コーヒーカップに唇をつけて傾けていたツナは、聞こえてきた声に咽そうになって、慌ててカップを下ろした。ツナの粗雑な動作に、半分ほどの量になっていたカフェオレがカップの中で跳ねる。向かいに座っている少年がツナのために気を回して、特にミルクの割合を増やして作るようにと注文したカフェオレだった。
 その妙に気が利く親切な友人――本人は「このくらい当然です。右腕ですから」と言うけれど、ツナはそれを肯定したくなかった――獄寺隼人に今のが聞こえたか、自分の聞き間違いではないかとアイコンタクトを試みたが、獄寺は店内の様子にもツナの視線にも気付いていない様子で窓の外を見ている。
 獄寺に確認することを諦めたツナは、自分で確認しようと声の聞こえた方向を振り返って見た。
 困り顔のアルバイトらしい若い女性店員が店内を見回し、ツナを驚かせたセリフを繰り返す。
「お客様の中で、どなたかイタリア語の話せる方はいらっしゃいませんか」
 ツナは二度聞かされてもなお耳を疑ってしまった。なんとなく目が合ってしまったら気まずい気がして、ツナはさりげなく、けれど素早い動作で正面に向き直る。視線をカップへと落とし、そして考えさせられてしまう。
 飛行機で急病人が出たときのドクターコールでもあるまいし、非常事態でもないのに客に頼んだりするものなのか。自分たちでなんとかするものではないのか。
 そう思ったのが最初だが、イタリア語なら仕方ないのかなと思い直した。
 英語ならともかくイタリア語なのだ。イタリア語で会話なんて、一生で一度もしない日本人がほとんどだろう。ツナだって、以前はその集合体に含まれていた。また、一瞬だが英語で意思の疎通を図ればいいのに英語の話せない外国人がいるのかとも考えたツナだったが、すぐに自分でその思考の理不尽さにも気付いた。
 店員は三度目の同じセリフを口にしたが、それに答える者はやっぱりというか、当然というか、現れなかった。
 店長らしき年配の男は、とにかく何とかしろとウエイトレスに無茶な指示を出している。止せば良いのにまた振り返ってしまったために目撃することになったウエイトレスの泣きだしそうな顔に、ツナはまるで自分がいじめているような罪悪感を覚えた。
 そんなものを感じてしまうのも、ツナ本人が現在、家庭教師のリボーンのスパルタ気味な指導の下、イタリア語勉強中の身だからだ。イタリア語が全く分からないわけじゃない。容赦ない教育のおかげで英語よりはイタリア語の方がまだ理解できる状態ではあるとはいえ、それでもまだ日常会話程度ならなんとかというレベルにもほど遠い。しかしそれを理由に名乗り出ない自分を正当化しようとしても、少なくともイタリア語なんて聞いたこともないだろう店員たちに比べれば確実にツナの方ができるということになってしまう。
 再び獄寺の顔を見たが、獄寺は相変わらず外を眺めたままティーカップに口をつけている。
 話しているところは見たことがないけれど、獄寺はイタリア語なんて確認するまでもなく間違いなく話せるはずだ。それがカップを持って外を見つめたまま微動だにしないのは、気付いていないからなのかあえて気付かないふりをしているからなのか。どちらだろうと疑問に思いながら尋ねないのは、尋ねることができないのは、ツナにも思うところがあるからだ。
 獄寺が自分からイタリアの話をするのを、ツナは聞いたことがない。
 最初に意識したのは、獄寺に昇進話が持ち上がったときだ。その話をする獄寺がイタリアへ「帰る」ではなく「行く」と表現したことで些細な違和感を覚えたのがきっかけだった。かまをかけるように、わざと何度かツナから「帰る」という言い方で話を振ってみたが、ツナの言葉を訂正こそしないものの、獄寺はやっぱり徹底して「行く」という言い方しかしなかった。気にし始めたら今度は、他のイタリアからきた面子が、稀にだが口にするイタリアではこうだ的な言動を、獄寺は一切しないことにも気付いた。
