成長を見せ始めたとは言え、まだ同年代の男子生徒たちよりはずっと小柄な体が、一回り大きい相手の脇をすり抜けて僅かに沈み込み、次の瞬間にはふわりと宙に浮く。 手から離れたバスケットボールは軽い音を立ててリングに吸い込まれ、ネットをくぐり抜けた。 綺麗だ、と思った。獄寺は同じコート内にいるのに、ゲーム中なのに完全に足を止めてその姿を目で追っていた。すらりと伸びた手足はいっそ目の毒だと思えるほどにしなやかで艶かしいが、精麗でもあって、その印象が打ち消しあわずに同居していると意識してしまえばもう目が逸らせなくなる。 「ナイッシュー、ツナ!」 笛を吹くのも忘れて声を上げたのは今は審判をさせられている山本だった。 「おい、山本ーっ、審判が一方のチームに肩入れすんなよ!」 「わりぃ、わりぃ! でもやっぱりつい自分のクラスって応援しちまうもんだろ?」 飛んできた野次にも悪びれずに答えると山本は今さらのように笛を吹いた。 「時間もちょうどだな。チーム交代ー」 山本の指示で、ゲームをしていたメンバーと、待機していたメンバーが入れ替わる。 シュートを決めた綱吉は息を弾ませながら同じコートにいた獄寺へと駆け寄ってきた。 「獄寺君、見た? 見た?」 すぎるほどに可愛く愛しいと思わせる笑顔。自分だけに向けられる表情。つい今し方綺麗だと見惚れていた相手が、こんなに可愛い生き物が地球上にいたのかと獄寺に思わせるほどの存在が一目散に自分に駆け寄ってくるのは感動的でさえある。 獄寺は抱きしめたくてたまらなくなって、気持ちのままに動きそうになる両腕に必死に力を込めて堪えた。 「十代目! スゲーかっこ良かったっすよ! 感動しました!」 「それ、褒めすぎ! でも、獄寺君のパスが良かったからだよ、全然見てないと思ってたのにあの絶妙のタイミングでくれるんだもん」 「十代目のことはちゃんと見てますから。綺麗でしたよ! パス出した後はもうフォローに走るのも忘れて見惚れました。まぁ、絶対決まるとも思ってましたが」 勿論お世辞なんてひとかけらもない、むしろ嫌がられないようにひかえめすぎるほどに自重した獄寺の言葉だった。 けれどシュートを決めたと喜んでいた顔が、照れを誤魔化すためにむりにしかめたような顔に変わる。 「いや、だから褒めすぎだって! 獄寺君みたいにどこからでもシュートが打てるわけじゃないし、山本みたいに豪快なダンクができるわけじゃないし……でも嬉しかった。獄寺君のおかげだね」 言葉の最後に表情がまた満面の笑みに変われば、獄寺はそれが自分に向けられていることに喜びながらも、魅力的過ぎるからうろたえてしまう。 「そ、そんなことないっス! 十代目の実力っス」 プラス二人のコンビネーションだったらいいなと心の中だけで呟く。何年か先のための予行演習だと思えばとても気分がいい。 コート脇でそんな会話を続けていれば、全く気にしていなかった背後からひそめた声で話しかけられた。 「お疲れ。ねぇ、今うちのクラス勝ってるの?」 「二人ともお疲れさま」 クラスメイトの黒川華と京子。 体育館を可動式のネットで半分に区切った反対側では女子がバレーボールをしていた。 今日の時間割り変更の原因は男子の体育教師の諸事情のためだったが、結局都合がつかなかったのか男子の体育は自習で、バスケットボールのゲームをすることになった。体育は二クラス合同の授業となるため、自然とクラス対抗となりゲームもそれなりに白熱していた。一方女子の授業は普段どおり教師の指導下で進められている。ゲーム開始直後は黄色い声援も飛んでいたが教師がそれを見逃すはずもなく、厳しく注意されていた。そのため、今話し掛けてくる二人の声もひそめられている。 「ありがとう。勝ってるよ。獄寺君がいっぱいシュート決めたし、この次は山本が出るから、もう逆転はされないんじゃないかな」 綱吉が二人に合わせて小声で返す。 「へぇ、やるじゃないうちのクラスの男どもも」 「ツナ君もシュート決めてたよね。獄寺君の言うとおり、わたしもキレイだと思ったよ。ツナ君ってすごく軽そうにふわって飛ぶんだよね」 京子の言葉に獄寺は思わず何度も深く頷いた。この女、話が分かるじゃないかと心底思った。実際獄寺は綱吉の背中を見て、羽根が生えていても可笑しくないと思ったくらいなのだが、それをもしこの場で口にしたら絶対に綱吉に怒られることが分かっているからその言葉は胸中に秘めておく。 「えっ、京子ちゃん、聞いてたの! 恥ずかしいなぁ……もう、獄寺君が変なこと言うから」 恥ずかしそうに視線を落とした綱吉は、感情の持って行き場に困り最終的に獄寺にぶつけようとしたのか横目でにらんでくる。 けれどそれはやっぱりいつのも綱吉らしい本気で怒っているわけではないのが分かる可愛いばかりの表情で、二人きりのときだけに見せてくれる表情にも少し似ているから、獄寺は綱吉を隠してしまいたくなる。 京子と黒川だけではない他の女生徒たちも、やはり男子のゲームが気になるのか四人の会話に耳を欹てていたり、ちらちらと視線を送ってきている気配は伝わってきていた。 