宝貝貨と玉文化 

1、宝貝貨

1-1 夏王朝から始まった華北の王朝

湖北省の稲作民が縄文後期温暖期(BC2500BC1500年)に華北に北上した事を、この時期の華北の遺跡から発掘された温帯ジャポニカの痕跡が示し、縄文後期温暖期の華北の稲作民族の遺跡としては、温暖期が始まった直後に居住が始まった山西省の汾河流域の陶寺遺跡(BC2500BC2000年)と、夏王朝期の遺跡である洛陽盆地の二里頭遺跡(BC18001500年頃)がある。

縄文後期温暖期が終了すると華北から稲作民族が南下し、アワ栽培者の殷商王朝(BC16世紀~BC11世紀)が生まれ、その前期の鄭州時代(二里岡遺跡)の遺跡と、後期の安陽時代(殷墟)の遺跡が発掘されている。

殷商王朝の拠点が、黄河の南の鄭州から黄河の北の殷墟に移動したのは、殷代に寒冷化が進んでモンゴル高原ではアワ栽培ができなくなり、華北では黄河の沖積が進んでアワの栽培地が拡大していたから、多数の殷人がモンゴル高原から河北の低地に移住した事が、一つの要因だったと考えられる。それによって黄河の北岸の方が、殷人系のアワ栽培者の数が多くなったと考えられるからだ。

寒冷期に降雨が増えて黄河以南の森林化が進み、石器しか持たなかったアワ栽培民族には森林化に対処する手段がなかったから、乾燥した黄河北岸にアワ栽培地が移動する必要が生れた事も、一つの要因だったと考えられる。

アワ栽培民族より豊かで交易的だった稲作民は、一足早く縄文後期に青銅器時代を迎えていたが、生産性が低く交易性がなかったアワ栽培者には、樹木を伐採する手段がなかったからだ。それ以前の石器時代に森林を開墾する為には、蛇紋岩系鉱物を素材とした磨製石斧が必要だったが、大陸には蛇紋岩の産地がないから、交易性がなかったアワ栽培者には、樹木を伐採して農地を形成する概念自体がなかった事も、その要因として想定されるからだ。

殷墟から発掘された甲骨文は、殷墟の王は商(黄河以南のアワ栽培地)の出自である事を示唆し、商の有力者が黄河以北の殷地域の王になったのは、(5)論衡の項で指摘した様に山東地域にエノコログサが拡散し、アワの栽培ができなくなったから、黄河以北に集団的に移住した可能性も高い。

黄河以南では縄文後期から、エノコログサが多少繁茂する中でアワを栽培していたが、温暖期にはその弊害が目立たず、気候が急速に寒冷化した縄文晩期に、それが顕在化した可能性もある。

(5)論衡の項では、エノコログサの北限ラインの位置を検証したが、線を引く様に明瞭に北限が存在したわけではなく、栽培地の南限にはエノコログサが生えている場所が散在していたと考える必要がある。

原生種が繁茂する状態でアワを栽培すると、アワとエノコログサが交配してしまい、折角の品種改良が台無しになって生産性が低下する。それが深刻な問題である理由は、交配した種子には何の異変も顕在化せず、それを播種して次世代の収穫を得る際に、期待した収穫が得られない事にある。

気候が冷涼化すると、遺伝子を純化して多様性を失った栽培種の北限は大きく後退したが、雑草としてのエノコログサには遺伝子の多様性が温存されているから、群落としての耐寒性は高く、栽培種が南下後退する程度の気候変化では、原生種の北限にはほとんど影響はなかったと考えられる。

毎年生存競争を繰り返していた他の雑草にも、寒冷化の影響が及んだから、特定の品種に着目すると気候の冷涼化により、却って北限が延伸した種もあっただろう。

イネ科の植生は、自家受粉と他家受粉を併用して繁殖するが、気候が寒冷化すると遺伝子の多様性を確保する為に、他家受粉率を高める性質が顕在化する可能性もある。但しそれらの性質は種毎に異なり、数百種もあるエノコログサについて調べられた実績はない。

いずれにしても、気候の冷涼化によって栽培種の生産性が劣化したから、縄文中期寒冷期に山東龍山文化を形成した淮夷の祖先の一部が、縄文晩期寒冷期に収穫が安定しない山東北部から撤退し、黄河以北に移住した事により、山東が莱と呼ばれる地域になったと考えられる。

陝西や山西でアワを栽培していた周が、殷周革命によって黄河北岸を根拠地にしていた殷人を倒した事は、標高450500mの山西盆地や渭水盆地のアワの生産性が、同緯度の低地だった殷墟周辺より劣っていたわけではない事を示し、周が青銅器文化を利用して牛耕を発明していたとしても、気候の寒暖には敏感だった筈だから、それがこの頃のアワの栽培事情を示している。つまり縄文晩期寒冷期であっても、沿海部の低地でのアワの栽培適地は、山東より北の地域だった。

 

1-2 発掘された宝貝

夏王朝期の遺跡である二里頭遺跡から宝貝が発掘され、同時代の他の遺跡からも発見されているから、宝貝は財貨や貨幣として扱われていた事を示している。宝貝の主産地は沖縄だったと考えられ、それが竹書紀年に記された「九夷来御」と深く関係していると推測されるで、宝貝の産地、運搬事情、宝貝を貨幣として使うに至った事情、その運営主体を検証する。

宝貝は色や形が美しいので、古代からアクセサリーの素材として使われてきたと考える人がいるが、古代中国では自然界には存在しないものであり、誰かが意図的に持ち込まない限り、遺跡に埋納される物品ではなかったから、直線距離で1500㎞以上離れた沖縄から持ち込んだ動機として、アクセサリーの素材だったと考える事には無理がある。

むしろ当初から貨幣や威信財として使われていたから、内陸の遠隔地にも持ち込まれ、その使用が普遍化したから、沢山の宝貝が墓に埋葬されたと考える必要がある。最も古い宝貝の発掘例が、縄文前期の陝西省(仰韶文化)である事は、中国大陸の沿海部では採取できない宝貝が、財貨認識されていた事を示している。

宝貝はインド洋や西南太平洋などの温暖なサンゴ礁に生息する貝で、黒潮に洗われている沖縄にも生息するが、東シナ海や南シナ海の大陸沿岸には生息していない。宝貝の生息には清澄な海が必要なので、河川から流れ出る水によって海が濁っている大陸沿岸では、生息できないからだ。

ウミナシジダカラ

沖縄産の宝貝 (鳥羽水族館 ショッピングサイトから転載)

 

宝貝は形状が女性器に似ているので、子安貝とも呼ばれて安産祈願にも用いた。中国で貨幣として使われて発掘されたものは、色彩が美しい上面を削り取ったものが多く、宝貝の色彩の美しさより、独特な割れ目の形状に注目していた事を示している。宝貝の象形である漢字の「貝」も、割れ目の象形になっている。

image003

 

殷・周代の墓から発掘された宝貝は、膨らんだ面を削り取っているので、紐を通す為に穴を開けたと考えている人が多いが、その様な単純な理由でこの加工を行ったと考える事には違和感がある。

装飾品として布などに貼り付ける場合も、膨らんだ面を背面として装着し、布や皮革との密着性向上の為に、膨らみを削り取ったと考えられているが、宝貝の特徴は刻みの入った割れ目であると認識していたからだと考えるべきだろう。

雲南では明代になっても宝貝が貨幣として使われていたから、明は沖縄から多量の宝貝を輸入し、雲南の官吏の俸給に宛てたと史家が指摘している。つまり中国人にとって身近な宝貝の産地は、沖縄だった事を示すと共に、沖縄は多量の宝貝貨を生産できる島だった事を示している。

 

1-3 古代中国に宝貝が流入した経路

殷王朝(BC16世紀~11世紀)や周王朝(BC11世紀~BC8世紀)の都にあった墓や、更に古い二里頭(BC18世紀~BC16世紀)の宮殿跡の墓から、沢山の宝貝が発掘された。これについて以下の見解が、ネット上に掲示されている。

 「中国における古代青銅貨幣の生成と展開」(名古屋大学) 江村治樹 

宝貝は、早い新石器時代に墓葬の副葬品として出現し、漢代以後も辺境地帯で使用されつづけている。宝貝は日本では子安貝とも呼ばれ、中国では海貝、貨貝と称されている。中国で出土する宝貝のほとんどは、キイロダカラとハナビラダカラとされており、現在でも西太平洋からインド洋沿岸の浅い海に広く棲息する一般的な宝貝である。黄錫全氏によると、仰韶文化の姜寨遺跡の墓葬や青海仰韶文化の墓葬から出土しており、河南偃師県の二里頭文化の墓葬にもかなりの数量副葬されている。殷代になると、墓葬からの大量出土の例が見られる。二里崗文化の鄭州白家庄墓からは460 余点、安陽殷墟5 号墓(婦好墓)から6,880 点、山東益都県蘇埠屯大墓から3,790 点出土しているとされる。また、殷墟の墓葬には普通に宝貝の副葬が見られる。そして、西周時代になっても大量の宝貝の副葬は一般に見られ、車馬具の装飾としてもかなりの出土例があり、春秋戦国時代でも引き続き墓に副葬されている。

 このように新石器時代以来、大量に使用された宝貝について、ほとんどの中国の研究者は、一貫して貨幣として流通したとみなしている。早い時期の中国貨幣研究を代表する鄭家相、王毓銓、彭信威氏等はみな、宝貝を初期の貨幣として疑っていない。鄭家相氏は、宝貝を自然物貨幣とし、黄帝時の貨幣制度開始より周末に至るまで普遍的に使用されたとし、王毓銓氏も宝貝は中国古代で貨幣として用いられたことは疑いなく、秦始皇帝が中国を統一して貨幣制度を改革するまで、長期にわたって使用されたとしている。彭信威氏は、宝貝は初めは装飾品として用いられたが、<遽伯卣>の銘文に青銅器の価値が宝貝の数量で示されていることから、殷代から周初にかけて真正な貨幣となったとしている。ただし、この後も装飾品としても用いられたことは否定していない。

その後、中国古代貨幣の研究に大きな影響を与えた朱活氏も、宝貝を中国で最も早い貨幣の一つとし、やはり<遽伯卣>の銘文から貨幣であったことは疑いないとしている。汪慶正氏は、宝貝は新石器時代以来、一種の実物貨幣として用いられ、西周時代には通用貨幣となったとしている。しかし、西周中期以後金属称量貨幣の出現とともに、すでに過去の財富の象徴となり、しだいに装飾品としての地位に下落していったとする。

近年では黄錫全氏が、宝貝が貨幣であったことを詳細に論証しようとしている。黄氏によると、宝貝は新石器時代、最初は外来の珍奇な装飾品にすぎなかったが、しだいに使用価値を備えた物品から離脱し、一般的等価物(交換の媒介)の特殊商品、すなわち実物貨幣(あるいは自然物貨幣)に転化したとする。夏代(二里頭文化期)になっても宝貝は一種の貨幣であったことは疑問の余地はなく、殷代には甲骨文や金文資料から見て、宝貝はすでに価値尺度、流通手段、貯蔵手段、支払い手段(賞賜)で、中国における古代青銅貨幣の生成と展開の機能を備えており、主要な流通貨幣として真正な貨幣となったとしている。ただし、まだこの時期には主として奴隷主貴族や商人の間で流通し、一般貧民間での流通は多くはなかったとする。

しかし西周時代になると、貧民墓からも出土するようになり、さらに普遍的に使用されるようになったとしている。とくに、西周時代の宝貝の購買力については、金文の実例を多く挙げ、宝貝が貨幣としての機能を備えていたことの証拠としている。そして、宝貝は財富の象徴として用いられる場合もあるが、秦の統一まで貨幣として使用され続けたとしている。

宝貝を五帝代・夏・殷・周王朝に持ち込んだのは、海洋勢力だった事は間違いなく、その候補としては倭人以外に、北陸部族の越常と東南アジアの海洋民族が挙げられる。沖縄から大陸に宝貝を持ち込む為には、沖縄を取り巻く様に流れている黒潮を横断し、沖縄から宝貝を組織的に持ち込む海洋航行能力が必要だったからだ。

黒潮は台湾の北から東シナ海に入り、沖縄と大陸の間を流れ、奄美大島と屋久島の間のトカラ海峡から太平洋に流れ出ているが、黒潮の平均流速は5/hで幅は100㎞もあるから、揚子江や黄河を遡上できるとか、東シナ海沿岸を航行できるという程度の航海術では、黒潮を横切る事はできない。

論衡は「成王の時、越常は雉を献し、倭人は暢を貢す。」と記しているから、越常(越裳)が東南アジアから宝貝を持ち込んだのか、倭人が沖縄から持ち込んだのかを議論する必要があるが、越常にはを使って不定期性を示唆し、倭人にはを使って臣従的な関係や、朝貢の定期性を想起させているから、この文章から判断すると倭人が有力候補になる。

