唐書には旧新の2書があり、旧唐書(くとうしょ)は唐の滅亡直後に編纂され、新唐書は宋代になってから編纂されたが、どちらも正式名称は唐書になる。旧唐書は歴史に真摯に向き合う、漢民族的な倫理観の再現を志向しているが、新唐書には大中華的な意識が散見され、歴史に向き合う気概は読み取れない。トルコ系民族の征服王朝だった宋には、漢民族の倫理観も王朝の歴史的な正当性も必要なかったからだと考えられる。

倭人政権は唐代に崩壊し、中央集権的な大和朝廷が誕生した。旧唐書は倭国と日本国を別の政権として区別しているが、新唐書は大和朝廷が提出した日本紀を典拠に、一貫した日本国があったとして、旧唐書の空白になっている、政権の過渡期に生じた事績を記している。倭人政権が崩壊して大和政権が成立した経緯は、新旧唐書だけでは解明できないので、大和朝廷が創作した古事記と平安朝が編纂した続日本紀を参照する。古事記を参照する事に違和感があるかもしれないが、国譲りや神武東征で活躍した天孫族の神は、平安時代に成立した延喜式神名帳で、神宮の名を付与されて破格の上位社とされた、鹿島と香取の祭神と一致している。2社には最上位の叙勲位も与えられたが、在野の2社が勲功を得た戦乱としては、倭人政権が崩壊した際の戦乱しか考えられない。続日本紀は、壬申の乱を重要な戦乱だったと記しているが、その実像は全く示していない。これらの事実と唐書から推理すると、壬申の乱は政権交代の戦乱だったと考えられ、古事記の国譲りと神武東征は、その神話化だったとの結論に至る。古事記の序はその経緯を、天武天皇と呼ばれた偉大な指導者が先ず関東を制し、その後日本全土を制圧して天皇に即位したと簡潔に記している。

以上の推論は、日本書紀が記す壬申の乱とは全く違う戦乱が、日本全土で繰り広げられたと指摘する事になるから、日本書紀についての検証が必要になり、その答えを新唐書が与えてくれる。新唐書には、唐に提出された日本紀の転記があり、その内容は日本書紀とは異なっているから、720年に成立した日本紀は、日本書紀ではない事を明らかにしているからだ。宋史も平安朝が提出した日本国の年代記を転記しているが、それも日本書紀とは異なり、日本紀とも異なっているから、奈良・平安王朝の歴史捏造とその過程も明らかになる。その詳細は、(15)古事記・日本書紀が書かれた背景/日本書紀参照。従って結論として、日本書紀は720年に成立した日本紀ではなく、後世の偽書である事が明らかだから、この項では参照しない。

中華の典籍を素材に東洋史を研究している人は、この事実を日本史の研究者に指摘している筈であり、その事実認定は極めて単純な作業だから、日本書紀史観を墨守し、日本書紀は720年に成立したと主張している研究者は、それを無視している事になる。従って新唐書と宋史は、正しくないと知りながら捏造史を押し通している勢力が、史学会を牛耳っている事も示している。

彼らが恥ずかしげもなく主張する通説は、日本書記を根拠に飛鳥時代の開始を592年としているが、それは捏造史だから、以下では隋書の時代までを古墳時代とし、620年~697年を飛鳥時代とし、大和朝廷の体制が固まった697年以降を奈良時代とする。その様に時代区分したのは、倭人政権が620年頃まで維持され、飛鳥時代に倭人政権が崩壊して、歴史から抹消された初期の大和政権が成立したが、695年頃に第2革命的な政変が起こり、続日本紀に記された大和王朝が成立して奈良時代になったとすると、歴史の流れが理解しやすいからだ。初期の大和政権は、商工業者(物部)が擁立した政権だったが、政変によって生まれた政権は、農民を統治する中華的な王朝を志向した。

統治者で時代を区分すると、飛鳥時代前期(620650年)までは、出雲の大率が列島内を統治したが、飛鳥の倭王が外交の顔になっている、やや特異な倭人体制の時代だったが、飛鳥時代中期(650年~670年)になると、大率が対唐外交も専断する様になり、新羅が唐と連携して百済を亡ぼす流れを側面から援助して、関東の倭人勢力との対立を決定的なものにした。その様な東鯷人政権を見限った関東の倭国王家が、672年に大率と倭王を征討して日本を名乗り、唐に朝貢したが、飛鳥時代末期に再び政変が起こり、西の倭国王家が政権を掌握して続日本紀に記された奈良時代が始まった。従ってそれまでを、飛鳥時代後期(670年~697年)とする。

794年に奈良時代が終わると、平安王朝がその朝議録を編纂して中華風の史書とし、それを続日本紀と名付けたのは、捏造史書である日本紀が既に存在していたからだ。

日本紀を唐に提出するために創作し、720年に完成したが、平安時代に旧唐書が成立すると日本紀との矛盾が露わになり、大幅な修正が必要になった。その辻褄合せとして色々な書籍が試作され、最終的に日本書紀が成立したが、多数の捏造史書が試作された事を示す様に、多数の異説が併記されているから、王朝史の体裁が整っているとは言えない。その様な日本書紀は、唐王朝に受け入れられる筈はないのだが、日本書紀が密かに日本紀と差し替えられると、史家はそれらの矛盾について沈黙しながら、日本書紀は720年に成立したと主張し続け、日本書紀史観を墨守している。

この項では先ず旧唐書の、倭国伝と日本国伝を含む東夷列伝を解釈し、新唐書でそれを補う事にする。旧唐書は初唐期に成立した同時代性の高さだけでなく、唐代に失われた歴史を重視する姿勢を復活させ、唐王朝を客観視しているからだ。新唐書は大和朝廷が提出した日本紀を史実と見做し、倭人の存在を無視する姿勢に問題があるだけでなく、歴史を単純化して因果関係を決め付け、歴史を物語化する姿勢が目立つ。好意的に解釈すれば、資料の厳密性評価を旧唐書に委ね、それとは異なる視点から資料の多様性を確保し、旧唐書が扱わなかった時代の事績も示しているが、旧唐書があるからその様に言えるのであって、新唐書しかなかったとすれば、歴史の復元は酷く曲解されたものになる。

 

1、 倭人体制の終末期になった飛鳥時代前期(620650年)

1-1 旧唐書倭国伝が示すこの時代の倭国(飛鳥にあった倭国)

631年に唐の使者が倭国に来たので、その使者の報告書の抜粋が記されている。

倭国は古の倭の奴国也。京師(長安)を去る事14千里、新羅の東南の大海の中にある。

「倭国は古の倭の奴国也」は、倭国は北九州にあると言っているのではなく、倭国は昔の倭の奴国であると解説している事になる。後漢書がAD57年、倭の奴国が貢を奉じて朝賀す。使人は自ら大夫と称す。」「AD107年、倭国王の帥升等、生口百六十人を献じ、願いて見る事を請う。」と記したものを、隋書倭国伝は「漢の光武の時、遣使して入朝し、自ら大夫と称す。安帝の時また遣使して朝貢し、之を倭の奴国という」と変形して記し、内容が異なっているが、どちらが正しいのか即断はできない。通常は同時代性が高い文献を採用するから、隋書が誤りである可能性が高いが、他の理由からも、後漢書の信頼性が高いと考えられる。隋書の項で指摘した様に、隋書の編者は正しい記述であるか嘘の記述であるかを問わず、倭などの海洋民族を貶める文献素材を探し、記述しているからだ。但し飛鳥の倭王も隋朝に宛てた親書に、「倭国は邪靡堆にある」と記し、飛鳥に邪馬台国があったと誤解させたから、後漢書が記す107年の倭国王の朝貢は倭奴国が行ったと、隋の使者に誤解させた疑いもあり、隋の使者の曖昧な表現を、隋書の編者が上記の様に纏めたと言う辺りが、実際に起こった事だった可能性もある。

隋書の曖昧な表現に対し、唐書はより明確な表現になっているが、時代が降る程表現が明確になる場合には、それは嘘である可能性が高い事に異論はないだろう。唐書の記事は、後漢書と隋書を纏めた記述の様に見えるが、その景で実際に起こった事を推測すると、唐の使者が倭に従前の矛盾を問い質し、倭王かその従者が唐の使者に対して更に踏み込んだ話をせざるを得なくなり、飛鳥倭国の祖先は宗像ではなく奴国であったかの様に誤魔化し、倭王は倭人であると誤解させたと推測される。具体的に言えば、唐の使者は倭国に渡る前に、隋の使者の報告書を読んでいたから、隋書の矛盾に対する突っ込んだ質問を浴びせ、東鯷人の倭王が仕方なく嘘の上塗りをし、此の表現に至ったと推測される。倭人が魏の使者を騙したのは、日本列島の国防を意識したもので、嘘は必要最小限に留めていたが、東鯷人は見栄によって隋唐の使者を騙し、結果的に倭の出自を北九州に矮小化する逆効果を生んだ。

邪馬台国九州説はこれらの記述を根拠にしていると考えられるが、歴史的な経緯とは相容れないし、魏志倭人が記す邪馬台国連合30国には、2万戸の奴国、5万戸の投馬国、7万戸の邪馬台が含まれていたから、人口規模から考えても30国が九州にあった筈はなく、増して漢代100余国の倭が、九州にあった筈はない。九州の人が郷土愛に燃えているのであれば、伊都国に大率がいた事こそ、誇るべきではなかろうか。伊都国と云う名称について考えると、起源が分からない大夫呼称を使っていた倭人が、「都」という漢字を使っていた事は、極めて高貴な人の居所である事を意味するからだ。縄文時代/経済活動の成熟期古事記の項で詳しく説明するが、伊都国の大率は、夏王朝期の「九夷」の統率者だった可能性が高い。九州という名称の起源は明らかではないが、「九夷」という名称の夷(夏王朝にとって異民族)を意味するから、という名の倭人集団の(島)を意味する九洲が、九州の起源である疑いがある。大率については章を改めて説明するが、より古い身分呼称だから、倭国王より古い時代の統率者だったと考えられ、上記の想定と合致する。九州人が自分達こそ倭の元祖だと主張する伝統は、古事記が神武天皇に比定した倭国王の即位(BC7世紀)の時に、始まった事になるだろう。

古事記は「大国主は胸形のタキリヒメを娶り、迦毛(かも)大御神を生んだ」と記し、全国のカモ(鴨・賀茂・加茂)神社の総本社である高鴨神社が、迦毛之大御神を主神として奈良県の御所市にある事と、国譲り説話で大国主と共に、葦原中国(あしはらなかつくに)を天孫族に譲った大国主の子の事代主は、御所市にある鴨都波神社(かもつばじんじゃ)に祭られている事と、御所市・飛鳥を中心とする奈良盆地南部と紀ノ川流域は、出雲勢力の飛び地だったと主張する古事記と整合する事から、飛鳥倭国人の祖先は、宗像出身だった事を示している。従って唐の使者が訪れた飛鳥倭国を、古の倭の奴国とする記述は、飛鳥人が唐の使者に、飛鳥倭国は倭人の国であると誤魔化したとの仮説と整合する。隋書はこの時代の宗像を竹斯国と記している事、古事記は北九州全域が「ちくし」と呼ばれていた事を示唆している事が、この様な嘘が通用しやすい状況になっていた事を示している。古事記が北九州の倭人地域を筑紫と記し、宗像を竺紫とし、地名漢字を使い分けているのは、隋書や唐書に記された東鯷人倭王の詐称を揶揄したからではなかろうか

飛鳥時代前期の大率は倭王より上位者だった事が、新旧唐書の記述を追跡すると明らかになる。古事記も事代主(倭王)を大国主(大率)の子とする事により、飛鳥時代の飛鳥は出雲に従属していたと認識させ、唐書の記述と整合している。「事代主」は倭王を代理の王であると侮蔑した名前だから、古墳時代中頃の倭国王が東鯷人の王に、倭人諸国の統治を委ねたと想定される事情と合致し、中国の史書、古事記が示す神々、その神社系譜は、完全に整合する。従って古事記の神代説話は空想から生まれたものではなく、古代部族の移動や連携を示唆し、倭人政権の崩壊過程も示唆している事になる。その詳細は、(15)古事記・日本書紀が書かれた背景/古事記参照。

隋書の項で、飛鳥の倭王は百済を介して南朝仏教を入手した事、百済は自分の由緒を捏造して歴代の中華王朝に嘘を垂れ流した事を指摘したが、飛鳥の倭王が仏教経典の解釈を百済と共有する過程で、自国の由緒を捏造する体質も百済から取り込んだ疑いがある。倭王の取り巻きが頻繁に百済に出向き、仏教知識を習得する過程で、その様な副作用が生まれた疑いが濃く、それが事実であれば、倭人はその様な仏教を嫌っていた可能性も浮上する。但し此処で云う倭人は、朝鮮半島に深く関わって百済に悪意を抱いていた西日本の倭人の事で、関東の倭人の動向は不明だが、関東系の女性が創作したと考えられる古事記に仏教色がない事と、古事記の応神天皇紀に記された百済の朝貢に、論語や千字文はあるが仏典はない事から、関東の倭人も仏教には関心がなかったと推測される。

「(倭国は)京師(長安)を去る事14千里」との地理観は、百済伝で「百済は京師の東六千二百里」と記している事から考えると、倭国は百済から8千里(4000㎞)と認識していた事になる。「(倭国は)新羅の東南の大海の中にある」と記しているから、新羅が京師からどの程度離れているか記されていれば、より正確な地理観が分かるのだが、新羅伝にはその様な記述がない。しかし新羅は「西接百済、北鄰高麗。東西千里,南北二千里」と、国土の広さはかなり正確に記されているから、隋書が「倭国は百済、新羅の東南に在って水陸三千里」という正確な地理観を示したが、唐書は再び、邪馬台国が魏の使者を騙した地理観に戻った事を示している。この事と、隋書に記されなかった大率が旧唐書に再登場する事から考えると、唐の使者が渡来する段取りを手配し、再び唐の使者を騙したのは、飛鳥時代の大率だった可能性が高まり、唐の使者は倭の使者の帰路に便乗したから、その倭の使者は、大率が手配した者だった可能性も高まる。他の状況証拠からも、この時期の対唐外交の主導権は大率が握っていたと想定され、新旧唐書に記された唐と倭の交渉経緯も、この可能性を支持している。それを論考する前に、旧唐書が示す倭国の国情を検証する。

(倭国の)村や町には城郭がなく、木で柵を作り、草で屋根を作る。

戦争や騒乱がなく平和だった事が分かると同時に、木で柵を作ったのは住居の周囲だったと推測され、当時の集落は散村だった事に留意する必要がある。つまりこの時代の生産の仕組を、考古学的に発掘する事の難しさを示している。城郭の中にそれらが集中していれば、纏めて発掘しやすいのだが。

50余国が皆、倭国に従っている。

古墳時代前期の倭は120余国だったが、飛鳥時代には50余国に減少していた事になる。倭人の国は農民を支配する領土国家ではなく、交易を経済基盤とする都市国家だったから、国が減少したのは、交易の不振が原因だった可能性が高い。海外交易を失って存続不能になった倭人国は、他国に統合されるか域内交易者になるか、或いは漁民に戻るしかなかっただろう。いずれにしてもそれらの国は、海外交易者の集団である倭人国を解消し、倭を名乗った国家連合から脱退した事になる。現代的に言えば、地場産業の商社が倒産したか、他の商社の系列販社になった事になる。但しそれらの国が、農民や漁民の協同組合に変質して内需交易集団に変った場合も、海外交易を目的とした倭人同盟から脱退した可能性があり、内陸の農村はすべて倭人国に吸収されたとも言えないし、農民集団に自治組織が存在しても、それは元から倭人国ではなかった筈だから、日本列島上の国と言える組織が、50余国しかなかったという事ではないと推測される。

(倭国の)王の姓は「あめ」氏。

30年前の隋代の倭王は、姓は「あめ」氏、字名は「たりしひく」で、「あへけみ」と号したが、唐書には「たりしひく」「あへけみ」は記されていない。倭王は代替わりしても同じ名前を称し、個人を特定する名前がなかったから、旧唐書は「たりしひく」「あへけみ」を省いて「あめ」氏だけを記し、隋代の系譜である事を示したと想定される。唐の皇帝への倭王の親書にも、隋の皇帝に提出した親書と全く同じ署名が記されていたから、王の姓は「あめ」氏であるとして、系譜が継続していた事を示す以外に、王を識別する手段がなかった事を示している。

新唐書は日本紀を参照し、日本紀に記された天皇をその諡号で識別した。その手段は、日本紀に記されていた総持天皇まで適用できたが、それ以降の奈良時代の天皇名には適用できなかったから、遣唐使が申告した天皇の幼名や諡号を朝議録から拾い出し、天皇を特定した痕跡が見える。新唐書が記す奈良時代の天皇名には、続日本紀と異なるものが多く、その理由は、遣唐使が唐朝に嘘を言ったか、続日本紀が間違っているかのいずれかになる。遣唐使が唐朝に嘘を言ったとすると、皇室の婚姻制度や皇統継承が、中華と酷く異なる事を隠すために、遣唐使が唐朝に嘘を言った事になり、婚姻制に叔母や姪と結婚する皇室の親族婚や、生前に譲位して再び天皇になる重祚などの皇統継承がその対象だったと考えられ、合理的な仮説が成り立つが、続日本紀には人名改竄の痕跡があるから、その視点で捉える必要もあるだろう。

一大率(唯一人の大率)を置き、諸国を検察する。諸国は皆これを畏れ、従っている。

大率は魏志倭人伝にも登場し、その記述と極めて類似しているから、大率の基本的な職能は、邪馬台国時代から変わっていなかったと考えられ、隋書には登場しないが唐書に再登場するから、継続的に存在した職務だった事になる。魏代までの大率は、朝鮮半島の軍事を統括していたが、南朝に朝貢した倭国王は、朝鮮半島南部を軍事支配していると主張していたから、古墳時代前期までは実務は大率が行い、倭国王が外交の責任者として中華王朝に、朝鮮半島の軍事統括は倭国王が統括していると、申告していたと考えられる。しかし古墳時代の中頃に倭国王が東鯷人の倭王に代わると、倭は朝鮮半島の経営から撤退したから、それ以降の大率は朝鮮半島の軍事的な経営は行わず、倭人国の統治に専念していた事になる。

倭国王が東鯷人の倭王に代わった際に、政治的な悶着があった事を、古事記の継体天皇紀に記された筑紫君石井の行為が示唆していると、隋書の項で指摘したが、その悶着の結果として石井が殺されたと古事記は記しているから、石井が担務していた大率職は、出雲の東鯷人になったと推測される。その大率は朝鮮半島の軍事経営から完全撤退し、諸国の検察に特化していたが、飛鳥時代に再び朝鮮半島に干渉し、新羅を支援するために唐に朝貢した事を、新旧唐書が示している。

12等級の官職があり、訴訟する者は腹這いになって進む。

官職は隋代と同じ12階で、厳しい身分制があった事を示している。但しこれは戸数10万戸の倭国の制度であり、東鯷人の習俗を示している事になる。東鯷人地域は倭人地域より、身分制の発達が早かった事が考古学的に判明しているから、倭人地域にもこの様に、厳しい身分制があったとは言えない。古事記も、出雲社会を高天原と比較して、暴力に満ちた男尊女卑的な社会であると記述しているから、古事記の作者の指摘は考古学的な事実と一致している。

女多く男少ない。

男が海外交易のために長期出張し、女が遺されていた状態を指す。漢書地理誌呉の条から引用したこの句が南朝時代から使われ、この時代にも引き継がれていた事を示している。

頗(すこぶ)る文字有り。(文字が書かれた書籍が沢山ある。)

隋書に「(倭には)文字がなく、木を刻んだり、縄を結んだりしていたが、仏教を敬い、百済から仏教の経典を伝えてもらうことが出来て、初めて文字を知った。」と記された30年後の事だから、隋書の記述を否定した事になる。初唐に成立した隋書にこの文が挿入されたのは、唐の太宗の政治的な指示により、百済の使者が隋朝にこの様な嘘の風聞を撒いた事を、新羅や倭に知らせるためで、この情報の発信者は百済である事が分かる様に記されていた。それが唐の戦略である事は明らかだったから、この様な簡明な表現で訂正したと考えられる。

人々は仏教を敬っている。

これは東鯷人の国だった飛鳥の事で、日本列島全般の事ではない。

皆裸足で、一幅の布で前後を覆う。

貴人は錦織の被り物を着け、一般人はまげを結い何も被らない。

30年前の倭国を記した隋書の、「男子は筒袖の裙襦(上着とスカート)を着る。履物は編んで作った浅靴の形に似て、漆で固めてあり、足に紐でくくりつける。庶民は裸足が多く、金や銀を使って飾りを付ける事は許されない。」との状態と比較すると、人々が貧困化した事が読み取れる。

女性は単色のスカートと長い襦袢を着て、髪を後ろに束ね、25㎝程の銀製の花を左右に各々数個着け、身分の上下を示す。衣服は新羅に良く似ている。

隋書倭国伝は、「多数の女性のスカートに、流行の縁取りが付いている」と、中華風のトップモードを着た女性を艶やかに描いたが、この時代の女性の服装は質素な単色で、地味な民族衣装に戻った事を示唆している。身分を示す銀花を着けていたのは、それがなければ身分が分からないほど、貴族女性の服装が質素になった事を示唆している。スカートに縁を着ける流行は、唐代には廃れていたから、縁取りを付けない事は服装の華美判定にはならないが、新羅の女性についても、隋書新羅伝では「色々な色に染められた絹をカラフルに着こなしている」と記しているが、旧唐書は「婦人は髪を頭にめぐらし、綵(美しい模様の絹織物)と珠で飾る長い髪が美しい」と記し、衣服については触れていないから、新羅でもこの時期の女性の服装が、質素になった感触は否めない。

男性の衣装と共に女性の衣類も質素になった事、即ち日本列島が貧困化した事を示しているのは、移民事業が終わって経済が衰退していった事を示している。新羅も貧困化したのは、新羅は倭との交易によって潤っていたから、倭が貧困化すると、共に貧困化したからだと考えられる。隋の使者が来た後の僅か30年の間に、この様に急速に貧困化が進んだのは、飛鳥倭国について言えば、海洋交易経済が急速に不況化し始めた上に、主要産業の出雲への移転が進み、2重の打撃を受けたからだと考えられる。

 

1-2 旧唐書が示す倭と唐の交渉

631年、(倭国の)朝貢使が来た。太宗は倭国が余りに遠いので、毎年貢物を届けなくても良いと言い、唐の使者を倭に派遣した。

唐代になっても、大陸人は倭人の島に渡る事ができなかったから、唐が恣意的に使者を送る事はできなかった。唐の太宗は倭の使者を接見すると、機敏に倭の使者と交渉し、その帰路に唐の答礼使を同行させたと想定される。「倭国が余りに遠い」という認識に戻ったのは、倭の使者が魏代の地理観を、再度説明したからだと推測されるが、皇帝が「毎年供物を届けなくても良い」と言ったのは、倭国が遠いからという配慮より、隋と倭の交渉が決裂した理由を承知し、唐は隋とは違う事を示す為だったと推測される。従って唐の答礼使は隋の使者とは異なり、親善使節として、唐に対する恐怖感を薄めるためだったと想定される。隋と唐は共に、高句麗を滅ぼしてその富を簒奪する目標を共有していたが、性急に事を進めた隋とは異なり、唐の太宗には巧妙な戦略性があった。

唐の使者には外交的な手腕がなく、王子と儀礼について争い、国書を読み上げることなく帰国してしまった。

皇帝の希望に反し、答礼使は倭と友誼を結ぶことが出来なかったので、王朝内での使者の評価が下がったから、朝議録にこの様に記されたと推測される。この時の倭王の態度は隋代の倭王と異なり、唐の使者への応対に気遣いがなかったのは、唐に遣使したのは倭王ではなく、大率だった事を示唆している。それ故に使者に対して何かを求める動機がなく、唐との親善に熱意がなかったと考えられる。

大率が631年に唐に遣使したのは、この年に新羅の王統が絶えて女王が即位したから、新羅の状況を危ぶみ、新羅が接近しようとしていた唐に、何らかの働き掛けをしたかったからだと推測される。しかし百済と親しかった倭王にとっては、それは好ましい動きではなかったから、唐の使者に反感を持っていた疑いもあるが、唐の使者は予期せぬ来客であり、倭王には唐と話し合う動機も準備もなかったから、王子と共に高飛車な態度に出たと想定される。派遣された唐の使者が、「外交的手腕がない」と酷評されたのは気の毒だが、言い訳を許さないその様な厳しさが、当時隆盛を誇っていた唐の統治力の源泉だったのかもしれない。

648年、(倭国は)新羅の遣唐使に託して表(親書)を奉り、挨拶を通じて来た。

大率は再度アプローチしたが、旧唐書倭国伝はこの記述で終わる。新唐書が、それ以後も倭の使者が来た事績を記しているから、その使者は、大率が倭王と連携せずに派遣した者だったと想定され、倭王と大率の間に、朝鮮半島の経営に関する方針の違いがあった事を示し、倭王は新羅の台頭を快く思っていなかった事を示している。新唐書が示すこれ以降の倭の対唐外交は、朝鮮半島に関する事に終始し、新羅への支援に偏っているから、648年の「新羅の遣唐使に託した表」までは職務分担上倭王が署名したが、それも恐らく、大率が代筆した文章に倭王が嫌々署名したものだったと推測され、以後の署名は断った事になる。

