+++年末、深夜 2+++


「おまえ、変則チューニングしてんの? それにしたってどう考えても音おかしい気がするんだけど、ギター始めたばっかりなら基本のE、A、D、G、B、Eで合わせれば?」
 水谷は一瞬、何語を話しているのかとでも言いたげに眉をひそめ、それから弱々しく笑って首をかしげた。
「あは、コレやっぱりおかしい、よな? オレの弾き方が悪いからこんな音になるのかと思ってた! チューナーでチューニングしてるしさ」
「そのチューナー絶対壊れてるから、もう使うなよ。開放弦鳴らすのに、技術なんて関係ないって。ちょっとかしてみ?」
「栄口、ギター分かんの?」
 心配そうに差し出されたギターを両手で受け取りながら、栄口はふと違和感を覚えたが、気のせいだろうと無視した。
「親父がアコギ好きで、オレも中学のときちょっとはまったんだよね。エレキギターも友達の借りて弾いたことはあるよ。高校のときはさすがに全く弾く時間なんてなかったけど、大学入ってからはまた、たまに弾くようになった」
 せっかく防音の部屋に引っ越したのだからと、父親が譲ってくれたギターが一本、栄口の部屋にある。
 今けっこう流行ってるだろと、調弦の手を止めて何気なく水谷を見れば、分かっていない顔つきで首をかしげている。
「んー? 流行ってるっけ? アコースティックって、キャンプファイヤーとかでポロンポロンって弾かれてるやつのイメージなんだけどアレとは違うの?」
「おまえのギターに関する認識がどの程度か、その一言でものすごくよーく分かった……高校のとき、オレがギターデュオのCD貸したの覚えてる? おまえすげー気に入ってたやつ。あれ、なんか思いっきりアコギだよ」栄口は遠慮なく思いっきりため息を零してから、水谷にギターを返す。「ほら。これで弾いてみなよ。ぴったりは合ってないと思うけど、だいたいこんなもんだろ」
 ばつが悪そうに右に左に視線をさまよわせ少々卑屈な雰囲気の笑みを浮かべていた水谷は、一変して表情を輝かせ大事そうにギターを受け取る。その手つきに栄口は、「お?」と思った。
 ピックを拾い上げて、水谷は開放弦のままダウンストロークでギターを鳴らし、わずかに目を瞠る。それから拙いながらも、いくつかのコードを押さえて順にかき鳴らしていく。
「うわっ、ギターっぽい音する。曲になってる! やべ、感動した! この音だよ! ありがとう、栄口!」
 喜びはしゃぐ水谷を見て、栄口の顔にも笑みが浮かぶ。
 やっぱり、と栄口は思った。
 きっかけがなんだったのかは知らないが、水谷は大した予備知識もなく手にしたギターに対して、確かな愛着も持っているし、それなりには練習もしたようだ。動きがぎこちないけれど、コードの押さえ方は正しく覚えている。
 水谷は嬉しそうにしばらくかき鳴らしていたが、ふいに手を止めて栄口を見る。
「栄口、これ、分かる?」
 水谷は拙い手つきで短い前奏を入れ、音の出ないチョーキングも混ぜて、ばらばらのテンポでギターを鳴らす。
 すぐに、分かった。
 合わせようがないその演奏に、栄口はむりやり被せて小声でぽつりぽつりと歌ってやる。
 高校生の頃に二人でイヤフォンを一つずつ分け合って聞いた曲だ。二人でいた校舎の屋上に戻った気がして、ちょっとだけ胸が震えて、声も揺れた。水谷の演奏のせいにして、栄口はそのまま続きを歌う。水谷も一緒に歌いだしたが、途端に何度も手が止まるようになった。それまでは一応コードを間違えることだけはなかったのに、それも危うくなっていく。
 ついに、完全に手が止まった。
「あ、栄口、ちょっと待ってね……えっと」
「おい、ギターこっち貸せ」
 苦笑して手を差し伸べれば、水谷は慌てて両腕でしっかりとギターを抱きしめる。
 その反応に栄口は目を瞠った。それから小さく嘆息し、伸ばした手をぶらつかせて引っ込める。
 ふと、マウンドに執着したかつてのチームメイト三橋を連想してしまい、栄口は胸中で三橋に謝った。
 どうにも居心地が悪い。別に取りあげようというわけではないのに、水谷の反応はまるで、マウンドと背番号1を奪われそうになった自分たちのよく知る投手か、いじめっ子に玩具を寄こせと言われたいじめられっ子のようだった。心なしか目が潤んでいるようにも見える。
 すっかり男らしくなって精悍さも増したように思えたのは自分の勘違いだったのかと疑ってしまう。