春秋戦国時代までの中華文明は越と呉(荊)が牽引したが、越は漢字文化を先導しなかったから、現代日本人は呉音で漢字を読んでいる現状がある。

越は中国の内陸交易に関心が薄く、フリッピンやインドネシアの海洋民族との交易関係が深く、越の実質的な交易相手はインド洋沿岸の諸都市だったからだと想定される。越は宝貝の貨幣化が進展した縄文後期以降、絹布の生産者だった可能性が高く、その事情が越人とインド洋交易の深い関係を生み、倭人が中華大陸内部の諸民族との交易関係を深め、宝貝貨を提供していたからだ考えられる。

それらの事情から論理的に推測すると、越が宝貝の貨幣化に重要な翌割を果たしたとは考え難く、大陸に宝貝貨を供給していたのは、関東部族を起源とする倭だったと想定され、関東縄文人から抽出された大陸起源の多彩なミトコンドリア遺伝子も、その証拠を示している。

宝貝貨の終焉期だった春秋戦国時代に、宝貝を模した青銅貨である楚貝貨が作られ、中国各地から多量に発掘されているが、越の活動が活発だったと想定される、東シナ海沿岸部や南シナ海北岸からは発掘されず、揚子江以北の内陸部から多数発掘されている事も、越は宝貝の貨幣化に関与していなかった可能性を高める。

従って宝貝貨の普及に関与していた海洋民族は、関東部族の漁民の子孫を中核とする、倭人だった可能性が高い。

宝貝の貨幣化に重要な役割を担ったのは、揚子江や黄河の奥深くまで遡上し、交易活動を行っていた関東部族の漁民と、湖北省で温帯ジャポニカを栽培していた荊だった可能性が高く、両者が共同で漢字を創作した可能性も高い。それが竹書紀年の夏代の事績に「九夷来御」と記された九夷で、周代になるとその子孫系譜の倭人に代わったと想定すると、歴史の諸事情と整合するからだ。これは中国の史書だけでなく、古事記の記述からも傍証される。

縄文後期以降になると、北陸部族の海洋能力が相対的に低下し、東南アジアの島嶼部の海洋民族と関東部族が、本格的な海洋民族になっていた。それに関する一番古い史書は、漢書地理誌/粤の条になり、「海南島の住民は大陸の粤とは異なる習俗」で、「海南島の住民の習俗は、東南アジアの島嶼の海洋民族と同じだ」と記され、魏志倭人伝が「倭人が使用する物品は海南島の人々と同じである」と記し、後漢書が「倭は海南島に近い故に、其の法俗に同じものが多い」と記している事が、東南アジアの島嶼部の海洋民族と倭人との密接な交流関係を示し、越人の出身母体だった粤とは文化的な交流が希薄だった事を示している。

漢書地理誌が示す南シナ海沿岸の海洋民族には、「倭」の様な古代的な一文字の民族名や政権の名前はなく、「黄支」を始めとする漢字を重ね合わせた意味不明な音表記の国名が記され、中華民族との交流が始まったばかりである事を示しているから、殷・周王朝に宝貝を供給した民族ではない事は明らかだ。

その主要国である黄支国への旅程には通訳が必要だった事も、長い間宝貝を供給してきた民族であるとは、到底考えられない事を示している。

以上の結論として、中国周辺の海洋民族として倭、越、オーストロネシア語族民がいたが、宝貝の供給者としては越とオーストロネシア語族民の可能性は極めて低く、関東部族の漁民とその子孫の倭人だった可能性が極めて高い。即ちそれが九夷であり、「九夷来御」はその様な関東部族の漁民を迎えた表現に相応しい。

時代は降るが、沖縄の宝貝の質や供給能力に関する文献もある。明王朝が征服した雲南では、14世紀なっても宝貝が貨幣として使われていたので、明王朝はそれに対応する為に沖縄から多量の宝貝を購入し、その記録が残っているからだ。

「近世東ユーラシア史の視点からのコメント:済州島漂着船とタカラガイ」 を掲示した上田信氏に依れば

「歴代宝案」によると、1434年の朝貢に際して琉球の使節は、〈海巴〉(タカラガイ)の規定の量550万個と、追加分として388465個を、福建に持ち込んでいる。明朝は、この朝貢貿易によって入手したタカラガイを雲南に持ち込み、雲南に封じた皇族や、雲南に赴任させた官僚に対し、俸禄として渡した。

明王朝の版図はヴェトナム北部に達していたから、拡大された漢民族の版図であっても、沖縄産の宝貝が入手可能な宝貝だった事を示している。明より領域が遥かに狭かった夏・殷・周王朝に、宝貝を恒常的に供給する事ができた地域は、沖縄しかなかった事を示している。沖縄産の宝貝には十分な供給力があり、貨幣として使用するのに十分な品質があった事も示しているから、夏王朝の遺跡と考えられる二里頭や、殷や周の都で発掘された宝貝は、沖縄産だったと考えて間違いない。

 

宝貝の発掘状況を検証する為に、「中国文明 農業と礼制の考古学」岡村秀典著(2008年)から文章を抽出し、その要約を以下に示す。

殷代に先行する二里頭遺跡の宮殿跡BC17世紀~BC15世紀)の、BC17世紀頃の有力者の墓から90点程の宝貝が発掘され、末期であるBC15世紀頃の墓2基からも、同様に宝貝が発掘された。

(二里頭遺跡は大阪とほぼ同じ緯度の洛陽市にあり、当時は現在より温暖湿潤で、徐々に乾燥化と寒冷化が進んでいる状況だった。)

二里頭文化期の遺跡の土壌から、アワ、キビ、大豆、小麦、稲、大麦の種子が見つかっている。稲は陸稲か水稲か分からないが、ジャポニカ米らしい。

二里頭遺跡は殷に先行した夏王朝の都とする説があるが、遺跡から甲骨文字が発掘されないので断定はできない。江南で栄え、洪水で消滅した良渚文化(BC3500年~BC2200年)の、後継者の都市とする説もある。良渚文化は中国の玉器文化の発祥地と看做されているからだ。

二里頭遺跡から華南系の土器が発掘されているから、稲作民の都市だった可能性が高い。

二里頭遺跡時代に相当するBC17世紀の、内蒙古の南東端にある赤峰市の、大甸子(だいでんし)遺跡の43基の墓から、総計659点の宝貝の他に、宝貝を模倣して加工した貝製品が大量に発掘された。この遺跡はこの時代の銅の産出地に近く、住居址から二里頭遺跡のものと同系の、銅器が発掘されている。二里頭遺跡の支配階級が銅を得るために、遺跡の有力者に精巧な銅器や宝貝を贈呈したと想定される。この銅は中国各地に分配され、遠く四川省三星堆まで送られた疑いもある。三星堆の遺跡は、良渚文化の後継者の文化と目される特徴を有している。

宝貝を財貨と考える文化は、黄河流域に発達した龍山文化の伝統ではない。赤峰市の大甸子の墓に宝貝が埋められていたのは、二里頭文化に代表される夏王朝の権力者が銅を得る為に、宝貝と銅を交換したからだと考えられる。その際の宝貝は、穀物や家畜との交換比率が決まっていたから、後日その宝貝と交換できる権利を大甸子の有力者が有し、大甸子の墓から宝貝が発掘されたと想定される。

宝貝の模造品が作られていた事は、宝貝の貨幣的な使用を示しているが、別の貨幣だった可能性が高く、この時期にユーラシア大陸の北東部で流通していたのは、宝貝貨だけではなかった事を示唆している。宝貝で銅を取引していた事は、宝貝は銅本位の貨幣になっていた事を示唆しているが、周王朝の遺物は銅より上位の標準的な価値が宝貝にあった事を示しているから、それは塩だった可能性が高い。

沖縄で無尽蔵に宝貝を採取できた関東部族が、宝貝の貨幣化に主体的に関わらなければ、宝貝が貨幣として機能する事は難しかったと考えられる。

また貨幣としての価値が生まれた後に、その利益に目が眩んで多量の宝貝を持ち込んだ関東部族の漁民がいれば、貨幣としての価値を失った事は自明だから、関東部族の漁民にはそれを守る倫理観があり、彼らを統制する組織力があった事になる。

関東部族の漁民は多数の女性を大陸からリクルートしたから、意志さえあれば利益本位に走る事も可能だったが、その様な事態に至らずに宝貝が貨幣として千年以上流通し続けたのは、関東部族が宝貝を貨幣化した実効主体であり、荊や製塩業者だった越人と共に樹立した、夏王朝の基幹構成員だったからだ。

宝貝貨が夏王朝期から使われ始め、殷虚や周都から時代を追う毎に、数を増しながら多数の宝貝貨が発掘される事は、倭人、荊、越人が千年間、その立場を維持した事を意味する。3つの華北王朝に跨る千年以上の間、宝貝が貨幣機能を維持したのは、宝貝の貨幣化の実効主体は華北の王朝ではなく、倭人、荊、越人が維持していた夏王朝が、華南に継続していたからである事も自明の理になる。

宝貝の貨幣化を立ち上げ、その制度を維持したのは、夏王朝を維持した稲作民と倭人だったが、商王朝や周王朝にその制度を引き継いだのは、九夷と倭人だったと考える必要がある。宝貝の貨幣制度を立ち上げた際も、その制度を維持していた時期にも、倭人はイコールパートナー以上の存在だったからだ。つまり宝貝を貨幣として使用させる仕組みの、根幹を形成していたのは倭人と製塩業者で、倭人が宝貝貨の供給主体で、製塩業者はその維持を分担していたと考えられる。

倭人が宝貝貨の価値を維持する為に、律儀に掟を守って規定外の持ち込みを抑え、宝貝貨の減価を食い止めながら、倭人にとっては他国である夏・殷・周王朝の通貨制度を維持したのは、倭人の道徳観からではなく、それが倭人のビジネスモデルだったからだと考える必要がある。

多分その原理は単純なもので、関東部族が夏王朝に市価の半額で宝貝を供給し、それが関東部族の利益になり、製塩業者がそれを市価で市場に放出すると、残りの半額は製塩業者の利益になる様なもので、夏王朝はそれを統括する組織体だったと推測される。実態としては関東部族が半分を貨幣として使用し、残りの半分を製塩業者に渡す事によってそれを実現したと推測される。

製塩業者は宝貝貨の兌換性を塩で保証する義務があったから、流通が活性化して宝貝貨の需要が高まり、皆が豊かになって宝貝貨を退蔵し始めると、供給過多によるインフレは起こり難かったから、製塩業者もそれを貨幣として使う事に問題はなく、それによって供給量が徐々に増加していったと推測される。

それを使用した荊には、宝貝貨を使用する利便性が与えられ、3民族はそれぞれに宝貝貨を制度化する利点を享受した。

関東部族がそのビジネスモデルを提案する事により、宝貝が標準貨幣になったと推測される。関東部族は縄文前期から、定型的なヒスイ加工品を貨幣的な高額財貨にし、それより早い縄文早期から、黒曜石の欠片を少額貨幣としていたと想定されるからだ。中部山岳地帯の住居址から、黒曜石の欠片多数発掘されている事がそれを示している。

黒曜石の欠片は宝貝と同様に、その物品に価値があったわけではなく、誰かがその価値を保証する必要があるものだった。関東部族はシベリアの民族と弓矢の交易を行い、その矢尻に霧ヶ峰産の黒曜石を使っていたから、矢尻の製作者が黒曜石の欠片を、矢尻と同じ価値があるものであると保証すれば、それが少額貨幣として流通した。黒曜石の欠片など誰でも拾えると考えがちだが、関東部族だけではなく日本の海洋民族は、シベリア文化の影響を強く受けていたから、魏志濊伝の以下の記述を参照する必要がある。

人々の性格は生真面目で欲は少なく、廉恥を知って物乞いはしない。

その俗は山川を重んじ、山川には各々が(所有する)部分があり、妄りに渉入し合う事はできない。

つまり黒曜石が産出する地域は狩猟民族の縄張りだったから、縄文人も漁民も立ち入る事ができなかったから、正確に言えば立ち入らなかったから、縄文人や漁民は黒曜石の欠片を山地で拾う事ができなかった。

日本全国の縄文遺跡から、多数のヒスイ加工品が発掘されているが、奇麗な穴が一つ開いているだけの形状の定型性から考えると、貨幣の様に使われていた可能性が高い。ヒスイは加工に時間が掛り、高価な財貨になったが、それほど価値が高くない補助的な石材加工品が既にあったから、ヒスイ加工品も便利に使う事ができた。

東日本の各地の縄文遺跡から、八ヶ岳山麓などで産出した上質の黒曜石で作られた矢尻が、多数発掘されるだけではなく、畠の土中から採取される事も珍しくないから、ヒスイ加工品と比較して格段に高い量産性があったと考えられ、少額の貨幣として流通していた可能性が高い。

しかし弓矢の生産の需給が逼迫すると、使える矢尻を貨幣として流通させ、実用的な価値を失わせてしまう事は経済的な損失だから、代わりに黒曜石の欠片が少額貨幣になったと考えられる。つまり畑などで簡単に拾える矢尻は、製造過程で発生した不良品で、黒曜石の欠片と同等の物品だった可能性が高い。

