+++愛は惜しみなく奪う+++


 昼休み、七組の教室で昼食を済ませてから校内の自販機にパック入りジュースを買いに行った水谷文貴は、戻ってきて自分の席を見るなり、喉の渇きなんて我慢すればよかったと心底後悔した。
 自分の席には同じクラスで同じ野球部に所属するタレ目ながら目つきが凶悪な男、阿部隆也が座っている。別に自分の席を勝手に使われたからといって文句を言うほど、水谷は短気でも狭量でもない。しかし、その前の席に一組からはるばる足を運んできたらしい、栄口勇人が座っているなら話は別だ。
 水谷にとって栄口は愛と幸福の具現とさえいえる存在なのだが、自分を簡単に狭量で短気な男にしてくれる存在でもあった。
 栄口勇人は水谷文貴の恋人である。
 来ると分かっていたら絶対に教室を離れなかったのに。水谷は口をへの字に曲げ、半眼で二人を見る。
 早朝の練習でも顔を合わせているし、放課後も部活でずっと一緒に過ごすことになるのだが、それだけでは水谷には全然足りない。大好きな栄口と一緒に居られる時間は一分一秒でも長く確保したい。本当なら休み時間ごとに会いに行きたいくらいなのだが、付きまといすぎて栄口に嫌がられるようになってしまったら本末転倒なので極力我慢している。
 栄口が自ら来てくれたときなら、そんな遠慮も不要だ。
 本当に、来るとさえ分かっていたら、いくらでもやりようはあったのに。
 栄口が顔を見せた瞬間に自分が廊下に飛び出して、どこか二人きりになれそうな場所に移動することもできた。本当に本当に惜しいことをした。
 どれほど悔やんでも悔やみきれない。
 栄口にベタぼれ、ぞっこん、くびったけ、惚れてやまない水谷は思う。
 こんなにこんなに好きなのに。
 ――なんでオレがいない場所で、惜しげもなくその笑顔をさらすかなぁっ!
 教室の入り口で足を止めたまま、なにやら楽しげに盛り上がっている二人を見て片眉をぴくりと跳ね上げる。
 栄口の笑顔は水谷のどんな症状にでも効く特効薬だが、それは自分に向けられたとき限定である。他人に向けられるものとなると正反対に作用する。
 そして今は、ちょっとばかり珍しい阿部の全開の笑顔も水谷の不満を煽っている。嫌な予感とともにちらりと教室の片隅に目を向け、水谷は小さく舌打ちした。
 水谷と同じように阿部と栄口に目を向けていた七組の女生徒たちが、お互いにちらちらと目配せしあって、やたらと血色の良さそうな頬を柔らかく緩ませている。
 水谷はますます眉間に皺を寄せて、女生徒たちに届くわけもない念を送る。
 頼むから、二人は仲良しだとか、栄口といるときは普段仏頂面な阿部でもあんなふうに笑うとか認識しないでくれ。栄口勇人の恋人は自分、水谷文貴なのだから。
 栄口が他の誰かのものだなんて、根も葉もないただの噂でもぞっとしない。嫌だ。  それなら自分たちの関係がばれたときの苦労を買って出たい。その覚悟なら付き合う前からしている。「いつかもし、どうしようもないような事態に陥ったら、そんときは栄口のことさらって逃げるからね」とすでに宣言もしている水谷である。本人には真面目に取り合ってもらえなかったが、もちろん百パーセント嘘偽りない本心からの言葉だった。
 ただし、どうせ愛の逃避行をするなら高校生活で存分に野球に打ち込んでからがいいなと調子のいいことも、ちゃっかりと考えている。
 野球に夢中になっているときの栄口はかっこよくて見惚れる。栄口に並ならぬ執着心を持つ水谷だから、『野球』にさえ嫉妬してしまうようなことがあるけれど、野球をしている栄口もやっぱり大好きだ。栄口と一緒に野球をするのは恋人同士のスキンシップと同じくらいかけがえのないことだと思うし、結局のところ水谷だって栄口とは別の次元のところで野球が大好きで大切で、野球部も同様に大事だ。
