隋書

BC200年頃に古墳寒冷期が始まったが、大陸の寒冷化は徐々に進行し、耐えられなくなった稲作者が前漢末に東南アジアに移住した。

弥生温暖期に小麦栽培者になったシベリア南部の栽培者は、騎馬遊牧民族になった狩猟系民族と共生していたが、彼らも古墳寒冷期の厳しい冷涼化に耐えられなくなり、中央アジアと華北に南下したが、中央アジアには秦人が、華北には漢族がいて彼らの南下を阻止したから、騎馬民族が彼らを庇護しながら南下する事情が生れた。

弥生温暖期のタリム盆地以東の主要穀物はアワで、アワは小麦より耐寒性が低かったから、アワ栽培者は従来の栽培地から南下する必要があったが、彼らの南下と小麦栽培者の南下の調整は、騎馬民族と在地民族との武力抗争を伴うものになった。史書はその武力抗争だけをクローズアップし、栽培民族の入れ替えについては何も言及していないから、史書だけで歴史を組み立てると極めて偏向的な歴史観にならざるを得ない。

シベリアの栽培民族の南下には3つの経路があり、西では宇文鮮卑と共にシベリアから中央アジアに徐々に南下した。中央では拓跋鮮卑と共に、シベリアからモンゴル高原を縦断して山西に南下する流れがあり、東では慕容鮮卑と共にモンゴル高原を東に周回し、内モンゴル東部や満州西部を経て遼西や河北に南下する流れと、烏桓や段鮮卑と共に高句麗の領域だった遼東に南下する流れがあった。

鮮卑に先行してタリム盆地や河北に南下した騎馬民族として、匈奴が知られているが、彼らは縄文時代からシベリアにいた民族ではなく、西から移住して来た民族だったと推測される。鮮卑はシベリア起源のモンゴル系民族で、モンゴル系民族と聞くと現在のモンゴル国の、アジア人的な風貌の人々を連想するが、シベリア起源のモンゴル系民族は、Y-C3mt-N9aペアのアーリア人的な風貌の、肌の色が白い人々だった。

晋が滅亡するとシベリア起源の人々が華北に流れ込み、騎馬民族化した秦人やチベット系の勢力と共に、主導権争いを展開したが、440年頃に拓跋鮮卑が華北を統一して北魏を樹立した。

北魏は535年に東西に分裂し、華北の農業地帯を支配した東魏は、16年間の短命の後に北斉に変わった。北斉も統治が安定しなかったので、577年に西魏系の北周に統合された。

北魏が分裂して生まれた西魏は、陝西以西を領有して21年続き、北周に変ると国力を高めて北斉を併合した。北周を形成したのは多彩な騎馬民族集団で、慕容鮮卑、宇文鮮卑、拓跋鮮卑の他に氐(秦人)や羌もいた。

北周の政治が乱れると、隋の始祖である楊堅に簒奪されたが、楊堅は鮮卑族ではなく騎馬民族化した秦人集団の統治者だった。しかし北周では統治者の血統交雑が進んでいたから、政権交代は血族内の権力闘争になり、騎馬民族としての政権は、統合化と安定化の方向に向かっていた。

楊堅が589年に南朝を征服して中華を統一したが、隋までの政権には安定した統治制度がなく、同族の内紛によって王朝が変わる状態だった。唐の始祖である李淵もその様な家系で、その子の李世民が安定した統治制度を確立した。

史記を墨守して王朝史観に拘る史家は、鮮卑が漢字を学んで中国化し、伝統的な中華風の王朝形態を継承したと主張するが、それは史書しか見ない文献史学の欠陥を露呈しているに過ぎない。

慕容鮮卑の祖先は、夏代以前から息慎系譜の交易者として活動し、漢族より早い時期に漢字文明圏に参入していたからだ。彼らの歴史の詳細は(10)縄文時代で検証するが、ウスリー川とアムール湾を結ぶ陸路の荷役を担っていた北沃沮が、置溝婁と呼ばれていた事は、その形成は殷王朝期以前だったと考えられる事や、高句麗の起源である北扶余は豆莫婁であり、その起源はもっと古い時代に遡る事が、魏書から読み取れるからだ。また宋王朝が、交易者の共通語だった漢字文を中華圏の民族文字にしてしまうと、慕容鮮卑系譜の契丹が漢字風の、独自の契丹文字を創作した事もその事情を示している。

つまり夏王朝期にシベリア東部の交易民族も、漢字文化を受容したと考える必要があり、周王朝や周王朝の統治下で漢字文化を受け入れた漢族は、後発的な漢字文化圏への参入者だった。

宋王朝はシベリアから南下した栽培民族の政権で、シベリア時代から交易に関与した経験がない、農耕民族の王朝だったから、宋王朝が中華周辺の交易環境を破壊すると、チベット系のタングートも漢字風の西夏文字を創作した事も、その事情を示している。宋王朝は中華の農業生産性を高めたが、周辺の騎馬民族の攻撃を受けて華南に退避し、モンゴルに征服された背景には、その様な事情もあった。

史書を読み解く為には、その史書が誰によって記され、何を意図して編纂されたのかを明らかにし、背景事情を理解する必要がある。史書は一貫して、統治の為の一つの手段に過ぎなかったからだ。

隋書は隋(581年~618年)が滅んだ直後(636年)に成立したから、同時代文献ではあるが、鮮卑族には漢民族とは異なる歴史観があったから、先ずその理解が必要になる。

シベリアから南下した民族は、元々中華圏の民族ではなかったから、中華民族の歴史認識を知る為の教材として編纂する必要があり、その上に騎馬民族の生業になった、シルクロードの運営を賛美する騎馬民族的な考え方と、シベリアから移住した農耕民族が華北での耕作権を主張する手法が含まれていた。特に後者の場合、彼らも昔から中華民族の一員であったかの様に、歴史を粉飾する考え方が主流になり、中華社会は多民族の集合体だった事を否定する、史記史観を積極的に活用したから、唐代に成立した史書にはそれらの考え方や事情が混在している。

漢王朝が滅亡した後の魏・晋代に、漢王朝が創作した歴史観は一旦否定された故に、魏志東夷伝や魏略が生れたが、唐代に編纂された史書は史記史観を積極的に活用するものに変わり、それに影響された騎馬民族にとっての必要な知識は、彼らが南下する以前の正しい歴史ではなく、土着民族が何を歴史知識としているかを知る事になった。

それでも騎馬民族の王朝だった隋唐代には、農耕民族的な発想は抑圧気味だったが、唐が滅亡して成立した農耕民族政権の北宋では、彼らの農耕民族的な発想と、南朝の宋で復活した漢王朝の歴史認識が結び付き、資治通鑑を編纂して史記史観を中華世界に固定化した。

唐の李世民(太宗)が初めて安定した政権を形成したのは、単なる偶然ではなく、彼が優れた政治家だったからだ。彼が唐以前の王朝に関する史書として、梁書、隋書、陳書、北斉書、周書、南史、晋書、北史の編纂を矢継ぎ早に命じたから、それらの編纂方針が、唐朝の政治思想を知る一つの手段になり、太宗の優れた政治感覚を知る手段にもなる。

 

1 各史書の新羅伝を比較し、初唐期に編纂された史書の性格を検証する

隋書新羅伝には百済が拡散した嘘が記されているので、その様な新羅伝が編纂された理由を明らかにする事が、この章の目的になる。その為には先ず新羅の実像を明らかにする必要があり、旧唐書新羅伝が新羅の由来を示唆している。唐王朝は新羅と使節を往来させた初の中華王朝で、新羅の実情を知った初めての中華王朝でもあり、新羅や高句麗は自分達の由来や内情を中華王朝に説明しなかったからだ。

新羅国の本は弁韓の苗裔である。其の国は漢の時の楽浪の地に在り、東及び南方は俱に大海で限られ、西は百済に接し、北は高麗に鄰し、東西千里(400㎞)、南北二千里(800㎞)で城、邑、村落が有る。王の居所は金城(慶州)と曰い、周七八里(3㎞)。衛兵が三千人で獅子隊を設け、文武の官は十七等ある。其の王の金真平は隋の文帝の時に、上開府・楽浪郡公・新羅王を授けられた。

この新羅は唐に初めて朝貢した初唐期の新羅を指すから、東西400㎞南北800㎞は旅程で、直線距離はその2/3だったとすれば、倭人が騙した巨大な朝鮮半島南部ではなく、正しい距離認識を示している。南北800㎞の2/3550㎞が新羅の南北幅だったとすると、半島南端から大同江流域までになり、唐が新羅王に与えた楽浪郡公の称号と整合し、倭国王が拡張した新羅の領土と一致する。魏志東夷伝は別の地域であるとした、弁韓と弁辰も同一地域であるとの認識に基づいている。

唐代の新羅が慶州を都にした事は、古墳時代前期の新羅が辰韓を直轄地とし、辰韓の韓族を支配下に組み込んだ上で、加羅などの弁韓人の本拠地に近い辰韓の南端に、都邑を遷した事を示している。

李世民の父である高祖が冊封した高句麗王の称号は、上柱国、遼東郡王・高麗王で楽浪は含んでいないから、高句麗と新羅の領土認識は整合している。旧唐書のこの記述は、その他の事情とも整合する。

太宗の命令によって編纂された梁書新羅伝には、全く異なる認識が記されているが、同じく太宗の命令で編纂され、梁書の成立直後に編纂された隋書と矛盾している。

梁書新羅伝の骨子は以下。

新羅の先祖は、本は辰韓の種である。辰韓は秦韓とも言い、万里(4000㎞)離れている。伝承では秦代の亡命者で、<魏志韓伝を引用しているので省略>故に秦韓と云い、<魏志韓伝の引用なので省略>馬韓とは言葉が違う。又辰韓の王は常に馬韓の人がなり、辰韓では自から王を立てることができない。明らかに其れは流移の人だからであり、恒に馬韓に従っている。辰韓は始め六国有り、後十二国になり、新羅は其の一つである。其の国は百済の東南五千余里に在り、東は大海に浜し、南北は高句麗と百済に接している。魏の時に新盧と云い,宋の時に新羅と云い、或いは斯羅と云った。其の国は小さく、自から使者を通じる事ができないので、王は521年に百済の朝貢使に随行させ、使者を派遣した。

其の俗称では、城を健牟羅、其の内にある邑を啄評、外に在るものを邑勒と云い、中国の郡県に相当する。六啄評と五十二邑勒がある。土地は肥沃で五穀に適し、桑と麻が多く、上質の絹布を作る。牛を馴らし、乘馬する。男女の区別があり、其の官名に子賁旱支、齊旱支、謁旱支、壹告支、奇貝旱支がある。冠を遺子礼、襦を尉解、洿を柯半、靴を洗と云い、其の礼儀作法は高句麗と似ている。文字は無く、木を刻んで通信する。語言は百済の使者を介して通じる。

最後の語言は百済の使者を介して通じるが、この新羅伝の最大のミソで、新羅を貶める為に延々と記された嘘は、百済の使者が拡散したものである事が分かる様に細工されている。李世民はこれを新羅に示し、百済の悪意を認識させて百済から離間させ、世間にも百済の悪意を暴露し、唐が新羅を討滅する根拠にしたと考えられる。新羅人は嘘によって新羅を貶めた百済に、憎しみを抱いた事は間違いなく、それを促す為に編纂された史書である事を示している。

万里(4000㎞)離れているとの百済の認識は、魏代の韓族の様に倭人と一緒に魏を騙す側ではなく、騙される側にいた事と、百済の歴史捏造の参考書は、騙された魏の役人の報告書を転記した、魏志東夷伝だった事を示している。高句麗の好太王が弁韓まで南下した事は、高句麗は正しい地理認識を持っていた事を示し、慕容鮮卑・濊・対馬部族連合も、正しい地理認識を持っていたと推測されるから、百済だけが仲間外れだった事を示している。梁書の編者は誤りである事を知りながら、これが百済の認識である事を示す為に、この一連の文章を挿入した可能性が高い。

百済は新羅と隣接しながら、朝鮮半島南部にいた弁辰人の居住地域の正確な場所も事情も知らず、新羅の成立事情は全く知らなかったのに、百済を実態より尊大に見せる為に朝貢先で嘘を並べていた事が分かる。

隋書新羅伝を以下に示すが、これも同じ目的で編纂された百済の嘘の羅列になり、梁に申告した百済の嘘の綻びが露見したから、嘘を糊塗する為に新たな嘘を創作して隋に申告した事が分かる。

新羅国は高句麗の東南に在り、漢の時の楽浪の地に居住し、斯羅とも云った。魏の將軍の毌丘儉が高麗を討って破ると、(高句麗王は)沃沮に奔った。其の後故国に復帰したが、留った者は新羅を形成した。故に新羅人には華夏(中国人)、高麗、百済に属す人が混ざり、沃沮、不耐、韓、獩を行き来する人の地である。

其の王の本は百済人で、海から逃れて新羅に入り、その国の王になった。金真平に至って594年に朝貢した。(隋の)高祖は真平を上開府・楽浪郡公・新羅王にした。

其の先祖が百済に従属し、後に百済が高麗を征討すると、高麗人はその戦役に耐えられずに集団で帰ってしまい、強盛になって百済を襲い迦羅国に従属した。

百済のデマが更に拡大し、読むに堪えない文章になっている。魏の將軍の毌丘儉が高麗を討って破った事も、濊は高句麗人と同族である事も、魏志に記されている記事ではあるが、魏志は遥か昔から濊があったと記し、故国に復帰しないで留った者が濊を形成したとは記していない。魏志から都合の良い記述だけを摘み取り、百済に都合の良い捏造史を作り上げた事を示している。