それらより遅れて出現する勾玉には、滑石製や土製もあったから、それらも少額貨幣だった可能性があり、縄文人はそれらの流通を通して貨幣的な財貨概念を高度化していたから、縄文後期の縄文人には、宝貝の貨幣化を先導する知識が既に備わっていたと考えられる。

しかし日本では、容易に入手できる宝貝は貨幣化できず、宝貝を入手できない大陸人が住む大陸内部で、供給量を調節する事により、宝貝貨の価値を維持する仕組みを生み出し、それによって莫大な利益を入手し、宝貝を供給した夏王朝にも莫大な利益をもたらした。

その様な日本でありながら、奈良時代以降に王朝が発行した青銅貨が普及しなかったのは、日本独特の歴史的な経緯があったからだが、その説明には長文が必要なので(10)縄文時代を参照して頂きたい。

縄文人にとって宝貝は無尽蔵に供給できる物だったから、現在の日銀の貨幣政策の様に、その供給量をコントロールして経済の活性化に繋げる事ができた。しかし過剰に供給すればその価値が下がり、貨幣としての機能が失われるから、供給量の制御は難しかったが千年以上の寿命を維持する為には必要だった。

日銀の様に数量制御の根拠データを集める事は、この時代には不可能だったから、何らかの工夫をした筈だが実態は明らかではない。

竹書紀年は夏王朝の本拠地が、渤海南岸にあった事を示しているから、帝禹夏后の居所だったは当時の渤海南岸で、そこが夏王朝期の製塩拠点だったと考えられる。河北省が州と呼ばれていた事もそれを示しているが、史記がそれを誤魔化す為に、当時の州は漢代の并州も含んでいたと主張しているので、通説はそれを採用し、禹は製塩業者ではなく治水の功績によって夏王朝の帝になったとしている。

その様な通説では、禹が死ぬ間際に老体に鞭打って塗山や会稽の諸侯に会い、会稽で亡くなった理由を説明できないが、禹が浙江省を起源とする製塩業者で、夏王朝の宝貝貨の制度を完成させたから、夏王朝を創設してその帝になったとすれば、竹書紀年が記す諸事情が極めて論理的に説明できるだけではなく、塗山や会稽の諸侯は起源的な製塩地の有力者だった事になる。

それによって禹が製塩業者だった確度が極めて高くなるだけではなく、夏王朝が宝貝貨の制度を確立する為には、渤海南岸の製塩者だけではなく、浙江省の製塩者も夏王朝に取り込む必要があった事を示している。また夏王朝が宝貝貨の運用主体であった事と、それが夏王朝成立時の重要課題だった事を示し、夏王朝が貨幣経済を運用する王朝であって、領土を保全する王朝ではなかった事も示している。

禹の活動歴を示す竹書紀年の記事の論理性の高さが、竹書紀年の評価を不動のものとし、史記の捏造を明示しているとも言える。

稲作民は夏の炎天下で草取りを行うなどの重労働を強いられるから、塩を多量に消費する必要があり、塩の流通がなければ稲作は出来ないと言っても過言ではない。つまり五帝から始まって禹が夏王朝を開いた歴史は、越人が沿海部で製塩集団を形成した歴史でもあり、夏王朝はその塩を原資にして、宝貝の貨幣化を完成したとも言える。

夏王朝期の宝貝貨の使い方が洗練されていたから、殷商王朝でも多量に使われたと考える必要があり、経済関係の漢字には貝を使うものが多く、「貴」漢字が宝貝貨を多量に保有する事を意味した状況が、夏王朝の統治下に生れたと考える必要がある。

従って夏王朝の稲作民だった荊は、湖北省時代に宝貝貨を先行的に使っていた可能性が高く、それは原初的な仕組みだったと想定する必要がある。その場合には越人が塩で兌換性を保証する事はできなかったから、宝貝の供給とその価値の保障は、関東部族の漁民が行っていた筈であり、関東部族の漁民に宝貝貨の価値を保証する能力があり、その手段も塩だったのであれば、それを宝貝貨の発祥と定義する事ができる。

前掲の文章の、(宝貝は)仰韶文化の姜寨遺跡(陝西省西安)の墓葬や、青海仰韶文化の墓葬から出土しているとの指摘は、仰韶文化期と重なる縄文前期に、湖北省から流出した宝貝が、陝西省や青海省に波及したと解釈すれば、それらの宝貝の供給ルートが解明されると同時に、何故仰韶遺跡から宝貝が発掘されるのかも分かる。また湖北省の稲作民のミトコンドリア遺伝子だったmt-Fが、縄文中期には関東に流入していた事とも辻褄が合う。

西安は青海省の塩湖である青海湖で製塩された塩が、中華世界に流入するルート上にあるから、この時代に既に宝貝は塩の流通と結び付いていた事を示し、それによって諸事情が符合するからだ。その詳細は(10)縄文時代/縄文人の活動期参照。

宝貝が縄文前期の湖北省で貨幣として流通し始め、揚子江の河口で河姆渡文化圏の稲作民族が製塩した海塩を、関東部族の船が湖北省まで運び上げていたから、湖北省では関東部族がその価値を保証すれば、湖北省の稲作民が宝貝貨の価値に疑念を持つ必要はなく、その便利さに慣れた稲作民族が華北に北上すると、湖北省時代と同様に宝貝貨を必需品にしたかった事は、現代人であれば容易に理解できるからだ。

つまり縄文前期温暖期の湖北省の稲作民族は、既に宝貝貨を便利に使っていたから、陝西に北上すると青海湖の塩の入手に際しても、宝貝貨を使い、縄文中期寒冷期に湖北省に南下すると、良渚文化期を迎えた製塩者から多量の塩の供給を受け、宝貝貨の使用方法を高度化させたから、縄文後期温暖期に華北に再北上すると、宝貝貨の使用方法を更に高度化していた。塩を入手するだけではなく、他民族から青銅の入手する為に使い、自分達の日常的な需要にも使ったから、墓に多量に埋納される様にもなったと考える事ができる。

この様な状況で利用者が増加し、それによって生活の質が向上すると、宝貝貨の総量を爆発的に増加させる必要があり、増発プロセスの進行によって宝貝のインフレに直面する恐れがあったが、禹の制度改革によって宝貝貨と塩の交換比率が固定化され、発行量も制度化したから、その後千年間使われる安定的な価値が保証されたと考える事もできる。

千年間に宝貝は徐々に価値を減少させ、所謂インフレ状態になったが、それは製塩の効率化によって塩の価値が低下し、産業の興隆による経済の活性化に伴って起こった、良性のインフレだったので、千年間安定的な通貨であり続け、最終的により高額貨幣である青銅貨に変る、必然的なデノミになって終焉した事が分かる。その時期が鉄器の普及期だった事が、歴史の流れとの整合性の高さを示しているからであり、古代人の経済活動が合理的に運営されていた事を示す、有力な証拠になっている。

 

1-3 宝貝の使用に関する記録
 宝貝貨は玉器の様に精巧な加工によって作られた財貨ではなかったから、それを扱う政権にとっては、政権だけが入手可能である事が必須要件であり、その為には入手経路の秘匿性も必要要件だったが、宝貝貨は関東部族が独占的に沖縄から供給し、使用者になった稲作民族は、関東部族に全幅の信頼観を抱いていたから、この課題は関東部族の統治力と漁民のモラルに依存していた。

また宝貝を中華世界に持ち込む海運力を持っていた海洋民族は、関東簿族だけではなく、北陸部族、対馬部族、伊予部族にもその能力があり、台湾とインドネシアの海洋民族も可能だった。

宝貝貨の流通が千年間維持された事は、関東部族の統治力と漁民のモラルに問題はなく、北陸部族、対馬部族、伊予部族や、台湾とインドネシアの海洋民族にも、それを行う仁義があった事を示している。それらの仁義が守られたのは、これらの海洋文化の根源にシベリア的な秩序文化があった事を示唆している。

魏志濊伝が示すシベリア文化の秩序認識が、その参考になるだろう。その基本は「地域自治、既得権益の保護、自尊自営の経済活動」などで、武力の行使はご法度だった。

それを統括する上位意識は、漁民が帰属していた部族の組織化であり、栽培民族だった縄文人は、生産性が高い漁労に従事していた漁民の部族に帰属していたから、帰属する部族は構成員である諸民族より上位の秩序概念だった。従って夏王朝が形成した宝貝貨の制度は、その様な海洋民族の秩序の中で成立したのであって、経済関係だけの環境下で、自然発生的に生まれたものではないと認識する必要もある。つまり部族や民族より上位の秩序概念として夏王朝を形成し、それに帰属する事は、シベリア起源の部族主義を守っていた海洋民族にとっては、従来の秩序認識の延長線上にあった。

日本には多数の漁民起源の部族があり、それぞれが高度な価値観を共有していた事は、その起源に単一文化が存在した事を仮定する必要があり、それがシベリアの狩猟・漁労文化だったと考えざるを得ないからだ。古事記はそれを、神々の系譜として明示している。

宝貝が財貨的な価値を持っていた事を、漢字から確認する事ができる。

財物やその扱いに関する漢字の殆ど総てに、宝貝の象形である「貝」が使われているからだ。

その様な漢字は、賄、財、貨、資、賑、貢、貸、賂、贈、賜、賞、貯、買、販、購、負、貰、質、貿、費など沢山あり、一見宝貝と関係がなさそうな「貴」も、宝貝を沢山持つ事の象形であるとされている。これらの漢字の意味は、現在とは違っていた筈ではあるが、多様な経済観念が宝貝貨の使用によって生まれたから、この様な漢字が生れた事は間違いなく、発行量を自由に決められる宝貝貨が、中華世界の経済発展に大きく貢献した事を示している。

殷・周代に相当量の宝貝が使用された事は、王朝が代わっても王朝と供給者との緊密な連携が継続され、宝貝貨が千年に亘って使われ続けた事になり、宝貝貨の貨幣制度を維持した主役は、大陸の王朝ではなく倭人だった事を示している。倭人はこれらの野蛮で武闘的な民族の為に、宝貝貨の制度を維持したのではなく、この制度を発足させた稲作民族の為に、制度を維持し続けたのだから、夏王朝は殷周時代になっても、稲作社会で継続していたと考える必要もある。

それについての記述は竹書紀年にはないが、夏王朝と敵対していた周の記録である竹書紀年が、明示はしていないが暗黙裡に認めている事から、推察する事はできる。稲作文化を否定する捏造史書を作成した漢王朝が、それを認めていない事は当然の事であり、史記はそれを前提にして読む必要がある。

従ってこの様な漢字が示す宝貝の使い方を、倭人も共有していた事は間違いなく、漢字は中華世界から伝わったと主張する、史家の欺瞞性も明らかになる。

 

2、日本の玉と中国の玉器

北陸部族がヒスイを定型加工し、それが部族を越えて東日本に拡散した。それらが集中的に発掘される、八ヶ岳山麓と那珂川流域は共に矢尻の産地だったから、日本列島ではヒスイや矢尻を使った貨幣経済が縄文前期に生れ、縄文中期に流通量が急拡大した事を示している。この章では日本で発達した石製装飾品の加工技術の発展過程、それが玉の加工技術に進化した事情と玉器の生産技術に転化した事情を検証する。

 

2-1 玉文化に関する考古学的な概況

中国では現在に至っても玉器の生産が盛んで、原石の四大産地は遼東の「岫玉(しゅうぎょく)(硬度4.8-5.5)」、新疆の「和田玉(ほーたんぎょく)(硬度5.5-6.0)」、陝西の「蘭田玉(硬度4前後)」、河南省南陽市獨山の「南陽玉(硬度6.0-6.5)」だが、これらは軟玉(硬度6.5未満)であって、硬玉であるヒスイ(硬度6.5-7.5)より柔らかく宝石とは言えないが、硬玉が産出しない中国では長い間、これらの原石を「翡翠」と呼んでいた。

このHPでは軟玉を翡翠と記し、硬玉をヒスイと記すが、和田玉は漢代の発見なので縄文時代の議論には関係がない。

加工文化論を展開する前に、鉱物としてのヒスイと翡翠について説明する。

ヒスイも翡翠も殆どが蛇紋岩系鉱物で、蛇紋岩系鉱物には色々な種類があり、軟らかい順に、滑石(硬度1)、蛇紋岩(硬度3)、透閃石岩、緑閃石岩(硬度56)、ヒスイ(硬度6.57.5)がある。ヒスイはヒスイ輝石を主成分とし、ヒスイ輝石は蛇紋岩系鉱物ではないが、蛇紋岩系鉱物に含まれる状態で産出するから、蛇紋岩系鉱物であるとも言える。

