山海経

漢代に編纂した、秦が中華を征服する以前の伝承集で、中国最古の地理書として、山や川の名前と共に鉱物と妖怪を紹介している。倭に関する記述があるので、その真偽を確認する。

1 山海経の構成

東西南北に分けた四つの山経と中山経の五経が、山海経の中核的な経で、その他に東西南北に分けた海内経、海外経、大荒経があり、方位がない海内経一編と併せて18経で構成されている。「経」に宗教的な意味はなく、「山と海について記された書」を意味する。

5つの山経は、漢民族の中核的な地域だった内陸の山の名と位置、そこに産する鉱物、流れる川の名が記され、そこにいる妖怪を記しているが、集落や政権の名がないので、現在の地名との相関が分からない。春秋戦国時代の内陸の農民は、奥深い山林に鉱物資源があり、それと共に妖怪がいると考え、この様な認識になったと推察される。

領有した政権名が記載されていないのは、政権は田畑を領有したが山や川を領土と見做していなかったか、領有者の変遷が激しく、記述が複雑になる事を避けたからかもしれないが、地名が明らかになると漢王朝の捏造史と整合しない事情が多発し、編纂時に削除された疑いが濃い。

山経が示す地域が漢民族の認知範囲を示したとすると、海洋民族と比較した方位観はかなり未熟だった事になる。

南山経では東に向って話を進めているが、文脈の早い時期に会稽山が登場し、途中に区呉、鹿呉、漆呉などの揚子江下流域らしい地名があり、そこの川は南流して海に注ぐと記している。しかし文脈の終りに近くなると、南流して渤海に注ぐ川が登場するから、著者は東シナ海沿岸を北上する事を東に進むとし、東に流れる川を南流すると認識していた事になる。

東シナ海沿岸は内陸から見れば東にあるが、淮河の支流は南流するものが多いから、東シナ海沿岸の川は東流しているにも拘わらず、淮河の支流の様に南流していると認識ながら、南山経を記述した疑いがある。東に移動してその山(陸地)に達した事実と、話題が北上過程である事が混乱したとしても、何故それが南山経に記されているのか理解に苦しむ。

北山経には黄河や汾水が頻出し、西山経には渭と黄河が頻出するから、大まかな東西南北の意識はあった様に見えるが、渭から西に進んで黄河に至る認識は理解に苦しむ。東山経に「水行」「天下大水(巨大湖)」「多水(川が多い)」と記されているが、山東周辺を含む沿海部は現在とは異なり、沖積平野が形成される途上の低湿地だったとすれば理解できない話ではないが、当時の漢民族の方位認識は杜撰なものだった事を、漢書地理志も示しているから、それが大陸民族の認識だったと考えざるを得ない。

漢書地理志は戦国時代の政権の位置を、28宿の方位で記述しているが、記された方位と実際の地理観は酷く乖離している。その詳細は(16)法則的に解釈出来る事象と難解な推理/(F 漢書地理志、後漢書、魏志倭人伝に記された倭の位置参照。

漢書の著者である班固は頭脳明晰な人だっただろうが、彼が集めた資料が実態と乖離していれば、班固には如何ともし難い状態だった。魏志倭人伝に邪馬台国への旅程が記され、この方位観も酷く狂っているのは、倭人が魏の使者を欺いたからではあるが、易々と倭人に騙されて自分が実際に踏破した邪馬台国が、揚子江より南になってしまう地理観に疑問を持たなかった事実は、魏の使者も緯度や方位に関する認識が薄弱だった事を示している。

騙した倭人も漢民族の天文知識をある程度知っていたから、この様に大胆に騙す事ができたと考えられる。後漢に朝貢した奴国の使者が、奴国は備讃地域より緯度が0.5度違うから、「奴国は倭の最南端にある」と言った事と比較すると、海洋民族と内陸の農耕民族の、地理や天文に関する知識は相当乖離していた事が明らかになる。

しかし魏志東夷伝は、「高句麗の都(集安)は、遼東(瀋陽)の東千里」と正しい地理観や方位を示しているから、軍事に関しては正しい方位観を持っていた事を示している。しかしそれは軍事に限られ、高級官僚も含めた民衆の地理観の実態を、上記の事実が示している。

軍事訓練された者が正しい方位観を持っていたのは、軍事技術上必須の技能だったからだ。馴染みがなく地名が明らかではない地域で軍事活動を行う場合、敵と味方の移動から合流地点や戦闘場所を予測するとか、斥候が敵の位置を認識して軍団の指揮者に報告する場合、東西南北の方位観がなければ敵の所在が曖昧になり、それに対する布陣もできないから、方位観は軍人には必須の能力だった。

しかし内陸の民衆が小径を経て遠距離移動する場合、山や川などの目視に頼って進む方向を決めたから、東西南北という抽象的な概念を認識する必要はなかったと推測される。山間の人々に方位観がなかったとしても、必ずしも知能としての認知力が低かったとは言えないが、高次の認識力に影響した事は否めない。史書の記述で、郡の領域と郡衙を同じ言葉で表現した事も、その事情と整合する。

海洋民族が島伝いに航行する場合、島を背面にして特定方位に向かい、かなり漕ぎ進んでから漸く目的地の島が見える場合も頻出したから、その場合の進路は方位観で決めるしかなく、方位観は必須のものとして発達しただろう。夜間に航行する場合には北斗七生の位置が重要になり、概略の方位はそれによって分かるから、その場合の進路にも東西南北の概念は必須だった。

海洋民族にとっての自然界では些細な見落としが命に係わる事が多く、漁獲の多寡は正確な情報共有に依存するから、嘘を嫌って真実の探求に熱心にならざるを得なかった筈であり、その様な環境で天文知識が発達し、それらを応用する事によって島を何日も見ない航海も可能になったから、海と空しかない世界に住む海洋民族にとっては、抽象的な方位観や天文知識は必須だった。従って大陸民族に抽象概念である東西南北の認識を教えたのは、海洋民族だった事は間違いない。

魏志倭人伝に記された倭人の島の観察記録は、極めて高級な認知を背景にしているから、天文知識の貧弱な知識と比較する文化的な乖離に驚くが、王朝文化は農民文化であり、その官僚は民族の動静や人の事績に特に敏感な文化人だったと認識すれば、当時の実態を理解できるだろう。

天水で雑穀を栽培していた漢族は、知恵で収穫を増やす機会に乏しく、農地の形成に労力を要しない耕作事情は、農地の耕作権を確保する為の、根拠の確認が難しかった。しかし農地の確保が死活問題になると、人間関係によってそれを保証する途を選ばざるを得なかったから、その為の言語能力は必須能力になった。

但しそれに必要な要素は協調して真実を求めたり、生産性を向上したりする為のものではなく、農地を確保する為の権利を主張し、相手を言い負かす能力を高める為のものだった。山野を野焼して種を蒔くだけの畑作では、栽培地を形成した実績も乏しく、数年栽培して土地の生産性が劣化すると、他所に栽培地を求める必要があったからだ。