この時の新羅の遣唐使は、女王の弟が出向く大規模なもので、唐はその使節を大歓待して新羅との紐帯を深めた。

 

1-3 倭の制度と王族系譜

女性は・・・、20㎝程の銀製の花を左右に各々数個着け、身分の上下を示す。

女性の身分は家系の上下を示したと考えられ、血縁的な身分制があった事を示している。

唐は飛鳥時代中期に、新羅と共に百済や高句麗を滅ぼし、新羅までも直轄領にした。従って唐は、新羅の習俗を知る初の中華王朝になったので、新羅の制度が新唐書新羅伝に詳しく書かれている。日本は大和朝廷になって唐に朝貢する様になっても、制度や天皇の婚姻制を隠したから、唐書には倭や日本の制度を窺わせる記述はないが、新羅の制度は極めて日本的で、新羅王の婚姻制は続日本紀に記された、飛鳥時代末期~奈良時代初期の天皇の婚姻関係と一致するから、倭と新羅は文化を共有していたと考えられる。

(新羅の)官位制では、王の親族を上位とする第1骨、第2骨の血縁家系があり、(両者は)自発的に分かれ、兄弟の娘、父の姉妹、母の姉妹を妻にする。王族は第1骨で、妻もその家系から迎え、生まれた子は皆第1骨になり、第2骨の女を娶らない。娶る場合には、妾、腰元とする。官には宰相以下17等あり、第2骨の者が任用される。

王の姓は金、貴人の姓は朴、民には氏がなく名がある。

事を決めるには必ず衆議し、一人でも意見が異なると決めない。

宰相には奴隷3千人とそれに見合う俸禄や武器・牛馬が与えられる。

元日に互いに年賀を行い、この日に日月の神を礼拝する。

続日本紀によれば、文武天皇の祖父は兄の娘を妻にし、文武の父は母の妹を妻にした。この類似性から考えると、新羅の宰相は倭の大率と比肩すべき存在だった可能性がある。新羅は元々漢字を使わない越系民族で、漢字の大率や大夫職名を春秋戦国時代から使っていた倭とは、文字文化が違った。新羅は唐王朝から中華文化と漢字を受容したから、官職名は唐に倣って新たに漢字で決めたと考えられ、倭と役職の漢字名が違う事に違和感はない。

貴族の姓が朴しかない事は、姓によって家系を識別する習俗がなかった事を示す。王族が姓で貴族は姓しかない事は、姓は身分を示すものだった事になる。倭の場合は、倭国王系譜の姓が「天=あめ」だったと考えられ、古事記の神話には「天」が付く神が多数登場する。東鯷人の倭王が「あめ」を名乗った事は、権限移譲によってそれを名乗る事が許されたからだと想定される。

新唐書に転記されている日本紀の抜粋を見ると、遣隋使を初めて派遣した用明天皇は「めたりしひこ」とも云うとの注記があり、隋書に倭王の姓は「あめ」、あざ名は「たりしひこ」と称したと記された事を、この様な形で否定している。日本紀の編纂者としては、天皇は倭国王系譜でなければならないと確信していたから、東鯷人の倭王が「あめ」を称した事は、不適切であるとの意識が強烈に顕れていた事を示し、古事記に記された「天」が付く名は、実在者の仮託だったか如何かは別にして、倭国王系譜の人物を表象した神であると考える必要がある。

民には氏がない事は、倭も同様だったと想定される。魏志倭人伝が記す邪馬台国の大夫でさえも、名前だけが記され、その状態を示しているから、倭国王以外の者が姓を持ったのは、新しい時代の事だったと考えられる。大陸の農耕社会では、姓によって父系を識別して耕地の所有権を継承させる必要があったが、産業社会や交易社会では、人は組織的に活動したから、人々は多様な役割によって識別される事になり、父系を意識する必要がなかった事が、姓を長い間必要としなかった理由だったと想定され、日本の時代劇や古典落語で、「お奉行」「越後屋」「番頭」「船頭」「中居」などと職業呼称で呼び合うのも、その様な文化の名残であり、その様な文化の中では、何らかの職業的な役割を持つ事が、一人前の人間になる事を意味したと考えられる。それに対し、広大な平原に同質の農民がひしめいていた大陸の農耕社会では、農地の相続と所有が最も重要な課題だった農民として、名前と姓で人を分類する必要があった事が、実感として分かるだろう。従って人が姓を持つ事は、必ずしも文明進化の結果ではなかったと考えられる。

元日に互いに年賀を行い、この日に日月の神を礼拝する事は、現代日本でも盛んに行われているし、続日本紀にもそれが制度化されていた事が記されている。

「事を決めるには必ず衆議」し、「一人でも意見が異なると決めない」、即ち全員一致で決めるのも、今となっては日本的である事になるが、それがこの時代までの、東アジアの海洋民族の一般的な習俗だったと考えられる。

唐から中華的な諸制度や文化を導入する以前は、新羅も倭もこの様な文化を共有する国だったと考えられ、中華風を目指した百済とは異なる価値観を共有した新羅は、倭人にとって貴重な友邦だったと考えられる。新羅との関係が悪化したのは、大和政権が成立してからだと想定される。

 

1-4 新羅の変質と朝鮮半島の動乱化

新羅は隋を評価せず、朝貢する程度の接触しかなかったから、百済が流した風聞によって貶められたが、唐が誕生すると新羅は急速に唐に接近し、制度・文化を唐風に変えていった。隋書に記された倭国と唐書に記された倭国を比較すると、明らかに倭国の窮乏化が進んでいた事を指摘したが、新羅も海洋交易によって経済が倭と一体化していたから、同様に窮乏化したと想定される。倭国王が宋への表に記した「任那」と云う地名は、移民事業によって倭が潤っていた時代に、倭との交易によって潤っていた弁韓を謳歌した、美称だったと考えられるからで、「任」は小国が自立している状態、「那」は麗しい国土を表したと考えられる。

倭と同様に経済危機に陥った新羅は、唐との関係を模索しながら、事態の打開を図ったと想定され、その観点で考えると、倭と新羅は共に中央集権化によって、経済不振の打開を図った事になるから、倭軍が撤退して軍事集団が王朝化した新羅が、図らずもその先鞭を付けた事になる。後発になった倭では、唐の王朝制度を参照する傍ら新羅型の中央集権制も参照し、商工民族の中央集権化を模索できたと想定される。事実関係の評価はできないが、倭は商工民族の中央集権化が短命に終わり、25年後に農民政権化したが、新羅の滅亡がその終焉だったとすると、新羅の商工民族の中央集権化は400年も続いた事になるが、それは商工民族が圧倒的に高い文明を維持し、未開の農耕民族を支配していた新羅の特殊性だったと考えられる。

621年、新羅は唐に朝貢し始め、唐との親密な関係の構築を模索した。

南北朝時代には百済と高句麗が中華に朝貢したが、加羅や新羅などの弁韓諸国は大陸と距離を置いていた。唐代にそれが逆転したのは、唐の遠交近攻策による周辺国操縦策の結果で、新羅が半島で最も文明的な国だったから、唐が新羅を選んだからだと想定される。中華文明に限定すれば百済の方が先行したが、唐は漢民族の王朝ではなかったから、中華化の進度は重要な要素ではなかった。

631年、新羅王が死んだが嗣子が無く、その娘を王にした。その女王が647年に亡くなると妹を王にしたので、2代女王が続いた。

日本でも飛鳥時代末期から奈良時代初頭に、持統、元明、元正の3人の皇族女性が、文武天皇を挟んで女性天皇になり、次の聖武天皇を挟んでその娘が称徳天皇になった。新羅も日本も危機に臨むと女性が天皇になる、共通性があった事になる。卑弥呼や台与もその範疇に入るとすれば、史書に記されていないそれ以前の時代にも、その様な事態が起きていた可能性はある。

新羅は女王時代に、急速に唐に接近した。卑弥呼も魏に使者を送り、初めて魏の使者を倭人の島に招待した。持統女帝も文武と共同統治期に、唐への朝貢使である遣唐使を送ったから、女性が王や天皇に選出された際に大国に擦り寄るという、行動性向にも類似性があった。

643年、高句麗に攻められ、唐に注進して軍事行動を請い、新羅も兵を出した。

百済が高句麗と同盟し、新羅を攻撃しめ始めたのは633年で、新羅がその危機感を唐に報告したのは643年だった。629年に、新羅に対する百済の悪意を暴いた梁書が成立し、636年に隋書が完成したから、百済が新羅に対して攻撃的な姿勢に転じた時期は、悪意的な史書の成立時期と同期している。史書を読んで最初に反応したのは新羅ではなく、焦燥感を抱いた百済だった事になる。この頃高句麗に淵蓋蘇文が登場し、唐の侵略の意図を嗅ぎ取った者達を糾合し、642年に政変を起こして実権を握った。642年の百済の攻勢は、その高句麗と同盟して起こしたものだったと推測される。史書だけで歴史が動いたわけではなく、その背景に百済への悪意を示す手紙の交換もあり、史書に記されたい唐官僚の素振りにも、百済に対する悪意と高句麗に対する敵対性が、高まっていたと想定される。

648年、女王は弟の金春秋(庶子?)とその子を唐に派遣し、唐と一層親密な関係を築いた。

太宗は唐を尊敬する態度を示した金春秋を、異例の好待遇で迎えた。

倭はこの時、(金春秋に)親書を託した。(倭国伝)

唐は新羅からの接近を歓迎する意思を明確に示すため、新羅の大型使節団を大歓待した。大率はその使節に親書を託し、新羅との連携を模索したが、親書に署名した倭王は仏教文化を介し、百済と親密な関係を維持していた。この親書が、倭王署名の最後の表になった。

 

2、崩壊直前の倭650年~670年)

2-1 新唐書 日本伝

旧唐書にはこの時期の記述がなく、旧唐書日本伝が703年の日本国の朝貢から始まる。旧唐書の著者がこの時期の倭について記さなかったのは、唐に遣使されたのは倭王の使者ではなかったからだ。唐はそれも倭の使者と認めて皇帝が面会したから、朝議録に記載され、新唐書の編者はそれと日本紀を合体して日本伝を編纂した。大率の使者を倭の使者として唐王朝が受け入れたのは、抱き込みたいと考えていた新羅が、口添えしたからだと想定され、以下の記述がそれを示している。

650年代始め頃、(倭の使者は)一斗枡ほどもある琥珀と、五升入りの容器大の瑪瑙を献上した。当時新羅は高句麗と百済に侵され、厳しい状況にあった。唐の高宗は詔勅を下し、軍を発して新羅を救援させた。

日本伝であるのに、新羅伝の記述が紛れ込んでいる様に見えるが、これは日本伝だから、日本と関係する事績として解釈せねばならない。新唐書日本伝はこの使者を、日本紀に記された天皇が送った事にしているが、その皇統は当然捏造である。旧唐書がそれを記載していない事は、倭王が送った使者ではなく、倭王が署名した表を持参していなかった事を示している。この文章は原因と結果だけを記し、時期が明確ではない奇妙な表現である事は、正式な朝議録の抜粋ではなく、他の事績や論評に付加されたものの転記だった事を示している。この文の欠落を補足すると、「大率の使者が新羅救援を依頼するために、唐の皇帝に宝物を贈った」事になり、新唐書が「」の部分を記さなかったのは、参照した文献にその記載がなかったからだと考えられる。

倭人の朝貢が朝議録に正式に記述されなかったのは、倭人が梁書や隋書を読んでいたからだと推測される。百済の使者が、倭や新羅の悪口を南朝や隋朝に流した内容が、梁書や隋書に暴露的に記載されたから、それを知っていた大率の使者としては、倭が新羅の為に活動した事が朝議録に記され、後世百済に発覚する事を恐れたと考えられる。嘘だと分かっている百済の悪事が、史書に大々的に記された事に、倭や新羅や百済から抗議があった可能性が高く、唐がそれに対する言い訳として、それが朝議録に記載されていたから、史書はそれを明らかにするものだと説明した事を示唆している。倭の使者がその様な事態の再発を恐れ、朝議録に記述しない様に注文を付け、唐朝が了解したから、この様な判り難い記述になったと想定される。新唐書の著者もその事情を理解したから、史書に転記したと推測されるが、資料の転記が基本作業だった史官として、自分の意見を書き加えずに転記したから、この様な表現になったと想定される。少なくとも倭人と新羅人は、梁書と隋書が百済と高句麗に大きな影響を与えたと、認識していた事を示している。

この倭の使者は、大率が新羅の使節に倭王の親書を託してから、初めて唐に朝貢した大率の使者だったと考えられる。それを唐朝が受け入れたのは、新羅の仲介があったからだと想定され、この朝貢の場に、新羅の使者も同席していた可能性が高い。事前に新羅の使者が大率と唐朝に根回した事により、唐朝が受け入れたと推測されるから、この時の大率は、南朝に朝貢した倭国王より受動的で卑屈になっていた。東鯷人の大率には、朝鮮半島に干渉する軍事力はなく、金で解決する事しかできなかったから、この宝物を贈呈した事になるが、外交センスが欠如していたとも言える。

形式的だったにせよ、殺された石井に代わって半島経営を継承させられた大率としては、百済と新羅はどちらも倭の同盟国だったから、表立って新羅を救援する事はできなかったが、新羅が朝鮮半島の南部を制圧する事を密かに望み、新羅と密約を結んで唐に朝貢したと考えられる。百済も新羅も、元々は高句麗の南下を抑止する勢力だったから、高句麗と同盟した百済は半島南部同盟の裏切り者になり、この朝貢には大義名分があった筈だが、それをこっそり行った事に問題があるだけではなく、唐が興隆しつつある中で、その様な古い認識が何時までも通用する状況ではなかった。

新羅の前身である越と日本海勢力は、春秋戦国時代以前から親密な関係にあった上に、北九州の倭人は以前から新羅と親密な関係にあったから、新羅に肩入れする事は、東鯷人や西日本の倭人には必然的な流れだった。しかし現実問題としては、高句麗には半島南部に侵攻する軍事力はなく、本当に怖いのは唐の半島南下だったのだから、それに対処する外交が必要だったが、大率にはその認識がなかったとも言える。その様な難しい判断を前にしながらの混乱の背景に、東鯷人内での倭王と大率の反目があった。

百済は660年に唐と新羅の連合軍に滅ぼされたから、上記の倭の策動は百済滅亡の10年前の事になり、その際に倭の軍事責任者であった大率は、新羅と唐の連合に肩入れしていたのだから、百済の滅亡時に倭が百済に援軍を派遣した筈はなく、唐書にもその様な事は記されていない。しかし唐と新羅の連合軍に百済が滅ぼされ、その直後に百済遺臣の反乱が始まると、反乱軍は倭から王子を迎えて百済王としたから、倭には二つの対立する意志が併存していた事になる。倭に百済王子がいた事は隋書の項で検証したが、その王子が百済の反乱軍に送り出されたのは、概略以下の様な事情に依ったと想定される。

百済が滅ぶ前には、百済と倭王との交渉実務は宗像が行っていたと想定され、宗像は倭王の指示に従って百済の王子を預かっていたと考えられる。百済が滅ぶと大率と倭王の間に意見の対立が生まれ、倭王は百済の王子を預かっていた宗像の意見に従い、反乱軍に王子を送り込んだと想定される。大率と倭王は各々勝手に、新羅と百済反乱軍に肩入れしていた事になるが、東鯷人の有力な勢力だった宗像は倭王に同調し、出雲の大率は他の東鯷人勢力や西日本の倭人と共に、新羅を支援したと想定される。

662年、倭の使者が、弓の名手である蝦夷人と一緒に入朝し、蝦夷人が弓の腕を披露した。

百済が滅亡した直後に大率が送った使者だから、本来であれば慶賀の言葉を述べる立場だったが、それが無い事は、朝議録に記載される事を再び拒んだか、事態の推移に困惑があった事を示唆している。大率は反乱に加担しない旨を申告した筈だが、それも記載がない。これらも大率の使者が、史書への記載を拒んだからである疑いがあるが、この記事は年次が記されているから、朝議録から転記した事になる。蝦夷人が弓の腕を披露した事は、唐と倭の間に険悪な雰囲気はなかった事を示し、新唐書の編者はこの事績を挿入する事により、新唐書の編者が理解した倭の意図を示した事になる。つまり大率は、百済滅亡を内々に慶賀したが、それは朝議録に記載しない様に要求したと推測される。

663年に、反乱は唐と新羅に鎮圧され、宗像勢が白村江から、反乱者の一部を亡命者として収容した。その顛末は、2-3、2-4節で説明する。

 

2-2 大率職位の起源、倭人社会での職務、飛鳥時代での変質

魏志倭人伝に記された大率は、伊都国を居所として朝鮮半島の軍事を仕切り、倭人諸国を観察していた。伊都国の隣にあった奴国王や漢代の倭国王は漢に朝貢したが、大率は朝貢に関与しなかった事から類推すると、大率は交易や朝貢には関与しない職制だった事になる。しかし唐書に記された大率はそれと異なり、朝貢を実質的に仕切り、遂には倭王を差し置いて唐に朝貢した。中華王朝の官僚は、この日本独特の制度を理解できなかったので、魏志も唐書も記述が曖昧で、大率の実態は良く分らない。ここで改めて、大率について論考する。

「大率」も「大夫」と同様に、古代中国から取り入れた制度だったと考えられるが、中国の文献には大率の用例がない。倭の大率の役目として魏志や唐書に記されているのは、地域政権である各国を統制する事だった。この役職名は倭人の創作だった可能性も無くはないが、「大率」は古風な印象を与える漢字だから、簡単にその様に結論付ける事はできない。

中国発祥でありながら、史書に「大率」の用例がないとすれば、その理由として次の二つが考えられる。一つは、華北では使わない稲作民の制度だったという地域性、もう一つは、殷末・周初を最後に大率制度がなくなり、言葉も廃れた可能性が考えられ、両者は排他的に対立する可能性ではない。この制度が成立するためには、小国が分立している事が前提になるから、戦国時代になっても小国連合を維持していた稲作民は、この制度名を使っていた可能性があり、国家連合を形成しない雑穀民社会には、この制度はなかった可能性が高いからだ。

類似する言葉を史書から探すと、史記の周本紀に記された、周の武王が殷の紂王(帝紂)の大軍を牧野の会戦で破る場面で、「大卒を以って帝紂の師(軍)に馳せる」と書かれている。小竹文夫・武夫氏は、大卒は軍の編成単位を表し、戒車350乗、士率26250人、勇士3000人だったとしているが、この時の周軍は稲作民諸国との混成軍だったから、この言葉は全軍の突撃を意味した筈だ。この時の戦闘事情として、周軍に多数の稲作民の国の軍隊が加勢していたから、その事から考えられる場面設定としては、小国連合の軍隊を統率する者が、全軍を率いて殷軍に突撃する状況だった。

紂王が牧野の会戦で破れ、殷の都に逃げ帰って自殺すると、連合軍は紂王の宮殿に進駐し、近くの「社」で祝勝会を開催した。その様子として、「武王が、戦勝の儀式のために社の南に立ち、(諸将が)大卒の左右に従って居並んだ。」と記されている。史記の以上の文から、この場面の大卒は諸国の軍を統括した大将軍で、大卒は周の武王の指揮下にはなかったと考えられる。

軍の編成単位を示す言葉から、大卒という名称が生まれたとしても、「率」と「卒」は意味が通じる場合があり、史記が使った大卒という言葉は、むしろ大率と記す方がふさわしい。従って諸国軍を率いる大将軍を意味する言葉が、何処かの時期に「大率」に固定されたから、倭の制度として取り入れられたと考えられる。少し穿った見方をすると、大率は稲作民の制度として知られていたから、司馬遷の指示により稲作民の歴史を抹殺する為に、史記の編纂作業者が原典から転記する際に、雑穀民も使っていた大卒という熟語に書き換えた可能性もある。

史記の周本紀に「大夫」が3回現れるが、「大卒」は周初のこの2回しか使われていないから、古い用例である事は間違いない。周は漢民族集団の酋長を封建領主としたから、その封建制の中で、「大夫」は封建諸侯の重臣を意味する一般的な存在になったが、周王が外征する場合に、周王が率いたのは諸侯や直属軍だったから、周と同格の国の諸軍を率いるという事態はなく、同格の諸国軍を統率する大率が活躍する場は、周代の華北にはなかったと考えられる。従って周代以降の漢民族の歴史記録に、大率が登場しない事に違和感はない。

魏志倭人伝は、邪馬台国時代の「大率」は伊都国に統治の役所を置き、諸国を統括していたと記しているが、「大率」の説明の次に、朝鮮半島諸国や魏の使者の持参する物品を、港湾臨検する話が続いている。その文章の継続性は、大率が朝鮮半島諸国との外交実務も職掌していた事を示唆し、半島の軍事を指揮するだけでなく、半島の統治にも関与していた可能性が高い。

以上を纏めると、「大夫」、「大率」の制度と役職名を倭の制度として取り入れたのは、遅くとも周代(BC11世紀~)だった可能性が高まる。その時既に倭人は漢字を知っていたから、後世の中国人にその役職名を漢字で示し、それが史書に転記されたことになる。既に上に述べた様に、九夷の指導者だった家系が伊都国の王だったとすると、九州は「九夷の洲(島)」を意味し、大率は夏代に生まれた職制だった可能性が高まる。

旧唐書倭国伝の記載に戻り、「其の王の姓は阿毎(あめ)氏。一大率を置き、諸国を検察する。皆これを畏附する。」について検討する。唐書では「其の王」と記されているが、話の展開を平易にするために、以降も「倭王」に統一する。

唐の使者も旧唐書の著者も、皇帝専制しか知らない中華人だったから、倭国王と大率は役割を分担する並列的な機能であるという概念は、理解できなかったと考えられる。「一大率を置き」の「置」は、役職や機関を設ける意味だが、千年も続いた倭人の「大率」という役職を、東鯷人の倭王が「置」いたと記すのは不適切になる。魏志倭人伝にもその様に記されていたから、唐の使者が報告書にそれと同様に記し、旧唐書の著者がそれを転記し、魏の使者も唐の使者も旧唐書の著者も、倭王が上位者として大率を任命したと考えたから、旧唐書の著者は倭王が朝貢しなくなった時点で、倭国伝を閉じたと想定される。

しかし大率は倭王の下僚だったのか、役割が違う同格者だったのか明確ではない。中華の王朝に対する外交では、倭国王は倭を代表する権力者である様に振舞ったが、内政に関しては、江戸時代の幕府と朝廷の様な関係だった可能性が高いからだ。

此処で唐突に、江戸時代の制度を持ち出す事に違和感があるかもしれないが、これには訳がある。倭人諸国は「各々統を継いでいた」(後漢書)事が、諸藩と似ていただけではなく、他にも理由がある。

小国分立制を採用していた倭人体制が、飛鳥時代末期に打倒されて中央集権制になり、中央から任命された国司が地方を統治する時代になると、魏志倭人伝から始まる歴代史書が記す様な、「盗窃せず、争訟が少ない」習俗は崩壊し、奈良・平安時代に日本列島の治安が乱れた。鎌倉・室町幕府が出来ても守護大名は、国司の様に中央から任命されたから、中央集権制を基本とする政体に変わりはなかった。戦国時代になって在地勢力が台頭し、中央集権制の残渣が一掃され、江戸幕府によって在地勢力と認定された各藩は、倭人時代の小国と同様に政治・経済が自立した地域政権になった。特に外様大名は、完全に倭人時代の状態に戻ったと言えるだろう。その様になった日本に平和が戻ったのは、倭人時代の価値観を維持していた日本人に、倭人時代の習俗や発想が許される制度になったから、各地域のフラストレーションがなくなったからだと考えられる。言い換えれば、中央政権から任命された地域の事情を知らない中央官僚から、地域の実情を無視した画一的な指示が出される状況が、江戸時代に解消したからだと考えられる。その様な官僚達は、地域のために働かずに私腹を肥やし、それを中央の高級官僚に上納したからだと考えられ、民衆がそれに反発した根拠は、倭人時代から継続していた地域の主体性を、神社を中心とした地域住民の座や、職業別の神人が組織した座によって、守っていたからだと考えられる。

従って日本で独自に生まれた江戸時代の封建制度から、倭人時代の制度を推測する事に意味がある。海を隔てて大陸から隔絶されていたから、その様な事になったとも言える。

史書が記す倭国王は、倭人諸国を代表して中華王朝に朝貢したが、倭は魏志倭人伝が示す様に、東南アジアの島嶼の海洋民族と文化を共有していたのだから、交易もそちらが主であり、それらの海洋民族と外交を行う傍ら、中華とも交易を行っていたと考えるべきだろう。それを王朝組織しか知らなかった中華王朝から見れば、倭国王は皇帝の様に日本を統治していたと錯覚したかもしれない。倭国王が倭をどの様に統治したのか示している史書はなく、大率が倭人諸国を統治していたとする記述だけがある事に着目する必要がある。隋書に記された倭王の統治は、「夜が明けないうちに政(まつりごと)を聴き、その間、胡坐をかいて座っている」というものだった。卑弥呼は非常事態の倭の統治者として諸国王や群臣の意見を聴かずに、「ただ一人の男がその辞を伝えていた」が、港湾臨検を行っていた大率から、交易に関する情報は逐一得ていた。

