+++年があけて 2+++


「わりっ、オレ実はトイレ行きたいの我慢してたんだ! ゴメン、水谷!」
 栄口は勢いよく立ち上がり、その動きでずれた眼鏡を片手で直す。
 曲はもうイントロからAメロに入ろうとしていた。
「え?」水谷はきょとんとした顔つきで栄口を見上げる。
「余韻ダイナシだな。おまえ、カラオケでも緊張すんのか?」いまだにそれかと呆れた声で阿部が口を挟んできた。
 内心で阿部に感謝し、栄口は反射的に、という態度を取り繕って言い返す。
「ばっ、違うよ! 小便だってば。おまえこそいまだにそれかよ。阿部はほんっとひどい奴だよ、一生言いつづけるつもりだろ。性格悪いぜ」
 唇を突き出し気味に、少し頬を膨らませてこれ見よがしに不満をアピールしながら個室を出る。
 ドアを閉めて、ため息を一つ。
 ちょっとわざとらしかったかなと思い返して、もう一つため息をついてから左右を確認し、非常口と書かれた右側に進む。
 鉄の重い扉を開ければ、吹きさらしの非常階段に繋がっていった。
「っ、寒ィ……」
 上着は部屋に置いてきてある。早めに引き返した方が良さそうだ。
 栄口は肩を竦め、自分を抱きしめるように小さく腕を組んで階段に腰を下ろす。
 こんなとき煙草一本で適度に時間を潰して気分転換できたら楽だろうにと栄口は思う。試したことはあったが、たった一度、ほんの一口喫煙してみただけで、これはないなと判断した。喫煙はどう考えても自分向きじゃなかった。
 ふと足元をみると、吸殻が二本落ちていた。考えることは皆同じかと苦笑する。
 風の音に小さな金属音が混ざるのを聞き取って顔を上げると、同時に自分が今通ってきたドアが開かれた。栄口は反射的にビクリと身を跳ねさせた。
 小さく開けたドアの隙間からひょいと、顔を覗かせたのは水谷だった。目が合うなり、へらっと緊張感のない顔で笑いかけてきた。
「栄口ー、非常階段でションベンしたら怒られると思うよ。とめないけど」
「とめろよ! とめてくれよ」栄口は思わず笑って「つーか、ふつーに捕まるだろ、ソレ」
 次は水谷の曲だったのに歌わずに出てきたのかと疑問に思ったが、それを聞くのはなんとなく躊躇われた。
「ね、となり座っていい?」
 水谷は一度ドアを振り返って何かごそごそと弄り、栄口の横に腰を下ろす。ドアには何か厚みのある冊子が挟まっていた。少し開いたままになっている隙間から、細く光が伸びている。首を傾げる栄口に、水谷が耳打ちする。
「このドア、一回閉めると外から開かなくなるよ。だから通路のラックにあったフリーペーパー持ってきて挟んだの」
「おまえ、そういう悪知恵よく働くなぁ!」
「えへっ。栄口に言われると照れるね」
 あれ、照れられるほど褒めてはいない気がする――と栄口は思ったが、そこはつっこまないことにしておく。
「オレ危うく締め出し食らうとこだったんだな。助かったよ」
「ついて来てよかったよ。ドアから出て行った栄口がトイレとは反対方向に行くから気になってさ」
「よく見てんね」
 寒さのせいか、水谷の頬の赤みがじわじわと増していくのを、栄口は興味深く見つめる。水谷は落ち着かない手つきで前髪を弄りながら、ぎこちなくまばたきを繰り返した。
「いや、実はすーっごい酔ってて、ほんとにここでしてたらどうしようって半分くらい本気で考えてた」
「半分って、多くない?」
 眉をひそめながら頬を引きつらせて言えば、水谷はにやりと笑い返してきたが、その表情からは徐々に笑みが消えていく。
 頬を上気させながら、水谷はまるでどこかが痛むみたいに目を細めた。
「あのさ、オレと歌うの嫌だった?」
「……いきなり切り込んできたね」
「だって、実際かなりへこんだもん。すげー気持ちよかったから、もう一曲ちゃんと一緒に歌ってほしいって思ったのによぉ。正直さ、西広と一緒に歌ってんの聞いてたときは、なんかむしょーにイライラした。だから、一曲目は西広の続きだったけど、二曲目は最初から最後まで二人で歌いたかったんだよ。栄口は、」
 小さなため息を吐いて、水谷は緊張した声で続けた。
「オレが嫌だった? 曲が嫌だった?」