蛇紋岩は繊維質の鉱物を主成分として粘性が高く、研いだり削孔したりする事が可能で、複雑な器形が造形できる。又打撃を受けても割れにくいから磨製石斧の素材として優れ、透閃石岩や緑閃石岩は青銅より硬いから、研磨の仕方によっては青銅製より切れ味が良い石斧になる。繊維性が高い成分で出来ている鉱物が石綿だから、粘性が高い理由が分かるだろう。

日本には各地に蛇紋岩帯があり、そこで透閃石岩や緑閃石岩も採取できるが、ヒスイは新潟県と富山県の県境を中心に分布する、飛騨外縁帯と言われている岩石帯に含まれ、流出河川の流域や堆積地で産出する。現在は糸魚川市の姫川流域と海岸、朝日町の海岸が採取地として知られているが、縄文時代には富山平野東部が最大の採取地だった。

ヒスイではない翡翠は、透閃石岩や緑閃石岩と同系の岩石で、日本ではこれらの岩石を磨製石斧の素材として使用し、上記の地域では多数の石斧工房が営まれた。滑石には二種あり、蛇紋岩が変成を受けてできた滑石の他に、石灰岩が変成を受けたものもあるから注意を要する。

日本列島には各地に蛇紋岩帯があるが、中国大陸にはほとんど存在しない。その理由は蛇紋岩の成因が、地球規模のプレート移動に起因するからだ。

太平洋プレートやフィリッピンプレートが日本列島に向かって移動し、プレートの岩盤が岩石塊の下に潜り込む際に、巻き込んだ海水と共に地中の圧力と熱で岩石が変成されると、水酸基を含む鉱物として蛇紋岩が生成される。

この蛇紋岩がプレートの移動や圧力によって地表に押し出され、露頭を形成しているが、高圧低温下で形成された質が低い蛇紋岩になる。質が低い蛇紋岩とは、硬度が高い角閃石の含有率が低く、透閃石岩、緑閃石岩などと呼ぶ硬度が高い岩石が少なく、縄文人もあまり重視しなかった蛇紋岩を指す。

品質が高い飛騨外縁帯の蛇紋岩は、プレートの移動によって形成された高温の花崗岩質マグマが、プレート移動による高い圧力を受ける中で、比重が軽い花崗岩質が上昇して変成岩を形成し、その上部が海水や地下水を含む岩盤に達し、低圧高温下で蛇紋岩形成したもので、透閃石岩、緑閃石岩が豊富に含まれる。

透閃石岩や緑閃石岩は磨製石斧に適した素材として、旧石器時代(氷期)から原日本人が使って海洋船を製作した。縄文時代の本格的な海洋民族が、日本列島、台湾、フィリッピン、インドネシアを拠点としたのも、蛇紋岩が豊富な火山性の島嶼である事に起因する。

青銅は硬度3だが、研ぎ出した透閃石岩や緑閃石岩の刃部の硬度は56あるから、青銅器時代になっても斧の性能は逆転しなかったが、鉄器の出現によって石斧が過去の遺物になった。それによって海洋民族の勢力分布が激変したが、石器時代には火山列島のみが、本格的な海洋民族の根拠地になり得る地域だった。

オーストロネシア語族の言語分析が、鉄器時代になると、海洋民族の交易構造が激変した事を示している。彼らは暴力的な人々が居住する大陸を避け、無人島に拡散した事により、南太平洋の島嶼を経て南米に達したが、鉄器時代になるとそれらの島嶼に孤立した人々多数発生し、各島嶼にオーストロネシア語族の言語を遺したからだ。

金属器時代の大陸では武力闘争を伴った民族移動が激化し、それに伴って民族の言語が混ざり合ったが、海洋の孤島に遺された人々の言語は、その影響を受けなかったから、彼らの言語が彼らの孤立時期を示している。

それと考古遺物や遺伝子分布を参照すると、彼らは縄文早期の台湾で海洋民族になり、フィリッピンやインドネシアに拡散したが、縄文前期には南太平洋の島々を経て南米大陸に達し、西はインド洋に拡散し、時期は不明だがマダガスカル島にも達した。

ローマの共和政期のギリシャ人の航海記である、「エリュトゥラー海案内記」にこの海洋民族の存在を示唆する記述があり、彼らの交易路がアフリカに達していた事を示唆すると共に、紅海沿岸の商船はマダガスカル島には至らず、東はインド南端が限界だった事を示しているから、東南アジアの海洋民族のインド洋での優位性は、鉄器時代になっても容易に崩れなかった事が分かる。但しこれらは西欧人にとって都合が悪い事実だから、史学者は言語学者のこの成果を冷淡に扱い、彼らが孤立した時期を漂流者が上陸した時期であると誤魔化している。

プレート境界がない大陸では、蛇紋岩系の鉱物は極めて稀なので、中国では上記の四つの地域が翡翠の産地として知られているが、産出量が極めて少ない故に、翡翠と呼んで宝石扱いしている。

縄文人は森を開いて堅果類の樹林を拡大し、更に樹木を伐採して1年生の植生を栽培したから、樹木の伐採に最適な素材として蛇紋岩を使用したが、その目的だけでは、北陸の海岸に多数の磨製石斧の工房があった事は説明できない。

しかし大陸から渡来したミトコンドリア遺伝子mt-D女性が、焼畑農耕によってアワを栽培した痕跡が、北陸に遺された多数の磨製石斧の工房だったとすれば、磨製石斧が多用された理由が明らかになる。

堅果類の樹木が群生する里山を作るのであれば、1年に1アール程度の森林を伐採すれば十分だが、焼畑農耕を行う為には3年に一回森林を切り拓き、畠を形成し直す必要があり、十分な広さの農地を確保する為には、新規の焼畑を毎年10アール以上形成する必要があった。その様な農民が縄文早期の北陸に多数集積したから、磨製石斧の工房もその時代から集積し始めたと考えなければ、数の釣り合いが取れない程に多数の工房が北陸にはあった。

磨製石斧を使った焼畑農耕者は、縄文早期に温暖な西日本に入植したから、彼らが共有した土器の系譜が、西日本~東海地域に遺されているが、良質の蛇紋岩系岩石が容易に採取でき地域として、新潟・富山に工房が営まれ、交易品として磨製石斧を生産したと推測される。この女性達は関東には渡来せず、関東には稲作者だったmt-B4が渡来したから、関東部族は素材を透閃石岩や緑閃石岩に限定する、高度な磨製石斧の量産者にはならず、石製装飾品の生産者にもならなかった。

関東部族は霧ヶ峰産の黒曜石で作った矢尻を使い、弓矢を生産してシベリアに送り、その見返りに獣骨を獲得し、漁具を生産して漁獲を高める交易を起業したが、弓矢の需要が膨大になり過ぎて供給が不足したから、縄文前期に北陸部族もその交易に参加し、関東部族と共有する高額財貨として、定型的なヒスイ加工品を生みだした。その詳細は(10)縄文時代/縄文人の活動期参照。

 

2-2 新潟県の石斧工房の歴史

糸魚川市の田海(とうみ)川の河口に、縄文早期(~7000年前)の大角地(おがくち)遺跡があり、発掘された最古の石斧工房であると考えられている。

建物址から石斧の完成品が10点出土し、未完成品が133点出土したから、交易用の石斧を製作する工房だったと推測される。遺跡から長野県産の黒曜石が発見され、彼らの交易圏は近隣だけではなかった事を示している。

遺跡の標高は5mしかなく、この様な低地に工房を営んだのは、海岸で蛇紋岩を拾うのに便利だったからだと想定されている。縄文海進時のこの遺跡は海抜0mに位置しただけではなく、7千年前には既に形成されていた海岸砂丘の内側にあり、それによって形成された潟湖の湖底になった事が、奇跡的に遺跡が保存された原因であると考えられるから、この地域には同様の工房が他にも多数あった事を示唆している。

氷期の海水面は現在より120m低下していたが、温暖化の進行によって15千年前から徐々に海水面が上昇し、8千年前にそれが停止し、それ以降は現在より数メートル高い縄文海進の状態になったから、現在より海水面が低かった時期に、この遺跡を含むこれより低い標高にあった海岸の工房は、上昇しつつあった海面の波によって確実に破壊された。

従って大角地(おがくち)遺跡の低い標高は、海面上昇が完了してから石斧工房が誕生したのではなく、8千年前より古い時代の工房だった事を示し、僥倖によって残された残存限界の遺跡である事を示している。

この因果関係は明確だから、考古学者お得意の論法である、「発掘されない物は無かった事にして、歴史を解釈する」論理は通用しないが、この遺跡年代を7千年前であると固執している姿勢に、既に考古学者の欺瞞がある。

海面上昇が完了する前に対馬海流が日本海沿岸を洗い始め、8千年前に始まった太平洋の湿潤期は豪雨期だったから、8千年前には対馬海流が海岸砂丘を形成し始め、大角地遺跡の工房跡は砂丘が形成した潟湖の湖底になった可能性が高いからだ。従って遺跡の推定年代は9千年前頃で、最古の工房ではなかった事になる。

この工房遺跡から、滑石で作った玦状耳飾(けつじょうみみかざり)などの石製装身具と、その加工途上品が多数出土した。玦状耳飾りに穿孔する加工用具として、硬いヒスイを使っていたと考えられている。下の写真は大角地遺跡で発見された、製作工程が窺える滑石製玦状耳飾りと、製作工房だった事を示す製作仕損品。 形状が稚拙に見えるのは加工工房の遺物の特徴で、形状が優れた加工品は出荷されてしまったから、仕損品や形状不良品だけが残っている事になる。

 

image021

第17回 糸魚川遺跡発掘調査報告会 から転写

image019

(新潟県埋蔵文化調査団No54 2006年)

 

新潟県で滑石製の装身具が作られたのは縄文早期で、縄文前期には蛇紋岩製の装身具が作られ、前期後葉には殆どが蛇紋岩製になった。

縄文前期後半の関東文化圏で土製の耳栓が流行し始め、縄文中期には精緻な加工品が多数生れるが、材質の美しさの点では滑石や蛇紋岩の方が優れているから、その様な石材の入手が困難だった関東で、土器製で我慢せざるを得なかった人達が、独自の装飾品文化を生み出した事を示唆している。

この事情が関東と北陸の、部族間の交易量を示し、関東縄文人からmt-D+M8a(漢族の遺伝子)ではない、mt-D(北陸系のアワ栽培者の遺伝子)が抽出されない事と符合し、女性達の文化の違いによる、装飾品に対する嗜好の違いも示唆している。しかし関東文化圏だったと考えられる山梨県北西部で、縄文前期後葉の定型化したヒスイ加工品が出土し、縄文中期以降は関東各地から多数のヒスイ加工品が発掘された事は、装飾文化とは異なる経済交流が存在し、それが縄文中期に活発化した事は、定型化したヒスイ加工品は装飾品ではなく、弓矢交易を共存させた両部族の共通財貨だった事になり、この現象がその証拠を示していると考える必要がある。

 

2-3 石製装飾品

2-3-1 桑野遺跡の石製装飾品

石製装飾品が発掘された縄文草期の遺跡として、福井県の桑野遺跡が知られているので、発掘された遺物を下に示す。

image005

桑野遺跡出土の石製装飾品 「あわら市郷土歴史資料館」のHPから転載

発掘された製品の形状が優れているのは、桑野遺跡の住人が製品の購入者だった事を示している。

九頭竜川流域に蛇紋岩の露出地はないから、桑野遺跡の石製装飾品は富山平野東部~糸魚川市で作られ、この集落に持ち込まれたものである可能性が高い。ヒスイ加工品にも同様の現象があり、八ヶ岳山麓から発掘されるものは形状が整っているが、新潟県の工房から発掘されるものは、押しなべて加工品質が劣っている。

それを現代的な表現で説明すれば、石製装飾品は工場で在庫を持つ事が可能な規格生産型の商品ではなく、工場在庫を持たない注文生産品だった事になる。多数の仕上がり品が発掘された事は、需要が活発で商品の流通が活性化されていた事を示している。

これが漁民集落ではなく縄文人の集落から発見された事は、此処に住んでいた縄文人が、商品価値の高い物品を生産していた事を示し、磨製石斧の生産地から遠い地域に遺された事情と組み合わせると、彼らはアワの栽培に成功し、磨製石斧の大量消費者になっていた事を示している。

「あわら市郷土歴史資料館」のHPには、文化庁の指導に従った文面として、「これらの土坑群は、概ね縄文時代早期末から前期初頭の所産と考えられています。」と記されているが、「国土交通省近畿地方整備局 福井工事事務所」のHPには以下の記載がある。

縄文草創期にあたる約1万2千年前のものとしては、昭和初年頃の用水工事の際に発見された永平寺町鳴鹿山鹿遺跡(なるかさんかいせき)から、有舌尖頭器を主体とした石器群が、埋納された状態で出土している。<中略>

草創期に続く縄文時代は、早期・前期・中期・後期・晩期の5期に通常分けられる。このうち、早期の遺跡は九頭竜川の河岸段丘や扇状地に集中して存在している。前期になると、九頭竜川筋から足羽川の周辺にも見られるようになり、かなり分散するようになった。<中略>

