黒炭を踏みしだき、タールを垂らし、漆で塗り固めたようなびろうどの闇に、だいだい色の光が灯っていた。
ひとつ。ふたつ。みっつ。よっつ。いつつ……。
ちょうちんに火が入れられ、中央のやぐらが浮かび上がる。裾をからげ、はっぴをたすきがけにした男がバチをふるっている。
どんがらがった、どんがらがった、どんがらどんがらどんがら……。
やぐらの下では、大きな釜が口をあけている。大人が三人は入れるだろう。そばには、黒い浴衣を左前に着た、中肉中背の男が立っている。顔にはしわ一つない。鼻も口もない。ただ、目の位置に穴が二つ空いているだけである。
やぐらの守りだ。
箏美は面の狭い視野を別方向にふり向けた。白地に黒や赤で描かれた犬や狐の面が、手足を大きくふりあげ、曲げ、伸びあがり、踊っている。やぐらを中心に、大きな輪を描いて回る。つかのまの生命を燃やし尽くすように。
そう! 生きとし生けるもの! じっとなんか、してらんないっ!
箏美は激しく体を揺らした。
リオのカーニバルだって、真っ青なんだから!
視野の端がかすんだ。白く光り、人型をなした。狐の面をつけた男だった。真っ白い浴衣を着ている。ただの浴衣ではない。丈の短い、病院で着るひとえの浴衣である。
「怜!」
箏美は叫んだ。
筋肉に乏しい細身、頼りなげななで肩、ぽってりと重い尻、どうして見まごうことがあろう? 愛しい恋人を!
「どうしてこうセンスが悪いのかな。浴衣を着ればいいってもんじゃないよ。ほらほら、もう、襟が曲がってる。帯だって、男の人はこんな上で締めないの」
浴衣ごしに腕をつかんで、輪から引っぱりだす。ちょうちんの光が弱まり、闇が優勢となる。太鼓の音が遠ざかり、鼓動が代わりとなる。
ほんの少し外れたつもりだったが、輪は急速に遠ざかった。石灯籠に灯った火が、二人の手足に光と影を作った。
箏美は手を伸ばし、恋人の着衣の乱れを整える。
「私がいないと、なんにもできないんだから!」
怜はゆっくりと手をあげた。線香花火の束が握られていた。
「やりたいの? いいけど、バケツに水を汲んでこなくちゃ」
箏美が水道を求めて辺りを見回している間に、線香花火は石灯籠の火を吸った。
パチ。
火がはぜた。
脳の奥でも火花が散った。
赤い火。踊りくねる炎。見渡す限りの炎の海。室内をなめ、人をも喰らう貪欲な略奪者。
パチパチ。
落ちる天井、崩れる壁、割れるガラス。逃さない。紅の檻の中に封じこめ、おびえる人影を焼き尽くす。衣服が焦げる。炎に包まれる。
パチパチパチ。
箏美は悲鳴をあげた。
怜の手から花火を奪い取ると、地面に叩きつけた。靴の底で踏みつける。恐れをこめて。願いをこめて。憎しみをこめて。地獄の底へ、灰と消えよとばかりに。
面が地面に落ちた。
白い狐の面である。くるくると縦に回って、裏向きに倒れた。
花火を奪う勢いで、怜の面を叩き落としてしまったのだ。
そうっと見上げると、やけどに埋もれた顔があった。鼻と呼べるものはなく、黒い髪はちりちりに焼けこげ、頬と口とは動きもままならないようだった。
ああ!
