「ツナ、ナイスキャッチ! 今日はツナ様大活躍の日だな」
 コートから走ってきた山本の軽い言葉に、体育館内の騒然とした雰囲気が薄れた。
 女子の授業を担当している体育教師の無事を確認する声にも同じ調子で返した山本はツナからボールを受け取ってゲームを再開させてから、不意に真顔になって声をひそめてあらためてツナの肩に手を置き無事を確認する。
「おい、ツナホント大丈夫か?」
 騒ぎを収めるための山本の行動は的確だが、そのそつのなさが獄寺には面白くない。当たり前のように極自然に肩に置かれた手も目障りだった。
「うん、平気平気。ちょっと痺れてるだけだよ。あれが山本の投げたボールなら、こうはいかなかっただろうけどね」
「ははっ、その調子なら平気そうだな」
 真顔になったのも束の間、山本は普段の笑みに表情を戻して綱吉の頭を小突く。
「てめー、十代目になにしやがる!」
 いつものこととは言え、当然目の前でそんなことをされれば獄寺は黙っていられない。だが、そんな文句をつけてもあっさりと流されるのもいつものことである。
 それに困ったような顔をして笑うのがいつもの綱吉のポジションで、けれど今はその微笑が普段より固く心なしか顔色が悪い。
 気のせいで済ませてしまえそうなくらいの僅かな表情の違い。
 そんな些細なことにしっかり気づいてしまえば、まさかとは思うのだけれど山本の馬鹿力で小突かれたせいではないかとも考えてしまうから、獄寺は綱吉の肩に置かれている山本の手を強引に引き剥がし、身を屈めて顔を覗き込む。けれどさらに声を掛けようとしたところで、綱吉が眉を潜め小さく息を飲むから本気で焦る。
「十代目? どうかしましたか?」
「あ? 何? どうしたんだ?」
 慌てる獄寺に山本は首をかしげる。その二人の間で綱吉は青い顔のまま苦笑して、俯き加減のままちらりと上目遣いに獄寺を見ると、どうしてわかるかなぁ、と呟いた。
 苦笑いになるのは何ともないからと誤魔化したくても無駄だとわかって諦めているからだ。その表情を見せられて余計に、獄寺はやっぱり勘違いではなかったのだと確信した。綱吉が隠そうとしていることほど気づいてしまうらしい。右腕として誇らしくも思える瞬間だが、今はそれを喜んでいる場合ではない。
「ボール受けとめたときに変な力の入れ方したのかな、膝が……ちょっとね。そんな大したことでもないんだけど」
 言葉を濁してはいるが、痛むのだろうと獄寺は察した。朝も膝の違和感を主張していたが、そのときとは明らかに様子が異なる。
「保健室行きますか? オレ、背負っていきますよ」
「ご、獄寺君、ほんとうにオレそこまでひどいわけじゃないから平気だよ」
「獄寺、おまえ相変わらずなのな。おもしれー」
 獄寺にとっては本気で言った言葉だったのだが綱吉はあきらかに一歩引いた反応を見せ、山本は豪快に笑いだした。綱吉の反応はともかくとしても山本の反応には腹が立つ。
「おい、山本! おまえ十代目が足痛いっつってるのに、よくそうやって馬鹿笑いができるな。神経疑うぜ」
「ああ? だって、ツナが足痛いのってアレだろ?」
 山本は派手な笑いを収めて、二人の顔を交互に見た。
 ――アレ。
 二人の頭に過るのは、もちろん昨日の出来事だが、それを山本が知っているはずはない。
 動揺を押し隠して、過った記憶からも意識を切り離して山本の言葉の続きを待てば、山本はこの場に広がっている微妙な雰囲気に気づいた様子もなく軽く続けた。
「成長痛――だろ? オレ、小学生のときになったぞ。夜なんか眠れねーし、マジ泣いたぜ。ガキだったし」
 予想外の言葉。けれど、とりあえず山本の指す『アレ』の正体がわかったことに獄寺は安堵する。綱吉も同じような反応を見せていた。
 それから綱吉が見上げてくるのに気づいて視線をおろせば、その目には知っているかという問いかけが映っていたから、獄寺は首を横に振って答える。
「成長痛って?」
「なんだそりゃ?」
 山本は二人の反応にこそ驚いたように、目を大きく開けてそれぞれの顔を見る。
「聞いたことねぇか? 急激に背が伸びると身体がそれに追いつかなくなって、膝とか足の付け根とかスゲー痛くなんだよ。獄寺は経験してるかと思ったぜ」
「そんなのがあんのか。オレは短期間に一気にって伸び方してねーからな」
