漢書・後漢書

中国の史書は、新王朝が政権の正統性を主張する為に、前政権を批判する目的で編纂したと考える人が多いが、それは事実ではない。

正史の編纂目的には色々あり、竹書紀年と史記にはその傾向があるが、漢書と後漢書は漢王朝が捏造した史記の、「不都合」な記述を弥縫する為のもので、漢王朝の正当性を主張するものだったからだ。

史記の歴史捏造が余りに酷く、世間の批判に耐えられなかったので、捏造史観は温存しながら世間の批判に対する言い訳であって、歴史は捏造するものであるとの認識は、史記の編者と共有している。従って史書としての価値は極めて低い。

晋代に成立した三国志/東夷伝が、その様な歴史観の嘘を暴いたので、その150年後の南朝宋代に、再び史記や漢書の捏造史観を糊塗する為に、漢王朝の官僚系譜の人物が後漢書/東夷列伝を編纂し、三国志/東夷伝を真っ向から否定したが、陳寿の様な学究的要素は皆無で、非論理的な根拠を集めているに過ぎない。

1、漢書

漢書は後漢の史官だった班固が、AD1世紀に著述した初の断代史(だんだいし)。

史書は大きく二種類に大別され、起源から書き始めた史書を通史と呼び、特定の王朝史を断代史と呼ぶ。史記や資治通鑑は通史だが、中国の正史には断代史が多い。

「漢」は前漢(BC2BC1世紀)を表し、後漢(AD1AD2世紀)は必ず「後漢」と記す。

漢書の記述の信憑性を査定する為には、他の史書との突合せが必要になるが、漢代に記された書籍は全て疑う必要があり、漢代以前に記された竹書紀年との比較により、漢書の立場が明らかになる。

 

1-1 漢書地理志

漢書は断代史だが地理志には通史が断片的に記され、史記の綻びを弥縫する役割を担った事を示している。地理志の記述は史記の捏造が世間から受けた非難に対し、嘘を正すのではなく嘘の不備を補いながら、史記の歴史観を取り繕う事だった事を示しているからだ。以下は地理志の冒頭の記述の要約。

黄帝は天下を旁行し、既に王である者を以て万国を建て、諸侯に親しんだ。尚書や書経が云う「協和万国」は、この事を謂う。

五帝時代~夏王朝期のは、製塩業者やその商流を担う者達の頭目を指し、農民を差配する領主ではなかったから、この記述は漢代の捏造創作であり、尚書書経も世間から批判されていた事を示唆している。

帝堯は洪水に遭い、天下を分けて十二州にした。その州名は、冀、泲、河、海、岱、淮、荊、衡、陽、華陽、黑水、西河だった。

州とする地域が縮小していた時期で、天下に洪水があったからであるとの理由は、取って付けたような嘘であると推測される。

禹が治水に成功すると九州に制定し直し、その州名は、冀、兗、青、徐、揚、荊、豫、梁、雍になった。

竹書紀年に、帝舜三十三年 夏后(禹)が命を受け、最終的に九州に復したと記されているから、州名に疑念はあるが歴史事象は合致している。但し減少していた州(塩の販売区域)が、禹の政策によって増加した時期だったと推測される。

周が殷を倒すと区分を改変し、冀、兗、青、揚、荊、豫、雍、幽、并、にした。

華南まで含んでいた夏王朝とは異なり、周は華北限定の統治者だったから、これは歴史を無視した記述になる。中華文明の起源が黄河流域にあり、文明の牽引者は稲作民ではなくアワ栽培者だったとする、史記の捏造史観を弥縫する為にこの文章を挿入したと考えられる。

漢が興ると領土が南北に広がったので、州を増やしたり統廃合したりしたが、行政単位は郡県制にした。秦は天下を三十六郡としたが、漢は其の郡が大き過ぎると考え、時代と共に幾分かの変遷があったが、凡そ郡国は103、県邑は1314、道32、侯国は241になった。

秦の三十六郡は史記に記された数値だから、史記が編纂された頃にはその記憶が、世間に残っていた事を示している。魏志濊伝が秦は燕、斉、趙を滅ぼしていなかった事を示しているから、秦の郡が大き過ぎたわけではなく、秦が中華全域を征服したとの捏造史を批判する根拠に、秦代の郡の数が少ない事が挙げられていたから、この記述によって世間の批判をかわした事を示唆している。

漢書地理志が示す各地の人口は、漢の郡県制を基に記述したが、地域の歴史は春秋戦国時代の国を単位とし、秦地、魏地、周地、韓地、趙地、燕地、齊地、宋地、衛地、楚地、地、に分けて記述している。しかし史記が記す歴史と、漢書地理志が区分したこれらの地域には、理解できない矛盾がある。

