更衣室のドアを開ければ気配はあるのに誰も居らず、探していた姿も見当たらないから一瞬不思議に思いながらも獄寺はもしかしたら途中で追い抜かしてしまったのかもしれないと引き返しかけた。
けれど、半歩足を引いたところで予想外の位置から声がかかる。
「遅かったね、獄寺君」
 まだ自分の手が支えているドアのすぐ横、下方から声に、更衣室内を見渡していた視線を下ろせば、そこに壁にもたれ片方の膝を抱えて座っている綱吉がいた。
「十代目! どうしたんですか! ネクタイ、見つかりましたか? もしかして、また膝が……」
 ドアを閉めて綱吉の側に膝をついて目線の高さを合わせながら、慌てて声を掛ければ返されるのは苦笑。しかもそれがどこか皮肉めいてみえるから獄寺はすでに十分焦っていたのにさらに焦る。それは綱吉が滅多にしない笑い方で、しかもそれが獄寺に向けられることなど今までなかったからだ。
「十代目?」
 綱吉はどこかなげやりな動作で小さな溜息を一つ零してポケットを探り、中からネクタイを引っ張り出した。
 どういうことなのかと、獄寺はその手をきょとんと見つめてしまう。
 更衣室で見つけてポケットに入れたのか、それとも元からそこにあったのか。疑問を言葉にするより先にそのネクタイがふわりと自分の首に掛けられ、何をされるのかと思えば次の瞬間には首の後ろに予想外の強い負荷が掛かるから、綱吉に向かって倒れこみそうになって咄嗟に綱吉の肩のすぐ横の壁と、反対側の床に手をついて身体を支える。ほとんど覆いかぶさるような体勢になってしまったことに慌てて身を引こうとすれば、首に掛けられたネクタイが引っかかるからできなくて、困ってしまえば唇に触れる柔らかな感触。
 条件反射のように身体は熱くなるけれど、獄寺は何の反応もできなかった。瞠目した瞳いっぱいに映る綱吉の瞼。
 触れて、軽く吸われて、心底惚れている相手だからこそただそれだけの感触にも勝手に身体が震えてしまえば、唇の感触はすぐに離れていく。
 同時に首に掛かっていた負荷も消えた。
 不意打ちに仕掛けてきたキスをあっさりと解くと綱吉は混乱する獄寺を置き去りに、ネクタイから手を離して俯く。綱吉のネクタイだけが獄寺の首に残されている。綱吉のすぐ側の壁と床についたままの手をどうすればいいか迷う獄寺に、綱吉が告げる。
「ネクタイはずっとオレのポケットにあったよ。一応言っておくとオレはちゃんとそれを知ってた。……わざとだったんだよ」
「えっと……それは……」
 綱吉の声はごまかしや冗談めかした雰囲気なんて欠片もない真剣なもので、けれど獄寺はめったにない綱吉からのキスに鼓動は跳ね上がっているから冷静になんてなれなくて、どういう意味なのかと問いかける声が上擦ってしまう。
「なんで京子ちゃんが気付くのに獄寺君が気付かないんだよ。どうでもいいことほど気付くのに……こんなときまで獄寺君は、オレが気付いて欲しいことには気付いてくれないんだ」
「す、すみません!」
 機嫌を損ねているのは確かで、そうなってしまったのは自分のせいだということは分かるから咄嗟に謝るけれど、謝ってから獄寺は失敗したと思った。それに気付いたのと同じタイミングで向けられる声。
「獄寺君、なんで謝ってんの?」
 言葉には苦笑が混ざり、けれどいつもの優しげな雰囲気がそこにはない。ただ呆れているという声で告げられて、獄寺はあらためて本当に失敗したと思った。
 相手が怒っているからとりあえず謝るなんて馬鹿みたいで、何も分かっていない子供みたいで情けない。実際に獄寺は屋上から駆け出した綱吉を見て、向けられた視線や表情から綱吉が何か不満に感じているらしいことまでは察することができたが、その原因までは分からなかった。そして、もしかしたらとはうすうす思っていたが今の綱吉の言葉でやっぱり原因は自分にあるらしいと確信したけれど、依然としてどうして綱吉が怒っているのかは掴みきれない。
 分からないのに謝るなんて不誠実だと獄寺は思うし、綱吉も同じように感じただろう。
「獄寺君?」
「は、はいっ、すみません。あ、違います。今のスミマセンはいい加減に謝っちまったことで……本当に悪かったと思います。反省します。だから……十代目が何を怒ってるのか、教えてください。それで、あらためて謝らせてください」
