこんだ。

 ヴァンストンの目が大きくなり、苦しげに抵抗したが、やがて、ぶよぶよした赤いものを吐きだした。

 パンか。ジュースを吸いこんだな? しめた。

「くっ、苦し……」

「吐け! ぜんぶ吐け! 死ぬぞ!」

 指を入れると、もう一度吐いた。

 リズが水を持ってきた。

 それを飲ませ、さらに吐かせる。

「様子は?」

 リュウカが現れた。眉を寄せ、表情は険しい。

「コップに半分飲んだ。今吐かせてる。空きっ腹じゃなかったから、少しはマシか。まだたいした症状はない」

 いろいろとつまみ食いをしていたのだろう。吐瀉物はパンを初めとする固形物の名残をとどめていた。

 リュウカは手早くヴァンストンを診た。

「なんの毒かわかるか?」

「まだ。遅効性か、摂取量が少なかったか。確かな症状は見られないが」

「毒なんて入ってなかったのかも知れませんわ」

 水を持って駆けつけたリリーが口を出した。

「やっぱり、あれは酒屋の好意で……」

「寝言は寝てから言ってくれ。ちくしょう、とにかく吐け」

 水を飲ませ、何も出なくなるまで吐かせた。

 ヴァンストンの指先は冷たくなり、力が抜けた。目は焦点を失いつつある。

「たぶん、これが効くだろう」

 一度部屋にもどったリュウカが薬を持ってきた。

 腕に射ち、横にして毛布でくるむ。

「さ、寒い……」

 ヴァンストンが震えだした。目に涙が浮かんでいる。

「かあちゃん、湯たんぽ! 暖炉に火入れて!」

 ヒースは毛布をかぶり、ヴァンストンを抱くように横になった。

「エドアル! そっち側に寝てやれ」

「え? なにを?」

「川の字に寝て、はさんであっためてやるんだよ」

「そんなこと! 私に毒が伝染ったらどうする!」

 時が経つにつれ、ヴァンストンは苦しみだした。

「痛い! 寒いよう! 痛い!」

「どこが痛むんだ?」

「おなかが痛いよう! 寒いよう! 頭も痛い! 背中が寒い! 死にたくないよう!」

 ホッとした。意識はしっかりしている。

「息は苦しいか? 目は見えるか?」

「苦しいよう! なんとかしろ! 死ぬ!」

 かん高い悲鳴におびえて、エドアルが暖炉の前で身を縮めた。

「死、死ぬ……のか?」

 エドアルのほうがよほど酸欠だった。

「心配ない。一ニクル経った。ピークを過ぎたころだろう」

 リュウカが暖炉に薪をくべた。

「ママ。ママぁ」

 ヴァンストンがしくしく泣きだした。

「姉上、でも、うわごとを」

「気が弱くなっているのだろう」

 ベッドに寄り、リュウカはヴァンストンの髪をなでた。毛布をかけ直し、病人の肩を抱き寄せる。

 あ、ちくしょう。

「睨むな」

 リュウカは苦笑した。

「母が恋しい気持ちはわかる。おまえもそうだったろう?」

「いつ、オレがそんな!」

「腹を切ったとき」

「ガキの時分だろ!」

「騒ぐな。病に障る」

 ヤロウ!

 どさくさにまぎれて、リュウカにしがみつきやがった!

 後で覚えてろ!



