宋書・好太王碑が示す倭

漢王朝が成立した頃に古墳寒冷期が始まり、河南省まで北上していた荊は、気候の寒冷化と漢王朝の圧政に苦しんだ。王莽期に海洋民族が荊の移住を準備したが、王莽がそれに応えなかったので赤眉の乱が発生し、荊は動乱に紛れて東南アジアや広東に大移住した。殷人によって後漢王朝が再建されたが、寒冷化が厳しくなると穀物の生産量が減少し、後漢王朝が自壊して三国時代の乱世に突入した。

晋が再び統一した頃には気候の寒冷化が進展し、華北のアワ栽培の衰退が進行して人口が希薄になり、シベリアから匈奴や鮮卑などの遊牧騎馬民族と、彼らに庇護された栽培民族が南下すると、晋は匈奴に滅ぼされた。

華南に逃れた王朝官僚が南朝(東晋)を樹立し、多数の漢民族が華北から華南に移住すると、華南の人口が増加して南朝文化が生まれた。

華北に騎馬民族の北朝が生まれると、南北の王朝が並立する南北朝時代(56世紀)になった。

 

1、気候の寒冷化と華北農業の衰退

古墳寒冷期はBC200年頃に始まり、最寒冷期の平均気温は弥生温暖期より3℃低下し、過去1万年間で最も冷涼な気候になった。縄文時代から続いていた温暖な時期が終焉し、現代的な気候になったのだが、原初的な穀類にとっては厳しい気候になった。

平均気温が3℃低下すると岡山の気候が岩手の気候に変わり、中国では浙江省の気候が山東省の気候に変わる大変化だった。日本の稲作北限は、この寒冷化によって青森から北関東に後退したが、東北、北関東、北陸は稲作地からヒエ栽培地になり、穀物の減収には至らなかった。コメは海産物との交換比率が高かったので、栽培者は稲作を求める傾向があったが、ヒエは冷涼な気候地域の栽培種で、収穫量はコメに匹敵していたから、東北では増産になった可能性もある。

日本の稲作は農法と品種改良が進んでいたので、南関東以南では目立った減収はなかったと推測される。

日本の稲作者はコメを市場に出荷し、自身は焼畑農耕者が生産した、アワを食べる経済構造になっていた。日本ではコメは市場商品であって自給食品ではなく、海産物や必需品との交換価値は需給関係によって決まったから、減収になると交換価値が高まり、栽培者が苦境に追い込まれる事はなかった。

アワの生産性は気候の寒冷化によって減少したが、古墳寒冷期に鉄器が普及したから、森林の伐採効率が高まって栽培地の拡張が可能になり、それによる増収が実質的な生産量を維持していた可能性が高い。

つまり日本の穀物生産は、縄文時代に生まれた交換経済の中で多様化していたから、それぞれの栽培者にとっての救済策も多様化し、気候の冷涼化による減収は、それぞれの栽培者の痛手にはらなかった。魏志倭人伝時代の西日本の倭人社会も、一部の地域では稲作とアワ栽培の2重構造になっていたが、魏の使者が見た漁村に近い沖積地の稲作者は、豊かな海産物に恵まれた稲作者だったから、稲作を行いながら養蚕や絹布の生産に励み、木工品なども生産していた。

気候が冷涼化して穀物栽培が不振になり、中華世界では戦乱が相次いでいたのに、倭人の関心事は交易の活性化だった事が、古墳寒冷期の倭人社会の、穀物事情を示していると考える必要がある。

また魏志倭人の時代から、更に気候が冷涼化した古墳時代に大型古墳が沢山造営された事が、寒冷期であっても穀類の不足に苦しんでいなかった、日本の穀物事情を示していると考える必要もある。

その様な状況が生れた理由は、日本の稲作者は生産性が高い漁民と共生し、漁民の秩序認識に従う必要があったからだ。

漁民はシベリア起源の部族主義者で、部族領域で自治的な経済活動を行っていたから、気候の寒暖に関係なく部族領域に定住していた。従って稲作者も気候の寒暖に関係なく、漁民の部族領域に定住する必要があり、寒冷期の気候に耐える耐寒性の高い稲作の開発は、必須事情だった。縄文遺跡に遺されたミトコンドリア遺伝子の分布と、気候と地理的な環境の変遷から追跡すると、日本の稲作の発祥地は関東だったと考えざるを得ない事が、その事情と整合し、古墳寒冷期の日本の稲作は、同時期の大陸の稲作より耐寒性が高かった事とも整合する。