例えば華北の大諸侯だった晋が、韓、魏、趙に分裂したのはBC376年で、呉はBC473年に滅亡したから、韓、魏、趙が呉と併記される事はあり得ない。漢書地理誌は史記の酷過ぎた捏造を弥縫する為に、当時の人々の認識を史記の歴史認識と整合させる為の書籍だから、嘘の弁明によって新たな矛盾が生れたと考えられ、両者の矛盾について真面目に考える必要はないが、史記や漢書を無前提に引用する史家が多いので、それが何を意味するのか指摘する為に説明している。

漢王朝が史記などを使って歴史を捏造する以前に編纂された竹書紀年は、呉と呼ばれた集団は越に滅ぼされたのではなく、呉と呼ばれた地域の人々の勢力圏は温存された事を示し、漢代になってもその地域が呉地と呼ばれていた事と整合するから、漢書の立場が明らかになる。趙、燕、齊は秦代にも存在した事は既に説明したが、竹書紀年はも戦国時代まで継続したが、東周と共に秦に滅ぼされた事を示唆している。

地理志/燕地の条の、「楽浪海中に倭人有・・・・」の記述は良く知られている。この文に至るまでの記述は魏志倭人伝の項に示したが、一部省略したのでそれを此処に示す。

燕地は河北と遼寧だが、(後に)楽浪と玄菟が追加された。玄菟、楽浪は武帝の時に置き、皆朝鮮、濊貉、高句麗の蛮夷である。殷道が衰えると箕子が之の朝鮮に去り、其の民に礼義を以て田、蚕、織作を教え・・・・(以下は既出)

殷道が衰えるとの表現は「呉の条」でも使われ、それ以降に史記を引用した捏造史が記されているが、この表現そのものに違和感がある。殷王朝は偉大な王朝だったと、印象付ける為に使われているからだ。以下は呉地の条。

殷道が既に衰えると、周の大王の亶父梁の地を得た。長子は大伯、次は仲雍,少(末子)は公季で、公季に聖なる子の昌が有り、大王は昌に国を伝えることを欲した。大伯と仲雍は荊蛮に奔り、公季が位を嗣ぎ、昌に至って西伯になった。

箕子が朝鮮に去ったのは殷王朝が滅亡した後であり、周の亶父の時代はまだ殷王朝期だったから、既にの使い方が逆だが、殷王朝に肩入れしたい捏造作文者の、文学的な表現であれば、使い方に感情が籠ってこの様な文になったとも言える。つまり漢書の著者である班固は、殷人系譜の者だった事を示唆しているが、その証拠は「魏地の条」や「秦地の条」にもある。

魏地の条は、本は殷の旧都であるとの記述に始まり、殷に関する思い入れ的な説明が溢れている状況があり、秦地の条では、秦の始祖は夏代に殷が諸侯にしたと嘘を記しているからだ。

「楽浪海中に倭人有、分かれて百余国を為す。歳時を以って来りて献見すると云う。」は、漢代の事であると同時に漢書が記された後漢代の事情でもあり、当時の人々の認識の一部を記述しているが、額面通りに解釈する事は避ける必要がある。

史記は倭について何も記していないが、当時の人々は中華の歴史の中で、倭が重要な役割を果たした事を知っていたから、その非難をかわして史記の意図を取り繕う為に、この短い文を挿入したと想定されるからだ。

色々な事を記すと新たな矛盾が生まれるから、この様な短文にしてそれを避けたと推測され、その為に文章を推敲したと考えられるので、使われた言葉を詳細に吟味する。

「楽浪海中」

倭人は船で中国に来たが、中国人は倭人の島が何処にあるのか知らなかったから、この様な記述になった。中国人が日本の九州の位置を正確に知ったのは、この時代から700年以上後の隋代~宋代だったが、本州の位置を知ったのは更に時代が降った時期だった。「楽浪海中」は西日本の倭人が楽浪郡を経由して渤海湾に入り、華北の人々と交易していた事を意味した様に見えるが、倭に最も近い中華王朝の領土が楽浪だったから、この様に記したと考える方が実態に即している。

班固はAD92年に亡くなったが、AD54年に奴国の使者が後漢に朝貢し、その後華北交易を拡大していたから、彼らに渡航ルートを聴き、楽浪郡の沿海部を経由して華北に出向いていた事は、華北の人は皆知っていただろう。AD104年には倭国王の大艦隊が洛陽に来たのだから、それに至る時期にも多数の倭船が、黄河流域を往来していた事は間違いない。

しかしこれはこの時代の中国人の一般的な認識ではなく、淮河流域や華南の人々は倭人が会稽から来る事を知っていたから、これは中国人の認識を、漢書の記述の様に変更させる意図を以て、班固が選んだ表現だった。その様に判断するのは、倭人は江南にも出掛けていた事を示唆する記述が、呉地の条にあるからだ。

