肩に感じている重み。
 カーブに差し掛かったバスが大きく揺れて、鼻先をシャンプーや整髪料の香りが掠めた。
 それからすぐに肩への負荷は消えて、膝へと移る。
 沢田綱吉は苦笑して、自分の膝の上に突っ伏したまま眠り続ける少年、獄寺隼人を見下ろす。
 眠ったままでも身体は無意識に寝心地のよい体勢を模索するのか、獄寺は小さく呻きににた声を漏らしてツナの膝に顔を擦りつけ、身体の位置をほんの僅かに動かしてから無防備に力を抜いた。
 妙に幼い仕草に、ツナは目を細める。
 なんで笑ってんだよ。
 胸中で漏らした呟きは、自分と獄寺両方に向けたものだ。いい夢でも見ているのか、熟睡する獄寺の口元は、いっそ腹立たしいほど幸せそうに笑みの形に綻んでいた。そんな獄寺を見ると、ツナは自分でもよく分からないけれどなんだか無性に嬉しくなってしまう。
 身動きに乱れた髪を手ぐしで直してやろうと触れてみれば、その髪の手ざわりが存外に心地良くて、ツナはついその髪を撫で、指に絡ませて遊んでしまう。こしのある髪は指に巻きつけてみてもすぐに解ける。何度やってもすぐに指から逃げて行くのがなんとなく不満で、ツナは躍起になって獄寺の髪の毛を指に絡ませていたが、そうやって弄り回していてもクセひとつつかない。そんなことを繰り返していると、やっぱり違和感があるのか獄寺が小さく身じろぐから、ツナは心の中で謝り、弄んだ髪を最後に数回撫でて整えてから手を離した。
「ツナさん、起きてます?」
 待っていたようなタイミングで声をかけられて、ツナは身を竦める。
 鼓動がひとつ跳ねた。
 悪戯を見咎められたような後ろめたい気持ちと、それだけじゃない気恥ずかしさが一気に胸に広がる。
 脚も微かに跳ねさせてしまい、膝の上の少年を起こしてしまったのではないかと焦るがさりげなく確認してみれば変わらず規則正しい呼吸を繰り返しているから安堵して、それから一呼吸入れる。必死に気持ちを落ち着けながら、ようやく背後の声に答える。
「起きてるよ。ハルも起きてたんだ? みんな寝ちゃってるのかと思った」
 ツナと獄寺の後ろの座席には、イーピンとランボの間に挟まれてハルが座っている。二人掛けの座席だが、子供二人と華奢な少女には十分のスペースだった。少し離れた一人掛けの座席には山本がリボーンを抱えて座っていた。
「ハルとツナさん以外は、みんな遊び疲れてすぐ眠っちゃったみたいですね。ランボちゃんとイーピンちゃんの寝顔、もう天使ですよ! ツナさんにも見せてあげたいです」
「いや、オレは別に……」
 家で見慣れている二人の寝顔を思い出して、あれを天使みたいと表現するのかと思ったツナは、やっぱり女の子は――とりわけハルは、夢見がちなんだなと思う。
 それから、膝の上の少年を見下ろして、自分はさすがにそこまでじゃないぞと胸中で誰にともなく弁明して、でも、もしかしたら、なんて流れて行きそうになる思考を必死に引き戻した。
「獄寺さん、熟睡ですか?」
「うん、うとうとって感じじゃなくて、完全に寝ちゃってる。獄寺君も早かったよ。座ったと思ったらもうソッコーだった」
 座席に腰を下ろして、獄寺の「楽しかったですね」という声に頷いた後、照れくさそうに聞き取りにくいほどの小声で続けられた「次は二人で来たいっス」という言葉になんて答えようかと少しの間悩んだツナが、思いついた言葉を同じように小声で伝えようとしたときにはもう獄寺は規則正しい寝息を立てていた。
 拍子抜けして、ちょっとだけ腹立たしくもなって、それなりに勇気を出して告げようとしたとっておきの言葉だけれど、もう絶対に言うもんかなんて悔し紛れに考えて、けれど寝顔を見たらなんだか理由なんてなく、ただひたすら満たされた幸せな気持ちになってしまった。無条件降伏、もしくは無条件幸福というべきか。寝顔に幸せにされてしまったことにまたちょっとだけ悔しくなったりもしたけれど、そんな感覚も、遠慮なく肩に寄りかかってきた重みに愛しいと思わされてしまえば、その気持ちの中に溶けた。
「どうせ寝ちゃうんなら、帰りくらいハルに譲ってくれてもよかったのに! ハル、ツナさんのとなりに座りたかったです、でも……」ハルはクスクスと吐息で笑った。「ツナさんのとなりに座ったら、ハルも寝ちゃってたかもしれません」
「なんだよ、オレ枕かよ!」
「そういうのじゃないですよ」ハルはまた笑った。