しかし中国の穀物栽培者は、石器時代から単一穀物の農耕者であり続け、稲作者は温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカを併用していただけで、アワ栽培だった漢族の補助食料はキビと里芋で、日本の様な海産産物の活用はなく、基幹食料を交換する経済活動も生れなかったから、穀類の減産は食糧事情の悪化に直結した。

王朝史観に毒されている考古学者は、穀類を主体とした農耕の発展が、食糧事情の安定化をもたらしたと誤解しているが、日本では海産物の生産性が高かったから、稲作の生産性を高めて自給自足的な農民になる事は、古墳寒冷期以前の稲作者の理想の姿ではなかった。自給自足的な稲作が可能になり、海産物の支援が得られない内陸の盆地に稲作者が拡散したのは、平安温暖期以降だった可能性が高い。

漢書が示す中華大陸の人口分布と、晋書が示す人口分布を比較する事により、寒冷化によって引き起こされた悲惨な実態が浮上する。以下は漢代の行政区分と、州毎の人口減少の様子。

 

漢代戸数

漢代人口

戸人数

晋代戸数

晋/漢戸数

漢書が示す穀物種

荊州

309,281

1,655,207

5.4

401,148

130%

揚州

578,338

2,200,041

3.8

296,920

51%

交州

215,448

1,372,290

6.4

48,800

23%

益州

1,394,080

6,207,682

4.3

309,000

22%

靑州

899,748

3,906,405

4.5

53,000

6%

稲・麦

兗州

1,200,519

6,012,619

4.6

32,300

3%

四種

雍州(涼州)

414,883

1,841,902

4.4

154,320

37%

アワ、キビ

司州

1,324,975

6,000,774

4.1

344,700

26%

アワ、キビ

冀州

1,389,476

6,082,381

4.3

322,740

23%

アワ、キビ

并州

707,394

3,321,572

4.6

59,300

8%

五種

幽州

660,321

3,017,633

4.6

48,320

7%

三種

徐州

1,032,193

4,633,438

4.5

81,021

8%

アワ、キビ

豫州

1,857,372

9,680,501

5.2

141,196

8%

五種

全土

11,984,028

55,932,445

4.7

2,292,765

19%

 

上記の表では漢書の不確かな数値を削除したので、他の資料より漢代の人口が幾分少ないが、晋代と比較できる地域の欠落はないから、比較データとしてはむしろ精度が高い。

晋代は戸数の数値が丸められ、人口は集計していないから、集計に漏れがあった可能性が高い。

華北の人口が激減し、王朝の統治力が弱体化していた晋の戸籍には、把握漏れや異民族の離反もあり、漢代より戸籍の捕捉率が低下していたと考えられる。また治安の悪化による数家族の共同生活も想定され、漢代の戸数との直接比較にも問題がある。班固の執筆姿勢から勘案すると漢代の数値に疑念があり、激減した州だけを検証項目とする。

弥生温暖期であっても稲作の北限的な地域だった、青州と兗州の人口が晋代に激減したのは、この地域に北上した稲作者が王莽政権下の赤眉の反乱騒動に紛れ、東南アジアに移住したからであると共に、周の諸侯として淮夷を抑圧する為に入植し、大麦を栽培していたY-Rが、漢王朝の成立と共に逃亡した地域でもあったからだ。

彼らがいなくなって耕作地が放棄されても、エノコログサが繁茂してアワ栽培者が南下入植できない地域だったから、漢族も入植しない地域だった。漢書が漢代の人口を正しく示しているのであれば、Y-Rが逃亡した後の人口を示している事になるが、栽培種に関する記述は春秋時代の事情を記した周礼と同じだから、数値を盛った可能性は否定できない。周礼も漢代の作文であり、春秋時代にはこの地域が人口稠密地域で、春秋時代の華麗な文化を牽引した地域だったからだ。晋代にはそれらの地域が寂れ果てた事は、事実を示していると考えられ、両地域の人口減は気候の寒冷化に直結したものではない。