稲作者の事情は上記と異なり、老子道徳教の高度な哲学性は、論語より高度な思想で独自性も高い。老子を輩出した荊は、海洋民族だった関東部族との付き合いが長かった上に、栽培していた温帯ジャポニカの耐寒性を高める必要があり、その為に太陽暦を使って播種時期を特定する必要もあり、荊の天文知識と東西南北の概念は、山海経に示されるものより高度だった可能性が高い。

従って山海経が示す曖昧で不正確な方位認識は、江蘇省や安徽省でイネや雑穀を栽培していた、殷人と同系譜のアワ栽培民族だった、淮夷のものだった疑いが濃く、山海経や漢書地理志は彼らの為の書籍だった事を示唆している。

既に指摘した様に、漢王朝の歴史書籍に対する姿勢は、歴史認識の独占であり、その認識は勝手に捏造したものだから、既存の書籍の殆どは焚書の対象になり、その様な漢王朝期に民間の知識を集積した書籍が生れたとすれば、それは漢王朝にとって都合の良いものだけを選定し、都合の悪いものは廃棄する選択が為されていた事は間違いない。

これらの想定を敷衍すると、史記や漢書は漢王朝や後漢王朝の官僚に配布し、稲作民や漢族の子孫の抗弁に反論する為の、内部資料として編纂された書籍だったと推測される。それを稲作民族に見せてしまえば、彼らが有効な反論を考案する為の、資料を与えてしまう事になったからだ。

竹書紀年は周王朝系の高級官僚の教材であり、世間に流布させる為のものではなかったから、それと類似した書籍ではあったが、竹書紀年の様に核心的な事績を暗記させ、それを講師が解説する書籍にはなり得なかったから、漢代の書籍は物語の全文を掲載し官僚に読ませ、個別に臨機応変に対応させるものになったとすると、歴史事象や諸事情と整合する。

それらの書籍が世間に拡散したのは、王朝が衰微すると多くの官僚家系が救貧化し、生活物資を得る為の換金材にしたからであるとすれば、それも歴史事象や諸事情と整合する。従って邪馬台国を訪れた魏の官吏が、侏儒国、裸国、黒歯国などについて尋ねたのは、前漢末~後漢初頭の混乱時や、後漢末~魏代の漢王朝の没落期に、その様な書籍が多数放出されたから、新政権で権力を得て富裕になった者がそれを入手し、その真偽を確認したのではなかろうか。

この確からしい想定から更に推測される事は、最も古いと考えられている五つの山経が、春秋時代末期~漢王朝成立期の淮夷の認識で、王朝を成立させた淮夷が海外に関する知識を民間から集めたものが、海外経、海内経、大荒経であり、それらの認識の脈絡が欠如しているのは、雑多な知識の集積だったからであると共に、漢王朝にとって不都合な事実が脱落している事になる。

それを更に敷衍させると、海内四経(東西南北経)は、山経が示す当時の中核的な支那大陸の外縁に位置し、大陸内ではあるが大陸民族の直接的な認知が及ばない沿海部や西の砂漠地域で、大陸の縁辺にある沿海部は海洋民が支配し、アワ栽培者から見れば交流が乏しい異民族の地域だったから、山経の様な意味不明の猥雑さもあるが、方位観を持った海洋民族から伝達されたらしい、理性的な方位観を含む記述である事になる。

それが確認できれば、マーケティング手法では一連の事象を論理化できる有力な証拠になるが、慣れない人には分かり難いから以下に簡単に説明する。

マーケティングや工学に求められる結論には高い確度が必要だが、検討対象のフィールドは広く、初期的に分かっている理論体系は貧弱で、科学の様に確実な理論を積み上げる事はできないから、代替的な手法として多数の仮説を生み出し、個々の仮説の確度を確かめる為に2次仮説や3次仮説を派生させ、それらを検証しながら確度を高め、確度の高いものから更に仮説を発生させる。その後確からしい仮説を集めて疑似論理化し、それを分かっている事象を突き合わせながら、徐々に確度が高い疑似理論に変え、包括的な事象を説明できる理論体系が生れると、確度が高い予測が可能になる。

上記はその一つの作業になる。

倭人に関する記述はこのカテゴリーに属し、信憑性がある地理認識の断片だったと考えられるが、海洋民族がアワ栽培者に伝えた地理観が、現在の地理観に照らして正しいか否かは別の議論になり、(1)魏志倭人伝に示した確からしい仮説を援用する必要がある。

また海外四経は、海内の更に外の四囲認識に関する説明に見えるから、支那の完全な外界についての知見を、海洋民族から集めたものであると推測されるが、それが怪異に満ちた話である事は、それらは海洋民族の怪異説話だった事になり、それらが山経以上に妖怪や怪物に満ちた世界である事は、この世は妖怪や怪異に満ちているという情報の発信者は海洋民族で、内陸の農民はその受容者だった事を示している。

先進的な文明を持っていた海洋交易民族が、妖怪や怪異の話を沢山持っていたのは、それが彼らの文明要素だったからだと考えられる。文明が健全に発展する為に妖怪や怪異が必要だった事情は、現在でもその文化の残渣を豊富に持っている日本人であれば、直感的に理解できるだろう。

その様な文化が生まれたのは、旧石器時代の様な古い時代ではなかったと考えられる。石器時代の人は日々自然の驚異と格闘しながら、自然界から僅かな食料を得て生活していたから、妖怪や怪物を創造してタブーを作り、自分の行動を制限する、生存競争に不利に働く行為に関心があった筈はないからだ。

つまり時代が遡る程人々は因果関係を理性的に認識し、それを妨げる呉認識を排除した者が生き残る、生存競争が厳しい時代の人々だったから、妖怪や怪異の認識が生まれたのはそれ程古い時代ではなく、多分鉄器時代になって、猛獣の災禍や自然の驚異から免れ易くなった人々が、怖れる対象を失って自大になり、社会秩序の維持に支障をきたす様になったから、その様な人々に妖怪や怪異に対する怖れを植え付け、何かを恐れながら生活をする人に改造する事が、社会の秩序維持に役立つとの認識が生れ、原初的な怪異説話が創作されたのではなかろうか。

例えばそれが若者の無謀な冒険心を抑える為だったとすれば、無謀な遠洋航海を思い留めさせる為には、危険な事象をあれこれ説明するより、未知の海には魔物が住んでいると言った方が説得しやすかっただろうし、初めての島や大陸の沿岸に上陸した際にも、安易な探検を思い留めさせる為に、魔物が住んでいるかもしれないと説得する方が効果的だっただろう。

活動範囲が広く、未知の世界を濃厚に含む海洋民族が、その発生の起源だった可能性が高い事も、この様な想定から容易に類推でき、それの効果が確認されると、その様な話法が生活圏にも及んだ事も、容易に連想できるからだ。