従って倭人諸国の統治は大率が行い、倭国王の主務は、海外交易の統制だった可能性が高い。交易立国だった倭人諸国にしてみれば、各国に海外商圏を割り当て、交易の利害関係を調整する事は、農民政権が領土を安堵する事と同じ行為になり、倭国王がその権力を保持すれば、農民社会の王や皇帝に似ていたと言えるだろう。

倭国王の機能は海外商圏の配分で、大率の権能が商品生産を行っていた諸国の統治だったとすると、飛鳥時代末期に大率が台頭した理由を説明できる事が、逆説的ではあるが、上記の可能性が高い事の証明にもなる。

この証明には経済用語が必要だから、現代企業の活動形態からそれを借用する必要がある。それに従って倭の商工組織を現代風に言えば、倭国王は販売を統括したが、生産を統括する権限はなかったと想定する事になる。倭人の移民事業が行き詰った段階で、販売網の組織化に優れていた倭人が、自己完結的に活動する事ができた事業から、物品を販売する交易事業に転換する必要が生まれたが、倭人諸国の中には適当な物産がなかったので、生産物の配分が交易の重要な統括行為になり、生産事業に優れた東鯷人に政権が移ったと考えられるからだ。漢代から引き続き訪問販売が行われ、各国に割り当てられ販売地域としての商圏が固定化していたとすると、その配分を行う倭国王の統治力より、販売地域に持ち込む商品が不足したから、その配分に強い権限が必要になった事を意味する。この時代の重要商品は、大陸の貴族の奢侈品に傾斜していったと考えられ、それを隋書は「倭には珍物」が多いと記し、新唐書は「(倭には)怪珍あり」と記している。この場合の「珍」は、単に珍しい物を指したのではなく、財貨となる工芸品を意味している。

漢代の中国の貴人が購入した、邪馬台国連合が産出した奢侈品は、それほど多様ではなかったと想定される。魏志倭人伝に記された邪馬台国の物産は、錦、絹布、真珠、丹などで、邪馬台国では採取できなかった珊瑚、瑪瑙、琥珀などを素材とした工芸品は、他国の物産だった。これらの交易品を販売する事により、どの程度の収益が上がったのか明らかではないが、弥生古墳が際立って大型化した岡山や出雲の経済力は、生口交易で得られたと想定されるから、古墳時代に大型古墳を造営した経済力と比較すると、弥生時代の工芸品から得られた収益は微小だったと考えられる。しかし古墳時代前期に、移民事業から莫大な収益が上がり、その経済力に浸ることに慣れてしまった倭人諸国は、移民事業を失った後にもできる限りの経済力を維持しようと足掻き、高度な奢侈品の販売に走ったから、その様な物品が生産できる東鯷人に、主導権を握られる様になったと考えられる。

唐代に生産された「怪珍」の代表は、南西諸島で産出する夜光貝を使った、螺鈿細工だったと考えられる。正倉院に保存されている珍奇で精巧な家具類や、中国地方で製造した刀剣類も、「怪珍」だった可能性があり、それについては次節で検証する。

東日本で産出した琥珀も、東鯷人の工芸品工房に送られたと想定されるが、東日本の倭人国の主力輸出商品だったのは、オホーツク海沿岸のアザラシの皮の敷物や、シベリア産の高級な毛皮を加工した、衣類や寝具だったと考えられる。倭人について考察する場合に輸出品に着目するのは、倭人諸国は、海外交易によって稼いだ利益で政権を維持していたと考えられるからだ。

上記の説明で、この仮説の整合性が確認できるが、東鯷人社会の中で倭王と大率の力関係が微妙に変化した事も、この仮説の延長線上で説明できる事は、この仮説の妥当性を高める。つまり東鯷人の生産に交易が依存し始めた古墳時代中期には、生産中枢は飛鳥だったが、古墳時代後半期になると、奢侈品の生産中心が奈良盆地から出雲に移行した事が、考古学的な発掘から分かっているからだ。これによって倭国だった飛鳥から、大率の国だった出雲に権力中枢が移転し、出雲の大率に政治的な諸権力が集中したと考えると、この時代の歴史の流れと整合し、古事記が出雲の大国主を最大の権力者とし、飛鳥の倭王をその子の事代主とした事と合致し、この推論を確からしくする。従って証明は逆説的だが、時代を遡った漢代以降の、大率と倭国王の職掌分担を類推する事ができ、それが上記の様なものだったと考えられる。

従って古墳時代前期までの大率は、伊都国で国内統治と朝鮮半島の軍事を統括していたが、古墳時代の後期に大率が東鯷人に変わると、交易品の国内生産と配分を統括する役割に変わり、飛鳥時代に国内最大の生産者でもあるという状態になり、倭人諸国への配分権限を高め、倭人諸国を経済的に支配する状態になったと考えられる。

以上の話を敷衍すると、古事記の継体天皇紀に記された、「この御世に筑紫の君石井、天皇の命に従わず、礼無きこと多かりき。物部荒甲の大連、大伴金村連の二人を遣わし、石井を殺したまいき。」が意味するのは、単に石井に仮託された伊都国の大率が、朝鮮半島から撤兵する事に異を唱えたのではなく、それまでの倭国王の指名権を伊都国の大率が持っていたから、倭国王から委任された東鯷人の王を、倭王に指名する事を拒んだ可能性が浮上する。つまり礼無きこと多かりきとは、伊都国の大率が東鯷人の倭王を認めなかった事を指し、それ故に誰かに殺された事を暗示したことになる。その150年後に壬申の乱が発生し、東鯷人の倭王と大率が殺されると、天皇に即位した天武は、再び伊都国の大率の指名を求める事になったが、系譜が絶えていたので古事記が伊都国の大率を応神天皇に仮託し、応神天皇を祭る宇佐神宮を設立してその神官が代行したから、代々の天皇を宇佐神宮が指名する伝統が生まれ、和気清麻呂が活躍する素地を作った事になる。実務の最高指導者をその上位権限が認定する日本独特の仕組みは、九夷の指導者だった大率が、倭国王を指名する事から始まった事になり、その初代倭国王が古事記により、神武に仮託されたと想定される。

 

2-3 飛鳥時代の倭の産業構造

正倉院に収納されている手間暇掛った奢侈品の殆どは、飛鳥や出雲で生産された可能性が高い。現在の認識として、それらの一部は日本製である事が確認されているが、確実に日本製であると分かるもの以外は、日本書紀史観を主張する似非史学者により中国産だったと主張されている。しかし実際に中国産だったと証明できているわけではなく、その証拠を大陸で見つける事は困難である事を前提に、無前提に決め付けられている現実がある。例えば顔料などを分析し、一部の顔料は日本独特の顔料だったとしか考えられないという理由で、日本産だったと認定されているが、中国産だと考えられている顔料も日本で製造できた可能性もあるし、よしんばそれが中国産だったとしても、顔料が輸入できなかった筈はないが、その様な事に言及する事は許されないかのように、慎重に日本産である事が確認されている。

いずれにしても、保管されている物品の総てが日本産だったと主張する必要はなく、その多くが日本産だったのであれば、日本の産業構造を推測するには十分だ。仮に日本産が半分以下だったとしても、その様な物品に適した保管方法を開発し、輸入品や自家開発品の保管庫を建造して集中管理する発想そのものが、製造者に特有のものである事に気付くべきだろう。自国にある程度の産業基盤がなければ、精巧な工芸品を蒐集する事に、多大な価値を見出す発想は生まれない。現代日本にも、その価値と保管方法を知っている嘗ての製造者が、その様な骨董的な製品のコレクションを持っている例は多々あり、それが製作に従事する集団としての素直な心情の発露だからだ。故宮博物院にしても、保管されている作品は宮廷工房で製作されたものが多く、海外から集めた価値が測れない珍奇な物品ではない。

倭人の生産活動の推移を検証すると、弥生時代末期の状況が魏志倭人伝に記され、邪馬台国の物産として絹布や真珠などが記されているが、毛皮や皮革は記されていない。しかし邪馬台国連合は、毛皮や皮革を商っていた高句麗を極度に敵視していたから、邪馬台国連合の諸国がそれらの商品に対して販社の役割を担っていた事は間違いなく、その様な地域特産的な産業構造は、自給自足的な生産形態より進化した状態だから、飛鳥時代にもその基本は引き継がれていたと考えられ、飛鳥時代にはその発展形に至っていたと考えられる。毛皮・皮革に限らず、螺鈿細工や象嵌した刀剣類に至るまでの、繊細であったり精巧であったりする故に高価な商品を生産するには、販社を作る事とは比較にならない、高度な技術統合や原材料の仕入れ組織が必要になる。従って付加価値が高い商品の生産は、万単位の戸数を抱えた大国でなければ難しく、倭人諸国が100国余もあり、その多くが数千戸の国々だった事は、数千戸の国々を含む殆どの国は、販売に特化した国だったと考えられ、倭には販売組織が100社以上あったと解釈される。

海洋民族としての倭人の操船技量は、当時の東アジアでは希少価値がある技能の一つだったから、日本列島内でも倭人はそれに優れた集団で、東鯷人より造船や操船技量が高かったから、中華では倭人が知られた存在になったと想定される。その倭人が、古墳時代後期に政権を東鯷人に委譲したのは、操船技能を最大限発揮できる移民事業が終息し、倭人が活躍する交易の場が失われたから、奈良盆地や出雲に工房を持っていた東鯷人の奢侈品の生産技能に、期待したからだと考えられる。それらの工房の作品が弥生時代末期の商品の様に、生産技能の優位性示すだけの単なる量産品だったのであれば、海洋交易に優れた倭人の販社が、その商品を大陸に拡販するだけで良かったが、東鯷人が制作技量に優れた事を以て、飛鳥時代の交易を差配していた事は、その時代の産業構造が、生産者が販売に参加する段階に至っていた事を示唆している。

その様な産業構造は極めて現代的だから、この想定は不適切だと感じるかもしれないが、この時代の交易が高級な奢侈品に特化し、それ故に数が少ない富裕な貴族の需要に特化した結果として、産業構造が疑似近代化したと考える事はできるだろう。具体的に言えば、職人が注文によって生産する事は当たり前だが、同じ地域の貴族の需要に応えたり、同じ国の需要に応えたりするのではなく、大陸の貴族の需要を日本の職人が賄うという、需給が広域化した事が、疑似近代化が起こった第一の理由で、それが日本列島の経済を支え、倭人総掛かりで組織的に取り組む事により、日本列島が産業国家化した事が、第二の疑似近代化が起こった理由になる。但し第二の理由は継続的なものであり、東鯷人の存在が優位化した事は、それがより組織的に行われる様になったと解釈すべきだろう。

それを物質的な観点で見直すと、邪馬台国は上質の絹布や真珠・白珠・ヒスイ珠を特産品としていると魏志倭人伝に記され、汎用品的な要素が高い物品が羅列されている。高句麗は毛皮や皮革の販売で繁栄していたと想定され、それと競合していた西日本30国も、それなりの利潤を上げることができた筈だ。しかし飛鳥時代になると、隋書が示す「珍物」はまだしも、唐書が記す「怪珍」に至り、東鯷人の高度な技能に期待した商品に至った事は、工芸品はそれらより多くの利益が期待できた事を示している。絹布は中国でも産出し、毛皮・皮革には強力なライバルとして高句麗があったが、注文生産的な工芸品には競争者がいなかったから、利益率が高くなり、倭人も東鯷人もその様な高額奢侈品に注力したと考えられる。その仕組みを一言で言えば、倭人の海運力が遠く離れた貴族と職人を結び付けたと想定される。

倭人諸国は、元々は生産者から物産を仕入れて中国の貴人に売り込む、単純な物流機能を担っていと考えられ、その時点で既に倭人各国は、中国各地の異なる言語に対応する販売網を構築していたと考えられ、その際の倭国王の重要な役割は、大陸の民族地域毎に倭人諸国の商圏を設定し、商品毎の販売価格を統制する事だったと考えられる。倭人国同士が競合し、値崩れを起こす事は避けねばならなかったから、それに関する倭国王の機能は極めて重要だった。それを現在の商行為に例えると、ブランド品に関する各販社の商圏設定と、各販社に強制する販売価格の統一化に比定する事ができる。各販社が売り上げノルマを課されたり、異なる資本の販社が独自に利益の最大化を求めたりする場合には、価格をディスカウントして拡販に走る事は珍しくないから、適正価格を決めてそれを統制する事には、強力な統制力や強力なルール化が必要になり、ルールを決めたり守らせたりする事にも、強力な統制力を必要とする。

その様に組織化された販社機能を有していた倭人が、商品の生産者だった東鯷人に倭の統治を任せたのは、奢侈品の産業構造が、市場調査を必要とするレベルに至っていたからだという事になる。これを現代的に言えば、生産量が主要課題になる農産物や鉱産物は、1次産品と呼ばれる商社が主体的に扱う商品だが、2次産品と呼ばれる高度な工業品の販売は、生産者が主導権を握るという法則がある。工業製品の販売には、取り扱いに関する知識だけではなく、付加価値としての追加機能が、販売量と販売価格にどの様な影響を与えるのかを把握する、マーケティング活動が必要になる。大量生産品の一部が、横流し的に各地に販売される事はあっても、主要な市場の動向を把握しなければ、工業製品の生産と販売はできないからだ、従って高度な工業化の段階に至ると、販売組織も生産者側の必須機能になり、商品開発や生産を行う組織の下部組織になる事が一般的になる。それを分かり易く言えば、日立製作所という名前の会社にも強力な販売部署はあるが、三菱商事には特徴的な製造部門はないという事になる。

その様な奢侈品の販売数量を安定させるためには、製造工程の煩雑さや、各工程に従事する職人の数や技量を知り尽くした者でなければ、数量如何に拘わらず、商品を受注したり生産を指示したりする事ができなくなる。その様な環境下では、腕の良い職人の生産力の限度によって需要に応じ切れなくなると、各販社が生産力を奪い合う状況が生まれるから、その様な競合には絶対者の調停が必要になり、この絶対者の調整行為を専門用語で「配分」と呼ぶ。奢侈品の生産と販売に「配分」を勘案すべき事情が生まれると、海洋性は劣っていても「配分」を実施できる東鯷人から倭王を輩出する状況が生まれ、古墳時代後期に東鯷人の倭王が誕生したと考えられる。従って弥生時代までは、商圏を配分する機能が重要だったから、倭国王が権威を持っていたが、その様な時代から、生産者と販社の「配分」を調整する東鯷人の倭王や大率が、重視される交易構造に変わったと考えられる。従ってこの段階で、倭王と大率の機能は類似したものになったと想定される。

この状態になると、販売組織は物流機能に転落してしまう事は、容易に理解できるだろう。特に高級な奢侈品を生産する場合には、製造職人が需要者と何度も面談する必要があったと考えられ、職人を統括していた者が多数中国大陸に渡航し、中華の富裕な貴人が大金を払っても入手したい奢侈品を、その選定眼で決定する事により、日本で職人が商品を生産できる状況になったと想定される。極め付きの権力者から、超高級品を受注する事ができれば、中流の貴族にその廉価版を販売する事ができたと想定され、職人と発注者が、その超高級な機能を決める必要があっただろう。大陸の権力者との、紙面による交流も盛んに行われたと想定され、唐の使者が倭国に漢字が溢れていると感じたのも、この様な事情が飛鳥に生まれていたからだと考えられる。これを市場側から見ると、唐の社会は極度に富裕な権力者と、圧倒的に多数の貧しい農民や商工業者により構成されていたと想定され、それが中華的な王朝統治の特徴だったと考えられる。

それを考古学的に検証すると、古墳時代中期には、奢侈品の生産中心は奈良盆地だったが、古墳時代後期になるとそれが出雲に移行した事が、考古学的な発掘から分かっている。その事実は、「配分」権限が倭王から大率に移行し、日本列島の統治が実質的に飛鳥から出雲に移行した事を示している。それを東鯷人の産業史として捉えると、縄文早期に始まった北陸の磨製石斧産業が、縄文中期にヒスイの加工産業を生み出し、宝飾品産業のバックグラウンドを形成したから、元々東鯷人はその様な産業の先導者だった。出雲では水晶と瑪瑙が産出し、それを素材に勾玉や管玉が作られていたが、古墳時代前期の飛鳥では、巨大古墳を遺した大阪湾岸の難波勢力が、移民事業で莫大な利益を上げていたから、彼らを顧客とする消費地立地型の加工産業が、発達する環境が整えられていた。しかし移民事業が古墳時代中頃に終了し、奢侈品の消費者が大陸の豪族に代わると、元々産業基盤が堅牢だった出雲に産業中心が移転する事は、必然的な流れだったと考えられる。

古事記の国譲り説話で、天孫族が出雲の大国主に、葦原中国(あしはらなかつくに)を返せと迫ったのは、その様な背景があったからだと考えると、歴史の流れと産業分析が一致する。飛鳥倭王を表象していると考えられる「事代主」が、大国主の子として描かれているのは、産業中心が出雲に移転した事情を反映していると考えられ、古事記はこの時代の経済情勢を反映している事になる。人口は畿内の方が多かっただろうから、日本列島が経済事情に支配されていた証拠にもなるだろう。

古事記は、統治者としての大国主を「うしはける者」と記し、新しい統治者が「知らす」国にするのだと主張し、大和政権を樹立した正義を示している。「うし」は「主」の訓読みで、「はく」は身に付ける事を意味するから、「うしはける」には「重要人物が多くのものを取る」と云うニュアンスがある。「知らす」は現代にも「県知事」の用例があり、中央集権的な秩序、或いは代表制的な秩序を示している。ブランド品を主体とする交易では、それに携わる一部の者に利益が集中し、甚だしい富の偏在が生まれ易い事や、農業生産者や日用品の生産・販売者から見ると、彼らがどの程度の利益を上げているのか皆目見当が付かず、社会的に薄気味悪い存在である事は、現代人にも容易に想像が付くだろう。従って大和政権を樹立した思想は、近代の市民革命や共産主義革命の精神を、彷彿とさせるものだったと考えられる。

この様な背景を勘案すると、古事記の神話は事績を変形しながら、事実の片鱗を確かな言葉で伝えている事が分かる。この様な民衆に支えられて革命を起こした天孫族の主張は、海外交易を重視する偏った社会と決別し、内需を重視する統一政権への転換だったのだが、その詳細は(13)飛鳥時代参照。

以上の想定に直接的な証拠はないが、考古学的な発掘事情や史書の内容とこの仮説が整合するから、確度は高い。その様な間接的な推測だけではなく、より確実な証拠として、日本書紀に記された17条憲法が挙げられる。17条憲法という言葉の初出は、平安時代初期に成立した先代旧事本紀にあり、聖徳太子が制定したと主張している。聖徳太子の人物像としては、生産が拠点の地位を奪われた飛鳥の、王子だった可能性がある事を先述した。

17条憲法は官僚の心得とされているが、現代企業の社内規約としても遜色がない高度な組織論であって、農民を統治する王朝官僚には必要がない、企業倫理を濃厚に含んでいる。王朝統治に専念していた中華には、絶対に存在し得ない思想だった17条憲法を、中華を規範とした奈良・平安王朝が生み出した筈はなく、17条憲法の精神を現代企業風に焼き直したものをこの項の末尾に掲げ、その先進的な内容を示すから、それを参照して、産業化した社会に特徴的な規約が多分に含まれている事を、実感として判断して頂きたい。但し此処で云う産業化した社会は、科学技術的な機械化が進んだ社会ではなく、商品の生産が分業化した状況を指す。その様な社会の人々は、専門の職人が作り出した商品を、対価を払って使う事により、生活を豊かにした。この表現は消費者視点だから、物品の生産者側から見ると、その社会には各種の職業人がいたから、特定の職業の専門家がどの様に生まれるのか、人々が理解している社会だった事になる。古代の職業は世襲的に継承されたと考えられるから、職業の選択に関わる問題より、優れた人材を育てるために組織はどの様にあるべきなのか、明らかにする事が、古代の産業社会の課題だったらしい。

17条憲法は、大きな職能集団の規約を下敷きにして、官僚の規約に翻訳したと考えられ、その内容から、当該社会の発展度合いを読み取る事ができる。その観点で17条憲法を見ると、多くても数人で運営する村の鍛冶屋ではなく、螺鈿細工や絵付き漆器の製作工房の様に、複雑な工程を持った集団の徒弟制度が想定され、高度な産業社会でなければ、到達できない認識に基づいた規約に見える。この規約ができたのは、飛鳥時代の飛鳥や出雲だったと想定され、それを転写して効率の良い官僚組織を形成した可能性が高い。

宋史に記された「年代記」の転写の中に、用明天皇の皇太子だった聖徳太子を、優れた人物とした記述がある。古事記の用明天皇紀に、「稲目大臣の娘を娶って上宮之厩戸豐聡耳命(うえのみやのうまやとのとよとみみのみこと)が生まれた」と記されているから、それと合致している事になるが、古事記を素直に読むと、上宮之厩戸豐聡耳命は天皇になった人になる。古事記がこの時代の天皇の子に「命」を付与したのは、やがて天皇になった人に限定されているからだ。古事記の著者は推古天皇紀を最後に筆を置いたから、この皇子が死んだ後に、どの様な諡号が贈られたのか記していない。つまり古事記は、上宮之厩戸豐聡耳命が天皇である時代に、編纂された史書であるという体裁を取っている。

江戸時代までは先代旧事本紀が、古事記より信憑性が高い書籍であると考えられていた。先代旧事本紀は「年代記」に先行した書籍で、先代旧事本紀の序に、「推古天皇の治世二十八年に、摂政の上宮厩戸豊聡耳聖徳太子尊が編纂を命じ、大臣蘇我馬子宿祢が撰定したが、推古二十九年に太子が亡くなったので、三十年に未完のまま世に出す。」と記されている。先代旧事本紀は物部氏のために、既に配布されていた古事記を改訂したものだから、やはり推古天皇まで記載して終わっている。

古事記の推古紀には、天皇の家系譜しか書いてないが、先代旧事本紀は、「崇峻天皇が大臣馬子宿祢に殺されたので、推古天皇が即位して厩戸豐聡耳皇子を皇太子とし、摂政として国政をすべて任せた。皇太子はみずから十七条憲法を作った。推古十五年、大礼小野臣妹子(おののおみいもこ)を大唐に遣わし、二十二年に大仁矢田部御嬬連公(やたべのみつまのむらじきみ)を正使に、大礼犬上君御田鍬を副使として大唐に遣わした。」と記している。古事記が著述されたのは、東鯷人の政権を倒してから間もない時期だった上に、倭国王の年代記を下敷きにしたから、東鯷人の倭王だった時代の天皇の帝紀には、継体天皇紀に石井の乱を記しただけで、それ以外の天皇には系譜以外の記述はない。しかし先代旧事本紀が生まれたのは、古事記が著述されてから100年以上経ち、人々の記憶が薄れた時期だったので、東鯷人の天皇紀にも少し筆を入れる事にして、推古紀に聖徳太子に関する記事を大胆に記したと想定され、古事記とは異なった意思が働いていた事になる。言い換えると、奈良時代を支配した持統天皇系譜が排斥され、別系譜の天皇が誕生するに際し、朝廷と物部の間に協調路線が生まれた事を示唆している。

先代旧事本紀が生まれたのは、新唐書が成立する以前だったので、新唐書に日本紀の内容が転記されるとは予想せずに、推古天皇の時代に聖徳太子が遣隋使を派遣したと記した。しかし日本紀を転記した新唐書には、最初に遣隋使を派遣したのは用明天皇だと記されている。先代旧事本紀は、遣隋使と記すべきところを「大唐に遣わした」と記している間違いがあり、日本書紀も同じ間違いを犯している事から、日本書紀はその多くの出典を、直接間接を問わず先代旧事本紀に求めた事が分かる。古事記については、藤原不比等の強い影響下で原古事記を改訂したから、国譲りは鹿島の健雷神(藤原氏の守護神)が単独で行った様に訂正されたが、日本書紀では原古事記に戻ったかの様に、国譲りは香取の経津主神(物部の神)が主体で行い、武甕槌神(健雷神)は付録だった様に描いている。これも先代旧事本紀に出典があり、藤原不比等によって政界から追放された物部の恨みが、滲み出ていると言っても良いだろう。

以上を纏めると、日本書紀が記す聖徳太子と17条憲法の関係は、物部氏が編纂した改訂古事記とも言うべき、先代旧事本紀によって成立した事が分かる。但し先代旧事本紀には、17条憲法の条文は記されていない。既に官僚の心得として配布されていたから、改めて先代旧事本紀に記す必要は、なかったからだと考えられる。

以上の事柄を更に深読みすると、香取勢と鹿島勢を中核とした関東の物部を率い、壬申の乱に勝利した関東起源の原天武は、物部を主体とした統治政策を推進したが、695年の政変によって西の倭国王家(持統天皇系譜)に天皇位を簒奪され、その系譜と藤原氏によって物部は政界から追放され、大和朝廷は農民を重視する政権に変質した事と整合する。つまり持統天皇は関東系譜の天皇だった原天武の妻ではなく、天智の弟の妻だった。年代記には、天智の弟は天武だと記されていなかった可能性が高い。