アワの栽培地だった冀州や司州と比較すると、晋代になってもそれらの地域の1割程度の漢族が、両地域に入植していた事を示しているが、篠田氏が纏めた現代の山東・遼寧の遺伝子分布で、稲作者の遺伝子であるmt-B4+Fが、アワ栽培者だったmt-D+M8a3割ほどを占めているから、稲作女性とのペア比率が高まっていた漢族が、集団的にこの地域に入植していたとすると、数値的に一致する事が、この時代の事情を示していると考える事ができる。つまりこの時代のアワの生産性は、稲作民族が南下してしまう地域であっても、入植意欲を高める程度に低下していた事を示している。

漢書が示す穀物種は、温暖期だった春秋戦国時代の事情を示す、周礼に記されたものと同じだから、漢代の事情を示しているのか疑わしいが、一応以下に解説する。

現代人は華北の穀物として小麦を連想するが、華北で小麦栽培が一般化したのは宋代以降で、漢代~晋代の主要作物はアワだった。小麦も古い時代から栽培されてはいたが、補助的な穀物であり、この時代の麦はY-R民族を起源とする大麦を指した。大麦と小麦の言葉の区分は、大豆と小豆(あずき)と同様のもので、大小が重要度を示した。つまり当時の小麦は大麦程の生産性がなく、アワより重要度が低い穀物だった。キビもアワより原始的な穀物で、耐寒性が高く乾燥した地域でも栽培できるが、生産性は低い。

周礼や漢書に記された穀物種に、稲・麦、三種、四種、五種の地域があり、黒字は漢書地理志に記載されているもので、朱字は気候環境から判断して追記したものだが、三種~五種の記述にもうさん臭さがある。

後漢末の鄭玄が「周礼」に付けた注釈によると、三種はアワ、キビ、稲四種はアワ、キビ、稲、五種はアワ、キビ、稲大豆、麦だったが、これらにも班固の作為が感じられるので、以下に順を追って説明する。

青州と兗州は春秋時代に荊が北上した地域で、Y-Rが入植した宋や魯があった地域でもあり、北陸部族の船が往来し易い淮河の支流域だったから、斉の地域だった青州に示される稲・麦と、類似した栽培環境だったと推測されるが、四種は青州とは全く異なる民族がいたとの印象を与えるからだ。

つまり斉の故地だった青州は大麦を栽培するY-Rの国だったから、周礼や漢書はそれを渋々認めたが、更に人口が多く春秋時代に繁栄していた兗州については、祖先の仇だったY-Rの痕跡を認めたくなかったから、四種と書いて誤魔化した可能性が高い。但し捏造史書である史記を幾ら精査しても、春秋時代のその地域の事情は分からない。

この推理を敷衍すると、大麦の栽培者だったY-Rは豫州(五種)にもいた事になり、淮夷の居住域だった徐州を囲む様に展開していた事になり、それを知られたくなかった班固の意図が明らかになる。

幽州(三種)は青州より更に冷涼な地域だったが、幽州にも稲作者がいた事は、アワの生産性が如何に低かったのかを示し、淮夷の伝統的な作物だったアワの生産性の低さが露わになり、アワ栽培者の黄河文明という幻想の虚構性が明らかになるから、これも班固の作為だったと考えられる。

并州(五種)は周王朝の起源地で、周の栽培者はアワ栽培者だった韓族と、大麦の栽培者だったY-Rだったから、縄文時代から両種が栽培されていた可能性があるが、稲作者がいたとは考えにくい地域だから、これも誤魔化しだった様に見える。漢代の雍州に漢民族がいたのか疑問だから、分からないから「アワ、キビ」にした疑いがある。

淮夷の地域だった徐州の栽培種が記されていない理由は、上記の説明から容易に推測できるだろう。劉邦の出身地は春秋時代にはまともな栽培種がない、極貧地域だった事が露見してしまうからだ。

稲作地だった益州(四川)や揚州(浙江、江西)の人口が晋代に減少したのは、荊が移住したからだけではなく、荊の主要な栽培種だった温帯ジャポニカの生産性が、これらの地域でも低下した事を示している。唯一増加している荊州(湖北、湖南)でも、湖北省は減少して湖南省が増加し、全体では増加した事が郡別の統計で明らかになる。

アワの栽培地だった司州、冀州、并州、幽州の人口が晋代に激減した事は、古墳寒冷期なるとアワ栽培地の北限が、実質的には黄河付近に南下していた事を示し、并州と幽州の人口減少が激しかった事と整合する。黄河の南にあった靑州と兗州の人口も、エノコログサが繁茂していた故に激減した事は、中華世界でのアワの栽培は古墳寒冷期に、実質的に壊滅した事を示している。

