確かめるように顔を上げて綱吉を見れば苦笑は苦笑でも、思い描いたとおり、むしろそれ以上に優しくて魅力的な笑みが向けられていた。
 綱吉の溜息一つで暖かい気持ちになった獄寺は、向けられた表情に今度は頬が熱くなるのを感じた。単純すぎて格好悪いけれど、勝手に反応してしまう身体にはなす術がない。
 この身を見つめる綱吉の目が僅かに見開かれて、すぐにまた優しい笑みの形に細められるから、その反応から自分がどんな目で見つめてしまっているのかを何となく気付かされてしまって恥ずかしい。
「……ほんっとに、獄寺君は」
 仕方がない男だと、言外に告げられた気がして。
 きっと呆れられているのだとは思うけれど、身体の熱は収まらない。
 その熱くなった頬に自分が捕らえているのとは逆の手を伸ばされて、指の背で輪郭をなぞるように撫でられて、体温の上昇を余計に意識させられてしまう。
 微笑みかけられて撫でられて、安心して嬉しくて、もう不安になっていたことも忘れて抱きしめたくなっている自分は、綱吉の犬か何かになってしまったみたいだと意識の片隅では滑稽に思ったりもするけれど、そんなことさえもすぐに気にならなくなってしまう。
 綱吉さえいれば、綱吉が自分だけを見てくれてさえいれば、それで不安も不満もすべてが消えて、ただひたすら嬉しくて愛しくて、この世の幸せを一身に受けたような気になる。自分の想いの強さと深さ、執着心や依存ぶりを再確認してかなりヤバイ、危険だと思いながらも高揚感も同時に感じているから始末に負えない。
 もっとまずいのは自分が想われていることなんて、綱吉が気持ちを向けてくれていることなんて、ちゃんと分かっているくせに、他人が絡むとそれがどれほど取るに足らない人間でも落ちついてはいられないこと。
 最近ではとくにその傾向が強くなっている。綱吉に向けられる目、好意、言葉に、逐一苛立ちを感じてしまうのは、この持て余すほどに強い執着心のせいだったのだと自覚して、もっと穏やかな気持ちで好きな人を大切に愛することができたらよかったのかもしれないと思うけれど。その段階で踏みとどまれる程度の感情だったら、きっと最初から手を伸ばすこともできなかっただろう。綱吉に惚れていると自覚したときには、きっともうすでにそんな段階を越えていた。
 出会った頃から今までを思い返せば、気持ちは強くなっていく一方だった。
 考えて少しだけ恐くなる。それは自分の気持ちの強さそのものに対してではない。想いの強さは誇りにさえ思っている。自分の中にある一番確かなもの。初めて綱吉に惚れるまで、自分がこんなにも誰かたった一人を愛せる男だとは思わなかった。そんな特別な存在に、十年と少し生きただけで出会えた自分は本当に幸せな男だと心底思う。恐いと感じたのは、この身の偏執狂的なまでの想いに綱吉が怯えたり、避けたりする日が来ないと言いきれるだろうかと、そんな疑問が浮んだからだった。けれどそんな漠然とした恐怖心も胸に浮んだのはほんの一瞬のことで、向けられた綱吉の視線に、笑みに、霧散した。
 頬に触れるのは指の背ではなく、手のひらへと変わるから、獄寺はその手に懐くように頬を摺り寄せて、今朝と同じようにキスもしてしまう。不機嫌な表情を完全に消して、くすぐったそうに笑う綱吉を見れば、獄寺の唇にも自然と笑みが浮んでいた。
 綱吉が笑ってくれると、その笑みが自分だけに向けられていると、それだけで獄寺はとても幸せになる。
「ズルイよなぁ……二人でいるときは、いつもの獄寺君なんだよね。まぁ、さっきはいくらなんでも慌てすぎだろって感じだったけど」
「あ、あの十代目……もう怒ってないんですか?」
 まず返されたのは、綱吉が最近よく見せるようになった随分と大人びて見えるのに、それでも可愛らしさが損なわれない笑い方。それから、次に言葉。
「オレは最初から怒ってないよ。やつあたりって言ったのは本当のこと。もしこの手がすぐ離されたりしてたら、しばらく拗ねたかもしれないけどね」
 大人びた笑みが、ふいに子供のような幼い笑みに変わる。綱吉の表情は豊かで、そのどれもが獄寺の目には好ましく映る。見つめた先でまた笑みの種類が変わった。片方の唇の端を少し上げた、悪戯っぽいやっぱり可愛らしい笑みだが、それは上目遣いに獄寺を見る目元の赤みと相俟って照れくささを誤魔化す表情になっている。
「ああ、やっぱりこういうところがちゃんと獄寺君だなぁって思って、なんか安心しちゃった。獄寺君はこのくらいでいいんだよ、らしくて」
 今なお執着心を示すように握り締めたままの手首をひょいと持ち上げて気恥ずかしそうに言われて、言われてしまった自分の方がずっと恥ずかしくてたまらないと思うのにやっぱり手を離せなくて、そうすれば反対側の手で腕を掴まれて引き剥がされる。けれどそれを寂しいと感じた瞬間にはもう指を絡めて手を繋ぐように握りなおされているから嬉しくて、握り返す手に力が入った。