縄文早期の遺跡としては、勝山市古宮遺跡・破入遺跡・三室遺跡、金津町桑野遺跡、福井市北堀遺跡などが著名である。

縄文時代早期後半から前期にかけては、「縄文海進」と呼ばれる海水面上昇の時期があり、福井平野一帯が「古九頭竜川湖湾」と呼ばれる内湾を形成し、その岸辺に沿って福井市北堀遺跡(早期・前期)や深坂小縄遺跡(前期)が立地していた。その後、古九頭竜川湖湾は、九頭竜川・日野川・足羽川からの流出土砂によって埋められていき、沖積平野が形成されて徐々に縮小していったが、岸辺では芦原町舟津貝塚などに見られるように、水の近くで生活が営まれるようになった。

近畿地方整備局は、桑野遺跡は「早期後半から前期にかけて、海面上昇した時期に湾の岸辺に沿って形成された遺跡」ではなく、それ以前の河岸段丘や扇状地に形成された、海進期だった縄文早期の遺跡であると説明している。

桑野遺跡が縄文早期(12千年~7000年前)の遺跡で、早期から前期に跨がる遺跡ではなかったのであれば、世界最古級の石製装飾品が、世界でも例を見ないほどに多量に発見された遺跡になる。桑野遺跡から出土した装飾品は、洗練された定型的な形状を有しているから、前駆的ものが存在した筈だが、それを含む更に古い遺跡や遺物は、海面上昇によって破壊・埋没されたと考えられる。

桑野遺跡などのこの地域の縄文早期の遺跡が、海面上昇期の河岸段丘に残っている事は、縄文早期の九州縄文人が海面上昇を恐れ、高台に集落を形成した事情と共通した特徴になり、福井平野を囲むこの時期の遺跡が、桑野遺跡以外は当時の海面から100m程の谷間の高地に形成された事は、九州縄文人と同様の特徴を示しているから、それが当時の日本の一般的な事情だった事を示している。

彼らが栽培していた堅果類は樹林の形成に何十年も掛かるから、ゆっくりとした海面上昇にも恐怖を感じ、海から離れた谷間の高台に集落を形成したが、桑野遺跡の標高はそれほど高くはなく、現在の標高は10m程度の、海岸に近い場所に台地に形成されている。これは樹林を開いてアワを栽培していた人々には、その恐怖はなかった事を示し、生業形態による土地利用の違いを示している事になり、彼らの発想の合理性を示している事になる。

海面上昇期の最終段階だった縄文早期には、海岸の沖積平野は全て水没していたから、彼らは海岸に近い疑似平坦地として、この丘陵状の台地を選んだと考えられる。

焼畑農耕は山の斜面でもできたと考える人もいるだろうが、氷期や豪雨期を経た直後の山の斜面には土壌が乏しく、農耕地になり得る土壌が広範囲に存在したのは、洪積台地上のなだらかな丘陵地だけだった。

従って桑の遺跡の年代は、海面上昇が終了した8千年前より古い時代だったと考えられるが、文化庁や多くの考古学者は、桑野遺跡の年代は7000年以上遡らないと主張している。

その直接的な理由は、遼寧省査海遺跡から発掘された玦状耳飾りが7800年前のものと推定され、中国の考古学者が東アジアで最も古い玉製品だと主張しているから、文化庁や多くの考古学者はそれに迎合し、7000年以上遡らないと主張している様に見える。査海遺跡はアワ栽培者の文化だった遼河文化の、比較的早い時期の遺跡ではあるが、太平洋の湿潤化以前の遼河台地は、現在より砂漠に近い状態だったと推測されるから、査海遺跡云々ではなく遼河文化そのものが、8千年以上前には遡らない。

海面が上昇した8千年前以降は、現在の沖積地の部分は全て海没し、渤海が遼河台地の近傍まで広がった。査海遺跡は遼河文化圏の東端にあるから、北陸部族の漁民がアワを栽培していた女性と査海遺跡の近傍で接触し、彼女達の一部が漁民の船で日本に渡来したから、査海遺跡にも桑野遺跡風の石製装飾品が遺されたと考えられ、7000年以上遡らないと主張している考古学者は、論理性がない嘘を主張している。

大角地遺跡の年代詐称も、同様の理由によるものであると考えられ、日本の古代史を故意に曲解しながら、中華至上主義的な歴史観に迎合している事は明らかだ。

これらの様な事例は他にも沢山あり、考古学者の思想的な汚染状況が、極めて深刻である事を示している。既に指摘した史記に関する誤解は文献史学者の認識不足や、歴史学会の会員の、論理性の欠如に起因している可能性も否定できないが、これらの考古学者の明らかな虚偽は、史学会全体が異様なイデオローグに支配された、嘘を国民に信じ込ませる秘密結社的な思想団体である事を示している。

日本の石製装飾品は、同じ蛇紋岩質の磨製石斧を製作していた工房の作品で、需要者は工房の顧客だったアワ栽培者だから、製作した動機も明瞭であり、石斧と装飾品の加工技術の進化過程に共通性、連続性、必然性があり、それらを大陸に求める必要はないが、日本の考古学者は、遺物のミッシングリンクが全て埋まらない限り、この極めて当り前の想定を絶対に認めないからだ。

その様な事例も他にも沢山あり、顕著な例として、日本列島の製鉄の開始時期に関する認識がある。考古学者は、「製鉄跡が発見されていないのだから、弥生時代の日本に製鉄技術はなかった事を前提に、歴史を組み立てなければならない」と言い張っている。

海洋の木造船に関しても同様で、「木造の海洋船が発掘されなければ、海洋船があった事を前提にしてはいけない」と言い張る。そもそも放置された木造船が、日本の様な温暖湿潤な気候の下で、朽ち果てずに発掘される筈もなく、海中にあればフナクイムシに食い荒らされてしまうから、その様な主張は無理筋だと分かっていながら、その主張を決して曲げようとしない。

しかし大陸に関する事柄については途端に態度を変え、総ての技術や文化のルーツは海外にあり、海外から船で日本に渡来した人がそれを伝えた筈だと言い張り、海外で海洋船が発掘されたのか否か、或いは海外に製鉄工房があったのか否かは不問にしている。

石製装飾品については日本で工房が発見されているので、その話題に触れずに、石製装飾品のルーツは大陸にあった事を、根拠はないが既知の大前提にしている。

考古学者の川崎保氏は、以下の様に説明している。(要約)

玉質の石材を利器に使うことは、日本では旧石器時代以来の伝統がある。 縄文時代早期末に玉質の石製装身具が急に出現し、日本列島でほぼ斉一的に変化する。少なくとも日本列島各地で、独自に発生したものではない。広域に分布するが、当初は製作遺跡が北陸地方にほぼ限定されることを考えると、伝播のルートを考える必要があるが、玦状耳飾りなどの玉質装身具を含む日本列島の玉文化が、大陸の影響をまったく受けないで成立・展開したとは考えにくい。

玦状耳飾り出現期から、既に管玉や垂飾(箆状垂飾など)が存在し、これらは中国東北部の遼寧省査海遺跡(BC5800年頃)をはじめとする、興隆窪文化や黒龍江省小南山遺跡などの資料、さらにはロシア沿海州チョールタヴィ・ヴァロータ洞穴資料(縄文中期)などと、個別の装身具の器種が類似しているだけではなく、セット全体での類似が認められる。形態的にもチョールタヴィ・ヴァロータ洞穴の玦状耳飾りは、日本列島の中では古いタイプである。チョールタヴィ・ヴァロータ洞穴の箆状垂飾は、湾曲したタイプであり、これは日本列島では桑野遺跡に見られる。よって、出現期の玦状耳飾りやそれに伴う管玉、箆状垂飾のセットや形態から、中国東北部を起源とし、沿海州経由で日本列島に波及してきたのではないかと推測する。

川崎氏は「大陸の影響をまったく受けないで成立・展開したとは考えにくい。」だから「玉文化は中国東北部が起源」としてはいるが、根拠に基づいているわけではなく、確信しているわけでもなく、上層部の圧力により、本人の見解とは違う推論の公表を強いられた様に見える。

此処で敢えて川崎氏の発言を採り上げたのは、嘘の先導者であると咎める為ではなく、この分野の研究者としては良心的な人に分類されるからだ。他のこの分野の専門家は些事な専門的観点を並べるだけで、この様な話題に触れる事を避けているから、論争にもならない事情がある。

遼東半島の付け根の岫岩鎮から、玉器の原石である「岫岩玉」が産出し、中国最大の翡翠産地になっている。査海と岫岩鎮は直線距離で250kmしかなく、現在の両地は比較的平坦な陸路で繋がり、遼河によって隔てられているが、越えなければならない峠は標高500m以下だから、両地域は同じ文化圏に属していた事を匂わせ、曖昧にしている大陸の玉器の起源と関連付けている史家もいる。

しかし既に指摘した様に、8千年前に海面上昇が終了した時点で、氷期に沖積平野が形成された現在の地図上の平野部は、全て海中に水没したから、8千年前の渤海は現在の遼寧省の北西端まで延伸し、査海と遼東半島は陸路で500㎞以上離れていた。

遼河文化は殷人の祖先達の文化だったが、遼東は韓族の居住域だったから、異なる民族の地域だった。

韓族が凶暴な殷人の祖先達に囲まれながら生き延びたのは、遼東の湿潤な気候が深い森林を形成し、磨製石斧を持たない殷人の祖先達の、遼東への侵入を阻んでいたからだから、両民族には人的な交流はなかった。韓族の遺伝子分布もその事情を示しているが、論証には長文が必要なので、(10)縄文時代参照。

遼東で玉器が生産されたのは縄文中期以降で、その加工技術は北陸の技法に類似していたし、北陸では既にヒスイ加工品の量産段階に至っていた。

 

2-3-2 石材加工の技術系譜

縄文前期の早い時期に石製装飾品の主流が蛇紋岩になったのは、河原で容易に採取できる石英の研磨剤の利用が始まり、角閃石系の研磨も可能な技術段階に達していたが、石英の研磨剤では角閃石系の加工に時間が掛り過ぎ、主たる生産品である磨製石斧の生産に影響が出たから、柔らかな素材である蛇紋岩にしたからであると推測される。縄文前期中葉にヒスイの加工が始まったのは、研磨剤を石英から柘榴石(金剛砂)に変える事を、発明したからだと考えられる。

河原で容易に入手できた石英の研磨剤から、産地が限られる柘榴石の研磨剤に変えた事は、加工技術の発展経緯や試行錯誤の過程が、追跡できる状態にあった事を示している。

遼東に軟玉である翡翠の加工工房が生れた縄文中期になると、北陸では工房の規模が大きくなってヒスイの加工も盛んになり、北陸以外の各地に石斧工房が生れた。また関東や北陸の多数の遺跡から、規格量産されたヒスイ加工品が多数発掘される様になった。

従って遼寧や内モンゴルが玉器加工の発祥地だったと考えるのは、明らかに無理筋になる。それを更に確かなものにする証拠を、岡村秀典氏の「中国文明 農業と礼制の考古学」が示している。

BC5千年紀(7000年~6000年前:縄文前期前葉~中葉)には、遼東半島と山東半島間の交流はほとんどなく、それぞれ独自の土器様式が広がっていた。遼東半島と山東半島間には飛び石状に島があるから、船で渡るのはさほど困難ではないが、BC4千年紀(縄文前期後葉~縄文中期前半)になっても、漁労活動にともなって少数の土器が山東から遼東に運ばれるくらいで、両地域の土器様式にはほとんど変化が見られない。ところがBC3千年紀(縄文中期後半~縄文後期前半)に、山東と遼東との交流がにわかに活発になる。

遼東では「岫岩玉」を用いて、BC5千年紀から小型の斧や鑿などの工具類を作っていたが、石器の代用品としての利用に留まり、加工技術は未熟なままで、玉の美しさを生かした装身具は作られなかった。錐状の工具で紐通しの孔をあけることは、早くから始まっていた程度だった。BC3千年紀になると、竹の様な管状の工具で、直系1㎝以上の大きな孔をあける技術が、江南(良渚文化圏)から山東をへて遼東に伝わった。

BC5千年紀(縄文前期)の遼東には、海洋を航行する技量を持った民族はいなかったから、彼らが独自に遠隔地と交流する事は出来なかった。また縄文中期前半までの岫岩の周囲に、玉器として加工する兆候が全くなかった事は、査海の石製装飾品は、北陸部族の漁民によって北陸から運ばれた事になる。また縄文中期の遼東半島に北陸の加工技術が移転されたから、紅山文化圏から発掘される玉器が生れた事になり、それ以外の可能性は皆無である。

竹の様な管状の工具で直系1㎝以上の大きな孔をあける技術は、新潟県の長者が原遺跡にもあり、その技術は北陸では良渚文化期の千年も前に開発されていた上に、その加工対象は良渚文化期の玉器の素材や、遼東で産出する岫岩玉より硬いヒスイだった。従って玉器の遼東での加工技術も、浙江省の良渚文化圏の技術と同様に、北陸部族の漁民が渤海湾沿岸に進出し、遼東半島と山東半島の交流を活性化した結果だった。