梁書に記された「新羅の先祖は、本は辰韓の種である」事を隋書では否定し、新羅人も濊や高句麗と同じ白族を基幹とし、華夏(弁韓人)も含んでいる事に変えたのは、濊も白族であるとする必要が生れた事を示唆している。その結果新羅人も辰韓人ではなく、多数の民族が参加する国であるとして実態に近付けたが、それによって新羅の位置付けが、馬韓の韓族を支配する百済の下位にある事に結び付かなくなったから、魏志東夷伝の「辰韓の王は常に馬韓の人がなる」との記述を根拠に、「其の王の本は百済人で、海から逃れて新羅に入り、その国の王になった。」との大嘘に拡張した様に見える。

嘘を転換した背景に、シベリアから南下した民族の最初の史書で、隋が成立する以前に北斉が編纂した魏書に、「百濟國、其の先は夫余より出る。」と記されている事が挙げられる。宋代には後漢書の著者と相談し、百済の祖先は韓族の伯済国であるとの嘘を創作したが、隋書百済伝では百済王は高句麗の出自で扶余の王になった者であると変形し、それと連動させているからだ。隋が華北を統一すると、百済もシベリア起源の民族であると申告した方が、権威が高まると判断し、新羅に関する嘘と連動させたと考えられる。百済の成立は騎馬民族が南下した後だから、百済の起源が馬韓の韓族であるとの嘘は、通用しない事が明らかになったからだ。

その様な魏書であっても、「高句麗の出自は夫余である」と記されている事は、百済の祖先集団である扶余が既に嘘つき集団で、自分の出自を明らかにしない高句麗に関する嘘を、騎馬民族に拡散していた事を示している。

後に百済が高麗を征討したとの主張は、502年に新羅と倭が高句麗を征討し、漢江流域だけではなく楽浪からも追い出した事を指しているらしいが、倭は百済の参加を拒否した筈だから、百済が征討したとの主張は大嘘だった。梁にその様な嘘を拡散した事は、宋書の項で指摘した。

高麗人はその戦役に耐えられずに集団で帰ってしまったとは、高句麗の勢力圏が縮小して新羅が優勢になると、魏志東夷伝に記された沃沮も濊に帰順し、朝鮮半島を横断する交易路が濊に完全復帰した事を指している。それによって高句麗が滅亡に瀕したとの噂が、百済にも伝わった事を示している。

新羅が強盛になって百済を襲い、迦羅国に従属したとの認識は、三国時代の新羅と百済が攻め合った状況と、新羅の経済的な支配者は加羅であるとの認識が、百済にあった事を示している。新羅は弁韓式の名称だから、半島横断路を高句麗から奪還する以前から、新羅はその様な状態だった事を示し、その情報は対馬部族から得たものだったと推測される。

加羅の経済的な繁栄は、移民事業に湧いた倭との経済交流によって生まれたもので、倭が移民事業を失った5世紀中頃にその状態が失われたから、高句麗から半島横断路を奪還した新羅の繁栄は、濊の半島を横断する交易路から得るものに変わっていた。従って迦羅国に従属したとの嘘の下敷きになった情報は、隋代の150年以上前のものだったが、新羅の王族が弁韓人である事は一貫した新羅の事情だったから、単に王が弁韓人だった事を指していたとも解釈できるが、古い情報に影響されていたとも言える。法治主義者だった弁韓人が王になったのは、シベリア風の厳寒各名倫理規定を適用できない韓族を統治する為だったと想定され、濊自身が弁韓人の王に従属していたとは考え難く、新羅時代に生まれた現代朝鮮語の祖語が、シベリア系の文法体型である事が、朝鮮半島は濊の領域であるとの認識を示しているからだ。

百済のこの様な認識は、三国時代になっても新羅や高句麗との間に、情報を交換する様な交流はなかった事を示している。

三国時代の百済は支配していた韓族から敵視され、朝鮮半島南部の正しい地理を教えて貰えなかった事は当然として、韓族の地だった漢江の河口に入植した当初から、韓族から仲間であるとは認識されていなかったから、半島南部の正しい地理を教えて貰えなかった事を示している。

従ってこの時代の民族関係として、隣人になっても親密にならなければ情報交換は行われなかった事と、支配者と被支配民族になっても、その関係は変わらなかった事を示している。つまり古代の民族にとって、自分の居住域の地理は安全を守る為の最高機密だったから、信頼できる民族にしか教えなかった事を示している。新羅も唐に帰順して初めて、自分の国土や民族の由来を唐に明らかにした事になり、高句麗は一貫して出自の秘密を守っていた。好太王碑にその一部が示されているが、全体像が分かるものではなかった事を次項で示す。

その結果として百済は、半島の反対側にいた新羅とは没交渉状態で朝鮮半島の三国時代を過ごしたから、地理情報が不正確な魏志東夷伝を引用するしかなかった。百済と新羅は半島の東西で、共に高句麗の南下に備えていたのだが、それでありながらこの状況だったのは、倭が半島南部の防衛責任を負い、百済と新羅はそれぞれの城塞の守備に徹していたからだと考えられる。但し濊は半島北部の地理を熟知し、越系民族だった弁韓人は東シナ海沿岸の事情を知っていた筈だから、両者が合体した新羅は周囲の全貌を知っていたが、百済だけが何も知らなかった事になり、百済の立場を明確にしている史書になる。簡単に言えば百済は周囲の民族の、同盟敬遠主義の的だった。

隋書新羅伝に記された其の王の本は百済人や、其の先祖が百済に従属したとの説は、それが百済の使者の主張だった事を梁書新羅伝も読んでいた者に確信させ、新羅を激怒させる為に、隋書の著者が嘘を承知で挿入したものである事は間違いない。新羅は飛鳥時代に唐と連携して百済を滅ぼしたから、朝鮮半島の歴史は唐の太宗の思惑通りに進行した事も、その傍証になるだろう。

隋書が記す百済の主張に一貫性がないのは、梁書の編者も隋書の編者も百済は非難されるべき非道徳的な国であると認識し、それを世間に公開する為に、新羅などを貶める百済の使者の語句を、各王朝の朝議録から意図的に選んだから、複数の使者の言葉が混在した事を示している。従ってこれらの史書の百済伝から、百済の実態を知る事はできないが、唐朝が百済をどの様に見ていたのかと、鮮卑族の歴史観がどの様なものだったのかを、窺う事ができる。

見栄張りの百済が自国を半島の文明国だと主張する為には、弁辰人を無視する必要があり、稲作者より漢王朝の文化の方が先進的で、華北を文明の起源地とする史記史観も、拡散していた可能性が高い。南朝を形成していた淮夷の子孫や、漢王朝系の官僚もその推進者だったから、これは百済だけの嘘ではなかった。

隋の煬帝が華南に憧れを抱いていた事は、騎馬民族は中華文明の実態が、稲作民族起源である事を知っていたからである事を示唆し、唐王朝が一貫して華南の産業社会を抑圧していた事は、自分達が同化した華北文明の優位性を、強調する必要があった事を示唆している。それも太宗の思惑に含まれていたとすると、唐王朝を安定的な王朝に仕立てた太宗の、政治的な深謀遠慮を示している事になるが、華北のアワ栽培者の伝統的な発想である、産業社会に対する無理解を露呈しているとも言える。

 

2、隋唐を建国した鮮卑族の歴史観

2-1 概論

陳寿が魏志東夷伝で提唱し、范曄が後漢書で否定した「九夷倭人説」を、初唐期の史書がどの様に扱ったのかを検証すると、鮮卑族の歴史観の一面が見えるのでそれを説明するが、史書の記述の断片から結論に至る為には膨大な論証が必要になるから、この章では結論的な説明を先に掲げ、それを示す具体例を後述する。

中華文明を形成したのは、稲作民族と海洋民族だったが、秦王朝の成立によって越人が中華世界から逃亡し、漢王朝の成立と古墳寒冷期の気候の寒冷化が、沿海部の荊の東南アジアへの移住を促し、気候が更に冷涼化すると華北沿海部の漢族も、華南や日本に移住して故郷の歴史伝承を失った上に、漢族の移民事業が終わると、日本の海洋民族も中華世界から距離を置く様になった。

中華世界との交易を続けていた海洋民族も、華北との交易が主体になり、それはシベリアから南下した民族との交易になった。伝統的に華南と交易していた海洋民族は、越人や荊の移住に伴って主要な交易先を変え、粤が南下したヴェトナムや、荊が入植したタイなどに、交易の主体を移行したからだ。ヴェトナムやタイの日本人町は、室町時代に生まれたのではなく、彼らの渡航路は沖縄と台湾を経るものだったと考える必要もある。

晋が滅亡すると中華大陸の沿海部にいた漢族豪族も、倭人の船で華南や日本列島に移住したから、中華の伝統社会は沿海部では失われ、民族集団として残っていたのは、陝西や山西などの内陸のアワ栽培者と、四川や雲南の稲作民族だけになった。華北から華南に逃れて南朝に仕えた知識人は、宋書の著者の様に晋代の歴史観を継承したが、宋以降の淮夷系の王朝期に、華北から移民した漢王朝系の官僚が政権中枢に参加したから、殷人的な権力闘争と暴力性を持ち込んだ。従って稲作民族が創造した中華文明は四川以西を除いた中華世界では、南朝の成立~唐王朝期に殆ど失われたと考える必要がある。

隋唐時代の中華系知識人は華北の内陸にいた故に、海洋船による移民の機会を得なかった人々が主体だった。彼らは元々稲作文化や海洋文明から疎外されていたから、史記や漢書から得た文献知識を基に、夜郎自大の漢民族至上主義者になっていた疑いがある。

北朝を形成した騎馬民族には色々な民族があり、烏桓、慕容鮮卑、氐(秦人)は石器時代から交易に参加し、古代の東アジアの公用語だった漢字文化にも馴染んでいたが、最大の人口を擁していた拓跋鮮卑や宇文鮮卑は交易者の視点が欠如し、華北に南下した栽培民族と共に政権の農耕民族化を推進した。拓跋鮮卑や宇文鮮卑の起源は、エニセイ川水系のモンゴル高原で羊を飼養し、栽培民族と共生する遊牧騎馬民族だったからだ。彼らの居住域はモンゴル帝国を建国した騎馬民族と重なり、元王朝の公式文字がパスパ文字だった事は、彼らは漢字文化圏の民族ではなかった事を示し、交易者が使っていた漢字文化が及んでいなかった疑いが濃いからでもある。

古墳寒冷期に南下したシベリアの栽培民族は、小麦を栽培する先進的な農耕民族として、アワ栽培を続けていた漢族の過疎化した農耕地域に浸透し、漢族の縄張りに浸透した新参の農耕民族になったが、シベリアの掟に従えば、先住者の既得権を重視する必要があり、中華世界の伝統的な習俗や統治思想を取り入れる必要があった。それは内陸に残存していた漢族系知識人の認識と、彼らが持っていた書籍に依存する認識を受容する事を意味したから、栽培者が史記史観を重視する歴史観に染まる事は、必然的な結果だった。

その様な栽培民族に対し、騎馬民族は交易性を伴う新しい統治文化を華北にもたらしたから、彼らにはその様な束縛はなかった。隋唐王朝の基幹的な人材を慕容鮮卑系の集団が輩出したのも、交易集団としての活動歴が彼らの文明度を高め、縄文晩期に失われた息慎の水上交易を、騎馬民族の機動力によって陸上交易路として復活させ、シルクロードを利用する安定的な東西交易を生み出したからだ。

シベリアの掟では、先住者の生業を冒さない移住者には新たな既得権が生れたから、交易者がいない華北に南下した騎馬民族には、彼らの政権を樹立して新しい内陸交易を活性化する権利があった。しかしその資格を有していた騎馬民族の集団は複数あった上に、彼らは内部分裂してもいたから、農耕民族化した騎馬民族も交えた主導権争いが繰り返された時期が、漢末~隋までの戦乱期だった。

華北を統一した隋が華北王朝である事を止め、華南を武力統合した理由は、継続的な武力紛争に決着を付ける為だったとの解釈は妥当だが、漢族の華北優位を謳う中華思想に影響され、農耕民族的な領土主義や覇権主義が生まれたからだと考える事もできるし、交易性が欠如していた中華世界に南下した騎馬民族には、交易文化に基づく王朝を形成する権利があるとの認識もあったからでもあると考えられる。

史記、漢書、後漢書は、漢王朝がヴェトナム北部まで統合したかの様に記述しているが、揚子江以南の地域をどの程度まで支配したのか定かではない。漢書や後漢書の記述には嘘が多く、ギリシャ人の交易商人が記した「エリュトゥラー海案内記」は、南シナ海の沿岸には漢王朝の支配が及ばず、秦の残存勢力が支配していた事を示しているからだ。

従って隋は初めて統一的な中華世界を実現した王朝で、唐は隋の失敗に学んで安定的な統一王朝を実現したが、その背景には騎馬民族の強力な軍事力があった事も間違いないが、彼らにはそれを実現する動機もあったと考える事もできる。

但し騎馬民族の王朝には、彼らと一緒に南下した栽培民族との協調を計る義務はあったが、稲作民族に対しては民族王朝ではなく征服王朝だったから、征服した民族の為に施策を立案・実行する必然性はなく、漢代に失われた交易的な王朝の実現を目指すものに過ぎなかった。唐の稲作民族に対する統治方針が、華南の産業社会化を抑圧するものだった事が、その認識を示している。王朝の方針とは異なる文化力が高まり、王朝統治の脅威になる事を恐れていたと、見做す事もできるからだ。それが近世まで続いた、帝国主義的な植民地統治の一般的な姿でもあるからだ。

 

2-2 太宗の歴史認識

唐王朝の実質的な創建者だった太宗が編纂させた多数の史書は、騎馬民族の征服王朝には政権の根拠を歴史に求める思想はなく、歴史の真実を究明する事にも興味がなかった事を、先に挙げた史書が示している。華北の漢民族は文明的な優位者ではなかった事も、この様な史書を生み出した別の要因として考慮する必要があり、史書に嘘が記述される事に抵抗がなかった事は、史書の政治利用に関心があった事を示唆している。

