魏志倭人伝

魏志倭人伝と云えば邪馬台国が連想され、その所在地議論が盛んに行われているが、著者の陳寿が倭人伝を記述した目的は、中国人と倭人の歴史的な関係を再認識し、史記や漢書の偽りを正す事だった。その意思が、東夷伝の序に示されている。

2世紀末に後漢が統治能力を失い、魏、蜀、呉が鼎立する三国時代の乱世になったが、魏を簒奪した晋が中国を再統一した。晋の史官だった陳寿が編纂した三国志は、三国志/魏志/東夷伝/倭人伝 の階層になっている。諸葛孔明や関羽・張飛が活躍する物語は、明代に創作された三国志演義と呼ばれる通俗小説で、陳寿が著述した三国志を種本とはしているが、陳寿が編纂した三国志とは全く別の書籍になる。陳寿にとって三国時代は英雄の時代ではなく、道徳が失われて非情な乱世になった時代で、人口が激減した二度とあってはならない悲惨な時代だった。

三国志は三国時代が終った直後に成立したので、同時代資料として価値が高いが、それ以上の希少性がある。漢王朝は後進的な華北のアワ栽培民族が、先進的な華南の稲作民族を武力で征服する事によって成立したので、漢王朝の中国統治を正統化するため、歴史を捏造する書籍を多数創作したからだ。史記はその筆頭書籍で、後漢代になってもその流れが続き、漢王朝を創設した劉邦の系譜である劉氏の正統性を強調するために、歴史を捏造し続けた。しかし三国時代になるとその事情が一変し、弱小勢力だった蜀だけが劉氏を戴いていたが、魏の皇帝を称した曹氏や、晋の皇帝を称した司馬氏は劉氏ではなかったから、劉氏を皇統として正統化する漢代の捏造史は、彼らには邪魔になった。そのために魏や晋の知識人は歴史の捏造に興味を失い、人口が激減するほどの乱世が生まれた理由を明らかにするため、歴史を正しく捉える姿勢に転換した。従って魏代から晋代に編纂された「魏略」や「三国志」は、歴史事実を客観的に記述している。

しかし騎馬民族が華北に南下すると、華北を根拠地としていた晋王朝は滅亡した。遺臣が華南に退避して南朝を樹立したが、華北を占拠した騎馬民族に対抗するためにナショナリズムが生まれ、再び歴史の捏造に向かい始めた。しかし南朝も騎馬民族王朝だった隋に滅ぼされ、その後、唐、宋、元などの騎馬民族征服王朝が続いたから、漢民族の民族文化としての正義を追求する試みは失われ、中華の史書は征服王朝の政略手段に過ぎなくなった。従って歴史認識に限定すれば、三国志は漢民族が最も理性的だった時代に成立した史書になり、それ故に希少性が高い。

三国志魏志東夷伝は、日本の古代史に貴重な資料を提供しているが、日本の史学会は日本書紀を抱えて離さないから、日本書紀と両立しない魏志東夷伝を無視している。明治以降の日本人は、その方針によって歴史教育を受けたから、魏志の価値が分からずに邪馬台国の所在地論争に興じている。邪馬台国の所在地に興味がある方は、(16)法則的に解釈出来る事象と難解な推理/(G)邪馬台国の所在地を参照して頂きたい。推定作業は煩雑だが、魏志を正しく解釈すれば邪馬台国は神戸にあった事が分かる。

魏志倭人伝が示す邪馬台国への旅程が不正確なのは、当時の人々の認識力が低かったからではなく、魏の使者が倭人に騙され、邪馬台国は台湾の沖にあると思い込まされたからだ。実際には、倭人も魏の使者も十分高い地理観を備えていたから、魏志倭人伝に記された旅程を追跡する事により、魏の使者を騙した倭人の意図が明らかになる。陳寿は騙された魏の使者の報告書を抜粋しただけだから、陳寿自身が騙されたわけではない。陳寿が現代史家も及ばない理性を示している事が分かれば、陳寿だけではなく、この時代の漢民族の知性の輝きを認める事ができるだろう。邪馬台国への旅程の不正確さは、魏志倭人伝の価値を毀損するものではない。

 

1、序文が示す陳寿の意図

魏志倭人伝を近視眼的に評価するのではなく、魏志東夷伝の一部として解釈すると、陳寿が示したかった倭人像が明らかになる。但しこの時代の史家は前史を表立って批判せず、控えめに自説を主張したから、論文や書評の様に東夷伝を読んでも、陳寿の主張は理解できない。この時代の史家の流儀として、前史を訂正して自分の歴史観を主張する手法があった。前史の文章を引用しながら、一部の語句をさりげなく書き換えたり、前史の短い引用に続けて曖昧な自説を挿入したりしたから、現代人にはその主張や論旨が分かり難いが、この時代の人は数少ない前史を熟読していたから、その様な曖昧さでも分かる人には分かった様だ。

陳寿は、その様な曖昧な手法だけでは物足りないと考え、東夷伝に序を付けて自分の意図を明示したが、それも現代人には分かり難い。

陳寿の意図は、「倭人の祖先だった九夷は夏王朝と連携していたから、それを東夷伝で明らかにする。烏丸鮮卑伝はそれを補足するものだが、慣例に従って烏丸鮮卑伝を東夷伝より先に掲示したから、それぞれに序を付けた。本意は東夷伝にあり、烏丸鮮卑伝はその付録である。」という事だったが、解説がなければ、現代人には序の意図も分からない。

 

11 烏丸鮮卑伝の序

北方の遊牧民族と漢民族の関りを簡潔に述べているから、この文は歴史の理解にも役立つ。後の説明を簡略にするため、()を付記して原文の断片を挿入したが、この原文は単なるマーカーだから読む必要はなく、漢字を確認するだけで読み進んで頂きたい。

尚書が「蛮夷は中華を侵す(蛮夷猾夏)」と記し、詩経が「中華の脅威である北の蛮族が盛んに活動している(玁狁孔熾)」と記している様に、それらの夷狄が中国の外患になって久しい。秦や漢が成立すると匈奴が害を為したが、武帝の征討によって衰亡した。しかし漢末に烏丸と鮮卑が強盛になると、王朝は反乱があって対応できなかった。後漢の太祖が烏丸と鮮卑を征討すると、辺境は安全になった。その後鮮卑が異民族を統合し、匈奴の故地を手に入れると、内モンゴルと遼河流域も鮮卑の庭になり、幽州(河北省)と并州(山西省)はその侵攻に苦しんだが、魏が鎮圧した。烏丸と鮮卑は昔東胡と呼ばれ、漢王朝の官人の報告書や史書がそれらを録載している。(史記の匈奴列伝など)

冒頭の蛮夷猾夏は尚書/舜典からの引用で、五帝最後の帝舜がその下僚に、「蛮夷が中華に浸透して悪者が多い状況だから、お前は獄官になって公正に刑罰を行いなさい」と命じた文章に含まれている。夏王朝期やそれに先行した五帝時代のは、周囲の異民族を指したが、漢代にはその殆どは中華の一員になっていた。しかし騎馬民族は漢代になっても漢民族にならなかったから、騎馬民族の烏丸や鮮卑について記した烏丸鮮卑伝の序として、蛮夷猾夏は適切な引用とは言えない。その詳しい理由は以下になる。

