頬を撫でる心地よい風に僅かに目を細めて、良い天気ですねなんて隣を歩く最愛の人に声を掛けようとして横を見れば、そこにいるはずの人がいなくて、獄寺隼人はただそれだけで激しく動揺してしまう。
 銜えていた煙草を落としかけながら、慌てて振りかえれば僅か数メートル手前で立ち止まっている綱吉が視界に入るから、心底安堵して息をつく。
 解けた靴の紐でも結びなおしているのかとか、何か気になるものでも見かけて足を止めてしまったのかとか、一緒に歩いていた相手がほんの一瞬目を離した隙に横にいなくなっただけのことなのだから、考えればいくらでも平和的理由が思いつけるのに、考えるよりも先にうろたえてしまうのだ。
 これが最愛の人、沢田綱吉にかかわる話でなければ獄寺だって至極冷静に対応できるのだけれど、それは獄寺にとってはとても、そう、とても不本意なことだった。そんなことできても意味がないからだ。獄寺がすべてをかけてでも守りたいと思う存在は他ならぬ沢田綱吉だけで、その綱吉の身に何か起きたときこそ冷静に対処できてしかるべきなのだ。
「あ、あの……獄寺君、ゴメン、ね」
 躊躇いがちに謝られて、傍目にも分かるほどあからさまに動揺していたのかと思うと情けなくて恥ずかしい。
 けれど、綱吉がそんなこの身を気にかけているからこそ気づいて声を掛けてきたことに思い至れば、一転して嬉しくもなってしまうから恋する男心は現金なものである。
 獄寺の心には、もっとしっかりしなければという気持ちと、自分を気にかけてくれる綱吉が愛しくてたまらないという気持ちがせめぎ合っている。このままではまずいとは十分に自覚しているのだが、基本的には綱吉と一緒にいるだけで、綱吉の顔を見ただけで幸せに浸れてしまうのが獄寺隼人なので、結局今はごちゃごちゃと考えるよりも緩みそうになる頬を引き締める努力をするだけで精一杯になってしまった。
 わずかな距離を早足で引き返して綱吉の横に立ちながら尋ねる。
「いえ、気づかずに先に歩いてしまってすみません。で、十代目はどうしたんっスか?」
「あ、……うん、ちょっとね……足に違和感が」
 綱吉は身をかがめて、左手で左脚の膝付近を圧迫するように掴み、右手は右膝の外側を軽く何度か叩いてから脚の付け根のあたりにも同じようにトントンとこぶしを当てた。
「両脚ですか?」
「うん……なんなんだろ、この違和感……」
 ふと、獄寺の頭に過るものがあった。
「十代目、それもしかして昨日の――」
「昨日?」
 言いかけて、けれどまずいかなと思うから一度口を噤んだのだが、獄寺が何を言おうとしたのかわかっていないのか綱吉は身を屈めたまま顔だけを上げて不思議そうに見つめてくるから、獄寺は困ってしまう。
 あどけない表情で上目遣いに見つめてくる綱吉の仕草は、とても好ましく、けれどここが朝の通学路であることを思いだせば喜べないからだ。抱きしめたくても手を伸ばせない。
 それなのに、獄寺がついさっき頭に過らせてしまった映像は獄寺の鼓動をより高鳴らせるから、そして綱吉は獄寺の返答を待っているから、さらにどうしようもなくまずい。
 獄寺は少しの間葛藤して、小さな声で告げる。
「昨日……、十代目の部屋でオレが、」
 見つめた先の元から大きな目が一際大きく見開かれ、その次の瞬間にはあまり日に焼けていない頬に一気に朱が上るのがはっきりと見て取れた。
 ――ベッドの上で、夢中になりすぎて加減もできず無茶をしてしまったから。
「いい、それ以上言わなくていいっ」
 屈めていた身を弾かれたように跳ね起こして詰め寄ってきた綱吉に手のひらで口を塞がれる。
 熱い手のひら。子供らしい印象が薄れてきた細い指先がほんの少し震えてることに気づいてしまうからたまらない。その敏感な身体で、あの時の感覚を思い出してしまったのかな、なんて。
 こんなに可愛すぎる反応をされるとは思っていなかった。
 思わず魅入ってしまった獄寺の顔からは完全に表情が抜けて、ただただ綱吉の顔を見つめてしまえば、綱吉は居たたまれなくなってどうしていいのか分からないらしい不安げな目つきで、けれど精一杯虚勢を張るように睨みつけてくる。
 綱吉が身を起こしたせいで近づいた二人の顔。
 そして。
 以前より、少しだけ近くなった二人の目線。
 同級生たちに遅れをとりはしたが、綱吉の身体はその遅れの分だけ上質なものを身の内で養っていたように、しなやかな成長を見せ始めた。華奢で小さくて可愛らしい印象だったのが、そんな雰囲気を薄れさせないまま艶かしさを色濃く滲ませるようになった。