大和朝廷の統治が行き詰まって平安王朝に代わったが、通説ではその理由は明らかになっていない。しかし以上の経緯から判断すると、平安王朝は物部と妥協して商工業を重視する姿勢に転じ、統治思想を物部の組織力の移転に頼ったから、物部が家訓としていた規約を17条憲法に改編し、平安朝の官僚統治の心得にした構図が浮かび上がる。それによって勢い付いた物部が、物部にとって不都合な書籍だった改訂古事記を再度改訂し、先代旧事本紀を作成したと想定される。これにより、古事記は江戸時代まで埋没させられ、先代旧事本紀を正統とする風潮が生まれたと推測される。この王朝の交代劇に際し、和気清麻呂が応神天皇を祭った宇佐八幡宮の神託を受けた事は、古事記が応神天皇を、伊都国の王だった大率の生まれ変わりであると示唆している事から連想すると、宇佐八幡宮が天皇系譜を認知する上位者だったと想定されるが、それは東西倭国王家を識別する様な、大変更に限定されていた可能性が高い。従って弓削道鏡を天皇にしなかった選択の裏で、持統天皇系譜に代えた光仁天皇に関する確執があり、それは物部の支援によって壬申の乱を勝ち抜いた原天武系譜の、復帰議論だった疑念がある。明治維新は原天武の方向と一致していたから、慣例に厳格な京の貴族が御所の東京移転に大反対しなかったのも、それに起因していた疑いがある。

平安王朝は年代記を作成するにあたり、先代旧事本紀から多くの説話を取り込み、そこに聖徳太子が特記されていた事を宋史が示し、平安王朝と物部の提携の強さを示している。しかしそれは新唐書が成立していない時期だったから、新唐書の著者は、唐朝に提出された日本紀と宋朝に提出された年代記の、両方を閲覧する事ができた状態で、新唐書は日本紀を参照した。唐に提出された史書を参照する事が、史家としての筋である事は言うまでもないが、唐書には、その出典は大和朝廷が提出した日本紀であると注釈されていないところに、新唐書の著者の限界が感じられる。新唐書を読んでいた宋史の著者が、宋史に年代記を転記するにあたってその出典を明らかにしたのは、新唐書の執筆姿勢に疑問を感じたか、年代記を提出した日本人が、先に提出した日本紀には誤りがあると言ったかの、何れかになる。

以上の解説により17条憲法は、物部の家訓を原記として創作された聖徳太子と結び付き、物部と連携した平安朝によって官僚の心得に転換された事情を朧気ながら推測し、そこから生み出される飛鳥時代の産業社会像から、倭人から東鯷人に政権が移譲された事情や、東鯷人の政権内で飛鳥から出雲に産業中心が移行し、東鯷人政権の指導国が飛鳥から出雲に移行した事情が理解できるだろう。

 

2-4 百済滅亡前後の、朝鮮半島の情勢 (旧唐書の百済伝を赤字で、新羅伝を青字で、高句麗伝を茶字で記す)

高句麗は平壤城を都とし、平壤城は漢の楽浪郡の故地にあり、京師(長安)の東五千一百里にある。東に渡海すると新羅に至り、遼水を西北に渡ると営州(遼寧省朝陽市)に、南に渡海すると百済に至り、北は靺鞨。東西三千一百里,南北二千里。

高句麗王の称号は上柱国、遼東郡王、高麗王

高句麗は白族の民族国家になり、北方の物産を華北に販売する交易国家として繁栄していた。

「平壤城は漢の楽浪郡の故地にあり」としているので、平壤城は現在の平壌(ピョンヤン)にあったと錯覚するが、新羅王が楽浪郡公なので、この平壤城は大同江流域ではなかったと想定される。隋書は平壌城に都があり、東西六里で南は浿水に臨む。と記しているから、鴨緑江の北側の、丹東近辺の平坦地に都があったと想定される。旧唐が平壤城浿水の北に在ったと記していないのは、旧唐書の著者には、平壤城の位置が分からなかったからだと推測される。新唐書は、「高句麗の都は浿水の北にあった」と記し、浿水を大同江としている様だが、平壤城は時代によって変遷した疑いがあり、新唐書は時代を無視した文献参照により、この様に記した疑いが濃い。高句麗の旧都だった丸都は山岳地帯にあったから、農地のある平地に置いた拠点=旧楽浪郡内=平壤城だったと推測され、唐は成立時から高句麗に警戒され、使者が平壤城に招かれた事がなかった疑いもある。

新羅は、漢の時代の楽浪之地にあり、東と南方に大海があり、西に百済と接し、北隣は高麗。東西千里 南北二千里。王は金城(慶州)に居す。

新羅王の称号は、柱国・封楽浪郡王・新羅王

新羅は朝鮮半島最大の領土を有する国になっていたが、多民族国家だった。

新羅も楽浪の故地にあり一見矛盾しているが、新羅王が楽浪郡王だから、楽浪郡衙があった大同江流域は、新羅が領有していたと考えられる。

新羅は製鉄集団として、最も文明化していた弁韓人を基盤とし、古墳時代前期にはその支配下に、漢民族系辰韓人と江原道の白族がいたが、古墳時代中頃から漢江流域の漢族や、大同江流域の白族も支配する、多民族国家になっていた。古墳時代前期に新羅城を拠点としていた弁韓人は、古墳時代後期に慶州には移動していたたが、弁韓人の主流は洛東江流域に集住していたから、同族の弁韓諸国の中心に拠点を構えず、東の端を拠点としていた。隋書百済伝で、白族が加羅を弁韓人の中核国と認識していたらしい事から想像すると、慶州を拠点とした新羅の軍事勢力を加羅が経済的に支え、三つの民族の連合体的な関係を維持しながら、新羅が弁新人と白族を統治していた可能性が高い。新羅は唐と深く関与する様になっても、全員一致の議決を求める様な古い海洋民族的な習俗を色濃く残していたから、王の統治力が強かったとは考えられず、大率的な官職である宰相が小国連合を統治していた可能性が高い。

辰韓北部にあった新羅地域に居住していた白族について、魏志濊伝は、彼らは春秋戦国時代の箕氏朝鮮を構成していた人々だと指摘しているから、高句麗との同族意識は元から希薄だったと考えられ、魏志弁辰伝は、彼らが弁辰人から鉄の供給を受けていると記しているから、遅くも魏代には、高句麗ではなく弁韓人に従属していたと推測される。彼らが新羅に中核的な軍事力を提供したから、新羅城(白城)から慶州に移動しても、その弁韓人は新羅を名乗り続けたと想定され、その国名が連合国の名前になった事は、倭国を中心とした倭人国が「倭」を名乗った事情と、同じだったと考えられる。

百済は扶余の別種で、昔の馬韓の地にあり、京師(長安)の東六千二百里にある。大海(東シナ海)の北、小海(渤海湾)の南にある。東と北に新羅があり、西に海を渡れば越州(浙江省)、南に渡海すれば倭国、北に渡海すれば高麗に至る。

百済は高句麗の南下に対峙させるために、倭人が雇った傭兵集団で、扶余の遺民と、晋の滅亡時に楽浪に取り残された漢族で構成されていた。晋が滅んだ際には、楽浪郡の太守が扶余の遺民を傭兵したが、動乱期に主従が逆転して扶余系が王になった。しかし高句麗に圧迫されて古墳時代前半に漢江流域に南下し、古墳時代中頃に漢江流域を高句麗に制圧され、支配階級は馬韓南部に逃れたが、漢族農民は漢江流域に留まったから、阿利水と呼ばれていた川が漢江と呼ばれる様になったと考えられる。従って馬韓南部に逃れた百済は、支配階級だった扶余系と楽浪の官僚系で構成され、韓族農民を支配する脆弱な小国になっていたと考えられる。

唐代の百済は錦江流域を拠点としていたから、高句麗と百済の京師(長安)からの距離の差1100里(600㎞)が、両者の都の間の旅程を示し、直線距離はその2/3400㎞だったとすると、唐代の高句麗の都は鴨緑江より南の、清川江流域にあったと想定される。(百済は)西に海を渡れば越州と記しているのは、百済と交易していた海洋民族が、相変わらず韓族を越南に移民させていた様に見えるが、隋の統一によってその商流は閉ざされた可能性が高く、嘗ての地理観を示した表現だったと考えられる。百済の経済力を示す記述は、唐から見ると「凡そ諸賦と風土所の多くは高麗と同じ」しかないから、唐は鮮卑族の王朝になっても、交易によって国富を得るという認識は持ってなかった事を示している。隋書の記述から類推すると、この時代の百済は国富を得る手段を完全に失しない、宗像に海運を頼りながら、韓族が生産した絹布などを細々と販売していた可能性が高い。

漢江から大同江までは新羅の領地だったから、百済から高句麗に行くためには、船で黄海沿岸を渡航する必要があった。

600年代の百済は、飛鳥の倭王に南朝の仏教文化を賄賂として贈る事により、錦江流域の土豪として認めて貰うために王子を人質とし、その大義名分によって新羅と併存していたと推測される。飛鳥に百済大寺があったのであれば、その様な経緯から生まれたと想定される。但し百済に大寺を建立する経済力があったとは考えにくいから、倭王が百済伝来の秘宝や仏典を収めるために建立したと推測される。倭王が百済に南朝伝来の仏教文物を要求し、百済はそれを貴重な収入源としていた可能性もある。

日本の史家はこの時代の仏教を、先進文化の様に扱っているが、仏教に興味があったのは飛鳥の倭王だけで、百済の動機は不純であり、高句麗滅亡後に亡命した王族が、埼玉県の高麗郡に守っているのは高麗神社だから、高句麗の仏教導入も、北朝に対する政治的な動機だった可能性が高い。交易民族だった高句麗や新羅と、商業活動に興味を示さず、漢民族の伝統的な租税主義を踏襲していた唐と比較すると、唐の方が文明国だったとは、到底言えない状況だったと考えられる。

 

2-4 百済滅亡前後の、朝鮮半島南部の政治情勢 (旧唐書の百済伝を赤字で、新羅伝を青字で、高句麗伝を茶字で記す)

642年 高句麗の蓋蘇文が、高句麗王と貴族百余人を殺して実権を握った。

642年 (百済王)義慈は兵を興して新羅の四十余城を伐った。 又兵を発して之を守った。高句麗と和親通好し、党項城(漢江流域)を奪取し、新羅が(唐に)入朝する路を絶とうとした。新羅は遣使して急を告げ、救援を要請した。 太宗は両者を告諭すると同時に、高麗を親征した。百済は虚に乗じて新羅十城を襲破し、648年に其の十余城を破り、数年の内に遂に朝貢を絶った。

648年 (新羅王)真德は、其の弟の金春秋と其の子の文王を派遣し、唐に来朝した。(太宗は)詔によって春秋を特進させ、文王を左武衛将軍にした。 春秋が国学(館)を詣ることを望み、その儒祭と講論を観ることを要請すると、太宗は(皇帝専用の)温湯を使わせ、晋祠碑と新撰晋書(648年成立)を下賜した。帰国に際し、三品官以上を遇する宴を催して餞別とし、礼を尽くした優遇が甚だしいと(世間で)称された。

唐は二代太宗(626年~649年)が即位すると、新羅を優遇して百済を排斥する方針を明確にした。太宗は即位前から百済に悪意を抱いていた事が、梁書新羅伝や隋書新羅伝から読み取れる事を、隋書の項で指摘した。それを読んだ新羅が、百済に反感を募らせる様に仕向ける事が、その目的だった。太宗の百済への親書にも厳しさが現れているから、史書に限らず色々な手段でその目的が実現されていたと考えられる。それらは高句麗のクーデターの時期や、百済の離反時期と一致するから、高句麗や百済は唐の悪意を察し、唐の侵略を恐れて上記の行動に出たと解釈される。新撰晋書を下賜した事は、史書の役割も大きかった事を示している。唐のこの方針は、典型的な遠交近攻策だった。

大率はその策に乗った新羅を応援するため、648年に新羅女王の弟の遣使に親書を託し、650年頃に、新羅への援助を依頼するために唐に宝物を献上し、唐はそれに応えて高句麗を討伐した事は既に説明した。百済は唐の脅威に晒された高句麗と同盟し、唐に接近しつつあった新羅を攻撃した。

649年に唐の太宗が亡くなり、高宗の治世になった。百済は、それによって唐の政策が変わることを期待し、651年に唐に使者を派遣したが、高宗はその使者の帰還時に璽書を渡し、新羅に諸城を返還する事を要求し、それを聞き入れなければ契丹諸国の兵を動員し、東方に深く攻め入る用意があると百済を恫喝した。

655年 新羅王金春秋は表を提出し、百済と高麗・靺鞨が其の北界を侵略し、三十余城が奪われたと唐に訴えた。

660年、唐は将軍蘇定方に百済を討たせ、百済を大破して国王、太子、諸将を虜にし、唐の都に送った。百済の5部を唐の領土として5都督府とし、唐の官僚を熊津都督府(百済の旧都)の長官として唐兵を駐留させ、他の都督府は現地の有力者を首長にした。百済王は、唐の都に着いてから数日で亡くなった。百済の僧道琛(どうちん)と、将軍だった福信は衆を率いて反乱を起こし、使者を倭国に派遣して王子の扶余豊を迎え、王にした。百済の西部、北部、翻城がこれに応じた。

中国の史書を読むと、唐は窮地にあった新羅を救い、半島の秩序を維持した様に記しているが、唐の本音は隋と同様に、経済的に繁栄していた高句麗の富を強奪する事にあり、それを半島政策の究極の目的としていたと考えられる。その戦略として近攻遠交策を採用し、百済と新羅に接近したが、百済の無道に愛想を尽かして新羅に接近したに過ぎない。唐のその様な目論見は、百済滅亡後の唐の半島経営によって明らかになる。

高句麗が百済と同盟したのは、その様な唐の意図を察知したからだが、これ以降の倭のちぐはぐな対応は、倭王と大率の、半島外交に関する対立から生まれた内輪揉めだった。大率は唐と新羅の同盟に加担し、半島南部を新羅に統一させようとしたが、仏教に関して百済と同志的な紐帯があった倭王は、百済に同調的だった。倭人が仏教徒だった可能性は低く、大率時代の出雲に仏教が浸透していた証拠もないが、倭王の飛鳥だけがこの時代の日本列島の仏教国で、宗教を共有する百済と強い連帯感があったと想定される。鳥取に上淀廃寺跡(かみよどはいじあと)があるから、出雲にも仏教が浸透していた疑いもあるが、上淀廃寺の寺院は飛鳥時代後期(7世紀後葉)の建立だから、百済滅亡後に百済人が亡命入植し、建立した可能性が高い。

この時期の百済を倭王が支援し、新羅を大率が支援していたと想定されるが、半島と倭の複雑な関係はそれだけではなく、関東の倭人はそれとは別の理由で、高句麗と強い利害関係を持っていた。その証拠として、武蔵(埼玉県)高麗郡に高句麗王の子孫が定着し、現在でも高麗神社を運営している事が挙げられる。新選姓氏録に多数の高句麗系帰化人が登録されている事も、倭と高句麗の関係の深さを示しているが、西の倭人諸国が、商売敵の高句麗に接近した可能性は薄い。彼らは古墳時代前期に高句麗と厳しく敵対し、彼らを統括していた難波の倭国王は、宋に提出した表で高句麗への敵意を示したから、時代が経過して飛鳥時代になったからと言って、高句麗移民を受け入れたとは考え難いからだ。王族を含む亡命者が帰化したのは、高句麗の滅亡時だけだったと想定されるから、高句麗が滅亡した短期間に、多数の帰化人が日本列島に渡った事になるが、出雲の大率や西日本の倭人国が、王族を含む高句麗移民を受け入れたとは考え難く、高句麗滅亡時に関東の倭人と高句麗だけが、親和的な関係だったと推測される。その様な関係が生まれたのは、北方の物産の交易に関する、複雑な事情に依ったと想定される。

関東の倭人は、オホーツク文化を担った人々からアザラシの毛皮を、多量に入手していたと考えられる。オホーツク文化は弥生時代末期から飛鳥時代に、北海道の東北部から樺太のオホーツク海沿岸に展開した文化で、この文化に特徴的な器物が多数発掘され、この地域の人々の豊かさを示し、人々はアザラシを捕獲しながら漁労に従事していたと推測される。関東縄文人から、シベリアの遺伝子であるミトコンドリア遺伝子mt-Amt-M10が、現代日本人からオホーツク海北岸に多いmt-Gが多数見つかるから、関東の倭人は古墳寒冷期にオホーツク文化を担った人々からアザラシの毛皮を入手しただけでなく、アムール川流域まで北上してシベリア産の毛皮も入手していたと想定される。

倭人の船は5世紀中頃まで、華北から華南への移民事業に集中的に投下されたが、華北に北魏が成立すると豪族の移民は激減し、船を北の交易に回す余裕が生まれた。6世紀に倭王が朝鮮半島から倭兵を撤退させると、更に船腹の余剰が生まれた。西日本の倭人国ではその余剰船舶を、興隆しつつあった華南経済の物流に投じ、華南の生産物を華北に輸送する事業に転換したと想定されるが、関東の倭人国はその余剰船舶の多くを、北方交易にも転換したと想定される。

隋が中国を統一して南北運河が開削されると、倭人が独占していた南北を結ぶ海上運送業も、運河を使う物流に転換してしまったから、関東の船は北方交易に殺到する状態になったと想定される。北方の代表的な商品はアザラシの皮革とシベリアの毛皮だったから、その販売先は冬の寒さが厳しい華北が中心となり、魏志倭人伝に記された西日本の30国がその販売を担い、その販路は相変わらず高句麗と競合していた。

関東の倭人の交易品が、アザラシの皮革やシベリアの毛皮に極度に傾斜し、仕入れ量が増えていく中で、北九州や西日本の倭人国は、それを割り当てられた華北の商圏で売りさばいていたが、西日本の倭人国は東鯷人と連携して工芸品も販売していたから、毛皮の販売に全力を投入する事はなかっただろう。一方高句麗は、北方の物産の専門商社だったから、形振り構わずに拡販に努めたと想定され、販売力は高句麗の方が圧倒的に強かったと想定される。それは現代にも言える、普遍的な事情でもある。

隋・唐代の華北に目を転じると、強力な王朝の成立によって治安が回復し、経済力が向上していたから、毛皮や皮革の需要は増加し、高句麗の販売部門は手応えを感じていたと想定される。当然の話ではあるが、毛皮や皮革は丁寧に加工されて高級品として販売されていたと想定され、高句麗が繁栄し、西の倭人国が高句麗を敵視していた事は、高句麗ブランドが倭人ブランドを凌いでいた可能性を示唆する。

しかし高句麗の商品調達事情を概観すると、楽観できる状態ではなかった。飛鳥時代に最寒冷期が終わり始め、沿海州の沿岸からアザラシが北上し、より北方の海域でなければアザラシの大量捕獲が難しくなっていたから、高句麗と提携していた沿海州の粛慎の末裔達は、その捕獲量の減少に苦しみ始めていたと想定される。

シベリアとの交易路だった松花江流域に目を転じると、粛慎の末裔達とは異なるツングース系の騎馬民族だった靺鞨が、隋代には高句麗の北辺を脅かす様になっていた。大陸は時代の進展と共に乾燥化していったから、満州平原も北西から徐々に疎林化や草原化が進行し、水量が減少した松花江の交易路は、騎馬民族の格好の餌食になりやすい環境に変わっていった。松花江は黒竜江省の南部で大きく西に流れ、遊牧騎馬民族だった鮮卑系の、契丹のこの時期の勢力圏に近づくから、彼らにも交易路を脅かされていた可能性がある。645年の唐の高句麗攻撃には、契丹も参加したから、乾燥しつつあった満州に飼羊系の騎馬民族が展開し始め、覇権を握る騎馬民族がめまぐるしく変わる時代になったとも言える。従って高句麗の交易河川路は、安定した輸送路とは言えない状態になっていた。

これ以外の理由によっても、関東の倭人と比較したこの時期の高句麗の仕入れ力は、相対的に劣化していたと想定され、仕入れ先が倭人と同じツングース系民族だったから、片方の優位は他方の不利になり、単なる劣化以上の深刻な問題を生んでいたと想定される。

その理由の第一として、時代が降る毎に船が大型化したから、輸送力の観点では、内陸の河川路より海上の方が有利になっていく事は、必然的な流れだった。毛皮や皮革の重量はさほどではなくても、それを仕入れる対価物としての穀物など、重量物を多量に運搬する必要が生まれると、倭人の仕入れ力は時代の進展と共に、高句麗より高まっていった事が挙げられる。

その理由の第二として、高句麗の交易路だった満州平原の河川は、時代が進むに連れて徐々に水量が減り、蛇行が酷くなっていった。飛鳥時代は、寒冷期が終わって温暖化し始めた時期だから、満州平原の乾燥化が著しく進み、河川運送は急速に困難度を増していったと想定される。

高句麗ではこの様な事情が重なり、商品仕入れ力が劣化したが販売数量が増加したから、商品不足に陥って売り上げが上がらなくなり、販売部署の士気に深刻な問題が生まれたと想定される。しかし販売価格を上げると、倭人に市場を奪われる恐れがあったから、厳しい事情が生まれただろう。

この様な事態に陥った高句麗と、出荷品の過剰に苦しんでいた関東の倭人が提携する事は、双方に大きなメリットがあった。物流上の好ましい取引相手と組む事は、今も昔も変わらない普遍的な事態と言えるだろう。

以上の様な事情により、飛鳥時代の高句麗と関東の倭人は、北方の物産の供給者と販売者の関係を構築したと想定される。当然ながらこの提携は、西の倭国王系譜を中心とする旧邪馬台国系の30国には、不都合な事情になった。現代企業は利益の極大化を求めるから、双方の事業を勘案してこの様な事情を許す場合や、積極的に推進する場合もあるが、それに対する現場の心境は複雑になる。関東から高句麗に卸す量が、関西の倭人国に卸す量の数倍に達すれば、高句麗に卸した方が倭人全体の利益は多くなるが、西の30国は利益の一部を失う事になり、関東の倭人国に対して反感を募らせただろう。それを彷彿とさせる事態を、古事記の神武東征説話が示しているので、章を改めて説明する。

関東の倭人と高句麗がこの様な関係になり、太宗の時代になって唐が高句麗征服に本腰を入れ始めると、危機を感じた高句麗は関東の倭人に、半島問題に関する種々の情報を発信したと推測される。その情報を得た関東の倭人が、大率の新羅援助を牽制するために、倭王と連携して百済の反乱を密かに援助した可能性がある。倭王は百済に思い入れがあったが、出雲に対する負い目があって大率に強く言えなかったから、百済は倭の援助を得る事無く滅亡したが、動機が元々あった倭王が関東の倭人の声援を受けると、勇気を奮って百済の反乱に加担したとしても十分あり得る話になるが、倭王に軍事力はなかったから、帰還させた百済王子に僅かな衛兵を付ける程度の援助だった。

それを対立側から見ると、百済が滅亡しても期待していた様に、その故地が新羅に渡されたわけではなく、唐の軍隊が居座って直轄地にした上に、高句麗攻略に取り掛かろうとしたから、新羅が半島南部を支配する期待は半ば裏切られていた。従って関東の倭人の抗議が正統性を帯び、大率は政策を誤った者として倭人内で劣勢になり、相対的に倭王の発言権が高まったと想定される。

その結果として、唐が百済を滅ぼす事に加担した大率の方針と真逆の政策として、倭王の指示により倭にいた百済の王子が、衛兵を付けて反乱軍に送りこまれた。しかし倭王の政策も場当たり的で、時勢を見失ったものだったから、劣勢な反乱軍は2年後に鎮圧され、送り込んだ百済の王子は高句麗に逃走した。その戦闘の最後に白村江の戦いがあり、倭軍が唐の水上軍に撃滅されたと、新旧唐書に記されている。

倭に白村江と呼ばれ、唐に白江と呼ばれた錦江と、関東は遠く離れていた上に、関東の倭人は朝鮮半島には不案内だったから、関東の倭人が白村江の戦闘に加勢した可能性は極めて低い。白村江の戦闘は、日本書紀が記す様に倭が仕掛けたものではなく、唐が仕掛けた陸上の戦闘の末に起こった偶発的な事象で、宗像の水上勢力が反乱軍の敗残兵とその家族を、錦江から北九州に亡命させる過程で、唐軍と錦江の河口で偶然鉢合わせした事によって生じたものだった。戦意がない宗像勢は百済人を乗せた儘、犠牲を出しながら唐船の間をすり抜け、九州に帰還したと考えられる。

反乱が鎮圧されて百済が完全に滅亡すると、その故地に唐軍が駐留し、高句麗は唐の軍隊に南北から挟撃されたから、長い間機能していた北方の防衛線が無効になり、百済の反乱鎮圧から5年後の668年に、唐に滅ぼされた。その結果多数の高句麗人が王族と共に、関東を中心とした日本列島に亡命帰化したが、亡命路は唐には見えなかったから、史書には白江の戦いの様にその顛末は記されていない。しかし高句麗は、自身が海運力を持っていた上に、倭人最強の海運力を保持していた倭が支援し、高句麗人は一時的に沿海州に逃亡する事もできたから、亡命者の数は、百済滅亡時より格段に多かったと推測される。

