論衡

   1、論衡とは

後漢代に王充が著した思想書で、84編の著作と1編の自叙伝がある。多様な事柄の記述の中に歴史事象の引用があり、倭人に関するものも含まれている。王充は若い頃班彪に師事したから、班彪の子である班固と同門・同時代の人になり、班固の著述である漢書が記す倭人と、同じ認識の下で著述したと考えられる。

 

2、論衡に記された倭人

2-1 恢国編(国を広く盛んにする)

「夷である庸と蜀が牧野で戦を補佐し、周の武王が紂を伐った(周が殷を滅ぼした)。(武王の子)成王の時、越常が雉を献じ、倭人が暢を貢いだ。(しかし)幽王、厲王の時代に周は衰微し、戎や狄(などの異民族)が周を攻めたので、平王(東周の初代王)は東に走って其の難を避け(春秋時代が始まった)。漢に至ると、四夷(四方の異民族)が朝貢したが、孝平(皇帝)の元始元年で(前漢は)途絶えた。」

王朝が興ってその勢力が盛んになっても、やがて王朝は衰亡して滅んでしまった事を、周と前漢を引き合いに出して説明している。

周王朝の開祖である武王が、牧野の会戦で殷王朝最後の紂王を破った際に、夏王朝に帰属していた民族集団が武王に加勢した。周は彼らの加勢によって殷を倒す事ができたが、周王朝が成立すると夏王朝と敵対する関係になり、この時期に夏王朝は存在しなかった様に正史を書き換えたが、周王朝の正史の抜粋である竹書紀年は、その民族集団として庸、蜀、羗、髳、微、盧、彭、濮を挙げている。

史記は庸、蜀、羌、髳、微、纑、彭、濮人を挙げているが、その前に司徒、司馬、司空,亞旅、師氏,千夫長、百夫長,及びと記し、重要性が低い加勢であったかの様に印象付けている。

論衡はその筆頭の庸と蜀を代表の様に記し、史記も言及しなかった表現として、庸と蜀は夷であるとしている。稲作民はではなく、漢王朝を樹立した淮夷などの、アワを栽培する栽培系狩猟民族が夷だったから、史記が曖昧にしていた庸と蜀などの稲作民集団を、論衡は夷であると捏造した事になる。

史記の記述がどの様に批判されたのか、この文章が示唆している。史記は周が直属の大軍を擁していた様に記しているが、それは嘘ではないかと指摘されたから、それを認めざるを得なくなって庸と蜀は夷であるとし、軍の主力だった庸と蜀は漢王朝の祖先である、淮夷と同系譜の民族だったと開き直った事になるからだ。

漢書地理志には殷周革命とそれに続く周初の記述は乏しく、漢書地理志では弥縫できなかった史記の捏造を、論衡が代わりに行った事を示している。

「越常が雉を献じ、倭人が暢を貢いだ」との記述は、「成王の代になって周が盛んになると、多数の国が周に朝貢し、遠い大国である越常倭人までが朝貢する程だった。」と言いたかった事を示し、竹書紀年が示す夏王朝の隠蔽路線を、積極的に採用した事を示唆している。

成王はBC11世紀の周の王で、通説では越常は福建省から越南(ベトナム)の間の、粤系海洋交易集団だったと想定されているが、歴史を論理的に解析すると越常は、越同盟に参加していた北陸部族を指したと考えられる。雉は冷温帯域から亜寒帯域の鳥で、日本の雉は縄文時代に日本に持ち込まれたから、現在は日本独自の種に進化して「キジ」と呼ばれ、原生種だった「高麗キジ」とは別種であると認識されている。

その様な鳥を、暖温帯地域や亜熱帯地域の民族が献上する筈はなく、弓の使用に習熟していなかった周の人々に、北陸部族が雉を献上したのであれば合理性があるから、この文章は事実認定する事ができる。

西安を都とする華北王朝の周に、1万里も遠方の倭人越常が貢物を持参し、祝意を示した事を以て、周王朝の最盛時の盛んな様子を表現した。

この文章を、「縁起物の雉や暢を喫してもその功がなく、周は滅んだ」と解釈する人がいるが、それでは漢に至ると四夷(四方の異民族)が朝貢した事との対句にならず、文意に合わないから、越常倭人を貶めたい人達が為にしている解釈に見える。

前漢末に王莽が権力を得た時期に、越常ではなく越裳が白雉を献上した事が、漢書王莽伝に記されている。王莽伝では白雉を献上した事由の解釈として、「白雉が送られてきたという瑞祥は、周の成王と同じなのだ」と記している。つまりを献上される事が瑞祥で、その様な帝には徳があると解釈しているが、この白雉はフィリッピンを拠点としていた越裳が、王莽に派遣する使者の通訳を越常に依頼したが、越常は単なる通訳ではなく王莽に面会する為の段取りも準備したから、その際に白雉を献上したと解釈される。