しかしそれらの事情だけでは、太宗が矢継ぎ早に多数の史書の編纂を命じた理由は説明できない。従ってその理由として、太宗がこれらの史書を政治学の教本とした可能性が浮上する。その教本には真実が記されているのではなく、諸民族の主張が羅列されているものとし、読み手によって解釈が異なるものにしたからだ。それは読んで学ぶものではなく、解釈を議論する為の例題を示す政治学の教本にしたとすれば、諸事情が合致するからでもある。

現代のマーケティング理論の普及手法として、多数のケーススタディの展開が重視され、参加者の議論によって理解が進展する事を期待しているが、同様な発想に立てば、多民族を統治する為の実践的な読本として、この様な史書が有益である事に異論はないだろう。為政者に必要な能力は、手前勝手に主張する諸民族の主張を、できるだけ多くの人々が納得する形に纏めるものであって、学術的に真実を探求し、その結論によって関係者を納得させるものではないからだ。但し真実は最も説得力がある主張でもあるから、それも重視する必要があった事は言うまでもない。従って彼らの史書には、嘘であれば嘘と分かるマーカーが必要だった。

南下した騎馬民族の支配地には、既存の民族と気候の寒冷化によって南下した、シベリア系の民族が雑居していたから、それらの雑多な多数の民族を統治する必要があり、それに対処する正解は元々なかった。従って関係者の議論によって採用可能な案を創作し、それを諸民族に納得させる必要があり、それに対応する統治者になる為に、ケーススタディのゼミに参加した人々にとって、最適な参考書は既に判明している諸民族の雑多な主張であり、彼らの矛盾した認識や主張の羅列だった事に異論はないだろう。

これらの史書には色々な使い道があり、議論しながら政治や制度に関する認識を深める事ができだけではなく、史書の中から色々な例題を探し出し、統治に関する才能の有無を判定する為の、試験問題としても大いに役立ったと考えられる。それは史書に限らず、必要と認識された分野の全てに亘る事も、必然的な結果だった。隋代から科挙の制度が始まったのは、その実際の利用例だったとすると諸事情が整合する。

但し試験官には高度の認識力が必要になるから、それも選抜された者達の日頃の議論の中で、時間を掛けて醸成される必要があった。後世の科挙が詰め込み式の暗記を求める様になったのは、新たな書籍が次々に生まれただけではなく、高度な認識力を解説する書籍も生れ、必要な見識が却って曖昧になっただけではなく、試験官になる為に知識を高めた所謂専門的な試験官も生まれ、受験者から試験結果の公平性が求められる様になると、誰が見ても優劣が明らかな暗記問題に、重点が移行したからではなかろうか。

またこの様な仕組みは太宗の様な、有能な皇帝の下では効率的に機能するが、皇帝が無能であれは統治方針を持たない官僚に囲まれ、その官僚が権力闘争を始めると、収拾が付かない状態に陥る。

それとは対極的な制度が、倭人的な合意形成社会で、地域社会の経済運営者には独立した意思決定権があり、彼らが話し合いで物事決めるから、意見調整には手間取るが、経済合理性を追求する状態は維持される。しかし体制の改革は容易ではなく、緊急時の対応能力は極めて限定的になり、地域間の経済格差が温存される欠陥もあった。経済合理性の追求には、貧富の格差の拡大が付き物である事は、現代社会に至っても未解決の課題であり、飛鳥時代末期に発生した倭人体制の崩壊も、この事情に起因する要素が大きかった事を古事記が示している。

(9)唐書の項で説明するが、太宗によって倭国に派遣された使者が、親善関係の構築に失敗すると才能がないと判断された事が、史書に明記されている。その様な判断が生れた根拠として、この時期の唐朝には才能溢れる官僚が多数いた事、太宗がそれを認識しながら、彼らの成果にある程度満足していた事が挙げられ、その背景に上記の考え方や方針があったと考える事に合理性がある。

現代の史家の知識も暗記に重点が置かれ、各民族の主張の矛盾からその民族性を判断したり、矛盾した史書を総合的に判断し、真実を抽出したりする手法に極めて疎いから、この時代の唐の官僚にとって、極めて安易な例題だった百済の欺瞞的な政治活動も見抜く事ができず、各史書の記述を満遍なく取り込んで、玉虫色の結論を出す愚かな判断に陥っている。現代の史家には政治性も批判精神も求められていないから、彼らが地位を得る選抜基準は知識の蓄積に偏り、それが地位や生活の資を得る手段になっている現在、この様な史家が歴史学会の多数派になる事も、必然的な結果であるとも言える。

史書にも色々な記述があり、文化的な背景や繊細な思惑が錯綜する内政に係る歴史は、諸事情の判断が難しいが、彼らにとっても情報が少なかった周辺民族に関しては、史書から色々な情報を抽出する事ができる。

太宗の命令で編纂された史書の中で、最も早く成立した梁書の諸夷伝は、海南諸国伝、東夷諸戎伝、西北諸戎伝の簡単な構成だから、彼らの原初的な発想を窺う最適素材になる。

 

2-2-1 海南諸国伝

海南諸国伝の序

海南諸国は大抵、交州の南と西南の大海の洲上(大きな島)に在り、近くは三~五千里、遠くは二~三萬里離れ、其の西は西域の諸国と接している。漢の武帝の時代に、伏波将軍の路博多を遣して百越を開き、日南郡を置くと、其の外の諸国は武帝の時代から皆朝貢した。後漢の桓帝の世の大秦(ローマ帝国)、天竺(インド)も皆、此の道から遣使貢献した。呉の孫権の時には、宣化從事の朱應や中郎康の泰通を遣し、其の所を経て伝聞に及んだ(国が)百数十あったので、記を立てて伝えた。晋代になると中国と通交する者が少なく、史官は史書に記していない。宋、斉に至ると(通交する者が)十余国有り、伝を記し始めた。梁になると画期的に変わり、天子の統治に服して貢物を整え、前代より遠方から1年以上の航海の後に来た。其の風俗の概略を《海南伝》に記す。

弥生温暖期だった春秋戦国時代には、西ユーラシア、インド洋沿岸、南シナ海沿岸で海洋交易が盛んに行われたが、海洋民族と共生していなかった荊には、自力で交易経済を発展させる力がなく、絹糸を生産していた越の下請けとして絹布を生産していた。荊には上質の絹布を生産する産業力はあったが、需要者のマーケティング活動を越に委ね、高級絹糸は越が支給する状態だったから、絹布がインド洋交易の重要商品になっても、その利益の殆どは越人のものになり、荊の取り分は僅かだった。それ故に中華社会は貧しく、海洋民族の主要な市場にはなり得なかった。

秦の中華征服はその様な状況を打開する活動だったが、秦と荊の目論見は外れ、その軍事活動が従前の交易構造を破壊してしまい、中華世界は一層の貧困状態に陥った。漢王朝期の中華は高級絹布の生産地ではなくなった事を、漢書地理志や魏志倭人伝が示している。高級絹布の生産地は島嶼部に移行し、邪馬台国の絹布生産も活況に沸いた事は既に指摘したが、台湾やフィリッピンも同様だったと推測される。

具体的に言えば、前漢王朝末期の王莽政権崩壊期に、荊がフィリッピンや東南アジアに移住したから、それによってフリッピンや東南アジアで絹布の生産が後漢代に活性化した。後漢代末期の桓帝の世にロー帝国の使者が朝貢したのは、それを前提としたものだったと考えられ、この使者の主要な訪問先は、絹布の生産地だったフリッピンや、絹布や香辛料を運ぶインドネシアの海洋民族の拠点であって、後漢王朝にはついでに訪問したと考える必要がある。

その状況が三国時代まで続いたから、呉の孫権が東南アジアに使者を派遣すると、其処には百数十もの国と交易する交易構造があったが、寒冷化が深まった晋代になるとインド洋交易が低調になり、中国と通交する(余裕を持った)者が少なくなったと解釈される。

孫権(229年~252年)の時代のローマ帝国は、最盛期だった五賢帝の時代が180年に終了し、軍人皇帝時代(235年~284年)移行する動乱が始まった頃だが、経済的な活況は継続していただろうし、パルティアも224年まで継続していた。しかしパルティアの滅亡とローマ帝国の衰退が3世紀に進行すると、中華世界に目を向ける余裕を失ったとの想定は、晋代の活動が低調になった時期と整合する。

東アジアではBC2世紀に弥生温暖期が終わり、古墳寒冷期に向かう寒冷化が始まったから、アワ栽培者だった扶余が吉林省から遼寧に南下し、シベリア南部の小麦栽培にもその影響が及び、匈奴や烏桓の南下がその始まりを示している。

AD1世紀の初頭には更に寒冷化が進み、稲作者だった荊が東南アジアに移住し、アワ栽培者は南下する必要に迫られたが、黄河流域以南にはエノコログサが繁茂して南下できなかったから、その事情が最も厳しかった華北の沿海部では、漢族の生口が多数発生して耕作放棄地が生れ、それを目指すシベリア系栽培者の先導者としての、鮮卑族の南下も始まった。烏桓は農耕民族も帯同していた事を、魏志牽招伝に「烏丸の五百余家の租調を復たあきらかにする」と記されている事や、彼らの数が数千~数万の単位で記され、妻も帯同していた事が示している。

AD2世紀に後漢王朝が滅亡して三国時代になり、316年にはアワ栽培者の華北王朝だった晋も匈奴に滅ぼされた。華北に南下した慕容鮮卑が337年に前燕を建国したのは、生産性が高い小麦の栽培者と共にシベリアから河北に南下したからだ。烏桓は遼寧までしか南下しなかったが、慕容鮮卑が河北まで南下したのは、烏桓は中華の秩序内で入植したのに対し、慕容鮮卑は晋が滅亡すると漢族の地に武力で侵攻し、力ずくで漢族を排除してシベリア系の栽培者を入植させたからだと推測される。

この様な東アジアの動静に対し、西ユーラシアでは寒冷化の影響の遡及時期が遅かったのは、コメやアワより耐寒性が高い小麦の栽培地だったからであると共に、ローマ帝国は比較的温暖な地中海沿岸を支配していたからで、2世紀までは繁栄を享受していた。桓帝の世はローマ帝国の五賢帝の時代だった事が、その事情を示している。

西ユーラシアはメキシコ湾流の北上によって温暖化しているから、それが気候の寒冷化も抑止していたと推測される。高緯度地域ほど気候の寒冷化は激しいが、メキシコ湾流は低緯度地域で温められているから、高緯度地域の気候が冷涼化しても、水温の低下には結び付かないからだ。漢書地理誌が示す南シナ海沿岸の、島嶼の海洋民族が経済的に繁栄し、高級絹布を生産して遠隔地と交易していたのは、東アジアでも低緯度地域は気候の寒冷化の遡及が遅く、ローマ帝国やパルティアの繁栄が継続していた時代だったからだ。

しかし3世紀になるとロー帝国も混乱の時代が始まり、4世紀になるとゲルマン民族の南下移動が活発化し、395年にローマ帝国は東西に分裂した。ペルシャ湾岸で繁栄していたパルティア(BC247年~AD224年)も、3世紀に滅亡してササン朝ペルシャに変わり、インドでも遊牧民だった月氏が1世紀にクシャーナ朝を樹立したのは、高緯度地域の寒冷化によってペルシャ、匈奴、白フンなどの遊牧民族が南下し、既存の交易組織を破壊した事と同期し、気候の寒冷化による農耕系の遊牧民族の南下を示唆している。月氏が秦人系の民族だったのであれば、彼らもアワの栽培者だったからだ。この時代の遊牧民族は未だ生産性が低く、農耕民族と共生する必要があったから、烏桓も鮮卑も農耕民族と共に南下したと考える必要があり、烏桓は騎馬民族化した農耕民族だった可能性もあるので次項で論考する。

この頃の状況認識として、通説では漢王朝の領土が絹の大産地で、シルクロードはその重要な交易路だったと喧伝しているが、これは事実ではない。

この伝承が何時生まれたのか明らかではないが、秦に代わってシルクロードの運営に乗り出した鮮卑族と、絹の値段を釣り上げたかったペルシャ湾や東地中海沿岸の商人が作り上げた、プロパガンダだった疑いが濃い。但し春秋時代の秦の交易路は、インダス川を下ってインド洋に繋がるものだけではなく、カスピ海と黒海の北岸を経て西欧に至るものもあり、このルートがシルクロードの原型になったから、絹がシルクと呼ばれる様になった可能性は高い。

考古学者は華麗な建築物や遺物を遺した、農耕民族的なギリシャ人やローマ人の歴史に興味を示すが、古代製鉄は極めて効率が悪く、多量の樹木を必要としたから、黒海以北の森林地帯が、主要な製鉄地になる必然性があった。当時の鉄は最大の交易品だったから、彼らが農耕民族的な華麗な遺物を残さなくても、秦人の絹布を引き寄せる需要が旺盛な市場だった可能性があり、文明の先進地だった可能性が高いからだ。

オリエントの商人も西欧人を騙し続けたのは、絹布が遠路運ばれていた事を強調し、その価格を釣り上げる為だったと考えられる。大航海時代以前の西ユーラシア人の地図は、インド洋を地中海程度のサイズに記していたから、絹がその様なインド洋から運ばれて来たのでは、商品価値が下がってしまう懸念があったからだ。

インド洋交易に従事していたインドネシアの海洋民族は、彼らの航路に関する情報を全く発信していなかったから、陸上の民族はその事情を知らなかった。「エリュトゥラー海案内記」が、インド洋交易に後発的に参入した、紅海や地中海の海洋交易者の活動範囲を示しているが、その一人だった著者も、地中海交易を大幅に上回る距離を踏破していなかった事に、留意する必要がある。つまり「エリュトゥラー海案内記」が良く知られた書籍だったとしても、インド洋は地中海とあまり変わらない広さの海であるとの、彼らの先入観を訂正する書籍ではなかった。