会稽(福建省と浙江省)の海外に東鯷人有、分かれて二十余国を為す。歳時を以って来りて献見すると云う。

これは倭人の条に示す記述と完全な対句になっているから、倭人と東鯷人は同種の海洋民族で、同じビジネスモデルで交易を行っていた事を示している。東鯷人は北陸部族を中核とする日本海沿岸の越系文化圏の海洋民族で、倭人の母体は関東部族だったから、両者は競合する海洋民族集団だった。

東鯷人の活動範囲は、海洋航行能力に優れていた関東部族より狭かったから、中国人は倭人も会稽(浙江省と福建省)に来ていたと認識していた筈であり、その証拠として、安徽省亳州市の後漢代の豪族の墓から発見された煉瓦に、「倭人」と書かれていた事が挙げられる。亳州市は淮河の支流域にあるから、漢書が書かれた後漢代の倭人は、淮河を遡上して貴人(地域の豪族)と交易していた事を示しているからだ。

それとは別に、後漢書東夷列伝や魏志倭人伝が、倭人の主要な寄港地は会稽(浙江省・福建省)だった事を示唆し、山海経に「蓋国(山東の国)は鉅燕(河北省)の南、倭の北にあり=倭は山東半島の南にある」と記している事も、それを示している。

従って漢書が倭人と東鯷人の寄港地を分けて記述したのは、どちらも拠点に近い場所に寄港しているに過ぎず、大した海洋民族ではないと、漢王朝支配下の中国人に思わせたかったからだと推測される。しかし後漢書、魏志倭人伝、山海経は、倭人の船が中国にアクセスする主要航路は、沖縄経由して福建省に至るものだった事を示し、亳州市の煉瓦は倭人の船がそこから東シナ海沿岸を北上し、淮河を遡上して内陸に至っていた事を示している。

魏志倭人伝の「邪馬台国は会稽の東にある。」という認識は、実際は正しくないのだが、倭人は沖縄から台湾北端を経由して大陸に渡航する際に、福建省の福州を最初の寄港地にしていたから、海について何も知らなかった大陸人は直感的に、「倭人の船が真っ先に寄港する福建省の福州の沖に、倭人の島がある」と思っていた事を示している。

戦国時代の倭人は中国人のその認識を逆手に取り、「蓋国(山東)は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。(朝貢している)」と認識させていたから、山海経にこの様に記されたと考える必要があり、倭人はもっと昔から中国人に、その様に思わせていた事を示唆している。

しかし漢書地理志が示す「楽浪海中」は、倭人にとって極めて不都合な記述だったので、邪馬台国の倭人はそれを元に戻す必要に迫られ、魏の使者を招いて中国人の誤認識を、「倭は蓋国の南にある(山海経)=会稽の海外にある(漢書、後漢書)=其の道里を計すと、當に会稽東冶の東に在り(魏志倭人伝)」に戻したからだ。

魏志倭人伝の項でその手管を示したが、倭人は根拠なく嘘の地理観を示したのではなく、古い時代から中国人がその様な地理観を持っていたから、倭人もそれが正しい地理感であるかの様に中国人を誘導したからだ。

「楽浪海中」は倭人の島が朝鮮半島の目と鼻の先にある印象を与え、獰猛な漢民族の侵攻を誘発しかねなかったから、中国人の認識を訂正させる為に魏の使者を招いたが、それを決断させたのは三国時代の呉が、台湾を倭人の島であると勘違いし、船で台湾に侵攻して集落を焼き払い、人々を奴隷として拉致する事件が発生したからだ。

現代の正確な地図を見れば、日本列島は福建省よりピョンヤン(楽浪)の方が近いから、「楽浪海中」は正しいとも言えるが、班固は正しい表現としてこれを記したのではなく、班固は渤海沿岸や黄河流域に出没している倭人が、会稽にも来て揚子江を遡上し、淮河も遡上していることを隠し、倭人は中国史に影響を与える様な大きな海洋民族ではなかったと印象付ける為に、この様な嘘を記述したと考えられる。

史記に倭人に関する記述がないのはおかしいと、中国の人々が考える事を恐れていたのではなく、既にその様な疑念が投げかけられていたから、これを言い訳にしたと考えられる。疑問が提示されていなければ、敢えて倭人や東鯷人に言及する必要はなかったからだ。

次節の漢書王莽伝に示す「東夷王」は倭国王を指しているから、班固は倭人の交易圏を知っていた事は間違いないからでもあり、倭国王を敢えて東夷王と書き換えた事にも、倭の存在を隠そうとした班固の意図が見える。