倭人が貢いだ暢については、異虛編「暢草は熾釀すれば芬香を暢達する者」と記されている。「熾」は炭などの火が盛んに燃えること、「芬香」は良い香り、「暢達」はのびのびしているさまを表すから、暢草は酒を醸して飲む際に、香りを付ける香草だったと解釈され、これも事実認定することができる。

 

2-2 儒増編 (増は、大袈裟な言葉、信憑性がない過激表現)

「周の時天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草(ちょうそう)を貢ぐ。白雉を食べ鬯草を服しても、凶を除く事はできない。金の鼎の器は、姦(よこしまな心)を避けるわけではない。・・・・・(用いて)益があった者はその様に言うが、九鼎にその様な能力はなく、その様に書いている書は大袈裟なのだ。」

上記の恢国編の文章を「縁起物の雉や暢を喫してもその功がなく、周は滅んだ」と解釈するのは、この編の話しとの混同になる。この文は「白雉鬯草には凶を除く効能があると言われているから、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢いだが、それらには大袈裟に言うほどの効能はない。金の鼎を使って儀式を厳かに進行しても、人々の邪心がなくなるわけではなく、誰かが効能があったと云うと大袈裟に書物に記されるが、その様な大袈裟な事実はないのだ。」と、中国的な誇張表現を揶揄する文になる。

この様な批判的な意見を述べ、論点を読者に納得させる為には、ある程度効能があると思われている事柄の引用でなければ、文章として成立しない。従って漢代には白雉鬯草に効能があるとの認識があり、それらを越裳倭人が貢納していた事も、良く知られている背景があったと想定される。

越裳が白雉を献じた事は、論衡が記された後漢代とほぼ同時代の事を記した、王莽伝に仰々しく記されているから、越裳は周初から白雉も献じる国だった事になる。それと併記した漢代の倭人も、同様に鬯草を持ち込んでいたから、王充はそれらを並べて採り上げた事になる。両迷信が周代に限った習俗で、漢代に廃れていたのであれば、説得力が弱く論旨が成り立たないから、倭が鬯草を持ち込む事も遥か昔から行われ、皆がそれを知っていたと考えられる。

は何だったのか論衡には記載がないが、漢代に成立した説文解字に、秬(くろきび)を以て𩰪艸を釀す。芬芳を攸服して以て神を降す。𩰪は芳艸也。十枚の葉が貫き、百二十貫を築いて之を煮て、𩰪と為す𩰪鬯と言われるものは百艸の華で、遠方の𩰪人が貢ぐ芳艸で、合せて釀せば以て神を降す。𩰪は今の𩰪林郡であると記されている。

康熙字典に、「鬯」字は酒の一種で、秬(黒黍)で醸造した酒に香草の鬱金を混ぜた香酒を指す。古代中国の祭祀において、神を降ろすのに用いられた。この酒を「秬鬯」「鬱鬯」「鬱鬯酒」などともいう。また「鬯草」といい、「鬯」字は鬱金の別名としても用いられると記され、説文解字を注釈しているが、「鬯」字は鬱金(うこん)の別名にとの解釈には疑念がある。

梁書諸夷伝中天竺伝に、鬱金は罽賓国(ケイヒン国)だけが出産すると記されているからだ。罽賓国はパミール高原の南の、亜熱帯地域にあった国だと考えられている。ウコンは根を使うから、葉の付いた状態で中国に持ち込んだとは考え難く、𩰪と鬱金は別のものだった可能性が高いが、別の解釈も可能になる。ウコンは沖縄でも栽培され、琉球王朝と明の15世紀の交易品リストに載っているからだ。

沖縄で栽培されているウコンは、南アジアのウコンとは品種が違うらしいが、栽培起源ははっきりしない。広東の内陸にあった鬱林でも鬱金が生産できたとの指摘があるが、鬱林は明の領域内だったから、海禁政策を採用していた明が敢えて沖縄から購入する必要はなかった。

以上の結論としては、倭人が周王朝に持ち込んだ或いはは、罽賓国(ケイヒン国)だけが出産すると記されている鬱金(ウコン)だったが、沖縄産だった可能性が高い。

倭人の祖先だった関東部族が、縄文早期に台湾の民族に海洋漁労の技能を伝え、彼らが海洋民族化してインド洋の交易者になったが、縄文時代の南方系の海洋民族の主要な交易品は、有用な植生の栽培技術やその種子だったから、縄文前期温暖期に鬱金が沖縄に移植され、耐寒性が高まって沖縄の栽培種になり、独自の品種になった可能性が高いからだ。

