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「お試し期間と片道切符」 「……好き、かも」 ぽつりと水谷が呟く。栄口は閉じた教科書を落としそうになった。 無言で水谷を凝視する。水谷は栄口の視線に気づかないのか、気づいてはいるが気にならないのか、足を投げ出して座ったつま先のあたりに視線を落としたまま妙に機嫌よさそうに続けた。 「うん! 栄口の声、オレ、すっげー好き。前に古典教えてもらったときも思ったけど、なんか特徴的で耳に残るんだよな」 「特徴的ってのはよく言われるよ。癖がある声だからな」 好き、なんて言われたのはさすがに初めてだけれど。 栄口は動揺を押し隠して軽く返した。 声が震えてしまったかもしれない。おかしな表情になっているのではないかと不安になる。顔色はどんな状態なのだろう。 好きだと呟いた水谷の声が、耳に残っている。 「助かったよ。ありがとー、栄口! もう完璧に暗記できた。今日のテストいける! 栄口の声のおかげだよ」 「誉めてるつもりかもしんないけど、言われた方はびみょーだぞ、それ。まぁ、役に立てたならよかったよ」 「なんでビミョーなんだよ。ホントに好きだよ。またテスト前、頼んでいい? 古典はもう栄口の声なしじゃ無理だよ。テープに吹き込んでほしいくらい!」 「おまえ、それはいくらなんでも冗談でも言いすぎ!」 表面だけ取り繕って、内心では必死になって気持ちを落ち着けようとしている栄口に気づくこともなく、水谷は自分が思いついたとっておきの作戦を話して聞かせる得意げな子供の顔をして見つめてくる。 「そだ! 栄口が一番苦手な教科ってなに?」 「ん……数学、かな」 「じゃあ、オレ、栄口のために数学だけは完璧にしとくから! どんなに眠くても数学だけは寝ない! 栄口の数学はオレに任せて! だから、古典はヨロシク! な?」 晴れ晴れしく笑う水谷に見とれて、慌てて顔を伏せて足元を見る。正面から見つめてしまったことを心底後悔した。 高鳴る鼓動で、聴覚まで狂わされていく。うるさいほどの鼓動を打ち消すように、耳に残る水谷の声が、頭の中で繰り返される。 もう何が不安なのか分からないくらい、すべてが不安でたまらない。 もう何が怖いのか分からないくらい、とにかく怖い。 ヤバイ。 とんでもなくまずいことになっている。 水谷がいる側の半身が、ひどく熱くなっているように錯覚してしまう。水谷を全身で意識している。 勉強なんて水谷にだけは教えられたくない。そんなの一番効率が悪い。一緒に勉強なんてしたら、絶対に身が持たない。公式のひとつだって頭に残らないのが分かりきっている。 そう、もう分かりきっているのだ。 この感情のことなんて、本当はとっくに分かっていた。気づかれたら困ると考えたこと自体がその証拠だ。 無理やり分からないふりをし続けていた。どうかしているとも思うけれど、もうごまかせない。取り消せないところまできてしまっている。 今の自分の気持ちがすべて余さずに水谷に伝わるようなことになったら、それがどんな意味でだとしても二度とこの身を前にして軽々しく『好き』なんて口にすることはなくなるだろう。今までのように見つめることも許されなくなる。嫌悪感に満ちた態度で拒絶されるのは想像に容易い。 自覚したところで結局、隠し続けるしかない。できなくてもやるしかない。誰にも知られるわけにはいけない。 水谷のことが、好き、なんて。 「栄口?」 完全に俯いてしまった栄口に、さすがに疑問を持ったのか、水谷は体調を気遣うように肩に手を置いて顔を覗き込んでこようとする。栄口は逃げるように顔を背ける。対処法としては間違っているのは分かっていたけれど、それでも逃げるよりましな行動は何一つとしてとれそうになかった。下手に取り繕おうとしたって、どうせすべて裏目に出るのだ。 「どうした? 気分、悪い?」 「ごめん、ちょっと……」 ベンチの端ギリギリの位置で水谷を避けようとすると、本当に落ちそうになってしまう。いっそ落ちてしまった方がいいのかもしれないと、ちらりと頭の片隅で思う。肩や腿が、水谷の体と接触している。その状態が、栄口のもうほとんど残っていない冷静さを容赦なく削る。 頬に水谷の吐息がかかった。 |