インドネシアの海洋民族の船は、黒潮が太平洋に流出するトカラ海峡を渡っていた倭人の船と同様に、時速10㎞/h程度の速度で航行できたから、彼らの交易船の実際の航行期間は、史書に記されたものよりかなり短期だった可能性が高く、マルコポーロの帰路がインド洋を使う海路だった事は、13世紀になってもその事情が継続していた事を示唆している。

従って海南諸国伝の序に記された、遠くは二~三萬里離れ、前代より遠方から1年以上の航海の後に来たとの表現は、漢書地理志や魏志倭人伝に記された誇大な距離や旅程と同様に、大陸の暴力的な民族の侵攻を恐れた海洋民族の、誇張的な情報であって、実際の距離も旅程ももっと短いものだったと考えられる。

ローマ帝国が混乱し始め、パルティアが滅亡した3世紀頃から、インド洋交易の不調が始まったが、当初は深刻な状況ではなかった。しかしゲルマン民族が南下し始めた4世紀に交易量の激減に苦しみ始め、インド洋沿岸の交易都市がそれまで見向きもしなかった南朝にも、交易を求めざるを得ない状況になったが、その転換点が晋代だったと考えられる。

(1)魏志倭人伝/魏との交渉経緯の末尾に、倭が晋に朝貢した2年後に、南シナ海沿岸の海洋民族だった扶南(プナム)と林邑(チャンパ)が晋に朝貢した。その事と倭人の関係は分からないが、滅びゆく呉に代わって晋に朝貢するべきであるという情報を、倭人が彼らに発した可能性が高いと指摘した。しかし華北の貧しい王朝だった晋に対し、東南アジアの交易者の触手は動かなかったのではなかろうか。

それらの都市国家は交易によって成立していたから、4世紀にインド洋交易が沈滞すると、国家の存亡に係わる事態になったから、それらの国の使者が大挙して相対的に豊かだった、南朝に出現し始めたのが梁代(502年~)だった。476年に西ローマ帝国が滅亡するなどの、西ユーラシアに激動が発生した時期と、南朝への朝貢国が増加した時期が一致するからだ。

荊が移住した東南アジアで、絹布生産が活況を呈した2世紀には、ローマ皇帝が(絹布の生産地に)使者を派遣する状況だったが、宋、斉代(5世紀)に至ると(通交する海洋交易者が)十余国生れ、梁代(6世紀)になると画期的に変わった事が、その事情を示している。ローマ帝国は絹布の需要地だったが、インド洋沿岸諸国はその交易の仲介者として、又それに関わる交易船を活用し、地域の特産品を生み出して利益を上げていた人々だったからだ。

漢書地理志を著述した班固には、漢民族の生活に必要な物資の調達には、海洋民族の活動が必要であるとの認識があり、王莽の使者として派遣された官僚の報告書を転記し、交易や産業が盛んな海洋民族の、文明度の高さを紹介した。陳寿は更に踏込み、その様な先進的な海洋文明圏に属す倭人社会には、高度な秩序があると指摘したが、晋代になると中国と通交する者が少なく、史官は史書に記していないとの指摘は、陳寿がその時代の人である事を思い出させ、海洋民族の中華世界への貢献を否定的に捉える視線を示している。

鮮卑族が形成したシルクロードが、東西交易路として機能し始め、隋代に形成した内陸運河が海洋民族の恩恵を遠ざけるものになったから、初唐期の史書は海洋民族の貢献を否定する、内陸交易至上主義的な論陣を張った事を示唆している。

その意図を海南諸国伝の本文から拾うと、1年以上の航海を必要とする遠方の国である、中天竺国に関する記述が挙げられる。中天竺国は内陸を馬で行く事も可能な地域で、内陸の旅程には1年も掛からなかったが、海洋民族にとっては遠く二~三萬里離れた国で、1年以上の航海の後に来た国でもあったからだ。つまり騎馬民族が形成した陸路こそが、東西の文明と文物が往来するべき最短ルートで、海洋民族は遠路を周回する傍系的な交易路を運営している、非効率な交易者に過ぎないと主張している。海洋民族が主張する距離や路程は、嘘である事に気付いていなかったからだ。

中天竺国に関する記述を以下に記すが、上記の騎馬民族の主張とは別に、インド洋交易に危機が訪れた状態も読み取る事ができる。

中天竺国は大月支の東南数千里に在り、地方三万里で身毒(インド)とも云う。漢の世に張騫を大夏に使いさせ、立派な竹杖や蜀布を見て聞くと、身毒から買ったものだと云う。身毒は天竺の事だ。月支に従い、高附から西にあり、南は西海、東は槃越と接し、数十国が連なって国毎に名前が異なる王がいるが、皆身毒である。

漢の時に月支に属し、其の俗は著しく月支と同じ。気候が熱く民は戦を恐れて月支より弱い。<中略>犀、象、貂、鼲(珍奇な毛皮動物)、瑇瑁(タイマイ)、火斉(宝石の一種)、金、銀、鉄、金縷織成、金皮罽(敷物?)、細摩白疊、好裘、毾㲪を産出し、火斉は雲母の如き状で紫金の如き光耀が有る。<中略>其の西で、大秦(ローマ帝国)と安息(パルティア)が海中で交市する。大秦には珍物が多く、珊瑚、琥珀、金碧珠璣、琅玕、鬱金、蘇合がある。蘇合は諸々の香汁を煎じ合せたもので、自然の物ではない。<中略>鬱金は罽賓国だけに産す。<中略>

漢の桓帝の延熹九年(AD166年)に、大秦王安敦(アントニヌス)が遣使し、日南の郡外から来献した。漢の世では唯一の通交になる。

中天竺国の人は交易のためにしばしば扶南、日南、交趾に至り、其の南の諸国の人も、少ないが大秦に至る者があった。

(呉の)孫権の黃武五年に、大秦の商人の字秦論が交趾に来たので、交趾太守の邈が遣送して孫権に面会した。

<中略>漢の和帝の時、天竺が何度か遣使貢献したが、その後西域に反乱があって絶えた。桓帝の延熹二年、四年、日南の郡外に頻りに来献した。魏、晋の世にえて復通しなかった。唯呉の時に扶南王の范旃が親人を遣し、蘇物が其の国に使いした。<中略>

  天監初(502年頃)、其の王の屈多が長史の竺羅達を遣し、(以下の)表を奉った。

<前略>使人の竺達多は忠信の者なので遣しました。大王が若し珍奇異物で入用のものがあれば,悉く奉送します。境界は大王の地なので、王の法令が善く敷かれていれば,悉く承って用います。二国の信使の往来が絶えない事を願い、此の信書の返還と、一使を賜る事を願います。<中略>琉璃唾壺、雜香、吉貝(綿花)等を奉献しますので、収めて下さい。」

中天竺国の王の手紙は、古墳寒冷期になって西ユーラシアやインド洋の交易経済が破壊され、交易者の苦衷が高まった事を赤裸々に示している。中華王朝の威勢が発露した結果であると解釈する史家がいたら、噴飯ものだと言わざるを得ない。

「魏、晉の世に(交渉が)えて復通しなかった」と此処にも記し、史官の目的の一つに、陳寿の主張の否定があった事を示している。通交がなかった時代の、何も知らなかった人の妄言であると、三国志を貶める為だったと考えられる。

中天竺国について詳しく記した他の理由として、漢書地理志の見識は甚だ狭く、南北朝以降の知識が遥かにそれに優っているのは、隋唐を建国した鮮卑族の功績であると主張しているとも言える。

南海諸国伝では中天竺国の他に、林邑国、扶南国、盤盤国、丹丹国、干陁利国、狼牙脩国、婆利国、師子国について記している。

林邑国はヴェトナム中部にあった国で、古墳寒冷期に粤が南下した地域だったと考えられる。

林邑の本は漢の日南郡象林県で、古の越裳の界である。と記されているので、越裳日南郡にあったと解釈する人がいるが、春秋戦国時代に越裳の界(領域)であると考えられていたので、秦の軍が越裳の高級絹糸を求め、此処まで南下したと解釈する必要がある。秦軍は高級絹糸の産地に辿り着かなかったから、目的を達成できなかった秦帝国は短期間で崩壊したが、その事情は当然史記には記されていない。粤も越裳も同系の民族だったから、秦や荊に誤解があったと考えられ、秦の征服時に東の荊だった呉人は関東部族と疎遠になり、むしろ東鯷人になった対馬部族と交流していた事を示唆し、後述する隋書倭国伝の、秦王国の起源を示している。

林邑国の俗は、居所は高床で門戸は皆北向きにする。樹葉に(文字を)書いて紙とする。男女は皆橫幅のある吉貝(綿花の布)を腰以下に巻く。耳に孔を空けて小さな金属製の環を付け、貴者は革のゾウリを使うが賤者は裸足で歩く。林邑から扶南以南の諸国は皆然り。

林邑は貧しい稲作民の国であるとの印象を受けるが、色々な物産を掲げて交易が盛んであるとも説明している。

吉貝は樹名で、其の華成時にガチョウの羽毛の様になり、其を採って細紐に紡いで布を作ると注記しているから、唐代の中国には綿布がなかった事が分かる。吉貝は現地の音を表し、漢字に意味はないと考えられる。

漢書地理誌に、「女性が桑を育てて養蚕し、絹布を織っていた海南島の習俗は、南シナ海の島々の習俗と同じだ」と記されていたが、梁代の林邑から扶南以南の諸国の女性の生業事情が、漢代とは大きく違っている事を指摘している。つまり漢代には盛んだったインド洋交易が廃れ、高価な絹布が売れなくなって産業として成立しなくなったから、絹布生産が極めて低調になったから、男女は皆橫幅のある吉貝を腰以下に巻き、絹布は身に付けていなかった事を示している。手間を掛けて作る絹布が高値で売れれば、産業として成立するし、自分の着衣にも転用するが、自分で使う為だけであれば綿布で十分だったからだ。

隋唐代の人々は、この事実を以て漢書地理志を疑い、東南アジアの海洋民族の交易性や、それによって富裕になっていた事について、否定的な認識に至っていた可能性は高い。それとは対照的に、西北諸戎伝のペルシャの項で、「(婚礼では)婿は金線錦袍や師子錦袴を著て天冠を戴き、婦も亦之の如し」と記しているし、東夷諸戎伝の倭国でも、錦が使われていると記しているから、東南アジアの絹布生産が壊滅したわけではなく、最高級絹布である錦も多量に生産されていたと考える必要がある。

絹布が中国で生産され、シルクロードを経て西ユーラシアに運ばれているとの主張は、騎馬民族の優位性を強調する重要な素材だったが、実際には絹布の最大の産地は後漢代にフリッピンに変ったから、交易が低調になったインド洋交易では捌き切れなかった、フリッピン産や日本産の絹布が中華大陸にも持ち込まれ、それがシルクロードを経て西ユーラシアの内陸部に運ばれたと考えざるを得ない。大陸でも絹布の生産は春秋時代から行われていたが、夏の炎暑は養蚕の生産性を阻害し、絹糸の品質を劣化させたから、高級な絹糸は生産できなかった。それに関する記述が西北諸戎伝にあるので、そちらの節で紹介する。

縄文中期~後期のフリッピンで生まれた養蚕は、気候の寒暖差が少ない島嶼部を西日本まで北上したが、大陸への伝搬は極めて限定的だった。桑の葉を生産できる気候帯は広かったが、蚕が繁殖して良質の繭を生産する気温帯は狭く、気候の寒暖差が大きい大陸では、高級絹布は生産できなかったからだ。密閉した室内で暖房を行えば、養蚕は北上できたから、木造船を作っていた海洋民族にはその様な蚕室を形成する能力があり、養蚕は気候の寒暖差が少ない島嶼部を西日本まで北上した事を、魏志倭人伝が示している。養蚕の技能者だったと考えられるmt-B5+M7bの分布が、その事情を示している。

扶南国はヴェトナム南部とタイを領有していた国。

扶南国は日南郡の南海の西、大湾の中に在り、日南から七千里(3000㎞)、林邑の西南三千余里(1500㎞)にある。城は海から五百里の場所にあり、広さ十里の大江が有り、西北に流れ、東に入ると海になる。其の国は周囲三千余里で、土地は窪んで平で博い。氣候や風俗は大較林邑と同じ。金、銀、銅、錫、沉木香、象牙、孔雀、五色鸚鵡を出荷する。其の南界三千余里に頓遜國が有る。海の崎の上に在り、地方千里、扶南に属す。頓遜の東界は交州に通じ、其の西界は天竺、安息、徼外諸國に接している。交易が盛んに行われ、其の市では毎日東西の万余人が会し、珍物寶貨を有さない所は無い。

<中略>扶南国の俗は元々裸体で、文身して髪は結わず、定まった衣裳はなかった。<中略>呉の時、中郎の康泰、宣化從事の朱應を派遣した。訪問した国の人は猶も裸で、婦人だけが貫頭衣を着ていた。

漢書地理志が記す南シナ海沿岸の海洋民族は文明度が高かったが、南海諸国伝はそれを執拗に否定している。養蚕や絹布の生産に全く触れていないのは、絹は中国の特産品であると主張する事に、強く拘っていたからだと推測される。

干陁利国は南海の洲上(大きな島)にある。其の俗は林邑、扶南と大略同じ。

狼牙脩国は南の海中にあり、其の国の堺は東西三十日の行、南北二十日の行で、広州から二万四千里(12000㎞)。

婆利国は広州の東南の海中の洲上にある。広州から二月日の行。

師子国は天竺の傍にある国。

ユーラシア南縁でインド洋交易に従事していた国に関する情報量が、梁代に格段に増えたのは、これらの国が交易の激減に見舞われて新しい交易相手を求める必要に迫られ、今まで相手にしていなかった南朝に殺到したからだ。それらの国が派遣した使者が、それぞれの国の様子を話しただけでなく、中華の役人に国を訪問して欲しいとも言ったから、それに応じて出掛けた中国人の報告書により、史書が各国の情報で賑わう事になったのであって、それは中華世界とは関係がない事情に起因していた。