 真っすぐ正面から向かい合ってきた水谷をはぐらかすことはできない、それだけはしてはいけない。一呼吸置いて溜めて、栄口は覚悟を決めて答える。
「ファルセットで歌える曲なら、おまえと歌いたかったよ。嫌なのは……自分の声なんだ」
 背中を丸めていた水谷は、ぴしっと身を跳ね起こすと目を見開いて栄口を見る。見つめ返せば、水谷は何かを言いかけて飲み込み、ゆっくりと頷き、そのまま深く俯いてしまった。腑に落ちたらしい。
 水谷文貴という男は、昔からときどき妙に察しがいい。良すぎて戸惑わされるくらいに。
 高校生の頃から今まで、栄口が自分から進んで歌う曲は、ラップに近いものや普段話しているときの声に近いトーンで勢いとリズムのノリだけで一気に歌いきれる曲ばかりだった。水谷はすぐにそこに思い至っただろう。二人の好きな数々の曲も、ハミングやちいさく口ずさむ以外では栄口が歌うのを聞いたことがないはずだ。栄口に水谷の前で歌った記憶がないのだから。
「ファルセットも恥ずいけど、ふつーのはもっと恥ずかしいの。オレの声ってね、歌になると、鼻にかかってるっぽいっつーか、わざと喉に負担かけて無理やり作ってるみたいに聴こえる、ものすごいクセ声なんだよ。目つきが悪いとか、あちこち色素が薄いとか、いろいろコンプレックスはあるけど、声はその中でもダントツ。本気すぎて今まで誰にも言えなかったくらい。この話すんのおまえが初めてなんだぞ」
 両腕で抱えた膝に額をつけて丸くなった水谷が、ぽつりと問いかけてきた。
「歌うこと自体は、嫌い?」
 正直分からない。声は大嫌いだ。けれど、歌はと言われたら、切り離して考えるのが難しい。ただ、水谷と歌うのは本当に心底楽しかったし気持ちよかった。
「ギターのが好き、かな」
 少し笑って栄口がちゃかすように答えると、水谷は顔を上げて抱えていた脚を下ろし、真剣な目を向けてきた。
「オレは好きだと思うよ」
「え? そりゃおまえは好きだろうなって、オレから見ても思うよ」
「そうじゃなくって!」水谷は子供が癇癪を起こすように眉間に皺を寄せた。「オレは、栄口がホントは歌うの好きだと思うって言ってンだよ。駅前でギター弾いてくれたとき、オレが歌いたそうだから歌わせてやりたいって思ってくれたんでしょ? それって、栄口も歌うことが好きじゃないと出てこない発想だよ」
 幼いのころの栄口は歌うのが好きだった。大人たちに褒められて、得意になっていた。自分の歌声に自信があった。
 しかし、ある時期からはずっと、ごまかせるときなら口パクで通したりわざとぼそぼそ話すように歌うようになった。
 年末の深夜、ギターを弾きながら、歌が上手いはずなのに全く歌えていない水谷を見て、息苦しくなった。思いっきり歌わせてやりたいと思った。
 水谷はすごいな、と栄口は純粋に感心する。栄口が今まで一度も考えてもみなかったこと、初めて問われて分からないと放り投げようとしたことを、短時間でぴたりと言い当ててしまった。
 ここにいるのが水谷だからだ。栄口は自然と話し始めていた。
「水谷のいうとおり、かも。オレさ、実は軽くトラウマっぽい経験があって……いや、そういう言い方すると大げさすぎてアレなんだけど、まあ、幼心にショック受けたことがね。幼稚園の頃、ボイストレーニングとか声楽っつーほどカッコイイもんじゃないけど、歌の教室通ってたんだよ……」
 何の話をするのかと問いたそうに栄口に視線を向けてきたが、水谷は急かさず小さく相槌を打つ。水谷のタイミングの取り方や、声のトーン、眼差し、すべてが栄口にとって話しやすい空気を作る。栄口は気負わずに、身体も気持ちも楽にして話を続ける。
 楽器屋に併設されていた音楽教室。ピアノのレッスンを受けていた姉のおまけ程度のものだが、幼い栄口はそこで歌を習った。褒めて伸ばすという目的もあったのだろうが、栄口は確かに飲み込みが早かったし、発声も安定していて、やたらと絶賛された。
「幼稚園のお遊戯とかじゃオレもみんなとの違いなんて気にならなかったんだと思うんだけど、小学校上がったらさ、学校の授業で音楽あるじゃん。そこで歌ったら、歌い方がみんなと違うし、声も変だし」
