+++あたりくじ+++




 時計を見る。休み時間はあと十分強で終わる。この部室から教室までは少し距離があるから、そろそろ出た方がいいだろう。そう判断した栄口は昼休みを一緒にすごした相手、水谷に目を向けた。
「水谷、そろそろ……」
「あ、あのっ、キス、しても、いい?」
 一瞬前までは二人とも壁に背を預けて横に並んで座っていたのに、いつのまにか水谷は四つんばいの姿勢で栄口の方へ身を乗り出してきていた。
 赤い頬と、それよりさらに濃い赤みを見せる目元。瞳からは不安と期待が見て取れる。いつからこんな顔をしていたのだろうと栄口は驚く。そういえば部室に入ったときから水谷の態度は妙にそわそわしていて違和感があったと今になって気づく。もしかしたら、朝練後に待ち合わせの打診をしてきたときからずっとそのつもりだったのかもしれない。
「今、ここで?」
「だれも来ないって! それに、ほら、もう時間ないと思ったら、逆に安心できね? そのままなだれ込もうとか、服の中に手を入れようとか、脱がせようとか、思っててもできないわけだから」
 初めて恋人ができたばかりの、キスもしたことがない中学生みたいな顔をしているけれど、言った内容がそのイメージをぶち壊している。
 そういうこと考えてたわけね――栄口は内心で呆れた。安心できるだろうと栄口に言っていても、その実、水谷本人の都合なのだ。うっかり行き過ぎてしまわないように、踏みとどまれるように、劣情に駆られて暴走してしまうことがないように、最初から今日はキスをするつもりで誘ったくせに、キスだけで時間切れになるように今までずっと堪えていたから態度がおかしかったらしい。
 付き合い始めてから今まで、まだ三回、軽く触れるキスをしただけだけれど、キス以上のことをしたくないと言った覚えはない。なんで勝手にそれ以上はダメだと決めてしまうのかと不満に思わないでもない。
 キスをしているうちに気持ちが高ぶって触れたくなったらいくらでも手を伸ばせばいいし、抱きしめあえばいい。栄口はそのつもりだ。両思いになって付き合っているのに、いまさら我慢をする意味が分からない。
「ね、栄口……お願い。したい。させて。ちょっとだけ、ちょっとだけ、目、閉じて」
「ヤダ」
 キスなんていつでもしたいに決まっている。好きな人とのキスが嫌なはずがない。
 それなのに拒絶してしまうのは、ひとりで勝手に決め付けている水谷が気に入らなかったからだ。「させていただく」みたいな態度も大変好ましくない。言い方が嫌だ。
 断られた水谷は泣きそうな、もしくは泣くのを堪えているような、拗ねた子供の顔をして唇を尖らせた。
「オレ、無理やりってのは、なるべく……したくないんだけど、な」
 弱気な口調だけれど、言葉は純然たる脅しだった。水谷の頭の中には頼みこんでさせてもらうか、無理やり奪うかの二択しかないらしい。
 さっきから水谷は態度と言動がどうもかみ合っていない。
 ちょっと面白い、かも。
 不満に思ってとりあえず顔をしかめてみせたものの、じわじわとこみ上げてくる笑いに栄口の腹筋が試される。栄口は平静を装って水谷から目を逸らし、軽く咳払いしてから視線を戻す。極力真顔を保って水谷を見つめ、その次の行動を待った。
 妙におかしくて、絶妙にかわいいと思ってしまったら、ちょっと意地が悪いかなと自覚しつつも、続きを観察したい気持ちが抑えられなくなった。本当にキスをされたって、水谷を大好きな栄口だからやぶさかではないし、しないならしないで、水谷が何を言い出すか、やらかすのか、見る価値は十分ある。
 水谷は背中を逸らすようにして肩を竦め、ぐっと喉を鳴らした。ややあって緊張気味に見張られた目が弱弱しく逸らされたかと思うと、水谷は完全に頭を垂れてうつむいてしまった。
「栄口は、ちょっと、自重しろよ。そんなふうに見つめられたら、もう時間がないこととか忘れちゃうから。そしたら、オレ何するか分かんないよ」
 何でもすればいいのにと思う。けれど。
 たった今キスを拒んでしまったのに、「じゃあ、しようよ」とは言いにくい。
 栄口は解決策を探して部室に視線をめぐらせ、未使用の割り箸に目を留めた。以前弁当屋で部員たちの昼食を調達したときに、多めに入れられていた分の残りだ。
 取りに行こうとすると水谷がすかさず手首をつかんできた。苦笑して「どこも行かないよ」と告げれば手は離されたが、信用していない顔つきでじっと見つめられる。痛いくらいに視線を感じながら、割り箸と備品のマジックを持って元の場所に戻ると、水谷の瞳からも猜疑心は消えた。
「なに? 割り箸どうするの?」
「ちょっとうしろ向いてて。見ちゃダメだからな」
 水谷は不思議そうに首をひねりながらも、一応言うとおりに後ろを向き、律儀に目元を両手で覆う。それを確認して、栄口は割り箸を手早く割って先端にマジックで印をつけ、その部分を握りこんで隠した。すぐに水谷を呼んで、割り箸を見せる。
「一本引けよ。印がついてるのが当たりな」
「当たったらキスしていいの?」
 栄口は頷く。「直感で、ぱっと引けよ。当たり引いても、する時間がなくなるからな。ほら、早く。嫌ならやめるぞ。それでもいいけど」
「え、え、え? そんな、急かさないでよ。オレにとってはすっげー需要な問題なんだよ。えーっ、どっちだろ?」