南海諸国伝が示す初唐期の史官の主張は、南シナ海沿岸の海洋民族は、嘗ては交易で潤っていたが依然として未開人で、文明的なのはインド以西の国々であり、そのインドは騎馬民族だった月氏に征服され、更に遠方のパルティアも騎馬民族系のペルシャに征服された事を踏まえ、騎馬民族が文明の懸け橋になったとする、騎馬民族至上主義を主張し、陳寿を標的にしながら海洋民族の文明起源論を否定するものだった。

梁書だけではその主張は分かり難いが、やや遅れて成立した隋書南蛮伝では、林邑国は存続していたのでその習俗を記しているが、中国や天竺に似ていて独自性はないとする記述がある。扶南は赤土と真臘に分裂したとしてそれぞれの習俗を記しているが、交易に関する記述はない。

唐代の前半期について記している旧唐書では、この地域の事情は南蛮・西南蛮伝に纏められ、林邑国に関する簡単な記述と、林邑国を起点としたその南の国々について、申し訳程度の記述があるだけで、唐朝にはこの地域に対する関心が薄れていた事と、この地域の人々も唐朝とは疎遠だった事を示している。

唐朝の基盤は華北に在り、放置すれば最も商工業が発達した筈の、華南の稲作社会の商工業の発展を、抑圧する政策を採用していた事が、この様な状態を助長していたとも言える。

しかしそれはシルクロードを重視した唐の一方的な方針であって、日本では東大寺の造営にあたり、天竺僧の菩提僊那を導師とした大仏開眼会(かいげんえ)を、752年に挙行したから、日本の海洋交易者はインド洋~東南アジアとの交易を重視していた事を示している。

 

2-2-2 東夷諸戎伝

東夷諸戎伝の序

東夷の國は朝鮮に集まっている。箕子の化を得たもので、其の器物には猶、礼楽があると云う。

箕子を輩出した濊の国である、新羅が最も文明国である事を示唆しているのは、慕容鮮卑と濊の関係を尊重したからだと推測される。隋書の編纂方針も、これらの地域の人々の主張を採録する事だったが、梁にも北朝にも朝貢しなかった倭については、過去の文献を抜粋しているだけで、朝貢しても自身については何も話さない高句麗と新羅については、百済の使者の嘘を記している。

その様な高句麗、百済、新羅については、既に各所で引用したので、此処では論及しない。倭は中華社会の重要な交易者だったので一応倭人伝を記したが、魏志倭人伝と宋書の抜粋に留まっている。

梁代の慕容鮮卑は高句麗との抗争を停止し、西域の交易路の経営に注力していたので、関心の薄い存在だったとも言える。

 

2-2-3 西北諸戎伝

西北諸戎伝の序

漢の世に張騫が西域に足跡を残した事に始まり、甘英は遂に西海に臨んだ。魏の時三方が鼎立して干戈が日事になり、晉氏がを平定すると寧息は少なく、徒に武官を置き、諸國も亦朝貢しなかった。中原の乱は継続し、胡人が代わる代わる起ち、西域と江東は遮られて交流がなかった。前秦の呂光が龜茲に干渉し、蠻夷が蠻夷を討つ様になったのは中國の意ではない。是より諸國は、分れたり幷合したりする強弱の勝負になり、詳しく載せることはできない。梁の命を受けて朝貢したのは、仇池、宕昌、高昌、鄧至、河南、龜茲、于闐、滑諸國などである。

梁書以前に成立した魏書の西域伝の序文は、「夏書は、西戎にはその地域の秩序があると称す。班固は漢王朝の西域の序列は、武威が盛んであるか否かではなく、漢王朝への貢物によると云う。漢氏が初めて西域を開くと、三十六國あった。」との記述から始まり、漢王朝が西域を経営していたかの様に記しているが、梁書の序文はそれとは立場が異なり、張騫と甘英の活動は認めるが、中華が西域を支配した事は否定している。魏の時以降の文は魏志の東夷伝の序に記された、「西域との交流は漢末に途切れたが、魏代になって西域の大国が朝貢し、漢代の状況が復活した。」との記述を否定する意図も示している。

騎馬民族は漢代の西域事情も知っていたから、史記や漢書だけではなく三国志も、西域事情を正しく認識していないと糾弾している様に見える。

その様な唐王朝の見識に対し、魏書には史記を正当な歴史と見做す発想が濃く、魏書を編纂した北斉の段階で、シベリア起源の農耕民族には、史記史観を尊重する歴史観が生まれていた事を示している。つまり鮮卑族と共に南下したシベリア系の農耕民族は、その様な歴史観を採用していたが、騎馬民族の王朝だった隋唐王朝は、北斉ほどには史記史観を重視していなかった。

魏書は拓跋鮮卑が樹立した北魏の歴史を、北斉の史官だった魏収が編纂した史書だが、拓跋鮮卑を正当な王朝系譜であると見做している。北魏が東西に分裂すると、間もなく高氏が東魏の帝位を簒奪して北斉を建てたが、高氏は慕容鮮卑の根拠地だった華北の土着豪族だから、本来は慕容鮮卑が樹立した燕を正当な王朝と見做すべきだったが、その様な事態になっていないのは、高氏は慕容鮮卑ではなく、栽培系民族の系譜だったからだと考えられる。拓跋鮮卑は真っ先に漢化を推進した王朝であり、それは栽培民族の統治を目指すものだったから、高氏が拓跋鮮卑の北魏を正当な王朝系譜と見做したと考える事ができるからだ。

それを具体的に言えば、魏書の編者である魏収と北斉の皇帝になった高氏は、慕容鮮卑が前燕や後燕を建国した河北を本貫としていたにも関わらず、拓跋鮮卑の北魏を正当な王朝と見做したのは、北魏が王朝の漢化(農耕民族的な政権の樹立)に熱心であったのに対し、慕容鮮卑は交易者であり続ける事に熱心で、入植後の農耕民族のケアに淡泊だったからだとすれば、各鮮卑部族には特徴的な施策方針があった事になり、その他の歴史解釈と整合する。

慕容鮮卑のその後の活動を概観すると、北魏が成立するとその家臣団を形成し、北魏が東西に分裂すると、シルクロードを支配した西魏に拠点を移し、宇文鮮卑が西魏を滅ぼして北周を樹立すると、その旗下に留まり、北周が北斉を滅ぼしても北周の旗下に留まり、楊堅がそれを継承して隋を建てても、その旗下の騎馬民族集団に留まり、騎馬民族集団の中核的な存在になった。

つまり慕容鮮卑は、北魏が成立する以前は河北を拠点として燕を樹立し、高句麗と毛皮交易の覇権を争ったが、北魏が河北を統一して高句麗の存在を認知すると、毛皮交易の覇権争いは諦め、西域の交易路の経営を志向し始めた。宇文鮮卑が華北を制圧する際にも、河北の同族と正面から争う事はなく、華北を統一してシルクロードに君臨する隋・唐王朝の、基幹的な集団を形成したからだ。

北魏が東西に分裂して生まれた、東西の政権の統治領域を概観すると、東魏・北斉が黄河下流域の農業地帯を統治したのに対し、西魏・北周は陝西、甘粛、チベット高原を領有したから、それによっても両政権の意図は明らかになる。つまり西魏・北周はシルクロード交易を重視する、雑多な騎馬民族の集合体になったが、交易活動に積極的だった慕容鮮卑が次第に指導力を高め、内陸交易を主導する政権の確立に貢献した。当時の陝西、甘粛、チベット高原には、シベリア系の匈奴、宇文鮮卑、慕容鮮卑の分派だった吐谷渾、車師と、秦人の氐や仇池の他に、縄文後期にチベット高原に展開したモンゴル系狩猟民族から生まれた、チベット系の騎馬民族もいた。

隋を樹立した楊堅は、騎馬民族化した秦人だったと推測されるが、唐を樹立した李氏の系譜は明らかではない。しかし隋唐王朝では、色々な集団の指導者の複雑な婚姻関係が形成されたから、その系譜の誰が皇帝になっても、騎馬民族の諸集団に大きな利害関係が発生しなかった可能性が高く、隋唐王朝は騎馬民族の統合王朝だったと見做す事ができる。

人物史に終始する中華の史書から、歴史の流れを読み取る事は難しいが、個人的な事績や人間関係を無視して歴史の流れを読み解くと、上記の概論になる。

梁書の西北諸戎伝の序文は、漢民族的な正義を示しているのではなく、梁書の著者が梁王朝の視点で史書を編纂したから、読者もそれを前提にして読む史書であると言うべきものだが、以下に示す魏書の西域伝の序文は、漢王朝の後継王朝であるかの様な筆致になっている。その著者はシベリアから南下した農耕民族だから、その異常性に気付く必要がある。

夏書が「西戎即序(西の諸民族にはそれぞれの居所がある)」と称す。班固は云う「その序列は武威が盛んであることによるのではなく、其の貢物が致ることである。」

漢氏が初めて西域を開くと、三十六國が有った。其後分立して五十五王になり、校尉と都護を置いて之を撫納した。王莽が位すると西域とは往来がえた。後漢になると班超が五十余国と通じ、西の西海に至って東西萬里が皆來朝して朝貢し、都護と校尉を復置した。其後は、或いは或いは通じ、漢朝が衰えると其の官も、時に置き時に廢した。魏晉に及んだ後は互相に併呑したり滅ぼしたりしたので、詳細に記す事はできない。

(北魏の)太祖が初めて中原を経営し、四方にそれを及ぼすことができない時期には、西戎之貢は至っていなかった。漢王朝の故事成句に従って西域に通じるを請えば、(山海経が示す)荒外に威德を振るい、奇貨を天府にもたらすが、太祖は「漢氏は境界の安を保たず、遠く西域を開き、海虛耗を広めた。何の利之有らん?今若し之を通じると、前弊が百姓に復加される。」と曰い、遂にしなかった。太宗の世になっても、しなかった。

やがて(北)魏の德が益し、その噂が伝わると、西域の龜茲、疏勒、烏孫、悅般、渴槃陁、鄯善、焉耆、車師、粟特の諸國王が始めて遣使來献した。

漢代の西域経営は、西域諸国の貢納を強要する武力的なもので、それによって富が集まっても人民は疲弊し、中華に益はないと前置きした上で、西域との交流は交易を目的とした欲得で行うのではなく、親善的な交流を行うべきであり、北魏は太祖以降その方針を貫いたと記し、その方針を礼賛する農耕民族的な発想を示している。

魏書の西域伝の末尾に編者の評があり、西域は通じ雖く、北魏は中原の平定に忙しく、信使の往來はできなかったが、羇縻(同化政策)の深得をえさせない事は道であると記し、北魏の受動的な西域政策を支持している。

慕容鮮卑の前燕や後燕と高句麗の間に、毛皮交易を巡る死闘が続いたから、慕容鮮卑と共に南下した栽培民族には、交易に纏わる争いにうんざりしていた思いが強く、農耕民族の華北定着に注力した拓跋鮮卑の北魏が、正しい王朝であると主張している。

その北魏の始原について、帝紀の冒頭に以下の様に記している。

昔黃帝に子が二十五人有り、諸華の内に列する者と、外分である荒に服す者があり、少子の昌意は北の土に受封し、國に大鮮卑山が有ったのでそれを号とした。其の後の君長が幽都の北の廣漠の野を統べ、畜牧を遷して狩猟を生業とした。俗は淳樸で目まぐるしい動静の変化はなく、文字はなく木を刻んで伝承や契約などの世事を、人口を介して伝授していた。北の俗は土を托すと謂い、后を跋(草を踏んで野山を歩き回る)と謂うので、それを氏とした。其の後裔は均から始まり、堯の世に帝に仕え,逐に女魃(旱魃の神)が弱水の北に降りて、森林が草原化したので、帝舜が之を嘉として田祖になることを命じた

荒唐無稽の説話ではあるが、拓跋鮮卑の始原に関する情報が示されている。

幽都の北の廣漠の野は、肥沃な黄河下流域を幽都とすれば、モンゴル高原やその北のエニセイ川、レナ川の上流域を北の廣漠の野としている事になり、文字はなく木を刻んでいた事は、交易に従事しない故に漢字を使わない民族だった事を示している。シベリアの交易民族が漢字を使っていた事は、粛慎の実態と高句麗の成立史の項で検証する。

と謂うとの指摘は、五帝の名称が色々登場する事と併せ、が民族の代表として夏王朝に参加する者だった事を前提にすると、が彼らの民族代表だった事になるが、夏王朝に参加する為には漢字の習得が必須だったから、この話は後世の創作になる。

弱水は地域の人しか知らない小河川の総称だったと推測され、縄文時代には狩猟民族だったモンゴル系民族が、弥生温暖期に草原化したモンゴル高原や、その北のエニセイ川やレナ川の上流域を遊牧地とし、羊を飼養する騎馬遊牧民族になって人口が増えた事を示唆している。女魃(旱魃の神)が弱水の北に降りて、森林が草原化したとの記述が、それを示唆している。

これらは拓跋鮮卑の始原だが、帝舜が之を嘉として田祖になることを命じたとの記述は、弥生温暖期に北上した栽培民族と共生した事を示唆している。但しそれは、栽培民族の始原と重ねた起源説話で、実際に拓跋鮮卑が栽培民族と共生していたのかについては、疑念がある。栽培民族と共生していたのは、宇文鮮卑匈奴宇文だったと考えられるからだ。宇文鮮卑は鮮卑と呼ぶ大集団の宇文地域の人々を意味し、匈奴宇文は匈奴の中の宇文部族を指し、後者は政治的に独立した集団だった。