縄文前期の浙江省の玉器である、河姆渡文化期や崧沢文化期の稚拙な玉器は、関東部族より数千年遅れて台湾に到達した北陸部族が、台湾の海洋民族に技術を伝授した結果であって、北陸部族の作品ではなかったと考えられる。縄文前期の北陸部族は、浙江省の稲作民族のフィリッピンへの移住への対応に関心を高め、浙江省の製塩者との関係を深めたのは、それが終わった縄文中期になってからだと推測される。それによって高度な加工技術を示す良渚文化圏の玉器が生れたが、北陸部族の最大の成果は、越同盟が生れる素地を形成した事だった。

北陸部族はフィリッピンへの関心を高め、ヒスイを加工する高度な加工技術も移転したから、それがインドネシアの海洋民族を介し、南米にもヒスイ文化が生れたと考えられる。ヒスイ文化の神髄は、ヒスイ製の玉器を崇める文化ではなく、ヒスイを加工する技術を崇める文化だった可能性がある。それが北陸部族の誇る最も高度な文化だったからであり、彼らの精神文化の象徴でもあったからだ。

この技術の成果は、日本列島では通貨としての定型品しか評価されなかったから、量産型のヒスイ加工者になったが、南米では加工技術が高く評価された事が、現地の文化の器形に示されているから、それが北陸部族のヒスイ加工技術に対する、認識や執着心を示しているとも言えるからだ。

遼東半島で北陸部族との技術交流が始まったのは、ツングース系の水上交易者だった息慎と、北陸部族との交流の結果であって、良渚文化とは関係がなかったが、浙江省に玉文化が拡散した事を契機に、遼東半島でも「岫岩玉」の加工が始まったと考えられる。

それを担った民族について、参考になる指摘が魏志東夷伝にある。

韓族について魏志韓伝に、「(馬韓では)瓔珠を以って財宝と為し、或いは綴衣(ていい:糸で縫い合わせた衣装)の飾と為し、或いは首に縣け耳に垂らし、金銀や錦繡を珍(価値ある財貨)と為さず。」と記したが、真の玉器製作者は韓族の祖先ではなく、魏志濊伝に箕子が既に朝鮮に行って八條の教を作り、それを以ってこの濊に教えたので、門を閉じる事がなくても民は盜みをしなかった。男女の服には丸い襟があり、男子は銀花を飾りとしている。珠玉を宝としない。」と記し、濊の祖先である箕氏朝鮮だったと指摘している。

また周代の朝鮮侯は韓族だったから、それを示す記述も魏志韓伝にあり、周の政策によって殷人が華北から一掃されると、同じトルコ系民族だった箕氏は玉器の生産者(朝鮮)である事を止めたから、韓族が代わって朝鮮侯になった事になる。宗教性が高い玉器を殷人と同系の濊が製作しても、周は使わなかった事は容易に推測できるから、歴史の流れと魏志東夷伝の記述は一致する。

岡村秀典氏は、縄文後期には中国の内陸でも玉器の発掘例があるが、その精巧さは沿岸部の方が優れていたと指摘し、箕氏朝鮮の玉器は優れていたが、韓族も参加していた陶寺遺跡に遺された玉器は、韓族製作した二流品だった事を示し、これもその他の歴史事情と整合する。「朝鮮」と呼ぶ輝かしい名称を冠せられた玉器の製作集団は、元々は濊だったが、遼東は韓族の地域だったから濊がそこに後発的に入植し、玉器の製作集団になったと推測される。

シベリアの部族主義の掟では、先住者の地域に移住した者は先住者の言語を使ったから、箕氏朝鮮の言語は韓族の言語だったと推測されるが、箕氏朝鮮が製作した玉器の主要な需要者は、遼河文化の最終段階になっていた紅山文化圏の殷人系アワ栽培者であり、その後は殷商王朝だったから、バイリンガル状態を維持していた可能性がある。

魏志濊伝に記された濊はトルコ系言語話者に戻っていたから、遼東から離れる事によって元の言語に戻った可能性もあるが、毛皮交易者になる為に東朝鮮湾の沿岸に移住した段階で、濊の主力はシベリアから新たに移住して来た人々になったから、それによって濊の言語がシベリア系の言語に戻った可能性もあるし、それが玉器を重視しない民族になった理由であると推測される。

 

2-4 ヒスイの加工技術

石製装飾品の加工は軟らかい滑石から始まり、そのルーツが北陸の磨製石斧工房にあった事は間違いない。滑石の表面の鏡面仕上げは、獣皮などで磨く事によって滑らかにし、光沢を得ていたと考えられる。

その様な加工技術が縄文早期中葉に大幅に飛躍し、滑石(硬度1)からより硬い角閃石岩(硬度4以上)に移行し始めた事を、桑野遺跡の遺物が示しているが、縄文前期に蛇紋岩(硬度3)に後退したのは、磨製石斧の需要量の増減が影響したからだと考えられる。

桑野遺跡の時代は未だ太平洋が湿潤化する以前で、アワ栽培者は生産性が高い温暖な地を求め、西日本の各地に続々と拡散していたから、磨製石斧の需要も右肩上がりに増加していた。査海遺跡に遺された石製装飾品が7800年前のものだったとすると、西日本に拡散する為のアワの栽培者が不足し、遼河台地のmt-Dをリクルートした際に、移住後の生活の豊かさを示す為に示した物品の痕跡だったと考えられる。

遼河台地にアワ栽培者がいるとの情報は、朝鮮半島に進出して九州縄文人と交易を行っていた、ツングース系の息慎がもたらしたものだったと推測される。彼らには荷物を多量に積める交易船が必要だったが、氷期には草原だったシベリアには、良質の樹木が不足していたと推測されるからだ。北陸部族と息慎の交流は後氷期になった直後に始まり、息慎にとって最も親しい海洋民族は北陸部族だった。

しかし7800年前頃に豪雨期が始まり、アワ栽培者の活動が低調になったから、磨製石斧の工房にも生産余力が生れたと推測され、その頃に角閃石系の石製装飾品が多数作られた可能性が高い。桑野遺跡はそれ以前から継続していた遺跡で、この頃の遺物も含む状態だったが、石製装飾品の生産量は時代を追うごとに増加していった筈だから、遺物に占める割合としては、角閃石系のものも無視できない割合で含まれている。

縄文早期末に豪雨期が終わり、アワ栽培者の活動が再び活性化すると磨製石斧の需要が急増し、装飾品の製作に時間を割く余裕が失われたから、石製装飾品の素材が蛇紋岩に統一されたと推測される。

更に硬い素材であるヒスイ(硬度6.57.5)の加工が始まったのは、研磨剤の素材が石英から柘榴石に変わったからだが、その変化はヒスイの加工を行う為ではなく、磨製石斧の生産効率を高める為だった可能性が高い。

その頃から磨製石斧の全面研磨も始まったが、石斧の機能上は刃部を研磨するだけで良く、全面研磨はブランド力の向上にしか役立たないから、研磨技術が異様に高まった事を示唆しているからであり、石斧の研磨には粒子が荒い研磨剤で十分だが、鏡面加工には細かい粒子のものを揃える、高度な精製技術が必要になるからでもある。

つまり石斧を必要以上に研磨する事ができる様になったのは、研磨剤を柘榴石に変えたからで、それは生産性の向上を目的として採用した技術だったが、磨製石斧の素材である透閃石岩や緑閃石岩の加工には、過剰な加工能力の向上だったからだ。

良渚文化圏では縄文中期後半から、透閃石岩や緑閃石岩(硬度46.5)系の翡翠を使い、大型の玉器を盛んに作成する様になったが、日本にはその様な宗教的な物品の需要がなかったから、石製装飾品的な物品の素材が蛇紋岩からヒスイに移行した。石材加工技術を高度な職人技であると評価していた北陸部族にとって、必然的な結果ではあったが、日本には宗教的な需要はなく、高価な石製装飾品の需要もなかったから、高額貨幣としての定型品の生産に移行した。

高価な石製装飾品の需要がなかったのではなく、石製装飾品の需要は元々財産形成的なものだったが、ヒスイ加工品の製作には手間が掛かり、希少性が高くなったので、弓産業によって豊かになった人々の需要に応えるものになり、元々それほど豊かではなかったアワ栽培者には、複数の選択肢が生れた。

弓矢産業で豊かになった人々の需要に応える為に、伊那谷や群馬に入植してヒスイ加工品を財貨にする豊かさを得るか、西日本で従来のアワ栽培を継続し、蛇紋岩製や角閃石製の石製装飾品を財貨にする、余り豊かではないアワ栽培者であり続ける選択があったが、アワの生産性を求めてフィリッピンに渡航した女性もいた。

中華世界にヒスイはなかったが、農耕社会には翡翠の加工品を宗教的な儀式に使用する需要があり、既にヒスイの加工技術が完成していた縄文中期になると、翡翠を複雑な器形に加工する玉器需要を満たす事が、その技術移転によって可能になった。

従ってヒスイや翡翠を加工する技術史を追跡するのであれば、原石が採取できて工房もあった、富山県と新潟県に注目せざるを得ない。

以下に新潟県で発掘されたヒスイ製の玉製品を示す

image004

新潟県で発掘された、縄文時代のヒスイ製玉製品(第17回発掘調査報告会資料より転写)

日本では流通していない奇異な形状の製品や、日本では使われなかった色の製品が含まれるのは、新潟県の工房の顧客は日本列島内だけでなく、大陸にもいた事を示している。

image006

長者が原遺跡で発掘された、ヒスイの加工途上品(工房だった事の証拠)

    (第17回発掘調査報告会資料より転写)

新潟県や富山県で発掘されたヒスイ工房の遺跡は、縄文中期以降のものしかないが、山梨県北杜市の天神遺跡から60005500年前(縄文前期後葉)の土器と共に、左下のヒスイ加工品が発掘されたから、この頃には生産が始まっていた事になる。

新潟県外で発掘された縄文中期の加工品は、右下の様に規格化されたものが多く、左下のものはその原初的な形状を示しているから、加工技術の発展段階としては、比較的早期の作品だったと考えられる。

但しその製作時期は、土器の製作時期と一致するとは限らないから、ヒスイ加工品の製作時期は6000年前を遡るかもしれないが、いずれにしても削孔技術は他のヒスイ加工品と比較して遜色がなく、削孔技術は縄文前期中頃には完成していた事を示している。

これらを規格品であると指摘すると形状が不揃いだからという理由で、違和感を持つ人がいるかもしれないが、綺麗に研磨されたヒスイの石塊に、円形の綺麗な削孔が一つある事が、この時代のヒスイ加工品の規格だったと考えられ、その大小や形状には拘らなかったと推測されるが、縄文中期の加工品は、縄文中期になると全体を磨き上げる必要が生れた事を示している。豊富に産出した原石の重量には価値がなく、加工した事に価値があったからだ。

その観点で左下の加工品を見ると、角取りが十分ではなく削孔技術が先に完成した事を示し、削孔されている事が一貫してヒスイ加工品の価値だった事を示している。

image016   http://www.max.hi-ho.ne.jp/sundaymorning10/102index.files/image090.jpg

 

これらの加工技術が進化した背景として、焼畑農耕を営むアワの生産者と、彼らの需要に応えていた磨製石斧の職人が多数いて、生産性の向上が恒常的に求められていたから、それによって加工技術が高度化した事が先ず挙げられるが、ヒスイ加工品が多数発掘される地域は、諏訪湖岸を起点とした矢尻の流通経路上に偏在し、その他の地域として那珂川流域があるが、那珂川の上流にある高原山も黒曜石の産地だったから、弓矢の生産活動の大規模化による経済活動に付随した、流通手段の円滑化策としてヒスイ加工品が生れた事を示している。

上掲の形状のヒスイ加工品は、生産活動の極大化によって普及が最大化したが、黒曜石の矢尻の生産が下火になると流通は終焉し、その種の物品が勾玉に移行した事が、矢尻を使った弓矢産業の円滑化に特化した貨幣だった事を示している。その詳細については、(10)縄文時代/縄文人の活動期参照。

黒曜石採取地は八ヶ岳山麓に何カ所かあったが、その一つである和田峠では柘榴石も採取できたから、それが磨製石斧の生産性を高め、ヒスイ加工にも重要な役割を果たした可能性もあるが、柘榴石も蛇紋岩の周辺鉱物だから日本列島には多数の産地があり、和田峠はその一例に過ぎない。

柘榴石の粉末は金剛砂と呼ばれ、起源が分からない古い時代から研磨剤として使われ、現在も使われているが、現在の研磨剤の主流は、金剛砂より硬度が高いアルミナになっている。

上掲の画像に示された綺麗な小孔を空ける為には、竹に塗布して削孔する研磨剤として、粒径が揃った微小粒子が必要になるから、それを得る為の工程を工夫する必要があった。現代でも粒径の選別には水を使うから、これは縄文時代にも使える高度な技術だった。