遊牧民が騎馬民族になったのは、轡(くつわ)と鐙(あぶみ)が発明され、馬を機動的に活用できる様になったからだ。それによって飼養できる羊の数が桁違いに増え、遊牧民が豊かになって人口が増え、騎馬の機動力を駆使した軍事力が飛躍的に増大した。轡は銜(くつわ)と手綱で構成され、銜は馬に噛ませる金属の棒を指す。銜を青銅で作れば、その酸化物の毒で馬が弱って死ぬリスクがあり、強度も銜として十分ではなかったから、青銅器時代には騎馬民族はいなかったと考えられ、考古学的な発掘結果もその様な状況を示している。従って騎馬民族の登場は遊牧民の鉄器時代の到来を示し、史書が周代から北方の異民族が脅威になったと記している事は、考古学的な事実と一致する。従って漢民族の伝承による認識では、「昔は北方の騎馬民族は強力ではなかったが、春秋時代頃から侵攻が厳しくなった」という事だった筈で、烏丸鮮卑伝の序の冒頭に記された蛮夷猾夏はその千年も昔の事だから、読み手には強い違和感があったと想定される。

次の句である玁狁孔熾は、北方の異民族が侵攻し始めた周代の話だから、烏丸鮮卑伝の序に相応しい句になる。従って烏丸鮮卑伝の序から蠻夷猾夏の引用を外せば、初めから騎馬遊牧民の話になって違和感はないが、陳寿が敢えて冒頭に蠻夷猾夏を挿入したのは、東夷伝の序の冒頭にも夏代の文章を引用して読者に対比を促し、烏丸鮮卑伝と東夷伝の関係を、読者に気付かせるためだったと考えられる。烏丸鮮卑伝を読了した人が続けて東夷伝を読めば、両者の関係が理解できるからだ。

 

12 東夷伝の序

尚書は「東には海があり、西には砂漠がある(東漸于海西被于流沙)」と記している。その内側の諸民族の制度は分かるが、その外は言葉が通じず、人も車も未踏の地域だから、その地の習俗は知られていない。それでも五帝時代から周代まで、白環と呼ぶ西戎が物を献上し、肅慎と呼ぶ東夷が朝貢した。漢代に張騫を西域に遣使すると、西域の事情を知るようになった。西域との交流は漢末に途切れたが、魏代になって西域の大国が朝貢し、漢代の状況が復活した。しかし東は、公孫氏三代が遼東にあって魏と断絶状態だったので、東夷と中華は不通状態だった。しかし魏の軍が公孫淵を誅し、楽浪郡と帯方郡を収めると東夷は屈服した。その後高句麗が叛いたので、軍を編成して極めて遠方まで高句麗王を追い、東に大海を臨む肅慎の庭まで達した。それによって東夷全ての諸国を観察し、詳細な歴史を知る事ができた。夷狄の邦といえども儀礼は心得ているから、中国が乱れたら彼らに教えてもらう事もあるだろう。新しく分かった東夷の国の特徴を区分けし、今までの歴史書に欠けていた処を補う。

漢代までの官吏は捏造史に賛同し、嘘の報告をしていたから、魏代になって初めて官僚が正しい事実を報告する様になったとの意識が、この文章の背景にある事を認識しないと、この文の主張が曖昧になる。また当時の人には、それを解説する必要がなかった事も示唆している。

冒頭の東漸于海,西被于流沙は、尚書/夏書/禹貢の末尾の、禹が全土の治水に成功した事を記した文章が出典で、単純に東西と表現しても良いところを、体裁を付けた表現になっている。従って引用したこの文章に含蓄や意味があるのではなく、何処から引用したのか分かる事に意味があり、陳寿もその積りで引用したと考えられる。当時の美文として、著名だったからではなかろうか。

禹は帝舜の統治時代に、帝舜の命令で治水を行ったから、烏丸鮮卑伝の序文冒頭に引用した帝舜の治績を示す蠻夷猾夏と、東夷伝の序文の東漸于海は、どちらも帝舜の時代の治績を示す文になる。陳寿はそれを示す事により、烏丸鮮卑伝を下位とする東夷伝の位置付けを明らかにし、東夷伝は夏王朝期から始まる事を明らかにした。東夷伝に記された諸民族の中で、夏王朝に遡る記述があるのは倭人伝だけだから、蠻夷猾夏東漸于海は、倭人伝のために挿入した事が明らかになる。

279年に魏(戦国時代の魏)の襄王の墓が盗掘され、その墓から竹書紀年が発見された。竹書紀年の夏王朝の事績に、「九夷来御」と記されていた事に、陳寿は衝撃を受けたと推測される。来御は目上の者に使う用語だから、漢民族が唯一絶対の存在としていた夏王朝に、目上と見做す存在があった事になるからだ。陳寿は297年に亡くなったから、竹書紀年を見てから東夷伝を著作するまでに、十分な時間があった。

倭人伝の夏王朝に関する記述は、倭人の入れ墨に関する説明だけで、それを素材に、倭の歴史を夏王朝から説いているわけではないが、倭人の歴史は夏王朝期には始まっていた事を示すためには、当時の人に対してはそれで十分だったと考えられる。陳寿が東夷伝を著述していた時期は、竹書紀年が発掘された直後だったから、夏王朝の記事に「九夷来御」と記されている事を、人々は盛んに話題にしていたと推測されるからだ。少なくとも陳寿の念頭に、それがあった事は間違いない。

東夷伝の序の末尾近くに記された、儀礼を心得ている夷狄の邦は何処なのか、東夷伝は明示していないが、国の特徴を区分けした東夷伝を読めば、倭しかない事が分かる。陳寿の論証手法は概ねその様な、読めば分かるという手法だから、それを前提に東夷伝を解釈する必要がある。考え過ぎだと批判する人がいるかもしれないが、魏志東夷伝を読んだ後漢書の著者は、改めて東夷列伝を著述し、同様に序を付けて魏志東夷伝の論旨を真っ向から批判しているから、当時の人は陳寿の意図を理解していた事が分かる。後漢書は、不確かな根拠で魏志に難癖を付けているだけだから、逆説的に陳寿の論証の正しさを示している。

魏代以前の漢民族は、高価な物産を携えて海の彼方から交易に来る倭人が、どの様な島に住んでどの様な生活をしているのか、全く知らなかった。魏の使者が240年に倭人の島を訪れると、その報告に接した魏の人は、倭人の島の様子を初めて知る事になった。

陳寿は倭人の島に渡った魏の役人の報告書を読み、現在は残っていない文献や伝承と比較し、九夷は倭人の祖先であるという結論に達したから、それを証明するために漢書地理志を前史と位置付け、それを訂正する手法で東夷伝を著作した。この時代の史家にとって、引用文献を使って自分の意見を表明する事が、最も手頃な手段だった様だ。

