+++年末、深夜 2+++


 進路については、最終段階まで家族に相談することはなかった。栄口はすべて自分で決めた。初めて親と話したのは、今さら進路を変更する受験生なんてそうそういない、そういう時期だった。
「えぇっ! 栄口、私大行くの?」
 西浦高校の万葉の庭に、水谷の声が響いた。目を丸くして見つめてくる水谷の反応に満足して、栄口はにっこりと微笑む。
「昨日の夜、初めて親父と話してさ……、親父はオレが行きたい大学があるから、国公立志望だと思ってたみたいなんだよね。で、行きたい私大あるけど学費高いからって言ったら、マジへこみされた。学費も四年間の仕送りも保証するから、どこでも自分の一番行きたい大学行けってさ」
「ははっ! つーか、親と話すの遅すぎだよー、栄口。オレんちじゃありえない」
「信用されすぎてて放任なんだもん、うち。第一おまえと比較されてもなぁ。おまえはマジで心配されてんだろ。まだ決まってないの、おまえくらいじゃない?」
「志望校なら、今決まったよ!」
 部活を引退してからずっと、笑っていても受験生らしいどこか憂鬱そうな雰囲気を漂わせていたその顔が、一点の曇りもない明るく幸せそうな表情を見せた。その表情に引きずられるように、栄口もよく似た顔で笑い返した。
 それまでに何度か水谷は「栄口と同じとこ目指そうかな」と栄口に言葉以上のものを問いたげな目を向けてきた。そのたびにいつも栄口は、水谷と同じ大学に進学する自分を想像しながらも「水谷は得意教科だけで受けられる私大なら、かなり上まで狙えるだろ、もったいないよ」と答え続けた。
 同じやりとりを繰り返す中で「そういう意味じゃないんだよ」と水谷が俯いたことが、一回だけあった。
 二人は仲のいい友人同士だった。
 野球部が活躍すればするほど、部員たちは女生徒に人気が出てさわがれるようになった。学校行事ともなれば必ず複数の女生徒から誘いが舞い込んで来たけれど、当たり前にようにお互いにお互いを最優先にするような友人同士だった。
 クリスマスは二人きりのときも他の野球部のチームメイトが加わることもあったけれど三年間、全部一緒に過ごした。「男同士で寂しく慰め合おうぜ」「一人とどっちがマシかってくらい微妙だけどな」「まあ、空しいけどな」なんて毎年同じ愚痴をわざとらしく零し合っていたけれど、それが楽しくてしかたなかった。
 遊びに出かけてすっかり遅くなった帰り、外灯の少ない真っ暗な道で「手、繋いでみよっか」と誘われて、唐突過ぎるそれにどうしてとも問わずに「おー」と答えた。気安い口調で交わした声が震えていること、触れた瞬間手もかすかに震えていたこと、繋いだ手はひどく冷たくて、けれど僅か十メートルほどを歩くうちにどんどん熱くなって行ったこと、全部、二人で気付かないふりをした。部活を引退した直後、これから部活三昧で受験勉強を全くしていなかったツケをたっぷり払わされることになる二人にとっては、高校生活最後かもしれなかった羽根を伸ばせる休日の夜のことだ。
 二人は確かに仲のいい友人同士だった。
 相手が誰かから告白されると無性に心が落ち着かなくなるような、二人だったけれど。
「無事受かったら、また四年間一緒だな」
 栄口が大学名を出さなくても、それがどこか水谷が分かったように、今水谷の決めた志望校がどこか、栄口にも分かった。
「オレ、今、初めて本気で受験がんばろうと思った!」
「それ、遅いぞー」
「だって、大学行ってやりたいことなんて、何一つ思い浮かばないんだもん。高校が楽しすぎた。大学行って四年間ずっと、高校の三年間が楽しかったって思い続けるのも嫌じゃん。でも、どの大学行っても楽しめる気しなかったんだよね。でも、栄口と一緒の大学なら、すげー楽しそう。栄口が居れば、高校の三年間にも負けないような、また違う種類の楽しみ方が絶対できる。俄然やる気でた! 今すぐ勉強したい感じ。絶対落ちらんないもん。オレはやれるぜっ」水谷はクリーンヒットを打ったようなガッツポーズを決める。
