+++年があけて 3+++


 急に水谷につかまれている手首の感覚がなくなる。さっきまで水谷の指の感触、そのぬくもりも皮膚の柔らかさもはっきりと感じ取れていたのに、痺れたみたいにすべてが分からなくなった。
 自分の鼓動はうるさいほどに聞こえる。
「深読みってなぁ……」
 成人してから浮かべる機会の増えた、何も意味を持たない笑みを口元に作りかけて、栄口は途中でぴたりと動きを止める。
 真剣な顔つきをした水谷が静かに、しかし躊躇いなく身を寄せてきたからだ。俯き加減の栄口の顔を下から覗き込むように顔を近づけてくる。
 唇に水谷の吐息を感じ、すぐに我に帰って慌てて身を引けば、栄口は階段の段差に背中をぶつけることになった。勢い余ってそのままずるりと尻を滑らせ、階段から転げ落ちかけたが、水谷が空いていた手で栄口の腰をしっかりと抱える。
 礼を言うべき場面なのか、この腕を振り解かなければならないのか、栄口は判断できなかった。しかし、後者はやれと言われてもできる自信がない。
 腰に回された水谷の腕をつかむ。その手をそこからどう動かせばいいのか、栄口は躊躇して、ギリギリ表情が確認できるだけの距離にある水谷の顔へと視線を戻す。視線が再び絡むと、水谷はすぐにほとんど覆いかぶさるような体勢になって、また二人の距離を詰める。目を合わせてしまったのは失敗だったのかもしれない、栄口は思った。
「みずっ、たに……、おいっ」
 カタンと小さな物音が響く。
 身を竦めたのは同時だった。
 一瞬二人で視線を交わし、揃ってドアを見れば、水谷が挟んでいたフリーペーパーが内側に滑り込むように消える。カチャと小さな金属音が響いた後、すぐにドアが開かれた。
 手首をつかむ手だけ残して、水谷が栄口から僅かに距離を取る。
 咄嗟に栄口はつかまれたままの腕を下ろし、二人の身体の間に隠していた。水谷が驚いたように視線を寄こしてきたことに気付いたが、ドアから目を離すことができなかった。
 これで共犯になってしまった――どうしてそんなふうに感じるのか、それがどういう意味なのかも分からず、ただなんとなくそんな気分になった。
 開いたドアから、阿部の眠たげな顔が現れる。阿部はしっかりと上着を着込んでいたが、吹き抜けた強い風に目を細めると、首を竦めて小さく寒いと零して呻いた。
「てめーら、随分長ぇトイレだな」皮肉っぽく口元を歪めながら、阿部はフリーペーパーをパタパタと振る。「コレ、なに?」
 定期的に発行されているそのフリーペーパーの誌名を水谷が即答すると、阿部は「んなこたぁ、見りゃ分かんだよ」と眉間に深い皺を刻む。
「もう時間かぁ? わざわざ呼びに来させてゴメンな、阿部。それはドアがオートロックで施錠されちゃうからって水谷が挟んだんだよ。いい目印にもなったみたいだね」
 まず謝罪してから栄口が説明をすると、阿部は納得したように頷き、眉間から皺を消した。
「なるほどな。水谷ってこういうとこだけは抜け目ねぇのな」
「ヘヘン、得意分野ですよ」
 感心したように言う阿部に、水谷が胸を張る。その水谷の態度は、さっきみんなで騒いでいたときと大差ない。
「別に褒めてねぇっての」高校生のときより少し性格の丸くなった阿部は、呆れ顔でため息混じりに笑った。「先に下降りてるぞ。金はとりあえずまとめて払っとくから、下で清算な」
「うーす」
「うぃー」
 栄口と水谷は一度個室へ上着を取りに戻らなくてはならない。扉が閉まってしまわないように支えて待ちながら、阿部が二人から目を離して「今行くから!」と声を張り上げる。「もうエレベータ来るぞ」と巣山の声が返ってきた。残りのメンバーはすでにエレベータ前に待機しているらしい。
 腰を上げながら水谷を見ると、同じく中途半端な体勢の水谷が視線を寄こしてくる。
