+++年末、深夜 1+++


 店を出ると、気の置けない仲間たちとの会話と酒で温まった身体から、一気に体温が奪われていく。栄口勇人はぶるっと身を震わせた後、羽織っていただけだったコートのボタンをとめた。
 背後のドアからは、つぎつぎとさっきまで一緒に飲んでいた西浦高校野球部一期のチームメイトたちが出てくる。今日はかつて一緒に野球に打ち込んでいた面子で、一年ぶりに集まって飲んだ。個人個人ではたまに会うことはあるけれど、全員で集まれる機会は少ない。去年までは年二回、夏と冬に飲み会が開かれていたが、今回はとうとう夏の飲み会が流れ一年越しとなった。
 十九時から始まった飲み会は、男ばかりが集まっているにもかかわらずそれぞれの近況報告をはじめ、就職、野球の話で盛り上がり、あっというまにそれぞれの終電車の時刻をむかえてしまった。
 吐く息が白く見える。
 マフラーを持ってこなかったことを後悔しながら、栄口はコートの襟を立てて首を竦めた。
「いいコート着てんじゃん。あったかそー」
 軽く酔っている泉孝介は、上機嫌に跳ねるような足取りでタンと小気味良い音を立てて栄口の横に来た。
「西広から聞いたぜ、おまえ家庭教師のバイトだけで二十代のサラリーマンの年収超えるくれー稼いだらしーな」
「それはちょっと大げさだよ」栄口は苦笑を浮かべる。「つか、なに、テーブルの端っこでなんか盛り上がってると思ったら、そんな話してたわけ?」
「おめーらの大学の話、いろいろ聞いてたんだよ。しっかし、意外だったなあ。栄口まで、西広と同じ大学出身になっちまうなんて」
 ちくりと感じた胸の痛みを無視して、栄口はため息混じりに笑う。
「そんなのオレが一番びっくりしたよ。私大決まって、国立は記念受験のつもりだったのにさ」
 第一志望の私大に受かっていて、栄口はその大学に進学するつもりだった。埼玉の実家を出て東京で生活する展望が栄口の頭の中にはもうできていた。しかし、記念受験のつもりで野球部で一番勉強ができた西広が受ける、日本人なら誰もが知る国立大を受験してみたら受かってしまったことから、思い描いていた大学生活は、栄口の頭の中だけのものになってしまった。
 正確に言えば、もう一人、栄口と同じ未来を思い描いていた友人もいた。
 ふたりの頭の中にあった漠然とした未来が、形になることはなかった。
 あれがなければ。
 あのときこうしていたら。
 少しだけ、なにかが条件が変わっていたら。
 今とは違う現実があったのだろうと、栄口は今日までにもなんども考えた。
 実際今の状況よりも、大学受験を控えた自分が勉強の息抜きにたびたび思いを馳せ、心を躍らせていたあの未来の方がずっと現実的だった。
「水谷、今回も来なかったなあ」
 心を読まれているのかと思うタイミングで言われて、栄口は小さく息を飲む。それから意識的に自然な態度を保ち答える。
「うん。幹事の阿部には参加するって答えたみたいだけどね」
 今日の飲み会に現れなかったのは、水谷だけだった。
 泉が顔ごとこちらに向けてじっと見つめてくるのを感じる。栄口は内心酷く焦りながら、ただ自然さを醸すだけのために一呼吸置きゆっくりと正面に向けていた視線をとなりの泉に移す。
 予想通りの驚きを映し大きく見開かれた目が栄口に向けられていた。
「もしかして栄口は水谷と全くメールしてねーの?」
「全くってわけじゃないけど、最近はしてない、かな」
 嘘じゃない。ただし「最近」という表現は語弊があるかもしれない。メールのやり取りがあったのは大学に入った年の夏前までだ。水谷が留学で渡米する前。
 泉は何かを言いかけたが、結局ただ「そっか」と相槌を打った。
 それから駅に着くまではずっと、泉は酒が入っている人間ならではの饒舌さで、ここにはいない自分たち野球部の応援団長を務めた男、浜田のことを語った。泉の言葉の選び方では浜田を貶しているように聴こえるのだが、それは表層だけで、その奥では浜田をかつてあこがれた先輩として、同じ男として、一目を置き慕っているのが栄口には分かる。