以上を前提にすると、呉の条の末尾に記された「会稽の海外に東鯷人有、分かれて二十余国を為す。歳時を以って来りて献見すると云う。」も、色々な情報を示している。

二十余国は倭人の100余国とは数が異なり、倭人と同様に会稽に来る海洋民族だが、倭人とは異なる集団だった事を示し、燕の条に記された倭人の説明と対の文章になっている事は、倭人と東鯷人のビジネスモデルは類似していた事を示し、班固もそれを知っていた事を示している。

二つの文章を並べて読めばそれは明らかだが、燕と呉の説明は離れているから、読者にはこの対句は気付き難い状態にあり、それを指摘している文献は極めて少ない。つまりこの対句は読者に気付かせる為ではなく、倭人と東鯷人が同類の集団である事を世間に知らせる為の記述でもなく、倭人と東鯷人の関係を説明する文章もないから、仮に気付いても班固の意図は分からない状態になっている。

従ってこの二つの文章に秘められた意図は、倭人が会稽に来る事を知っている人から、「楽浪海中に倭人有」は不適切な記述であると指摘された場合に、それは分かっていると言い訳する余地を残す為だったと推測される。或いは班固も事情は分かっていると、読者に納得して貰える事を期待していたとも考えられ、それらを裏から言えば、「楽浪海中に倭人有」は誤りである事を、班固自身が認めていた事になる。

東鯷人は誰であるのかを推測すると、魏志倭人伝に「女王国の南にあって女王に属さない」と記された狗奴国がそれに該当し、魏志倭人伝の書き方から推測すると、二十余国で構成された東鯷人の国の旗艦国だったと推測される。

(10)縄文時代以降の論理展開の結論としては、狗奴国は和歌山を外港として、奈良盆地と京都盆地を支配する対馬部族だった。弥生時代末期には、越系文化圏を牽引していた北陸部族の経済力が衰退し、越系文化圏の旗艦国の座を、宗像・奈良盆地を拠点とする対馬部族に譲っていた。宗像と奈良盆地は離れているが、古事記が「胸形のタキリヒメと大国主の子が加毛の大御神である」と記し、加茂社や(高)鴨社を祭る奈良盆地と京都盆地の人々は、宗像を起源とする対馬部族の勢力圏であると指摘している。宗像が海洋民族の拠点で、奈良盆地は稲作者の集積地だった。これに関する文献の詳細は、(8)隋書参照。

「分かれて百余国を為す。」 

倭人の島の各地に独立した政権が100以上あり、中央集権的な組織体ではなかった事を示している。日本列島は統一過程にあったが、未だ百余国もあった時代ではなく、倭人政権が崩壊した飛鳥時代まで倭の体制は一貫して分国制だった。江戸時代の幕藩体制の様な制度だったと云えば、イメージ出来るだろう。

江戸時代の藩主は世襲で、藩政は幕府の統治から独立していたが、倭国王を頂点とする倭もその様な体制だったから、後漢書は「(倭は)国ごとに皆王と称し、世々統を伝える」と記している。

倭人体制を打倒して成立した奈良・平安朝は、唐に倣った中央集権制を採用したが、この体制は日本人には合わなかったから、王朝期に荘園制が生れ、鎌倉時代に体制変革の試行錯誤が始まり、最終的に江戸時代の幕藩体制に先祖返りした。

「歳時を以って」

「毎年決まった時節」に渡来した事を意味する。倭人は先祖代々中国大陸に出掛けていたから、乾季に大河を遡上して雨期に帰還する合理的な旅程を選定し、季節風や台風も考慮して渡航時期を決めていた。富山の薬売りの様に、毎年同じ国の倭人が代々来ていたと想定され、倭人各国の商圏を大陸各地に設定し、販売する商品を各国に配分する事が、倭人諸国を統括していた倭国王の重要な統治機能だった。

江戸幕府は稲作地を領有する諸藩を統治し、石高で格付けしたが、交易者だった倭人を統治する倭国王は、領地ではなく商圏を配分し、商品の生産者から商圏を持つ販売者に商品を配分し、販売価格を統制する事が本務だった。交易組織が分権的に商圏を設定する事は、封建領主に封土を与える行為に等しく、現代にも繋がる重要な交易の統括機能だからだ。

大陸の各地には異なる方言があり、河川も複雑に入り組んでいたから、或る程度自立的に決まった商圏を倭人結社が追認し、その境界を確定する事が倭国王の機能だったと想定される。

当時の交易者には商品の販売とは別の重要な役割があり、大陸の農耕民族は農地に緊縛されていたから、遠隔地から来た倭人は大陸各地の情報をもたらす人でもあった。マスコミがなかったこの時代には、倭人が最大の情報源になっていた人も多かったと想定されるから、商品を買う事より情報を交換する事に、より多くのメリットを感じた客も多数いただろう。