 友人として、水谷は栄口への好意を隠さなかった。無邪気に、純粋に、真っすぐに、栄口を見つめる。屈託なく笑いかける。
「あ、そだ! 水谷さえよかったら同じ大学行くなら、一緒に住まねぇ?」
「いいね!」
 一ピースのケーキをふたりで半分ずつ分けて食べようと誘うくらい軽く問えば、同じように軽く返された。
 見つめあった瞳が、かすかに揺らいだ。
 頬に赤みが増した。
 気恥ずかしさに目を逸らしたのも、もう一度視線を戻したのも、示し合わせたみたいに同じタイミングだった。
 目を合わせて、同時に吹き出した。笑って、目に涙が滲むくらい笑って、がんばろうなと肩を叩き合って。
 同じ四年間を二人で思い描いた。





 視力が落ちたのか、と人から聞かれるのは久しぶりだ。大学生になって、しばらくしてからかけ始めた眼鏡は、もう栄口にとっては身体の一部に近い感覚だ。
 今の自分を水谷は本当に知らないのだなと、栄口は実感した。
「んーん、ダテなんだけどネ。目つき悪いのと童顔なのを誤魔化したくて、苦肉の策でかけてみたら意外と評判良かったんだよ。初めは慣れないから無理にかけっぱなしにして……今はもうあった方が自然なくらい。オレ、カテキョやってたからさ、まず生徒の親たちに気に入られないといけなかったし」
「あー、うんうん。すごいそういうウケは良さそう。だって、めちゃくちゃハイソサエティなインテリ好青年っぽいもん。栄口のイメージと違うからびっくりしちゃったけど、確かに似合ってる。服装キレイめだし、もうスポーツ少年には見えないね。栄口って、今はいつもそういう服ばっか着てるの?」
「ま、だいたいこんな感じかな。量より質で、あんま数は持ってないけど。おまえは服装も髪型も高校の頃と大して変わってないな」
 でも、大分男らしくなった、と少し気恥ずかしい気持ちで栄口は思った。髪型は高校生のころと全く同じ、服装も今年の流行に沿ったものだから高校生のころのものとはもちろん違うけれど、基本的なテイストは変わっていない。ただ、表情やふとした仕草が格段に大人の男らしいものに変わった。人懐っこさや、表情の豊富さ、笑顔の柔らかさは変わっていないのに、確実にあのころにはなかったものも兼ね備えるようになった。
 服装や髪型のことなら、自分も水谷が自分に言ってくるくらい気軽に指摘してやれるけれど、本人の顔つきの精悍さや、全体の雰囲気みたいな本質的な部分は照れくさくて言葉にできない。
「オレ、これ以外の髪型にすると、髪のセットだけで毎日すげー時間かけなきゃいけなくなんだもん。栄口は、髪型もけっこー変わったね。高一の一番最初のときより、もうちょっと長い感じ?」
「おー、髪型はすげー試行錯誤した。短いと子供っぽいっつーか、猿っぽいし、長くてもガラが悪く見えるし」
 一番髪を伸ばしたときには、地毛の色の明るさと目つきの悪さの相乗効果でチンピラにしか見えないと、姉に大不評だった。紆余曲折合って今のスタイルに落ち着いたのだ。
 水谷が不意に口を手で塞ぎながら派手に吹き出して笑い出す。
「あはっ! はははっ! わ、分かる! 分かる気がする! インテリ好青年が、インテリぶったヤクザになんでしょ」
「ひっでぇ! そこまで言うか! 勝手な想像すんなよな」
 たぶん、その想像は当たらずとも遠からずだけれど。
 栄口は苛立ちまぎれに水谷の正面にしゃがみ込んで、俯いて肩を大きく上下させながら笑っている水谷の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。
 途端に水谷の手が上がる。
 跳ね除けられるのかと思った。