 気になった。
 もしかしてあんまりイタリアが好きじゃないのかなとツナは漠然と思った。城を飛び出した獄寺は、きっとさまざまな苦労をしただろう。獄寺のことをもっと知りたいとは思ったけれど、触れられたくないことかもしれないと思えば聞けなかった。親や居候同然の連中を除けば、獄寺は一緒にいることが最も長い友人だけれど、考えてみればツナは獄寺のことをなにも知らない。
 聞けばきっと、獄寺は答える。それこそ、死ぬほど嫌だと、聞かれたくないし話したくないと思っていたとしても、ツナが質問したその時点で獄寺に拒否するという選択肢はないのだ。それが分かってしまうから、だからこそツナは聞けない。
 それと同じで今もやっぱり、助けてあげないのかと聞くことは、助けてあげてとお願い、もしくは命令するのと大差ないことになってしまう。ツナのことをボンゴレ十代目として慕う獄寺にとって、ツナの言葉は最優先すべきものだからだ。
 そういうのって友達としてはどうなのかなとツナは最近よく思う。帰国騒動があってからはとくに考えさせられるようになった。
 友達じゃなければ、それでも問題なかった。ツナは決して聖人君子ではなかったし、ツナ自身それをはっきりと自覚している。だから、獄寺を友達だと思っていなかったら、好都合だと思ってもっといろいろなことに利用したかもしれないし、そうでなかったとしても少なくともこんなことを掘り下げて考えることはなかったはずだ。実際、知り合って間もない頃なら、殺し屋のビアンキに――その時点で血のつながりは知らなかったが、恐ろしい毒を扱うことは知っていたにもかかわらず――獄寺を平気でけしかけることができたし、罪悪感も抱かなかった。自分とは違う世界で生きている人種だから大丈夫だろう、みたいな認識だった。けれどそんな獄寺が、今ではもうツナにとって、とっくに一定のラインを超えた大切な存在になっている。
 獄寺はツナのことを第一に考えてくれる。けれど、それはあくまでボンゴレ十代目を右腕として慕っているだけなのだと思うと、どんなによくしてもらってもどこか寂しい。けれど獄寺がいつだってすごく一生懸命でツナをとても大切にしていることは疑いようもない事実で、その気持ちが分かるからツナも獄寺を完全否定したくはないし、その気持ちをツナなりに尊重したいと思った。
 友達を大切にしたい。自分を大切にしてくれる友達に、付け入るようなことは絶対にしたくない。それはツナの本心だ。
 店員はトレーを胸に抱えて、完全に俯いてしまっていた。ツナのようにその若い女性の様子を気に掛けている客も居て、中には笑い声も混ざっている。そんな視線を受けながら、店長にまで文句を言われて、顔を真っ赤にして唇を噛み締めてこの状況に耐えている。途方に暮れて、どうすればいいのか分からなくて、とても惨めで逃げ出したい、そんな心情は、自分も何度となく経験した感覚だからツナにも推し量れる。そんなときツナはいつも諦めたり逃げ出したりしていたけれど、今はそうじゃない方法で解決することが多い。
 向かいに座る獄寺をちらりと見て、手元のカップに視線を移す。ツナの好みを把握して気遣ってくれた獄寺、そのミルクを多めにして欲しいという注文に、あの店員は嫌な顔一つせずに「それなら、うちのイタリアンローストの豆で淹れさせていただきますね。ミルクを増やしても香りと味はしっかりと残って、全体的にすごくまろやかになるんです」と気持ちのいい笑顔で答えてくれた。出されたカフェオレはツナの口にもよく合って、とても美味しかった。