魏志倭人伝の項で示した様に、漢民族は商行為に疎い農耕民族だったから、大陸を股に掛けた広域交易者は、倭人や東鯷人しかいなかった可能性が高い。強力な競争者が大陸内にいたのであれば、海外から毎年訪問する価値がある様な利益率が高い商売は、成立しなかったからだ。

「献見」

献見は貴人と接見する事。倭人は漢王朝に朝貢しなかったから、政治的な目的で貴人を訪問したとは考え難く、それにも拘らず多数の船が大陸に出向き、役人を排出する豪族と毎年会っていたのは、高価な商品や価値ある情報を持参していたからだと推測される。魏志倭人伝は、倭人が中国に絹布、錦、丹、真珠、翡翠、白珠などを持ち込んだ事を示唆している。唐書は倭王の代理人が皇帝に琥珀と瑪瑙を献上したと記しているから、その様な財貨も販売していただろうが、倭の主要な特産品は、木工品や漆器などの工芸品だったと推測され、隋書に「新羅、百済は皆倭を以て、大国で珍物が多いと為している。」と記されている事がそれを示している。は財貨となる高度な工芸品を指したからだ。

中国人の「東の海上に神仙世界がある」との信仰は、倭人が付加価値の高い商品を販売する為に、中華世界に拡散した見識だった疑いが濃い。農耕民族だった大陸人は海の事は何も知らなかったから、信仰の起源は倭人だったと考えなければ話の辻褄が合わないからだ。

但し倭人は南シナ海沿岸の海洋民族と文化を共有していたから、当然交易量もそちらの方が多く、漢民族との交易は副次的なものだったと推測され、倭の100余国の中で華北と交易していたのは、邪馬台国連合の30国だけだった事がそれを裏付けている。

東南アジアの島嶼や半島部では、香木、香辛料、ベッコウなどの特産品が多く、それと引き換えにオリエント産の精緻な工芸品を輸入していたから、そちらが交易の中心地で、中華世界はその傍系的な位置付けだった可能性が高い。

魏志倭人伝にはそれを示唆する記述が多く、例えば「倭人は木綿の鉢巻をしている」と記しているが、当時の日本で木綿が栽培されていたとは考え難いからだ。梁書海南諸国伝に、扶南王が吉貝を献上したと記されているが、それは木綿だったと考えられているからだ。つまり倭人は木綿を輸入品として使っていたが、中国はそれを知らなかったから、南北朝期になっても相当する漢字がなく、現地の音として吉貝と記したと考えられるからだ。魏の役人が倭人伝に木綿と記したは、倭人からその素材を聴いて報告書に記したが、魏の人々は誰もその実物を知らなかった事になる。

また台与が魏の皇帝に贈った異文雑錦は、魏の人達が知らない複雑な文様の、多数の色で染色された糸を使った、高価な錦である事を示唆しているから、その販売先はペルシャ湾を含むインド洋沿岸だった可能性が高い事も、その事情を示唆している。

従って「(倭には)ショウガ、橘、山椒、ミョウガがあるが、以て滋味と為す事を知らない」との記述も、倭人は東南アジから香辛料を輸入し、柑橘類を九州や沖縄で栽培していたから、この様な在来の香辛料は使わない贅沢な人達だった事を示唆している。但しそれらが氷期の日本列島に生えていた訳はなく、温暖化してから誰かが栽培種として持ち込んだ種である筈だから、それらが栽培種である事を知らなかった筈はない。

古事記の神武東征説話の久米歌に、「垣の下に植えた椒、口ひひく」と記され、東日本~東北では椒(はじかみ=サンショウ)を食べていた事は、間違いないからでもある。

「云う」 

倭人は漢の都だった長安に朝貢しなかったから、王朝には倭に関する正式な記録がなく、倭人や東鯷人に関する漢書の記事は、伝聞事実だった事を意味する。貴人は楽浪郡の官人だったとする説があるが、後漢になって都が洛陽になると、「初代光武帝に奴国が朝貢し、その50年後に倭国王が、諸王を率いて洛陽に来た」と後漢書が記しているから、その様な倭人の船の航行力から考えれば、100余国が楽浪郡に毎年殺到していたという通説の推測は、本来は恥ずかしくて発表できない荒唐無稽な推理だが、百済や新羅とチマチマ交易していたとしか記していない日本書紀を重視すると、その様に言わざるを得なくなる。古事記や日本書紀がどの様な意図に基づいてその様に記したのかは、(10)縄文時代(15)古事記・日本書紀が書かれた背景参照。

前出の「楽浪海中に倭人有、分かれて百余国を為す。歳時を以って来りて献見すると云う。」の次に、「危四度~斗六度の所謂析木の方角は、燕の分である。」との記述があり、燕の説明の様に見えるが、燕の条の冒頭に「燕の分は尾・箕」であると記しているから、それとは異なった方角になる。班固が当時の世間常識を無理に否定したから、不可解な文になったとも考えられるが、班固を含む漢王朝の官僚の知性が、その程度のものだった疑いも濃い。それに関する詳細な説明は、16)法則的に解釈出来る事象と難解な推理/(F漢書地理志、後漢書、魏志倭人伝に記された倭の位置を参照。