 

13 二つの序を検証する。

三国志/魏志の最終巻である巻三十は烏丸鮮卑伝から始まり、その序の冒頭に蠻夷猾夏を記したのは、烏丸鮮卑伝は東夷伝に先行するが、実はその付録である事を示すためだったと考えられる。烏丸鮮卑伝を東夷伝の後に記せば、その様な作為は必要ないが、烏丸鮮卑伝を東夷伝に先行させたのは、距離が近い順に記す慣例があったからだと想定される。東夷伝の諸民族もその順序で記され、一番遠い倭人は最後に記されている。

陳寿はこの様な分かり難い手法で東夷伝を記述し、文明的な東夷は倭人しかいない事を明示した。しかし全ての東夷諸族を個別に解説すれば、それを全て読んだ人には分かるという、結論や解説がない手法だから、現代人には分かり難い。しかし序を含めて東夷伝を全て読めば、現代人でも直感的に分かるだろう。

東夷の諸民族と言っても、時代によって地域の民族構成が変わったかもしれない。陳寿もそれを危惧したから、東夷の隣に居住していた遊牧民も含め、東夷諸族を網羅する必要があると考え、烏丸鮮卑伝を東夷伝の付録にしたと考えられる。その様にお膳立てし、中華の北東域の情報を隙間なく網羅し、総ての東夷諸族の歴史を個々に記述し、「東夷や北方民族の中には、中華が尊敬できる文明的な民族は倭しかない」事を明らかにし、「従って九夷は倭である」と結論付けた。問題が多々ある記述作法の制約の中で、陳寿は事実を合理的に扱い、結論を導いていると言えるだろう。この様な証明手法に至った考え方も含め、非凡な才能の持ち主だった。

陳寿が参考文献とした漢書は、孔子が九夷の社会秩序を高く評価していたと明記している。また倭人と文化を共有していた、南シナ海沿岸の海洋民族についての詳しい記述があった。従って漢書から多数の文章を倭人伝に引用し、それを訂正すれば、漢書を併せた表現を使えるから、情報が豊かになると陳寿は考えた。

倭人は九夷の子孫であると陳寿が結論付けたのは、漢書を読んだからではない。魏志倭人伝は、陳寿の数世代前の人である魏の使者が、倭人の国を見聞した記録を、陳寿が編纂したものだから、個々の文章は陳寿が書いたのではなく、魏の使者が記した報告書の抜粋になる。その個々の文章を記した魏の使者は、予め漢書を読んでその知識に基づき、しかし史記や漢書の歴史観には囚われずに、邪馬台国を観察したと考えられる記述が沢山ある。従って三国時代になって、歴史を正しく見直す意識に目覚めたのは陳寿だけでなく、魏の役人にもその意識が溢れていた事を示している。言い換えれば、漢代に記述された史書や経書には嘘があり、事実は異なっていた事を、当時の漢民族の知識人は知っていた事を示している。その具体的な一例が、魏志韓伝に記されているから、その項を読む際にこの説明を思い出して頂きたい。

 

14 東夷伝の序が暗黙裡に主張している事

序の末尾に〆の言葉として、夷狄の邦といえども儀礼は心得ているから、中国が乱れたら彼らに教えてもらう事もあるだろう。新しく分かった東夷の国の特徴を区分けし、今までの歴史書に欠けていた処を補うと記している。陳寿にとって今までの歴史書は史記と漢書で、烏丸と鮮卑については昔東胡と呼ばれていたと史記が既に記しているから、烏丸鮮卑伝は三国時代の近況を記せば足りるが、東夷については漢書が軽く触れているだけで、しかもその記述に誤りが多いから、漢書を訂正しながら古い時代の東夷の実情を明らかにすれば、その流れの中の自然体で、漢書に九夷と記された民族の実態を明らかにする事ができた。従って欠けていた処がある歴史書は、文章の流れから見れば漢書だが、陳寿の本音は、漢民族との関りが深かった倭人について、一切の記述を排除した史記に向けられていた事は、当時の人には一目瞭然だったと推測される。

儀礼は心得ている夷狄の邦は、漢書地理志に「東夷は天性柔順で、三方(南北西)の外(の民族)と異なる。故に孔子は(中国で)道が行われない事を悼み、海に浮(船)を設けて九夷に居さんと欲した。理由があることだ。」と記された九夷で、それは倭人の祖先である事を示せば、当時の人は十二分に陳寿の意図を理解したと考えられる。東夷の諸民族を扶余、高句麗、韓などと単純に民族名で記し、倭だけを倭人と記したのは、倭人に関しては現在の政権名や民族名だけではなく、倭人のルーツまで辿る意図を示したからだと推測され、今までの歴史書に欠けていた処を補うという意気込みが、その推測を確かなものにする。

通説ではこの部分を、欠けていた処を補うと訳しているが、原文の厳密な意訳は「東夷諸国の違いを順次並べてその国を選び、前史が十分に説明していない部分を接ぎ足す」であり、接ぎ足すべき史書は東夷に関する記述がない史記ではなく、上記の指摘をしながら九夷について説明していない、漢書を指している事は明らかだ。

漢書地理志も冒頭で、五帝時代以降の歴史を短く概観し、禹の功績を特記しながら東漸于海,西被于流沙を引用しているから、陳寿が東夷伝の序に東漸于海,西被于流沙を引用したのは、東夷伝と漢書を関連させて読ませる意図を、明確にしたとも言える。学術肌の陳寿としては、異例と言えるほどに何重にも指摘を重ね、自分の意図を念押ししたが、分かり難い古典的な手法なので、現代人にはそれが理解されていない。

陳寿が前史は十分に説明していないと指摘する漢書の文章は、地理志/燕の条にあり、一連の文章全てが関連するので、以下にその全文を示す。陳寿としては、東夷伝の読者はこの文も読んでいる事を前提にしていた。

燕の地は尾・箕の分。(尾、箕は二十八宿の方位。その詳細は(16)(F)漢書地理志、後漢書、魏志倭人伝に記された倭の位置参照)

(周の)武王は殷を平定し、召公を燕に封じた。(燕は)その後三十六世にして、(戦国時代の)六国と倶(とも)に王を称した(戦国の七雄)。

殷の支配が衰えると箕子は朝鮮に去り、その民に礼義を以って養蚕と織布を教えた。楽浪・朝鮮の民が禁八條を犯すと、相殺す時は當(まさ)に殺で償(つぐな)い、相手を傷つけた(場合)は穀を以って償った。盜みを行うと、男は捕らえてその家の奴とし、女子は婢とした。(資産のある者が)自ら贖わんと欲する場合は、人に五十万。しかしそれによって(罰を)免れた民になっても、習俗としては猶これを羞じ、結婚もできない。これを以てその民は終(つい)に相盜まず、門戸を閉ざす者が無く、婦人は貞信にして淫辟(いんひ)をしなくなった。