「まだ何も聞いてないのに、謝るつもりでいるの?」
 不審そうに僅かに細められる綱吉の目。
「はい! あ、違……えっと、オレ……」
 即答して、してしまったあとでまた間違えていることに気付いて慌てるけれど、もう我ながらごまかしが聞かないから、これ以上はないというほどに焦って途方に暮れて俯いてしまう。今も鼓動は速いけれどその意味はすっかり変わってしまっていた。
「もういいよ。やつあたりみたいなもんだから、そんなに気にしないでよ。でも……悪いけど今、獄寺君と上手く話せる自信ないから、オレ行くね。今は一緒にいない方がいいと思う」
 告げられた「もういいよ」は許可や許容ではなくて、ただ突き放すようなどうでもいいという意味合いだと分かるから悲しくて。
 一緒にいない方がいい、なんて。
 一分、一秒でも長く側に、二人きりでいたいと思う唯一の相手からそんなことを言われたら。
 顔も見られないまま、けれど咄嗟に立ち上がりかけた綱吉の手だけはしっかりと掴んで引き止めてしまう。
 その手が振り払われなかったことに、綱吉が一度浮かせた腰を下ろしてくれたことに、心底安堵した。
 けれど、相変わらず綱吉から伝わってくるどこかとげとげしい雰囲気には変わりがないから獄寺は俯いたまま、綱吉の手を拘束したまま、必死に自分が取るべき行動を考える。
「獄寺君、離してくれないかな? 言っただろ、やつあたりだって。このままだとオレはさらに理不尽な絡み方しそうだからさ……オレ、獄寺君とケンカしたくないんだ」
「嫌だっ……っと、嫌です」
 それだけは絶対譲れないから獄寺は即答して、けれどそこからどうすればいいかは結局分からないから悩んでしまう。
 力の加減なんてできなくて、強く手首を捕らえている手に力を込めてしまう。痛みを感じさせているかもしれないけれど、綱吉が無理に逃げようとはしないことに少しだけ救われた気持ちになった。
「ヤダって……」
 子供じゃないんだから、と呆れきったように零されて、それもやっぱり普段の綱吉らしくない冷たく突き放すような言い方だから、獄寺は呼吸も上手くできないほどの不安に駆られてしまう。ただどんなことをしても絶対にこの手を離さない、綱吉から離れないという意思だけは薄れることなく、むしろ一秒ごとに一際強くなっていた。
 絶対に失えない存在、代わりなんてどこにもない、何を引き換えにしても自分のすべてをかけても傍に居たい唯一の人だと思えば、一時的なものだと分かっていても一緒にいない方がいいと言われて手を離すことなんてできない。
「すみません、絶対できません。これだけは十代目がなんて言ったって、オレは譲れません。やつあたりでもなんでもしてくれていいっス、だから……」
 どうしようかと考え続けて、浮かんできた言葉をそのまま口にしながらも、名案も浮かばないまま混乱の一途を辿れば、完全に下げてしまった頭の上で再び零されるため息。
 けれど。
 今度はそれだけでじんわりと暖かくなる胸のうちに気付いて、獄寺は本当に自分は重症だと思う。顔を見なくても、零されたため息、吐息の微かな音だけでそのニュアンスに気付いてしまう。さっきとは明らかに違う、優しげな雰囲気。綱吉のことなら、ため息一つでも反応してしまう自分。
「……好きな人にそんなことしたくないって、オレの気持ちは酌んでくれないんだ?」
 零された言葉には、内容の割に全くそれまでのとげとげしさがなかった。甘えて拗ねるような雰囲気さえ含んでいる。
 好きな人。
 誰のことを差しているのか考えれば、こんな情況でも嬉しくなってしまう単純な思考。トクンと跳ねる鼓動。
「もう、手を離してもいいよ、オレどこにも行かないから」
 いつもの綱吉の声で告げられて、けれどどうしてもその手首を掴んでいる手から力を抜くことができない。
 どこにも行かないから。
 ここに、そばにいるから。
 言われて、嬉しくて安心して、けれど手も離せないなんて。
 獄寺はそこに自分の綱吉への強い執着を見て、最近無性に感じていた不安や焦燥がどこからくるものかを知った。