どこかぎこちない笑みを浮かべたまま綱吉は少しの間視線を彷徨わせていたが、その視線を最終的に獄寺に向けて笑みを深めた。
 視線を向けられて、綱吉が自分を見てくれて、獄寺は安心感を覚える。
「屋上、戻ろうか。弁当箱とか置きっぱなしにしてきちゃったし」
「山本が片付けとくって言ってましたよ。笹川のノートもあいつが持ってます」
「そうなの? 京子ちゃんは獄寺君も使ってって言ってくれてたんだから、獄寺君が預かってくれてても良かったのに」
 指摘されて、そのとき自分が綱吉のことしか考えていなかったことを思い出せば、気恥ずかしくなってしまう。綱吉のことで動揺してしまうと他のことなんてなにも考えられなくなる自分。
「すみません、オレ気が回らなくて」
「いや、オレがちゃんと受け取っておけばそれで良かったんだよね」
 不意に綱吉が頬を朱に染めて俯くから、そんな姿はとても可愛らしいのだけれどどうしてと思って見つめてしまえば、上目遣いの視線が向けられる。
「京子ちゃんに指摘されて、予想外だったから焦っちゃって」
 続けられた言葉に苛立ちと体が冷たくなるような感覚を同時に覚えて、けれどさらにその続きを聞けばのぼせそうな程の熱が体に生じる。
「心の中でなんで気づかないんだよーって獄寺君を罵倒しながら、追っかけてこなかったら絶対に許さないなんて思いながら駆け出してたんだよね……。獄寺君なら絶対に来るって信じてたけど、ここで座って待ってるときは不安になっちゃったりしてさ……情けないけど、オレ、獄寺君に関わることで感じる不安にはすっごく弱いみたい。リボーンのせいっていうか、おかげっていうか……大抵のことには動じなくなってきてるんだけどなぁ。獄寺君だけは例外。あっ、先に言うけど絶対に謝らないでよ、これ。獄寺君がいつも十分すぎるくらいに、オレを安心させてくれてるってことなんだから」
「ありがとうございます。光栄っス」
 告げられた言葉はとても獄寺には喜ばしいものだから、謝る代わりに礼を言って、けれど満面の笑みの裏に少しだけ本心を隠す。
 本当は、いっそこの身が側にいなければ、不安で立ってもいられないような、息もできないような人になってくれてもいいとも獄寺は思ってしまうのだが、その言葉は多分言うべきじゃない。
 こうやって少しずつ器用になっていけばいいのだと、獄寺は思った。
 上手くできてる。ちゃんとやれてる。
 そう思ったのに、綱吉の表情がほんの少し、きっといつも綱吉を見ている自分でなければ分からないくらいにわずかに陰るから、獄寺はとても驚いてその綱吉の顔をじっと見つめた。
「一応指摘しとくけど、獄寺君今すっごく寂しい笑い方したよ。きっと、他の人なら気づかないんだろうけど、獄寺君が思ってるよりオレはちゃんと獄寺君のこと見てるんだからね」
 獄寺は誰よりも綱吉のことを見ている自信がある。今、綱吉は自分だって同じなのだと獄寺に訴えている。
 これは相当気を使わせているな、と獄寺は思った。
 綱吉がこんなふうに感情を言葉にして次々に伝えてくれることは案外少ない。羞恥や照れでどうしても言葉にできなくて、変わりに目で物を言うことの方が多い人だから。きっと、今のこの言動は綱吉の精一杯で。
 それをすまないと思うよりも、嬉しいと感じてしまう。嬉しくて、そう思うままにこの身の表情が勝手に自然な笑みに変われば、綱吉の表情からも陰は消えた。綱吉は睨みつけてくるけれどそれは気恥ずかしさを誤魔化すための表情だと分かってしまうから、それにもまた喜ばされる。
「あー、でもやっぱりその笑顔もずるい。オレがそれに弱いって分かってやってるんだろ」
 隠そうとしたことに気づかれて、誤魔化そうとしたことも見抜かれて、けれど不思議なほどにしまった、失敗したという気持ちにはならなかった。
 今は二人きりだからかもしれない、と獄寺は思う。
 全面的に受け入れようとしてくれる綱吉だから。
 ふいに心がとても軽くなった。
 獄寺は心の中に隠し持った箱を少しだけ開けて、その隙間から自分で確認しながら、このくらいなら、ここまでなら大丈夫かもしれないという気持ちと言葉を選んで取り出して、綱吉に見せる。
「笹川より先に気付かなかった自分にはやっぱり腹が立つんです。オレは十代目がどんどん綺麗になっていくのを見ているのが不安で……誰かに奪われそうとかそんなんじゃないんですけど――相手が誰でもそんなこと絶対させませんから、でもそう思ってるのに十代目を見る、取るに足らない人間の目まで気にしちまうんです。そういうことに気を取られて、十代目のシグナルに気付けなかったんだろうって思うと、ほんっと何やってんだって感じで、情けねーし腹立つし……」