 水谷は横から見たり上からみたり、左から、右からと覗き込んだりしながら、眉間にしわを寄せ、真剣な顔つきで吟味すると、一本をつかみ、栄口の表情を伺ってきた。にっこりと笑いかけてやれば、「やっぱりこっち!」ともう一方を選びなおして引き抜く。すぐには確認せずに自分の手で握りなおして先端を隠し、ぎゅっと目を閉じて拝むようなしぐさをした。目を開けて栄口を見て、自分の手元を見て、もう一度目を閉じ、割り箸を握る手にぎゅっと額を押し付けてからゆっくりと顔を上げる。続いて片目だけそっと開いて、緩めた指の隙間から覗くようにして、やっと割り箸を見る。
 一瞬にして大きく開かれる目と、緩む口。水谷は栄口に満面の笑みを向けてガッツポーズをした。
「っしゃあ! オレ、ついてるっ!」水谷は上機嫌に箸を握ったままの手を天井に向かって突き上げる。「さかえぐちぃ! ほら、見ろっ! 当たり! 当たった! していいよな? 男に二言はないよなっ?」
 頷けばすぐに両肩に水谷の手がかけられる。寄せられる唇を少し見つめてから目を閉じた。
 唇に吐息の微かな熱を感じる。しかし、待っても、すぐそばに気配を感じる唇は触れてこない。どうしたのかと目を開けるのとほぼ同時に、こつんと額を押し付けられた。
「ちょっと、待った。付き合ってるのに、くじ引きでチューするかどうか決めるのってなんか変じゃね?」水谷は奥歯にものが挟まっているみたいな、はっきりしない口調でつぶやく。「したいよ? したいけど、これはなんか……」
「気づいた?」
「そりゃ気づくよ、変だよ! オレなんで喜んじゃってんだよ。もっと、ふつーにキスさせてくれてもいいはずだろ。オレは栄口の恋人なんだもん」
「そっちはまだ気づかないんだな」
「そっちって?」
 栄口は割り箸を握っていた手の中指から小指を開いて、手のひらを水谷に向けた。
 水谷がぽかんと口を開けて、栄口の手のひらを見る。正確には、水谷が凝視しているのは、手のひらではなく、親指と人差し指に挟まれた割り箸の先端にマジックでつけられている印だ。
「栄口っ! 両方? えぇっ? なんで、なんで? どうなってんの?」
 水谷はなかなか状況が飲み込めないのか混乱しきった顔つきで、まだ自分の手の中の割り箸と栄口の手の中の片割れを繰り返し確認している。問いたげなまなざしが寄こされたが、栄口はそれを無視して水谷の首の後ろを片手でつかみ、自分のほうへと引き寄せた。
「なんで、さかえぐ……っ!」
 半端に開かれた口に、自分の唇を重ねた。しっかりと押し付けて、軽く吸ってから離す。水谷が目をみはったままで口も閉じずにいたので不恰好なキスになってしまったが、それでもいままでした中で一番はっきりと感触の伝わるキスになった。
 鼻先が触れそうなくらいの至近距離で、栄口は水谷を軽く睨みつける。怒っているんじゃない、拗ねているだけだと分かるように、大好きなんだと伝わるように、ありったけの思いを込めて見つめながら発した声は、ひどく甘えた声になってしまう。
「オレだって、水谷とキスしたいんだってことにも気づけよな」
 告げれば、水谷は勢いよく顔を背けて、口元を片手で覆い、あーとか、うーとか、ほとんど声になっていない唸るような呻くような声を上げながら、もう一方の手で自分の首や耳、頬を撫でる。触れた場所がどこもひどく赤くなっているから、しきりに撫でるのはそこに集まる熱を意識してのことなのだろうと想像につく。
 栄口だって気恥ずかしいものは感じているけれど、水谷を見ていると、どうしてそこまでという気になる。けれど、そんなところも水谷らしくて好きだ。
「それって、させてもらうんじゃなくて……フツーにしていい、ってこと?」
 顔を背けたまま視線だけを寄こしてくる水谷に、答える代わりに笑いかければ、悔しそうに舌打ちされてしまった。水谷のすべてのしぐさ、尖らされた唇も膨らまされた頬も、眉間のしわも、不機嫌そうなまなざしも、全部照れ隠しだと分かるからもう栄口は楽しくてしかたない。栄口がそう思っていることが分かるからか、水谷はさらに口元を歪め、棒読み口調でぼやきだした。
「あー、なんかもう、すーっげぇ悔しい。めちゃくちゃ悔しい。腹立つ……くらい、きもちよかった!」拗ね続けることを諦めたらしく、水谷は小さく息をついてから頬を緩めると、栄口に顔を向けて続けた。「つぎはオレからしてやるかんな! 覚悟しとけよー」
 少し考えてから調子に乗って余裕ぶって「覚悟って言うか、期待、してるよ」と笑顔で答えれば、水谷は小さく息を飲み、それからゆっくりと俯いて片手で頭を抱えるようにしてぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜた。
「栄口、どーしてくれんだよぉ。オレ今、立てそうにないんだけど」
「予鈴がなったら置いてくよ」
 軽く答えながら、本人が自分で乱した髪を治してやろうとして手を伸ばせば、髪に触れる前に手首が捕らわれた。顔を上げて視線を寄こした水谷は、もう拗ねた幼い表情はしていなかった。目元と頬の赤みはそのままに、雄の欲を漲らせた瞳をしていた。
「行かせねーよ」
 普段の水谷の声よりも幾分低く、過ぎるほどに甘い。
 怯えたわけではないけれど、気圧された。
 つかまれた手首が熱い。
 身を寄せられても、栄口は顔を水谷に向けたままで微動だにしなかった。
 予鈴が鳴り響く中、唇が重なった。