 

2-3 百済滅亡の詳細(白村江の戦いの真実)

日本書紀に白村江の戦いが華々しく記されているが、唐書が示す白村江の戦いは、日本書紀の筆致とは全く異なっている。既に掲げた百済の滅亡時の記事を再掲する事から、話を始める。

655年、新羅王の金春秋は、百濟と高麗・靺鞨が新羅の北界に侵入し、三十余城を奪ったと申告した。

660年、唐の高宗は左衛大将軍の蘇定方に命じ、兵を統いて百済を討たせて大破し、百済王の義慈と太子隆、小王孝演、偽将五十八人等を、京師(長安)に送った。旧百済国の五部三十七郡に、熊津、馬韓、東明等の五都督府を置き、現地の有力者を都督、刺史、県令としたが、熊津都督は唐官僚の右衛郎将の王文度とし、(唐の)総ての兵で之(熊津)を鎮めた。

「高麗・靺鞨が新羅の北界に侵入」と記された事は、高句麗の交易に沿海州のツングース系民族が深く関与し、両者の連合体が、高句麗と呼ばれた交易集団を形成していた事を示唆している。松花江やアムール川の河川運送も、ツングース系民族が担っていたと推測される。唐が百済の故地に派兵するためには、山東半島から船で渡海しなければならなかったから、大軍を派遣する事ができず、唐が占領できる場所は限られていた。言い換えれば、唐にはその程度の海運力しかなかった。古墳時代の倭が高句麗の南下を阻止した海運力と比較し、その輸送距離も勘案すれば、唐の海上輸送力は倭と比較して極めて劣勢だった。

唐将の蘇定方は山東半島から船で渡海し、百済を滅亡させたので、以下の蘇定方列伝に百済征討の経緯が詳しく記されている。

定方は城山(山東半島)から海を済(わた)り、熊津江の口(河口)に至った。賊は據江に兵を駐屯させていた。定方は東岸を升り、山に乘って陣し、之と大戰した。揚げた帆が海を蓋い、相い連なっていた。賊の軍は敗北を続け、死者数千人、その他は逃げ散った。上げ潮に遇って入江に舳を連ね、定方は岸の上に陣を擁して水陸揃って進むと、快速で進む船は鼓で囃しながら、ひたすら真都(百済の王城)に進んだ。城の二十里ほど手前で、賊は全軍を挙げて拒戦したので、大戰してこれを破り、1万人以上を殺して追撃し、建物に入った。其の王義慈と太子隆は北境に逃げたので、定方は進撃して其の城を囲んだ。<中略>定方が(兵)卒に、登城して幟を建てるよう命じると、泰(王弟)は開門し、額を地に付けて平伏した。<中略>百済は悉く平定され、其の地を六州に分けた。

新羅伝に以下が記されている。

660年、左武衛大将軍の蘇定方を熊津道大総管に任命し、水陸十万の軍勢を統率させた。春秋(新羅王)を嵎夷道行軍総管と為し、蘇定方と(共に)百済を討って平定し、その王の扶餘義慈を捕虜とし、天子の前に献上した。これより新羅は暫く高句麗と百済の地を領有し、その領界は広大で、西は海に至る。

唐と新羅の連合軍が百済を征討したが、水陸十万の大半は、新羅兵だったと推測される。しかし総大将は、唐の将軍だった。百済滅亡後に、新羅は高句麗(の一部)と百済の地を領有したと記されているが、高句麗はまだ独立国として存在し、百済の故地は唐の軍政下にあったから、新羅は何も得ていなかった事になる。

661年に新羅王の春秋が死去すると、唐は息子の法敏を、開府儀同三司、上柱国、楽浪郡王、新羅王にした。

百済滅亡直後に、百済遺民の反乱が発生した。百済が簡単に滅亡したのは、国家そのものが経済的に困窮していた上に、中華王朝である唐の軍が襲来すると、百済の支配層を構成していた晋の楽浪郡由来の漢民族が、戦意を喪失したからだと推測される。従って投降した偽将五十八人の殆どは、漢民族の将軍だった可能性が高い。彼らの一部は、後に唐の異民族征討軍に参加して戦功をあげた事が、長安近傍から発掘された墓誌に記されているからだ。従って百済の反乱軍を構成したのは、扶余系の人々だったと想定される。新選姓氏録に掲載された百済系帰化人に、漢民族系譜がない事もそれを示している。

旧唐書百済伝は、反乱について以下の様に記している。

文度は海を渡って来てすぐに死亡した。百済僧の道琛と旧将の福信は衆を率い、周留城を拠点として反乱を起こし、王子だった扶余豐を倭国から迎えて王にした。百済故地の西部と北部、並びに翻城は之に応じた。劉仁願は百済の府城に鎮留していたが、道琛等は兵を引いて之を囲んだ。帯方州刺史の劉仁軌は、文度の代理として衆を統べ、新羅兵を合せて仁願を救った。

劉仁軌が帯方州刺史になっていた事は、元々新羅の領土だった帯方郡が、唐の支配下に組み込まれた事を示している。帯方郡は百済と高句麗を隔てていたから、唐が新羅から帯方郡を取り上げた事になり、高句麗討伐の野望をむき出しにし始めた事を示唆している。この様な形で反乱が始まり、反乱は足掛け3年続いたが、反乱軍は次第に劣勢になって内部分裂し、唐と新羅の連合軍に鎮圧された。

反乱軍は白村江(白江之口)の戦いで壊滅するが、旧唐書百済伝はその経緯を以下の様に記述している。

663年七月、仁願、仁軌等は留鎮の兵を率い、福信の衆を熊津の東で大破し、支羅城と尹城、大山、沙井等の柵を抜き、殺したり捕らえたりし、兵を分けて之を鎮守した。福信等は、江に臨んで高く険しい場所にある真峴城に籠り、兵を加えて守った。仁軌は新羅の兵を引きい、夜に乘じて城に迫り、四面からよじ登って其の城に入り,斬首八百級を得て、遂に新羅からの運糧の路を通じた。

仁願が援軍の派遣を奏上すると、左威衛将軍の孫仁師が、淄、青、来(いずれも山東省)の海の兵七千人を統べ、海路で熊津に赴き、仁願の衆を助けた。時に福信は、其の兵権を專横し、扶余豐と互いに猜疑心を持ち合っていた。福信は疾病と称して窟室に臥し、扶余豐を見舞いに誘って襲殺しようと謀った。扶余豐はそれを覚り、信頼できる者を率いて福信を殺し、高麗と倭国に遣使して兵を請い、唐軍を拒み続けた。

孫仁師は行軍し、余剰で迎撃して之を破り、遂に仁願の衆と合流し、兵の勢いが大いに振るった。仁師、仁願、新羅王金法敏は、陸軍を率いて進み、劉仁軌、杜爽、扶余隆は、水軍と糧船を率いて熊津江から白江に進み、陸軍と合流し、共に周留城に向かおうとした。仁軌は扶余豐の衆と白江之口で遭遇し、4回戦って皆勝ち、敵舟四百艘を焚した。賊衆は大潰し、扶余豐は脱出して逃走した。偽王子の扶余忠勝、忠志等は、士女と倭衆を率いて並降し、百済諸城は皆帰順し、孫仁師と劉仁願等は帰還した。詔によって、劉仁軌は仁願に代わって兵を率いて鎮守し、扶余隆は熊津都督になって本国に帰還し、新羅と和親して百済の余衆を招集した。

熊津江と白江はどこの川だったのか、先ず特定する必要がある。この時代の百済の首都だった熊津は、錦江の中流域にあった。それゆえ熊津江は錦江だったと考えたいが、錦江は白江だったとも考えられるから、「熊津江から白江に向かう」は不可思議な表現になる。推測するに唐軍が熊津江と呼んだ川は、京畿道(ソウル近郊)南部と忠清南道との境界辺りにあり、山東半島から船で来た唐兵が熊津を攻撃するために、上陸した川(河口)だったと思われる。

旧唐書は白江口の戦いを665年としているが、これは明らかなミスと考えられるので、ここでは663年とした。旧唐書の記述は事実に即していると想定されるが、年次の表記に幾つかの混乱があり、百済と新羅の確執が続いた640年代と650年代の事績についても、その年次は怪しい。百済・高句麗連合と新羅の間の軍事衝突が頻繁にあり、それを新羅が逐一報告したから、多数の記録が乱立して事績の抜粋に混乱があったと推測される。

旧唐書劉仁軌列伝に、百済伝以上に詳しい、白村江の戦闘に関する記述があり、その抜粋は以下。

にわかに扶余豐が福信を襲殺し、高麗と倭国に兵を請いて唐軍を拒んだ。 詔により、右威衛将軍の孫仁師が兵を率いて海に浮かび、仁軌等と同流すると兵士は大いに振った。 諸将が会議を開くと、加林城は水陸の要衝だから、先ずこれを撃ちたいという意見が出たが、仁軌は言った。「加林は堅固だから急攻すれば戰士を傷損する。そこは固く守って持久し、周留城を先攻すべきだ。周留は賊の巣穴で、群兇が集まっている所であり、悪を本から除くには其の源を拔くべきである。若し周留で勝てば、諸城は自から下るだろう。」

仁師、仁願、新羅王金法敏は陸軍を率いて進み、仁軌は別に杜爽、扶余隆と水軍と糧船を率い、熊津江から白江に行って陸軍と合流し、周留城に向かう予定とした。 仁軌は白江の河口で倭兵と遭遇し、四回戦って勝ち、其の舟四百艘を焚いた。煙と焰が天に漲り、海水は皆赤く、賊衆は大潰し、扶余豐は脱出して逃走したので其の宝剣を獲た。偽の王子である扶余忠勝、忠志等と、彼らが率いていた士女と倭衆、并びに耽羅国使は一時に並降り、百済諸城は皆、復に帰順したが、賊の将である遲受信は任存城に拠って降らなかった。

是に先立って、百済反乱軍の首領である沙吒相如と黒歯常之は、蘇定方の軍の後ろに迴り、逃げ散っていた衆を集めて各々険阻な地形に拠り、福信に呼応しようとしていたが、是に至って其の衆を率いて降ったので、仁軌は恩信を以って諭し、「自分の領地の子弟を使って任存城を奪取するよう」命令し、唐の兵を分けて之を助けた。孫仁師はそれを見て言った、「相如等には獸心があるから信じ難い。若し兵器を授ければ、敵兵に利を与えてしまう。」 仁軌は言った、「吾は、相如と常之は皆、忠勇で有謀な、感恩の士であると観ている。我に従えば則が成り、我に背けば必ず滅ぶ。疑う必要はない。」食料と兵器を与え、兵を分けて彼らに従わせると、遂に任存城を拔き、遲受信は其の妻子を棄てて高麗に逃走し、百済の余燼は悉く平定された。孫仁師と劉仁願は軍を纏めて帰還し、仁軌は詔によって留まり、兵を整えて鎮守した。

上記の百済伝にも劉仁軌伝にも、この軍役の焦点である筈の周留城の攻防に関する記述がない。唐の水陸両軍は賊軍の中核的な城である周留城を陥落させるため、忠清南道を南下して周留城を攻略した筈だが、上記の全てに白江之口の海戦任存城攻撃しか記述がないのは、仁軌の予想と異なって陸軍が単独で、周留城を陥落させたからだと考えられる。従って記述がない理由は、旧唐書が反乱軍の鎮圧過程を記述した種本である、劉仁軌の報告書に周留城の攻防に関する記述がなかったからだと想定される。劉仁軌の立場でこれを忖度すれば、劉仁軌は自分の戦闘報告を提出しただけで、総指揮官だった劉仁願が全軍の指揮を取りながら、陸路を進んで周留城を陥落させてしまったから、反乱の掃討戦の全貌は、劉仁願が報告すべきだと考えていたからだと推測される。旧唐書には劉仁願の報告書の抜粋と考えられる文章もあるが、山東半島から来た水軍が合流した後の記述は、劉仁軌の報告書の抜粋に偏っている。その理由は、劉仁軌が戦後処理の責任者だったからだと考えられる。扶余豊が福信を殺した事やその顛末は、投降者を尋問して初めて分かったことだから、戦闘終了後に帰任してしまった劉仁願の報告書には、反乱軍を蹴散らしながら周留城に進撃し、周留城が陥落したという単純な事しか記されていなかったと考えられる。従って報告書を、反乱軍の内幕を暴露して上記のようなストーリーに仕立てることは、残留して戦後処理を行った劉仁軌にしかできなかった。旧唐書の著者が詳しく書かれた劉仁軌の報告書に注目し過ぎた結果、天王山だった周留城の攻防に関する記述が、百済伝から欠落する事になったと想定される。悪意を持って劉仁軌を評すれば、劉仁軌は自身の戦果である白江之口の海戦を目立たせるために、周留城の攻防戦の存在を曖昧にし、時系列的な解釈ができない報告書を作成したとも言える。

その真偽は別にしても、百済伝と劉仁軌列伝を読んでも、起こった事の前後関係を組み立てることが難しいが、反乱鎮圧の最後の戦役を概観すると、白江口の海戦以前に周留城が陥落し、残った任存城は百済王が駐留する規模の城塞ではなかったから、扶余豊は倭に逃亡しようとしたが、唐軍が錦江の河口に出現したのを見て、倭に逃亡する路が閉ざされたと判断し、宝剣を捨てて一目散に高句麗に逃げたと考えられる。従って事績を列記すると、反乱鎮圧の全貌は以下の様な順序だったと考えられる。

〇百済の反乱の最終戦

唐軍は福信の衆を熊津の東で大破し、福信は真峴城に籠ったが、真峴城は劉仁軌の攻撃で陥落した。

劉仁願は勝機が見えたと判断し、唐朝に援軍を依頼した。

沙吒相如と黒歯常之は野戦を行い、敗れると周留城に戻らずに険阻な地形に拠り、<福信に応じるために>敗兵を収容した。

    <扶余豐が福信を襲殺し、兵士には高麗と倭国に使者を発して援軍を求めると云ったが、実は退路を確保する使者だった。>

唐軍は水陸に分かれ、周留城を目指して進撃した。

扶余豐には戦意がなく、唐軍が周留城に迫ると城を捨てて逃げたので、唐軍は戦うことなく周留城を接収した。

扶余豐は倭に逃亡する為、敗残兵とその家族を白江の岸に集めると、扶余豐の依頼を受けた倭の船が白江に入った。

劉仁軌の水軍が、白江の河口で倭船と遭遇して戦闘状態になり、唐軍が勝利して扶余豊は高句麗に逃亡した。

沙吒相如と黒歯常之は、福信が殺され、白江の河口の敗戦で扶余豊も逃亡した事を知り、唐軍に投降した。

沙吒相如と黒歯常之の攻撃によって任存城が陥落し、遲受信は高句麗に逃げ、反乱は完全に鎮圧された。

 

王子と共に降伏した「士女及倭衆」「士女」は、敗残兵とその家族を指し、白江に集まって倭船で逃れようとしていたと想定される。王子と共に降伏した倭の兵(衆)は、倭王が扶余豊の百済帰還時に、一緒に派遣した兵だったと推測される。

上記の戦闘は、100㎞四方に満たない狭い地域の出来事だから、始まってから終わるまでの期間は短く、白江の河口にいた倭の船は、扶余豊の要請で北九州から急いで来た船だったと考えられる。従って倭王の指示も届いていない時期の、宗像勢の寄せ集めの船だった可能性が高い。出雲の大率は新羅と友好的だったから、出雲の船が百済救援に向かったとは考え難く、倭王の旗下にあった紀伊の船が出向く時間的な余裕は、なかったと想定される。従って白江の河口で戦った宗像の船に、さほどの戦力はなかったと推測される。

別の角度からこの一連の戦闘を考証すると、東鯷人には弥生時代以来陸戦の経験がなかったから、たとえ倭王に百済の反乱を支援する意思があっても、歴戦の兵である唐や新羅の軍と、互角に交戦する能力があったとは考えにくい。そもそも華南や、南シナ海沿岸の島嶼を交易相手としていた東鯷人は、陸軍を持っていても無用の長物だったから、陸軍を持っていなかった可能性が高く、倭王が扶余豊の帰還時に付けた少数の護衛兵以外に、倭兵が反乱軍に参加していた可能性は低い。

海戦に着目すると、倭人が唐の船と戦闘する積りだったのであれば、速度や操船に優る倭の船は、黄海の海上で戦闘を挑んだ筈だ。唐の水軍は7千の兵だったから、倭が数十人乗りの船を400隻以上動員し、若しそれに兵員を満載していたのであれば、兵数は拮抗していただろう。従って操船に優る倭人が、広い海上で負ける事はなかっただろう。そもそもこの時代の唐の船が、倭船より大型だったという証拠はない。古墳時代前期の倭国王は、朝鮮半島に万単位の兵を送り込んだのだから、その実績を考慮すれば、倭船の方が大型だった可能性が高い。400隻の倭船が炎上したという記述は、中華的な誇張を多分に含んでいた疑いが濃く、実際に炎上した倭船は100隻前後だったのではなかろうか。

「白村江の戦い」の実態を反乱軍の視点から見れば、軍の司令官だった福信が殺されると、長らく倭にいて統率力がなかった扶余豊の指揮下で、反乱軍が戦意を喪失した事を覚った扶余豊は、文官やその家族を引き連れて日本に亡命しようとして、倭と高句麗に使者を派遣したと想定される。扶余豊の依頼を受けた宗像は、緊急事態であるとの認識から寄せ集めた船を急派し、敗残者の収容を急いで白江の中流まで漕ぎ上がり、逃亡者を船に乗せて当に漕ぎ出そうとしていた時に、唐の軍船が不意に現れて河口を塞いだ。錦江の中流に密集していた倭船は身動き出来ない状態になり、そこに唐の軍船から火矢が放たれたのではなかろうか。広い海上であれば、速度や操船に優る倭船は楽に脱出できたかもしれないが、錦江に閉じ込められた状況では仕方なく、快速で逃げ切る戦法に変えて乗員の数を制限したから、扶余豊は乗船せずに逃亡し、倭兵の一部が投降したと想定される。

逃走する宗像勢に戦意は無く、倭人が総出で櫂を漕ぎ、百済の敗残兵や文官が船上で防戦しながら、4波に別れて唐の船団の間隙を縫って幅1㎞ほどの河口から脱出したと推測される。戦後処理をした仁軌はそれを分かっていたが、水上の戦闘で倭船に勝った事は自慢の種だったから、華々しい戦果として報告したと考えられる。倭船が逃げ、唐が勝利した事は間違いなかったのだから。

戦役の報告を受けた唐朝は、大率が軍事行動を起こした筈はないと判断し、水上で戦ったのは百済の敗残兵だったと判定したから、百済伝にはそれを転記したと考えられる。劉仁軌は軍人として観察し、戦闘したのは倭船だったと識別していた事は事実で、倭船の逃避行が終わった後で多数の船が燃えていた事も事実で、倭船の乗員の死体が沢山浮かび、唐軍には大した被害はなかった事も事実だったから、「賊軍は壊滅した」と報告書に記したと考えられる。しかし実際には、多数の船が唐の軍船の間隙をすり抜けて倭に逃げ帰ったから、新選姓氏録の百済系として、扶余系の帰化人が多数記載される事になったと考えられる。扶余系の百済人は傭兵だったのだから、平常時に彼らが日本に移民して来た筈はなく、扶余系の帰化人はこの時の亡命者だったと考えられる。但し上記の様な経緯で、九州に辿り着いた百済人がそれほど多数いたとは考え難いから、新選姓氏録に記された百済系の過半は、古墳時代に帰化した韓族だったと推測される。新選姓氏録を作成した頃、大和朝廷は捏造史を編纂していたから、半島からの亡命者が百済、新羅、高句麗以外にあった事は、倭人の活動に触れる事になり、公にはできなかったからだ。

 

2-4 百済滅亡後の国際情勢

661年、春秋が死去し、詔を以てその子の法敏が開府儀同三司、上柱国、楽浪郡王、新羅王の位を継いだ。(旧唐書新羅伝)

百済の故地は唐の占領下にあり、新羅領にはならなかった。百済遺臣が反乱を起こした際に、劉仁軌が帯方州刺史だったと記されているが、帯方は元々新羅の領有地だったから、唐が高句麗征討への道としてちゃっかり領土化した事になり、この様な唐の態度が大率の立場を悪くしたと推測される。

663年、(百済の反乱が鎮圧されると唐の皇帝の)詔を以て、その国(新羅)を雞林州都督府とし、法敏に雞林州都督を授けた。(旧唐書新羅伝)

新羅国が廃止され、新羅王は唐の行政区画である雞林州の長官に格下げされた。反乱が鎮圧されると唐は仮面をかなぐり捨て、百済の旧領と新羅を直轄化し、高句麗を南北から挟撃する体制を整えた事になる。

665年、高宗の泰山の儀式(封泰山)に、仁軌が領有する新羅・百済、耽羅、倭、4国の酋長が赴き、高宗は甚だ悦んだ。(旧唐書劉仁軌列伝)

668年 (仁軌は)熊津道安撫大使,兼浿江(鴨緑江)道総管になり、副司空の李勣が高麗を討平した。(旧唐書劉仁軌列伝)

670年、倭は、唐が高句麗を平定したことを慶賀した。(新唐書日本伝)

その後日本人は倭という呼び名を嫌い、日本と改号した。(新唐書日本伝)

670年まで倭が唐に使者を送り、唐がその使者を皇帝に面接させていた事は、この時まで出雲の大率は健在だった事を示しているが、日本と改号した事は、東鯷人政権が崩壊して大率と倭王が討滅された事を意味する。

 

3 倭から日本へ(670年~697年)

670年代に東鯷人政権が崩壊し、697年に日本国の天皇として文武が即位し、中央集権的な王朝統治が始まったから、その治績が続日本紀に記された。この間の極めて濃い霧に覆われた謎の27年間を、新旧唐書がどの様に記しているのか確認する。

 

3-1 新羅の情勢

674年 新羅は高句麗の遺臣も糾合し、半島独立の戦争を始めた。(新唐書新羅伝)

 663年に唐は、新羅を雞林州として直轄地にしてしまったから、新羅人にはその恨みが溜まっていた筈だが、688年に高句麗が滅亡しても行動を起こさなかった。唐は新羅に協力させて高句麗を滅ぼすと、高句麗の故地も直轄領にしてしまった。新羅の反乱はそれから6年後だから、時期が合わない不条理を解く鍵として、新羅が674年に反乱を起こした事と、東鯷人政権の崩壊(672年の壬申の乱)に重大な関係があった事が疑われる。

674年に劉仁軌が雞林道大総管になり、新羅を討伐した。仁軌は兵を率いて瓠盧河(慶州の河)を渡り、其の北方の大鎮七重城(金城)を破った。(旧唐書劉仁軌列伝)

以下年次不明だが、新羅も高句麗同様、都が陥落しても反乱が鎮圧された事にはならなかった。

金法敏は唐に使者を派遣して謝罪させ、唐の高宗は法敏を元の新羅王にした。(新唐書新羅伝)

新羅は百済の土地を大いに奪取し、その勢いは高句麗の南堺に及び、九州を置いて統括した。(新唐書新羅伝)

この一連の新羅の反乱と和睦について、旧唐書新羅伝には何も記載がなく、劉仁軌列伝に上記の事績だけが記されているのは、旧唐書の著者には話が複雑過ぎて、事実を明らかにする事ができなかったからだと推測される。新唐書は適当に話を端折って話を繋げたが、話の辻褄は合っていない。新羅では、都城が陥落しても地域集団が民族闘争を継続したから、抗争が泥沼に陥ったと想定される。この時代の新羅は、中央集権国家ではなかった事を窺わせ、分国的な体質でありながら立派な王朝文化を築いた事を、中華民族には理解できなかったから、事態を理解していなかった官僚の報告者を読んだ旧唐書の著者には、新羅人の行動が理解できなかった可能性が高い。中華思想では、部族制=小国分立制は野蛮な体制で、王朝統治こそが文明化であると考え、王朝の樹立と崩壊は、権力者の軍事動向によって決まると考えていたからだ。

681年 金法敏が死に、子の政明が継いだ。

686年 新王は唐に朝貢して関係を修復した。

692年 政明が死ぬと、則天(武后)は之に挙哀(こあい;嘆き悲しんで見せる儀式)して弔祭の使者を派遣し、其の子理洪を新羅王に冊立すると同時に、父親の肩書である輔国大将軍、行豹韜衛大将軍、雞林州都督も継承させた。

新羅王でありながら、唐の行政区分である雞林州の都督でもあるという、従属的な柵封国になったが、雞林州都督は唐が押し付けた官職名だから、新羅は実質的に独立を維持したのではなかろうか。

 

3-2 日本列島の動乱

新生日本に関するこの時期の、新旧唐書の記述は極めて簡略で、そこから何らかの結論を導く事は難しい。古事記と続日本紀から日本の動向を推測し、その結論と新旧唐書の記述を比較して事績を詳細化する事が、この時代を理解する早道になる。