日本のアワ栽培にはその影響がなかった理由は、その頃の日本にはエノコログサがなかったからだ。多少は持ち込まれていたかもしれないが、焼畑農耕は農地の形成時に伐採した樹木を焼き、雑草の種子を根絶するから、風で飛散し易い種子は焼畑農地に浸潤するが、種子が比較的重いエノコログサは、焼畑農耕地の雑草にはならなかった可能性も高い。日本では戦前まで焼畑農耕でアワを栽培していたが、エノコログサの被害に関する情報は拡散していなかったからでもある。

徐州は漢王朝を支えた淮夷の子孫の居住域だったから、漢王朝期にこの地域の淮夷の子孫が、強制移住させた稲作民族を支配する事により、人口が増えて経済的な豊かさを得た疑いがある。しかし王莽期に赤眉の乱が起こると、その稲作民族も逃亡して経済力が衰えたから、前漢王朝を陰で支えていた勢力が壊滅し、それが前漢王朝の滅亡に繋がった疑いがある。後漢王朝の樹立を支えたのは、「濊王の印」と刻印された玉器を受け取り、王朝から破格の優遇を受けていた扶余だったのであれば、歴史事象が整合する。後漢を樹立した光武帝が、最初に勢力を得たのは河北だったからだ。

後漢は魏に簒奪され、魏を簒奪して最後の華北王朝になった晋は、南下した匈奴系集団に滅ぼされたが、史書はその理由として武力活動しか記していない。

しかしその頃の華北では、寒冷化による耕作放棄が進み、アワ栽培地の過疎化が進展していた。その様な華北に南下したのは騎馬民族だけではなく、シベリアの栽培者だったトルコ系民族も、彼らによって武力的に庇護されながら、徐々に内モンゴルや華北に南下していた。

華北に北朝が誕生して経済的な繁栄が生まれたのは、古墳寒冷期の最寒冷期だったし、北朝が南朝を滅ぼして中華世界を統合した589年が、古墳寒冷期が終了した時期だった。その軍事力は騎馬民族の武力から生まれたのではなく、耐寒性の高い小麦栽培を先進的な農耕民族が、華北に持ち込んだから生れたと考える必要がある。それが何だったのかは、唐代の貴族が小麦を食べていた事や、宋代に華北が小麦の生産地なった事が示しているから、シベリアの栽培者が生産の高い先進的な小麦栽培を、華北に持ち込んだからだと考える必要がある。

その経緯としては、中央アジアの北方にいたシベリアの栽培民族が、弥生温暖期に西ユーラシアの先進的な小麦栽培を取り込み、モンゴル高原の北側まで小麦栽培を拡散していたが、古墳寒冷期になるとシベリアでは栽培できなくなり、内モンゴルを経て華北を小麦栽培地にしたが、華北には軍事力が強い政権があり、周代以降トルコ系の栽培民族を排斥していたから、騎馬民族の武力を背景にしなければ、内モンゴルや華北に南下する事ができなかった。

漢代の匈奴はその先陣的な存在だったが、後続の鮮卑とは異なる民族だった。鮮卑はモンゴル系の民族だったが、単一集団ではなく宇文鮮卑や慕容鮮卑などの地域集団があった。満州を経て遼寧や河北に南下したのは、慕容鮮卑の庇護を受けていた栽培者で、彼らは河北省を中心に燕(前燕、後燕、北燕)を形成した。北魏を建国した拓跋鮮卑は、モンゴル高原を横断して山西に南下したと想定されるが、難路だから彼らが華北に送り込んだ栽培民族は、慕容鮮卑より少なかった可能性が高い。

慕容鮮卑の南下は後漢代に活発化し、晋代には扶余を壊滅させて栽培民族の南下路を確保し、311年に晋の都だった洛陽が壊滅すると、華北に前燕(337年~ 370年)を形成した。

前燕は前秦に滅ぼされたが、前秦の覇権は短期間で終了し、後燕(384年~ 407年)が復活したが、やがて北燕と南燕に分裂した。しかし宇文鮮卑の北魏が410年に南燕、436年に北燕を滅ぼし、他の小勢力も駆逐して華北を統一した。その頃の河北は農業地帯になっていたから、450年に北魏が漢化政策を採用すると、南下移民する漢族が急減し、倭人の移民事業が終焉した。