その拡大過程を現代的な例えから推測すると、小学生が他者に道徳的な同調を求める際に、先生に言い付ける事を多用する者がいるが、それは怖れを誘起させる先生の存在を介し、道徳を持ち込む行為である事を指摘できる。先生が社会秩序をもたらす程に強力な存在でなければ、他に手段を求めるしかないが、それがこの時代の山の神や妖怪だったとすれば、それらの妖怪は恐ろしさを備えている必要があった。山海経に登場する妖怪はその資質を十分備えているから、上記の推測の背景になる。

現在の妖怪が概して人に優しく、時には人を助ける存在であるのは、人々が秩序の形成に新しい手法を導入し、それに成功したたからだと推測され、縄文人がそれをどの様に活用したのかについては、(10)縄文時代参照。その結論を端的に言えば、陸上の生活者だった縄文人は、社会秩序を破壊して他者から非難される事を畏れ、妖怪がなくても社会秩序を制度的に保つ手法を開発したが、それが極めて効果的だったから、現代日本人も絶対神を必要としない民族になったと考えられる。

2500年前の東アジアの海洋漁民は、陸上の生活者だった縄文人とは別の秩序観を持ち、両者の文化は融合段階にあったと考えられる。

怖れに対するストレスを共有する海洋漁民の文化は、人々の団結心を高めて社会的な道徳規範を尊重する力を生むから、それを看取した古代漁民が妖怪や怪異を発明したと想定され、一旦それが発明されるとその効力を失う時期は、文明が次の高次元に至ってからである事は、小泉八雲の怪談や遠野物語から理解できるだろう。

倭人や東南アジアの海洋民族が怪異を畏れる文化を共有したが、海洋民族と無縁だったアワ栽培者にはこの習俗がなかった事を、史記の徐福の項で指摘したが、それを改めて説明すると以下になる。

始皇帝が己を顕彰する碑に、「(海洋・稲作民系の帝は)鬼神に威を仮りて遠方を欺いた」と記したのは、海洋民族と稲作民が共有していたこの様な文化を、指弾する為だったと想定される。周や秦は法治文化を高めて人民を厳しく統治し、それによって社会秩序を確立する事により、中華を征服する経済力と武力を得たから、恐れる対象は鬼神ではなく、秦王や官僚である必要があったと推測され、その為に残虐な刑罰や儀式が発達したとすれば、それは現代にも繋がる思潮の根拠を示してもいる。

従って海洋民族的な文化が波及しなかった奥深い内陸では、この様な発想が元々強かった可能性が指摘出るし、法治主義にはその様な側面があった事も理解できるだろう。隋書が示す越系文化圏の倭国の特徴とし、拷問による自白の話が出てくる事がその事情を示している。

秦は法治によって従順な農民を育成し、秩序を高度化して農業生産性を高め、軍備を整えて中華社会を征服したと見る事ができるし、始皇帝の中華社会の征服は法治主義の勝利だったから、それによって始皇帝は人々を鬼神の畏れから解放した積りになり、意気軒高になってこの様な意思表示に至ったと推測される。

しかし恐れを知らない皇帝や役人は、やがて止めどもなく横暴になり、畏れを知らない人民も生み出し、秦末の混乱を悲惨な状態にしたとも言えるだろう。

漢王朝の統治下で、沿海部の人々の恐れる文化が完全に消滅し、海洋民族の統治時代より社会秩序が乱れたから、その様な危うい民情が生れた理由を求めた漢代の人が、春秋戦国時代の温和な社会を回顧し、鬼神は秩序の根源だったと推察したから、それに関する伝承を山海経として纏めたのかもしれないが、漢王朝そのものが社会を混乱させる元凶だったから、現代人がSF的な文学作品を読む程度の効果しかなかった筈だが、漢王朝の官僚がその様な逸話を知っている事が、先祖伝承を伝えていた稲作民族に何らかの安堵感を与え、王朝官僚と民衆の間の緊張感を緩和する効果は期待できただろう。漢王朝が積極的に逸話を蒐集した肯定的な動機は、その程度しか思い付かない。

しかし史記を創作編纂するにあたり、民衆伝承を熟知している必要があった事は間違いなく、資料としてそれを集めた事には疑念も生まれないが、山海経の成立やその後の進化に関し、単一の動機に収斂させる必要はない。

山海経は見るからに不条理な書籍であるが、それであってもと言うべきか、それだからこそと言うべきなのか分からないが、それを伝える事に意味があると考えた人が漢代に多数いたから、纏められて伝承した事は間違いないからだ。多くの史書が失われた中でもこれが残った事に、漢民族化した人々の感性を窺う事もできる。

戦乱に明け暮れた春秋戦国時代が、温和な秩序が維持された時代で、平和な漢代の方が民情は殺伐としていた事が上記の前提になり、史記が示す歴史とは整合しないが、地域共同体の在り様が漢代に劣化し、それが止めどもなく進行した可能性が高く、戦争と圧政下の平和について考え直す必要がある。

魏志倭人伝の、「又其の南に侏儒国が在り、人長三四尺で、女王国を去ること四千余里。又裸国が有り、その東南に黒歯国も在る。船行一年でそこに着く。」との記述は、邪馬台国に来た魏の使者が、山海経やそれに類似した書籍に記されていた事を、倭人にあれこれ問い合わせたから、その幾つかを倭人が答え、報告書に記載されたと考えられる。

侏儒国は山海経に記載がないから、魏の役人は山海経だけではなく、その類の書籍を幾つか読んでいた事を示している。魏の役人もそれらの書籍に、心に響く何かを感じていた事を示唆し、それは上記の様な理由だったと推測され、陳寿がそれを魏志倭人伝に転記したのも、陳寿にも類似の心情があった事を窺わせる。陳寿の故郷である四川は中華の青銅器時代の初頭から、海洋民族と交流があった稲作地域だったから、陳寿も怪異に親しんでいた可能性がある。

 

2 海内経

海内経は他の経とは異なり、起源説話を集めている。以下はその抜粋。

「后稷は各種の農作物の種を撒き、后稷の孫の叔均は牛耕を発明した。これによって国が生まれ、禹と鯀は農地を作り、九州を定めた。」

后稷は周王朝の始祖で、は夏王朝の始祖だから、海内経のこの一節は周に近い人々の始祖説話になり、これが中山経ではなく海内経である事は、歴史的な解釈が複雑になるが、漢王朝の方針に沿った作文だったとする、と分かり易い話になる。

秦が中国全土を統一し、始皇帝が「海内を併合したから大陸全体を海内とする」と宣言したから、少なくとも秦の故地だった陝西や、東周の直轄地だった山西や河南省東部は、本来であれば内陸民族の直轄地だったから山経の範囲だった。しかし始皇帝の前記の宣言により、中華全域が海内になったとすれば、周王朝を始祖とする漢族の説話と、禹を起源とする夏王朝説話が海内経に記されている事に、違和感はなくなる。

つまり漢王朝の始祖である淮夷にとって、周や秦の支配地域も山ではなく海内だったから、漢王朝が成立すると拡大した中華世界が海内になった事になる。

但し禹が農地を作ったとの主張は史記の捏造史観だから、これによって国が生まれ、禹と鯀は農地を作りの部分は、漢王朝が追加した創作文になり、山海経を編纂した漢王朝の意図が示されている。