 それでもどちらかを選べといわれたら水谷は迷わない。二択を迫られたときの答えは心に決めている。二兎追っていても逃がせないのがどちらかはよく分かっている。一兎だけ捕らえたらそのウサギにものすごく恨まれるだろうことは想像に容易いが、万一ウサギから嫌われようともこれだけは譲れない。考えると悲しくなってしまうので普段は極力考えないようにしている。
 けれど、こんなとき、水谷は考えさせられてしまう。
 水谷の視線に気付かない栄口は阿部を指差して何かを言っている。阿部が不満そうに顔をしかめると、栄口はじっと阿部を見据えたあと、ふいに目を細め、片方の口端を小さく持ち上げた皮肉っぽい笑い方をする。阿部がむきになって身を乗り出すと、今度はケラケラと上機嫌に腹を抱えて笑う。
 栄口はツリ目で目が大きく、それに対して虹彩が小さめなので、眼差しはかなり鋭い印象だ。目つきは正直にいって水谷の恋人の贔屓目をもってしてもいいとは言いがたいのだが、その強い目を和らげた笑顔とのギャップがたまらなく愛しい。そして笑顔から真顔に変化するときも、やっぱり男としてその凛々しさは長所以外の何物でもないよなとあらためて考えさせられる。可愛くてカッコイイ、水谷の最愛の存在だ。
 笑顔も真顔も魅力的だけれど、その変化の過程も見逃せない。全部愛しい。水谷には宝物同然だ。
 容易く他人に見せないでほしい。
 自分だけのものにしたい。
 その素晴らしさを自慢するより、できることなら隠して閉じ込めて誰の目にも触れさせないようにしてしまいたいくらい、水谷の栄口への執着は強い。
「あ、水谷! おかえりー」
 ようやく水谷に気付いた栄口が手を振ってくる。水谷はすぐに普段どおりの顔で笑い返して、栄口の元に駆け寄る。そばまで来ると、阿部が水谷を指差して栄口に目を向けた。
「こいつの場合は、呼び鈴が山ほどある感じしねぇ?」
 栄口が大きく頷く。「あー、分かる分かる。がんがん押してくれと言わんばかりにいっぱいあんのな」
「でも、押しても半分以上鳴らねぇ上に、鳴っても必ず中から反応あるわけじゃねぇの。順番に押していくにしても、数がありすぎて大抵は途中で諦めるぜ」
 仲良く盛り上がりだす二人に、水谷は精一杯不満を堪えて説明を求めた。二人がなんの話をしているのか、水谷には全く分からない。
「オレがね、最初に『阿部は重厚で威圧感あるけど、中は素朴で住みやすい家って感じがする』って言ったんだよ」
 栄口の説明に水谷はますます首を傾げる。
「ほら、水谷も分かんねーって顔してるじゃねぇか。だいたいなんで家なんだよ」
「ちょっ、阿部! さっきまで一緒に盛り上がってたじゃんか。オレだけのせいにすんなよな。水谷のことだってはりきってたとえたくせに」
「おまえに合わせてやってたんだよ」
 拗ねた顔で唇を尖らせた栄口に、阿部はにやりと笑う。
「え? なに? 今住んでる家……じゃないよな、住みそうな家って話?」
 それなら、自分が言われた呼び鈴が山ほどついている、しかも半分以上が鳴らない家とはどういうことなのだろう。水谷は困惑に眉をひそめたまま右に傾けていた頭を今度は左に傾ける。
「違う違う」栄口は少し気恥ずかしそうに笑って続ける。「いや、くだらない話なんだけどさ、人そのものを家にたとえた場合の話をしてたの」
 言葉遊びの一種だろうか。またえらい感覚的な話が出たなと水谷はさらに顔をしかめてしまう。それから、自分ならまだしも阿部がその話についていくどころか乗って盛り上がっていたのを意外に思う。
「なんで阿部は『重厚で威圧感あるけど素朴で住みやすい家』なの?」
 水谷はいまいちこの言葉遊びのルール的なものが分からずに栄口に問う。
「オレのこと見掛け倒しって言ってんだろ」阿部がフンと鼻を鳴らす。
「違うよ、褒めてるって。家なんだから住み心地良い方がいいじゃん」
「なにか。つまり、適当に扱いやすいって言ってんのか」