 黙って聞いていた水谷は、そこで顔をしかめて苦しそうに呻く。幼い栄口の気持ちを考えるから、分かりたくない、納得したくないのだろうけれど、すんなり展開が読めてしまったのだ。
「子供ってさ、みんな自分は傷つきやすいのに、他人に残酷なんだよね」栄口は、僅かに目を細めて口角を上げる。
「小学校上がったばっかりとかのガキなら、みんなひたすら地声張り上げて歌う感じだもんな。その中で正しい発声で歌うと、無理やり張り上げなくても声がキレーに通るから……目立つよな」
「そゆこと。後は想像につくよね?」
 水谷は膝の上で拳を握り、低く唸って自分こそがつらさに耐えているみたいに口をへの字に曲げる。
「やだなぁ、それ、すっげぇヤダ! それって栄口は間違ってないじゃん」
「正しいとか間違ってるとかじゃないだろ、小中学生ぐらいのころって」
 深刻になるのも嫌なので栄口がへらっ笑ってやれば、水谷も息を吐いて頬を緩める。
「みんなが被ってる時期に一人だけ剥けてる奴が居ると、全員でそいつ集中攻撃にするよね」
「下品なたとえだな……。それと一緒にされんのは微妙だぞ」
「中学の時クラスに帰国子女の奴が居てさ、英語の授業で教科書とか読まされると当たり前だけどスゲー発音きれいなのね。でもやっぱからかわれたりしてて、オレもぶっちゃけそれに加わってたけど……そいつ、途中から無理してカタカナ発音で読むようになっちゃったなぁ」
 悪いことしたなと水谷が俯く。栄口はあくまで明るい調子を保ちながら、水谷の後頭部をパシッと叩く。
「小学校一緒だったらオレもおまえにからかわれてたんじゃないか」
「それはないっ! だって、オレは栄口のこと……」
 水谷は弾かれたように振り返って栄口を見つめ、そこでぴたりと動きを止めた。
「オレが、なに?」
「あ、いや……」水谷が視線を忙しなくさまよわせる。
「そうだ、英語っていえばさ、おまえももうペラペラなんだろ? 留学のときの話とかまた教えてよ」
 栄口が話題を変えると、あからさまにほっとした様子で答える。
「ペラペラってほどじゃないよ。一年間で覚えたことなんて、半年で忘れっから」
「あれ? 二年間って言ってなかったっけ?」
「お、オレの話はまた今度ね。今は栄口の話!」
 また水谷の視線が泳ぐ。はぐらかされてばっかりじゃないかと気付いていたが、水谷が相当動揺しているのが分かるので、栄口は言及しない。
「とにかくアレだ! 今すぐ小学生の栄口のとこ行って、ぎゅーって抱きしめてほっぺかおでこにチューでもして、おまえは全然間違ってないぞ、正しいぞ、すげーかっこいいぞって言ってやりてェよ。すっげぇ、悔しい」
 調子を取り戻した水谷のいつもの冗談めかした口調に安心して、栄口はケラケラと笑う。
「水谷、このご時世に小学生捕まえて、んなことしたらそれこそ一発で捕まるぞ。マジで通報されるって、洒落になんないから」
「それでもいいよ。栄口がつらい方がやだ」
 水谷はいきなり栄口の肩を抱いて自分の方へと引き寄せる。
 バランスを崩した栄口はそのまま半身を水谷の胸に預けるような体勢になり焦った。こめかみのあたりに寄せられた水谷の唇に、さらに焦りが募る。
「お、おいっ! 今のオレにしても仕方ないだろ」
 水谷の胸を押して身体を離そうとしたけれど、思いのほか拘束してくる腕は強かった。平静を装いながら軽く身を捩ったくらいではびくともしない。同じ男なのだ、本気で突き飛ばしたり暴れたりしたら離れることはできるだろうけれど、そこまでするべきなのかどうか判断できずに結局水谷に抱き込まれてしまう。
 高校生の頃より少し伸びた栄口の髪に水谷が頬を押し付けてくる。
「今気付いたけどさ、栄口の眼鏡って、いいバリケードだよね」
「意味分かんねぇ」
「本当に、分からない?」
 水谷が吐息で笑う。どんな顔をして笑っているのだろうと想像してみたが、栄口には上手く思い描けなかった。
 肩を強く掴んで抱きしめてくる水谷の腕。密着した体が熱い。