これはシベリア系民族が漢族に同化する為の漢化政策ではなく、漢族の地主制などの統治手法を採用し、その為の諸制度や組織を整備したから、南下したシベリア系の栽培民族がその制度下の地主になり、先進的な小麦栽培を拡大したから、在来の漢族豪族の身分も自動的に保全され、南下移民を希望する漢族系の豪族もいなくなったと考えられる。但しこの時点では、シベリア系栽培者の小作になった漢族は小麦の栽培者になったが、漢族の豪族の小作はアワを栽培し続けていたと推測される。

隋・唐王朝を建国したのは、陝西省に移動した慕容鮮卑の分派集団で、彼らの前身は北魏の家臣団だった。これは豊かになったシベリア系栽培者を把握していたのは、彼らの南下と定住を指揮した、慕容鮮卑だったからではなかろうか。中国人は全てを権力闘争として把握したがるが、シベリアの民族は経済的な必然性によって行動し、漢王朝より理性的な政権を形成したからだ。しかし彼らの漢化は農耕民族化でもあり、必然的に腐敗と権力闘争を誘発したから、玄宗皇帝以降の乱れた社会を形成した。

 

2、華北から華南への人口移動と、倭人の移民事業

後漢代の華北の主要な栽培者は漢族で、彼らはアワを栽培しながらキビや里芋も栽培していたが、現在の遼寧・山東の遺伝子分布は、沿海部の漢族に稲作者だったmt-B4+Fが、3割ほど浸潤していた事を示している。つまり荊がいなくなった青州や兗州に晋代まで残っていたのは、稲作者になった漢族だった事を示唆し、晋代になっても人口を維持していた冀州にも、その様な漢族が多数いた事を示唆している。また既に人口が急減していた幽州の漢族は、生口として地域外に流出していた事を示唆している。

この生口を扱ったのは倭人だけではなく東鯷人も活動していたが、鮮卑も関与していた疑いがある。後漢末に冀州で黄巾の乱が発生したのは、冀州は最も人口減少が厳しいアワの栽培地だったからであり、それが雍州(涼州)や司州ではなく冀州だったのは、アワよりコメの減収が厳しかったからである可能性を示唆している。黄巾の乱は南陽や許昌でも発生したが、それらの地域は稲作地だったからであり、幽州は人口減少が激しく、大乱を起こす人口規模を失っていたからだ。

華北の人口減少は前漢代の山西や吉林省などで始まり、後漢代には渤海沿岸にも及んだから、人身売買が盛んに行われる様になった事を、倭国王が後漢の王朝をAD107年に訪問した際に、生口160人を皇帝への手土産にした事が示唆している。現代人はその倫理観を問題視するかもしれないが、戸籍で人民を縛っていた王朝統治時代には、身売り以外に労働力の移動手段がなかったと考える必要がある。日本内部で生まれた隷属民は奴婢と呼んでいたから、生口は大陸で得た隷属民だったと考えられる。

卑弥呼や台与もAD238年~248年に魏の皇帝に生口を贈り、三国時代の呉は台湾で千人単位の人狩りを行ったから、その頃の主要な需要地域は華南だったと考えられるが、鉄器時代になって水田の組織的な開発が可能になった日本列島にも、大きな需要があった。

現代日本人に1.2%ほど含まれるmt-M8aは、この時期~古墳時代に生口になった漢族のmt-D+M8aであると考えられ、mt-D+M8aは現代日本人の9%を占めているが、漢族にはmt-B4+Fも浸潤していたから、それを加味すると現代日本人の12%の遺伝子が、古墳寒冷期に帰化した漢族の遺伝子である事になる。これは漢族のY遺伝子であると考えられるY-O3a2c1の、現代日本人に占める比率と一致するから、妥当な数値であると考えられる。

当時の日本の人口が800万だったとすると、100万人が渡来した計算になるが、渡来後の残存率は日本人よりかなり低かっただろうから、200万人ほど渡来したと想定される。

後漢、魏、晋が統治していた時代の農民は、郡県制によって農地に課税されていたから、人身売買によって移住先が決まらなければ、出生地から移動する事はできなかった。しかし318年に晋が滅亡すると華北は五胡十六国の動乱時代になり、極めて治安が悪化した。