 馬鹿みたいだと思われてしまうかななんて思いながら、そして自分で言った言葉にまた少しばかり嫌な気持ちになりながら、綱吉の反応を確認すれば、包み込むような柔らかな眼差しを向けられて、その目に、背負っていた荷物を降ろしたようにすっと肩の力が抜ける。眼差し一つで自分の気持ちが左右されている。どれほど特別な存在なのか、再認識してしまう。
 綱吉はその優しい眼差しでじっと獄寺を見つめた後で、ゆっくりとその眼差しの意味合いを変えた。綱吉の愛嬌のある大きな目は、いつだって表情豊かで雄弁だ。新たにその目に浮かんだのは子供っぽい、悪戯っぽい色だった。
「そういうときは、その道のスペシャリストに相談するといいよ。身近にいるんだから」
 言われた言葉の意味が分からなくて首を傾げれば、綱吉はこらえ切れないようにくすくすと笑い出して自分を指差し、ここにいるだろうとその雄弁な目で語る。
 スペシャリスト。
 獄寺はようやくその意味を把握する。把握して、とても恥ずかしい気持ちになった。
「それ、もしかして……のろけですか?」
「オレだって誰にも譲る気はないけれど、誰かに掻っ攫われそうな魅力的な恋人がいるスペシャリスト……は言い過ぎかもしれないけど、獄寺君よりはずっと先輩だよ。ああ、でもオレの恋人は、獄寺君の恋人とは比べ物にならないくらい綺麗で可愛くて、筋金入りのかっこよさだから、参考にならないかもね」
 不安も何もかも吹き飛ぶくらい、すべて忘れて、ただひたすら獄寺は、やっぱりこの人がめちゃくちゃ好きだ、なんて思った。
 綱吉はいつだってそうだった。獄寺が不安に思いながら告白すれば笑って受け止めてくれて、戸惑いながら手を伸ばせばその手をしっかり握り返してくれて、小出しに甘えたりすれば当たり前みたいに甘やかしてくれる。綱吉の力になりたいと、守りたいと思いながら側にいて、けれど獄寺の腕の中にすっぽりと納まるような小さな華奢な身体を持つ綱吉は、綱吉に出会うまで一度だって満たされていると感じたことのなかった獄寺の心を包み込み癒してくれる。
「オレの恋人を悪く言ったら、いくら十代目でも許さないっス。つーか、あの良さが分からないなら、十代目の審美眼もどっかのマフィアの八代目と良い勝負なんじゃないっスか」
「ロンシャン? 獄寺君、それ同時に自分を貶めてることに気づいてる?」
「あ、ヤベッ。そういうことになるんですかね。ああ、でもオレの恋人を貶められるよりはいいっスね、多分……いや、絶対!」
 冷静な反論に少し考えさせられて、けれど結局はのろけ話、恋人自慢に落ちつけば、そんな獄寺をしばらく見つめた後綱吉はついに耐えきれなくなったのか俯いて、限界、と呟いた。
 僅かに見える耳はひどく赤い。
 お互いに、相手を恋人恋人と連呼したのなんてこれが初めてのことだった。
 ちゃんと自覚はしていた。確認したことだってあった。
 きっかけは些細なものだったけれど拗ねてしまった綱吉に「獄寺君はオレのなんなの?」と訊かれて、それももう今さらな感のある問いだったが、それでも慣れというものがないから、獄寺はこれ以上ないほどに緊張しながら、つっかえながら「恋人です」と答えたことがある。今の綱吉のように俯いてしまった獄寺はさらにぎゅっと目まで閉じてしまって、そのあとしばらく綱吉の顔が見られなかったけれど、ゆっくりと目を開けたときには、綱吉に下から顔を見上げられていて、ずっと見られていたのかと気づいて、全身の血が沸騰した。
 同じように、不安に駆られて俯いてぎこちない態度をとってしまった獄寺に、綱吉が「オレは獄寺君の恋人なんだよ」と言ったこともあった。それはちょっとそっけない感じの言い方だったが、だからこそ逆に、綱吉が羞恥を堪えてそれでも本心を頑張って言葉にしているのだと強く伝わってきたから、嬉しくて弾かれたように顔を上げて綱吉を見れば、二人の視線が絡み合って、けれど綱吉はすぐに目を逸らし顔を背けて、獄寺がいくら呼びかけても頑なに横を向いたままだった。そんな綱吉の言動に勇気付けられて、むしろ調子付いてしまった獄寺はいつになく強引に綱吉の肩を掴んで振りかえらせてその頬に手を添え、無理やり視線を合わせて、それから。そう、それから、目を閉じてキスをした。
 今は。
 綱吉から伝染するように、恥ずかしくなって顔を背けてしまった獄寺と、相変わらず俯いたままの綱吉。
 自分の酷く速い鼓動を意識しながら、獄寺が横目で盗み見るように綱吉に目を向ければ、同じタイミングで様子をうかがうように視線を寄越してくるから、しっかりと目が合ってしまう。
 ピクリと身体は反応してしまう。反射的に目を逸らしそうになった。けれど見つめたままでいれば、見つめ返す視線も逸らされないから、見つめ合ったままで。
 その絡んだ視線の間で気恥ずかしさを、それからそれ以上に満たされた気持ちを共有して、二人で肩をすくめて笑う。