縄文早期の雷下遺跡から発掘された丸木船は、フィリッピンが原産地だったと考えられるムクノキで作られていたから、植生が重要な交易品だった事を示している。また台湾起源の海洋民族は、縄文前期には南太平洋の島嶼に進出していたから、インド洋沿岸を経て紅海まで達していた可能性が高く、当時のパキスタンの南半分は海だったから、台湾起源の海洋民族は罽賓国(ケイヒン国)の領域に進出できる環境にあった。また台湾起源の海洋民族は、その領域にあったインダス文明圏の人々との密接な交流があった事を、(10)縄文時代の項で検証する。

上掲の2つの文は共に、越常越裳には「献」を使い、倭人には「貢」を使い分けている。献には一度限りの単発性や不定期性があり、「貢」には臣従関係的なニュアンスがあるから、倭人は周王朝に定期的に出向いていたと想定され、周王朝の都だった地域から、倭人が持ち込んだと考えられる宝貝貨が、多量に発掘される事と整合する。

それをと表現する事は、面子を重視する中国政権の表現として当然だが、倭人の側には周が上位者だとの認識はなかったと推測され、山海経に「倭は燕に属す」と記された事情と類似する。越常・越裳も周を権威付ける為の見解であって、越常・越裳から見れば下賜だった可能性もある。いずれにしても後漢代の王充がこれらの表現を使った事は、このフレーズが人々に記憶されていた事を示唆し、夏王朝に敵対していた周王朝を頂点とし、純粋な農耕民族化していた人々の認識が、どの様なものだったのかを示唆している。

前漢代の倭人は漢王朝に朝貢しなかったから、漢書は「歳時を以って来りて献見すると云う。」と表現した。渭水の流域にあった漢の都長安は、渤海湾から遠い内陸にあったから、漢代の倭人は長安には行く事ができなかったと考える向きもあるかもしれないが、論衡は周代(BC1046年頃~BC771年)の倭人が、同じ西安市内の鎬京(こうけい)に出向いた事を示している。その近傍の庶民の墓から、多量の宝貝貨が発掘される事もそれを示している。

倭人は漢代に長安に行く事ができなかったのではなく、行く気がなかったと考得る必要があり、漢書王莽伝の「東夷王は大海を度って国珍を奉じた」との記事は、倭国王が自ら出向いたと解釈する事ができる。

周代は鉄器時代の初期であり、漢代はある程度成熟した鉄器時代だったから、船の性能も向上していた。後漢代の倭国王が諸王の艦隊を率い、洛陽(洛邑)に出向いた事がそれを示している。

以上は文意の解釈だが、冒頭の「周の時天下太平」のフレーズに、この文を記した著者の真意が込められている事に、着目する必要がある。

成立後間もない周王朝が、幼い成王の即位直後の殷人の大規模反乱に懲り、華北から殷人を追放し始めたから、周代の華北では殷人と周の抗争が繰り広げられ、その結果華北の民族が殷人から漢族に代わったのであり、それが完了するまでに少なくとも数百年を要したから、最後の仕上げとして燕が遼西から、殷人の子孫だった扶余を追放したと考える必要がある。鉅燕の成立は殷人の反乱から、600年以上も後の事になるからだ。

つまり「周の時天下太平」に続く文章は、このフレーズを読者に受け入れさせる為の、付加的なものだったと考えられ、論衡は漢書地理志以上に、史記の歴史捏造の綻びを糊塗する為に創作された書籍だった事を示している。

継続的な黄河文明を創作する為には、この様な民族浄化があった事は隠す必要があり、追放されたのは漢王朝の祖先である淮夷と同族の、華北の殷人だったから、それは露見してはならない不都合な事実だったからだ。

竹書紀年は殷人の反乱の首謀者は、淮夷だった事を示している。

 

2-3 酒に香りを付ける手法

酒に香草の香りを付ける事は、夏王朝期の二里頭遺跡でも行なわれていた。それに用いた酒器が、殷商王朝の前期の都だった二里岡遺跡や、殷墟でも発掘されているから、夏王朝期~周時代の貴人は飲酒を伴う儀式や儀礼を盛んに行なっていた事と、貴人が飲む酒には香草で香りを付けていた事を示している。

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←西周時代の盉(か)

酒を他の酒や香料、水などと混ぜ合わせる撹拌器(かくはんき)で、盃に注ぐ機能もあったと考えられている。

 

写真は考古用語辞典より転写

←青銅器の爵(しゃく) 商代(二里岡遺跡)