文章が不可解なものになった直接の理由は、漢書に前駆的な地理志があり、それに記された倭の位置が「危四度~斗六度」だったからだと考えられる。春秋戦国時代の中国人は、海洋上の地理について何も知らなかったから、倭人の活動範囲から「危四度~斗六度」に想定したと考えられ、河北省、山東省、江蘇省、浙江省、福建省が主要な活動範囲で、そこから河川を遡上して来るのだから、それらの地域の沖に大きな倭人の島があると考えていた事になる。

漢書はそれを否定する為に、倭人の活動範囲を「楽浪海中=燕の地域」に限定して誤魔化したが、倭人の島が河北省~福建省の沖にある事は、当時の中国人の常識になっていたから、それを「危四度~斗六度」という一般時には理解できない言葉に変え、倭人の島の規模を矮小化したのではなかろうか。

魏志倭人伝の項で、漢書や史記の箕子に関する捏造史を説明したが、漢書が此処まで酷い捏造書である事が判れば、陳寿が漢書を引用文献とした理由も理解できるだろう。長文を使って冗長な説明を展開する事に終始し、真偽を明瞭に指摘し難い史記の偽善を暴くより、弁明としてコンパクトに纏められた漢書の誤りを指摘する方が分かり易く、逐一説明しなくても幾つか指摘すれば、疑念を持った読者が容易に見破れる嘘が充満しているからだ。

史記は歴史を捏造して漢王朝を正統化する為に編纂されたが、漢書の役割は史記と異なり、世間が指摘する史記の綻びを継ぎはぎする事だった。秦・漢帝国が成立すると、越などの沿岸の交易民族は海外に逃亡し、残った稲作民は意の儘になる隷属民になったが、漢帝国の域外から領内に出向き、各地の豪族を訪問していた倭人は、相変わらず意の儘にならない人々だっただけではなく、交易を行いながら情報も拡散していた。漢王朝はそれに対する対抗策を必要としていたが、班固にできる事はこの程度だったから、却って矛盾が頻出し、史記や漢書を批判する陳寿の格好の標的になった。

班固が繰り出した戦術は、「倭は稲作民とは関係がない海洋民族で、海洋民族としては取るに足らない勢力である東鯷人が、稲作民と連携した海洋民族だから、倭人が歴史の捏造に文句を言っても、部外者であると切り捨てて相手にするな。」と主張する事だった。

東鯷人も漢王朝の成立時に、稲作民の援護者として活躍した証拠が隋書に記されている。日本列島にあった中国人の国である秦王国は、秦末漢初に東鯷人が亡命させた荊の国で、国を作るほど多数の亡命者を受け入れた事は、東鯷人が彼らの戦闘にもある程度協力した事を示しているからだ。それが秦王国の名前である事から判断すると、秦の征服に同調した荊の勢力が、漢王朝の成立時に反抗したからだと考えられる。

通説しか知らない人にはこの説明は無前提に理解できないが、項羽と劉邦の抗争史は、捏造史である史記や漢書の記述に依存せざるを得ない部分が多く、実態は不明である事を前提に論理的な歴史観を展開すると、荊の一部が秦の中華征服に協力したと想定され、それによって秦の統治機構に組み込まれた人が、秦末漢初の動乱によって華南に居られなくなり、九州に渡来した事は極めてあり得る事情だった。

もう少し具体的に言えば、春秋時代の荊の一部が越の委託を受けて高級絹布を生産したが、その素材である高級絹糸はフィリッピンなどの島嶼でしか生産できなかったから、絹布の販売者になった秦が、その絹糸の生産地は広東であると誤解し、利益を独占する為に荊を巻き込んで広東を征服したが、その誤解は越人が荊と秦を騙す為に拡散していた嘘の情報に起因するものだった。

荊の一部は秦の征服の協力者になり、越は彼らを騙していた人々だったから、秦の中華征服と共に海外に逃れた。秦が斉、趙、燕を征服しなかったのは、これらの地域勢力は秦のこの目的とは無縁の存在だったからであり、斉は秦と同一民族の国だったからだ。

秦は誤解していた事が判明した結果として、秦の征服王朝は瓦解し、秦末漢初の動乱を経て漢王朝が生れたが、漢王朝に抵抗した華南の荊が抗争に敗れ、九州の別府に渡来したと考えられる。秦の征服時に北陸部族の手引きで、朝鮮半島の南端に入植した越人が弁韓人で、彼らはこの荊とは犬猿の仲になっていたから、荊は秘かに別府に入植したが、元々は呉人だった事も隠し、秦王国を名乗ったと推測される。当時の大分県の殆どの地域は、宗像・和歌山・奈良盆地を拠点とする対馬部族の勢力圏だったから、この人々の消息は魏志倭人伝には登場しないが、隋の使者を奈良盆地に迎えた倭王は対馬部族の王だったから、隋書に秦王国が登場する。