記憶が押し寄せる。
* * *
学園祭の前夜だ。
怜は演劇部の裏方だった。体育館に泊まりこみで大道具を造っていた。
箏美は管弦楽部だった。体育館の隣の部室棟でみんなと最後の仕上げにとりかかっていた。
窓から燃えるような匂いがした。煙がたちこめ、誰かが火事だと叫んだ。部室から飛びだすと、体育館は半ば火に包まれていた。
演劇部員の大半は、まだ中だった。
怜も、その一人だった。
箏美は消火用バケツの水を頭からかぶった。飛びこんだ。怜が二階にいるのはわかっていた。休憩時間に遊びに行ったばかりだったから。
煙で真っ暗だったが、視界は必要なかった。足が覚えていた。何度も、何度も、何度も通った道だ。
息苦しく熱かったが、迷わなかった。何をすべきかわかっていたから。
怜は倒れていた。いつもいる場所から少しだけ手前に。
助け起こし、煙で限られた視野で見ると、あちこちにやけどを負っていた。寝ている場所を、ちょうど炎があぶったらしい。
『もう、ダメだ』
怜がバリトンでうめいた。
『逃げられない。ひとりで逃げて』
煙を吸って、咳きこんだ。
彼は、それきり起きあがらなかった。
* * *
盆には地獄の釜のふたも開くという。
彼は黄泉から来たのだ。
炸裂音が闇夜に響きわたった。
空に大輪の花が咲く。光の花。一瞬で消える。鮮やかで美しいくせに、はかない。
手探りで怜の手をつかんだ。
箏美は夜空を仰いでいた。決して下を向かなかった。
光がぼやけた気がした。目の辺りに熱さを感じた。
気のせい、気のせい。
怜の灼けた口が開けかけて、凍りついたように引きつった。動かないのだ。喋れないのだ。もう、あのバリトンは聞けないのだ。
「あれれ」
雨が降った。局所で。
「まぶしすぎたかな。すごい光だね」
胸が苦しくなった。息が詰まった。光の洪水が、あまりに見事だったから。
いまや、空の花は満開だった。フィナーレだ。昼間のような明るさで、雷のように炸裂音を轟かす。
太鼓の音もまた激しさを増していた。
どどんどこ、どどんどこ、どどんどこどこどこ……。
やぐらの周りの輪は小さくなっていた。
この華麗なショーが終われば、やぐらの下で釜のふたは閉じる。
早くも、死者たちは次々にやぐらをくぐり、消えていく。残されるのは生者だけだ。
怜もやぐらの前に進みでた。箏美は手を握ったままついてきた。
このまま突っこめば、まともにぶつかるんだろうな。痛いだろうな。
死者は通り抜け、生者は跳ねのけられる。
黄泉の選別は甘くない。
それでも、放せなかった。
怜が手をやぐらの中に入れる。同時に箏美の手も中に入った。
へっ?
通っちゃったよ!
手を引き戻し、握ったまま、まじまじと見つめた。
ちょっと待て。まさか、そんな。
つばを飲みこむ。事実も飲みこむ。記憶の残りがよみがえる。
* * *
炎と煙の中で、箏美は椅子を持ちあげた。金属に触らないよう、板の部分を持ったが、熱かった。力を入れると痛みが走った。
かまうもんか。
振りあげて、はめ殺しのガラス窓を破った。
まだ燃えていない寝袋をかき集め、窓から放り投げた。
神さま!
箏美は祈った。
火事場のバカ力があるなら、今、あたしにそれをください! 一生分の力をぜんぶ、この一瞬に集めてください!
どうやったのか、覚えていない。
気がつくと、寝袋のクッションの上に、怜を放り投げていた。
そのまま、煙に巻かれ、こときれた。
* * *
「そうか。あたしはあの場で死んだんだ。怜は体育館から逃げられたけど、やけどがひどくて、病院で死んだんだね。だから、そんな浴衣を着てるんだ」
怜がうなずく。
「でも、待てよ。死人って、この世に未練がなきゃ現れないよね?」
箏美は首をかしげた。
「あたしって、なんの未練が? 怜を助けられなかったこと? でも、それって、先に死んじゃったから知らなかったんだよね? 全力は尽くしたわけだし……。それに、怜も未練があるんだよね? うーん」
怜が握った手を掲げてみせる。
そうか。
箏美は笑った。
未練はこれだ。
ぎゅっと、握る手に力をこめる。
ずっと、一緒にいよう。この先もずっと。永い未来を。
怜は、不器用に口の端を引きつらせていた。
箏美は力強くうなずく。
手に手をとって、やぐらをくぐる。
花火の音が遠ざかる。
-----------------------------------
【あとがき】
箏美(そうび) ……「そうび」といえば「薔薇(そうび)」。薔薇といえば、ローズの姐(あね)さん。
怜(れい) ……「れい」といえば「レイフ」。
ええっと、「赤き山のあなたに」そのまんまっていうか(笑)
この話は大急ぎで考え、仕事の最中にあらすじが完成したんですが。
涙が出てきてマズかったっすよ(笑)
しかし、怜って、なんとなく情けない男だ。
おなじ「れい」なら、玲司のほう(永瀬玲司)を見習えってんだ。