 しかし、水谷の手は栄口の手首をしっかり掴んできた。
 冷たい、指の感触。
「うわっ、ほっそ。びびった」
 ははっ、と笑う水谷の声はどこか不自然に上滑りしていた。
「おまえも指、柔らかいのな。野球少年の指でも、ギタリストの指でもない」
「ちょ、栄口……指の感触とかって、なんかやらしくね?」
「手首握るのも大概だと思うぞ」
 目を合わせて、少しだけ笑う。
 ゆっくりと、水谷の表情から、笑みが抜けていった。
 真剣に栄口を見つめる、水谷の澄んだ瞳。
「栄口、酒の匂いすんね。こんな時間まで、誰と飲んでた? 明日の飲み会……もう、来ないつもりだった? オレに、会わないつもりだった?」
 静かだが力強い水谷の声に圧倒されそうになりながら、栄口は冷静さを引き戻して答える。
「え? 明日? って、おまえ……それ、ちがくね?」
「あ、もう日付変わってるなら今日だっけ。って、はぐらかすなよな! オレ、栄口に会うの、すげー楽しみにしてた。本当はずっと……連絡取りそびれてたけど、会いたいって思ってたんだかんな」
 ああ、コイツやっぱり水谷だ――と栄口は思った。
「飲み会ならさっき終わったぞ。さっきまでみんなと飲んでた」
「……え? えぇっ?」
 きょとんとして栄口を見つめた水谷の顔が、徐々に赤くなっていく。
「うっそ! え? うわぁ、オレもしかして日付勘違い? はず、かし……ゆうと先輩、あの、今の忘れてほしーっスー」
「あはっ、はははっ、馬鹿だ! おまえ、もう最高!」
 頭を抱える水谷を、栄口は容赦なく笑い飛ばす。笑って、笑って、笑いすぎて目に涙が滲む。
 視界が潤んだ。
 ふっ、と栄口の肩から力が抜ける。そうして、今まで無意識の部分で緊張していたことに気付いた。
 よかった。
 自分が避けられていたわけじゃなかった。
 本当は他愛ない近況報告より、どうして水谷がこんな場所にいるのか、どうして飲み会に出てこなかったのか、聞きたくて仕方なかった。参加を取りやめた理由が自分にあったらどうしようと思うと、その話題に触れられなかった。
 足元のピックを拾い上げて投げつければ、水谷は痛いよぉと大げさに喚く。
「楽しみにしてた飲み会に参加できなくてショック受けてんだから、ちょっと優しくしてよ」
「だっておまえ馬鹿なんだもん」目元を擦りながら小さく告げる。「おまえ、オレには帰国したことも教えねーし。花井から聞いたときは、けっこーへこんだ。飲み会の日勘違いしてたのなんか自業自得だろ。オレだって、おまえに……」
 思わず、栄口はずっと心につっかえていたことを口にしてしまう。
 水谷は小さく息を飲んでからごめんと素直に謝った。
 それから、クスっと笑みを零す。
「飲み会出られなかったけど、栄口に会えたからいいやって言ったら、みんなに怒られっかな。いや、呆れられる……かな」
 友人同士としては過剰な親愛の情の表現なんて、日常茶飯事だった。
「オレも、ここでおまえに会えてよかったよ」
 高校生のころと変わらない調子で交わす言葉。
 それから視線を絡ませて、笑いあうのがいつもの自分たちだった。
 同じタイミングで相手を見て、目が合う。同じだ、何も変わっていない、大丈夫、と栄口が確信するのと、ふいっと水谷が横へと視線を逃がすのが同時だった。
 鼓動がとくん、と嫌な感じに跳ねる。
 けれど、その次に水谷が零した言葉で、栄口のざわついた心は一瞬にして収まった。
「ご、ゴメン。ほんとに、ホンモノの栄口だと思うと、オレ、嬉しくて、嬉しすぎて、ちょっとヤバイ……なんかちょっとマジで洒落になってない感じ」
 視線を伏せた目元の濃い赤み。
 水谷はずっと握っていた栄口の手首から手を離してギターに戻し、何気なさを装った手つきで弦をビンと弾く。
「そのチューニングも洒落になってなくね?」
 栄口は気恥ずかしさを苦笑と軽口でごまかした。