倭はその様な東鯷人の数倍の海運力と軍事力があり、荊とは縄文時代以降の長い付き合いがあったから、漢王朝の目に余る活動を東鯷人以上に活発化した筈だが、倭人は広東の粤や南シナ海の島嶼の海洋民族と交易していたから、倭人に頼った荊は日本列島ではなく、広東や東南アジアに入植したと想定されるが、未だ気候の寒冷化に見舞われていなかった時期なので、その数は多くなかったと推測される。

 

1-2 漢書王莽伝

漢書/王莽伝に、「越裳氏は白雉を献じ、黃支は生きた犀を貢じ、東夷王は大海を度って国珍を奉じた。」と記されている。国珍は高価な宝物を意味するから、破格の高額賄賂を贈った事を示しているが、その背景や理由は示していない。

越裳氏が白雉を献じた事は論衡にも記され、周代から越が行っていた事だった。漢書地理誌/粤の条に、黃支は南シナ海沿岸の島にある大国だったと記され、王莽が使者を派遣した事が王莽伝に記されているから、地理志/粤の条に記された黃支国への旅行記は、王莽が派遣した使者の報告書の抜粋だった事が分かる。

従って王莽伝に記されたこの東夷黃支越裳氏と同様に、漢帝国の領域内の人々と交易関係にある海洋民族だった。黃支が代表した南シナ海沿岸の海洋民族と、大陸の漢民族との盛んな交易事情は、漢書地理志/粤の条の「中国から往く商人は多くの富を取る。番禺(ばんぐう;広州の古名)は其の(第)一の都会である。」との記述が示している。

東夷はこの時代の日本列島の海洋民族だったと考えられ、倭人以外には考えられないから、班固がそれを東夷と記した事に違和感を禁じ得ない。大海を度って遣使した王が、自分の名を名乗らなかった筈はないのだから、東夷王は「倭国王」と名乗った筈だが、越裳氏黃支と並べて倭と記すと、漢書/地理誌/燕の条に記した「楽浪海中に倭人有、分かれて百余国を為す。歳時を以って来りて献見すると云う。」に込めた、「倭人は昔から稲作民とは関係がない民族だった」と誤魔化した意図と矛盾するから、それを避ける為に倭国王の名を東夷王に書き換えたと考えられる。

更に言えば越裳氏黃支にはその名に「王」が付かず、東夷王にだけ「王」が使われているのは、後漢書のAD107年の記事に記された様に、倭国王自身が長安に出向いた事を示している。それであれば益々、東夷王に関する班固の筆は鈍っただろう。班固が王莽伝にそれを渋々記したのは、世間に知られていた事を記さなければ、班固の立場がなくなる事を恐れたからだと想定され、漢王朝の捏造史を継承する意図が、班固にも働いていた事を此処でも示している。

漢代末期は温暖期が既に終了していた時期で、各地の農耕が不振になり、漢帝国は抜き差しならない状況に至っていた。王莽はそれを憂慮し、漢王朝の捏造に満ちた倫理観に限界を感じ、海洋文化を取り入れる為に全ての海洋民族に和解を申し入れた事が、海洋民族の上記の行動を誘発したと考えられる。

海洋民族もそれに応じて王莽に贈り物を奮発したが、漢王朝の内部に強い抵抗勢力があり、王莽は大した実績を上げる事も無く時間だけが経過したから、王莽政権が短命に終わったと、王莽に好意的な歴史解釈をすることもできるが、嘘に満ちた漢書を読んでも実態は分からない。

漢書が記す王莽政権が滅んだ理由は、春秋戦国時代に越の中核都市だった琅邪を起点に、赤眉の乱が発生したからだが、それが事実であれば、赤眉の乱は王莽に失望した海洋民族が先導した、社会的な混乱だった事になる。

東シナ海沿岸には中華最大の稲作民族だった荊が多数いたが、気候の寒冷化によって揚子江以北の稲作が不振になったから、彼らが海洋民族の誘いに乗って南方への移住機会を求めたが、王莽の優柔不断な姿勢によってその機会が裏切られたから、海洋民族が動乱を発生させ、漢王朝の緊縛から稲作民が解放される事を期し、琅邪の民衆を煽って赤眉の乱を起こした。

漢書はその動乱によって王莽政権が瓦解し、後漢王朝が成立する状況が生れたと記しているが、その経緯の解明を漢書や後漢書のみに頼っていては、事の真偽でさえ明らかではない。漢王朝の官僚やその子孫は、歴史を捏造する事に罪悪感がない人達だったからだ。