「ご、ゴメン。なんとなく……まだオレにも懐いてない、飼いはじめたばかりのペットを取り上げられるみたいでヤダなあって思っちゃったんだよ……栄口絶対にオレより上手いし」
「歌いたそうだから、歌わせてやろうかと思ったんだよ。この曲なら分かるし、多分弾けるから。嫌ならいいよ。無理にとは言わないから気にすんな」
「オレじゃ、コイツを満足に歌わせてやれないもんね」
 水谷は拗ねた口調で答えて、顔を横に向ける。ギターはしっかりと抱きしめたままだ。
 たいした溺愛ぶりに栄口は内心で感心した。ギター相手に『歌いたそう』なんてあんまり言わないぞと思う。
「言っとくけど、オレが歌わせてやりたいと思ったのは水谷、おまえのことだよ。弾きながらじゃ歌えないんだろ。おまえ、高校ン時もっと歌うまかったもんな」
 水谷はぐっと息を詰まらせ、それから頬をほころばせて、それまでの態度が嘘のようにギターを差し出してきた。
「栄口に任せる! コイツとオレを歌わせてください」
 再び両手でギターを受け取りながら、栄口は最初に感じた違和感の正体に気付いた。
 本当なら水谷はこのギターを誰にも触らせたくないのだろう。そのくらい思い入れがあって、大切にしているギターなのだ。さっきは手を差し出されてつい手渡してしまったけれど、自分の手から離れるのが心配で仕方がなかったのだ。
 なぜかは分からないけれど、このギターは水谷にとって大切な、特別なギターなのだ。
 栄口はそういうものが、今度は水谷の意志で確かに自分の手に預けられたのだと、その意味の深さを受け止める。
「水谷、ちょっと待って。ギターちょっと持ってて」
「ん? どうかした」
 いったん水谷の手にギターを返すと、栄口はコートのボタンを手早く外して脱ぎそのまま足元に放った。
「え、ちょ、栄口、寒くない? って、寒いだろ、絶対。風邪引くよ、もしかして実はかなり酔ってる?」
 袖が邪魔で弾けないから、と短く答えて、シャツの袖も捲り上げる。
 寒いけれど、集中すれば一曲くらいはもつ。
 水谷のギターに対する思い入れに気付いたら、本気で弾きたくなったのだ。
 準備を整えて再び水谷からギターを受け取る。
 唖然とした顔で栄口を見ていた水谷は、目を閉じて小さく深呼吸し、再び目を開けると悪戯っぽい目をして笑う。
「じゃ、立って歌っていい?」
「おー。オレも立つからストラップ、オレに合うように調整させてもらってもいいかな」
「もちろん。あ、あとさ……眼鏡も、外してもらっていい? スゲ、似合ってるけど……なんつか、まだ、眼鏡外した顔、見てないし、その……」
「オッケ。そんなの全然構わないよ」
 栄口はすぐに眼鏡を外してぞんざいに脱いだコートの上に放った。
「あは! 栄口、やっぱ全然変わってないや」
 栄口の顔を見た水谷は、はしゃいだ声を上げた。
 少し前までたくさん居た酔っ払いの姿は、もう見あたらなかった。
 駅前の広場にはいつのまにか、自分たちだけが残されていた。
 二人だけの路上ライブ。
 冬の空に、水谷の声と栄口のかき鳴らすギターの音が混ざり合って響いた。
 観客は一人も居ない。
 ただ、水谷が栄口のギターを聴き、栄口が水谷の声を聴き、それに自分の音を重ねて新しい音を作る。
 たった一曲を、全力で歌いきった後、水谷は満足そうに笑った。
「すげー楽しい! きもちかった! やっぱり、思ったとおりだったよ。栄口と一緒なら、なんでも楽しめる気がしてたんだよ、ずっと。オレ、確信してたもん」
 ――栄口と一緒の大学なら、すげー楽しそう。
「水谷、おまえさ……」
 今までオレを、憎んだことなかった?
 今、おれのこと、怒ってない?
 あの日、万葉の庭で思い描いた未来が、現実になっていたらって、考えることはなかった?
 本人には多分一生聞けない疑問の数々を頭に浮かべながら言葉を詰まらせれば、水谷は大人びた顔つきで笑みを深めて、ただ一度深く頷く。それだけで、栄口は泣きたい気持ちになった。
 コートと眼鏡を拾い上げた水谷は栄口の後ろに回って、そのコートで包み込むように栄口を抱きしめる。
「今日ここで、オレを見つけてくれてありがとね」
 抱きしめてくる水谷の腕の力が強まった。
 水谷の鼓動が、栄口のそれと共鳴する。
 栄口の首筋に、水谷の熱い吐息が掛かる。
 小さく身を震わせながら栄口は、今日、今、この瞬間まで、自分の気持ちも、水谷の気持ちも、あの頃のまま形を変えず、色あせもせずに凍結されていたのだと知る。
 ゆっくりと解けはじめる澄んだ音を聴いた。