 当時からそうだった。おそらく気付いたのは栄口だけだ。高校一年のころ、多分本人は否定するだろうと思いながらも一度指摘してみれば、泉は予想に反して素直にあっさりとそれを認めた。その後、泉は栄口にだけ普段より多少言葉を柔らかくした浜田語りをするようになった。泉の話を聞いていると、高校生に戻ったような気持ちになる。
 しかしそれも一瞬のこと。酒の匂いと、一部の連中のろれつの回っていない話し声、高校時代には決して上がらなかった話題、誰かの煙草の匂いで、すぐに現実を意識させられた。まるでグラウンドが自分たちの帰るべき場所だったような毎日、家族よりチームメイトと顔を合わせている時間の方が長かったあの頃は過去の話だ。
 駅に向かう道すがらには、忘年会を楽しんだサラリーマンや学生が溢れていた。年末のありふれた光景だ。
 全員でぞろぞろと徒歩で駅まで移動してくると、切符の券売機前と改札機前に分かれる。泉と栄口はその改札前に加わった。
「あ、ヤベ。そういえばオレ、残額二桁になってたんだ」
 泉は定期入れからICカードを取り出しながら「チャージしてくる」と券売機に向かう。泉の声を聞いてさらに二人、券売機に向かう。
 改札前には結局、栄口と阿部だけになった。券売機前では誰かがなにか失敗したのか、大きな笑い声が上がった。
「あいつらうっせーな」ぼそっと阿部が呟く。
「酔ってんだから、しょーがないって。そーいや、阿部今日は平気そうだね。もうさめた?」
 阿部は酒に弱くはないが、顔は赤くなるタイプだ。野球部の飲み会以外にも、何度か気まぐれに誘い合って飲みに行くことがあるので、阿部が酔っているかどうか、許容できる酒量がどの程度か、栄口は把握していた。座った位置が遠かったので阿部が何をどのくらい飲んでいるのか分からないが、今の様子は今は全く酒を飲んでいない状態と変わらないように見えた。
「オレ今日ウーロン茶だけだもん」阿部はにやっとひどく楽しげな笑みを浮かべた。「栄口、今日実家か? オレ、駅に車とめてあるから送ってやってもいいぜ?」
 阿部はすこぶる上機嫌だ。なんで飲み会だと分かっているのに車で来たのかと思ったが、阿部の様子で栄口は察した。
 親の車じゃなくて、自分の車なのだ。それも乗りたくて仕方ないくらい最近納車されたばかりの。
「買ったんだ! おめでとー! つーか、やっと決めたのかよ。結局どっちにしたの? 色は?」
 阿部が前々から購入を検討して、二車種で迷っていたのは知っている。おまえならどうするかと話を振ってきたくせに、結局自問自答にしかなっていないような相談を受けたことも何度かあった。
「教えてやんねー。見れば分かるだろ」
「あ……でも、オレ今日実家じゃなくてこのまま、ここでみんな見送って徒歩で自分の部屋に帰るつもりなんだけど」
 阿部はうかれきった態度から一変して眉間に皺を寄せる。
「阿部の新車はすっげー見たいんだけどな。ごめんな」
「別に、謝ることじゃねーだろ」阿部は不満そうに鼻を鳴らす。「おめーは結局まだ買ってないのか? オレより先に免許とってたじゃねーか。羽振りもいいみてーだし」
「羽振りってなぁ。ちょっと泡銭がふところに入ったくらいだよ。オーディオセット買っちゃったし、しばらくでかい買い物はしないよ」
「車と比較対照になるオーディオセットってどんなんだよ!」
「オーディオもこだわるときりがない世界なんだぞ」
 仲介業者を通さず、大学の先輩からノウハウを教えてもらって家庭教師をしていた栄口の貯金はどんどん溜まっていった。あって困るものではないが、身に余る額に不安になってしまいとにかく使って減らさなければいけないような気持ちになった。周りからはその感覚が分からないと言われてしまうが、栄口は無性にそんな衝動に駆られてしまったのだ。そこで目をつけたのがもともと興味のあった高級オーディオ機器だった。
 視聴しにいった専門店でその音に圧倒され、即座にオーディオマニアになってしまった。店を出たその足で不動産屋に向かい、今住んでいる部屋、設置できる環境が整った防音マンションを押さえた。
 聞き流すかと思ったが、阿部は意外にも「そんなに音が違うものなのか」と乗ってくる。「一度聴いてみた方が話が早いよ。今度うちに遊びに来いよ」「いつごろ暇?」と話をしているうちに、券売機前で騒いでいた連中が戻ってきた。
