公園で時間をつぶして一時間目の授業が終わる時間を見計らって学校に向かえば、ちょうど正門を潜り抜けるのと同時にチャイムが鳴り響いた。
「うわっ、ほんとにぴったりだったね。こういうの、なんでもないことなのに妙に嬉しくならない?」
 笑顔を向けてくる綱吉に、獄寺は即答しかけた言葉を飲みこんで、もっとも無難な「そうですね」という言葉で答える。努めて似たような笑顔を返しながら、心の中でだけはその顔を見せてもらえることの方がずっと嬉しいと主張していた。
 いつも向けられている笑顔なのに慣れることなんてないから、それだけでもう鼓動が早くなった。セックスだってしている関係なのに、未だに歩きながら微笑みかけられて思わず足が止まってしまうくらい好き。常軌を逸している自覚はあるが、獄寺はそれを悩むどころかひそかに誇らしく思っていたりする。沸き立った欲望で暴走して、綱吉を傷つけてしまわないかどうかは心配だけれど。
 相変わらず童顔の綱吉だが、それでもやはり以前に比べれば多少幼さは抜けて、惚れているからという欲目ではなくとてもきれいになったと獄寺は思う。もともと魅力的な人だけれど系統としては美しいというよりは可愛い寄りの顔立ちに違いない。けれど、今のように可愛く笑った後で何気なく空を見上げて眩しそうにほんの少し目を細めたり心地よさそうにため息を零す仕草は、逸らされた顎から喉のラインの艶かしさとあいまって、可愛いではなくきれいと表現した方が相応しい。
 きれいで、さらに獄寺にとってはひどく扇情的だったりもするので、時々とても困ったことになってしまう。
 今も。
 不躾な視線を送りながらほとんど無意識に綱吉の身体に手を伸ばしそうになってしまっている自分に気づいた獄寺は平静を装いながら、手をポケットに突っ込んで足元に視線を落とす。けれどそうしたところで、相変わらず頭の中にしっかり焼きついている綱吉の姿ばかり想ってしまうのだ。
 ふとした瞬間の表情が前にも増して魅力的になった綱吉、けれどそれをかけらほども自覚してないのが問題だった。
 誰彼構わず。
 考えて、獄寺は深いため息を零す。
 誰彼構わず魅了してしまうのは自覚というよりむしろ自重してほしいな、なんて。
 綱吉のまわりにマフィア関係の人間、その候補に上がる人間が集まるのは仕方がないけれど、最近はそれだけでは済まなくなっている。
 まず第一に、背の伸び始めた綱吉を見る女生徒たちの視線は確実に変わった。そのあたりの女の目はとても鋭く、かつシビアだった。
 自分が転入していたときから女生徒に付きまとわれたり何かと煩わされることは少なくなかったという環境も災いし、獄寺は少女たちに好印象というものが最初からないのだが、綱吉への態度の変化にはとくに不満を抱いてしまう。もちろん綱吉の魅力に気付く人間が増えたことは誇らしく思ったりもするし、綱吉が相手の想いに答えないという最前提の下でだが、綱吉が他人に好かれることを素直に喜ばしく思う気持ちもあるにはある。けれど、以前と変わらず綱吉を見つめている獄寺にしてみれば、何を今さらとか、反発してしまう気持ちも強い。
 そして綱吉がそんな相手でさえ邪険にはせず、またより魅了してしまいそうなさまざまな仕草や表情をみせたりするからより一層複雑な心境になるのだ。綱吉本人が無意識なのは分かるのだが、だからかえって性質が悪いとも言える。
 もう綱吉をダメツナと呼ぶ人間はいない。まれに昔をからかうように言う人間ならクラスメイトたちの中にもいるけれどそれは本気ではなく、悪意や皮肉はかけらも滲ませずに親しみを込めながら、今の綱吉を高く評価しているのがはっきりと分かる言い方だった。そんなとき、綱吉は決まって気恥ずかしそうなくすぐったそうな笑い方をする。それもまた魅力的な表情なのだが、自分以外に向けられるものだから獄寺はちょっと不満に感じてしまう。
 自分は執着心や独占欲が強い性質だったのかと綱吉に惚れてから気づいたが、最近はそれに『自覚している以上に』という言葉付きで思い知らされてばかりいる。
 思考に没頭して歩みが遅くなった獄寺に気づかずに少し前を歩く綱吉。
 とても、とても好きな人。
 振り向かせてキスをしたくなる衝動を堪えて、足を速めて追いつき横を歩きながら、さりげなく互いの手の甲どうしを軽く弾くように触れ合わせれば視線を向けられ、その目にはほんの少しの動揺が見えた。見つめつづければ目元を淡く染めながら視線を逸らされて、俯いたうなじまでかすかに色づいていることに気づいてしまえば、ごちゃごちゃと考えていたことがすべて霞んでしまうくらいとても満たされた幸せな気持ちになる。それなりの意思を持って手を触れ合わせたことに気付いて、それに確かな反応を見せてくれたのが獄寺には嬉しい。