 獄寺はその変化を一番近いところで見つめている。
 絡み合う視線。
「それ以上言ったら……」
 その声は怒っているのだと伝えようとして、それに失敗しているのが分かるからより愛しくなる。
 それ以上言ったらどうする気なのかと絡み合ったままの視線で問えば、綱吉は一度足元に視線を落としてから、また全く怒っているようには見えない可愛いばかり表情で睨み上げてくる。
「言ったら……、困る」
 もうすでに困っているくせにそんなふうに言われたりしたら、より困るのは自分の方だと獄寺は思う。
 目元まで赤くして羞恥に潤んだ瞳で睨みつけてそんなことを言われてしまえばもっと困らせてやりたくなるのが男というものだと、同じ男なのにこの人は気づかないのか。
 抱きしめようと動きそうになる腕を意思の力で抑えて、この身に向けられた視線を意識すればキスだってしたくなるのだけれど、まだ口を塞いだままでいる綱吉の手の存在を今さらのように思い出す。ずっと触れていたのに忘れていた感触。それほどに抱きしめたい、キスをしたいという衝動に駆られていたのかと思えば気恥ずかしくて、触れる手の熱さをあらためて意識させられる。
 目を閉じて唇の代わりに綱吉の手のひらにキスをしたのは、獄寺には自然な行動だった。
 けれど小さく啄ばんでみればピクリと震えたその手にさらに舌先を触れさせてしまったのは、小さく息を飲みくぐもった声を漏らした綱吉に誘われたからだった。
 逃げようとはしないのに嫌がるように震えている手を、細いけれど女のものとはあきらかに違う骨格やしなやかさを持った手首を掴んで、引き剥がしながら目を開ける。
 目の前にはとても困った表情をした、困り果てて目元を潤ませた綱吉。見たいと思っていた艶かしく魅力的な表情だけれど、獄寺はこんな風に困り果てた綱吉の顔よりももっと魅力的な表情をいくつも知っているから、このあたりで止めておかなければと思う。
 本当は今掴んだ手首を引き寄せて、抱きしめてキスをしたいという気持ちは薄れるどころか一秒ごとに強くなっている。けれど、獄寺は必死にそれを抑えこんで綱吉の手を下ろし、代わりに足元に放置されていた綱吉の鞄を身を屈めて拾い上げた。
 様子をうかがうように見つめてくる綱吉に精一杯の人畜無害な万面の笑みを向ける。
「一時間目、体育でしたよね。サボっちまいましょう」
「えっ、獄寺君っ……」
 あきらかにそれまで以上の動揺を見せた綱吉に、獄寺は慌てて言葉を付け足した。必死に思考を切り替えようとしていたのに、綱吉のその反応はまた獄寺の脳裏にさまざまな妄想を呼び起こさせるから、獄寺まで綱吉と同じくらいに、もしかしたらそれ以上に動揺させられてしまうことになった。
「あっ、違います。違いますから! 二人きりであれこれしたいって言う意味じゃなくて、身体が辛いなら体育は休んだ方がいいかと思ったんです! 本当に、素で、絶対、それだけです」
 少なくとも、綱吉の反応を見せられるまでは考えなかった、考えないようにしていたのだと必死に言葉を尽くせば、獄寺の動揺ぶりに逆に冷静になったらしい綱吉はきょとんと獄寺を見つめた僅か数秒後に俯き吹き出すようにして笑い始めた。
「っ、十代目!」
「ははっ、獄寺君最高! 道端で自分からあんなことしといて、今度はその反応なんだもん。オレ、調子狂わされっぱなしだよ。ああ、笑っちゃ悪いよね、ゴメン! はは、アハハ」
 真剣に綱吉を想う気持ちを笑われるのはとっても不本意である。
 けれど。
 今の綱吉が見せている明るい表情はとても好ましく思えたから、そう、困り果てた顔もそれはそれでとても扇情的で魅力的だったけれど、それとはまた違う魅力があって楽しげで可愛いから不本意な部分には目を瞑ることにした。笑われているのは自分自身だと思えばどうしても多少複雑な心境ではあるが、それを差し引いてもやっぱり好きだと思う表情だった。
「今日は天気も良いし、公園で時間つぶしてニ時間目から出ちゃおうか」
 笑いを収めて顔を上げ、唇の端を少し持ち上げながら「リボーンには内緒でね」と悪戯っぽい目を向けてきた綱吉に、この表情も可愛いななんて思いながら、この人のことが本当に大好きだとあらためて自覚しながら、獄寺は力いっぱい頷いた。



ちょっぴり成長した5927。のんびり連載になる予定です。