「なんかここのところ獄寺君の様子がおかしいって思って二人で話したかったんだけど、どう切り出していいかもわからなくてさ。それで体育の授業中に思いついて、ちょっと賭けみたいな意味も含めて、オレわざとネクタイ外しといたんだよ。獄寺君が指摘してくれたら一緒に更衣室に探しに行って、そこで種明かしして話をすればいいやって。予想は外れてちょっと悔しかったけど二人で更衣室に来てるんだから、結果オーライってことなのかな」
 気付いて指摘したのは獄寺ではなく笹川京子だったけれど。
 屋上での出来事を頭の中に再現して、獄寺は酷く居たたまれない気持ちになった。その時のもやもやとした不快感や焦燥までよみがえってくるから、息苦しさのようなものまで感じてしまう。
「……十代目はオレが気付くべきだと思ってたんですよね? 期待を裏切っちまって、オレ……」
「うーん、ニュアンスが違うかな……今までだったら絶対に気付いたはずの獄寺君が、何に気を取られていたのかが気になる。獄寺君、最近変だよ。オレに何か隠してるよね? なにか、遠慮して一人で抱え込んでる感じがする。オレが気になってたこと、獄寺君と話したかったことはまさにその部分なんだけど」
 驚くほど正確に把握されていることを知らされて、けれど獄寺はどう答えるべきか判断がつかずに口篭ってしまう。
 獄寺の不安なんて、突き詰めれば綱吉が自分以外の誰かを見ること、自分以外の誰かの目に映ること、それが嫌だというところにまで到達してしまうのに。それを自覚して、その意味も正確に把握したからこそ、そのまま綱吉にぶつけるのはさすがにまずいと獄寺は思う。
 同じ言葉でも、拗ねて甘えて子供が駄々をこねるように言うなら、きっと綱吉も受け止めてくれるだろう。そのくらいは愛されていると思う。今だって、綱吉は獄寺のために行動してくれて、話す時間を作ってくれた。
 けれど、自覚してしまった獄寺はもうそんなふうにはいえない。本気で不安がって、いっそ閉鎖された空間でずっと二人きりでいたら満たされるのではないかと考えてしまうほど偏執狂的な思いなのだと吐露してしまえば、今自分に向けてくれる笑顔が変わってしまうかもしれない。
 ただ見つめれば、綱吉は見つめ返してくれて、けれどそのまま不満そうに唇を尖らせる。本気で怒っているわけではない可愛い、とても可愛い拗ねた仕草。綱吉が自分にだけ見せてくれる甘えの混ざった態度。愛しくて抱きしめたくなる。
 こんなふうに見つめてもらえる存在で居続けるには、どうすればいいのだろう。今はどう答えればいいのだろう。獄寺は無意識に自分の本心に向き合うのではなく『正解』を探してしまう。
「言えないの? ふーん、オレには言いたくないんだ?」
 頬を少し膨らませた、いかにもわざとらしい冗談めかした綱吉の態度。けれどそうだと分かっていても動揺してしまう。
「そ、そういうわけじゃないっス。なんていうか、オレ……」
 気の利いた言い回しも思いつかない。必死に考えているのは、嘘ではないけれど限りなくそれに近い言い訳。
 口篭もってしまえば、綱吉が笑うから、それが一点の曇りもない息を飲むほどに獄寺を夢中にさせる魅力を持つ笑みだから見惚れて、けれど我に返れば後ろめたさを感じる。
 今まで獄寺は自分の胸の内にある感情のほとんどを綱吉に隠さずにきている。まだ恋人同士とは言えない関係のころから抱きたいと思っていることも正直に伝えて、そうすれば綱吉は驚きながらもちゃんと聞いてくれた。
 嬉しかった。
 綱吉のすべてを独占したくて、誰にも譲りたくなくて、右腕も恋人も自分じゃないと嫌だと、好きだという気持ちは綺麗な穏やかなものばかりじゃなくて、もっとどろどろとしたものもいっぱい抱えているのだと伝えたこともあって、そのときの綱吉は笑って、とても綺麗な笑みと瞳を獄寺に向けて、大丈夫だと受けとめてくれた。
 けれど。
 あのときの自分はまだ子供だったのだと獄寺は思う。今だってまだ大人とは言えないけれど、それでもその頃の自分はあまりにも幼すぎた。初めての恋愛に舞い上がっていたし、とても不器用だったし、なにも知らなかった。
 醜い感情について以前に比べれば、はるかに正確に把握してしまった獄寺はもう同じセリフを同じように綱吉には言えない。できれば隠してしまいたいと思ってしまうのは、つまらない成長をしてしまったということなのかもしれないけれど。
 獄寺はこの瞬間初めて綱吉に対して自分の意思で秘密を作った。
「いいんだ。ゴメン、意地悪した。ただ、これだけは覚えてて。オレに遠慮なんてしなくていいから。獄寺君はそのまま獄寺君らしくしていてくれればいいんだ。そうしたら、オレはオレでいられるから」
 綱吉は詮索せずに、気遣うように笑いかけてくれる。
 笑い返すけれど、あまり上手くできている自信はなかった。
 罪悪感に見舞われていた獄寺は、自分のことで精一杯だった。向けられた言葉は存外深い意味が込められていたこと、そして笑みを見せながらも屋上で周囲の態度の変化への戸惑いを見せたときのように――もしかしたらそれ以上に――綱吉の瞳が不安に揺れていることに、気づかなかった。
 獄寺も、綱吉も、自ら戸惑うほどに成長していても、それでもまだ自分たちが思うよりもずっと子供だった。