いずれにしても拓跋鮮卑やシベリア系の栽培集団は、縄文時代に遡る統一的な交易集団ではなかったから、起源を捏造する必要があった事を示している。

魏書の西域伝の序では、漢王朝の西域経営を非難しながらも夏書班固の名前を挙げ、華北の伝統を継承した農耕民族として中華的な価値観を受容した事を示しているが、これは華北王朝を継承した南朝の史書ではなく、シベリアから南下した鮮卑族が樹立した、漢民族ではない王朝の史書である事に留意する必要がある。夏書は仏教用語ではなく、史記や尚書を指していると考えられるからだ。

農耕民族にとっては、交易より農地の確保が優先し、農地の栽培権を保証してくれる政権が必要だった。北魏はそれに応える政権だったが、交易志向が強い慕容鮮卑にはその発想が弱かったから、河北に入植したシベリア系の栽培者が北魏を支持したとすると、上記の話しが整合する。慕容鮮卑の祖先はシベリア特産の、貂などの毛皮を生産する集団だったから、彼らの生産した毛皮を商品としていた濊や新羅と結託し、彼らが生産した毛皮を扱っていなかった高句麗と敵対したからだ。

北斉を形成した栽培民族には、シベリア時代から漁民や狩猟民族に従属して来た歴史しかなく、自治認識が弱かったから、北斉も統治力が弱い政権になり、狩猟民族を主体とした騎馬民族の政権である北周に、併合される宿命を負っていたとも言える。

梁書西北諸戎伝に記された諸国

西北諸戎は、古墳寒冷期に騎馬民族が南下支配した、タリム盆地以西の国を指し、その中で梁に使者を派遣した16国が記されている。

河南国は黄河上流域の南部地域を起源とする国で、タリム盆地南部の、西域南道と呼ばれたシルクロード上の東部にあり、慕容鮮卑出身の始祖の名称から、吐谷渾と自称した。梁代に寧西將軍、護羌校尉、西秦、河二州刺史を叙位され、それに至る家系譜の説明が記されている。それらの経緯は魏書西域伝ではなく、魏書吐谷渾伝に詳しく記されている。

高昌国はタリム盆地北部の、天山南路と呼ばれるシルクロード上の東部にあり、騎馬民族の国ではないが、容貌は高句麗人に似て辮髪であると記しているから、秦人などのイラン系ではなく、シベリアから南下した人々の国だった。その王が都督秦州諸軍事を称し、漢代まで秦の領域だった事を示唆している事は、古墳寒冷期になると匈奴や鮮卑などとは異なるシベリア系民族が、秦の領域だったタリム盆地に南下した事を示している。

高昌國は車師の故地を蓋っているとの記述は、シベリアからタリム盆地に南下した車師更に西移動し、天山北道に沿って龜茲などを征服してタジキスタンに進出し、中央アジアとタリム盆地に跨る大国である、滑國を形成した事を示している。車師はシベリアの陸送集団の名称に相応しく、魏書も梁書もこの地域は車師の故地であると説明しているから、諸事情が整合する。

匈奴は民族系譜不明の騎馬民族で、鮮卑はモンゴル系狩猟民族だが、車師沃沮や濊の様に漁民を含む3民族の共生集団だったからであり、縄文時代のタリム盆地には巨大湖があったから、車師も湖が残っていたタリム盆地西部であれば、居住が可能だったと考えられるからだ。従ってシベリアの水上交易路が壊滅した縄文晩期に、彼らが新たな長距離交易路を形成する為に、タリム盆地に南下したと考えられる。

魏書に、「玉門より出でて流沙を渡り、西行二千里で鄯善に至る一道と、北行二千二百里で車師に至る一道がある。」「車師の地の北は蠕蠕に接している。」と記されている。鄯善は漢代に楼蘭と呼ばれ、消滅しつつあった湖(ロプノール湖)の湖畔にあり、西域南道と呼ばれたシルクロードの東端にあった。蠕蠕は柔然とも呼ばれた騎馬民族で、拓跋鮮卑が南下する前に活動していた匈奴系の騎馬民族だった。これらはこの地域の包括的な事情を示しているので、諸事情を確認した後の論考の資料にする。

高昌国で栽培されていた綿花白疊子と記し、「國人は多くを取り、織って布にする。布は甚だ軟く白い。交市に用いる。」と記している。綿花はインドネシアの海洋民族が南米から持ち込んだ植生で、秦人の絹の道だったインダス川流域を遡り、タリム盆地に伝搬した事を示している。東南アジアでは綿花を吉貝と呼び、林邑国伝にその詳細が記されている事は既に指摘した。

この命名は南北朝期の中華の人々が、未だ綿花を知らなかった事を示し、春秋時代~漢王朝期の中華世界の、交易性の欠如を示している。東南アジアの海洋民族が中華世界を交易対象としていなかった事は、漢書地理志/粤の条が示しているが、春秋時代の越人にとっても、中華世界は絹布を生産する場でしかなく、交易の対象地域ではなかった事を示している。

タリム盆地を支配していた秦人も、中央アジアの物産を中華世界に持ち込まなかった事を示しているが、高昌国人は秦人の国ではなく、シベリアから南下した人々の国だったから、白疊子秦人の栽培種ではなかった可能性がある。漢代の陝西がアワの栽培地だった事は、秦人は弥生温暖期(春秋時代)に小麦の栽培者にならなかった事を示唆し、シベリア系の栽培者が小麦の栽培者になっていた事と併せて考えると、小麦と白疊子栽培の北上路はタリム盆地経由ではなく、カスピ海南岸からトルクメニスタンを経てキルギスに北上したか、或いはカスピ海の北岸から直接シベリア南部に、交易者のルートを使って直接伝搬した事を示唆している。

弥生温暖期に黒海沿岸に入植したギリシャ人が、小麦の栽培者だったのであれば後者の可能性が高い。綿花の栽培も紀元前には地中海東岸に拡散していたから、その系統の綿花が白疊子だったとすると、後述する中央アジアの綿花の栽培事情と整合する。

魏志倭人伝に「倭人は木綿の鉢巻きをしている」と記されているが、倭人も綿布を輸入するだけで栽培しなかったから、中華では南北朝期になっても、綿花や綿布の存在を知らなかった事になる。

中央アジアの国として、渇盤陁国末国、波斯國(ペルシャ)が記載され、「渇盤陁国の風俗は于闐と相い類し、吉貝布を衣としている」と記している。この国の綿花の呼称が東南アジアの国々と同じである事は、木綿が伝搬した時期に2波あり、それぞれが異なる品種であると、この地域の人々が認識していた事になるから、吉貝はインダス川流域から北上した種だったと推測される。この種は耐寒性が低かったから、標高が低いタジキスタンの南部までしか、北上していなかった事を示唆している。

タジキスタン南部の盆地の標高は400m程度だが、タリム盆地西部の于闐の標高は1400mもあり、東部の高昌国の低地の標高は900m未満で、カザフスタン北東部の低地の標高は500m以下だから、栽培種が北上する際には標高が高いタリム盆地西部が障壁になり、カザフスタンからアルタイ地方に拡散する流れの方が、主流になり易かったと推測される。タリム盆地や陝西の秦人がアワ栽培を続けながら、シベリア南部に小麦栽培が拡散した事は、地理的にも妥当性があった。

渇盤陁国が何処にあったのか明らかではないが、タリム盆地とペルシャの中間にあった国だから、タジキスタン西部~サマルカンド辺りだったと推測される。

タリム盆地西部に亀茲(クチャ)、于闐(ホータン)あった。

滑國は車師の別種。三国時代には小國で、芮芮(匈奴)に属していた。後に強大になり、旁國の波斯(騎馬民族時代のペルシャ)、盤盤、罽賓、焉耆、龜茲、疏勒、姑墨、于闐、句盤、などの国を征服した。土地は溫暖で山川や樹木が多く五穀が有る。国人は網で小動物を捉え、それと羊肉を食料としている。

人は皆弓が得意で、小袖の長身袍を着て金玉を帯留めにしている。女人は毛皮の衣類を着て、頭上に六尺の木を刻した角を付け金銀で飾る。女子が少なく兄弟が共に妻にする。城郭がなく毛織の布で住居を作り、妻と並んで坐して接客する。

文字(漢字)は無く木で契りとし、旁国と通交する。則ち旁國の胡(表音文字)を使って胡書とし、羊皮を紙にしている。

其の言語は河南人の通訳を待ち、然る後に通じる。

車師は農耕民族・漁労民族・狩猟民族の共生集団だったが、騎馬民族化して中央アジアに進出すると、小麦の生産性が高い地域を獲得したので、女性の地位が高い民族になった事を示唆している。騎馬民族になっていた男性も農耕ができる女性を妻にしたがったが、民族の人口構成上、その様な女性の数が足りない時期だったのではなかろうか。征服した波斯(ペルシャ)は騎馬民族で、彼らはパルティアが滅亡した後にササン朝ペルシャを興した。

国を形成した車師、タリム盆地を西進して中央アジアに至った集団だったとすると、標高が高く湖が失われていた亀茲于闐は、彼らの居住適地ではなかったから、在地の人々の統治に任せて更に西進し、中央アジアで新たな居住域を見出した事になる。其処はタリム盆地西部の様に湖沼漁労を行う場ではなく、騎馬民族化した狩猟民族が羊を飼養し、栽培民族が麦を生産する地域だったから、地域部族内で生業者の再編が進行し、女子が少なく兄弟が共に妻にする状況が生れていたと推測される。

車師が漢字文化圏の民族ではなかった事は、エニセイ川流域以東の息慎系の交易集団は、漢字文化圏の民族ではなかった事を示している。漢字文は交易者の共通言語だったから、通訳が必要である事とも整合する。タリム分地の人々は、漢字文化圏の人だった秦人の影響により、漢字文化を受け入れたが、国を形成した車師にはその時間がなく、中央アジアに西進してしまった事を示唆している。表音文字は同じ言語を使う人には使えるが、異言語民族との会話には通訳が必要になるからだ。

龜茲は西域の古い国で、内紛の後に匈奴が龜茲の貴人の身毒を王にしたので、匈奴に属した。その後前秦の苻堅が將を派遣して西域を征討し、龜茲に至ると龜茲王が出奔したので其の城に入り、王の弟を王にして帰った。

身毒(インド)が秦人のインダス川流域の交易路を形成していたから、彼らは同じ民族の人を王にした事になり、交易の円滑化の為だったとすると、彼らの交易も秦の中華征服の失敗により、行き詰った事を示唆している。

前秦の苻堅が華北を制圧した際に、その将軍が王の弟を王にして帰った事は、それらが秦人の内紛だった事を示唆し、苻堅が秦を名乗ったのも、彼が秦人だったからである事になる。

魏書は甘粛省南部にいたについて、漢の建安中(後漢末期)に楊騰なる者が有り、部落の大帥になる。騰は勇健で計略が多く、仇池に居を移し始める。仇池は方百頃(1頃は5ha)、因って号とする。四面は隔離され、高さ七里余(3500m),羊腸の様に廻りくねった道が三十六回めぐり、其の上に豐な水泉が有り、土を煮て塩を成すと記している。

このHPでは著名な青海湖を製塩地と記すが、実際は青海湖から南西に50㎞ほど離れた、100平方㎞ほどのチャカ塩湖が古代の製塩地だった。チャカ塩湖の湖面標高は3064mで、標高3200mほどの青海湖より低いが、いずれにしても標高の正確さに驚く。

青海湖の製塩地を拠点にした仇池ある事は、仇池も縄文時代に青海湖の塩を荊に提供し、馬家窯文化や斉家文化を形成した人々の子孫で、陝西や甘粛を拠点とした交易民族である、秦人の別種である事になる。秦は漢によって滅ぼされたと記す、史記を鵜呑みにするとこの発想が生れないが、漢代の秦は甘粛やタリム盆地に後退していた事を、「エリュトゥラー海案内記」が示している。

魏書や梁書は匈奴が鮮卑より早い時期に、この地域に南下していた事を示してはいるが、匈奴がどの様な民族だったのかを示す記述は以下しかない。

芮芮は匈奴の別種。水草に隨って畜牧し、穹廬(遊牧民のテント)を住居にする。辮髮で錦を着る。小袖袍、小口袴、深雍靴。其の地は苦寒。後に他民族に侵略されて弱体化し、490年頃に丁零に破れたが、510年頃に初めて丁零を破って旧領土に復帰した。

鮮卑は栽培民族と共生するシベリア起源の騎馬民族だったが、匈奴は栽培民族とは共生していなかった事を示している。それ故に古墳寒冷期に、農耕ができなくなったオビ川流域を領土にしたとすると、この遊牧を生業とする民族の起源は、3民族が共生していたシベリアではなく、鉄器の生産が先行した黒海周辺を起源とする、騎馬民族の草分け的な存在だった可能性が高い。

シベリアの諸民族は、民族より部族が上位組織になる統治文化を形成し、3民族の共生を可能にする文化を確立していた。海洋民族もその文化圏の民族だったから、ドングリを栽培していた縄文人は、海洋漁民と狩猟民族と共生していたが、それは高度な文化体系だったので、他民族が容易に真似できるものではなかった。生業が異なる民族との共生には経済的なメリットがあったが、譲り合わなければならない事情も多々あり、発想が異なる異民族が集落を近接させたり混住したりする為には、法規的な規約を習俗化する必要があったからだ。

中華世界でそれを主体的に実現した民族は越だけで、それも完全なものではなく、越同盟は集団間の交易に限定されるものだった。荊は関東部族から申し出た共生を断り、台湾起源の海洋民族は、フィリッピンに入植した浙江省起源の稲作民族との共生を解消し、台湾で共生関係を形成した民族と共にインドネシアに移住してしまった例もあり、金属器時代に個性的な文化を進化させた民族が、他民族と共生を始める事は極めて難しかった。

「于闐国は西域の屬也」 出自が分からない事を示している。

「玉を出す水(川)があり、玉河と呼ぶ。」 和田(ホータン)玉と呼ばれる、中華で最も上質な翡翠(軟玉)の山地。川で翡翠が拾える事は、その上流域に蛇紋岩質の鉱床がある事を示している。