「そこまでは言ってないけど、オレからしたら阿部って周りから思われてるよりはずっと分かりやすい奴なのになぁって……イメージ?」
「全く褒められてる気がしねぇな。もういい」
 阿部は小さくため息をついて立ち上がり、水谷の席を開ける。離れようとする阿部に、栄口が「ありがとな」と声をかける。自分が戻ってくるまでの話し相手になったことへの礼だろうということは水谷にも分かったが、当の本人は振り返って「あぁ? 何もしてねぇよ」と答え、すぐに背を向けた。
 水谷は自分の席に腰を下ろし、買って来たジュースのパックにストローを突き刺す。
「オレの、呼び鈴いっぱいってのは?」
「ああ、ソレな。阿部うまいこというなぁ、って思った」栄口はクスリと笑う。「誰でも気軽にどうぞー、構って構ってーって感じなのに、実は必ずしも歓迎してないって感じじゃね? ま、オレの勝手な解釈だけどね」
 その説明に水谷は、嫌な感じにドキリとした。
 水谷の動揺を他所に、栄口は野球部の他の連中についてそれぞれ阿部と話していたイメージを語っていく。それに相槌を打ちながら、水谷はずっと自分が言われたイメージについて考えていた。
 不本意だが、全く言い得て妙だ。
 わりと見栄えのする門扉の横にたくさんの呼び鈴。目につく色合い、押しやすい位置、通りすがりに一つ二つ押してみたくなる感じ。でもきっと立ち止まって、全部を押すつもりで気合を入れて一つ一つ順に押してみるような人間はそうそうやってこないのだ。もしかしたら、実はその門扉は偽物だったりするのかもしれない。水谷のイメージはどんどん膨らんでいく。考えているうちに、少し楽しくなってきた。
 人を家にたとえるなんて子供の遊びのようだが、解釈によってどうとでも変わるあたりは興味深いし、思わぬところで本質に触れていたりしてちょっと怖いくらいだ。
「そういえば栄口は? 栄口はどんな家なの」
 沖をイメージした機能的な家についてすらすらと語っていた栄口は、その問いかけに口を閉ざし、ふて腐れた顔つきになる。
「阿部の奴、酷いんだぜ」栄口がため息をつく。「塀も門扉もなくて、花が植えられてたり、池があったりしてて、誰でもすいすい出入りできるし、『いい家だな』とか言われてるんだけど、実は誰も建物を見たことがないんだってさ。それに気付いてる奴もほとんどいないって、……それ家としてどうなの? なんか全否定って感じだよなぁ」
 自分は一応褒めてやったのにと栄口は憤慨している。
「あー、それが栄口って、なんかすげぇ分かる気がする」
 水谷はついそう答えてしまった。途端に栄口が目を瞠る。
「ひっでぇ、水谷まで」
「違うっ、違うってば」
 誰も拒絶しないけれど、ふところの奥深いところまでは入れないなんて、まさしく栄口だと水谷は思った。阿部が本当にそういう意味で言ったかは分からないが、自分の栄口のことなのにどうして阿部がここまで的確に言い表せるのかと腹が立つくらいにぴたりと来る。
 しかし、阿部に腹を立てている場合ではない。機嫌を損ねた恋人をそのままにはしておけない。
「オレだけに栄口の家が見えてればよくね? 他人なんか絶対入れないでほしいよ。オレだけが中まで入らせてもらって、そこでくつろがせてもらえると嬉しい」
「おまえはさ……とっくに中まで入ってきてるのに、どこだどこだって探し続けんじゃない?」栄口が意味ありげに笑みを深める。「くつろいでくれるとオレとしても嬉しいんだけどね」
 うわっ、やっぱり怖いな――ドキリと跳ねた鼓動をごまかす。水谷の口元には苦笑が浮かんだ。
 恋人同士になっても全然安心なんてできていない、強い執着心に起因する不安定さを筆頭に、ものすごくいろんなことを見抜かれているという気になる。実際にそうなのかもしれないし、自分が深読みしすぎてしまっているだけかもしれない。どこからどこまで、と考え始めたら止まらなくなりそうだ。
 水谷はきまりの悪い気持ちで話の矛先を変える。