中華風の王朝統治を目指した奈良時代の王朝系譜が絶え、傍系の天皇が統治した平安時代になると、中華の標準的な史書形式である断代史(単一王朝の歴史)として、続日本紀が編纂された。その記述形式は、朝議録を抜粋した天皇紀の体裁を整えているが、中華の史書とは数点、大きく異なる特徴がある。その一つが、天皇制は連綿と続いていたと詐称し、王朝の成立から歴史を記さず、持統天皇の息子である文武天皇の即位から、記述が始まっている事になる。王朝が成立した歴史の捏造は日本紀で行い、続日本紀は最初の事実史という位置付けだったが、続日本紀の初期の記述には、捏造史と整合させる意図的な欠落や書き換えがあるから、注意して検証する必要がある。

続日本紀の初期の時代に、壬申の乱の功臣への追贈が散見され、大和朝廷の成立に壬申の乱が重要な契機を与えた事を、厳然と示している。しかし壬申の乱がどの様なものだったのか、続日本紀には一切記述されていない。大和政権にとって隠したい事実だったからだが、壬申の乱で戦功を挙げた老臣の処遇は、この時期に実在した重要な政治課題だったから、多数の記事が朝議録に記され、その一部が続日本紀に転記されたと考えられる。前史である日本紀の内容は類推するしかないが、壬申の乱の生々しさが色濃く残っていた時期だから、架空の物語を創作する状況にはなく、壬申の乱に関する記述は殆どなかったと推測される。それしか捏造史を知らなかった続日本紀の編者は、功労者に関する記述を、無造作に続日本紀に採録したと想定される。

いずれにしても、672年に起こった壬申の乱が、大和政権の成立に重要な転機をもたらした事は間違いなく、それによって大率や倭王が滅んだ事も間違いない。新唐書が、670年を最後に倭の朝貢が絶えたと記している事と、続日本紀が記す壬申の乱は時期が符合し、倭人政権が倒れて大和政権が成立する過程で、壬申の乱は最大の戦闘だったと想定される。従って日本書紀に書かれている壬申の乱と、実際の壬申の乱は、登場人物も戦場も全く違っていた事になる。本当の壬申の乱の詳細は、(13)飛鳥時代参照。

続日本紀が示すこの事実だけで、壬申の乱とその後に起こった事を、唐書を参照しながら推理する事はできないので、古事記から導かれる結論を先に説明し、新旧唐書がそれをどの様に裏書きしているのか検証する。

壬申の乱で滅んだのは、出雲の大率と飛鳥の倭王だから、それを示唆する古事記の国譲り説話は、史実を反映している可能性が高い。国譲り説話では建御雷神(たてみかずちのかみ)が、「天照大御神は、葦原中国は自分の子が知らす国だと言依りした」と主張し、出雲の大国主に国譲りを迫った。「言依り」は神の命令と解釈され、倭国王系譜の勢力が東鯷人の倭王や大率に、日本列島の統治権の返還を要求した事を示唆している。「知らす」は現在でも「県知事」などに使われ、代理統治の一つの手法を指すが、古事記では更に字源的な用法として、「神の意志を広める」事を意味したと考えられる。「神の意思」は巫女の迷信的な霊言ではなく、「物事の道理」を指した。日本人が使う「お天道様はお見通し」という迷信も、神は合理性の権化である事が下敷きになっている。キリスト教やイスラム教の神は、聖書を媒介として神と契約するから、聖書が合理性の根拠になるが、日本の神は合理性の権化である事が、それとは大きく異なる。倭人時代の神だった各国の王が、時宜に叶った合理性を示し続ける事により、この様な宗教観になったと想定され、それが現代日本人にも継承されている。その合理性は全員一致の賛同によって決定され、王の個人的な判断ではなかったから、納得性のある普遍性を持っていたと想定される。

聖書に記された事は時代の変遷とともに陳腐化し、宗教改革が必要になり、遂には無神論者を多数生み出す事になったが、日本人の神は合理性の根源と見做されたから、時代の変遷によって陳腐化する事はなく、倭人精神を継承している神社に教典がない事は、そのためだと考えられる。従って古事記のこの精神は現代にも通じ、科学技術の進化に対する寛容性を示し、時代が変わって世相が激変しても、道徳律の劣化を引き起こさない日本人の特徴を担保している。古事記の作者が主張しているのは、倭人政権が崩壊したのは、倭人各国の王が示していた合理性が通用しなくなり、新しい考えに基づく合理性を採用するべき時代になったという事で、それは革命を指導したこの時代の者達の、共通の思いでもあったと推測される。

従って古事記が主張する国譲りとは、交易を重視した倭人の小国連合制から、農商工民を中心とする中央集権制に転換するため、倭国王系譜である天孫族が示す新しい摂理を皆に知らしめる事を、古い時代の常識を持っていた大国主に要求した体裁を取っている。当然であるが、古事記が創作されたのは壬申の乱の後であり、古事記は壬申の乱を正当化する後付けの説話集だが、その様な文献によって革命の原因と結果が明らかになるのも、世の常と云うべきだろう。その観点で言えば、歴史を捏造した史記や漢書とは異なり、歴史は創作だが主張は真正だったことになる。

大国主に国譲りを迫った建御雷神(たてみかづちのかみ)は茨城県の鹿島神宮の主神で、日本書紀が国譲りの主体とした経津主神(ふつぬしのかみ)は千葉県の香取神社の主神だから、どちらも関東の神である事に留意する必要があり、それは平安時代に編纂された延喜式神名帳の、最高の社格である神宮二社と完全に一致し、国譲りの背景を示している事が決定的な意味を持つ。

大国主は国譲りに際し、事代主と建御名方の同意を求めるが、事代主は奈良県御所市の鴨都波神社(かもつばじんじゃ)の主神で、近くにある高鴨神社は、全国のカモ(鴨・賀茂・加茂)神社の総本社であると称している。古事記はその主神を迦毛之大御神とし、出雲の大国主と宗像のタキリヒメの子としているから、これも史実と整合する。「事代主」という名は、政権を委譲された代理の王だったと主張している事になり、これも史実とピッタリ一致する。建御名方は長野県の諏訪神社に祭られているが、元は糸魚川の神で、大国主とコシの沼河比売(ぬなかわひめ)の子とされているから、大国主を代表とする出雲勢力が、北陸と宗像を傘下に収めていた事になり、それは考古学的な成果と整合する。飛鳥の起源が宗像だった事は、隋書や唐書が、飛鳥の倭王の祖先は北九州の出身(古の倭の奴国)であると、示唆している事とも整合する。

古事記に記された国譲りが、出雲の大率を頂点とした東鯷人政権の滅亡を示しているのに対し、神武東征説話は、飛鳥倭王の滅亡物語りが主眼ではなく、戦った相手は大阪湾岸にも勢力を持っていたから、西の倭国王家の本流だったと想定される。神武勢は当初大阪湾岸から攻め込んだが敗退し、熊野・吉野から攻め込んで飛鳥を制圧するが、それを支援したのは建御雷神が下賜した剣で、経津主神は剣の神でもあるから、そこにも関東勢の活躍が示唆されている事は、史実との整合性が高まる。神武東征説話で取り上げる程に、西の倭国王家と革命軍が対立したのは、先に指摘した様に、関東では毛皮や皮革の仕入れが重要産業だったから、西の倭人国が販売し切れない分を高句麗に卸し、高句麗がそれを華北で販売する事により、西の倭人国の販売を間接的に邪魔したから、西の倭国王家の本流はそれを許せなかった事が指摘できるだろう。従って神武東征説話は、関東の倭人と関西の倭人が大阪湾岸で激突した事を、示している疑いが濃い。日本書記が創作した壬申の乱は、琵琶湖畔の戦闘だから、国譲りに示された建御名方との戦争を諏訪湖畔の戦闘と想定し、それが真の壬申の乱だったとして注目したくなるが、古事記の豊かな筆致は、大阪湾岸の海戦も熾烈だった事を窺わせている。この海戦で神武の兄が戦死するのだが、実際も大将が戦死する様な激しい海戦だった可能性が高い。

西の倭国王を支持していた国は、魏志倭人伝に記された邪馬台国連合の30国で、それらは西日本に偏在していたと推測されるから、海上兵力を中心とした関東発の西征軍が、大阪湾岸の敗戦によって方針を変え、西日本から見ると紀伊半島の裏側になる熊野や吉野から、物部を中核とした陸上郡で飛鳥を攻撃して畿内を制した事は、極めて合理的な戦術だったと判定できるから、一連の物語は事実を背景にしている可能性が高い。

古事記の序文は、関東の革命軍を指揮したのは天武天皇であると記している。この検証の詳細は、(15)古事記・日本書紀が書かれた背景/古事記を参照して頂きたいが、古事記の国譲りと神武東征が、壬申の乱の骨格を示している事は間違いない。

関東の革命軍を指揮したのは天武だったとすると、歴代天皇の中で「天」が使われているのは天智天武だけだから、この両者が実質的な、中央集権国家の創始者だった事を示している可能性が高い。天智の役割は後述するが、天武は武力によって新政権を創始した天皇である事は、その諡号との一致からも、間違いないと考えられる。東征を行った神武は天武より格が低いのは、神武は天武の子をモデルにしたからだと考えられ、ここに古事記神話のからくりを解く鍵がある。

古事記の説話は、倭人時代はなかったとの仮定の下に、倭人時代が始まった大昔に壬申の乱が起こり、そこから天皇制が始まったとすれば、それはどの様な歴史になったのかという、創作物語であると考えられる。古事記の著者がその様な物語を創作したのは、新政権の統治に資する書籍としての重要な使命があったからだ。

倭人時代の神は倭人各国の王で、彼らの権威は誰も知らない古い時代から継続し、その権威は伝承を美化した神話によって裏打ちされていたと想定される。従って新政権が倭人の分国制を廃止し、体制を中央集権的に刷新するためには、倭人各国の王に代わる神話的な権威を創作する事、即ち地域の住民が今まで持っていた神に変わる権威を、古事記の物語によって創作し、倭人時代の神々をそれに置き換える必要があった。それは武力的な統治者の押し付けではなく、民衆も経済的に苦しかった倭人時代を憎み、新しい時代の到来を望んでいたから、その期待に応えるものでもあり、何を偽って何に真正性を求めるのかについては、広い合意があったと想定される。一言で言えば、それは民衆が待ち望んでいたものだから、今日現在の神社の神は、殆どが古事記の出典に依っている事になり、平安時代の初頭に権力を得た物部が、古事記を書き直して先代旧事本紀を作ったと考えられる。

古事記はその目的のために神話体系を刷新し、新しい統治者に都合が良い神々を生み出し、古事記の説話を創作したと考えられる。従って民衆に、壬申の乱によって倭人時代が終了した事を知らせるためには、壬申の乱の経緯は正しく記述する必要があったが、中華の史書の様に人の事績とするのではなく、神の世界の出来事として描いた。何があったのか漠然と記したのは、誰かを顕彰する目的はなく、細かく書いて誰かが傷付く事を恐れる未来志向だったからではなかろうか。続日本紀でも、壬申の乱が起こってから30年も経ってから、功労者に褒賞を与える議論をした事を示している。中華の史書を読めば、論功行賞は各所に記されているから、その概念を知らなかったわけではないが、人が役割に応じて義務を果たす事を当然とし、その成果に特別の報酬を求めないが、共同体の存続を重視する海洋民族的な発想が、古事記や続日本紀の背景にあった事を窺わせる。

現在の日本の神社の殆どが、古事記に記された神々を祭っている事は、古事記を創作した意図が実践された事を示し、神社が古墳とは隔絶した存在である事は、飛鳥時代末期に創作された古事記によって新しい神々が生まれ、その後で神社が生まれた事を示している。

以上を前提に古事記を読み解くと、壬申の乱の発生とその後の政変は、以下の様なものだったと推測される。その具体的な根拠は(13)飛鳥時代参照。

東鯷人の政権下では、奢侈品の海外交易に偏った経済政策が堅持され、民衆の経済活動が沈滞して貧困化が進んでいた。特にそのしわ寄せが農民層と、彼らを顧客とする内需商工業者の物部に及んでいた。経済が閉じた社会で不況が発生すると、不況の連鎖によって民衆の貧困化が加速されるから、この時代の民衆は前世代より貧困化している事を実感しながら、その苦痛に耐え続けていたと想定される。中でも農業への依存度が高かった関東の物部は、最も深刻な不況に苦しんだから、香取神社と鹿島神社を取り巻く関東の物部が、率先して東鯷人政権の打倒に走ったと想定され、それが延喜式神名帳に記載された事実だったと想定される。

しかし物部が集まっただけでは、世間の人々を糾合する事はできず、関東の勢力を結集するためには倭国王家の権威が必要だったと考えられる。古事記の国譲り説話では概略、「天照大御神が、日本はその子の天忍穗耳命(おしほみみのみこと)の知らす国であると命じ、天菩比(ほひ)を遣わし、更に天若日子(わかひこ)を遣わして大国主を説得させたが、成功しないので、天尾羽張(おわばり)の子の建御雷に、天鳥船(とりふね)を付けて遣わし、大国主を脅迫して納得させた。」と記している。これらの神々の名前の先頭に記された「天」は、天皇の家系を示す漢字であり、倭国王の家系者である事も意味した。従って倭国王家の者が大率と交渉したが、成功しなかったから、遂に鹿島勢の武力によって決着がついたのだとの主張を、示している事になる。日本書紀は、国譲りを成功させたのは經津主(ふつぬし:香取)で、武甕槌(たけみかづち;鹿島)は副だったと古事記を訂正しているが、香取は物部の神社で、鹿島もその立地上物流に関与していたと考えられ、この二社だけが延喜式神名帳で神宮と記されているから、この点に関しては日本書紀が正しいと考えられるが、政変を起こして天武系の天皇を殺した首謀者が、鹿島系の藤原不比等だったから、過剰に鹿島を貶めた事は否めない。

東西の倭国王家には、幾つかの宮家があったと考えられる。その証拠として、古墳時代前期の大阪湾岸の巨大古墳群が、古市から百舌鳥に移行した事が指摘できる。更に言えば、関東では八角墳が、時期を変えて各地に築造された事が、権力者の家系の移動を示している。戦争がない状態でその様な事が起これば、それは宮家間の権力移動だったと解釈される。続日本紀は、天智は大津宮で統治したと指摘しているから、西の倭国王家の大津の宮家が、革命に重要な役割を担った事を示唆し、この人物が体制変革を促す政治思想を発信した故に、この人物の諡号が天智になったと考えられる。新政権は、革命直後に巨大な藤原京を建設したから、革命直後に完成度が高い政権が樹立されたと想定され、その政治思想は唐に倣いながら、中央集権制によって国内市場を活性化させる事だったと推測される。ちなみに唐は、帝国主義王朝の慣例に漏れず、結社の芽になる商工業を抑圧していたから、いち早く中央集権化した新羅や高句麗が、小国ながらそのモデルに組み込まれていた可能性が高い。

延喜式神名帳に登録された大社で、異様に叙勲位が高い神社が東北に点在している事は、東の倭国王家の宮家は、北の物産である皮革や毛皮の仕入れを、家業としていた事が想定される。その宮家がオホーツク海沿岸から北方の物産を仕入れ、高句麗にも卸していたと想定すると、関東に高麗神社が存続している事と整合する。古事記を改訂した際に太安万侶が付けた「序」は、革命戦争を起こした人物に、天武天皇の諡号が贈られたと記している。その天武が大津に近い山科に天智の墓を築造し、それが日本最大の八角墳である事は、天武は天智の思想に深く共感していた事を示すが、日本書紀が記す様に、天武天皇は持統天皇の夫ではなかった事も示唆している。

色々な書籍の断片から、彼らの活動を復元すると、以下の様なものだったと推測される。

天武は常々高句麗の警告を受け、東鯷人の大率が新羅を応援する事に異を唱えていたが、それが聞き入れられずに百済が滅び、高句麗も唐から挟撃されて滅んだ。天武は高句麗の滅亡に困惑しながらも、亡命者を関東に多数受け入れたから、埼玉県高麗郡に現在まで続く高麗神社があり、高句麗王の系譜を主張する神主が、高麗神社を祭っていると考えられる。古事記の国譲り説話の前段の、大国主を説得する事に失敗した「天」が付く者達の存在は、天武が大率に親族を派遣して異論を唱えたが、聞き入れられなかった経緯を神話化したものだと考えられるが、天武の武力行使は何度も大率を諫めた後の事だったから、やむを得なかったと世間に言い訳している様にも見える。

高句麗の滅亡が現実のものになると、天武の宮家は北方の物産の有力な販路を失い、家業に大きなダメージを受けただけではなく、関東の経済にも深刻な影響を与えたと推測される。その結果、天武は関東の不満分子を糾合し、天智が広めていた革命思想を旗印に、東鯷人政権を打倒する革命軍を起こしたと想定される。革命軍の主力は、南関東の物部を統括していた香取と、北関東の物部を統括した鹿島だった。香取とか鹿島とか言っても、この時代に神社があったわけではなく、物資が集積する湊に商工業者が集まり、そこが話し合いの場だったと考えられる。商工民は世間を渡り歩き、政治意識が高かったから、人数は兎も角として、革命軍の組織的な中核になったと想定される。天武の軍にはその宮家の職業柄、東北の狩猟民集団だった蝦夷も多数参加し、強力な軍事力を形成したと考えられる。延喜式神名帳に記された東北の多数の神社が、高位の叙勲を得ている事が、その事実を示している。高句麗の亡命者も、それに参加した可能性が高い。

天武の勢力が関東を制圧した頃、西日本でも天智に感化された勢力がそれに呼応したから、西日本を中心に作られた連判状の様な庚午年籍(こうごねんじゃく)が、その活動の一端を示していると推測される。しかし古事記に記されたナガズネヒコは、難波の倭国王家の棟梁だったと想定され、西の倭国王家本体は天武の武力討伐や天智の統治思想に対抗した勢力を形成していた事を示唆しているから、その一つの宮家に過ぎなかった天智は、西日本の革命勢力を結集できなかったと想定される。西の倭国王家とその傘下の国々は、商売敵だった高句麗と結託した関東の倭国王家に不快感を示していた可能性が高く、大率の指揮下にあった北陸や山陰では、関東と敵対するべく武力を結集する動きも生まれていた。国譲り説話に登場する建御名方は、その様な北陸勢力の中心人物で、武勇に優れていたと想定される。

天武の軍は関東を進発し、息子達が指揮した水上軍は大阪湾岸の海戦で敗退したが、天武が率いた陸上軍は諏訪湖岸の合戦で建御名方を敗死させ、飛鳥と出雲の攻略に向かったと推測される。出雲と飛鳥を制圧した672年には、天智は既に亡くなっていたので、天武は天智の統治思想を実践する天皇に即位し、関東式の大王墓である八角墳を天智の墓として、天智が統治していた大津に近い山科に御廟野古墳(ごびょうのこふん)を築造したと考えられる。これが日本最大の八角墳で、以降の天皇陵はこれに倣って八角墳になった事は、西の倭国王家の当主が追放されて天智の宮家が西の倭国王家になり、東西の倭国王家が天武の下に統合された事を示唆している。

ここで漸く、新羅の反乱に結び付くのだが、天武の軍が飛鳥や出雲を陥落させた時点では、北九州の倭人は天武の勢力下に統合されなかったから、出雲の陥落と共に東鯷人の大率の統制から解放された北九州の倭人は、自らの意思で行動する独立勢力になったと推測される。神籠石系の多数の山城の存在が、その事を示していると想定され、その様な状況下で北九州の倭人勢力が新羅と連携し、674年に新羅が北九州の倭人勢力の後援を得て、反乱に踏み切った可能性が高い。東鯷人政権が成立した直後の古墳時代中頃に、東鯷人は北九州の倭人の新羅支援を阻止(石井の乱)したから、飛鳥時代の倭王も大率も朝鮮半島に対する不干渉方針を堅持し、それが北九の倭人の強い不興を買っていたと考えられるからだ。東鯷人時代は政権外だった北九の倭人は、百済の滅亡時も蚊帳の外に置かれ、宗像の東鯷人が足繁く百済と往来していた頃は、北九州の倭人は悔しさを滲ませながら、新羅と親密な関係を維持していたと想定される。従って東鯷人政権が倒れると、北九州の倭人は公然と新羅を支援できる様になった。

北九州の倭人は、朝鮮半島の三国時代の動静を見ていたから、政権が割拠する状態に違和感がなく、北九州が独立した政権になる事を当然視していたかもしれない。その先にはやがて、天武の勢力と一戦交える予感があり、神籠石系の山城を多数形成したと推測される。瀬戸内の一部にもそれが形成された事は、この時期の北九州系の勢力が、瀬戸内まで及んでいた事を窺わせる。大阪湾岸の倭国王家は倒されたが、邪馬台国時代の30国が、北九州を中心に依然として結束していた状況が想定される。その様な北九州の倭人を、新羅が頼もしいと考えて反乱に踏み切ったのは、山東半島から海路襲来する唐軍を、倭人の船が阻止する期待があったからだと推測される。実際にその様な活動があったとしても、船が沈められてしまえば唐には、海難なのか海戦なのか、倭か新羅の海賊的な行為だったのか判断できなかったと推測され、人物の勲功を顕彰した史書の、記事の材料ではなかったと考えられる。いずれにしてもそれにより、唐軍の補給路は陸路に限定される事になり、不利な戦いを強いられたと想定される。唐は緒戦で新羅の都を陥落させはしたが、それで反乱が収まらなかったのは、その様な唐の事情があったとすれば説明しやすい。

しかしやがて大和政権の軍事力が北九州に及び、北九州の倭人政権が崩壊すると、新羅の立場は大きく変わっただろう。関東系の大和政権は新羅との人脈がなく、新羅によって高句麗が滅ぼされた事を恨んでもいたから、初期の大和政権が新羅に好意的だった可能性は低いからだ。しかし関東の倭人は、高句麗滅亡時に多数の亡命者を受け入れたから、出雲・北九州攻略軍には、戦闘に慣れた高句麗人が部隊編成で参戦していた可能性もあり、彼らが新羅の反乱軍に高句麗の遺臣が協力している状態を見て、再び日本から半島に渡航した可能性もあり、情勢は混乱したと推測される。従って中国の史書は、新羅が折れて朝貢を再開したと記しているが、新羅が朝貢を再開した本当の理由は、新羅の勝利宣言だった可能性もある。

天武の死後その子が次の天皇になると、新政権内部の対立が顕在化し、西の倭国王系譜の女性が鹿島勢を代表していた藤原不比等と連携し、天武の子を暗殺して天皇になり、後世持統天皇の諡号を贈られたと想定される。しかし彼女は政変直後に文武に譲位したから、諡号が贈られたのは日本紀の成立後だったと推測される。天智と天武には、その事績に相応しい諡号が贈られたから、その延長線上で持統の諡号も決まったとすると、持統は倭国王家の系譜を、皇統に繋いだ女性だった事になる。

それが事実だったとすると、以下のシナリオが成り立つだろう。

天武が巨大な藤原京を造営し続けたのは、それを公共事業として農民から徴収した租税を投資し、物部の経済力向上に取り組むためだったと想定される。その様な施策は全国的に行ったが、コメの生産量が多く技術者も多かった飛鳥が、その様な事業の格好の実施地になったと想定される。元々東鯷人の方が農業管理に優れていたから、天智の思想の中に東鯷人型の農業経営が組み込まれる際に、隋書に示された組織名も取り入れられたと想定され、稲置(いなき)、国造(くにのみやつこ)、県主(あがたぬし)、評(こうり)などは、その制度に使われた名称だった可能性が高い。新羅の制度とも似ているそれらの名称は、東鯷人が持っていた越系文化だった可能性もある。いずれにしても、その様な天武の施策により、多くの物部が豊かになったと想定される。

しかし稲作農民にしてみると、租税を課された張本人でありながら、その還流が薄かったから、彼らの不満が政変の原因になったと想定される。農民出身者が新政権に多数登用され、官僚としての教育を受けると、租税を管理していた藤原氏が彼らを組織化し、農民勢力を代表して持統天皇を担ぎ、政変に至ったと想定される。続日本紀はその記載初期に、物部勢力が次第に力を失い、藤原不比等が権力者になっていく様子を示し、天皇の詔が農民重視に偏重して商工業に興味を示していない事が、その推測の根拠になる。712年に改定された古事記が、藤原氏の顕彰に偏っている事は、香取などの物部勢力は続日本紀の時代には、既に中央政界から駆逐されていたと推測され、この想定と整合する。

 

3-3 日本列島の動乱に関する新旧唐書の記述

3-3-1 旧唐書日本国伝

703年に遣唐使が派遣される以前に、唐は日本国が成立していた事は認識していた。日本国伝の冒頭に、それに関する記述を載せているのだが、その記述は朝議録を抜粋した、紀年体の形式を満たしていない。唐としては、千年以上続いた倭が崩壊し、日本が生まれたと唐突に言われても、俄かに信じる事ができなかったから、新生日本の使者は皇帝に面会できず、朝議録に記載されなかったからだと考えられる。従って旧唐書の編者は、官僚のメモの様な記録から以下の文章を抜粋したと考えられる。