後漢代から南下を積極化した鮮卑には、扶余に対する積年の恨みがあり、扶余を滅亡させる為にその人民を積極的に拉致したと推測される。晋がそれを禁止したと晋書に記されているが、満州から華北に南下したのは河北を根拠地とした慕容鮮卑だけではなく、遼西を根拠地とした段鮮卑もいて、事実だった可能性が高いが、生口とされた扶余が送られた先は明らかではない。

晋王朝が華北を統治していた時代までは、農耕に行き詰った漢族は生口として移住したが、晋が滅亡すると華北の治安が乱れ、豪速が一族を挙げて移住する状態が生れた。

華北や華南に商圏があった倭人や東鯷人は、各地の豪族の館を毎年訪問して商品を販売し、入植先の情報を入手する事ができたから、各地の豪族は移民に関する情報の入手をそれらの海洋民族に頼り、移民時の輸送手段としても、倭人の船の需要が高まったと想定される。現代的に言えば倭人や東鯷人は、移民に関するワンストップビジネスを展開できた上に、最も安全な移動手段だった船便も提供したから、丸抱えの移民事業を展開する事になった。

一族揃っての移住を希望する豪族にその利便を与える事により、高額な謝礼が期待できたから、財貨を溜め込んでいた漢民族の豪族との利害が一致した。日本では邪馬台国の王がこの頃に、海洋民族の諸部族を統合して東鯷人も倭に吸収したが、それは移民事業に組織的に対応する為だったと考えられる。晋が滅亡して華北の治安が極度に悪化し、北魏が華北を統一して漢化政策を実施し、農民を制度的に把握するまでの150年間、その様な時代が続いた。

財貨を貯め込んでいた豪族の一族を移住させるビジネスは、生口を個人的に集めて市場で販売するより効率が良く、利益率も高かったから、倭人の移民事業はこの方式に集約された可能性が高く、この方式での移民先は華南に集中したと推測される。南北朝期は漢王朝期より気候が冷涼化していたから、南朝の初代王朝だった東晋はあまり活動的ではなかったが、最盛期の梁代には爛熟とも言える程の経済発展を遂げたからだ。

荊の従来方式で稲作を継続していると、古墳寒冷期の揚子江流域では生産性が低下した事を、揚州の戸数が漢代と比較して半減した事が示唆している。湖南省の人口が増えたのは、鉄器時代になって長沙以南の盆地に稲作地が造成され、温暖な気候地域の稲作地が増加したが、揚州に属した浙江省や江西省には、更に南下して稲作地を広げる地域がなかった事が、その違いを生み出したと想定されるからだ。

この事情が南朝を創始した東晋の経済事情を圧迫し、余り活動的ではない王朝になったが、宋代から南朝の驚異的な経済発展が始まり、梁代には異様な経済発展を遂げて富裕者が族生した。その背景にはコメの増産があった筈だが、南朝の宋代と斉代は古墳寒冷期の最寒冷期で、梁代になっても寒冷期を脱したとは言えない状況だった。

従ってこの様な経済発展は、倭人が華北の漢族を華南に送り込む際に、日本で開発された耐寒性が高い田植えを行う稲作に習熟した、日本生まれの二世三世の生口も追加販売し、荊の遺民によって揚子江以北に放棄されていた水田地帯に入植させ、華南に残っていた荊にもその様な生口を、先進的な稲作技能者として販売したから、古墳寒冷期の最寒冷期だったにも拘らず、華南経済が急速に復興したと考えられる。

古墳寒冷期の日本列島が好況に湧き、大型古墳を多数築造した古墳寒冷期の最寒冷期に、華北の復興が小麦栽培者の南下によって実現したが、華南でも何らかの事態が発生しなければ、稲作の生産性向上や、それに伴う経済発展は到底望めなかったからだ。

石器時代の女性は母から伝授された栽培種と栽培技術に拘ったが、その技能は栽培地の選定手法や形成手法の比重が高く、男性が鉄器を使って灌漑施設を作り、水田を形成する時代になると、女性達が固有の栽培種に拘る動機が薄れた。それによって農耕の主体が、石器時代には栽培者だった女性から、鉄器を使って農地を生成する男性に変ったが、鉄器が普及した古墳時代は、その変化が劇的に進行した時代だった。鉄器が普及したから大型古墳が容易に形成できる様になったのであり、それが古墳時代だったとの判断に異存はないだろう。

この頃から日本の古墳が巨大化したのも、移民事業の収益を原資にして、労働力を集積したからだと推測され、労働力の一部に生口も使用されたかもしれないが、古墳の形成が一種の公共事業になり、海洋民族が稼いだ財貨を稲作民に配布する仕組みとして機能したから、多数の大型古墳が無秩序に次々作られたと考えられる。