 けれど、次の瞬間には触れただけの手を強く握られて呼吸が止まった。期待した以上の綱吉の行動に、一気に上昇する体温。うろたえながら隣を見れば、綱吉は頑なに顔を背けている。
 獄寺がいろいろな想いを巡らせていることに気づいてそうしてくれたのか、それとも今朝から二度も置いてけぼり――一回目は獄寺が綱吉を置いて先に進んでいたのだが、心境的には同じことだった――にしたことへの綱吉なりの詫びなのか、それともただ触れたいと思ってそうしてくれたのかは分からない。
 真実は分からないけれどもう何だって良い。
 嬉しい。
 嬉しくてたまらない。
 獄寺だって本当は手を繋ぎたいと思ったけれどもう学校の敷地内だから綱吉が嫌がるだろうと思って堪えて、それでも我慢できなかったからそっと手を触れ合わせた。横に立ったら手が当たってしまったみたいに、綱吉がそんな風に思う程度で構わなかった。
 それなのに触れた手は今握られていて。
 獄寺からは綱吉のうなじや耳、頬の一部しか見られないけれど、そのどれもが一瞬ごとに赤みを増していく。
 けれど、きっとこの身はそれ以上にあからさまな状態になっている自覚があって、恥ずかしくて嬉しくて、気持ちを伝えたくて指を絡めるようにして手を握り返そうとすれば。
「おーい! ツナーっ、獄寺ー。おまえら重役出勤かよ。でもちょうど良かったぜ、教室あがってこなくていいから、そのまま更衣室いけよ。それから、授業はグラウンドじゃなくて体育館な」
 はるか頭上からの声。
 離れていく手。
 獄寺は胸中で力いっぱいの舌打ちをする。
 見上げれば、自分たちのクラスの教室の窓から見知った顔がこちらを見下ろしていた。
 二人の手は間違いなく声の主からは死角になっているが、それでも見られていないからといって手を繋いだまま堂々としていられるほど獄寺も綱吉も物慣れしていない。
 綱吉が小さく咳払いしてから、頭上の山本に答える。
「おはよう山本! 更衣室って、どういうこと?」
「時間割の入れ替えがあったんだ。今、数学が終わったとこだぜ」
 体育の授業を休むつもりが結局無駄になってしまったのだと気付き、獄寺と綱吉は一瞬だけ目を合わせて、お互いに苦笑した。
 綱吉はまた窓に向かって顔を上げる。
「山本、後でノート貸して」
「ワリィ、オレつい寝ちまってノートとってないんだわ」
「けっ、つかえねー奴だな」
 自分がまず綱吉に一時間目はサボろうと誘ったことなど当然のように棚に上げてここぞとばかりに突っ込めば、山本は気分を害したようすもなく笑いながらこちらに手のひらを向けてちょっと待てとジェスチャーをし、窓から頭を引っ込める。いくらもしないうちにまた頭を出した山本の隣には、これもまた見慣れた顔が現れた。京子がこちらに向かって小さく手を振っている。
「ツナ君、わたしのノートで良かったら貸すよ」
「京子ちゃん! えっ、そんな、悪いよ」
 現れた京子に動揺をみせる綱吉。綱吉が京子に好意をもっていることは分かるのだが、綱吉本人が恋愛ではなく学園のアイドルへの憧れのようなものだと言うから獄寺も普段は気にしていないのだが、こんなときはちょっとやっぱり気にかかってしまう。
 とはいえ、別に京子と綱吉の仲を邪推するわけではない。ただ単に綱吉が京子に向ける素の感情をそのまま映している表情がとても可愛らしいことに、嫉妬というほどではなく漠然と複雑な心境にさせられてしまう。そしてその顔を京子だけでなく他の教室の窓から様子を窺っている生徒たちも見ていて、またその女生徒たちが可愛いだのカッコイイだの囁く声が耳に届いてしまうのが癇に障る。
「ううん、気にしないで! 体育終わって教室に戻ってきたら渡すね。獄寺君も良かったら一緒に使って。あっ、そろそろ急がなきゃ授業に遅れちゃう」
「おっと、笹川、呼び止めて悪かったな、サンキュ!」
 地声の大きい山本の声は下まで聞こえてきたが、それに笑顔で答える京子の声までは聞こえてこない。けれど、聞こえなくてもそれは平気だという意味合いの言葉だろうというのは想像に容易い。
「じゃあ、二人ともまたあとでな」
 手を振る二人に手を振り返す綱吉。
 京子が窓から消えた後、綱吉は少しの間、時間にすれば二秒ほど窓から視線を動かさなかった。
 その二秒間には、獄寺もさすがに少しばかり嫉妬したくなった。
 けれど。
 拗ねたくもなったその瞬間に、窓から自分へと向けられる視線。
 獄寺へと視線を移した綱吉の目にはもう窓を見ていたときの名残はなくて、純粋にちゃんと獄寺だけを見ている目で、その目で照れくさそうに笑いかけながら離してしまった手を校舎側からは死角になるように気遣いながら躊躇いがちに繋がれてしまえば。
 それだけでまた速くなる鼓動。獄寺はあっさりと一転して、その場に崩れ落ちそうなほどに幸せな気持ちにさせられていた。



こんな感じで続いていきます。