 ツナは不意に気付く。今、自分は半ば無意識に、自分が言わなくても獄寺が自ら率先して店員を助けてくれたらいいのにと考えていたのだ。大切にされて嬉しくて、自分もそうしたいと思っているくせに。無意識であることが、それを当然だと思っていることが、余計に性質が悪い。
 ツナは意を決して立ち上がった。それまで店員の声にも全くの無反応だった獄寺だが、これには過剰に反応して目を瞠ってツナを見つめる。ツナは大丈夫だからというニュアンスを込めてぎこちなく笑って、獄寺に背を向けた。
「あの、オレ……少しなら、本当にカタコトでほんの少しなんですけど……イタリア語分かりますよ」
 こんなこと言って大丈夫かな、ダメツナのくせに失敗するにきまっているという気持ちは、まだ払拭し切れていない。
 けれど。
 獄寺に頼って任せようとしていた、自分ではなく獄寺がやって当然だと考えてしまっていた自分が嫌だ。失敗することよりも、そっちの方が嫌だった。
 怪訝そうにツナを見た店員の表情が、ツナの言葉を聞いて、オーダーを取りに来たときと同じ明るい笑顔に変わる。これはものすごく期待されているなと、引きつってしまいそうな笑みを返しながらツナは思った。
 早まったかなと尻込みしそうになるけれど無理に一歩踏み出せば、すぐに背後で慌てて立ち上がる物音が聞こえて、その気配だけで安心してしまう自分に気付いて、それを気恥ずかしく思うだけの余裕も生まれた。
 振り返れば心配そうに見つめてくる瞳と視線が絡む。ツナは決して無理に作った表情ではない、自然な笑みを向けて、唇の動きで「少し待ってて」と告げた。首を傾げつつも腰を下ろす獄寺に頷いて見せてから、案内されながら問題のテーブルに向かった。
 あてにしているというわけではないけれど、ツナがなんと言おうと窮地に陥れば獄寺が飛び出してくるのは分かっているから、後ろに獄寺がいて見守ってくれていると思うとそれだけでツナは安心できる。できれば、やっぱり助けてもらうよりも、カッコイイところをみせたいなと思ってしまうのだけれど。
 テーブルについていたのは、二人のイタリア人だった。どちらも成人男性で、ツナから見ればディーノとそう変わらない年恰好のように見えたが、実のところディーノの年齢も想像がつかなかったりする。そんなイタリア人二人組みはとにかくやたらと好意的だった。無駄に愛想のいいイタリア人に、なんとか笑顔で応対しながら、きっと彼らから見れば自分の年齢だって分からないに違いないとツナは思った。片言のイタリア語で手伝う旨を告げたときの彼らのツナへの態度は、初めてのおつかいを任せられた幼い子供に対するそれだった。
 ボンゴレ、もしくはそのほかのマフィアがらみだったら嫌だなとちらりと考えたが、とりあえずそういう意味では安心してよさそうな一般人らしいので、ツナは必死に気を落ち着けて、店員の助手的役割を務めた。
 リボーン以外の相手とイタリア語で会話をするのは初めてのことだったので、第一声は酷く緊張した。一言めが通じたときはそれなりに感動もしたツナだったが、そこから先は感動も緊張もしている余裕はない。簡単なオーダーだったのでそれ自体を聞き取るのは問題なかったが、その合間にイタリア語をどこで覚えたとか、イタリアに行ったことはあるのかとか、関係ない質問を投げかけてくるので、そのたびに詰まってしまう。オーダー以外の言葉は口にしないでくれと思うけれど、相手にしてみればイタリア語勉強中の子供へのサービスのつもりなのかもしれない。
 苦戦しつつ、なんとか注文をとり終え、相手がツナに感謝の意を示し、ツナはツナでつたないイタリア語を詫びて、店員と一緒にテーブルを離れようとしたときだった。
「Sei carina.」
 ツナはなんとかここまで保ち続けられた笑みが、固まるのを感じた。自分ではなく、隣にいるウエイトレスに言ったのだろうと縋るような思いで、その言葉を口にしたイタリア男を見るけれど、ツナの期待はさくりと断ち切られる。ばっちりと目が合って、駄目押しに微笑みかけられた。