その農民は、籩豆(へんとう;竹や木で作った高坏)を使って飲食するが、都邑の民は役人や中華の商人の真似をし、杯器を使って食す。

飲食に籩豆を使う事は、品が良い事であると言っている。神に感謝しながら日々過ごす事を、その什器が象徴しているのだろうか。

(漢が朝鮮半島を征服し)郡ができた当初、遼東で小役人を採用したが、彼らは民が蔵の戸を閉じないのを見て、及び商人としてその地に往く者が(それを知り)、その様な事情によって夜盜をしたので、この習俗の益が薄くなった。今になると禁を犯す者が多く、禁制は六十余條に至ったが、箕子の人徳が民を教化した事は貴ぶべきだ。

 その様に東夷は天性柔順、三方の外(の異民族)と異なる。故に孔子は(中国で)道(徳)の行なわれざるを悼(いた)み、浮(ふ)を海に設け、九夷に居らんと欲した。故有ることだ。

楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為し、歳時を以って来たりて献見すると云う。

危の四度より、斗の六度に至るを析木(せきぼく)の次と謂い、燕の分である。

この文章を素直に読めば、楽浪朝鮮の民東夷の本流で、それが孔子の言う九夷であると感じる。しかし陳寿は、東夷諸族に関する魏の役人の報告書を渉猟し、箕子が教化したのは韓族と濊族だが、そのどちらも、孔子が海を渡って居らんと欲した民族ではない事を見抜いた。一方倭人は、孔子が羨むほどの秩序立った社会を形成しているから、証拠を集めて九夷は倭人の祖先だと結論付けたが、先史の著者に敬意を払って厳しい批評は避け、読めば分かるという風に実証的に東夷伝を記述した。

但しここで、注意しておきたい事がある。箕子は朝鮮に去り、その民に礼義を以って養蚕と織布を教えた事も事実ではないが、魏志東夷伝はそれには触れていないからだ。詳細はこのページの末尾からジャンプする魏志東夷伝が示す東夷諸族/韓族の章で説明するが、遼東と朝鮮半島北部は、起源が分からない古い時代から箕子朝鮮の根拠地で、箕子はその指導者として「箕子」と呼ばれた人で、殷王の一族ではなかった。史記は、殷の滅亡時に箕子と呼ばれた人物がいて、歴史上重要な役割を果たした事は認めているが、箕子と朝鮮の関係を隠すために、朝鮮の歴史は衛氏朝鮮から始まったと記した。漢書の著者の班固は、それでは捏造が過ぎると考えて上記の文章を創作し、箕子はいたが殷の人で、当時の朝鮮は未開だったと思わせたが、本当の箕氏朝鮮は海洋民族系の文明国で、その指導者が殷王朝を監視していた。

陳寿は魏志東夷伝を編纂するにあたり、九夷に関する事柄に特化して漢書の誤りを訂正し、東夷伝の目的を倭人と漢民族との関りに焦点化し、論旨を明確にしたが、上記の指摘も班固の創作である事は分かっていた。周代から春秋時代にかけて、指導者に「〇子」という名前を付けていたのは、当時先進的な文化を持っていた、越などの稲作民の習俗だった事は、竹書紀年を見れば直ぐに分かるからだ。従って陳寿に代って上記の文章を訂正すると、「養蚕と織布を知る朝鮮の民の指導者だった箕子は、周が殷を滅ぼすと朝鮮に戻った」になる。

 

2、魏志東夷伝を記した陳寿の真意

三国志の、魏書30編中29編と、呉書と蜀書は、三国時代の各国で皇帝を自称した者の帝紀と、重要人物の列伝だが、魏書の巻三十の烏丸鮮卑伝と東夷伝だけが、歴史を遡って東夷の諸民族について記している。三国志が、史書として初めて記す異民族だから、その沿革を説明する事は極めて常識的で、以降の史書もこのスタイルを踏襲している。

漢書地理志や論語に記された孔子の、「道の行なわれざるを悼(いた)み、浮(ふ)を海に設け、九夷に居らんと欲した」というエピソードは、九夷が孔子を通して、中華に大きな倫理的影響を与えた事を示唆しているから、九夷に関する陳寿の探求意欲を高めたと推測される。この様な断定的な孔子の言葉を常識的に解釈すれば、孔子の周囲に複数の九夷がいたか、孔子自身に九夷の島に渡航した経験があったかの、いずれかだったと想定される。山海経の世界観を参照すると、海の彼方の倭人の島は彼らの文化圏外だったから、そこの怪異的な世界の話を、当時の漢民族が真に受ける可能性は低かったと考えられ、後者だった可能性が高い。漢民族の集団的な秩序観の中で、孔子が個人的な倫理観を強調した理由も、後者であれば説明できるから、孔子には倭への渡航歴があった可能性が高い。

後者であれば説明できるという意味は、世界の倫理観には、社会が個人に倫理観を求める日本型と、宗徒になった者に倫理観を求めるイスラム・キリスト教型があり、孔子の倫理観はどちらかと言えば日本型で、日本人も孔子の言葉を受け入れているから、孔子が説く理想社会と日本社会には、同質性があると考えられる事に依る。この想定が正しければ、孔子は倭人の島で体得した倭人的な倫理観を是とし、中華社会にそれを移植しようとしたが失敗し、社会秩序の維持を身分的な規律に求めざるを得なくなり、中華帝国は現在の中華思想に至った事になる。

陳寿も孔子の言葉から上記の様な感想を持ったと想定され、古代王墓から発掘された竹書紀年に「九夷来御」と記されていた事から、夏王朝も九夷から文化的な影響を受けたと考え、東夷伝の序の末尾に、「夷狄の邦といえども儀礼は心得ているから、中国が乱れたら彼らに教えてもらう事もあるだろう」と記したと考えられる。漢王朝は孔子が始めた儒教を採用したが、三国時代の乱世を生んでしまったからだ。

中国が乱れたら彼らに教えてもらう事もあるだろうという日本語訳は、通説に従った訳文だが、原文は「中国失礼求之四夷猶信」で、猶信の意味は明らかになってない。猶信を無視して通説に従うと、この文は平和な時代の中国人の気楽な感想の様に見えるが、陳寿が生きたのは戦乱に明け暮れた三国時代や、政情が安定しなかった晋代だから、太平とは真逆の世界だった。それ故に猶信を、「実際にあり得る」と訳している人もいる。は「以前の状態がそのまま続いているさま」を意味し、は「信用に値する」とか「確信できる」という意味があるからだが、それを前文と組み合わせて全文を解釈すると、「倭人の国は孔子が羨んだ時代と同様に、いまだに道徳が行われているから、彼らに礼(人間が得るべき徳目)を教えて貰う事ができる」と訳す事もできる。それを踏まえて陳寿の真意を遠慮なく言えば、「まだ倭人の国では、孔子が羨んだ時代の様に道徳が行われているのだから、戦乱に明け暮れて礼を失った中国人は、倭人に道徳を教えて貰うべきではないだろうか。」という事になるのではなかろうか。それであれば、陳寿が東夷伝の著述に深い情熱を傾けたのは、必然的な成り行きだった事になる。