富山県の縄文前期の遺跡から、底に穴が開いた土器片が発掘されているから、それが粒径や素材を選別する初期的な道具だったと考えられるが、粒径を精選する容器には強度が必要だから、低温で焼成した強度がない縄文土器は、それに相応しい容器であるとは言えず、量産性を高める為には木枠や桶を使う必要があり、考古学的な痕跡は発見できないが、桶を発明する極めて強い動機になった事は指摘して置きたい。

樹木を砂岩で擦れば如何様な形状も形成できたから、手間は掛るが、石器時代であっても作る事ができる容器だったからであり、北陸の職人が多量の研磨剤をを使用した事を、発掘された多数の工房跡や、多数の全面研磨された磨製石斧が示しているからだ。

この技術を手にした北陸の石材加工職人には、売れる製品を開発する二つの選択肢があった。

一つは透閃石岩や緑閃石岩を使い、複雑な器形の装飾品を作る中華的な道で、もう一つは沢山発掘される定型のヒスイ加工品を量産する道だった。

縄文人は後者を選択したから、縄文中期以降はヒスイの定型加工に特化し、複雑な器形には興味を示さなかったが、その理由はヒスイ加工品を装飾品としてではなく、財貨と考えたかった交易的な縄文人の、需要に沿ったものだったからだ。縄文時代の経済活動が、その様な結果を生む段階に至っていた事を示している。

大陸ではその様な需要が生れず、宗教性を帯びた多彩な形状になった事が、海洋民族と農耕民族の、文化や経済活動の違いを示している。

中部山岳地の巨大な縄文集落は、八ヶ岳山麓の黒曜石から矢尻を生産する職人の集落だけではなく、矢尻を矢柄に固定する為の漆を生産する人々の集落もあり、彼らに食料を供給する集団や、黒曜石を弓矢に2次加工していた関東周辺の集落と連絡する、街道の宿場の様な集落もあり、海洋民族の経済活動の実態を示している。

 

2-5 浙江省の玉器文化

2-5-1 河姆渡遺跡

江南の最も古い稲作民族の遺跡として、河姆渡(かぼと)遺跡(70006500年前)が知られ、滑石製と考えられる装飾品が発掘された。

image011 玦状耳飾

image013 管玉

浙江省博物館蔵  国立科学博物館のHPより転写

 

河姆渡遺跡の遺物には石器が少なく、石斧など工具として使われた磨製石器や、装飾品として使われた上記ものも発見されているが、木器や骨器が多く発見されている。

河姆渡文化圏の人々は、太湖周辺から杭州湾北部に分布した、馬家浜文化(ばかほうぶんか)圏の稲作民族と同じ民族の人々だったが、関東部族が湖北省に運び上げていた塩を、海水を煮詰めて製作していたから、一般の稲作民とは生活文化が異なっていたと考えられる。豊かな道具類や、磨製石斧で作成した竪穴住居がその事情を示し、湖北省の荊が製作したと考えられる黒陶も遺物に含まれている事が、この想定の確度を高めている。

黒陶は次第に進化して精緻なものになり、縄文中期には、華北のアワ栽培者の文化だった龍山文化遺跡群の代表的な遺物になり、形状の精緻さを高めると共に極めて薄い卵殻黒陶に至ったが、荊の遺跡である湖北省の屈家嶺遺跡から卵殻黒陶が多量に発掘され、高温を実現する焼成炉も発掘されたから、黒陶は荊が塩と交換する為に製作した商品だったと考える必要がある。

華麗な彩陶が発掘される、仰韶文化圏にも稲作の痕跡があるから、それも荊の作品だった疑いが濃く、逆にアワ栽培者の紅山文化圏の陶器には、その様な高度な技法の痕跡はなく、アワ栽培者が製作した陶器の実態を示しているからだ。

河姆渡文化圏や馬家浜文化圏の稲作者は、縄文人と同様の堅果類の栽培者だったが、縄文人が冷温帯性の堅果類の栽培者だったのに対し、馬家浜文化の稲作民族は暖温帯性の堅果類の栽培者だった。九州縄文人が縄文早期末から暖温帯性の堅果類を栽培し始め、関東様式だった尖底土器を使ったのは、縄文早期に関東部族が浙江省に達し、既にリクルートしていた台湾起源のmt-B4M7c稲作者に加え、浙江省起源のmt-B5+M7b稲作者もリクルートしたが、mt-B4の稲作がmt-B5の稲作より遥かに生産性が高かったので、mt-B5+M7bが関東での生活を諦め、浙江省に気候が近い九州に移住した事による。

関東部族は縄文早期末に湖北省に達し、荊と交流しながら塩を運び上げ始めたから、縄文前期温暖期の仰韶文化圏の姜寨遺跡の墓葬から、沖縄産の宝貝が発掘された事に繋がり、全く異なる二つの事象の時間的な整合性が生まれる。

浙江省には蛇紋岩帯がなかっただけではなく、本来石器を使うべきイネの穂首狩り器や鍬に、動物の骨を使っていた河姆渡遺跡の人々の居住域から、磨製石斧を必要とする高床式の住居址が多数発掘され、滑石製の石製装飾品が発掘されたのは、それらが交易品だった事を示し、彼らの交易材が塩だった事と結び付く。

つまり河姆渡遺跡の人々は、良渚文化人を経て渤海南岸に拡散した製塩者の祖先で、夏王朝の帝になった禹を輩出した越人の祖先で、越同盟を結成した人々の先祖でもあった。

従って河姆渡遺跡に石製装飾品があった事に何の不思議もないが、同時代の北陸部族の製品としては製作技術が稚拙で、素材も世代遅れの滑石である事は、これらの製作者は北陸部族ではなく、北陸部族から技術移転を受けた台湾の海洋民族だった事を示している。

台湾の海洋民族が石材加工技術の移転を受けたのは、石製装飾品を作成する為ではなく、蛇紋岩製の磨製石斧を量産する為だったとの推測には、別の事象との時間的な整合性がある。浙江省の製塩者が、土器に汲んだ海水を煮詰めて塩にする為には、多量の薪が必要であり、その為に樹木を伐採する必要があったからだ。

河姆渡遺跡の人には多量の磨製石斧が必要だったが、関東部族にはそれを量産する技能がなかったから、その需要を満たす為には北陸部族の量産技能が必要であり、台湾で産出する豊富な蛇紋岩を使う事により、それが可能になった。

つまり北陸部族が台湾の海洋民族に石斧の生産技術を移転したのは、関東部族の要請に応じたからだと推測され、その際に石製装飾品の製作技術も教えたから、それらがセットになって浙江省の河姆渡文化圏に流入したが、それは副次的な技能だったから稚拙な作品になったと考えられる。

これらの事象はこの時点まででは、北陸部族と浙江省の製塩者との間に直接的な関係はなく、浙江省に磨製石斧を供給していたのは、台湾の海洋民族だった事を示している。台湾は台湾起源の海洋民族の縄張りだったから、これは海洋民族が共有していた部族主義として、極めて順当な状態だったからだ。

浙江省を起源とする磨製石斧の定形は、日本では生産されなかった有孔石斧だった事も、その直接的な証拠になる。縄文人は石斧を柄に固定する際に漆を使ったが、温暖な台湾では冷温帯性の植生であるウルシは栽培できなかったから、石斧に円孔を開けて柄に固定する必要があったからだ。

関東部族が開発したシベリア向けの弓矢交易に、北陸部族が参入したのが縄文前期の早い時期だったから、南方でも類似した部族協業が生れた事に違和感はない。

 

2-5-2 良渚文化

浙江省の稲作民族の文化は、河姆渡・馬家浜期の後に、上海市内から発掘された崧沢文化(すうたくぶんか)期になり、地域も太湖周辺まで拡大した。黒陶などの形状が進化し、中国的な石斧である有孔石斧も登場し、石製装飾品の形状も進化していた。

温暖期になった縄文前期後半だから、稲作の収穫が増加して人々が豊かになった事を示しているが、それは必ずしも浙江省の稲作民族の成果ではなく、塩の対価として受け取った湖北省のコメも含まれたと考える必要があり、河姆渡文化期のコメについても同様の事情があった。

続く良渚文化期(BC3500年~BC2200年)に玉器が大発展したが、良渚文化期は縄文中期寒冷期だったから、その繁栄には特殊な事情が介在した筈であり、その終末は気候の変化ではなく、揚子江下流域の地盤が沈下して洪水が多発したからだと考えられ、この時代のこの地域の詳細は(10)縄文時代の項で検証する。

浙江省杭州市の良渚で最初の遺跡が発掘されたので、良渚文化の名が冠せられているが、良渚文化圏は太湖を囲む様に揚子江下流域に広く展開し、製塩業者の文化が南シナ海の北岸まで拡大した事を示している。当時は南シナ海が現在の揚子江以北の平野部を覆い、そこに南シナ海が湾入していたからだ。上海~太湖は前回の間氷期に銭塘江が堆積した扇状地で、海進後も台地を形成して稲作民族に稲作地を提供していた。

この文化圏で鑽孔玉器が多数製作されたが、竹に研磨剤を擦り付けて回転させ、円形の孔を鑽孔する手法は、北陸部族の技術が流入した事を示している。

下の写真はその様にして形成された良渚文化期の、玉璧(ぎょくへき;左)と玉琮(ぎょくそう;右と下段)。

 image015  http://www.max.hi-ho.ne.jp/sundaymorning10/102index.files/image093.jpg  

http://abc0120.net/words/images/abc2007093007.jpg

 

2-5-2-1 良著文化の成立過程

良著文化の成立過程を考察する際には、浙江省の稲作民族が縄文中期寒冷期に南下移住した、フィリッピンの事情を併せて確認する必要がある。フィリッピンは氷期の海面が低下時にも孤島であり続け、ジャポニカ種の原生種が存在しない地域だったから、ジャポニカ種を栽培していた浙江省の稲作民族にとって理想的な稲作地だったからであり、縄文前期後半の温暖期が終わり、崧沢文化の稲作者が極度の原種に見舞われると、多数の稲作者が台湾起源の海洋民族の船で、フィリッピンに移住したからだ。

ジャポニカ種には温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカがあり、熱帯ジャポニカには亜種としてジャバニカがある。温帯ジャポニカは湖北省起源の荊の女性だったmt-Fが栽培化し、熱帯ジャポニカは台湾から関東に渡来したmt-B4が栽培化し、ジャバニカは浙江省のmt-B5が栽培化した。湖北省は縄文前期に塩を必要とする程に稲作が進化していた地域であり、ジャバニカは現在フィリッピンやインドネシアで栽培されている耐寒性が最も低い種だから、熱帯ジャポニカを除けばこの分類に異存はないだろう。

熱帯ジャポニカが関東で栽培化された事に対し、通説に毒されている人は驚くかもしれないが、関東縄文人からmt-B4が複数検出されている事がその事情を示し、縄文稲作で熱帯ジャポニカが栽培されていた事が、その渡来時期の古さを示し、弥生温暖期に温帯ジャポニカと共に青森で栽培された耐寒性が、弥生温暖期より温暖だった縄文時代に、同様の気候帯で栽培された実績を示し、それは地理的な稲作適地である北関東だった事を示している。

熱帯ジャポニカが関東で栽培化された事は、各種の歴史的な事情と整合するから、論理化した歴史では確定事実になる。

石器時代の稲作者は生産性が低く、生産性が高い堅果類の栽培者と共生しなければ、栽培者として生存できなかった。堅果類が含むタンニンには毒性があり、土器を使ってアクを抜いても完全には除去できなかったから、堅果類の栽培者だったmt-M7amt-M7bmt-M7cは毒性がないコメも食べる必要があり、両者は共生関係にあった。台湾から関東に渡来した遺伝子はmt-B4+M7c、浙江省の遺伝子はmt-B5+M7bだったが、湖北省のmt-Fは温帯ジャポニカの生産性が高く、共生する堅果類の栽培者はいなかった。日本では北陸部族にmt-Dmt-Gが渡来し、関東部族にmt-B4mt-Fが渡来したので、これらの関係は複雑になった。

現在のフィリッピン人の遺伝子にも歴史的な変遷があり、諸事情を分離して歴史的な経緯を解明する必要があるが、フリッピン人には高い割合でmt-D+M7aが含まれている事に注目する必要がある。これは北陸部族の焼畑農耕者の遺伝子だから、彼女達がフィリッピンに渡った時期を時系列的に分析すると、縄文中期寒冷期である事が判る。