三国時代の東鯷人は会稽で絹布を売っていたが、南朝時代の倭人は健康(南京)で絹布を買い漁っていたから、後漢書の著者が陳寿の記述を誤りと見做し、後漢書では「会稽で絹布を売っていた」との記述を削除したと指摘したが、これがその背景事情だった。

その収益によって日本列島内に巨大古墳が林立し、倭は朝鮮半島に出兵して高句麗の南下を阻止した。

華南に北魏が成立し、漢化政策によって豪族の集団移民が停止した5世紀中頃に、それと同期して大型古墳の築造熱が下火になり、古墳の規模が大幅に縮小した事は、古墳造営の原資は移民事業の収益だった事を示している。

日本列島に移民した漢族の豪族は、平安時代に編纂された新選姓氏録に、漢系豪族として多数登録されている。登録者は畿内在住者に限定されたから、日本列島全域には、その何倍もの豪族が移民したと考えられるが、華南には日本列島より多数の豪族を送り込んだと想定され、弥生時代末期から古墳時代前半までの間に、生口も含めて日本列島に200万人移住させたのであれば、華南にはその3倍の600万人以上運んだと推測される。

晋代の冀州、兗州、靑州、幽州、豫州、并州の戸籍人口は、合計しても60万戸(300万~500万人)しかなかったが、補足洩れや豪族の私有民を除外した疑いがあり、治安上の理由や食糧確保の安定性から、複数家族が1戸を形成していた疑いもあり、150年間の出来事でもあるから、数値の整合性に拘る事に大きな意味はない。いずれにしてもこの時期の漢族の過半が、華南か日本に移住した事を示唆している。つまり南北朝期の華北の栽培民族は、シベリアから移住した栽培者が主流になったと考えられる。

漢族の子孫が再び華北の主流になり、華南の人口主体が稲作民の子孫になったのは、平安温暖期になった、唐代以降の出来事に起因すると考えざるを得ない。平安温暖期になると、インディカの栽培者になった荊が華南に再北上したから、揚子江以南はインディカの栽培地になり、玉突き式に揚子江以北が温帯ジャポニカの栽培地になった事が、民族移動も伴った事を示唆しているが、現在の華北の遺伝子分布は、その様な経済事情だけでは説明できない。

 

3、古墳時代の倭人を記した史書と碑文

古墳時代の倭について記した史書は複数あり、それらの対象年代と著作時期を以下に示す。史書の同時代性の観点から宋書が注目され、史書ではないが好太王碑文も重要な文献になるが、どちらも古墳時代前期の倭について記している。

南斉書も同時代文献だが、倭に関する記述は僅かしかない。朝鮮半島に関しても、百済・新羅に関する記述はなく、加羅国王が来献した記録だけがある。

晋書は最も同時代性に乏しく、内容も史家に不評だが、晋が中国を再統一した後の戸数が記載されているから、漢書地理誌の戸籍と比較すると、古墳寒冷期前半の中華大陸で、農耕の不振による人口減に見舞われた事が分かる。

                  

対象年代

著作時期

好太王碑文

390年~404年

414年

晋書

265年~420年

648年

宋書

420年~479年

490年頃

南斉書

479年~520年

530年頃

梁書

502年~557年

629年

陳書

558年~589年

636年

南史

439年~589年

644年

隋書

581年~618年

636年

 

初唐期(618年~690年)に、晋書、梁書、陳書、南史、隋書が矢継ぎ早に成立し、梁書以降は古墳時代後期の事績を示しているが、これらは漢民族の史書ではなく、鮮卑族の価値観で記された史書になる。鮮卑族は王朝統治の正統性を歴史に求める文化がなく、史書の厳密性を重視する姿勢に乏しく、史書を政治利用する意図が目立つ。外交手段として意図的に誤った歴史を記し、民族対立を煽る手段としたので、扱いに注意が必要になる。

好太王碑は、高句麗人が高句麗王を顕彰した碑文なので、短文ではあるが歴史事実に迫る事ができる。

宋書には歴史事実を追求した晋代の遺風が感じられ、記述を詳細に分析する価値がある。

 

1、好太王碑が示す倭人の活動

2、宋書が示す倭と朝鮮半島の情勢

 

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