本来の順序から言えば、陳寿は後漢書を著述するべき人だった筈だが、それを飛ばして三国志を編纂したのは、漢書の様に前王朝の事績を編纂する断代史の形式が、まだ確立していなかったからである可能性もあるが、この時代が中国史上に嘗てない極めて非情な乱世だったという認識を、強く持っていたからではなかろうか。三国時代の非情な混乱を目の当たりした陳寿の様な熱血漢としては、後漢代の生温い時代を延々と記述する事に、史官としての存在意義を見出せなかったからでもあると推測される。魏志の最終巻を東夷伝にしたのは、前例のない乱世を記述した魏志の結論としたからである疑いもある。三国時代には万単位の軍隊が各処で激突し、熾烈な闘争が長い間繰り返されたが、陳寿が見た魏の使者の報告書には、「倭人の島は百余国に分かれて互いに境界を接しているが、戦争はなく平和に秩序が保たれ、千人が傷付いた程度で大乱だと大騒ぎになった」と記されていたのだから、陳寿がそれに衝撃を受けた事も理解できるし、その違いの理由を知るために、情熱を傾けた事も理解できるだろう。

 

3、この時代の倭人と漢民族の関係

魏志倭人伝に記された邪馬台国の位置に限らず、倭人の島に関する歴代史書の地理認識は極めて曖昧で、東シナ海の地理観には酷い誤りがある。それは倭人の文明度が低く、正しい地理観を持っていなかったから、倭人の情報が不正確だったのではなく、倭人は正しい地理観を持っていたが、中国人にその正しい情報を与えず、組織的に騙していたからだと考えられる。倭人がその様な行為に走ったのは、野蛮な漢民族が倭人の島に侵攻して来る事を未然に防ぐ為だった。その為に倭人の島への航路を秘密にし、「倭人の島は大陸から遠く離れているから、航海術が未熟な中国人には渡航出来ない」と中国人に思い込ませる活動を、倭人は組織的に行った。漢書、後漢書、三国志を併せて読めば、倭人がその様な意図を持っていた事が明らかになり、邪馬台国の位置を特定するには、多分野に亘る情報を総合的に評価する必要があり、その論証は複雑になるので詳細は、(16)法則的に解釈出来る事象と難解な推理/(G)邪馬台国の所在地参照。

獰猛で貪欲な漢民族が倭人の島に侵攻する事を、倭人が極度に恐れていた事は、(2)後漢書~(4)論衡の項で文献的に検証するが、それは中国人側の記録だから、倭人の意識も考察する必要がある。倭人は大陸で交易を行いながら、漢民族に征服された華南の稲作民の哀れな末路を、嫌と言うほど見ていたと想定されるからだ。

後漢書/南蛮西南夷列伝に、征服者になった漢民族の理不尽な収奪と、それに対する周辺民族の反乱の歴史が臆面もなく赤裸々に描かれているから、それが一つの参考にはなるが、その様な反乱を起こす事でさえ、漢帝国の辺境に住む民族だからできた事であって、中華の中心的な地域に取り残された稲作民は、帝国の圧政に従うしかなかった。彼らは重税に苦しむだけでなく、周辺民族を征討する兵士として強制的に駆り出され、戦乱の中で命を落とす事も珍しくなかった。

倭人の島と大陸を隔てている海が、漢民族の侵攻を阻止する唯一の障壁だったから、若し倭人の島に危機が訪れるとすれば、朝鮮半島南端まで漢民族に征服され、朝鮮海峡を渡って九州に侵攻される場合だった。それは現在にも通じる事実だから、倭人もその様に考えていた事は間違いないだろう。それ故に漢民族を騙し、「朝鮮半島と九州は非常に離れているから、航海術が未熟な大陸民族は倭人の島に渡航出来ない」と思い込ませた。

陳寿は倭人の意図を知らなかったから、魏の使者が作成した報告書の記述を、倭人伝に正確に転記したと考えられる。従って魏志倭人伝に記された邪馬台国への旅程は、倭人がどの様に魏の使者を騙したのか示している。

魏の使者が倭人の島を訪問する以前の漢民族の認識は、山海経の「蓋国(山東半島)は鉅燕(河北省)の南、倭の北にあり」や、漢書の「楽浪(現在のピョンヤン近郊)海中に倭人有。分かれて百余国を為す。歳時を以って来りて献見すると云う。」「会稽(浙江省と福建省)の海外に東鯷人有、分かれて二十余国を為す。歳時を以って来りて献見すると云う。」などの文献知識と、大陸に来る倭人の船は最初に会稽東冶(福建省福州)に寄港するという、伝聞事実から成り立っていた。魏の役人を招待した卑弥呼の真の目的は明らかではないが、招待した魏の役人を通し、倭人の島の位置を倭人が望むように中国人に再認識させる事も、その目的に含んでいた可能性が高い。倭人にその必要性を強く認識させたのは、呉の台湾進攻だったと考えられる。呉兵1万が海上に乗り出し、倭人の島と勘違いして台湾に侵攻したのがAD230年で、魏の使者が邪馬台国を訪問したのが240年だから、タイミングは極めて合致しているからだ。

従って魏の使者を迎えた倭人の具体的な目標は、楽浪海中という曖昧で危うい中国人の認識を、「倭人の島の北端は、朝鮮半島の南端から3千里(1200㎞)の極めて遠方にあり、邪馬台国は会稽の遥か沖にある」という認識に、訂正させる事だったと考えられる。漢民族がこの訂正された認識を受け入れれば、朝鮮半島から倭人の島に向かう試みは無謀である事になり、朝鮮半島を南進する企画は価値がないと思い込ませる事もできた。その為に倭人は魏の使者を徹底的に騙し、倭人の島は遠方にあるという虚偽だけでなく、他にも多くの偽情報を与え、倭人の島に侵攻する事の難しさを示した。

卑弥呼の使者が魏に朝貢し、魏と倭の交流が始まった事と、卑弥呼が魏の使者を倭人の島に招待した事は、分けて考える必要がある。ここで問題にしているのは、卑弥呼が魏の使者を倭人の島に招待した理由であって、卑弥呼の使者の魏への朝貢には、全く違った目的があった。後者の目的については、この項の末尾からジャンプする、魏志倭人伝が示す魏との交渉経緯の項参照。

 

4、倭人は魏の使者をどの様に騙したのか

邪馬台国論争では、魏志倭人伝が示す1里の長さが、漢代の1里である415mだったのか、100mに満たない短里と呼ぶ規格だったのか問題になっている。漢代の1里である415mであれば、邪馬台国はフィリッピン海に位置する事になるから、飽くまでも記述通りの場所に邪馬台国を求めたい人は、辻褄合わせに短里と呼ぶ規格を提案しているが、倭人は魏の使者に、邪馬台国はフィリッピン海に位置すると思わせたかったのだから、その意味で魏志倭人伝の記述は正しい事になり、短里と呼ぶ怪しい規格を持ち込む必要はない。