「っ!」
 この男は今何を言ったのかと胸中で自問してみるのだが、ちゃんと聞き取れていただろう、聞き間違いではないと自答してしまう。
 唐突に、初対面のシャマルに胸を触って性別を確認されたことを思い出して、ちょっと泣きたくなった。今はそのころに比べれば成長していると思う、それなのに。どうしてイタリア人はこうなのか。
 知っている限りのイタリア語が頭の中に浮かんでは消えていく。こんなときはどう対処するべきなのか。こんなふうに性別を誤認されて、そう、この身を女と間違えている男からさらに「可愛いね」なんて微笑みかけられてしまったら、どんな言葉で答えればいいのか。それは、たとえ日本語であったとしても、ツナには結構な難問だった。
 言葉もなく口をパクパクさせるツナを見て、男たちは嬉しそうに二言、三言冷やかしの言葉を重ねる。
 違う、ツナは胸中で叫ぶ。違う、断じて照れているわけではない。言ってやりたい。ツナはひたすら困惑した。恥らう初心な生娘をからかうような真似をされてもツナは、そんな娘とは全く別の意味で困ってしまう。
 不意に思わぬ方向から伸びてきた手がツナの肩を掴んで引いた。驚いて振り返れば、顔をすぐ背後にいた相手の胸に埋めてしまうような状態になるから焦って身を引こうとするのだけれど、最初に肩を掴んだ手がそれを許してはくれず、結局おとなしくその胸に納まる体勢を取らされてしまう。よろめいた身体を半ば抱きかかえるように支えられて、羞恥に膝が震えそうになる。女に間違われるよりこれはよっぽど恥ずかしいとツナは思った。女に間違われた直後にこれではまるで、まるで自分が獄寺の――考えて、ツナは無理やりそこで思考を引き戻す。高じた羞恥心で、息が詰まる。
 同い年の友達の腕の中。
 こんな匂いがするんだ、とツナは場違いに考えた。近くにいて、並んで歩いていて、感じたことのある煙草や洗剤等の人工的な匂いではなく、もちろんそれらの匂いも混ざっているけれど、もっと抽象的な、何に似ているとも言えない獄寺の匂いがする。物理的なものではなくて、密着して感じる体温や鼓動、それも匂いとして捉えているのかもしれないとツナは思った。そんなことを考えてしまった自分に、また余計に恥ずかしくなった。
 同じ男として悔しいくらいに力強い腕は、友人としては誇らしくて、けれどもっと別の今まで意識したことのない感情が呼び起こされる気がする。それが何なのかツナには分からないし、考えようとしても羞恥心が邪魔をする。
 頭上ではよく知った声の、耳慣れない言葉。
 早口だけれど、短いセンテンスはツナにもはっきりと聞き取れた。
 遺憾ながら聞き取れてしまったのだ。
 それが、とどめだった。
 これ以上はないと思っていたのに、獄寺の言葉のせいでこの瞬間にも恥ずかしさは倍増していく。この状況にこれ以上耐えるのは不可能だとツナは逃げ出したくなった。居たたまれなさ度で言ったら確実に、少し前にこの場で注目を浴びていた女性店員以上だと断言できる。
「……あーっ、あのっ、……獄寺、君?」
「十代目っ、こいつら裏でシメて……」
 獄寺はしっかりと抱き寄せたままのツナを見下ろし、そこで初めて二人の距離の近さに気付いたのか、慌てて手を離した。離した両手を、獄寺はそのまま降参の意を示すみたいに顔の横に上げる。
「す、すみません、十代目! オレ、カッと来て……黙って見てられなくて、つい」
「大丈夫、オレ気にしない、平気だから! だから、そのシメたりとかもやめて。お願い」
 ツナは突飛な行動の予防に、獄寺の服の袖を掴んだ。
「でも、こいつら、今、十代目に失礼な真似を……絶対許せません! オレの十代目に……」