女性達が海を渡る事情は稀にしか発生せず、気候の寒冷化などにより、故郷での栽培が困難になった場合に限定されたから、縄文早期~前期に西日本に拡散した焼畑農耕者の中で、比較的冷涼な気候帯だった山陰や福井のmt-D+M7aが、縄文中期寒冷期に大幅な減収に見舞われ、フィリッピンへの移住を決断したと推測される。北陸部族とその後のフィリッピン人との間に密接な関係が生れ、越同盟が形成された背景事情も、これによって説明できる。

mt-D+M7aの移住は女性達だけの移住だった事を、現在のフィリッピン人にはY-O2b1が含まれていない事が示し、フィリッピン人のmt-DD4/D5比率が日本人の比率と同じである事は、数千人以上の規模の移住があった事を示している。つまり女性達だけが栽培技能者として、フィリッピンに移住した事を示している。これは日本に渡来したmt-Dmt-Gmt-B4mt-Fにも言える事情なので、女性達だけが穀物の栽培技能者として移住する事は、石器時代の一般的な事情だった事が分かる。

これが意味する事は、フィリッピンには先に浙江省の稲作民族が移住し、その稲作が思わしくなかったので、越人の稲作女性だったmt-B5+M7bに、焼畑農耕の技能者だったmt-D+M7aが拡散した事になり、この様なミトコンドリア遺伝子の転換をこのHPでは「浸潤」と呼ぶ。単なる拡散ではなく、優れた栽培者の遺伝子が既存の栽培者の遺伝子に徐々に置き替わり、最終的に多数派が浸潤遺伝子に変わったからだ。これは石器時代の穀物栽培が、母から娘に伝達された技能に依存していた事を示している。単なる栽培技能だけではなく、雑草が生えた地域の適否を見分け、石器だけで栽培地にする技能が極めて高度なものだった事を示している。

mt-M7aが焼畑農耕に必須の技能者だったのは、地力が衰えた農地を森林に戻して再生し、再び伐採する際の樹木に必要な要件として、地力の再生効率が良い樹種であると同時に、樹幹が柔らかく伐採し易い樹種でもある必要があり、その苗木の生産や植樹の技能者だったからだと考えられる。石器時代の伐採効率は、磨製石斧を使っても極めて限定的だったから、その様な配慮が必須事項だった事を示している。

以上の事情を纏めると、縄文前期温暖期が終わると、浙江省から多数の稲作者が台湾の海洋民族の船でフィリッピンに渡ったが、彼らの稲作の生産性が思う様に立ち上がらなかったので、台湾・フリッピンの海洋民族と連携した北陸部族が、寒冷化で生産性が激減した山陰や福井のmt-D+M7aをフィリッピンに送り込み、台湾の海洋民族と連携してフィリッピンでも磨製石斧の量産体制を整え、移住したmt-D+M7aの生産を軌道に乗せた時期に、浙江省に進出して良渚文化圏にも、高度な玉器の生産技術を移転したと考えられ、それが縄文中期前半だったとすると、日本、台湾、フィリッピン、浙江省の事情が整合する。

 

2-5-2―2 良渚文化の評価

翡翠に円形の孔を空ける研磨剤や、微細な形状を掘り出す工具には、加工される材質より硬度が高い素材が求められ、それを作り出す事が真の加工技術だから、それによって得られた適正な工具があれば、誰でも玉器を削る事ができる。しかし削り出す器形には民族文化が反映されるから、彫像者はその文化の体現者でなければならなかった。良渚文化の遺物は稲作民族が製作した筈であり、それが良渚文化の文化遺物である事も間違いないから、加工技術と造形文化の系譜や、特殊な造形を必要とした精神文化の系譜は、別々に議論する必要がある

良渚文化圏になった浙江省やその周辺には、僅かな量の翡翠が採取できる場所があるだけだから、良渚文化圏から発掘された多彩な玉器の素材が、すべてそこから採取されたとは考え難く、製塩業者は既に複数の海洋民族と交易を行っていたから、日本列島の翡翠の原石、台湾の翡翠の原石、フィリッピンのヒスイの原石、遼東の岫岩(しゅうがん)などを使ったと考える必要がある。上掲のドーナツ型の玉璧(ぎょくへき)の素材は、中国では産出しない蛇紋岩の様に見えるから、この様な規格量産品的な形状のものは、台湾や日本で量産された可能性も否定できない。

これらの見解を史学者が必死に否定し続けている理由として、中国に史記を金科玉条とする漢民族至上主義があり、中華の民族主義がそれを支え、共産党が異端の学説を排斥している事が挙げられる。日本にはGHQWGIP政策による、中国人や韓国人の学説批判が禁止された時代があり、アメリカ民主党はその継続を求めている。明治時代から続く日本書紀至上主義が、日本の史学を論理性の欠如した状態に押し留め、史学の高度化に対する恐怖感を史学者に与えている状況も、状況を悪化せる一つの要因になっている。従って史学の漸進的な進歩は難しく、ブレイクスルーを待つしかない状態にある。

 

3、縄文時代の船

3-1 史書が示す縄文人の海洋性

縄文人の交易性や宝貝の貨幣化を支えたのは、日本の漁民の海洋船と航海術だから、その存在が正当に認知されれば、諸問題は自動的に解決する。しかしそれであるが故に、考古学者がそれを否定する態度も極めて頑な状況にある。

沖縄から縄文前期の土器が発掘され、縄文前期の岡山に稲作があった事は、縄文人の海洋性を示しているが、それだけを根拠にして縄文人の海洋性を主張しても、誰も理解できないに程に日本人の歴史観は酷く捻じ曲げられている。しかし古代の漢民族は、倭人が海洋民族だった事を認め、自身には海洋性が皆無だと自白していたから、史書に以下の様に記されている。

漢書は「楽浪海中に倭人有、分かれて百余国を為す。歳時を以って来りて献見すると云う。」「会稽の海外に東鯷人有、分かれて二十余国を為す。歳時を以って来りて献見すると云う。」と記し、倭人の国や東鯷人の島が海の彼方にあり、海洋性がない漢民族にはその位置は分からないが、その島から毎年多数の船が財貨を持参して来るから、身分ある人は彼らと取引していた事を示している。従って大陸から日本列島に取り込んだ文物は、全て倭人が自ら大陸から持ち込んだもので、大陸人が持ち込んだものではなかった。

魏志倭人伝は、東南アジアの島嶼の海洋民族の文化と、海南島の文化は同じであると記した漢書を参照し、「倭人は海南島の人々と文化を共有しているから、邪馬台国は正に会稽の東にある筈だ。」と記している。

後漢書は更に過激に、「その地(倭)は会稽東冶(福建省福州)の東にあり、海南島に近い。故にその法と習俗には、同じものが多い。」「(東鯷人の島である澶洲)は所在が遠だから、(漢民族は)往来することはできない。」と記している。倭人や東鯷人は会稽東冶(福建省福州)に来るが、中国人には航海術がないから、遠くにあるそれらの島に行く事はできない事を示している。

上記の記述から日本文化の起源は、朝鮮半島経由で伝搬した大陸文化ではない事は明らかだが、未だに稲作を含めた大陸文化が、朝鮮半島経由で伝搬したと主張する史学者が後を絶たないのは、韓国の史学者の捏造史に気兼ねしているからで、史学者と名乗る者が、正しい歴史解釈の普及を妨害している事になる。

 

3-2 縄文人の船

福井県の鳥浜貝塚は、三方湖と呼ばれる内陸湖に面し、地殻変動や土砂の堆積が少ないので、1万年以上前の縄文遺跡が発掘可能な状態で保存されている。

現在の地形が当時と同じだったのであれば、1万年前には海岸から10km以上離れた湖畔だったが、縄文海進期(7000年前~)の三方湖は海に接する湖になり、外洋船の退避港としての適地になり、湖岸の集落は海洋民族の居住地になった。縄文中期(BC3500年頃)の遺跡から、どんぐり、くるみなどの堅果の他に、まぐろ、かつお、ぶり、さわら、などの回遊魚の骨が、土壌から見つかっている。これらは岸にはいない大型魚だから、船で沖に出なければ捕獲できない。

鳥浜貝塚から縄文前期の丸木船様の遺物が発掘され、その長さは6.08メートル、最大幅が63センチメートルある。付近の遺跡でも縄文時代の丸木船様の遺物が発掘されたが、丸木船単体では海の波は乗り切れないから、これだけでは海上では使い物にならない。

内陸の湖水を航行する丸木船だったと解釈する考古学者がいるが、小さな内陸湖で漁労を行うのであれば、丸太を組んだ筏で十分だから、その為に精巧な大型の丸木船が必要だったとは考えられないし、底が浅い丸木船では、湖での使い勝手も良くない。

image018

福井県の縄文博物館に展示されている縄文時代の丸木船

 

丸木舟の舷側に板を張れば、海上を航行できる船に仕立てることが出来る。この様な大きな丸木船を竜骨の様に使えば、荒波に耐える強度を確保した、準構造船が作れるからだ。木造の構造船の弱点は、荒波に揉まれた場合の強度不足で、組み合わせた木材に強い波の力が掛かると、構造が毀れて船がバラバラに破壊されてしまう点にある。それを防ぐ為には、船底構造の強度を高める必要があり、西洋式の木造船の船底は、竜骨と呼ばれる構造で形成されている。

image020

上の図は、北欧のロングボートの竜骨。船首から船尾にかけての船底に、強度を高めた構造材が配置されている。

船首と船尾を盛り上げているのは、波を切る為であり、波に乗り上げる為でもあり、小型の海洋船には必須構造になる。

和船は西欧式の船とは異なり、独特の作り方をする。以下はウィキペディア「和船」の抜粋。

船底材に舷側材を棚の形で継ぎ足していく点が、和船全てに共通する特徴である。(但しこの特徴は、ミクロネシアやポリネシアの航海カヌーにも顕著なので、和船独自の特徴とは言えない)。最初期の準構造船の船底材は、単材を刳り抜いたものであるが、後に東北地方に多く見られるムダマハギ構造(単材から複数の船底材を刳り抜いて、はぎ合わせる工法)に進化し、最終的には、はぎ合わせた板材に棚を追加し、船梁で補強する棚板造りへと進化した。

ミクロネシアやポリネシアのオーストロネシア語族民の船と、倭船に共通する特徴があるのは、関東部族の漁民が縄文早期に台湾に達し、台湾にいたオーストロネシア語族民に海洋技術を伝えたからだ。詳しくは(10)縄文時代参照。

福井県の縄文博物館に展示されている、上図の丸木船様のものは、丸木船ではなく船底材だったと想定される。船底材だけが泥に埋もれて保存されたのは、縄文人が船底材に特別の愛着を持ち、遺体を埋葬する様に船底材を埋納したからだと推測される。船底材の重要性を、十分に分かっていたからだろう。

日本の構造船に関する考古学的な資料は、弥生土器の描画や古墳時代の埴輪まで降るが、立派な構造船が造形されている舟形埴輪が発掘されている。この様な船を使って華北の漢民族を華南に移民させ、帰化人を日本列島に運んだと想定され、この様な構造に至るには長い前史があった。

船形横 
 
宝塚1号墳出土の船形埴輪(三重県松坂市 5世紀初頭)

 

この船は船底材に丸木船を使った準構造船ではないから、古墳時代には木材を組み合わせた船底を持つ、複雑な構造船に進化していた事が分かる。

中国でも河川を移動する大型の構造船を作ったが、その船が外洋を航行でたわけではなく、河川の船と海洋船は全くの別物だったから、漢民族は海洋に出る事ができなかった。

北海道の続縄文人やアイヌも、上記の埴輪ほど複雑ではないが、丸木船を船底材とする構造船を使っていた。

 

イタオマチブ⇒

アイヌが使っていた構造船

イタオマチブは釘などの鉄材を一切使わず、ヒモや松脂などにより組み上げられた、棚構造の構造船。

 

札幌市のHPに以下の記述がある

チプ(丸木船)に板を貼り、容積を大きくしたものがイタオマチプです。積丹半島にある5世紀ころの遺跡「フゴッペ洞窟」の壁画に、イタオマチプが描かれていることから、かなり古い時代から、イタオマチプを利用して外洋にでていたことが分かります。アイヌの人々が持つ、イタオマチプという造船技術が、広範囲な交易を可能にしました。必要に応じて、帆として大きなゴザを張ることもできました。

画像:イタオマチプ

イタオマチブの船首↓

舷側板→

 

―――――

丸木船様船底材→

image025

丸木船で外洋に乗り出す事が不可能である以上、縄文人が準構造船や構造船を持っていた事は確実であり、古墳時代には構造船が間違いなく存在していた事を埴輪が示しているが、構造船が考古遺物として遺される事はない。海中の木材はフナクイムシに食い尽くされ、陸上では腐敗して消滅するからだ。泥や淡水に浸かった状態でのみ遺物が残るから、福井県と千葉県から多数の縄文時代の船底材が発掘されたのは、両県の海洋民族に特殊な習俗があったからだと考えられる。また東京湾岸は沈降地殻上にあるから、多数発見できる場所は外房しかない。

その様な状況であるにも拘らず、木造の海洋船の痕跡が発掘されなければ、海洋船はなかった事を前提に、古代史を組み立てるべきだと主張する考古学者が多数いる状態は、考古学者全員の頭がおかしいと言わざるを得ず、その様な考古学者に縄文時代を語る資格はない。

 

史書が示す倭人戻る