しかし倭人が魏の使者をどの様に騙したのか検証するには、魏志倭人伝の1里の長さを確認し、疑念を払拭しておく必要があるだろう。

魏志東夷伝の高句麗伝に、「高句麗(丸都)は遼東(遼陽)の東千里」と記されている。漢代の1里415mをそれに適用すると、丸都と遼陽の距離は400kmになる。実際の直線距離は260kmだから、山間の曲がった道程を400kmとする事に違和感はない。

日本海沿岸にいた東沃沮は、税として海産物を収めるために荷物を担い、千里の道を高句麗の都に運んだと記されている。こちらも直線距離で200㎞ほどの山道だから、1里は415mだったと考えて良いだろう。拠点間の距離は重要な軍事情報だから、漢の軍が活動した地域では正確に距離を把握し、丸都と遼東の距離は軍の移動距離を示していると考えられる。従って距離情報は直線距離ではなく、旅程としての距離を示していると見做し、1里は415mだったと考える事ができる。

当時の倭人は漢字を使えなかったから、魏志倭人伝が示す地名は、倭語を漢字音にしたものだと主張する人がいるが、倭人伝が記す地名漢字は、漢字の意味がその地の特徴を示している場合が少なくないから、地名漢字は倭人が魏の使者に示したものだったと考えられる。その読みが現在も残っている可能性があるから、地名の読みには万葉仮名の音を優先し、万葉仮名がない場合は呉音にした。

魏の使者は帯方郡を出発地とし、倭人の船で邪馬台国に向かった。

(帯方)郡より倭に至るには、海岸を(めぐ)って南に行ったり東に行ったりしながら水行し、其の北岸の狗邪(くざ)韓国に到る。七千余里(3000㎞)。

帯方郡 大同江の下流に郡衙があった。史書は郡の領域と郡衙の所在地を、区別せずに使う事が多い。この場合は郡衙を指す。

狗邪(くざ)韓国: 弁韓にあった倭人の国。

東夷伝の韓伝では、「韓(馬韓・辰韓・弁韓)は方4千里」としているから、倭人の船は1辺として半島西岸を4千里南下し、その後半島南部を海岸に沿って、1辺の3/4ほどである3千里進み、現在の金海市にあった狗邪韓国に着いた事になる。半島は4千里であると記された事と、半島のほぼ2辺を回ると7千余里(3000㎞)になる事は一致し、倭人と韓人の地理観は一致していた事を示しているが、現代の距離表現に直すと、朝鮮半島は1600km四方だと言っている事になり、実際の距離の5倍ほどになる。高句麗伝の換算を適用すると1000km四方になるが、実際は300km四方もないから、3倍以上に水増しされている。狗邪韓国から対馬・壱岐・唐津までの飛び石の各旅程は、各々1千里(400㎞)と記しているから、合計1200㎞になるが実際は200㎞程度だから、海峡の距離は5倍以上の誇大表示になっている。

倭人が中国人に、海に関する誇大な距離情報を与えた事は当然として、誇大な距離情報が朝鮮半島南部から始まっていた事は、極めて重要な事実を示している。韓伝に記載されている事は、帯方郡の役人が韓族から聞き取った情報を基本としていた筈であり、倭人伝の記載は、邪馬台国に来た使者が倭人から聞き取った事を記している筈だからだ。

それから派生する重要な事実の第一として、漢の軍隊は朝鮮半島南部に、一度も侵攻した事がなかった事を示している。漢帝国の支配下にあった4郡は、全て現在の北朝鮮の領域にあり、4郡を設置した武帝時代も含め、漢民族の軍は現在の韓国に侵攻した事はなかった事になる。

第二は、馬韓の韓族や辰韓人は、帯方郡に伺候した際に倭人と一味同心の民族として、口裏を合わせて漢民族を騙していた事になる。

第三は、その様な倭人連合は辛うじて朝鮮半島南部を維持していたが、漢民族は倭人だけでなく韓族や辰韓人にも騙され、半島南部は距離で3倍、面積で10倍の広がりがあると認識させられていた事になり、韓族などがそこに散在していたから、半島南部への侵攻は容易ではないと思い込まされていた事になる。それであれば、魏に申告した馬韓の人口にも23倍の水増しがあり、その嘘によって漢民族の南下意欲を、更に強力に押し留めていた可能性はあるが、人口の水増しはなかったと推測され、その根拠は魏志東夷伝が示す東夷諸族を参照。

韓伝に馬韓は50余国に分かれ、人口は十余万戸だったと記されている。晋書には楽浪郡と玄兎郡の人口は合計12千戸で、それが半島の郡の全ての人口で、隣の遼東郡は6300戸だったと記されている。晋代は既に寒冷期に突入していたが、魏代はまだ寒冷期には至っていなかったから、楽浪郡と玄兎郡にその倍の人口があったとの主張があったとしても、韓族の人口は半島の漢民族の5倍だったから、帯方郡から武力的に南下する意欲は持てなかっただろう。

朝鮮半島を周回した魏の使者の話に戻ると、魏の使者は倭人の船で帯方郡から出発し、倭人の船頭が長旅らしく操船して距離を誤魔化したから、魏志倭人伝にその様に記される事になったが、韓伝にその様に記されたのは、半島の面積を10倍に誤魔化したのは、遥か昔からの事だったからだと考えられる。

漢の武帝が半島北部に4郡を置くにあたり、史記は漢の軍5万が侵攻して衛氏朝鮮を滅ぼしたと記しているから、その5万の軍の一部が現在の38度線辺りまで南下し、更に南の温暖な地域に侵攻する意欲を示した筈だが、それは倭と韓族によって阻止された事になるが、その事情を考察すると以下になる。

漢の軍が衛氏朝鮮を滅ぼしてから400年後のAD3世紀の事として、魏志韓伝は韓族の一部の者が、血統が絶えた朝鮮候の祭祀をいまだに行っていると記している。しかし韓族の50余国を統一する者はいないとも記し、韓族には軍事的な纏まりがなかった事も示している。

5世紀初頭に高句麗の好太王の軍5万が、半島を南下して弁韓に侵攻した際に、高句麗軍と戦った主戦力は倭軍だった。その様子を記した好太王碑文に登場するのは、倭と弁韓諸国と百済だけで、韓族が戦闘に参加した事績は書かれていない。高句麗も朝貢していた南朝宋の史書である宋書には、高句麗は南下を阻止されて38度線辺りを境界に、倭と並立していたらしい事が記され、高句麗の南下軍は現在の北朝鮮エリアに圧し戻された事を示している。その最終戦らしい帯方界での戦闘に、高句麗が勝利した様に碑文には記されているが、実際は帯方郡まで押し戻され、そこで高句麗が踏み止まったと想定され、その戦闘で高句麗と戦ったのは倭であると碑文に記されている。