 オレの、十代目。
 頬が熱くなって、鼓動が跳ねて、指先から力が抜ける。ツナは、引きとめるために掴んだ袖を離しそうになって、慌てて掴みなおした。
 オレの。
 腕の中で聞かされた言葉が、頭の中で再生される。そう、さっきこの男は、どさくさに紛れてすごい発言をしてくれたのだ。
 本人に自覚はないようだけれど。もう言ったことも忘れたに決まっているけれど。
 イタリア語だからそういう表現になってしまったのか、頭に血が上っていた獄寺が混乱してそう言ってしまったのかは分からないけれど。
 これはオレのものだ、みたいな感じの、そう、それはそんな言い回しだった。
「十代目の頼みでも聞けませんから!」
 獄寺を見ていたイタリア人二人組みは、途方にくれたツナが獄寺の袖を必死に引っ張りながら日本人らしい愛想笑いで誤魔化そうとすると、ツナに視線を移しにっこりと笑って、同じタイミングで口を開く。その声は示し合わせたみたいにピタリと重なる。
 告げられた言葉は、ツナの頼みでも聞けないと言い切った獄寺隼人の動きを完全に止めるだけの効果のある、まさに呪文だった。



 動揺しなかったわけではないがその前の獄寺の言動の方がツナにはよっぽど衝撃的だったし、その言動のおかげで耐性がついていたから、ツナは結構冷静だった。それでなくても破天荒な家庭教師のせいで、適応力ばかり向上しているツナである。イタリア人二人組みに対しては日本人らしくぺこりと頭を下げ、側で心配そうに見ていたウエイトレスには美味しいカフェオレの礼を言い、騒がしくしてしまったこともしっかり詫びて、ぼんやりと突っ立っている獄寺を引き摺るようにして自分たちのテーブルに戻った。
 すっかり冷めてしまったカフェオレに手を伸ばしかけて止めたツナは、向かいに座る惚けた獄寺を見て、ここに戻ってくるのではなく店を出てしまった方がよかったのかもしれないと思った。
 獄寺は幸せそうに嬉しそうに笑って、何度も我に返っては気恥ずかしそうに咳払いをして真顔を取り繕おうとするけれど、そのたびに失敗を繰り返している。作りそこなった半端な表情は美形が台無しだと思わせる崩れっぷりで、それはツナから見てもやっぱり微妙なのだけれど、それなのにどこか微笑ましかったりもするから、ツナは呆れつつも店を出ようとは言い出せず結局椅子に深く腰掛けたままで目の前の少年を見守り続けてしまう。
 好意は持たれているだろうとさすがに自覚していた。けれど、その好意の種類はもしかしたらそういう意味なのかなと、そしてさらに意外なことに自分はそれをまんざらでもないと感じているらしいということまで認識させられることになった。これもやっぱり不本意ながら磨かれてしまった適応力の賜物なのかもしれない。ツナはわりと冷静に受け止めてしまった。相変わらず一人でころころと表情を変えている獄寺を見て、きっと相手はまだ無自覚なんだろうなと思った。
 普通そんなふうに喜んだりしないよとツナは心の中で獄寺に告げる。やぶへびになりそうだし、また水を差したくないとも思うので言葉にはしない。
 獄寺には喜んでいる自覚さえないのかもしれないけれど。
 自分たちは怒っていいと、むしろ怒るべきだと思うのだ、「お似合いの可愛いらしいカップルだね」なんて言われてしまったら。
 いくら無自覚でも獄寺の反応は間違っている。けれど、周りには分からないイタリア語でよかったと安堵した後で、すべて自覚した上でまずいと思いながら、なんとなく浮ついた気持ちになってしまった自分はもっと間違っているのだとツナはやっぱり胸中で苦笑した。
 何気なく窓の外に目を向ければ、心情的には獄寺同様に浮かれそうになっているツナの気持ちを戒めようとするように、空に雨雲が広がっているのが見えた。
「店に入ったときは晴れてたのに、一気に曇っちゃったね。コレ、降るのかなぁ……」