従ってこの説話の中の真の古代伝承は、后稷は各種の農作物の種を撒き、后稷の孫の叔均は牛耕を発明した事になり、これは周に統治される事によって青銅器時代を迎えた、漢族の伝承だったと考えられる。后稷は竹書紀年にも登場する山西のアワ栽培者で、解池で製塩する為に入植した浙江省起源の製塩集団の為に、アワを栽培していた人々の棟梁で、彼らは遼東の韓族を起源として山西に入植した人々だった。

石器時代の韓族は栽培系狩猟民族だったが、氷期からドングリを食べていた縄文人と起源を共有する人達だったから、生産したアワを余剰農産物として製塩者に提供できる人達であり、当時の大陸では最も生産性が高いアワの栽培者だった。遼東で産出する岫岩から磨製石斧を作り、アワの栽培技術の一部を縄文人と共有していたからだ。

牛耕は青銅器がなければ成立しないし、農耕民族化する為には、男性が狩猟を生業とする事を止めても農産物によって食糧が賄える、高い農耕生産性が必要だったが、青銅器を入手する事によってそれを実現した事を、この文章が意味している。后稷は青銅器時代が始まった縄文後期の人であり、製塩者には青銅器を入手する経済力があったからだ。

内モンゴル~華北のアワ栽培は太平洋が湿潤化した8千年前に始まり、最初のアワ栽培者は殷人の祖先だったが、栽培系狩猟民族の粗放なアワ栽培だった。それを農耕民族としてのアワ栽培者に変えたのが、中華世界の認識では后稷を起源とする山西の韓族で、時代は明らかではないが叔均がそれを実現した事が、周王朝に支配された漢族の祖先伝承になっていた事を示している。

竹書紀年では夏王朝の末期に登場するが、漢族の祖先だったと推測され、その時期のは未だ石器時代の民族で、続く殷王朝期には殷人に迫害されたり収奪されたりしていた民族だったが、周が殷人を華北から追放する為に漢族を各地に屯田させると、牛耕を使う農耕文化を青銅器と共に華北に拡散したから、それが漢族の祖先伝承になった事を示している。

殷王朝は殷墟に多量の青銅器を遺したが、殷人は牛耕を使う農耕民族ではなく、栽培系狩猟民族の段階に留まっていたが、周が華北を統治する事により、華北がアワ栽培者の農耕地域になった事を示唆し、考古学者が数100カ所の遺跡を発掘して得た結論より、確度が高い情報であるとも言える。

魏志東夷伝/扶余伝に記された、「扶余の王族は亡命者だったと古老が言っている」「扶余は殷の暦を使っている」との記事が、殷王朝の滅亡時に逃亡した殷人が扶余を形成した事を示し、竹書紀年には「周の武王が殷王朝を滅ぼすと、紂王の子を殷墟近辺に封じたが、淮夷に扇動されて反乱を起こし、その鎮圧に周王が自ら出陣しても、鎮圧が完了するまで数年を要した」と記されている。

周が漢族を使って殷人を華北から追放した事を示す史書はなく、それが秦代まであったとしても、漢王朝の焚書に遭って悉く失われた筈だから、文献によって確認する事はできないが、殷王朝期以前の遺跡から発掘されるY遺伝子には、殷人系のY-NY-Qが多く、春秋時代から現代まではY-O3の比率が高いから、殷人の反乱に懲りた周王朝が、Y-O3の漢族を使って殷人を華北から追放したと考えざるを得ない。

その時代の周は中央アジアの交易者だったY-Rの秦人、韓族のY-O2b1(新分類ではO1b2)、そして製塩者だったY-O3O2)の混成集団だったからだ。

漢王朝が作成した史記が五帝伝説を詳しく記したのは、縄文後期温暖期に華北に北上した稲作民の歴史を、自分達の歴史としとして取り込んだからだ。漢王朝をその様な捏造に導いたのは、周代~春秋時代に華南に並立していた夏王朝の存在を、周王朝の正史が無視して記述から除外したから、漢王朝はその歴史観を引き継ぎ、夏王朝を稲作民族と製塩業者の王朝ではなく、華北のアワ栽培者の王朝だったと捏造する事により、夏王朝、殷王朝、周王朝が連続的に生まれたとする、所謂黄河文明論を創作し、漢王朝の始祖は殷人系の淮夷である事を隠蔽したからだ。中華世界に民族主義が育たなかった理由の一つに、この歴史観があると考えられる。

「后稷は各種の農作物の種を撒き、后稷の孫の叔均は牛耕を発明した。これによって国が生まれ、禹と鯀は農地を作り、九州を定めた。」との記述は、漢族にとって最も重要な伝承だった后稷叔均の説話に、禹と鯀は農地を作ったとの嘘を付加する事により、世間の歴史観の混乱を狙うものだった事になる。

山海経の初版の成立と史記の本紀の成立の前後関係により、山海経の位置付けは大きく異なる。史記の編者の手元には膨大な書籍があった筈だが、それだけでは不十分だったから、民間伝承も集める為に山海経を作成したのか、膨大な捏造書を作っても王朝官僚には読み切れなかったから、庶民に嘘を流布する資料として、史記と並行的に編纂したのかにより、山海経の位置付けは異なるからだ。

史記は歴史の捏造を五帝時代から始めた理由として、五帝本紀の末尾に「太史公(司馬遷)曰く」として、以下の様に説明している。

学者が五帝の事績を論じて久しいが、尚書には堯以来が記されているだけで、黄帝を記したのは百家だけである。その記述には雅(言葉の論理性?)がないから、学者はこれ(黄帝)に言及しないし、漢の儒者は黄帝を伝え学ばない。しかし余(司馬遷)は嘗て広く各地を巡ったが、長老が皆、往往にして黃帝、堯、舜を語る地方に行くと、他の地方と違って風教が良好だった。従って色々検討し、黄帝から始まる五帝伝説を本紀の先頭に置いた。

司馬遷(漢王朝)も「恐れる文化」を評価していたらしく、夏王朝の歴史を史記に取り込んだのは、それを伝承する地域の風教に学ぶものがあるからだと指摘している。これは「恐れる文化」を継承していた稲作民族の居住域が、良好な習俗を遺していた事を示しているのであって、黃帝、堯、舜を語る事はその文化の表層に過ぎなかったが、殷人の子孫にも地域文化の違いは分かっていた事を示唆し、その様な民情調査により、山海経の原資量が蒐集された事を示唆している。

但し史記が五帝伝説を取り込み、それを多くの知識人が読んだからと言って、中華文明に「恐れる文化」が復活するわけではなく、復活しなかった事を現代中国人が示している。文化体系の特定の部分だけを切り出しても、それだけでは機能しないからだ。

「恐れる文化」を稲作民族や海洋民族の秩序文化の本質の様に記してきたが、それは山海経にそれを推測させる記事が多数存在し、漢王朝がそれを評価した事を示しているのであって、それが稲作民族の文化の体系の中で、どれほどの重要性があった事柄なのか、判断できるわけではない。