 まもなく終電が発車するというアナウンスが流れ、慌しく改札を抜けて行く友人たちを見送り、栄口は来たのとは逆の出口に向かって歩き出す。
 こちら側の出口には、がらんとした広場があった。広場を抜けた先には朝まで営業している店が多く立ち並ぶ。終電に乗り遅れ、飲みなおすかカラオケに行くか相談している集団が何組もいた。
 栄口とそう変わらない年頃の男女の集団の中で、寒い寒いと喚いて仲間からうるさいと怒られている男にふと友人の姿を重ねる。
 ――アイツも寒がりなんだよな。
 寒がりのクセに暑がりでもある、しかも黙って耐えるようなことはなく、いつも周りから文句を言われるまで暑いだの寒いだの言い続けていた。
 水谷文貴。
 栄口はまた、もうあの日から何度も考えている疑問を自分に投げかける。
 大学は純粋に入ってよかったと思える楽しい場所だった。高校のときは野球部で、野球の申し子、天才、田島悠一郎を間近に見て貴重な刺激を受けた。大学にはさまざまな分野における田島クラスの人間がごろごろいた。相手がすごすぎると劣等感も抱かないな、なんて入学当初の栄口は思ったものだが、そんな連中に言わせれば栄口もなかなか個性の強い変わり者に見えるらしい。実際、場違いだろうなと覚悟して入った大学に、すぐに栄口は馴染むことができた。友人にも恵まれた。
 後悔するようなことは何もないはずだった。
 けれど、考えてしまう。
 受験の当日、受かる気なんてない分気負いもなく、本命としていた大学の受験では大いに悩まされた神経性の腹痛とも無縁で、マネージャ気取りであれこれ西広の世話を焼いていた。本当に記念受験のつもりだった。けれど、受かる見込みは限りなく低くても、ゼロじゃなかった。そんな大学の受験なんて、最初からしていなければ。
 その未来なら、今、傍らに水谷文貴は居ただろうか。
 ふと、広場の隅からギターの音が聞こえてきた。
 どっぷりと思考の渦にはまっていた栄口は、一気に興醒めした気持ちとともに現実に引き戻される。
 ストリートミュージシャンと呼ぶにも及ばない、バンド結成を夢見て初めてギターに触れた中学生なら許す。けれど、栄口が思わず視線を向けた先に居るのはどう見ても成人男性だった。
 人に聴かせるためにここで弾いているのではなく、家で弾いて家族に文句を言われ追い出されたに違いない。
 これならそりゃ追い出されるよな、と栄口は自分の予想に一人納得する。
 演奏のつたなさ以前にチューニングが全く合っていない。
 別に栄口の耳が特別良いわけでも、もちろん絶対音感なんてものを持っているわけでもない。ギターという楽器をそれなりに知っている人間なら一発で気付くレベルのチューニングの外し方だった。
 ぞわぞわとした不快感が背筋を走る。
 早くこの場を離れようと、男から視線を外しかけたが、ふとその手に握られたギターに視線をひきつけられた。
 ――めちゃくちゃいいギターじゃん。
 誘われるようにふらりとそちらに足を向ける。
 ゆっくりと近づいていく。
 あぐらをかいて座り膝の上にギターを抱えた男は、ふと手を止めて右手のピックをその場に放り、指で弦を弾く。しばらくそれを繰り返した後また手を止めて、ずっと手元を見て俯いていた顔を上げて、凝った首を解すように空を仰ぐ。
 栄口と男の間の距離は、もう僅か三メールという近さだった。
 その場で、栄口は動けなくなる。足が竦んだ。呼吸が止まった。
 瞬きも忘れて、ミュージシャンまがいの男を凝視する。
 自分の演奏に疑問を持ったためなのか、首のストレッチのためなのか、右に左に頭を振った男は、もう一度ギターに視線を落としかけて、栄口の存在に気付いた様子を見せた。栄口の足元を見て、そこからゆっくりと視線を上げる。
 二人の視線が絡んだ。
 男も、栄口の顔を見た途端に目を瞠ってすべての動きを止める。
 ゆっくりと、同じ速さで二人の身体のこわばりが解けていく。
 どんな表情をしていいかわからないままに浮かべるできそこないの笑み。
 互いの口が、同時に動く。
「栄口ー、眼鏡似あいすぎ!」栄口の顔を指差して。
「それ、流行ってんの?」その手にあるギターを指差しながら。
 同時に吹き出して笑う。ぎこちなさが霧散する。
 それが、成人してから初めて栄口勇人と水谷文貴が交わした言葉だった。