「妻と並んで坐して接客する。婦人は皆辮髮で、衣類は毛皮の袴。」 木綿を衣類にせず、伝統的な毛皮の衣類を使っていた事を示している。

「書には木の筆劄を使い、玉を印とする。」 劄は「さしこむ」事を意味するから、インダス文明の印章や、メソポタミア文明の粘土板を使っていた事を示唆している。インダス文明は縄文後期末に滅んだが、その遺民が青海湖の塩を求めて此処に北上した事を示唆している。インダス文明が滅んだのは、海洋民族が塩を運び上げなくなったからだと推測されるからだが、その詳細は(10)縄文時代参照。

 

武興国は渭水盆地の西南に連なる山岳地(甘粛省)の、盆地にあった国で、本は仇池で楊難當が自立して秦王になったと記されている。魏書に仇池であると記され、これらは秦人(イラン系民族)である事を示唆し、彼らの指導者は隋を創建した楊堅と同じ楊氏だった。

武興国では桑と麻を栽培し、紬、絹、精布、漆、蠟、椒等を出荷する。山では銅と鉄が産出する。

春秋戦国時代の秦人が越裳の高級絹糸を求め、中華を征服した事は既に指摘したが、彼らも養蚕を行って紬と絹を生産していた事は、重要な意味を持つ。

紬、絹と並べて記し、が主要な生産品だった事を示している。は質が低い絹糸で、高級絹糸の様に10個ほどの繭から糸を取って束ねたものではなく、クズ繭と呼ばれる質の悪い繭を、ほぐして糸にしたもので、手触りが荒く硬い布しかできないから、日本では野良着に用いる品質の布で、絹布とは言えない代物だった。従って武興国では質の悪い繭の中から、比較的良質なものを厳選してを作った事を示し、「エリュトゥラー海案内記」に、インダス川の河口のバルバリコンの港から出荷される品目の中に、セーレス(秦)の毛皮、綿布、生糸、黒色インディゴが含まれるとの指摘と整合する。

後漢代の秦人には高級絹布を生産する手段がなかったから、彼らはシベリア系の民族から毛皮や綿布を購入し、それを主要な輸出品にする事によって輸出交易者の面目を維持していたが、主要な交易品はこの地域で消費する塩の生産者になっていた事を示している。これはこのHPが論理化した、東アジアの絹布生産の起源や、その生産地は島嶼だった事情とも一致し、養蚕の技能者がmt-B5+M7bだった事の傍証にもなる。

これを敷衍すると、中華世界は隋唐時代まで絹布の生産地ではなく、養蚕の西欧への伝搬は中央アジア経由ではなく、インドネシアの海洋民族が養蚕の技能者を西欧に送り込んだ事を意味する。ほぼ同時期に西欧に伝搬した製紙技術も、同様のルートで伝搬したのではなかろうか。

 

魏書西域伝、梁書西北諸戎から分かる事

中央アジアの国々の政情が、古墳寒冷期に安定していなかったのは、中央アジアの乾燥化が進んで交易路としての重要性が増した縄文晩期以降に、シベリアから南下した民族と在地の民族の勢力争いが発生する一方で、秦の交易路だったタリム盆地では乾燥化による過疎化が進み、中央アジアとタリム盆地に南下した車師集団や、遅れて南下した騎馬民族との勢力争いが継続し、それが古墳寒冷期に激化したからだ。

それを縄文後期から追跡すると、中央アジアは縄文後期に草原化したが、未だ息慎がシベリアの河川で活動していた時代であり、騎馬民族は未だ登場していなかったから、中央アジアは交易路にはならなかった。乗馬の為には轡などに使う鉄器が必要だったが、未だ鉄器時代になっていなかったからであり、陸送より河川水運の方が有利だったからだ。

縄文晩期寒冷期になると、冬季にエニセイ川の北極海への流出路が凍結し、流域が氷原になって息慎の水上交易路が失われたから、標高が高い支流域に交易路が南下する必然性があった。それによって陸路が長くなったが、縄文晩期寒冷期に鉄器時代になったから、大型の荷馬車を大量生産する事や、轡や鐙を使って騎乗する事が可能になり、草原の長い道を輸送路にする事が可能になっただけではなく、羊を飼養する遊牧騎馬民族も生まれ、草原で多量の食料を調達する事も可能になったから、新たな交易路を求めて南下し、草原を交易路にする事も可能になった。

それらの人々の拡散は、考古学的にはアンドロノヴォ文化と結び付ける事が可能になる。この文化圏がウラル山脈の南端と、カスピ海の北岸の間を抜けて、バルト海方面に向かう経路上にあるからであり、西に延伸して欧州まで至っていないのは、シベリア文化圏はY-C3狩猟民族の領域で、欧州はY-C1狩猟民族の領域だったからだ。縄文後期にはY-C1の狩猟文化は終焉し、Y-R漁民の交易圏になっていたが、Y-C3は部族主義者であって民族主義者ではなかったから、Y-RY-C1の後継部族であると見做し、ウラル山脈以西はY-Rのテリトリーであると認識していたからだ。

この文化圏の南端が中央アジアを覆っている事は、縄文晩期にエニセイ川の北極海への流出路が凍結し、流域が大洪水になると、それまで使っていたオビ川とエニセイ川の連絡路が冠水し、水路や陸送組織の集落が破壊されたから、新しい交易路を探す活動が広範囲に展開され、弥生時代以降の中央アジアの各地に、シベリア系の人々の集団を残す事に繋がったからだと推測される。

弥生温暖期になって安定した交易ルートは、エニセイ川上流の比較的標高が高い丘陵地を流れる支流と、それらを結ぶ陸路に変り、馬車を駆使する陸送者が生れた。その最長の陸路は、アルタイ共和国を流れるオビ川の支流であるビヤ川と、ハカシア共和国を流れるエニセイ川の支流であるアバカン川の間の、直線距離で40㎞、標高差500mの、峠越えのルートだったのではなかろうか。弥生時代の車師は、そのルートを担った陸送者だったと考えられる。

その様な集約的な労働を担う集団の食料として、山間地では漁労資源は望めなかったし、狩猟では生産性が低かったから、農耕と牧畜に頼る必要があった。弥生温暖期に黒海沿岸に北上した小麦栽培が、カスピ海北岸を経てアルタイ地方に至る事は、彼らの交易路上を拡散した事を意味し、連続的な拡散ではなく、黒海北岸から直接アルタイ地方に拡散した可能性も高い。その結果として小麦栽培が、アルタイ山脈の北側にも拡散する事も、必然的な結果だった。

シベリア南部にはアワやキビを栽培していたmt-Zがいたから、彼女達がその役割を担ったと考えられるが、中央アジアやタリム盆地にmt-Zの痕跡はないから、アルタイ地方に浸潤した黒海沿岸の小麦栽培者は、冷涼で生産性が低い地域への北上を拒絶し、古墳寒冷期に中央アジアの小麦栽培者になったが、息慎系の交易者が望んでいたのは、アルタイ山脈の北側のエニセイ川の上流域で小麦を栽培する女性達だったから、シベリアの栽培者だったmt-Zがそれに応え、冷涼な地域でも小麦が栽培できる品種と技能を磨いたと考えられる。

南北朝時代は古墳寒冷期後半の最寒冷期だったが、その時期に華北に南下した小麦栽培者が高い生産性を得ていたのは、弥生温暖期にそれと同等な気候帯まで北上していたからだ。ベリアの栽培者だったY-Nmt-Zペアは、生産した穀類や蔬菜類を多量の水産物と交換し、それを主要な食料にするシベリアの栽培民族で、彼らに漁獲を提供していた冷涼な気候地域の漁労民族は、栽培者に焼いた魚では得られないビタミン類の補給を求めていたから、縄文時代のmt-Zの主要な生産品は蔬菜類だった。mt-Zがシベリアや西欧の北限の遺伝子である事が、その事情を示している。

縄文晩期の河川交易者は、豊かな漁獲が見込める平原の大河流域や湖沼群を放棄し、標高が高い丘陵地を流れる支流域に南下移住したから、Y-Nmt-Zペアも一緒に南下すると、乏しくなった漁獲を補う為に穀類の生産性を高める必要があった。mt-Zの石器時代の栽培種はアワとキビだったが、更に生産性が高い小麦が導入されると、それも栽培種として取り込んだ結果、生産性と耐寒性の総合的な観点から、弥生温暖期に小麦の栽培に移行したと推測される。

mt-Zがタリム盆地周辺の山岳地の少数遺伝子でもあり、漢代の陝西や甘粛の栽培種がアワやキビだった事は、秦人のアワ栽培者の遺伝子でもあった事を示唆し、秦人に浸潤したmt-Zは、タリム盆地が小麦の栽培地に転換した唐~宋代に、小麦の栽培者に浸潤された事を示している。(10)縄文時代の項で、後氷期になった直後の諸事情を論理的に推測すると、石器時代のmt-Zはアワとキビの栽培者だったとの結論に至るが、これらの事情はそれと整合する。

弥生温暖期と古墳寒冷期の気温差は、海に囲まれた日本列島で3℃だったから、内陸では45℃の違いがあったと推測される。弥生温暖期のY-Nmt-Zペアの小麦栽培は、農耕民族ほどの生産性は必要なかったからそれも加味すると、華北より78℃冷涼な地域で栽培していた事になり、アルタイ山脈北側のエニセイ川支流域だったとの推測と整合する。遼東の中心都市である瀋陽の平均気温は10℃程度、アルタイ山脈の北麓から150㎞ほど北上したノヴォクズネツクの平均気温は3℃程度だからだ。

通説では華北に小麦栽培が流入したのは、中央アジアからであるとしているが、魏書や梁書にはそれを示唆する文章も匂わせる記述もなく、否定的な記述だけがある。中央アジアから小麦栽培が流入したのであれば、綿花の栽培も一緒に伝搬した筈だが、この時期の中華世界に綿花が伝搬していなかった事は、小麦の伝搬はこのルートではなく、綿花が栽培できない北方経由だった事を示しているからだ。従って弥生温暖期にモンゴル高原の北まで小麦栽培が拡散し、古墳寒冷期の華北にその冷涼な地域の小麦栽培者が南下したから、華北農業の生産性が高まって人口が増えたと考えざるを得ない。

華北で栽培されていたアワは彼らの小麦より耐寒性が劣り、栽培者だった漢族は栽培地を放棄して温暖な地域に南下していたから、耕作放棄地が各所にあった。

標高が比較的高い内モンゴルの盆地であっても、これらの地域より幾分温暖だったから、多数の小麦栽培者が拓跋鮮卑と共に、内モンゴルを経て山西に南下したが、遼寧や河北は更に温暖でありながらアワが栽培できる地域が限られていたから、遠路モンゴル高原を周回して入植する価値があった。慕容鮮卑や烏桓の故郷は更に冷涼だったから、彼らは弥生温暖期には小麦の栽培者と共生していなかったが、小麦栽培者はその様な騎馬民族と共に南下する不便さも厭わなかったとすると、歴史事情と整合する。

農耕民族ではあり得ない行為だが、漁民と共生する栽培者としては常識的な選択だった。石器時代の女性は、母から伝えられた栽培種に拘りがあったが、男性達が金属製の農具を使って畑を耕し、その成否が生産性を大きく左右する様になると、栽培種に拘りのない男性達の発言力が高まり、生産性が高い品種に栽培種を転換する流れが進行した事も、付記する必要がある。交易で潤っていたシベリアの民族は、弥生温暖期には鉄器時代に進んでいたが、華北のアワ栽培者の農具の鉄器化は、古墳寒冷期なってから始まった事も付記する必要がある。

中央アジアの歴史の追跡は、このHP の中心的な課題ではないので、分かっている限定来な事象と史書の記述から、弥生温暖期~古墳寒冷期にこの地域に起こった事を論理的に組み立てると、以下の仮説が生れる。

中華世界での秦人の痕跡は、8千年前の老官台文化から始まり、仰韶文化期(縄文前期温暖期)に、渭水盆地に北上した荊に塩を供給した事を契機に、青海湖の塩を荊に供給する交易民族になった。縄文中期に馬家窯文化が生れ、縄文後期温暖期に荊の人口が増加すると、馬家窯文化と並立する斉家文化も生れ、彼らの経済活動が荊の北上によって活性化した事と、部族が分立する社会を形成していた事を示している。

縄文中期まで森林に覆われていた中央アジアでは、イラン系(Y-R)の人々が農耕を行っていたが、縄文後期温暖期に中央アジアから森林が失われると、彼らはインドやイランに南下するか、西進してカスピ海以東~欧州に拡散したが、秦人は青海湖の塩を中華世界に販売しながら、インダス川を経てインド洋に繋がる陸路の交易者になった。縄文晩期に騎乗して羊を飼養する遊牧文化が生まれたから、それが彼らの食生活を支えたと推測される。

秦人は解池の製塩者と合体して周を構成したが、弥生温暖期になると交易者の秦と華北の東周に分裂した。東周の主体は浙江省起源のY-O3稲作民族と、韓族起源のY-O2アワ栽培者で、彼らは農耕民族の統治者を志向していたから、交易を重視する秦人とは文化が異なっていたからだ。直接的な理由は、秦人は荊が織った絹布を西ユーラシアに販売したかったのに、周王朝は荊を敵視していたからだ。

縄文晩期寒冷期にシベリア平原の水上交易路が失われると、息慎の交易路はエニセイ川の上流域に南下し、縄文後期までの交易路だったオビ川との、新たな連結路を求めたから、その試行錯誤は中央アジアを含む地域に及んだが、最終的に選択された交易路は、中央アジア~ペルシャ湾や地中海に抜ける為のものでもなく、オビ川を経てバルト海に抜ける為のものだった。つまり使えなくなったエニセイ川とオビ川の中下流域の代わりに、両河川の上流の丘陵地帯を流れる、両河川の支流を繋ぐものになった。