結論として言える事は、史記の編者も稲作民族の社会秩序が良好である理由を知りたかったから、山海経を後世に遺したが、それが次代を経ても後世に残ったのは、彼らを感動させる要素を持った表現が、多数あったからである事しか分からない。

五帝は黄帝から始まり、顓頊(せんぎょく)、帝嚳(こく)、帝堯(ぎょう)、帝舜(しゅん)と続いて終わり、次は夏王朝の始祖であるになるが、竹書紀年は全てが史実だった事を示し、史記とは全く異なる歴史を示すと共に、この時代の稲作民族は極めて理性的だった事を示している。

 

3 海内北経

海内経は越人を含む海洋民族の説明が記載された巻で、朝鮮半島部や東シナ海の海域に関する情報は、漢王朝にの歴史捏造に影響を与えない地域だったから、理性的な事実関係を示す断片が残っている事が期待される。

海内北経には華北の西端部と東端部の事情が記述され、前半の西端部に関する記述は意味不明で、漢王朝の加筆が疑われる文もあるが、後半の「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。」から始まる渤海以東に関する記事は、秦の成立以前に海洋民族から聞いた、海内事情の断片であると推測される。

春秋戦国時代の燕は河北省を拠点とする国で、BC300年頃に急速に軍事力を高め、鉅燕は領域を拡大した燕を指す。史記が創作したこの時期の燕は、楽毅と呼ばれた名将を擁し、斉を破って南に版図を大きく広げたが、それは燕が巨大化した理由を誤魔化す為の創作物語で、実際の燕は扶余を遼西から満州に追放する事により、領土を巨大化したと推測される。

は漢書地理志に記された、泰山郡蓋県(現在の山東省淄博市沂源県)だったと考えられるが、「倭の北」という位置関係を現在の地図と合致させる為に、蓋国は朝鮮半島にあったと主張し、朝鮮半島江原道の「穢(かい)」や馬韓の「乾馬」だったと見做す人がいる。当時の漢民族は倭人の島が何処にあったのか知らなかったし、倭人が漢民族に、朝鮮半島の先に倭人の島があると教えた証拠はないから、現在の地図に合致させる努力は無意味だが、中華帝国至上主義者は、現在の地図を睨みながら歴史を創作する愚を犯している。

その様な認識は、漢書地理志が記す「楽浪海中」や、後漢書が示す「会稽の海外」とは相容れないし、魏の使者が邪馬台国に行く途上で、初めて朝鮮半島南端に倭人の国があると認識したり、倭人の住地は島である事を始めて知ったりした事と矛盾する。

魏志東夷伝に示されていない民族を創作し、蓋馬高原を提起している人もいるが、歴史学者の論理性のなさに呆れるしかない。

当時の漢民族の認識が及んだ範囲は、遼東にあった朝鮮までで、その先に何があるのか知らなかった事を、この文章に続く文が示している。そこに蓋国はないのだから、この時代の蓋国は漢代の泰山郡蓋県だったと考えるべきだ。

蓋国の位置を示すのに、倭と燕の中間にあると表現している事は、蓋国は無名の小国だったので、その位置を示す為に倭を引き合いに出した事になり、倭は位置の指標になるほど著名な存在だった事を示している。それこそが、この文章の注目すべき事実だろう。

論理展開の都合上別途説明するが、この時期の山東半島(山東省の半島部)は莱と呼ばれ、農耕に適さない不毛な地域で人口は希薄だった。その様な場所に孤立する様に蓋国があったから、この文章は世間には知られていない地域だった事を示している。但し山東半島の先端部にあった琅邪は、繁栄していた越人の都だったから、知られていない場所に蓋国があった事を示す文章になり、海洋交易者だった越人は不毛の荒野の海岸に港湾を建設し、交易拠点になる都を建設した事になる。

現代の地図と整合しないこの地理観は、「倭人は福建省に来るから、倭人の国は会稽の東の海上にあるに違いない」と、魏志や後漢書に記された倭を示している。山経に記された程度の地理観しかなかった春秋戦国時代の漢民族に、彼らの活動域ではなかった海内に関する知識として、倭人がこの様に明確な嘘の地理情報を与えた理由は、魏志倭人伝漢書・後漢書の項で説明した。

続く文章に「朝鮮は列陽の東に在り。列陽は燕に属す。」と記されているから、軍事的に活発な動きをしていた燕の、動静に関する情報だった事が分かる。この朝鮮が遼東半島から朝鮮半島の北西(後の楽浪)にあった事を、魏略の以下の記述が示している。

燕が派遣した将軍の秦開は、朝鮮の西方を攻め、地二千余里を取った。満潘汗が境界を為すに至り、朝鮮は衰弱した。秦が天下を并せるに及び、蒙恬を使って長城を築き、遼東に到った。その時に朝鮮王の否が立ったが、秦が朝鮮を襲って略服させる事を畏れ、秦に属した(降参した)。

魏略は漢王朝の捏造史の影響から完全に離脱していないから、行為やその原因には疑念があるが、起こった事にはある程度の信憑性がある。従ってこの文章から戦国時代の遼東は朝鮮の領域で、扶余の領域だった遼西を燕が略取すると、燕と朝鮮が境界を接する様になった事を読み取る事ができる。

満潘は大河の様子を示す熟語で、は河が合流している事を示すから、シラムレン川と東遼河が合流した遼河本流を指した可能性が高い。中国の史家は史記が史実を記述していると主張し、朝鮮という名の政権の存在を認めず、朝鮮は地域名だったと矮小化しているから、満潘汗を朝鮮半島の小さな川に同定しているが、それであってもこの文章は、「遼東を領土としていた朝鮮は、遼河の西が燕の領土になると、遼河を挟んで境界を接する国になった」と読むべきだろう。

彼らは二千余里(900)を河北省から平壌までの距離としているが、遼河の左岸を吉林省方向に北上した距離であり、河川の合流地点から100200㎞ほど下流までの距離だったと考える必要があるからだ。

当時は未だ遼河の堆積が現在の様に進行していなかったから、渤海は現在の遼河の下流域まで残存し、燕は遼河の河口域までを占拠すると、河北から二千余里進軍した事になるからだ。言い換えると、当時の広大な渤海を現在の北京辺りから二千余里周回すると、当時の遼河の河口域に到達した筈だから、そこは朝鮮半島ではなく、遼東半島ですらなかった。

つまり燕の攻勢によって扶余が遼西から追放され、扶余の領域が遼寧省北部や吉林省に後退し、燕と朝鮮は扶余の南西と南東に位置する国になり、遼西の中核的な農耕地だった列陽が、燕の領域になったと想定される。は大きな川の北岸を指す漢字だから、現在も大凌河の北岸に位置する朝陽が、当時の列陽だった疑いがある。

この文章は漢族の国だった鉅燕の東の境界が何処だったのかを示し、前掲の蓋国が渤海を挟んで鉅燕の南に位置している文とセットになり、燕の南は渤海で東は遼河だった事を明瞭に示しているが、東西南北が不確かな大陸民族の燕人に、渤海を挟んだ南の山東半島に蓋国があると認識していた筈はなく、どちらも倭人が示した地理観だったと考えられ、海内経に記されている状況と一致する。