67世紀の三国時代の馬韓は扶余系の百済に支配され、韓族は歴史の表舞台から消えた。しかし大きなクリが特産であると記され、農民は韓族だった事を示唆している。以上の状況証拠から、韓族は戦争によって国家を樹立したり維持したりする事が、不得手な民族だったと想定され、漢代に朝鮮半島を南下した漢の軍を阻止したのも、倭軍だった可能性が高い。北九州にある弥生時代の甕棺墓も、この文脈から読み解く必要がある。

しかし漢や高句麗の南下を恒常的に阻止する事は、倭人の活動だけでは難しかったと想定され、魏志東夷伝から判断すると、韓族や濊族や辰韓にいた中国からの難民も、倭人や弁韓人と一味同心的に結束し、漢民族の南下を防止するために活動していたと考えられ、その結束が維持されていた理由が弁辰伝に記されている。

(弁辰の)国は鉄を産出し、韓、濊、倭は皆従ってこれを取る。諸々の巿鉄を用いて売買する様子は、中国で銭を使うのと同じ有様だ。その鉄を二郡(楽浪、帯方)に供給している。

鉄を産出していた弁辰人は、春秋戦国時代に山東を拠点としていた越の分派で、製鉄業者を含む人達だったと想定される。春秋戦国時代に山東省や江蘇省の沿海部にいた越人は、秦が中華大陸を征服すると海の彼方に逃げ散ったが、朝鮮半島南部は安全地帯だったから一部がそこに逃げ込んだと推測され、それが弁辰人の実態だった。従って漢民族の朝鮮半島南下を恐れる彼らの気持ちは、倭人以上に強く、その阻止活動に積極的だった事は疑う余地はない。

韓伝に、「(馬韓にいた韓族は)瓔珠を以て財宝と為し、装身具にも使っているが、金銀を財宝としない」と記されているから、韓族は翡翠を加工して瓔珠(首飾りとする様な磨いた珠)とする技能を持った、工人的な民族だったと考えられ、彼らの祖先が遼東半島にいた殷・周代に、そこから産出する岫玉を加工し、その技能を維持していたと考えられる。しかし秦末漢初に燕系の衛氏朝鮮によって遼東から追い出され、魏代には馬韓を本拠地とする状態になっていた。馬韓では岫玉の様な翡翠系の石材は産出しないから、価値が低い他の石か、倭から輸入した蛇紋岩系の鉱石を使い、加工して瓔珠を作っていたと考えられる。

倭人や弁韓人がそれを購入したから、彼らはそれを財貨と見做していたと考えられるが、鉄が支給されると瓔珠に代わって鉄が銭の様に使われた事は、韓族には交易に資する有力な物産がなかった事を示している。鉄は当時の先端製品で高価な物品だったが、さほど開明的ではなかった韓族が、市で銭の様に使うほどに豊富に鉄を持っていたのは、漢民族の南下に対する障壁の役目を担って貰う為に、弁辰人が彼らに無償に近い状態で鉄を提供したからだと考えられ、皆従ってこれを取るという表現は、鉄が配給品だった事を示唆している。それが弁辰伝に記されているのは、倭人が魏の使者に、多量の鉄が韓族や濊族に配分されている事を、魏の使者に示したからだと考えられ、軍事機密ともなり得るその様な事情を示したのは、韓族や濊族の強力な軍事力を誇示する為だった可能性が高い。

弁辰で製鉄した鉄を楽浪・帯方郡へも供給していた事は、上記の事情と矛盾するが、製鉄者が利潤を得る必要から、楽浪にも販売した構図が浮かび上がり、弁辰人が供給する鉄がなければ、朝鮮半島全体が鉄不足に陥る状態だった事も示している。この鉄を楽浪郡に販売する際には倭人が船で運搬し、帯方郡の役人の乗船を拒んでいたと想定されるが、稀に役人が乗船した場合には、魏の使者と同様に半島南部の距離を騙していた事になる。

以上を前提に、朝鮮半島南端から邪馬台国までの航海で、倭人が魏の使者をどの様に騙したのか追跡する。

千余里で対海国に至る

魏の使者は半島南端から対海国(対馬)まで、千余里(400600㎞)もあると思い込まされたが、実際は100㎞ほどになる。

又南に一海を渡る千余里、名を瀚海と曰う(いう)、一大国に至る。  一大国一支国(壱岐)の誤写であると考えられている。

対馬や壱岐の名称は現在の漢字名と類似しているから、倭名発音に漢字の音を当てたのではなく、倭人が魏の使者に漢字で示したと考えられる。名を瀚海と曰うという表現も、倭人がその様に漢字で示したか、中国語でその様に言ったと考えられる。

「瀚」は広いという意味だが、実際の瀚海50km程度しかない海峡だから、実際にその様な地名はなく、倭人が魏の使者に「広い海」であると強調する為にこの漢字を示したが、倭人が海峡をその様に呼んでいたたわけではないから、その名前は現在伝承されていないと考えられる。倭人の船頭は魏の使者にこの様な錯覚を与える為に、島影が見えない沖合に一旦漕ぎ出し、何日も航行して船を荒波に揉ませ、魏の使者の肝を冷やしたと推測される。

使者は倭の女王の招待で渡海したから、冒険心満々で、多少の風浪に船が揺れても耐え続けただろう。倭人も遊び心や悪意で騙したのではなく、倭人の昔からの掟に従い、倭人の島の位置を中国人に観取される事を防ぐため、真剣且つ真面目に騙した。従って千余里を何日かけて航行したのか分からないが、波が荒い日もあったと想定され、その様な危険に遭えば遭うほど、魏の使者は倭人の島への渡航の困難さを感じただろう。漢民族にそれが情報として伝達されれば、倭人の島がより安全になる事を、倭人の船頭は十分承知していたと想定される。

又一海を渡る千余里、末盧(まつろ)国に至る。

魏の使者は壱岐から末盧国(唐津名護屋付近)まで、千余里もあると思い込まされたが、実際には30㎞しかない。この国には王や行政官の名前を挙げていないから、元々独立した国ではなく、伊都国の統治下の地域だった可能性がある。そこに俄かに国名を与えたが、(炭を入れる容器)の形をした島の、柄の様に突き出た末端にある事を意味する名前だった疑いがあり、元々の地名だった可能性があるから、「末」は通常の2音読みとして「まつろ」とした。

東南陸行五百里、伊都(いと)国に到る。

名護屋近辺に上陸した後、「草や木が繁って前を行く人が見えない」悪路を東南に500里、つまり200kmも歩かされ、里程を5倍以上に誤魔化されて伊都国(糸島市)に着いた。倭人は魏の使者を、名護屋から海岸沿いの道を案内したのではなく、東松浦半島中央部の丘陵地を南に縦断し、唐津市と伊万里市との境界に沿って奥深い山中を南に進み、松浦川の上流を渡って厳木川(きゅうらぎがわ)を遡上し、富士町近辺で国道263号のルートに入り、糸島峠を越えて糸島市の内陸部に着いたと推測される。