 バスに乗る前は赤かった空には、もう星が見える。自分たちが下りるバス停はもう少し先だった。
「今日、楽しかったですね! また行きましょうね、ツナさん」
 軽く相槌を打ちかけて、ツナは躊躇った。気にした様子もなくハルが続ける。
「こんどはビアンキさんや京子ちゃんも一緒に! お弁当持って行きたいです。女の子でお弁当用意しますから、ツナさんたちは荷物持ちですよ」
 ビアンキにはゴーグルをつけてもらうにしても、ビアンキの弁当はヤバイだろうとツナは苦笑を漏らした。
「なんか変な感じです。みんないるのに二人きりみたい。いつもハルとツナさんがこんなふうに話してたら絶対口挟んでくる人がおとなしいからですね、これは」
「獄寺君のこと?」
「なんなんでしょうね、その人。ツナさん肩凝らないように適当なとこで押しのけちゃえばいいと思います」
 ハルの言葉は、その内容に反して欠片も刺々しいものが感じられなかった。その声のトーンはむしろランボやイーピンに話しかけるときのものに近かった。ツナはそれを心地良く感じた。
「最初は肩だったんだけど、今膝の上だよ。スッゲー重い。動けない」
 本心ではない。ツナは、つい獄寺の髪に手を伸ばしてしまう。眠っているからこの会話を聞いているはずはないのだけれど、獄寺の重みを嫌がっているわけではないと知らせるような気持ちで髪を撫でれば、なんだか愛撫じみた触れ方になってしまう。ツナはちょっとだけ焦ったが、髪を撫でる手は止まらなかった。
 本当は、安心して眠ってくれることが嬉しい。
 ここにいるのが自分でよかった。
 この髪を撫でる、触れている手が、自分のものでよかった。
 でもホントは、ただ手触りがいいから、ただそれだけかもしれないよと自分に言い訳をする。
「獄寺さんなら、イーピンちゃんとランボちゃんを合わせたよりも重いですよね」
「ハル、そっちと変わってよ」
 獄寺の髪に、指を絡める。
 自分たちが動けば確実に三人を起こすことになる。あと少しでバスを降りるこの状況で交代なんてするはずがないと分かっていて、わざと言えば。
「嫌です! それに無理ですよ」
 その即答に、ツナは獄寺とは犬猿の仲のハルらしいなと思った。
 だって、と続けるハルの声を、左右から二人の子供にしがみ付かれている少女の姿を思い浮かべながら聞いていた。
 家でゲームをしているときや、食後の休憩にテレビをみているうちに、自分がその状況を強いられることは少なくない。熟睡する子供は驚くほど重たくなる。
 だからツナは、だって自分も動けないからと、ハルの言葉はそんなふうに続くのだと思っていた。
「だって、ツナさんだから凶暴な獄寺さんがそうやっておとなしく眠ってるんです。こんな話し声にも起きないくらい熟睡してるんですよ。ツナさんじゃないと無理です」
 ドクンと大きな音が頭の中で響いた。
 眩暈がしたのは、きっとバスが揺れたせいでそう感じただけ。
 気のせいなのだ。
 きっとハルには気付かれてないと思うけれど、それでも息を詰まらせてしまうという過剰な反応をした自分にばつが悪い気持ちになるから、咳払いをして窓の外を見る。そこには夜の景色より鮮明に車内が移っていた。ツナは深く息を吐く。一瞬だけ曇ったガラスはすぐに透明に戻って、そこにあからさまに動揺して戸惑った表情をした自分の顔が見えて、いたたまれずに目を逸らせば、今度はどこか得意げで楽しそうな表情が子供っぽいのに、眼差しが大人びた少女と視線が絡む。
 不意に何かに似ていると思った。
 人の心を遠慮なく読んでくれる家庭教師、憧れのガールフレンド、なんだかんだ文句を言っても甘えが出てしまう母親、意識しないようにしてもなんとなく消せない父親の影。
 膝の上で眠る少年。
 きっと目を逸らしたら負け、そういう状況なのだとツナは思う。
 優しく包み込むような微笑みをむけられて、首が、膝が、指先が、不意に熱くなったけれど。
 本当はもっと前から熱くなっていたのかもしれないと思うけれど。
 きっと全部気のせいだ。
 そうじゃなかったら、獄寺隼人のせいだ。そっちのほうがしっくりくるかもしれない。
 そんなふうに少しの間足掻いて、ツナはたった今通過したバス停の文字を読む。
「あ、次だ。ハル、そいつら起こせよ」
 上擦ってしまった声に、完敗を自覚する。
 けれど、決してツナの負け惜しみではなく、そこにいるのは本当は張り合ってもしかたない相手だった。