漢族の燕は山経の範囲内になり、満潘汗の先は海内だったから、この二つの文章によって燕と海内の境界の事情を示している事になり、朝鮮は海洋民族の国だった事を示している。

蓋国から流れ出る沂水は、当時は淮河の支流だったから、淮河の支流域を商圏としていた倭が、「蓋国は倭の北に在る」と表現した事は、当時の漢民族にとって違和感がない表現だった。斉に属さなかった蓋国は周王朝の方針に従って漢族が入植した国で、大麦を栽培していたY-Rの斉国の一部でもなかったから、斉や越に属さない小国だったと推測される。

周代の山東半島はと呼ばれ、農耕に適さない荒れ地だった。山東半島がその様な状態になった理由は、気候が冷涼なので熱帯ジャポニカも栽培できない地域であり、アワの原生種であるエノコログサが繁茂する程度には、温暖な地域だったからだと推測される。斉人になったY-Rは大麦の栽培者だったので、彼らが入植しなかったのは気候の問題はなく、交易者や軍人として渤海南岸に入植したが、人口が少なかったので、山東半島にまで入植する気はなかったと推測される。

徐州を含めた山東山塊は、縄文前期まで大陸と離れた孤島で、縄文前期末頃に黄河のデルタが、その島を大陸と繋げたが、エノコログサは乾燥した土壌を好む植生だから、縄文後期までの山東山塊にエノコログサが拡散せず、アワの生産性が高い地域になったから、アワ栽培者の文化である山東龍山文化も生まれたが、黄河のデルタが成長し、乾燥した陸地が大陸と山東山塊を繋げると、エノコログサが拡散してアワが栽培できない地域になり、農業的に不毛の地域になったからと呼ばれたと考えられる。

その様な山東であっても、気候が冷涼でエノコログサが繁茂しない山間地があり、それが蓋国だったと考えられる。従ってアワの栽培者だった燕が、アワ栽培の南限を越えた地域である斉の領土を侵略する理由はなく、史記が記す様な、大規模な軍事紛争があった理由も考え付かない。燕にとって遼西への北上は農地の拡大になったし、殷人を華北から追放する大義名分もあったが、渤海を周回して南下してもアワの栽培地は増えなかったからだ。

従って燕の武将だった楽毅などの話は、扶余の存在を隠したかった史記の、創作である可能性が高い。

海内北経には上掲の「蓋」「朝鮮」に関する文の次に、以下の記述もある。

「列姑射(れこざ)。海の河州の中に在り。」

「射姑(ざこ)国。海中に在り。列姑射に屬す。西南、山が之を環る。」

「大蟹。海中に在り。」

「陵魚は人の面で手足は魚の身なり。海中に在り。」

「大。海中に居す。」

「明組の邑。海中に居す。」

「蓬莱山。海中に在り。」

「大人の市。海中に在り。」

大蟹陵魚明組の邑は、倭人や東鯷人が宣伝した海の怪異で、海の河州海中在る国の事情は、倭人や東鯷人から得た情報だったと考えられる。

列姑射射姑は朝鮮半島か日本列島にあった事になるが、西南、山が之を環るとの認識は、海洋民族の正しい方位観だった筈だから、朝鮮半島の西岸や南岸ではあり得ない地形になる。魏志東夷伝は、朝鮮半島に列姑射、射姑に相当する民族が存在しなかった事を示し、大陸の東シナ海沿岸には海洋民族が拠点とする大きな島はないから、日本列島の日本海沿岸の地形である可能性が高い。

倭人は漢民族に対し、会稽の沖に倭人の島があり「蓋国は倭の北に在る」と主張していたから、燕の近くに倭人の島があると匂わす事は不適切な行為になり、この情報発信者は倭人ではなく、北九州~山陰に拠点を構えていた東鯷人だった可能性が高い。

「蓬莱山が海中に在る」事は、徐福が始皇帝に「海中に蓬莱・方丈・瀛洲がある」と言った事に繋がり、東鯷人が提示した山だった事になって事情が整合する。

しかし古い時代から会稽に出入りし、拠点の島は夷洲と亶洲だと言っていた北陸部族とは、異なる部族だったと想定されるから、列姑射射姑は北九州か山陰にあったと想定して間違いないだろう。

上記の表現に相応しい日本海沿岸の東鯷人の拠点を探すと、射姑「西南、山が之を環る」は、北九州の宗像の地形と合致する。宗像の海洋勢力の拠点は湯川山~戸田山を西南に控えた、遠賀川河口にあったと想定されるからだ。

海の河州の中に在った列姑射は、揖斐川の川洲にあった出雲勢力の可能性が高い。この時代の出雲平野は現代とは異なり、平野部が未発達な状態で、川洲の様な景観が残っていたと想定されるからだ。

古事記は「(出雲の)大国主は胸形のタキリヒメを娶り、迦毛(かも)大御神を生んだ」と記し、宗像と出雲の主従関係が、山海経の記述と一致する。つまり弥生時代の東鯷人の中核は出雲で、それに対馬部族の宗像が従属し、加茂神社を祭る京都・奈良の勢力は宗像から派生したと指摘しているから、山海経は古事記と一致する状況を示している。

歴史の論理展開の結論としては、出雲が対馬部族を傘下にした理由は、出雲の製鉄産業と毛皮産業が突出して優れていたから、海運力に優れた対馬部族が出雲に従属したからだと考えられ、毛皮産業は寒冷期の産業だったから、温暖期だった春秋時代~鉅燕の時代の出雲の優位性は、製鉄によって生まれていた。

燕と交易していたのは倭だったから、会稽の人から東鯷人と呼ばれる様になった対馬部族と、製鉄が盛んになった出雲が併記されている事は、扶余から遼西を奪取して鉅燕になった燕の軍事的な優位性は、春秋時代の前半まで青銅器時代の状態だった燕に、出雲の鉄の武器が多量に出荷され、その海運を宗像の漁民が担っていた事を示している。つまり燕が扶余を攻略する軍事力を得たのは、出雲部族や対馬部族と連携したからで、それを仲介したのが倭だったと考えられる。

北九州の倭は、縄文晩期から濊と共に遼東で扶余と戦っていたから、戦死者の墓である支石墓や甕棺墓が北九州に沢山あり、弥生温暖期になって扶余の人口が増大すると両者の困難は増したから、燕の勢力が河北で増大した事を好機と見做し、燕と連携する事は歴史的な必然だった。

燕の鉄器の使用状況については、前5世紀から非利器を中心に鉄斧などで使用が始まり、前4世紀に入ると農具、工具、剣など利器にも利用され、前3世紀には器種、出土量ともに大幅に増加すると指摘されている。日本では菜畑遺跡から出土した多量の木製の杭の製作に、鉄器が使われたと考えられているから、古事記がBC12世紀に製鉄が行われていたと指摘している事と合致する。