「オレも……つい最近までそんな急激な成長とは無縁だったからなぁ。オレのは痛みっていうより違和感って感じなんだ。ゲーム中もやっぱり違和感はあったけど平気だったし、今も痛いって言っても結構鈍い感じ」
 軽く肩を竦めて山本が苦笑する。
「ありゃあヒドかったからなぁ、経験せずに済む奴が羨ましいぜ。まぁ、ないならない方がいいもんだしな。ツナの痛みもそれほど酷くないみたいだし、よかったな。もし、この先ひどくなるようなら、そのときにオレが世話になった医者紹介するから言ってくれよ」
 審判という立場上コートにちらちらと目を向けながら話していた山本は、そこまで言うとコートへと歩きだしたが少し歩いた先で振り返ると小走りに戻ってきた。二人の側まで戻ると少し身を屈め、ぼそぼそと告げる。地声が大きくてさらによく通る声質の山本だが、先刻の黒川や京子と比べてもさらに小さい声だった。
「おまえら外で座って休んでこいよ。ツナも立ってるのも床に座るのも膝にくるだろ?」
 女子の方の教師が何か聞いてきたら適当に誤魔化しておくからと山本は片方の唇の端を上げ悪戯を企む悪ガキのような笑みを浮かべる。
 どうしようかと視線を向けてくる綱吉に、獄寺は躊躇せずに何度も頷いた。綱吉と二人きりになることに異論があるはずもない。
「山本のくせにたまにはいいこというじゃねーか。十代目、そうしましょう」
「そうだぜ、ツナ。あとはまかせとけって。ゲームもこの後オレが出て、しっかり勝っとくからよ」
 コートから山本を呼ぶ声が飛んできた。それに普段どおりの大声で答えて、山本は今度こそコートに走って戻っていく。
 その背中を見送った後で綱吉の視線が再び獄寺へと向けられる。
 見つめられて笑い返しながら、獄寺はその笑みに期待を込めてしまう。一緒に抜け出したい、二人きりになりたいという気持ちのまま見れば、綱吉は少しの間そんな獄寺をただ眺めていたが、ふいに肩を竦めて「かなわないな、獄寺君には」とどこか楽しげな様子で零した。
 ふいに綱吉の手が肩に置かれそこに力を込められるから、それに逆らわずに背中を丸めるように身を屈めれば、少し背の伸びた綱吉がさらに踵を上げ背のびをして、獄寺の耳元に唇を寄せてくる。
 唇が、吐息が耳を掠める。
 獄寺の鼓動は一気に跳ね上がる。
 ただの内緒話をする仕草なのに妙に艶かしく思えて、意識してしまう。肩に触れた綱吉の指が酷く熱を持っているように感じて、けれど熱いのはその指ではなく自分の体なのかもしれないと思えば、自覚とともにまた体温が上昇した。
「今、みんなゲームに集中してるし、女子も何かの説明受けてるとこだから、こっそり抜け出そう」
 精一杯に小さくしぼられた声には吐息が混ざって、妙に色っぽいからたまらない。
「っ、…………はい、十代目」
 声が上擦りそうになるのを、声を張り上げて答えそうになるのを、必死にこられて、小声を出せばやっぱりその声はかすれてしまうから恥ずかしい。
 身を屈めて床に視線を落としたまま、獄寺は考える。
 横をみれば間近で視線が絡み合う。
 あとほんの少し身を屈めて横を向けば自分の頬に、きっと綱吉の唇が触れる。
 そこからさらにもう少し身を寄せればキスだってできてしまうかも知れない距離。
 きっと今の綱吉は今朝寄り道をしようと告げたときみたいな悪戯っぽい可愛く魅力的な表情をしていて、けれどこの瞬間にもそちらへと顔を向ければ自覚していなかった距離の近さに今さらのように驚いて元から大きな目をさらに大きく瞠り、それから恥じるように目元を淡く染めながら目を伏せ距離を置こうとする。
 想像はいつだって実物を超えないけれど、今獄寺の頭の中に浮かんだ綱吉の表情や仕草はそこそこにリアルだった。
 とっても魅力的で、だから瞬きの一つまで見落としたくはないと思わせられる。
 吐息を感じ取れるほど近くにいる愛しい人。
 ほんの少し身動くだけで、今頭の中にあるイメージ以上の愛しい顔が見られることが分かっている。
 けれど。
 そのときの自分の反応に自信が持てなくて。
 その可愛い綱吉が誰かの目に映るかもしれないと思うと嫌で。
 多くを頭の中に過ぎらせながら、結局獄寺は綱吉が踵を下ろし肩からも手をどけて離れていくまで、微動だにせず床を見つめ続けていた。