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「自分みたいに嘘つきな彼」本文サンプル
1シーンから部分的に抜粋しています。





 空には多くの星が瞬いていたが、見上げて感想を漏らすような者は一人も居ない。野球部員の人数と同じ台数の自転車が並んでいる。今日もきっちり夜九時までの練習を終えた野球部の男たちは、疲労感たっぷりの身体を引きずって最寄りのコンビニエンスストアに向かおうとしている。
 この時間にこの場所にいるのは、部員全員にとっての日常だ。いまさら空を見上げることに時間を使うこともなければ、こんな場所で無駄話を楽しむこともない。一分一秒でも早く、家に帰る前のささやかなカロリーの摂取をしたいのが総意、のはずだった。
 少なくとも栄口勇人は栄養補給を切望している大多数のうちの一人だったが、不本意ながら、同志だと思っていた男に足止めを食っていた。
 顎を引いてじっと上目遣いに見つめてくる相手を見て、栄口は苦笑を零す。相手と自分は同学年で、身長差もほとんどない。正確には栄口の方が僅かながら背が低いくらいなのだが、向かいに立つ男の仕草はずっと年下の小さな子供を連想させた。
 水谷文貴は何でも自分の思いどおりになると信じている子供の目をしている。
 もしくは――と、その視線を受けとめて栄口は頬を緩ませる。もしくは、自分の弟、家族の愛情を一身に受け、自分のワガママを通すことに慣れている栄口家の末っ子の目だ。どんなに気持ちを引き締めようとしても、その視線を向けられてしまえば栄口はついつい甘やかしたくなってしまうのだ。
 そういえばこいつも末っ子だったっけ、と栄口は内心で嘆息する。
「さっきから別にいないって言ってるだろ。しつこいぞ、水谷」
「いや、それは嘘だね! 栄口の毎日の様子見てたら、ぜってー好きな奴いるんだろうなってのは分かる。オレ、この手の勘は外したことないかんね」
「じゃあ、うちの野球部のほかの奴、みんな分かる? 試しに全員、順番に言ってみてよ」
 すごいなぁ水谷は、とやや棒読みな口調で褒めながら、それぞれ自分の自転車に跨ろうとしている部員たちに目を向ける。
 栄口と水谷の会話を聞いて、数名が不自然に肩を竦めた。今反応した男たちには意中の相手がいるのだろうと、別に特筆するほどの勘のよさは持ち合わせていない栄口にも分かった。分かったところで、栄口はどことなくくすぐったいような気持ちになりながら、ただそうかと思うだけだ。全く気にならないわけじゃないけれど、何が何でも知りたいというものでもない。だから水谷がどうして自分に対してそう決めてかかり、ねばって気にし続けるのか、栄口には不思議だった。
 チームメイトに好きな人がいるかどうかなんてことより、今は空腹感の方がよっぽど問題だと思う。死活問題と言ってもいい。早いところ自転車に乗ってしまいたいのだが、水谷はそれを見越してか、栄口と栄口の自転車の間に陣取っていた。
 こうしている間にも、もう数名自転車をこぎ出していった。
「今は栄口の話をしてんだよ。そうやって自分から話そらしてごまかそうとしてもダメ」
「なんでオレにばっかり食いついてくんの?」
 そんなことしてもやぶへびになるだけだぞと、胸中で相手に告げる。水谷はもちろんそんな栄口の心中に気付くことなく、にやっと質の悪い笑みを浮かべる。
「栄口が器用に隠そうとすっから。隠されると暴きたくなるもんでしょ」
「水谷、性格悪ィ。つか、そろそろ本気でウザイんだけど」
 少し語気を強めて言ってみたが、水谷はけろっとして今度は子供の屈託ない顔で笑った。これが無意識でも計算付くの行為だとしても本当に困った奴だと栄口は思う。
 けれど。
 そんな笑顔が魅力的な困った男のことが、栄口は好きだった。
 何も求めない。なにも望まない。ただ想うだけの恋愛だから、同性でも問題ない。栄口は水谷のことがただ好きだった。
 特別なきっかけなんてなかったけれど、普通に毎日顔を合わせて、たまに会話が弾んだりして、部員同士なら誰でもやるように部活で助け合ったり励ましあったりしているうちに、水谷文貴だけを特別に意識するようになっていた。毎日当たり前のように繰り返される日常の出来事も、水谷と一緒なら、妙に楽しくて心が弾んだ。近くにいるだけでも嬉しくてうかれた。
 初めに自覚したときに、随分破滅的な恋をしてしまったなと自分に呆れた。呆れきって、その瞬間からもうずっと、早いとこ諦めるのが無難だし賢いと思うよと自分を説得し続けている。
 自分をコントロールするのはわりと得意な方だ。身を焦がすような、溺れて前後不覚になるような恋なんてしたことがない。水谷への恋心も絶対に隠し通せる自信があった。
 誰にも気付かせないうちに、何も始まらないうちに、初めからなかったみたいに終息を迎えるのだと覚悟さえしておけば、こんな未来も希望もない非生産的なものでも、恋する気持ちは悪いものじゃない。
 誰かを好きになるだけで毎日が楽しくなる、できるならその幸福感を持続させたい――早々に諦めよく自分の恋心に見切りをつけてしまった栄口にも、そのくらいの感覚はある。
 こんなふうに気まぐれに絡んでくる水谷の相手をするのだって、本当はとても楽しい。
 水谷文貴が好き。
 ただ、好きなだけ。
 それだけでよかった。
 たまに懐かれたり泣きつかれたりすると、水谷が誰にでもそんな態度をとる男だと分かっていても鼓動が跳ねた。別に水谷が自分を選んでそう振舞っているわけじゃないことも、自分が他人と比べて頻度が高いなんて調子のいいことがあるはずないことも、栄口は分かっている。栄口にとってそんなことは問題じゃなかった。
 もしかしたら、なんて淡い期待、一度だって抱いたことはないし、これからもそのつもりだ。偶然側にいたからだとか、水谷の苦しんでいた課題が栄口の得意科目だっただけだとか、その程度の理由でも構わなかった。水谷の聞きたいCDを偶然栄口が持っていたとか、話題に上がったマイナーなアーティストを知っていたのが自分たちだけだったとか、水谷が思い出せない曲名を自分が教えてやれたとか、なんでもないことで幸せになれる。その気持ちだけで十分なのだ。ほかの誰かなら取るに足らないことでも、水谷が相手だといつも意識が高揚して身体が簡単に熱くなった。
 栄口はそれを決して態度には出さない。
 水谷が見破るのが得意なら、栄口はごまかすのが得意だ。
「栄口の好きな奴って、うちの学校?」
「だから、いないって言ってんじゃん。いいかげんにしないとマジで怒るぞ。腹減ってんだよ」
 好きな人ならいる。
 同じ学校の生徒だ。
 おまえだよ、なんて言えるはずもない。
 栄口は状況に適した態度を心がけて、不快感を示すために眉を寄せる。しかし、栄口のそんな態度にも水谷は全く動じなかった。にぃっと唇を横に引いて口角を上げ、楽しげに目を細める。