考古学者の多くは、中国が文化の先進地だったと根拠もなく思い込んでいるから、燕より先に日本で製鉄が行われた事を頑迷に認めない状況があるが、日本の製鉄史はチタンを含まない良質の磁鉄鉱や砂鉄を素材として、縄文晩期に北上山麓で始まったが、その後良質な砂鉄のもう一つの産地である、中国山地の出雲部族の活動圏に、製鉄の中心地が移動した事も古事記が示唆している。

古事記が出雲神話を細かく記しているのは、原古事記が創作された飛鳥時代の出雲が、当時の最大商品だった製鉄と高級毛俀の最大の産地であり、日本で最も経済活動が活発な地域になっていたからだ。

つまり石器時代から広域的な文化活動を活発に展開していた海洋民族が、島嶼や大陸の沿海部に文化的な先進地を形成し、大陸は交易活動が不活発な農耕民族の居住域だったから、彼らは農耕文化を高度化したが、製鉄などの交易の成果として生まれた産業分野では後進地域だった。

農耕民族も産業社会を形成する事は可能だったし、荊にはその資質があったが、生産した商品を交易する海洋民族と提携しなければ、産業社会の高度化は不可能である事は、現代人であれば常識的に理解できる。古代社会もその例外ではなく、浙江省の製塩業者は海洋民族と提携し、産業力を高めて越同盟を結成したが、荊は倭と提携する機会があってもそれに応じなかったから、春秋時代に世界の経済活動が活発になると、越同盟の下請け産業者として絹布を生産し、賃金労働者としてそれに参加する羽目に陥った。

その様に歪んでいた、絹布産業の生産者と交易者の関係が悪化し、秦がそれを打破する為に武力制圧したが、越人はそれを見越して嘘を言っていたから、越人は海外に逃亡して中華世界が大混乱になり、漢王朝の成立を許してしまった。

それが歴史的な事実だったから、現在も日本と中国の間には文明力の差が残存している。頑迷な考古学者や史学者は、それは近世になって逆転した結果であると主張しているが、それには何の根拠もない。

史学者がその様に偏向的になったのは、文明は農耕の発展によって生まれたと考える、誤った歴史観があるからであり、この様な歴史観を生み出した捏造書が、漢王朝が意欲的に捏造した史記などの書籍であり、日本では日本書記であると考える必要がある。

どちらも王朝が捏造した史書なので、このHPではこの様な歴史観を王朝史観と呼ぶが、漢王朝を樹立した殷人には農耕しか生産手段がなかったから、その様な歴史観を捏造したのであり、日本書記に至る歴史を捏造したのは、唐から王朝文化を取り入れた奈良朝に始まる、王朝貴族だったからだ。王朝期になっても日本には海洋文化が色濃く残存していたが、奈良朝も平安朝も稲作民の支配に特化した統治機構だったから、王朝貴族には王朝史観を重視せざるを得ない事情があった。

農耕民族は農耕の生産性を高め、人口の増大に寄与したが、海洋民族はその恩恵の薄い地域に居住していたから、農耕以外の手段で食糧事情を改善する必要に迫られ、石器時代には農耕より生産性が高かった漁労に傾斜し、その生産性を高める為に交易文化を発展させ、広域的な文明圏を形成したから、石器時代には海洋民族の文明が最も高度なものになった。

現在のユーラシア大陸でも海洋の沿海部に高度な文明地域があり、それが気候が温暖ではない中緯度地域に偏在しているのは、海洋文化が成熟した後で農耕地域になった人々の居住域だからだ。

大陸内部にも交易路があり、気候が乾燥した縄文後期以降は、中央アジアも有力な交易路になったから、周や秦も鉄器生産の導入は華北より早かったと想定されるが、インド洋経由とシベリア経由の交易路は、それ以前から有力な交易路だったから、それらの恩恵を受けた地域に比べると、製鉄技術の伝達に遅れがあったと考える必要がある。

従って海洋や陸路の交易路から離れ、農耕民族の政権だった燕の地域に、比較的早く製鉄文化が流入した経緯は、中華大陸の内部を経たものだったとは想定できない。河北は気候が乾燥して樹林の再生力が薄弱であり、樹木を多量に消費する製鉄に相応しい地域ではないから、農耕民族が独自に製鉄技術を導入した可能性は極めて低く、上記の事由によって倭人が鉄材や鉄器を多量に持ち込み、現地で鋳造や鍛造が行われたと想定する必要がある。

それによって扶余に対する燕の軍事的優性が確立すると、海洋民族が燕を鉄の生産地にする必要性を認識し、多量の木材を使わない鋳鉄の生産地にした可能性もある。漢代に朝鮮半島の南端が製鉄地になったのも、同様の理由だったと考えられ、漢代の燕や楽浪は漢王朝の支配地だったから、半島南端しか適地がなかったからだ。

半島南端は良質の鉄鉱石が産出する地域ではないが、華北より森林資源が豊富だから、樹木を多量に消費する鋼鉄の生産も一部可能になった事により、半島唯一の製鉄地として繁栄したと考える必要がある。つまり農耕民族の製鉄に最も必要性が高い資源は、樹木の消費量が少ない鋳鉄であっても多量の樹木であり、鉄鉱石の質は2次的な要素に過ぎなかった事を、魏志に記された弁辰の製鉄が示していると考える必要がある。

日本では壬申の革命によって出雲の製鉄産業は一旦壊滅し、各地に鋳鉄の生産地が生れたが、中世になると樹木の消費が少ない鋼鉄用の、蹈鞴生産技術が出雲で生まれ、鋳鉄の生産地は淘汰されて鋼鉄の生産に収斂したが、それでも樹木の再生が重要な生産要素だった事は記憶に新しい。

扶余は漢初まで青銅器時代の民族だったから、鉄で武装した燕によって遼西から追い出され、満州に逼塞させられた状態から、魏志東夷伝が示す歴史が始まったと考えられる。

海外東経に、大人国に関する別の記述がある。海外は中華大陸の外を意味し、海外東経は東シナ海以遠の海域の事情を、海洋民族から聞き取った逸話であると考えられる。

「大人国は嗟丘の北に在り、坐して船を削る。」

嗟丘は百果の所在、堯を葬った(場所の)東に在る。」

「黒歯国が大人国の北に在る」

この文章だけでは、嗟丘、大人国、黒歯国が何処にあったのか分からないが、魏志倭人伝に以下の記述がある。

「女王国の東、海を渡って千余里(400500㎞)、また国あり。皆、倭の種。又侏儒国がその南にあり、人長三四尺、女王国を去ること4千余里(2000㎞)、又その東南に裸国・黒歯国があり、船行1年で至る。」

黒歯国は遠い海外にあった事になるから、嗟丘、大人国も遠い海外にあった事になり、堯の墓も遠い海外にあった事になる。倭人に確認するまで大陸人にはそれが判らなかったが、倭人の認識を魏の使者に初めて明らかにしたから、この様に記された事になる。