「オレの家はどうよ? 栄口はあきらめずに呼び鈴押し続けてくれる?」
「一つも押さないよ」
 即答で水谷をドキリとさせておいて、栄口は嫣然と見つめてくる。続けて何を言われるのかまだ分からないが、水谷は早くも降参したい心境になった。なにか殺し文句を言ってくれるはずだ。そうやって栄口はいつも水谷の心を奪うのだ。
「ダミーのドアじゃなくて、横のちっちゃいドアを自分で開けてお邪魔させてもらうよ。四つん這いにならないと通れないくらい小さいドアのくせに、ここからどうぞってめちゃくちゃ主張してンのが、オレには見えるはずだから」
 どうして偽物だと分かったのだろう。自分の考えたことを、どうして栄口が知っているのか。
 ひどく恥ずかしい気持ちになって、水谷はストローを刺したきり放置していたジュースを口元に持ってきて啜る。人口的なグレープフルーツの匂いに咽そうになった。
 本当はストローじゃなくて、そばで笑う恋人の唇を吸ってしまいたい。ジュースじゃなくて、栄口の唇から零れる吐息を飲み込みたい。
 ごくごくと喉を鳴らしながら欲してやまない唇に目を向ければ、水谷の口元に栄口の手が伸びてくる。
 焦って手から落としそうになったジュースのパックを、栄口の指先が狙っていたようにさらう。実際に最初からその手はパックに伸ばされていたのだと遅れて気付き、水谷はますます気恥ずかしくなった。栄口は断りもなく一口啜ってから、礼だけはちゃんと言って水谷にパックを返す。栄口の唇が触れたストローをつい見つめてしまった水谷は、こういうことをされるのが大好きなことも、本人に言ったことはないけれど知られているんだろうなと考えて、嬉しくて恥ずかしくて、もうどうしていいか分からなくなってしまう。
 水谷の頭には、のぼせそうなくらいの熱が上っていた。
 今すごく喜んでいることだってやっぱり栄口にはばれているのだろうと水谷は思う。再びストローを咥えれば、情けないほど顕著に鼓動が跳ねる。頬が熱くなる。鏡を見なくても、そこが赤くなっているのが分かる。
「じゃあ、オレそろそろ教室戻るわ」
 椅子から腰を上げた栄口が言い終えるのと同時に予鈴が響く。ちょっと決まりすぎなくらいのタイミングだ。水谷は咄嗟に栄口の手をとらえて引き止める。
「ちっさいドアはさ、栄口がくぐったあと、二度と開かなくなって閉じ込められちゃうと思うよ」
 少しの間目を瞠った栄口は、すぐに困った風に視線をさまよわせてから水谷の机に両手をついて身を屈めた。水谷の耳元に、栄口の唇が寄せられる。
「見えない家だっておまえを飲み込んだまま、誰にも見つからないようにほんとに消えるよ。……って、なんかB級ホラーっぽいな」
 クスリと零された笑みが、水谷の耳朶を擽った。
 栄口が身を起こすのと同時に、栄口の手も水谷の手からするりと逃げていく。水谷が言われた言葉の意味を理解するよりも先に、栄口は足早に教室を出て行ってしまった。水谷の手には栄口のぬくもりが残っている。
 完全に栄口の姿が見えなくなってから、じわじわとこみ上げてくるものを感じて、水谷はまた惜しいことをしてしまったと思った。それはホラーじゃなくてスペクタクルラブロマンスだと咄嗟に言い返せなかったのが悔しい。
 もし言っていたら、栄口はどんな反応をみせてくれただろうと想像しながら、またストローに口をつける。際限なく緩む頬ごまかすために残り少ないジュースを啜ってみたが、同じストローに触れた栄口の唇を思い出せば、どうしても真顔が保てなくなる。
 午後の授業をまともに受けられる自信は全くない。
 空になったジュースのパックを両手で包み込みながら机に突っ伏して、熱を逃がすように深く息を吐いたが、気休めにもならなかった。
 栄口の唇も今は自分とグレープフルーツ味なんだよなとうっかり想像して、水谷はますます身体の熱を持て余すことになった。