 立ち上がり、一段降りたところで足を止めて水谷を見上げる。見つめて、見つめ返されて、しっかりと絡ませた視線の先で、栄口よりずっと高い位置にある水谷の瞳が僅かに揺れた。
 水谷の指がそっと名残惜しげに栄口の手首を撫でる。それだけで痺れたようになっていた栄口の手に、感覚が戻ってくる。トクトクと速い脈拍を刻みながら手首に血が通っていくのを強く意識させられた。触れ合っている部分に熱が集まっていく。
「そうだっ」と大きな声を上げた阿部が、それまで外の冷気が建物内に入り込まないように細く開けていたドアを大きく開け放つ。その声に気圧されたように、水谷と栄口は互いに明後日の方を向いて目を逸らした。同時に離れた腕。二人とも自然に身体の横に下ろした。その動作の途中で一度、二人の手の甲がぶつかると、栄口の鼓動は覿面に跳ねた。
 それまでずっと手首をつかまれていたのに、いまさら手の甲が触れただけで動揺してしまうなんてどうかしていると栄口は思った。
 二人のそんなやりとりに気付いた様子もなく、阿部は栄口にぴっと人差し指を向けてきた。
「栄口、おまえこないだオーディオがどうとか言ってただろ。それ、今日聴きに行ったらまずい?」
「え? ああ、阿部そんなに興味あったの。意外」
 不意の申し出に面食らいつつ、別に構わないけれどと答えかけた栄口の声を、阿部の声が遮る。
「なんかもう帰んのめんどくせぇ。おまえの部屋ならここからそんな遠くねぇだろ」
「おまえ、調子いいよなぁ」
 本音はそっちかと、栄口は腕を組んでため息を零す。
 しかし、本来阿部はどちらかといえば損な役回りになることが多い要領の悪い男なので、この図々しさは付き合いの長さからくる甘えだと分かっているから、こんな言動も微笑ましく思いこそすれ、悪い気はしない。
 腕を組んだまま、あらためて身に染みる夜の冷え込みを実感する。水谷と並んで座っているときも寒かったけれどここまでじゃなかった。特に水谷が座っていた側の半身は、暖かいくらいだった。栄口は小さく身震いしてドアに駆け寄った。
 阿部の背中の向こうから、西広たちの「エレベータ来たぞ」と急かす声が聞こえてくる。栄口がドアをつかむと、それまでドアを支えていた阿部はすぐに手を離し、じゃあ後でなと背を向ける。
 通路にはすっかり外の冷気が入り込んでいたが、それでも吹きさらしの非常階段に比べれば数段暖かい。先に内側に身を滑り込ませた栄口は、水谷が入ってくるのを後ろ手にドアを支えながら待っていたが、漠然とした違和感に振り返った。
 鼓動が一つ大きく跳ねた。
 暗い非常階段で俯いてつっ立ったまま、水谷は全く動こうとしない。
「水谷?」
 呼びかけるとその肩が小さく震えた。
 水谷の唇が小さく動く。何かを言ったようだが、声はほとんど風にさらわれてしまって、栄口には聞き取れなかった。
「水谷、おまえどうしたんだよ。とりあえず中入れって、んなとこつっ立ってても寒いだけだろ」
 顔を上げた水谷は、強い目で栄口を見据えた。けれど、それは安定感を欠いた、極限まで研ぎ澄ませ張り詰めているような、危うさを伴う強さだった。
「またなかったことにする気? そんなことさせねぇから」水谷は悔しそうに顔を歪める。「オレは本気なんだ。どうやったらソレが栄口に伝わんの。アレじゃ足りない? 教えてくれよ、そのとおりにすっから。今のオレは何でもできるぜ、この感情以外は何も持ってねぇんだかんな」
 決して声を荒げているわけではないのに、頭の中に響くように、水谷の声は栄口に届いた。
 栄口の背後に聞こえていた、足早にエレベータに向かっていた阿部の足音が止まる。
「阿部君、どうかしたの」三橋の声だった。