BC1615世紀 鄭州博物館)

酒を入れて温め、盃に注ぐ道具

 

倭人はの交易だけを目的に、遠く離れた周の都に定期的に出向いたのではなく、重要な商品として宝貝貨があったが、その交易が伏せられてが特記されている。王充と班固にそれを明らかにする意思はなかったが、宝貝貨は夏王朝の法規を基に流通していたから、夏王朝と敵対した周の正史にも、宝貝貨の事は記されていなかった可能性が高い。しかしそれでも、倭人がを持参していた事は良く知られ、周の正史にも記されていたから、論衡に採用したと推測される。

 

3 西周代の中国

ファイル:China map0420.gif

  ウィキベディア 周から転写 

当時の渤海は現在の何倍も広く、東シナ海もの付近まで広がっていた。

上図は山東半島が、莱夷の地と呼ばれる未開の地だった事を示しているが、山海経の項で説明した様に周代の山東半島は、黄河が形成したデルタによって大陸と繋がり、アワの原生種であるエノコログサが大陸から拡散して繁茂し始め、アサが栽培できない地域になった事を示している。上図で「夷」と記された琅邪は、春秋時代に於越の都になったが、周代には無人地域だった。その様な琅邪をとしたのは、史記の捏造史の影響であると考えられる。

ウィキペディアが示す地図は史記の記述に基づいているので、竹書紀年の記述と比較しながらこの地図を検証する。

洛陽はアワの栽培地で、湖北省の庸は稲作地だったと考えられるので、稲作地の北限とアワの栽培地の南限が示されているが、洛陽は山東半島より南にあるから、先ずその事情を検証する必要がある。

アワの栽培地の南限はエノコログサの北限でもあり、沿海部でのその北限は内陸より高緯度地域だった事になる。その理由として、内陸は標高が高い地域だから、それによる冷涼化がエノコログサの北限を、低緯度地域に留めた事は間違いない。洛陽市の標高は150mだから、同緯度の沿海部より1℃低温である事になる。

黄河下流域の気温は、揚子江下流域より34℃低温であると考えられるので、原因の半分はそれで説明できる。

その他の事情として、盆地の周囲には更に標高が高い山があり、エノコログサはその山地を越えて北に拡散する必要があったから、沿海部と内陸での違いは、盆地の標高以上の要因があったと考える必要がある。また比較的湿潤な沿海部と乾燥した内陸では、他の雑草の種類に違いがあり、それぞれが群生の淘汰に影響したから、沿海部ではエノコログサが、高緯度地域まで北上し易い環境だった可能性もある。従って沿海部でのエノコログサの北限は渤海南岸で、内陸部では湖北盆地と楽浪盆地の間だったと考える事に妥当性はある。

三国志演技の愛読者には違和感があるかもしれないが、漢代に鉄器時代になって栽培の生産性が高まり、人の移動や栽培種の転換が始まって、アワ、大麦、コメの混合栽培も可能になったから、春秋戦国時代の様に栽培種が民族によって固定し、青銅器の農具しかなかった故に、栽培適地で栽培していた時代とは事情が異なっていた。

劉邦の出身地だった徐が淮夷の地だった事が判るが、この地域は縄文中期まで東シナ海の多島海で、山東山塊から流れ出る川によって低湿地に浮かぶ島の様な状態になったから、大陸からのエノコログサの拡散は山東山塊経由だった。従ってアワが栽培できなくなったのは、弥生温暖期になってからである可能性がある。

青銅器時代までの女性達は、自分が母から伝授された栽培種に拘りがあり、他の女性達の栽培種を取り込む事に消極的だったが、殷人のミトコンドリア遺伝子だったmt-Dには例外的にその拘りがなく、他の女性の栽培種を取り入れる事に積極的だったから、淮夷も弥生温暖期にコメや大麦の栽培を取り入れ、栽培種を転換していた可能性が高いが、先祖代々栽培していた女性達と比較すると、栽培技能は劣ったから、貧しい栽培者だった事は間違いない。

竹書紀年は西周代の有力諸侯として、燕、魯、斉、晋、衛、宋、杞、陳、曹、虢などを挙げているから、大麦の栽培者だったを除くこれらの諸侯の占有地域が、アワの栽培地にあったのであれば問題はないが、上記の地図上の祭、陳、宋、極、向、夷、、曹の位置には疑念があり、宋や魯も大麦栽培者の政権だったのであれば、この問題から除外される。

寒冷期だった西周代には、主要な稲作民族は揚子江以南に南下していたから、淮河流域は稲作者が北上できない地域であり、アワ栽培者が南下できない地域として、無人の森林地帯になっていたと考えられる。

 

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