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「愛がなくちゃ」本文サンプル
1シーンから部分的に抜粋しています。




「そんなに急いでどこいくの?」栄口は悪戯っぽい目をして首を傾げる。
「分かってて聞く? 栄口が見えたから、飛び出してきたんじゃん。オレって健気っしょ」
 廊下にも教室にも生徒たちがいるので、栄口のすぐそばまで来て、目の前に居ても聞き取りにくいくらいのごく小さな声で主張した。気持ちをいっぱいに詰めた言葉だが、栄口も周りを気にかけてか派手な反応は見せない。ただほんの少しだけ目元を和らげて笑みの種類を変えた。水谷は照れくさい気持ちで頬をかきながら、片手に握り締めていたチョコレート菓子の箱を栄口に見せる。
「栄口、コレ知ってる? 食ってみ、うまいよ」
「また新製品? おまえほんっとお菓子好きだね。こういうのよく見つけてくるよなぁ」栄口はちらりと水谷の背後に目を向けてから、視線を戻して囁く。「いいの? みんなで食ってたんだろ?」
「これも、机の上のもオレが持ってきたやつだから大丈夫。オレ今日お菓子屋さんなの。親が安売りの店行って大量に買い込んできたから、その中から適当に見繕って持ってきちゃった」
 軽く箱を振るとカサカサと乾いた音が鳴り、人口の苺の香りが広がる。水谷が手にしているのはスナック菓子をピンク色のチョコレートでコーティングした菓子だ。
 水谷は空いている箱の口を栄口に向けてどうぞと促す。礼を言って親指と人さし指を箱に入れたが、指が届かないのか栄口が取りにくそうにごそごそと探るから、水谷は取りやすいように箱を傾ける。栄口は一度手を抜いてから、人さし指と中指の間に挟んでスナック菓子を取り出して口に運んだ。サクサクと軽い音を立てて咀嚼し、中指についたチョコレートをぺろりと嘗めて「コレうまいな」と呟く。
 同じタイミングで水谷は「これヤバイな」と胸中で呟いた。指を嘗めるとか、それが中指と人さし指とか、いろいろと洒落になっていない。いろいろと思い出しそうになってしまう。水谷は焦りをごまかして咳払いをした。
「でしょ? オレ、コレ好きなんだよね。去年も冬季限定で出てたんだよ」
 もっと食べていいよと差し出すと、栄口が今度は最初から中指と人さし指を差し込んで取り、同じように口に入れた。まともに見てしまわないようにと視線を逸らしぎみにしつつ、それでもしっかりと横目でチェックしていたが、今度は指を嘗めなかった。でも口元に指があるだけで十分いかがわしいなと、すっかりその方向に意識を向けてしまっている水谷は思った。教室の入り口を塞ぎながら、そんなことを考えている自分は最低な部類の男かもしれない。
「そういえばあったような……。あっ、もしかしてパッケージ変わってね?」
「そうそう。栄口も詳しくない? ちゃっかりチェックしてんじゃん」
「ははっ、まーな。だって、チョコ好きだもん」
 にっこりと笑って栄口が口にした言葉に反応して、廊下にいた女生徒と、教室内の水谷の視界にギリギリ入る位置にいた女生徒がピクリと肩を跳ねさせるのが見えた。それからなにかを囁きあう声。内容が聞こえなくても、水谷には把握できた。水谷の予想を肯定するように、栄口の死角、水谷の斜め前にいた女たちが意味ありげに笑いあったり、肘の辺りを小突いたりしている。
 栄口はそんな周りの反応には気付いていないのか「この時期ってコンビニ行くたびにチョコ増えてる気がする。冬だと溶けないからかな、夏より断然多いよなぁ」と呟く。
 特に今はチョコレートのビッグイベント控えているからだ。思いながらも水谷はそれを口にしない。
 話題の選択を間違えたなと明後日の方を見て小さなため息をつく。栄口の艶かしい仕草を見られたのはこの昼休み一番の収穫だけれど、その代償が恋敵への情報提供なのはいただけない。
 周りの女たちがざわめいたのは、そのイベント、バレンタインデーを意識しているからだ。バレンタインデーを控えたこの時期、明日の昼休みあたりにはもう栄口にチェックを入れている校内の女たちの間に、栄口がチョコレート好きであるという情報は行き渡っているはずだ。女たちの情報網は侮れない。いまそこで携帯を取り出した女だって「栄口君、チョコレート好きみたいだよ」なんてメールを打っているんじゃないかと勝手に想像してますます嫌な気持ちになり、さすがにそれは自分の被害妄想かもしれないと思考に歯止めをかける。
 栄口はオレのもの。
 栄口はオレのもの。
 栄口はオレの恋人。
 基本的には鷹揚な水谷だが、栄口に関することでは壊滅的に狭量になってしまう。栄口の誠実さは分かっているし、恋人だから受け入れてもらえる行動や、許されるわがままで、何度も愛情を確認しているのだから、男として多少の度量の広さもみせたいところだが、水谷にはそれがどうしても無理だった。人付き合いは、恋愛に限らず器用にこなせる方だと栄口に惚れるまではずっとそう思っていたが、それはただ単に心底誰かを好きになったことがなかっただけで、これが自分の本来の気質だと日々実感している。
 知らなかったころには絶対に戻れない。例え戻れるとしても戻りたいとも思わなかった。こんなに好きになれる相手に出会えた幸運、絶対に手放せない。嫉妬や執着心を持て余すことはあるけれど、栄口と一緒に過ごすのは水谷にとって至上の幸福なのだ。
「水谷?」
「まだちょっと時間あるよな」
 頷いた栄口の手を引いて、廊下を歩き出す。