 水谷の話した内容までは中の連中には聞こえていないはずだ。しかし不穏な空気は伝わるのだろう、仲間たちのざわつく声が聞こえる。栄口は半ば無意識に振り返る。
「阿部、ゴメンっ! 今日はもう水谷と約束してんだ……」
 何を言っているんだろう、と口にしたそばから栄口は思った。頬がひどく火照っている気がする。もしかして自分は赤面なんてしているんじゃないだろうか。栄口は走ってこの場から離れてしまいたい衝動に駆られた。
「あ、えっと……それでも阿部が構わないんだったら来る?」
「水谷とおまえか……だったら眠れなさそうだからいい。おまえら、人が寝ててもべらべらしゃべり続けそうだもんな」
 あっさりとそう答えると、阿部はさらに「のろのろしてねぇで、すぐ下りて来いよ」と言い足してエレベータに乗り込む。エレベータはすぐに閉まって動き出した。
 ドアを支えていた栄口の手に、冷たい手が重ねられる。栄口がドアから手を離しても、その手は栄口に触れたまま離れていかない。
 狭い隙間から静かに身を滑り込ませてきた水谷の背後で、今やっとドアが閉じた。
 栄口の指の間に、水谷の指が割り込んでくる。仲のよい恋人同士が手をつなぐような形で栄口の手を握ると、水谷はその手を小さく引いた。簡単にバランスを崩させられた栄口は、水谷に寄り添うような体勢になってしまう。慌てて身を起こそうとしたが、それより先に水谷がさらに手を引き、栄口の耳元へと唇を寄せてきた。
「ねぇ……、いいの? 栄口」
「って、それはどっちかっつーと、オレのセリフじゃね? 勝手に水谷がうちにくることにしちゃったけど、よかった?」
「そうじゃないっしょ。阿部が泊るのと、オレが泊るのじゃ、意味違うよ」
 息を吹き込むように囁いた水谷の声は、妙にたどたどしくて、栄口には艶かしさよりも子供の内緒話のような印象を抱かせた。さっきの水谷から感じた危うさが、今はもうない。
 顔を上げた栄口は、まずその近さにドキリとして、次に水谷の頬と目元の赤みに驚かされた。
「それとも栄口はそうやってはぐらかそうとしてんのかよ。さっきオレが何しようとしたか、いくらなんでも分からなかったわけじゃねぇよな? オレは深読みするよ。期待だってするんだよ。自分の都合がいいようにしか判断しねぇぞ」
 水谷自身ひどく戸惑っているのだろうと分かる、ふて腐れた子供のような話し方になっている。どうしていいか分からずに、栄口は顔を伏せて唇を尖らせる。そうしてから、今の自分の態度が隣の男とそっくりだと自覚する。頬や目元の赤みも同じなのかもしれない。
「そんなん急に言われても知らねぇよ。ただ……一緒にいたいって思った」
 それは栄口の素直な気持ちだった。危なっかしく見えた水谷を一人にしておけないとは思ったが、それよりなにより、栄口が水谷と一緒にいたかった。
 ずっとそう思っていた。
 水谷が息を飲む。同時につないでいる手から僅かに力が抜けるから、その隙に引き抜こうとすれば、それを見越したようにしっかりとつかみ直されてしまう。
 この腕だって同じじゃないのかと栄口は思う。きっと水谷も同じ気持ちだから、栄口を離さないのだ。期待かもしれない。同じであってほしい。
 水谷が匂わせている内容が理解できないわけじゃないけれど、それを突きつけられても困る。特別な心の準備なんて何もしていない。高校生のときはそれでよかったはずだ。ずっと一番近いところに、当たり前みたいにお互いの居場所があった。理由も覚悟もいらなかった。ここに居るのが、離れている間もずっと栄口の心の中に住み続けていた水谷文貴なのだと思ったら、離れがたくなった。
 これが甘えだなんて分かっている。
「栄口って、なんかずっりぃのな」
 赤い顔のままこれ見よがしに不満そうに零した後で、水谷は少しだけ頬を緩ませた。