 夕刻、離宮を発った。

「一瞬でも長くいたくありません!」

 ヴァンストンが泣いて訴えた。

 不安はみな同じだった。

「私もいつかはこのように」

 エドアルが震えた。

「運よく気づいて処置できるとは限りません。そうしたら……」

 リュウカは片頬に皮肉な笑みを浮かべたが、何も言わなかった。

 宰相の兵隊に囲まれて、一行は進んだ。

「馬車で寝ろよ」

 ヒースは馬を寄せた。

「影がスネる」

 リュウカは馬の首を叩いた。

「自分の体を考えろよ」

「少し気が抜けただけだ。なんともない」

 ったく、あいかわらず……。

「かわいげがないか?」

 リュウカは苦笑した。

 ヒースは首をふった。

「いつもムリして意地っ張りだよ。まったく、かわいいったらありゃしない」

 ウィンクした。

「おまえも騎士道とやらに目覚めたか? 女はすべてかよわいと?」

 からかいの声音が返る。

 ヒースは頭をかいた。

「トサカがあるのは、雄鳥だよな? じゃあ、あれはかよわくねーな?」

「なんの話だ」

「いや、こないだ、鶏小屋にご案内さしあげたんだよ」

「誰を?」

「トサカ頭のふたり連れを。たしか、名前はキャスリーンとかアイリーンと言ったかな」

「王妃と王女か!」

「リズにちょっかい出すのも忘れて、悲鳴あげて帰っちまった。待てよ。じゃ、あのトサカ、ニセモノだったのかなあ?」

 リュウカが吹きだした。

「後で面倒なことになったろう?」

「リズのじーちゃんに呼びだされた。生まれはどこだの、生みの親は誰だの、いろいろ訊かれてさ、歌でも歌ってごまかしてやった」

「ごまかされるような人間ではあるまい」

「いや。それで無罪放免さ」

「まさか」

「あれ、なんだろ?」

 人だかりが見えた。

 通り沿いにいつも見かける大きな空き家だ。

 醸造所だったものをつぶして、宿屋かなにかにムリヤリ改築したような奇妙な建物だった。

 前庭に長い行列ができており、農民や職人、少し身なりのいい地方の小貴族らしき人々までが並んでいた。

「ちょっと様子を聞いてくるよ」

 馬首を返そうとすると、リュウカが制した。

「誰か来る」

 小さな一人乗りの馬車が迫っていた。御者の体と土埃とが、乗客の姿を見失わせた。

 リズのじーちゃん?

 似ているような気がしたが、降りたってみると別人だった。

「お久しゅうございます、リュウカ王女殿下」

「ラノック!」

 箱馬車の中からリリーが叫んだ。

「おまえは死んだと!」

「私の身を案じ、表向きはそのように計らってくださったのです、ご慈愛深い王后陛下におきましては。おかげさまで今日まで生きのびることができました。残る命、王女殿下にお捧げしても惜しくはございません」

 リュウカは感動したふうでもなかった。

「あの行列は?」

 短く訊ねた。

「みな、王女殿下のご帰還を伝え聞き、またここに集い始めたのです。王后陛下とご同様、王女殿下のご執政が始まるものと期待いたしまして」

「宰相が何と言うかな」

「一日でこれだけ集まったのです。明日になればさらに倍は増えましょう。宰相閣下も見ぬふりはできますまい。殿下の執政を認めざるを得ますまい」

「あいにく、政は知らぬ。長いこと野にあったのでな」

「お任せください。王后陛下のおそばにも、その道のものが数多控えておりました。王女殿下はただご聡明な決定をお下しになるだけで充分でございます」

「私は母のように聡明ではない」

「では、あの者たちに何とおっしゃいます」

 ラノックは行列を指した。

「宰相閣下に賄を贈るがよいと? 宰相閣下のご機嫌をうかがえ、王も王妃も王女も民のためには流す汗も涙もないと?」

「そなたがすればよかろう」

「私では宰相閣下にも劣る身。民が納得しないでしょう」

「善政であれば支持を得よう」

「それは理屈。民に善政の区別がつきましょうか」

「見下したものだな」

 リュウカは首をふった。

「退がれ。話す暇も惜しい」

 隊に進むよう指示する。

「私は何度でもお願いにまいります。王后陛下のときもそうでございました。そして、ご聡明なご決断をいただいたのでございます」

「好きにするがいい」

「それはご承諾いただけたということで?」

「ひとつ言っておくが、私は母ほど聡明ではない。多くを望まれても応えられぬ」

「御意」

 ラノックは元来た道を引き返した。

「リュウカ、ありゃなんだい?」

 ヒースは訊ねた。

「昔、母が政を行ったところだ。宰相の寵を得られなかった者たちが、母を頼ったのだ」

「へえ」

 政と言われてもピンと来ない。

「サインでもするの?」

「毎日訴えを聞き、裁きをくだすのだ。法を定めることもある。詳しくは知らぬ。ただ、母はそのために、寸暇を惜しみ、書を読んでいた」

 冗談じゃねぇ。

 ヒースは思った。

 親愛なる母上とやらの真似でもされた日にゃ。

 本の虫になるのは、為政者として何か見失う気がするし、なにより……。

 オレと一緒にいる時間がなくなるじゃねーか!

 

   

 

 

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