魏の使者が、「上陸直後に山中の悪路を長い距離歩いた」のは、漢民族に侵略する意図が生まれた場合を見越し、それに資する情報を収集していたから、それを察知していた倭人が上陸地点から伊都国への経路は、軍事的に重要であるという認識だけを共有し、意図的に酷く遠回りの悪路を案内したと想定される。仮に漢民族の侵攻軍が上陸した場合、上陸軍の食料調達の可否は重要な軍事情報だから、倭人は魏の使者に上陸軍は食料を調達出来ない事を示した事になるからだ。

末盧国は山が迫った海浜の漁民集落で付近に農地はなく、穀類の蓄えは見込めない国だった。魏の使者は対馬や壱岐では穀物が不足し、島民は南北からコメを購入していると報告書に記したから、陳寿もそれを魏志倭人伝に転記し、侵略軍にとって穀類の蓄積状況は重要な情報である事を、魏の使者は十分に認識していた事を示している。

五百里で伊都国に到るは真っ赤な嘘で、海岸沿いに現在の唐津市街を経て糸島に行けば、1日程度の旅程しかない。倭人は漢民族の侵攻を心底から恐れ、「倭人の島は遠いから中国人には辿り着けない」という嘘だけでは、不安が解消しなかったから、魏の使者の旅程に色々な策略を弄した事を、上記の記述が示している。魏の使者はその策に騙されながらも、戦略的な要諦を抑える観察は続けたから、上記の記述が魏志倭人伝に転記された事になり、魏の使者が実際に辿った旅程を現代の地図から推測すれば、倭人の戦略が明らかになる。

魏の使者を名護屋に上陸させたのは、戦術的な食料調達問題以上の深い意味があったからだ。海上から見た東松浦半島は、九州から北に突出した半島に見えるから、名護屋は日本列島の北端にあるという、虚構を演出するには最適の場所だった。

人を騙す場合は騙しの部分は極力少なくし、事実を織り交ぜる事が肝要になる。漢の軍隊が侵攻する場合、博多に上陸される事を一番恐れていたのは、奴国王とその住民だった。従って糸島市は名護屋の真東だが、そこから山中を東南に長旅して伊都国や奴国に着くと思わせ、しかもそれらの国は内陸にあると思わせたところから、方位の誤魔化しも始まった。

伊都国も奴国も実際は海岸にあるが、それらを奥深い内陸の集落であると偽装し、侵攻軍が直接伊都国や奴国に上陸する意図を、未然に防いだと考えられる。糸島市は海岸にあるが、平坦部は海岸に点在する小さな丘に囲まれているから、山中から糸島市に入れば内陸の盆地集落と錯覚する。倭人は魏の使者をその様に錯覚させるルートで案内し、伊都国は山中の集落であると嘘を言ったと想定される。

東南百里(40㎞)で奴(ぬ)国に至る。

奴国への旅程でも海岸には近寄らず、山際を進んだと考えられる。想定されるルートは、日向峠を越えて油山の山麓を南周りに越え、春日市にあった奴国の集落に入ったと考えられ、それで旅程は40㎞になる。

東行して不弥(ふみ)国に至る百里。 

不弥国から海路になるから、不弥国は周防灘を望む海岸にあった事になる。春日市から若杉山を北に周回し、国道201号の旧道沿いに飯塚市を経ると行橋に出る。その旅程は実際に40㎞ほどで、ここには誤魔化しはなかった。陸路に慣れた魏の使者を陸上で騙す事は難しく、東を東南と騙すのが精一杯だった事が分かる。

ここまでの誤魔化しで、倭人が魏の使者に示した全体の地理観は、以下の様なものだった。

九州の北端の末盧国に上陸した後、内陸を延々と東南に歩いて別の海に出ると、それが邪馬台国に通じる海だった。漢民族の軍が船を調達し、大挙して九州に押し寄せ、伊都国や奴国が陥落する事態が生じたとしても、その侵攻軍は第2の海に阻まれるから、更に侵攻する船をその地で調達できなければ、邪馬台国は制圧できないと思わせるルートだった。実際には関門海峡があり、更に言えば、山陰に上陸されればお手上げ状態になるのだが。

大きな島である九州を越えて第二の海に出なければ、倭人の本拠地がある島に行く事はできないという騙し、即ち倭人の中核都市への海路は陸を挟んで延伸していると思わせる発想は、邪馬台国の倭人がオリジナルではなく、漢書地理志粤の条に示されている、南シナ海沿岸の大国である黄支国に至るルートも同様に記されている。南シナ海沿岸の島嶼にあったと想定される黄支国は、本来であれば海路で直行できた可能性が高いから、当時の海洋民族は大陸民族に対する共通の戦略として、その様な対策を共有していたと考えられる。魏志倭人伝は倭人と南シナ海沿岸の海洋民族が、文化を共有していると指摘している。

南に水行二十日で投馬(ずま)国に至る。

(投馬国から)南に水行十日、陸行一月で邪馬台(ざまと)国に至る。女王が都としている所。

実際は投馬国邪馬台国も唐津の東に在るのだが、その様な地理が漢民族に露見すれば、朝鮮半島の東岸から倭人の島に行ける事も露見し、その方面から襲来される危険があった。しかし朝鮮半島から日本列島に渡るには、倭人の島の北端にある名護屋が最も近いと認識させ、邪馬台国は名護屋の南方にあると騙す事ができれば、大陸勢力が日本海沿岸から日本列島に侵攻する脅威から免れる事ができた。

東シナ海は日本列島によって囲まれた海だから波が穏やかだが、九州の東は波が荒い太平洋に洗われているから、船が航行するのは困難だと云う様な事も、魏の使者に言ったかもしれない。魏の使者が魏に還ってその偽情報を拡散してくれれば、漢民族が倭人の島に侵攻する危険を克服する事ができたからで、倭人がそれに成功したから魏志倭人伝にその様に記された。蒙古襲来の際に蒙古軍が北九州に襲来したのも、この誤解が後世に引き継がれ、この地理観から脱していなかったからである可能性がある。

魏の使者が九州から邪馬台国に行く際には、実際は東に向かったのだが、色々な策略を弄して南に向かっていると騙した事になる。魏の使者の方向感覚は、海上では太陽の位置だけだったから、航路を知り尽くした倭人は日中や曇りの日に北上し、晴れた朝晩に南下したり海流と組み合わせて更に複雑な手口を使ったりして、方向感を狂わせたと想定される。実際の手管は分からないが、魏の使者は倭人に完全に騙され、邪馬台国は九州の南にあると報告した。

南に水行十日、陸行一月は、水行であれば十日、陸行であれば一月と解釈され、魏の使者は水行したと考えられる。投馬国は岡山だったと考えられ、九州から岡山までは水路しかなく、岡山から神戸へは水路でも陸路でも行く事ができるから、倭人はこの点に関しては正直だった。

倭人伝は色々な事実を示しているから、以下の項目に分けて説明する。

魏志倭人伝が示す日本列島の位置と勢力図

魏志倭人伝が示す倭人文化の系譜

魏志倭人伝が示す倭の制度と習俗

魏志倭人伝が示す魏との交渉経緯

魏志東夷伝が示す東夷諸族

 

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