 自分が変に意識しすぎなのか、と栄口は思う。水谷にしてみたら、駅前でコートを肩にかけて抱きしめて暖めてくれたのと変わらないのだ、きっと。上着を着ないで外に出てきたのだから、水谷だって寒いだろう。二人でこうやってくっついていたら、ある程度寒さもしのげる。
 そうして栄口がこの状況を割り切ったところで、水谷が今度は空いている方の手で栄口の手首を握る。
 歌っている間、ずっと掴まれていた手首。
 その、指の感触。
 栄口は今度こそぎょっとして身を硬直させた。顔を上げようとすると肩に置かれていた水谷の手がぱっと頭に移動し、上から押さえつけながら髪をぐしゃぐしゃと撫でてきた。
「オレ、宣言しとくけど、絶対栄口の歌声好きだ。だから、いつか気が向いたら聴かせて。一緒に歌って!」
 言い切って満足したのか、水谷は栄口からあっさりと両手を離し、最初と同じように正面を向く。
 水谷なりの励まし方だったらしい。納得したら、気が抜けた。栄口がため息混じりに笑うと、水谷から不思議そうな目を向けられるから、また笑ってしまう。
「ありがとう水谷。水谷がそう言ってくれるの嬉しいよ。水谷のおかげて今日は久しぶりに歌うの楽しいって感覚思い出せたし。自分が歌うのは笑いを取るときだって諦めてるとこあったんだけどみんな褒めてくれたしさ、ホント楽しかった。オレも水谷の声、好きだよ」
 自分にも男らしい深みのある声や力強い声が出せたらと思ったことは何度もあった。
 いつも、誰の声を聞いても大抵は卑屈な気持ちで羨望するのに、水谷の声はどうして、もっときれいに響かせたいとか、もっと魅力を引き出したいなんて思ったのだろう。水谷の声が好きだと思った。自分好みの声なら、それこそ羨んでしまいそうなのに。
 栄口にその答えは分からない。水谷に聞いてみたら、あっさり解決してもらえるのかもしれないと少し思ったが、そうしたいとは思わなかった。時間をかけて、自分で見つけてみたい。
「こないだは歌わせてもらったから、今度はオレが栄口を歌わせようって、すげー本気で張り切ってがんばったんだけど……栄口上手いし、めちゃくちゃオレ好みだし、まさに相性抜群って感じで、気持ちよくなりすぎちゃって……なんか途中で独りよがりになって好き勝手しすぎてヤバイと思ったよ。でも栄口はぴったりオレに合わせてくれて嬉しかった」
「全然独りよがりとは思わなかったけど? オレもちゃんと気持ちよくしてもらったし。おまえが気持ち悦いと、オレも嬉しい。っつーか、オレはもっとよくしてやりたいって一心だったから、おまえが満足したならオレも満足だよ」
 笑いかけた栄口の視線の先で、水谷が見る見る顔を赤く染めていく。口を半開きにしながら、唇を震わせていたかと思うと、パクパクと開閉し、一度ぐっと息を詰まらせてから、一気にまくし立てる。
「栄口、それ、ヤバイから! なんかいかがわしい内容っぽく聞こえるよ! オレたちいったい何をしちゃったの、的な」
「おまえが言うか? てっきりわざとだと思った」
「違う! オレは全然そんなつもりなかった……栄口、エロい! すけべ!」
 水谷は、キャーと両手で顔を覆って、右に左に顔を振る。見ているこっちがはずかしいと思ったが、栄口は落ち着くまで放っておくことにして、粗末な夜景に目を向けた。水谷が座っている右側だけ、妙に暖かかった。
 また水谷が手首を掴んできた。
 やっぱり、と栄口は確信する。
「おまえさ、ギター弾いてないだろ? 指、全然変わってないもん」
「やっぱばれてた? さっきアレって顔してたもんね」水谷は少しだけ苦笑いして、それから、不意に真剣な顔になって栄口を見つめた。「あの日からオレ一回もギター触ってないんだ。栄口が弾いたギターだと思ったら、自分でも触るのもったいなくてさ、そのままとってある」
「おまえ、それ……」
「やっぱ、意味分かんない? 深読みしてくれていいよ。オレがやたらと栄口に触ることも、全部、深読みして。でも、気持ち悪いと思わないでくれると嬉しい……かな、って無理か」
 不安そうに瞳を揺らしながらも、水谷は栄口から目を逸らさない。
 そろそろ戻ろうか、というタイミングを栄口は逃がし続けている。