日本国は倭国の別種。その国は日の昇る方向にあったから、日本という名にした。

或いは曰く、倭国の名前が雅ではない事を嫌い、改めて日本とした。

或いは云う、元々日本は小国だったが、倭国の地を併合した。

(唐)朝に入る者(日本の使者)の多くは、大きいことを誇って本当の事を言わないから、中国人は疑っている。

こんな事を言う者がいる。「国境は東西南北各々数千里(10002000km)、西と南は大洋で、東と北には山脈がある。その山の先は、毛人の国である。」

「日本国は倭国の別種」との表現は、日本国と倭国は同一民族の国だが、異なる系譜の王の国である事を意味する。東鯷人の倭王と新生日本の天皇は別系譜だったから、事実に即している。東鯷人の倭王は、自分が倭人ではない事に劣等感を持ち、欺瞞的な言葉で自分も倭人である事を匂わせたが、新生日本の天皇は倭国系譜だったから、自分は東鯷人の政権を倒したのだと、はっきり言ったからだと推測される。

「その国は日の昇る方向にあったから、日本という名にした」は、その国は日本列島の東端にある、関東の国だった事を指すと考えられ、日本書紀が記す甕星がその国の王だったと想定され、倭人時代のその国の名は「日立」だったと考えられる。政変後の大和朝廷がその記憶を失わせるために、農民の国であったかの様に日立を「常陸」に変えた可能性が高い。詳しくは(13)飛鳥時代参照。

「倭国の名前が雅ではない事を嫌い、改めて日本とした」は、東鯷人が統治していた倭を嫌い、また倭の小国分立制を中央集権制に変えたから、国名も一新したと考えられる。当時の慣例としては、日立の宮家が倭人連合の中核になったから、その国を倭国と呼ぶことになったが、天武が倭国と名乗る事を嫌って日本と名乗ったから、日本列島全域も日本になったと考えられる。当時の倭人の習俗としては、中核国の名が小国連合の名前でもあったから、中核国の名が倭国であれば、連合国は皆倭を名乗った。しかしかなり古い時代に「倭」と云う名称が中国に定着したから、中核国が交替しても新しい国が、倭国を名乗り続ける慣習に変わっていた。

「元々日本は小国だったが、倭国の地を併合した」は、倭国王系譜の宮家で日立の王だった天武が、出雲と飛鳥を征服した事を指している。

「国境は東西南北各々数千里」は、海洋民族らしい表現だった。新生日本国の西端が与那国島であれば、関東と与那国島を対角線とする矩形は、東西1700㎞、南北1300㎞で、東北も加えると南北2000㎞だから、それは数千里という事になった。当時の日本人は緯度だけでなく経度についても、距離感を持っていた事になる。しかしこれは中国全土に匹敵する広さだから、

「大きいことを誇って本当の事を言わない」と、唐の役人が判断した。国としての日本の規模はそれほど大きくはない事を、人口とか耕地面積とかを聞いて判断したと推測される。この使者の言い方には首を傾げたくなるが、別の使者の言葉を記載したと思われる新唐書にも同じ表現があるから、当時の日本人は倭人時代から、東西南北各々○○千里と盛んに言っていたと推測される。唐が成立するまでの倭人は、相対的に貧しい漢民族を見下していたが、唐が成立して中国が豊かになったのに対し、日本列島の経済は沈滞していったから、対抗意識からその様に表現していたのではなかろうか。各国の王が毎年、出雲の大率の下に参集していたから、その言い方が倭人全体の公称になったと推測される。

「西と南は大洋で、東と北は山脈」である事は、西は東シナ海、南は太平洋で区切られ、東と北には中部山岳地帯や奥羽の山脈があった事を指している。

「山の先は毛人の国」は、蝦夷は日本人ではないと考えていた事になるが、日本の領域内にも蝦夷はいたと推測され、蝦夷を差別していたからではなく、農民からコメを租税として調達する事を、法で決めた国が日本だったから、コメが生産できなかった東北北部は、日本にはなり得なかったからだと考えられる。

旧唐書は日本に関する幾つかの記録がある中から、天武かその子が天皇だった時期の、使者と面会した官僚のメモを参照した事になる。旧唐書の編者は出来るだけ真実に迫るため、日本国が成立して間もない時期の使者の言葉を、意図的に採録したと考えられる。

 

3-3-2 新唐書日本伝

旧唐書の編者とは異なり、新唐書の編者は政変後の使者の言葉を採録した。

高句麗が滅んでから中国語を習い、倭の名前を嫌って日本と称した。

日本の使者が言うには、「日が出るところに近いから、それを名前にした。」

或いは云う、「日本は小国だったから倭に併合された。倭はその名前を奪って日本と名乗った。」

使者は本当の事を言わないから、疑われる。

また、いいかげんなことを言い、「国都は数千里四方で、西と南は大洋で、東と北は山脈がある。その山の先は毛人の国である。」と云う。

「高句麗が滅んでから中国語を習った」のは、それまで中国語に興味がなかった和歌山・奈良・京都・滋賀の東鯷人か、倭人地域であっても大陸に交易に出掛けなかったから、漢文を使う必要がなかった農民系の人々が、革命を機に漢文を習い始めた事を示唆している。革命後20年以上経ると、政権中枢では交易的な倭人系譜の人は少数派になり、新たに漢文を習い始めた様な人が、使者になってその事情を話したと考えられる。

「日が出るところに近いから、それを名前にした」のは、天武系譜の使者と一見同じ口上だが、隋書に記された倭王の「日が出るところの天子」という表現と重なり、日本の名の由来が日立だった事を隠しているとも読める。

「日本は小国だったから倭に併合された」は、政変によって東の倭国王系譜が倒され、農民政権に代わった後の事を指している。

「倭はその名前を奪って日本と名乗った」は、政変後の政権も、基本的には天智が唱えた中央集権制の国だったから、日本という名前を踏襲した事になる。政変は体制変換に繋がるほどのものではなく、政権内の権力闘争だった事を示唆していると同時に、天智は倭人国の王ではなかったから、政変後の天皇系譜には名乗るべき基盤国名がなく、止む無く一旦倭を名乗ってから、日本の名称を継承したと言った事になる。

「国都は数千里四方」は、旧唐書が記した「国境は東西南北各々数千里」とは異なる概念を示している。

「国境」「国都」は別々の使者が言ったから、旧唐書とは別の文章から異なった使者の言葉を引用した新唐書の著者は、こんな事も言っていたと追加する積りで、この使者の口上を記述したと考えられる。旧唐書の著者は正確に転記する事を重視し、著者自身の推測を交えない人格として、原典に記された「国境」を転記したと考えられるが、新唐書の著者には、中華至上主義に乗って周囲の国を見下す論調が散見されるから、日本の使者の不合理な発言として特記したくなり、やはり記録を正確に転記したと考えられる。従ってこの異常に広い「国都」の表現は、政変後の日本人の意識を知る上で重要な意味を持つ。

「国都は数千里四方」と言った倭の使者は、日本語の「みやこ」に漢字の「都」を宛てたから、中国人がそれを異様に感じて特記したと想定される。倭人時代の人々は、倭国王が支配する国を「みやこ」、即ち「尊い方が居所とする処」と呼び、「倭国」を「みやこ」と読んでいたと推測される。但し「倭国」は中国人のために倭人が使った漢字だから、倭人が身内で使う事はなかったが、その倭人が中国の文献を読む場合には、「都」を「みやこ」と訓読みしていたと推測される。倭人時代には「都」を「みやこ」と訓読みしていても、漢字と訓読みは意味が一致していた。

革命が起こって倭人時代の分国制が否定され、中央集権制になった直後の日本人は、諸国が統合されて日本になったのではなく、倭人時代の慣習として、倭国の国域が全国に拡大したと認識したが、中国人に倭国という表現は使えなかったから、倭国の代わりに浮かんだのは、天皇の居所を指した「みやこ」だったと想定される。つまりその使者は倭国の代わりとして、「みやこ=天皇が直接統治する地域」という従来からの日本語を思い浮かべ、中国人に「都」と言葉で云ったか、漢字でその様に筆談したから、中国人にこの様な誤解を与えたと考えられる。

天武の使者は交易者でもあったから、中華と日本の制度の違いを理解し、「国境」を使ってこの様な誤解を生む表現を避けたが、政変後の日本の使者は、一応中国語を使える程度の知識しかなく、中華の人々との交渉に慣れていなかったから、唐に誤解を与えた事になる。政変後20余年を経た日本の政権官僚には、海外交易の経験者が皆無に近くなり、殆どが漢文を習った農民出身者だった事を示唆している。この使者が派遣されてから5年ほど後に、正式の遣唐使が国の威信をかけて派遣され、唐の則天武后から文化人だと評された。その遣唐使の名前は粟田真人だったから、彼も農民出身だった可能性が高い。中央集権制の政権では、取り扱うべき文章量が膨大になり、分権的な組織と比較すると膨大な官僚群と文章管理を必要とするから、壬申の乱から20年以上経て政変が起きた頃には、農民出身の官僚が政権内で多数派を占める程に、官僚教育が進んでいたと想定される。それでも695年時点では、彼らの知識の成熟には時間が足りなかったという事だろうか。政変が695年に起きたと想定する根拠は、(13)飛鳥時代 参照。

政変直後の天皇も唐に使者を送り、その使者も皇帝に面会できずに悔しい思いをしたので、大和朝廷は改めて、中華的な教養が豊かな高官を遣唐使とし、儀礼を整えて唐朝に朝貢すると、唐は漸く、日本国が倭の後継政権である事を認めた。

 

3-3-3 日本国名と天皇称号の起源

革命が成功して日本が誕生すると、天武が直ぐに唐に使者を派遣した事は、旧唐書の記述から確認できる。その際に天武が唐に提出した親書の署名は、「日本国天皇」だったと想定される。天皇の名称は天智の統治思想の中に、租庸調の税制や官僚制と共に含まれていたと想定されるが、天武の列島統一もプログラムされていたとは考えられないから、日本という国名は、天武が自分の出身地の国名から連想し、命名したと考えられる。天智は国名を決めずに「大倭」を仮称としたから、続日本紀の時代になっても大和朝廷は、大倭を使用したと考えられる。天智の宮家は国を持たなかったから、それ故に先述の使者が「みやこ=都」と間違ったのと逆の発想で、天智系譜を継承した大和政権は日本全体を大倭と呼びながら、奈良県も大倭と呼んだ。しかし奈良時代中期になると、倭を含む言葉を不適切であると考え始め、大和に変えたと考えられる。現代日本人も同じ感覚を共有し、「大和路」は奈良県を指し、「大和魂」では日本を指す事に疑念を持っていない。

統治者の名称を天皇と呼ぶ事は、天智の構想に含まれていたと想定されるが、その証明は複雑な話になるので、ここではその指摘に留め、詳細は遣唐使の章で論考する。

天武が唐に使者を派遣したと想定される670年代の唐の皇帝は、高宗(649683年)で、妃の武則天が実質的な権力者として睡蓮政治を行っていた。武則天が権力を握る過程を、旧唐書は以下の様に記している。

655年「王皇后を廃して武宸妃(武則天)を立て、皇后と為す。」

(その後)「皇帝は天皇を称し、皇后は天后を称す。后は素より智計多く・・・帝は風疾の苦多く、百司の表奏は皆天后の詳決に委ね、国政を数十年輔い、威勢は帝と異る無く、「二聖」と称された。」

674年「皇帝は天皇を称し,皇后は天后を称す」

683年「(高宗が死去すると)群臣が諡して、天皇大帝と云う」

684年 中宗  (母は武則天)

684690年 睿宗  (母は武則天)

690705年 則天武后 (国名を唐から周に変更)

百済滅亡に際し、朝鮮半島の動乱を唐の側で指揮していたのは、高宗ではなく則天武后だった。高宗が天皇を称した時期と、新生日本の使者が「日本の支配者は天皇」であると奏上し、天皇名が署名された親書を手交した時期は、極めて近接していた。日本の使者と面会したのは、武則天だったかもしれない。

旧唐書日本国伝では天皇名を表記せず、「天皇」という記述もないから、その名前に対する唐の評価を窺う事はできない。新唐書の日本紀からの転記部に、「神武立ち、「天皇」と号し、大和州に治を移す。」の記述があるが、それ以外に「天皇」という漢字を表記していない。高宗が天皇を名乗ったから、それに遠慮したからだと想定され、本来であれば新唐書のこの転記も、編者の判断ミスと解釈するべきかもしれないが、新唐書の作者は、天皇呼称を採用したのは日本が先だった事を知っていたから、それを認めた表現だったとも解釈される。神武は高宗より、千年以上昔の人なのだから。

高宗が天皇を名乗ったのは、日本の天皇の存在を知った後だったとすれば、天武は革命戦争に勝利した直後か、それ以前の関東制圧段階で唐に遣使し、新政権の誕生を宣言した事になる。高句麗が滅亡した668年に関東の独立を宣言し、大率勢力と対峙したから、独自に唐に遣使したとも考えられる。その場合短期間ではあるが、日本列島は東西に分裂した事になる。連判状もどきの庚午年籍の成立は670年だから、670年には天武の関東制圧が終わり、東西の対立状態が成立していた可能性が高い。従って天武の関東制圧活動は、高句麗滅亡直後に始まったと考えられる。

 

4、遣唐使

大和政権は唐に華々しく使者を派遣し、対等な交流を目指した。このHPでは、この華々しい使者を「遣唐使」と呼び、それ以前に派遣された者は単に「使者」として言葉を使い分ける。政変直後の大和朝廷が送った使者の、質が劣っていた事を唐朝に指摘されたから、威信をかけて送ったのではなかろうか。

日本が初めて遣唐使を送ったのは、703年だった。旧唐書にこの時の朝貢使の名前と、その人物評が記載されている。この時期の新羅伝にはこの様な記述はなく、唐朝が日本を倭の後継国として認め、高い関心を持った事を示している。

703年 日本国の大臣、粟田朝臣真人が来朝した。立派な衣装を身に着けていた。真人は経書や史書を好んで読み、文章を綴る事を理解し、物腰は温雅だった。則天武后は真人を麟徳殿に招いて宴を催し、司膳卿の官を授け、留めおくことなく本国に帰還させた。

続日本紀に、粟田の真人が初めて唐に着いた時の事が記されている。

楚州(淮河下流)の唐人が、互いの身分を確認した後に、「しばしば聞いたことだが、海の東に大倭国があり、君主国ともいい、人民は豊かで楽しんでおり、礼儀もよく行われているという。今使者をみると、身じまいも大変清らかである。本当に聞いていた通りである。」と言って去った。

大倭という名称は、政変後の政権が付けた名前だから、唐の都長安から遠く離れた楚州の港湾の実務役人が、大倭は豊かで文明的な国だとしばしば聞いていたのは、則天武后の意向を受けた高級官僚が、695年以降に、しばしばその様に言っていたからだと想定される。それが則天武后の認識に由来したとすれば、粟田の真人を異常に歓待した理由も明らかになる。

則天武后は、中国歴代の皇帝の中で唯一の女帝だった。従って則天武后は、女帝の身分を正当化せねばならない立場上、女王卑弥呼を輩出した倭は、唐が見習うべき文明国であると、常々臣下に言っていた事が想定される。その様な主張が唐で通用する基本的な土壌として、倭は文明国であるという認識があった事になる。

「則天武后は真人を麟徳殿に招いて宴を催した」事は、その仮説を確実なものにすると同時に、則天武后自身も、倭が文明国である事を確認する場だったのかもしれない。唐を建国した鮮卑族には、漢民族の様な極端な男尊女卑の習俗はなく、女性の地位が高かった事が背景にあるだろう。倭と文化的に近い新羅で、2代に亘って女王が統治した時期があったが、その新羅を通して、倭が大国であると同時に文化レベルが高い事を知っていたから、新羅より日本を重視したと推測される。

「司膳卿の官を授け、留めおくことなく本国に帰還させた」のは、則天武后の特別な計らいだった様に見える。中華には売官制があったから、冊封国の使者に官職を授与する場合は、使わなくなった古い官職名を授与し、実務官僚には新しい官職名を付与する事が一般的だった。しかし則天武后が粟田真人に与えた司膳卿は、則天武后の食膳を用意する実務官だったから、留めおくことなく本国に帰還させた事は異例の事態だった。粟田真人を厚遇するあまり、実務官僚の職位を叙任してしまった事になる。則天武后は倭人とその後継者の日本人を、親密な存在であると考えていた事を示している。

則天武后は山西省文水の出身で、完全に内陸の人だったから、この様な倭人贔屓は文献的な知識に由来していたと考えられ、女王卑弥呼が登場する魏志倭人伝を、熟読していた事が想定される。それは則天武后の個人的な趣味ではなく、男女平等だった鮮卑族の女性達が、中華的な男尊女卑思想に辟易し、魏志倭人伝を鮮卑族女性共通の愛読書としていた可能性も高い。自由を求めていた唐朝の女性達にとって、卑弥呼は中華世界では例を見ない、魅力的な女性像だったと考えられるからだ。魏志倭人伝に描かれた卑弥呼は、多数の女性が仕え、神秘的でありながら有能で統制力に溢れ、秩序ある統治を行いながら、情勢に対応する機敏な判断を示していた。その上に、卑弥呼の後継王も若い女性だったから、一代限りの傑物ではなく、制度的に認められた存在だった。想像を逞しくすれば、幼い頃から才女だった則天武后は、周囲の女性達と共に、魏志倭人伝を暗記するほどに読み込んでいたのではなかろうか。

壬申の乱直後の日本の使者が、天皇署名の親書を提出し、それに触れた則天武后が高宗に、天皇を称する事を勧めた可能性はあるだろう。「倭国王」という名称では、則天武后としては取りつく島もなかったが、「天皇」であれば女王を戴くこともあった倭と、密かに制度を共有する事ができたからだ。その事は、先例がない女帝になった則天武后に(この時は未だ后だったが)、精神的な支柱を与える魅力的なアイディアだったかもしれない。更に想像を逞しくすれば、則天武后が新生日本の使者を面接し、新生日本が卑弥呼時代の倭人の伝統を、どの程度継承しているのか詳しく知りたくなって、使者に詳しく問い質し、東鯷人が派遣した使者の言葉より、更に女性の権力が高かった倭人社会の様子を、関東の倭人社会から派遣された天武の使者から聞いて歓び、その頂点にいた天皇の呼称を、高宗も名乗る事を推進した可能性がある。関東系の倭人が著述したと想定される古事記は、出雲系の人々の世界を高天原が代表する倭人社会より、男性主導的で暴力的な社会として描いているからだ。

玄宗皇帝の始めの頃(720年頃)、 (遣唐使の)使者が儒者から経書を教えて貰いたいと申し出たので、助教にその役所で教えさせた。その礼として、(使者が)幅広の布を贈ると、そこに「調布」と記されていたが、(品質が高いので)中国人は「調布」ではないだろうと疑った。その使者は、中国で貰った贈り物の全てを投じて書籍を購入し、海を渡って帰った。その副使の朝臣仲満は、中国を慕って帰国せず、中国式の姓名に変えて唐朝に仕え、皇帝直属の官になり、その後も高官を50年歴任し、官を解いて帰国させようとしても、書籍を好んで帰らなかった。

遣唐使の副使だった朝臣仲満は、阿倍仲麻呂だったと考えられる。仲麻呂が日本に帰りたがらなかったのは、唐の文化に余りに精通した自分の居場所が、日本にはないと感じたからだろう。壬申の乱の直後には、大和政権の唐に学ぶ姿勢が盛んになり、仲麻呂はその様な雰囲気の中で猛勉強し、中華的な発想が出来る様になった。しかしこの秀才が成人する頃に、天武系の交易重視の天皇から農業重視の天皇に変わり、大和朝廷の政治方針に大きな変化が生まれていた。大和朝廷は交易者を疎外し、唐に学ぶ発想から倭人的な発想に回帰し始めていたから、仲麻呂が活躍する場がなくなったと推測される。

仲麻呂は760年頃に、唐朝に抜擢されて鎮南都護に任じられた。その任地は安南都護府で、宋平 (ハノイ) に治所があり、広東、広西南部、雲南南東部、ベトナム北部の諸民族も統治した。仲麻呂を抜擢して叙任した背景には、安史の乱(755年~763年)の混乱があり、それを収拾させる意図があったと考えられる。従って仲麻呂は、統治能力を期待されて抜擢された事になり、唐から見れば外国人だった仲麻呂に何を期待したのか、考える必要がある。倭人時代以降も、海洋交易民として日本人がこの辺りに出向いていた事を、この記事が窺わせるからだ。この時代の大和政権は、農民統治の安定化に汲々としていたから、朝廷記録である続日本紀からは窺うことが出来ない交易者の活躍が、この時代にも濃厚に存在し、仲麻呂はその様な勢力の出身者だった可能性を示唆する。この事はまた、海洋民族としての倭人が持っていた漢文に対する知識は、かなり高いレベルに達していた事を示唆する。

奈良時代に盛んに遣唐使が派遣され、それによって唐の文化を吸収し、奈良朝が文明化したと主張する人がいるが、奈良時代の支配階級は、中華の文化より倭人由来の伝統的な文化を重視していたと推測される。漢字の読み音は倭人時代の呉音が継続され、隋唐の漢音に変わる事はなかったし、奈良時代に発展したと考えられる万葉仮名にも、呉音が使われたからだ。飛鳥時代以前に漢字文化が定着していたから、改めて隋唐から学ぶ必要はなかった様に見える。文化総体としてはその様な状況だったが、王朝の統治制度については倭人時代に全く経験がなかったから、唐から学ぶ必要があった。王朝統治に協力する仏教も、唐から学ぶ必要があった。従って奈良・平安王朝には、唐から学ぶ事が沢山あったが、文芸を好む知識人や庶民にはその必要がなかった。

王朝だけが文化レベルが余り高くない中華から学ぶという実態は、王朝の権威を酷く損ねる事になるから、日本の王朝としては、唐の文化は先進的であると言い張る必要があり、倭人文化を貶める必要があった。つまり日本の文化は、何でも大陸由来であると王朝貴族が言い張る事が、常態化したと考えられる。古事記に既にその傾向が読み取れるから、中華に真似た王朝を形成した権力者は、必然的に倭人文化を貶める必要があった事になる。現代の史学者も王朝文化を至高とし、その伝統に従っている。

工芸品や製紙技術は日本の方が進んでいた事を、新唐書日本伝は以下の様に認めている。

780年、日本国の使者の真人興能(おきよし)が、国の産物を献上した。・・・興能は書にすぐれ、彼が用いる日本産の紙は、蚕の繭に似てつやがあり、唐の人は初めて眼にするものだった。」

日本には世界最古の印刷物として、奈良時代に作られた百万塔 陀羅尼(ひゃくまんとう だらに)があるから、製紙技術が中国から伝わったという史学者の主張も、上記の王朝貴族の伝統に従っている様に見える。この時期の日本の紙の素材である梶は、縄文時代に衣服の素材として、南シナ海沿岸の海洋民族から伝来したと考えられ、古い時代から日本にあった。梶は中国にもあった筈だから、中国人はそれを紙にする技術を知らなかった事になる。現在の和紙の原料であるコウゾは、梶と近縁の樹になる。

新唐書日本伝の締めくくりに、「北は新羅と、西北は百済と(海を隔て)、西南は越州(福建・浙江省)に直通している。絲絮、怪珍があると言われている。」と記している。絲絮は各種の絹織物を指したと想定され、怪珍は滅多にない珍物を指す。珍物は単に珍しいものを指したのではなく、財貨・財宝となる物品を意味したから、怪珍は夜光貝を使った螺鈿細工などの、中国では滅多に見る事ができない高級な工芸品を指したと考えられる。

 

5、新唐書が示す日本紀の断片

続日本紀に、720年に日本紀が成立したと記されている。それが唐に提出されたから、新唐書の著者は日本紀に記された天皇系譜を転記し、倭に関する唐朝の朝議録を天皇の在位と関連付けて転記した。新唐書は初めて日本紀の内容を披歴した史書なので、その様な場合の史官の流儀として、唐代以前に遡って日本紀の内容を紹介したが、原典は日本紀であるとは記していない。しかし日本書紀に似たその内容を見れば、日本紀の転写である事は間違いない。しかしその内容は、日本書紀とは大きく異なっているから、日本紀と日本書紀は異なった書籍だった事も間違いない。

新唐書は日本紀の天皇系譜を丸写しにして掲載している。その理由は、倭王は皇帝宛ての親書に襲名しか署名しなかったから、個人を識別する事が出来なかった旧唐書の著者は、倭国伝にも日本国伝にも倭王の名や天皇の名を記載せず、その個人的な識別は断念している。これは史書としては異例な事になる。新唐書の編者はそれに不都合を感じ、日本紀を参照して捏造された天皇の諡号を拾い、唐の朝議録と照合しながら中華風の日本伝に仕上げた。天皇制の時代になった奈良時代も、天皇の親書には個人を特定する名前を記さなかったから、新唐書の編者はその時代の天皇名も、その時代の唐朝の朝議録から拾ったと想定されるが、続日本紀とは大きな食い違いがある。