綱吉に向けられている視線にはどうしたって敏感になる。可愛いと囁く声を獄寺の耳は拾ってしまう。シュートを決めたときにはきっとまた種類の違う言葉が囁かれていたのだろう。なんとなく、面白くない。綱吉が認められるのは嬉しいことなはずなのに、綱吉にはそれだけの魅力があって当然だと思うのに、自分だけの大切な人なのだから気安く見るなという感情も消せない。 そんな気持ちは抑え切れないからつい仏頂面になってしまいそうになるけれど、このタイミングでそんなことになったら、綱吉に妙な誤解をさせかねないから平静を装う。 「変なことじゃないっスよ。事実です」 「そうだよね!」 天然なのだろうが、うまい具合に相槌を打ってくれる京子に内心で少しだけ感謝した。 「二人でオレをからかって楽しんでるだろ」 そんな綱吉の愚痴も言葉遊びのようなものだと、唇を尖らせた拗ねた表情から分かる。拗ねた表情も可愛くて、けれどそう思っているのはきっと自分だけじゃない。 十代目をからかうなんてとんでもないです、なんて言いながら普段と変わらない笑みを心掛けているけれど、まだ上手くできていると思うけれど、だんだんそれを保つ自信がなくなってきた。 「あ、獄寺。アンタのシューズ、紐が解け掛かってる」 不意に傍観者的立場でいた黒川に指摘されて、獄寺はそれを幸いに短く礼を告げてその場にしゃがみこんだ。 この身はこれほどまでに狭量だったのかと胸中で溜息を吐きながら俯き、ほどんど解けている紐に指を掛けたその瞬間。 体育館内に響く複数の男子生徒の大声。 ゲームへの野次や声援ではない。 その殆どが短く言葉の意味を成さないもので、けれど一つ二つは言葉として聞き取れたものもあって。 ――どけっ! ――避けろ! 緊急事態を察した獄寺が情況を把握するよりも先に綱吉を庇おうと綱吉の手を掴みかけたが、その手が届くよりも先に綱吉が獄寺から離れる方向へと移動していた。その距離はごく僅かなものだが、咄嗟の行動だったため獄寺の伸ばした手は綱吉がいたはずの場所で止まる。空を掴む嫌な感触に一瞬で全身に広がった悪寒は、階段から落ちる夢を見て目覚めた瞬間のような、心臓が止まりそうな感覚に似ていた。 重々しい低い音が響いた後、一転してその残響まで聞き取れそうなほどに静まり返る体育館。一人一人の息を飲む声まで聞き取れそうなほどの静寂。 獄寺は自分の鼓動を意識した。それは嫌な感じに速く強くなっているから、息苦しさまで感じてしまう。 「…………っ、十代目!」 立ち上がって搾り出すようにして出した声でその沈黙を破る。 「っ……ったー。手、ビリビリきて……っく、」 言葉を切って俯き小さく咳き込んだ綱吉の腕には、胸に抱える形でバスケットボールが収まっている。 情況は把握できた。力任せに投げられた通らなくて当然のパスがこちらに飛んできたのだ。 そして。 獄寺はその先まで、苦々しい思いとともに理解する。 綱吉は半歩やそこらといえ、わざわざ移動して正面からそのボールを受けた。自分が避ければネットを挟んでいるとはいえ、そのネットのすぐ側にたつ女生徒たちのうちの誰かに確実に当たっていただろうから。獄寺や山本なら片手で衝撃を殺しながら受け止めることができるが、綱吉にはそれだけの腕力はないから、あえて正面から受け止めることを瞬間的に判断した。 綱吉がそれだけのことをしているのに、守るべき立場でありながらなにもできなかったことが悔しい。悔しいし、情けない。 「大丈夫ですか、十代目!」 ようやく体育館に音が戻る。 心配する声や、ボールを投げた男を非難する声。背後の女生徒たちからは感嘆の声。 「どんくさいオレにしてみれば奇跡的なくらい本当にどこもなんともないから、気にしなくていいよ」 獄寺に告げるように、けれど見守る周囲の人間にも聞こえるように告げられた言葉。 それでも安心していいのだと教えるように浮べられた笑みは、獄寺だけに向けられている。 自分に向けられている視線。 不意に獄寺は自分はなんて嫌な男なのかと思った。 獄寺が苦々しく思ったのは、自分が大切な人を守る行動を取れなかったことに対してのみではない。大切な最愛の人、沢田綱吉がその優しさを他人にまで向けることにも、複雑な気持ちを抱いてしまった。優しくて強くて、他人を守ろうとするような素晴らしい男なのに、自分の立場ならそれを誇りに思いこそすれ、ほんの僅かにだって不愉快に思う理由なんてないはずなのに。 けれど見つめ続ければ、笑みが深められるから嫌な思考が薄れて気持ちが温かくなる。 愛しい人。大好きな表情。魅力的な笑顔。 無事でよかったと思う気持ちだけは、何の混じりけもない本心だった。 綱吉が怪我をしなかったことにあらためて安堵すれば、無意識のうちの強張っていた体からは力が抜けて、嫌な鼓動も少し収まっていくから、自分がどれだけ動揺していたのか思い知らされてしまう。 それだけ相手に心底惚れていることや、強すぎる執着心も再確認させられることになった。 それは本当に今さらなのだけれど。 |