オビ川水系~バルト海に至る水路は、1万年前に巨大氷床が融解してその荷重を失い、地面が急速に隆起し続けている地域だから、現在の地形から当時の水路を推測する事はできない。

パイキングがシベリアの神である龍を崇拝していた事などが、弥生温暖期まで密接な交易と交流があった事を示している。

古墳寒冷期に車師がタリム盆地や中央アジアに南下した事は、縄文晩期寒冷期より更に寒冷化した古墳寒冷期に、シベリアの河川水路が壊滅した事を示している。

中国の文献には、古墳寒冷期に生まれたシルクロード上の国に関する記述しかなく、弥生温暖期の交易路や交易集団については、その痕跡が僅かに記されているだけなので、歴史家の注目を集めてはいないが、製鉄業の揺籃期だった縄文晩期~弥生時代前半には、製鉄に多量の薪炭を必要とした事と、弥生温暖期に気候が乾燥し、黒海や地中海沿岸では伐採した森林が容易に再生しなくなったから、それを前提に歴史を考察する必要がある。

つまりこの時代の製鉄業者は、原料の鉄鉱石の何百倍もの薪炭を必要としたから、河川の流域に鉄鉱石の産地があれば、森林資源を求めて製鉄地を移動させる時代だった。従って考古学的に製鉄地を発掘する事は、極めて難しい時代だったから、弥生温暖期の製鉄地は論理的にエリアを特定する必要がある。

気候が乾燥した弥生温暖期の西ユーラシアの森林資源は、メキシコ湾流の恩恵によって気候が湿潤な西欧に偏り、樹木を伐採して製鉄活動を行う集約的な労働力を賄う為には、穀物栽培が可能で漁労資源も豊富な地域である必要があり、それらの条件を満たす広大な地域が製鉄地だったと考える必要がある。この時代の最も重要な交易品は鉄だったから、その地域が現代に繋がる高度な西欧文明の、源流の一つだったと考える必要もあるだろう。

シベリアの交易者も、その様な地域との交易を重視していた事は間違いなく、其処に至る交易路だったと推測されるオビ川からバルト海に抜ける交易路を、このHPでは欧州北路と呼ぶ。欧州北路は天山北路と玉門関で分岐し、天山北路は北西のバルハシ湖方面に向かうものだったが、欧州北路は真北に向かうものだったと想定され、途中で途切れる天山北路は欧州北路の側道だった可能性もある。

古墳寒冷期の後半~弥生温暖期にシルクロードが使われた事は、その時期にはシベリアの河川路は壊滅していた事になり、弥生温暖期末期~古墳寒冷期の前半がその過渡期で、シベリアの水上交易路が壊滅すると東アジアの交易路は、陝西~甘粛~玉門関がシルクロードや欧州北路の起点になったと考えられる。

魏書は古墳寒冷期の事情として、「玉門より出でて流沙を渡り、北行二千二百里で車師に至る一道がある」「車師の地の北は蠕蠕に接している。」と記している。弥生温暖期には、エニセイ川とオビ川を繋ぐ陸送者だった車師が、古墳寒冷期にシベリアの水路が使用不可になると、新たな生活の資を求めてジュンガル盆地に南下したとすると、魏書はタリム盆地に南下する以前の車師の故地を示している。

玉門の北二千二百里(1100㎞)の地が直線距離で900㎞程度であれば、烏倫古湖(ウーロング湖)がそれに該当するからだ。烏倫古湖はオビ川水系の最上流域で、現在の烏倫古湖も大きな湖だが、地図が示すこの湖の縄文時代の規模は東西80㎞、南北120㎞に及ぶ巨大湖で、漁業資源が豊富な湖だった。従ってタリム盆地に南下し始めた頃の車師の、故地に相応しい地形だったと言えるだろう。

古墳寒冷期は縄文晩期寒冷期より更に冷涼になったから、古墳寒冷期が始まった漢代の欧州北路では、エニセイ川の活用を放棄せざるを得なくなった。その代用として秦人の交易ルートだった、玉門から楼蘭に至るルートを活用する為に、即ち中華世界から運ばれて来た奢侈品を欧州北路にも回す為に、玉門から烏倫古湖~サイサン湖に抜け、オビ川水系に達するものが、車師の新しいルートになる事は必然的な結果だった。古墳寒冷期にエニセイ川流域の水上交易路が、洪水や氷結によって破壊されても、オビ川流域は暖流であるメキシコ湾流の影響により、河口は氷結せずに流域も温暖だった。オビ川の河口はエニセイ川の河口より、緯度上も5度以上南にあり、氷結して大洪水を起こす事はなかったからだ。

弥生温暖期の秦と中華の交易は、荊が作った絹布を秦人がインダス川の河口から積み出すもので、その交易路は西域南道だったから、車師が天山南路に進出して高昌国を形成する事も必然的な流れだった。高昌国で綿花が栽培されていた事は、彼らは弥生温暖期にはその地域に定住していた事を示し、縄文晩期に始まった新たな交易路の開拓活動が、複雑な様相を呈していた事を示している。その事情は、アンドロノヴォ文化が中央アジア南部まで南下した事と整合する。

秦人は西域南道を使ってインダス川流域と交易していたが、車師の新しい交易路はサマルカンドを経てイランに至るものだったから、車師が寒冷期になって激減した交易量を回復する為に、新しい交易路を開拓する事は必然的な結果だった。シベリアの民族は共生によって食糧事情を改善していたから、農耕民族や遊牧民族の人口が希薄な地域であっても、荷役を担う為に必要な人口の集中を実現できたからだ。

車師に遅れて南下した騎馬民族の発生は、縄文晩期までしか遡らない。轡や鐙を使って騎乗する文化は、鉄器時代に生まれたものだったからだ。

縄文後期温暖期の息慎の交易路は、エニセイ川の中下流域でオビ川との陸送路を形成するものだったが、縄文晩期寒冷期にエニセイ川の交易路が破壊されると、モンゴル高原の北の丘陵地を回ってオビ川に連結するものに変わった。この時期に鉄器が出現したのは偶然ではなく、息慎系の交易者が窮地を脱する為に、製鉄業者の育成に腐心したからである可能性もある。

弥生温暖期になっても交易路が以前の状態に戻らなかったのは、エニセイ川の河口の凍結によって水系全体が水没し、水が引いても水路の復旧が困難だったからであるかもしれないし、縄文晩期寒冷期の壮絶な記憶が、息慎系の交易者の脳裏に焼き付いていたからかもしれないが、弥生温暖期に騎馬民族と栽培民族の共生集団が、モンゴル高原の北回りルートの食糧事情を支える様になったから、再び平原に交易路を形成する必要がなくなった事が、最大の原因だったと考えられる。

漁労に依存していた縄文後期までの陸送路は、漁獲が見込める大河や巨大湖の近く設定する必要があったが、騎馬が可能な人々の労働を集約するのであれば、彼らの居住域は広範な地域に設定する事が可能であり、妻子は遠隔地の山村に居住する事ができたから、食料の調達源は分散的なものでも対応できたからだ。これは羊を飼養する騎馬遊牧民族の得意とする生業であり、酪品は栄養価も高く保存も可能で、羊を生きたまま取引すれば漁獲では得られない保存性に優れていた。

従って彼らが古墳寒冷期の中華を支配する大勢力になったのは、交易者が騎馬遊牧民族を養成したからで、その為に必要な文化要素を積極的に開発したからだと考えられる。遊牧には塩が不可欠だが、その交易路も開拓した事になる。

その様な騎馬民族に、車師の様に依然として3民族が共生していた集団と、栽培者と共生する宇文鮮卑、狩猟民族的な伝統を維持していた拓跋鮮卑が生れ、古墳寒冷期に小麦の生産性が激減すると、モンゴル高原の西端にいた宇文鮮卑が栽培者と共に甘粛・陝西に南下し、モンゴル高原の北西にいた拓跋鮮卑がモンゴル高原を越えて山西に南下し、アムール川中・上流域にいた慕容鮮卑も、栽培者を庇護しながら満州を経て河北に南下したが、西の匈奴と東の烏桓は、彼らに先駆けて南下した騎馬民族だった。

騎馬民族と言えば後世のモンゴル人を連想し、チンギスカーンが率いた遊牧騎馬民族を真っ先に想像するが、彼らは鮮卑が南下した後に残った遊牧者だけの集団で、栽培者と共生しなくても生活できたのは、騎馬で羊を飼養する生業の生産性が高まり、栄養バランスの取れた食料の自給が可能だった事と、機動性の高さを利用して交易活動を積極的に行ったからだと考えられる。

鉄器の入手が容易だった黒海やカスピ海沿岸にいた匈奴の祖先が、騎馬民族文化を先駆的に形成し、弥生温暖期にシベリアに拡散してそれを高度化する事により、シベリアの狩猟民族が遊牧騎馬民族化する事に貢献したと考えられるが、彼らは遊牧しか行わない単一民族だった。

従って古墳寒冷期のシベリアの人々から生活の余裕が失われると、孤立していた故に食糧危機が生れて真っ先に南下したが、中華世界では漢王朝に南下を阻まれた。タリム盆地では南下し始めていた車師の上位者に君臨したが、鮮卑が大挙して南下すると存在価値が失われ、栽培が不可能になった北方に回帰せざるを得なくなった集団が、芮芮だったと推測される。

漢王朝と敵対した匈奴は、晋代には華北の農耕地域に定着していたから、かれらも農耕民族と共生していた事を示唆している。しかし共生を習俗化していた、鮮卑の様な本格的なものではなかったから、やがて鮮卑に駆逐された。烏桓については次項で検証する。

河北に南下した慕容鮮卑から、吐谷渾が分離して甘粛に西進し、河西回廊に進出して河南国(吐谷渾)を形成した。彼らがタリム盆地の南東部を征服すると、その地域の秦人が彼らの製塩地である崑崙山脈に追い上げられたのは、同じ騎馬民族であっても遊牧の技能に優劣があり、砂漠化したタリム盆地の周辺では、吐谷渾が優勢になる事情があったと考えられる。

ロプノール湖の湖岸にあった楼蘭が、弥生温暖期の秦人の根拠地だったが、漢代にロプノール湖の古面積が縮小し、人口を支えられなくなったからだ。シベリアから南下した民族の優れた農耕力も、耐寒性が低いアワを主要な食料としていた秦人を圧倒したから、秦人は根拠地である崑崙山系に退避せざるを得なかったとも言えるが、秦人は塩の有力な需要者を得て経済力を高めたから、前秦を樹立したり隋の楊堅を排出したりしたと考えられる。

シベリア起源の騎馬民族は弥生温暖期以降の歴史を知っていた筈であり、史記が捏造史書である事も分かっていた筈だが、シベリアには伝統的な部族意識があり、その根幹として生業に関する強い縄張り意識があった。それに従えば、華北に南下した栽培者は新参者になり、昔から華北に居た漢族の風下に位置しなければならなかった。

しかしシベリアの習俗では、新しい生業を生み出して入植した者は縄張り意識の例外になったから、漢王朝にはなかった騎馬民族の交易社会を形成し、それを統括する隋唐王朝を樹立した人々には、問題ではなかったが、先進的な小麦栽培者だったシベリア系の栽培者は、既に農耕社会が存在していた華北に入植したから、既存の縄張りに移住した新参者だった。

しかし生産性が低いアワ栽培者の下位者にはなりたくなかったから、シベリアから南下した栽培者も、昔から華北に居たかの様に装う新しい捏造史が必要になり、その為に史記の捏造史を拝借したと考えられる。史記は中華世界に多数の民族がいた事を否定し、中華社会の人々を単一民族化していたからだ。

隋唐王朝はシベリア系の栽培者も政権基盤とし、彼らを保護していたが、唐が滅亡するとその様な政権が失われ、北宋はシベリア系農耕民族の政権だった。隋唐王朝は内陸交易を重視し、その経営によって安定的な財政基盤を確立する積りだったのかもしれないが、内陸の交易にはそれを満たす高い収益性はなく、農耕民族を支配する王朝になって彼らの大義名分が失われ、王朝の存在価値も喪失したからだ。

北宋王朝はその様な騎馬民族王朝が崩壊した後に生まれた、シベリア系の栽培民族の王朝だった、それ故に宋王朝には歴史の新たな捏造が必要になり、史記史観を公式に認定する為に資治通鑑を編纂したとすると、資治通鑑が史記を中華社会の固定概念化した理由が明らかになる。資治通鑑は春秋時代の終わり頃から書き始め、南北朝期は南朝を正当な後継王朝とし、騎馬民族が形成した北朝を一切認めていないから、シベリアから南下した民族が、完全に漢民族化した事を宣言する書籍でもあったからだ。

しかし宋のその様な行為は、宋が滅亡した後の華北から、シベリア系の遺伝子であるY-Nmt-Zが駆逐された理由に繋がる。資治通鑑は、漢族の民族主義を鼓舞する書籍にもなり、シベリアから南下したトルコ系民族を排斥する、漢族の伝統的な習俗も高めたからだ。

漢族の民族主義が鼓舞された事情は、宋代以降に朝鮮半島に南下した漢族が、彼らの集積地になった朝鮮半島中西部を流れていた、好太王碑文に阿利水と記されていた川の名称を、漢江に変えてしまった事が示している。資治通鑑は1084年に完成したから、1143年に執筆が始まった三国史記に漢江の名称が記載されている事は、資治通鑑の成立によって漢族の民族意識が急激に高揚した事を示している。

高句麗滅亡後に朝鮮半島に南下した漢族は、濊のシベリア的な習俗に従って朝鮮語話者になっていたが、それでも漢族である事を忘れていなかった事は、華北では誰が元々の漢族で、誰がシベリア系譜であるのかを熟知していた事になるからだ。

捏造史を使って自分の立場を擁護する事や、発展途上の民族に捏造史を与えて民族主義を鼓舞する事は、当該民族にも周囲の民族にも不適切な結果をもたらす好例であると言えるだろう。

 

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