女王国の東、海を渡って千余里は実在した関東の倭人国を指しているが、侏儒国以降は実在した地域ではない。卑弥呼が魏の使者を邪馬台国に招致したのは、邪馬台国が台湾の南方の遠い海上にあって、漢民族には渡航できない事を、魏の使者に実感して貰う事が目的だったから、敢えてそれ以上の騙しを仕掛ける事は得策ではないと、倭人が考えていた事を魏志倭人伝が示し、それが倭人の伝統的な基本方針だった事を示唆している。

従って侏儒国以降の虚構の国に関する情報は、倭人が積極的に魏の使者に与えたのではなく、魏の使者が倭人に質問したから倭人がそれに答え、魏の使者がそれを報告書に記載したと考えられる。つまり山海経などの書籍を読み込んで来た魏の使者は、侏儒国、裸国、黒歯国が「海外」にあった事を、知識として事前に持っていたから、それを倭人に質問した事になり、魏の使者の認識では、戦国時代に魏志倭人伝に記された地域の情報を発信したのは、倭人だった事になる。

逆に言えば山海経や他の文献に記されていても、魏志倭人伝に登場しない地域名は、東鯷人が創作した地域だった可能性が高い。

その逆の見方として、黒歯国は山海経に記されているが、侏儒国、裸国は山海経に記されていない地名である事は、現存する山海経以外にも、民間伝承を編纂した書籍があった事を示している。

竹書紀年は、を含む五帝は関東部族の漁民だった事を示唆し、九夷はその別種だった事を示唆しているから、竹書紀年の夏王朝紀に記された「九夷来御」も、その文脈から矛盾なく解釈する事ができる。

史記は「堯と舜は存在した可能性が高い」と指摘しているが、漢王朝の官僚が作成した海外東経が、は遠い海の彼方から来た、即ち海洋民族の出身だったと記している事は、漢王朝もその事実を不本意ながら認めていた事になる。

史記、漢書、三国志などの史書を著述する知性を持った漢民族が、不可解な書籍である山海経も重視し、倭人に確認する程の関心を持っていた事は、魏の役人も怪異を畏れる社会への憧憬を持っていた事を示し、これらの矛盾を内包した事情を示唆している。夏王朝にとっては、発刊した書籍の膨大な矛盾に対処する事に忙しく、細かい事まで対応できなかった事情もあっただろう。

戦国時代までは、稲作民族だけではなく漢族も古代的な秩序観を共有し、彼らが古代を尊ぶ認識は、現代の漢文学者の想像とは異なり、山海経に記された怪異の世界が表象する、安定感がある秩序認識だったと考えられる。特に捏造史から解放されつつあった晋代の漢族は、それを感じ始めていたから、極めて論理的だった陳寿も官僚の報告書からそれを採択し、倭人伝に記載した事は、陳寿にも共感するものがあったからではなかろうか。

怪異伝承に興味を持ち続け、それの漫画化に興じている現代日本人にも、共感するものがあるのではなかろうか。

 

4 海内東経

海内東経には倭に関する記述はないが、琅邪に関する記述があり、越も倭と同様に内陸民族ではなく、海洋民族であると認識されていた事を示している。

「都州は海中に在り。郁州ともいう。」

竹書紀年に「於越が都を琅邪に徙(うつ)した」と記されているが、そのはこの都州だったと推測され、は「香気の盛んな様子、文化水準が高いこと」を意味するから、今風に言えば「華の都」を意味した。都州は海中に在る事は、この都は海港都市で、船で往来していた事を示している。

この文に続き、以下の文がある。

琅邪台は渤海と琅邪之間に在り。其の北に山有り、海の間に在るともいう。

当時の渤海は現在より広く、渤海南東端の莱州湾が現在より南に広がり、膠州湾も現在より広かったから、この文章が越の都だった琅邪の状況を示している。当時の莱州湾と膠州湾が形成する地峡は幅70㎞ほどで、標高1020mのなだらかな丘陵地だから、その台地が琅邪台で、渤海と膠州湾の間に在った事を示している。其の北に有る山が膠東半島の山地で、標高600m近い山が渤海の海岸の近くに聳え、晴れた日には山頂から黄海も見えたから、海の間に在るともいう状態になる。

史記は始皇帝が琅邪台を作らせたと記しているが、琅邪台は春秋時代からあり、その台地の膠州湾側の緩斜面は、富貴な越人の邸宅が軒を連ねる高級住宅街で、広い丘は彼らに蔬菜や果樹を提供する菜園や果樹園が広がり、中華世界で知らない人はいない、「華の都」だった事を示している。越人が中華文化を牽引していた事を認めると、黄河文明は虚構である事が露見するから、始皇帝が琅邪台を作らせたとする話を史記が捏造した事になる。

海内東経に更に以下の文が続いている。

韓鴈は海中に在り,都州の南。

始鳩は海中に在り,轅厲の南。

会稽山は大楚の南に在る。

「韓鴈、始鳩、轅厲」は、東シナ海沿岸にあった交易都市だったと想定され、韓鴈始鳩海中に在った事は、韓鴈は淮河を遡上する東鯷人の船の溜まり場で、始鳩は揚子江を遡上する船の溜まり場だった事を示唆している。現在の連雲港市の北東にある花果山などの小さな山は、当時の淮河の河口の島だったから、其処が韓鴈だったのではなかろうか。

日本海沿岸から対馬海峡を経て来た東鯷人は、琅邪でフィリッピン産の絹糸を受け取り、淮河を遡上して荊の集落に絹糸を届け、織り上がった絹布を受け取って琅邪に持ち帰る作業を、毎年行っていたから、琅邪はその様な東鯷人の都合に合わせて選定された、越同盟の交易拠点だったと想定される。越人の旧都は会稽だったが、毎年同じ交易を繰り返していた東鯷人にとって、地理的に不便だったからだ。

韓鴈「韓」漢字は、交易船が往来する要地である事を意味し、鴈(がん)は秋に北方から渡来して春に北に去るから、日本海沿岸から淮河の渇水期に渡来した東鯷人を、に例えた可能性がある。

会稽山は浙江省紹興市南部にあるから、紹興市以北が、戦国時代に呉の地まで拡大した楚の領域である大楚で、会稽山があった地域やその南は大楚の地ではなく、製塩者を出自とする越人の旧都として維持され、その南の広東が粤の地だった事を示している。漢書地理志では会稽は呉の地になっている事と矛盾し、漢書地理志の区分にも漢王朝の作為があった事を示唆している。

越の旧都が会稽にあった事が露見すると、粤の条に其の君(越王)は禹の子孫で、帝少康(夏王朝の帝)の庶子と云われている。会稽に封じられて文身断髪し、蛟龍(へび)の害を避けた。」記し、会稽は草深い僻地だったと印象付けた主張と、矛盾するからだと考えられる。

海内経の方位認識が正確で記述内容も合理的である事は、これらの知識が海洋民族から得たものである事と整合する。山経の出鱈目な方位認識と比較すれば、海洋民族側に高度な文明があった事は明らかで、中華文化が日本に伝来したと主張する史家の根拠が、如何に空疎なものであるかが明らかになる。

 

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