目立った食い違いとしては、日本書紀に記された神話がなく、冒頭等から中華的な系譜の羅列から始まっている事と、遣隋使を派遣したのは日本書紀では、聖徳太子が摂政を務めた推古天皇だが、新唐書に転記された日本紀では用明天皇になっている事が挙げられる。

以下に新唐書に転記された冒頭部分を示す。

其の王の名は「あめ」氏、自ら言う、初主は天御中主(あめのみなかぬし)と号し、彦瀲(ひこなぎさ)に至るまで凡そ三十二世、皆「尊」を以って号と爲し、筑紫城に居す。  彦瀲の子神武立ち、更に「天皇」を以って号と爲し、治を大和州に徙(うつ)す。

新唐書に転記された日本紀には古事記や日本書紀の神話時代がなく、その代わりに32世の統治時代があるが、神武以降の天皇名は古事記や日本書紀と殆ど変わらない。日本紀の8年前に成立した古事記の神話では、中国人に馬鹿にされると考え、中華的な系譜を捏造して唐に申告したと考えられる。

天御中主から始まる天皇系譜は、中国で言えば殷・周代から始まった事になり、新唐書の著者はそれも理解した筈だから、宋の一流文士も日本列島に長い文明史があった事を、疑問視していなかった事になる。しかし陳寿が提起した「九夷倭人説」に関して言えば、大和朝廷は唐・宋代の中国人に対し、夏王朝期には皇統の祖先はいなかったと申告し、自ら「九夷倭人説」を取り下げた事になる。この態度は、倭人時代を否定したかった大和王朝として当然の事だが、古代海洋文化を否定したかった唐朝にとっても好ましい認識だったから、唐書以降の史書は「九夷倭人説」に言及する必要はなくなった。それ故に旧唐書は東夷列伝の位置付けを下げ、序は付けていない。各列伝の最後に編者の評を付けているが、東夷列伝にはその評もない。

以下は遣隋使について記された部分

次は用明。亦たメタリシコとも曰い、隋の開皇(581年~600年)末にあたる。初めて中国と通じる。次は崇峻。

「初めて中国と通じ」たのは、隋書に「開皇二十年、倭王の姓はアメ、字名はタリシヒコ、号してアヘケミというものが、遣使して王宮の門に至る。」と記されている事を指し、隋書と新唐書は整合性のある記述になっている。日本書紀に記載されているのは、607年(推古15年)に小野妹子が、大唐国に国書を持って派遣されたと記されているのが遣隋使の初出で、「日出る処の天子」で始まる国書を持参した事は、隋書と一致している。隋を大唐国と記す間違いは、先代旧辞本紀にその初出がある事は既に指摘した。

712年に改訂された古事記は推古天皇で終わっているが、新唐書にはその続きの天皇名が記載されているから、日本紀が創作された720年までの間に、舒明天皇以降の系譜が創作された事になる。その諡号は、天武までほぼ日本書紀と同じだが、最後は持統天皇ではなく総持天皇になっている。元正天皇(げんしょうてんのう)の時代に編纂された日本紀は、本来であればその一代前の元明天皇(げんめいてんのう)紀まで編纂した筈だが、その30年前の、文武天皇の直前の時代までが記述されていた。後世の我々が目にしている、壬申の乱以降の捏造史に関しては、日本紀の執筆時にはその構想もなかったと想定され、新唐書はその部分を以下の様に記している。

天智死し、子の天武立つ。 死し、子の総持立つ。

日本書紀は天皇系譜の最後を、天智の子で天武の妻だった持統としているが、日本紀は総持だった。天智と天武を親子関係としたのは、中華思想に迎合するための嘘だったと考えられるから、さほど問題にする必要はないが、総持という我々が知らない天皇名については、大きな課題を提起する。

既に挙げた以下が、上の文に続いている。

670年 唐が高句麗を平定した事を賀す。

その後中国語を習い、倭の名前を嫌って日本と称した。

日本の使者が言うには、「日が出るところに近いから、それを名前にした。」

或いは云う、「日本は小国だったから倭に併合された。倭はその名前を奪って日本と名乗った。」

使者は本当の事を言わないから、疑われる。

また、いいかげんなことを言い、「国都は数千里四方で、西と南は大洋で、東と北は山脈がある。その山の先は毛人の国である。」と云う。

701年、其の王文武立ち、改元して大宝と曰う。

新唐書は、唐が高句麗を平定した事を賀した670の天皇は総持だったと見做し、壬申の乱の際の天皇も総持だったとしているから、日本紀には、壬申の乱にまつわる天武の事績は記されていなかった事になり、壬申の乱そのものが記されていなかった可能性が高い。695年の政変に巻き込まれた天武系譜の総持については、時代が近すぎて関係者が多数生存し、天皇名を抹消する事ができなかったから、そのまま記載されたと想定される。日本書紀では、天武は別人に差し替えられている。

「持統」が誤植によって「総持」になったとは考えられないから、720年時点の大和朝廷の見解は、天智―天武―総持―文武だった事になる。ちなみに日本書紀では、天智―天武―持統―文武になっている。総持が後世の史書で抹殺された事は、文武が即位する直前に、大和政権に政変があった事を示している。政変の詳細は(13)飛鳥時代参照。続日本紀には、697年に文武が即位した事になっているが、720年の大和朝廷の認識では、文武の即位は701年だった事になる。続日本紀は701年正月の年賀の儀礼について、「このようにして文物の儀礼がここに整備された」と記しているから、697年に文武を天皇とする体制が固まったが、政変に伴う動乱の余波があり、儀礼に目を向けている状態ではなかった事を示唆し、続日本紀はこの時期の記録の中から、政治的な混乱を示唆しない記事を選んで掲載した事を示している。

諡号は天皇の死後に贈られるものだから、初回遣唐使が持参した親書には「文武」という署名はなく、個人を特定できない名前として、「日本国天皇」としか記されていなかっただろう。初回遣唐使も、「今上陛下」と云う様な言い方をしただろう。それでありながら、

701年、其の王文武立ち、と新唐書が記しているのは、唐王朝が文武の死後の遣唐使から、文武の諡号を聞き出して朝議に記録したから、新唐書の編者はそれを参照した事になる。続日本紀は文武の即位を697年としているから、唐に対する直近の系譜の誤魔化しに、混乱があった事を示している。

いずれにしても唐王朝は、日本の天皇が諡号を使う事を認めていた事になり、隋の煬帝の様に、東に別の天子がいることを拒んでいなかった。則天武后がその先鞭を付け、朝議録がその指示に従って記されたから、唐朝ではそれが先例になった可能性が高い。初唐期に編纂された史書は皆、「九夷倭人説」を徹底的に批判していたが、則天武后やその取り巻きの官僚は、魏志を読んで倭人と日本人に敬意を払っていたと想定される。

冊封国だった新羅王に関する記述は、諡号ではなく本名を使った。以下に、旧唐書新羅伝の抜粋を示す。

天寶二年(743年)、承慶が死去、詔を以て賛善大夫の魏曜を派遣し、これの葬祭に行かせる。その弟の憲英を新羅王に冊立、并わせて兄の官爵を踏襲させる。

大暦二年(767年)、憲英が死去、国人はその子の乾運を王に立てる。

建中四年(783年)、乾運が死去、子がなく、国人はその上相の金良相を王に立てる。

貞元元年(785年)、良相に檢校太尉、都督雞林州刺史、寧海軍使、新羅王を授ける。

その年、良相が死去、上相の敬信を王に立てる。

唐が朝議録に天皇の諡号を記入した事は、天皇を皇帝と同格に扱った事を意味する。天皇の諡号を認めたくなければ、天皇の幼名を聞き出し、史書にその名前を記す事も出来た筈で、文武天皇の次の元明天皇には幼名を記しているが、それ限りでまた天皇の諡号を記載している。

 

6 記紀を文学として見直す

6-1 古事記

古事記には、日立を賛美している天孫降臨説話と、関東を貶めているヤマトタケルの関東征伐の説話がある。従って壬申の乱に勝利した直後の、天武が創作を指示した原古事記と、政変があってから、太安万侶が改変した改訂古事記があったと考えられ、太安万侶が改訂古事記に付与した序は、比較的正直に天武の事績を記している。その記述にはぼかしがあり、正確な事は分からないが、古事記を著述したり改変したりするのは皇族の権限で、官僚だった太安万侶には、嘘を記述する事は許されていなかった事が分かる。その詳細は(15)古事記・日本書紀が書かれた背景で考察するが、原古事記を著述したのは稗田阿礼で、彼女は天武の妻だったと考えられる。古事記の改訂を太安万侶に命令したのは元明天皇だったが、実際に改訂部を執筆したのは元明天皇か元正天皇のいずれかだったと想定される。

続日本紀に、日本紀は720年に成立したと記され、古事記の序には712年に序を記したと署名されているが、続日本紀の712年には古事記成立に関する記述がない。それ故に古事記偽書説まで生まれたが、壬申の乱の直後に原古事記が成立していたから、712年は古事記が成立した年ではなく、古事記を改訂して序を付けた年だった。712年の大和朝廷としては、改訂古事記は原古事記に僅かな訂正を加えた事にしたかったから、朝議録にその成立は記されなかったと考えられる。大幅に訂正を加えれば、古事記の正統性が痛む事になるが、古事記の神を祭る神社が全国に生まれつつあり、それが庶民を統治する道具として機能していたから、古事記の権威が痛む事は避けたかっただろう。しかし原古事記には、関東出身の天武を礼賛する記述が溢れていたから、それを削除して辻褄を合わせる必要があった。しかし天武を支持していた関東人を貶めたい気持ちが強かったらしく、ヤマトタケルの東征説話の様なその種の記述が、改訂古事記である現行の古事記に充満している。元明天皇や元正天皇は、天武系の総持天皇を酷く憎んでいた事を示唆している。しかし改訂古事記になっても、日立を礼賛している天孫降臨説話は残された事は、東西の倭国王家は祖先を共有していた事が分かる。また降臨後の九州日向時代に関する説話を、大幅に改訂した。その理由を詮索すると、持統天皇の夫は原古事記が礼賛した天武ではなく、歴史的には無名の、天智の弟だった事が分かる。その人物は、大津の宮家の当主だった天智を引き継いだ、その宮家の最後の当主だったと推測され、姪である持統天皇を妻にした事は、新唐書新羅伝に記された新羅王の婚姻規則に準拠している。

 

6-2 日本書記の17条憲法

日本書紀の成立は江戸時代だったと推測され、多数の文献を参照している事から考えると、個人の編纂ではなく多数の国学者の合作だった可能性が高い。朝廷が権威を持っていた時代には、地域性を無視した画一的な指令に反発する風潮が強く、その失政によって天下は大いに乱れたが、朝廷が完全に権威を失って政治に関与しなくなった江戸時代になると、無能な朝廷政治に対する人々の反発はなくなり、江戸幕府に不満を持つ勢力が勤皇思想を生み出し、日本書紀を編纂したと推測される。但し多数の文献が引用された儘で放置され、その取捨に関する結論に至っていない事は、伝承を整理する事が目的だったと想定される。幕末になってこれに注目した者達が、それを日本紀と混同させる策略を駆使し、その後の勤皇思想と明治政府の方針が、現在の日本書紀のポジションを確立したと考えられる。

日本書記が、聖徳太子の17条憲法として記載している条文は、先代旧辞本紀が記された時代に既に公文書になっていたから、先代旧辞本紀には記されていない。それを何処から探し出して日本書紀に書き込んだのは、日本書紀を学術的な書籍として編纂した人々だったと推測される。17条憲法の文意や言葉は古風だが、基本精神を抽出して現代風に焼き直すと、まるで現代日本の一流企業の社訓ではないかと錯覚する程に、日本企業が規範とすべき考え方を網羅し、極めて日本的な価値観に基づいている。従ってこの様に高度な組織論である17条憲法のオリジナル文章は、産業化した倭人社会の優れた組織論だったと考えられ、農民管理を基本とした奈良・平安時代の、官僚組織から生まれたとは想定出来ない。

古事記と並ぶ日本神話の書として知られている先代旧事本紀の序に、聖徳太子尊が先代旧事本紀の編纂を命じたと記されているから、先代旧事本紀が9世紀に成立したとすれば、聖徳太子像も9世紀に確立した事になる。宋史によれば、984年に日本の僧が宋に入朝し、その時代の今上天皇までの年代記を提出し、それに聖徳太子が偉大な人物として描かれていた。

先代旧事本紀は、原古事記を創作した天武朝が政変によって追放されると共に、物部の有力者も下野させられた後に、物部が再改訂した古事記だったと考えられる。従って聖徳太子は、物部が作り出した理想の聖人で、17条憲法の原典は聖徳太子を偉人と判定する物部の根拠、即ち物部の聖典だった可能性が生まれる。

平安時代の初期に朝廷が編纂した年代記に、聖徳太子が聖人として記述されていた事は、朝廷と物部の間に妥協が生まれていた事を示唆する。朝廷の本音としては、唐から輸入した中華風の価値観を推進すると、世の中が乱れていく実感があったから、部分的にでも、平和で秩序が保たれていた倭人時代に戻る必要を感じ、倭人時代から引き継がれていた物部の組織力を、朝廷の官僚統治に取り込む期待があったと想定される。年代記が編纂された時期は、朝廷が統治規範としていた唐が滅亡し、承平天慶の乱が終息した直後だったから、朝廷にも王朝統治に関する危機感が生まれていた事を示唆している。平安時代になっても倭人的な価値観を組織的に維持していたのは、物部を代表とする商工業者者か、神社を中心に地域的に結束し、どちらかと言えば朝廷に反抗的な神社勢力しかなかったと想定されるから、朝廷は物部に擦り寄り、物部も共同統治者的なポジションを得ようとした疑いがある。この頃から朝廷生活が華美になり、十二単を纏った女性達の絢爛豪華な宮廷絵巻が展開されたのは、朝廷が物部に擦り寄った結果だと考える事に合理性があるだろう。朝廷と物部の共同統治により、朝廷官僚に活気が生まれたと考える事もでき、現代的に言えば、官僚機構の実務者に実業界から人材を取り入れ、公共事業や政府調達を活発化した事になる。そのためには財源が要るから、藤原氏は荘園制を取り入れて地方のコメを都に集め、その輸送に地方の富裕な豪族の郎党を狩り出し、輸送・宿泊経済も活発化させながら地域経済に貢献したと推測される。それらの経済活性化策の成果が、華麗な平安王朝を生み出したとすると、経済論的に整合する。

聖徳太子は東鯷人の王子だったから、倭人系の物部が朝廷に接近したのであれば、話に齟齬が生まれる事になり、その様な事情からこの時代の物部事情を推測すると、物部の世界では、倭人系と東鯷人系の区分が既に失われ、物品の生産に優位性を持っていた東鯷人系譜が、むしろ指導的な地位を占めていたと想定され、それ故に平安京も、東鯷人系の国だった京都盆地に設定されたと考えられる。従って加茂神社系譜の旧東鯷人系の人々が、御所市の高鴨神社から独立して新たな勢力を結成し、平安京を迎え入れた可能性も検討すべきではなかろうか。

17条憲法の基本精神は、組織人としてあるべき人間像を示す事にあり、そのためには、人を教育する事が重要であると指摘し、その手段を具体的に示している。自律的に組織力を強化できる集団の、構成員に必要な心得を具体的に説き、禁止事項を列挙するのではなく、組織人としての善を具体的に諭している。仏教的な道徳観を推奨しているが、仏教徒になる事を求めているのではなく、その宗教哲学を習得した人の講話を聴くことを推奨している。これは神仏習合的な日本の神社宗教の、基本精神であるとも言えるだろう。

組織が人の集まりである以上、構成員に望ましい心得を持たせる事が、最も重要な組織論であるという発想は、現代の日本企業が求める日本的な運営方策でもある。現代の日本企業が優良な成果を上げているのも、そこに根源的な理由があるからだと言えるだろう。

以下に17条憲法の具体的な内容と、現代日本の社訓風に翻訳したものを示す。

 

現代語訳(宇治谷孟訳)

現代的な意訳

1条

和を大切にし、いさかいをせぬようにせよ。人は皆それぞれ仲間があるが、全くよく悟った者も少ない。それ故君主や父にしたがわず、また隣人と仲違いしたりする。けれども上下の者が睦まじく論じ合えば、おのずから道理が通じ合い、どんなことでも成就するだろう。

物事を決める時は、上司や部下が集まる会議を開催し、議論する。

和やかに、論理的な議論を深めれば、成功の鍵が見つかるだろう。

派閥的な言動は慎む。

2条

篤く三宝を敬うように。三宝とは仏、法、僧である。仏教はあらゆる生きものの最後のよりどころ、すべての国の究極のよりどころである。いずれの世、いずれの人でも、この法を、あがめないことがあろうか。人ははなはだしく悪いものは少ない。よく教えれば必ず従わせられる。三宝によらなかったら何によってよこしまな心を正そうか。

コンプライアンス教育で、社員の道徳感を高める。

風土になってしまっている旧弊を正すためには、先進的な発想を学ばなければならない。

 

3条

天皇の詔を受けたら必ずつつしんで従え。君を天とすれば、臣は地である。天は上を覆い、地は万物を載せる。四季が正しく移り、万物を活動させる。もし地が天を覆うようなことがあれば、秩序は破壊されてしまう。それ故に君主の言を臣下がよく承り、上が行なえば、下はそれに従うのだ。だから天皇の命を受けたら必ずそれに従え。従わなければ結局自滅するだろう。

社長の方針や指示をよく聞き、それに従う。

この姿勢を部下に示し、手本にさせ、社風を改善する。(率先垂範)

意思決定の秩序を乱してはならない。

4条

群卿百寮は礼をもって根本の大事とせよ。民を治める根本は必ず礼にある。上に礼がないと下の秩序は乱れ、下に礼がないときは、きっと罪を犯す者が出る。群臣に礼があるときは、秩序も乱れない。百姓に礼があるときは、国家もおのずから治まるものである。

社員は礼儀を重んじ、言葉遣いに気を付ける。

5条

食におごることをやめ、財物への欲望を捨て、訴訟を公明に裁け。百姓の訴えは1日に千件にも及ぼう。1日でもそれなのに、年を重ねたらなおさらのことである。この頃訴訟を扱う者が、利を得ることを常とし、賄賂を受けてから、その申立てを聞く有様である。つまり財産のある者の訴えは、石を水に投げ込むように、必ず聞き届けられるが、乏しい者の訴えは、水を石に投げかけるようなもので手ごたえがない。このため貧しいものはどうしようもない。臣としての役人のなすべき道も失われることになる。

財物への欲望を捨て、贈収賄を避け、公平な判断を行なう。

6条

悪を懲らし善を勧めるのは、古からのよい教えである。それ故、人の善はかくすことなく知らせ、悪を見ては必ずあらためさせよ。へつらいあざむく者は、国家を覆す鋭い道具のようなもので、人民を滅ぼす鋭い剣とも言える。またこびへつらう者は、上に向かっては好んで下の者の過ちを説き、下にあえば上の者の過失をそしる。これらの人はみな、君に忠義の心がなく、民に対して仁愛の心がない。これは大きな乱れのもととなるものだ。

善を勧め、悪を正す行動を推奨する。

模範とすべき事があれば皆に知らせ、不都合な行為があれば、必ず改めさせる。

不都合な行為とは、不正確な情報を広め、表裏ある行動を取る事である。

失敗があれば、部下の過ちと言い訳し、上司の判断ミスを揶揄すると言う様な精神は、正さねばならない。

7条

人はそれぞれ任務がある。司ることに乱れがあってはならぬ。賢明な人が官にあれば、ほめたたえる声がすぐ起きるが、よこしまな心をもつ者が官にあれば、政治の乱れが頻発する。世の中に生まれながらにして、よく知っている人は少ない。よく思慮を重ねて聖となるのだ。事は大小となく、人を得て必ず治まるのである。時の流れが早かろうが遅かろうが、賢明な人に会った時、おのずから治まるのである。その結果国家は永久で、世の中は危険を免れる。だから古の聖王は、官のために立派な人を求めたのであり、人のために官を設けるようなことをしなかった。

人にはそれぞれの任務がある。

有能な人材は、適材適所に使う。

人のために、無用なポストを作ってはならない。

人は始めから有能なのではなく、能力は努力の賜物である。

有能な人が担当すれば、おのずから業務は遂行される。

仕事に打ち込み、技量を高めた人を有能な人材とし、適材適所に使う発想が強いのは、日本企業の特徴。

8条

群卿や百寮は早く出仕し、遅く退出するようにせよ。公務はゆるがせにできない。1日中かかってもやりつくすのは難しい。それ故遅く出仕したのでは、急の用に間に合わない。早く退出したのでは、必ず業務が残ってしまう。

勤務時間の厳守。

9条

信は道義の根本である。何事をなすにもまごころを込めよ。事のよしあし成否の要はこの信にある。群臣が皆まごころをもってあたれば、何事も成らぬことはない。群臣に信がないと万事ことごとく失敗するだろう。

社員間、取引先と、信頼関係を構築する。その基本は誠意である。

無契約で取引する日本独特の「誠意」が、盛り込まれている。

10

心の怒りを絶ち、顔色に怒りを出さぬようにし、人が自分と違うからといって怒らないようにせよ。人は皆それぞれ心があり、お互いに譲れないところもある。彼が良いと思うことを、自分は良くないと思ったり、自分が良い事だと思っても、彼の方は良くないと思ったりする。自分が聖人で、彼が必ず愚人ということもない。共に凡人なのだ。是非の理を誰が定めることができよう。お互いに賢人でもあり愚人でもあることは、端のない環のようなものだ。それ故相手が怒ったら、自分が過ちをしているのではないかと反省せよ。自分ひとりが正しいと思っても、衆人の意見も尊重し、その行なうところに従うがよい。

業務上の判断が異なる人に対し、感情的になってはいけない。

業務に感情を持ち込まない。

先ず自分を省みて、反感を持った原因を確かめる。

独善は、感情的な反発を生じやすいから、多数の人の意見を尊重し、思い込みに陥らない様に心掛ける。

 

11

官人の功績・過失ははっきりと見て賞罰は必ず正当に行なえ。近頃、功績によらず賞を与えたり、罪がないのに罰を行なったりしているのがあり、事に当る群卿は、賞罰を公明に行なわねばならぬ。

人事評定は公明に、正当に行なう。

12

国司や国造は百姓から税をむさぼってはならぬ。国に二人の君はなく、民に二人の主はない。国土の内のすべての人々は皆王を主としている。仕える役人は皆王の臣である。どうして公のこと以外に、百姓からむさぼりとってよいであろうか。

私腹を肥やしてはならない。

公私を混同してはならない。

13

それぞれの官に任ぜられた者は、皆自分の職務内容をよく知れ。あるいは病のためあるいは使いのため、事務をとらないことがあっても、職場についたときには、以前からそれに従事しているのと同じようにし、じぶんはそれにあずかり知らぬからといって、公務を妨げてはならぬ。

職務に精通し、業務をたらい回ししない。

14

群臣や百寮はうらやみねたむことがあってはならぬ。自分がひとをうらやめば、人もまた自分をうらやむ。うらやみねたむ弊害は際限がない。人の知識が己にまさる時は喜ばず、才能が己に優る時はねたむ。こんなことでは五百年にして一人の賢人に会い、千年に一人の聖人の現れるのを待つのも難しいだろう。賢人聖人を得ないで何をもって国を治められようか。

恨んだり妬んだりしてはならない。

他人の才能に嫉妬してはならない。

現代人は指摘できないが、重要な要件

15

私心を去って公につくすのは臣たる者の道である。すべての人が私心のある時は、必ず他人に恨みの心をおこさせる。恨みの心があるときは、必ず人の心は整わない。人々の気持が整わないことは、私心をもって公務を妨げることになる。恨みの気持がおこれば制度に違反し、法を破ることになる。第一条に述べたように、上下相和し協調するようにといったのも、この気持からである。

私心を捨てて業務に専念する。

私心を持てば他人の恨みを買う。

恨みを持てば、仕事に集中できない。

  仕事の進捗に影響する。

  職場の秩序を乱す。

職場が上下協調すれば、この弊害を抑制できる。

この論旨を理解できる人は、かなり精通したベテランだろう

16

民を使うに時をもってするというのは、古の良い教えである。それ故に冬の月に暇があれば、民をつかってよい。春より秋に至るまでは農耕や養蚕のときである。民を使うべきではない。農耕をしなかったら、何を食えばよいのか。養蚕をしなかったら、何を着ればよいのか。

上司・部下・同僚、他部署、他社に依頼する場合や、調査を実施する場合には、適する時期があるから、それを配慮する。

17

物事は独断で行なってはならない。必ず衆と論じ合うようにせよ。些細なことは必ずしも皆にはからなくてもよいが、大事なことを議する場合には、誤りがあってはならない。多くの人々と相談し合えば、道理にかなったことを知り得る。

独断に陥らない。

大事を誤らないためには、多くの人の意見を参考にする。

 

 

17条憲法は倭人社会が産業社会だった事を示し、その社会は現代的な資本主義社会と大差がない、競争社会だった事も示している。官僚の心得を説いた形式になっているが、原典は大規模工房を運営していた組織が、その構成員を教導する為に作った行動規範だったと想定される。農民を支配・管理する官僚の心得にしては、内容が充実し過ぎているからだ。

 

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