 特に返事を期待するでもなく呟くように告げれば、獄寺は椅子の上で身をすくめてガタンと大きな物音を立てる。その過剰な反応にツナは驚かされた。
「オレも実はずっと気になってて」獄寺は言いにくそうに口篭る。「あの……やっぱり、降り出す前に帰った方がいいっスかね」
 獄寺の表情は、大人にもう帰るぞと促されてまだ遊びたいとタダをこねる子供そのもので、ツナは吹き出して笑いそうになるのを必死で堪えて尋ねた。
「獄寺君、もしかしてさっき、それでずっと外見てたの?」
 店内の騒ぎも気付かないくらいに。ツナの視線にも気づかないくらいに。
「えっ? オレ、そんなに外ばっかり見てました? いや、確かに晴れてくんねーかなーとか、そんなことばっか考えてたんですけど」
 どれだけ集中していたのか。そこまでいくといっそ念じていたとか呪詛とかの領域かもしれない。そこまでやって無意識かよと心の中でツッコミを入れて、ツナはとうとう堪えきれなくなって笑い出してしまう。
 確信した。
 獄寺は、殊に自分の感情に対しては、とてつもなく鈍い。
「十代目?」
「今日はもう良いや、帰ろう」
 じっと見つめて、ツナは獄寺を観察した。
 獄寺は嫌だとは言わない。けれど、頷きもしない。そしてその顔が、寂しげなのにしっかり不満そうな目や拗ねたみたいに尖らされた唇が、思いっきりまだ帰りたくない一緒に居たいと主張している。分かりやすいにもほどがある。
 たまらないなとツナは思った。ヤバいとも、もうダメだとも思った。
「天気を気にしながら外を歩き回るよりは」来るぞ来るぞと待ち構えながら、ツナは告げる。「部屋で遊ぼうよ」
 劇的に変化する表情。他人を威圧するときの凄みのある表情から比べれば、いっそ別人かと思うほどの屈託のない笑顔。それには予想していたツナでさえ、一瞬言葉を失ってしまった。
「オレ、ここで別れて、また明日ってなっちまうのかなーって、もっと十代目と一緒に居てーなって思ってたんです。だから、めちゃくちゃ嬉しいっス!」
 そこまで言えてしまうのかと驚かされて、そこまで言っておきながらまだ忠誠心だと言い張るのかなと考えさせられて、そうなんだろうなと納得してしまう。忠誠心だと思っているからこんなに素直に直球で言葉にできてしまうのだ。
 獄寺のことをもっと知りたいと思ってしまうことも、知りたいけれど獄寺を大切にしたいから聞けないと思ってしまうことも、抱き寄せられて恥ずかしいとか男として悔しいなんて気持ち以外の自分でもよくわからない奇妙な感覚を意識させられてしまったことも、もしかしたら一つの感情に起因することなのかもしれないと、もう気付いてしまったツナは、獄寺の明るいばかりの満面の笑みに後ろめたいものを感じてしまう。
 ツナ自身まだ、悪あがきのように思い違いかもしれないなんて考えたりするけれど、一緒に居たいなんて、それが嬉しいなんて言われて、一瞬で跳ねあがった鼓動と傍からどう見えているのか不安になるほど熱くなった頬には誤魔化しがきかなかった。
 今自分に向けられているその笑顔は、自分以外の誰にも向けられることのないものだ。そう思うと、首筋まで熱くなって、背中がじわりと汗ばんでくる。
 本当にもうダメだ。
 ツナは精一杯のさりげない仕草で獄寺から外へと視線を移し、天気を気にしているふりをする。気になるのは天候よりもっと別のさまざまなものなのだけれど。
 記憶の限り、今まで何をやっても、順調だったことなんて一度だってない。
 けれど、これは本当に本物の、正真正銘の前途多難ってやつに違いないとツナは思った。




リク内容:相手を好きと思うとき。
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