稲作民がその動乱の中で、海洋民族の船で東南アジアに移住した事は、東南味の人々の遺伝子の中に高い割合で、荊の遺伝子が含まれている事が示している。その移住費用が海洋民族の大きな収入になったと想定され、更に寒冷化した古墳時代に、華北のアワ栽培者も華南に移住したから、その移住費用が倭人国の収益になり、それを原資に日本各地で大型古墳が作られたと想定される。

史記の編者は、倭人はいずれ漢帝国の領内から撤退すると推測し、倭人に関する記述を完全に排除したのかもしれないが、倭人は漢代の末期になっても活発に活動し、倭国王も長安に出掛ける状態だったから、班固は倭人が各地の豪族に発していた情報力も思い知り、史記の様に倭人を完全に無視する事ができず、渋々燕の条に少し書き込んだが、到底正直に記す事はできなかった。

漢書の成立の背景には、この移住によって史記を批判する中核勢力だった、荊の有力者も中華世界からいなくなり、班固が思い通りに歴史を創作する余地が生れていた事も挙げられるが、それでも倭人に関する記述が極めて限定的だった事は、厳しい対立関係にあると認識していた事を示している。

対立する勢力との交渉経緯を正史に記さない状況は、竹書紀年を記した周王朝に前例があり、農耕民族の一般的な行動パターンだったとも言える。体制内部に厳しい権力闘争があった農耕民族の政権には、体制内にも盛んにプロパガンダを発出する状況があったから、それらの情報を公にできない事情もあったと想定されるが、その様な高尚な話ではなく、民族体質であると考える必要がある。

 

2 後漢書

2-1 後漢書とは

南朝の宋の官吏だった范曄の著述だが、後漢が滅亡してから200年以上経過した5世紀の編纂だから、同時代資料としての価値は低いが、後漢朝の朝議録の抜粋は参考になる。范曄が活動した時代に倭の五王、百済、高句麗が朝貢したから、范曄はそれらの国の使者と接触し、東夷に関する情報を得る事ができた。

范曄はその知識を使い、魏志倭人伝を訂正する後漢書東夷列伝を編纂したが、范曄の目的は先行した三国志/魏志東夷伝を、完全に否定する事だった。魏志東夷伝の「扶余は殷人の末裔で、漢王朝がその扶余に異様に肩入れしていた」との指摘は、漢王朝にとって甚だ不都合な事実であり、その他の東夷諸国の実情や夏王朝と倭の関係に関する指摘は、漢王朝が捏造した史記の歴史観である、「黄河文明の本流を継承した漢王朝は、中華の正統な後継政権である」との主張を、根底から揺るがすものだったからだ。

その為に范曄は、魏志東夷伝と記述形式が類似した後漢書東夷列伝を改めて編纂し、陳寿が漢書を批判した手法を真似し、情報量を増やして魏志東夷伝の記述や論旨の否定を試みたが、情報の質が劣悪でまともな論考とは言えないものになった。

范曄がこの様な後漢書を編纂したのは、彼が漢王朝の官僚系譜の人物だったからであると考えられる。後漢書も史記や漢書と同様に、捏造に満ちた史書である事を、後漢書東夷列伝が示しているからだ。

後漢書は断代史(特定の王朝の歴史)で、東夷諸族の歴史は三国志に詳しく紹介されたから、本来であれば後漢書はそれを記す必要はなく、記述の部分訂正で済ます事が筋だったが、范曄は魏志東夷伝を悉く否定したかったから、魏志東夷伝に記載された諸民族の歴史を、漢王朝を擁護する范曄の立場で改めて、その起源から記述した。

陳寿は漢書を先史としてその矛盾や誤りを訂正し、自分の論旨を冷静に展開したから、范曄も同様な手法で、陳寿の見解を否定する事もできたが、范曄にはそれを可能にする資料も見識もなかったから、東夷列伝を陳寿と同じ形式で作成したが、政治的なプロパガンダに満ちた嘘の羅列になっている。范曄の情報ソースが極めて貧弱だったからでもあるが、嘘を強弁する限界を示していると捉える方が実態に即している。

范曄には目新しい文献資料はなく、宋に朝貢していた倭、高句麗、百済の朝貢使から得た情報を、主要な新しい資料としたが、それらは朝議録や官僚の報告書の抜粋ではなく、雑談のメモの様なものに過ぎなかったから、范曄の匙加減一つで如何様にもなるもので、実態も曖昧さと好い加減さに満ち溢れている。

この様な范曄の方針に、百済の使者が協力した事も、范曄の捏造に大きく貢献したと想定される。百済の王族とその取り巻きは、扶余の残党だったからで、東夷列伝に記載された東夷の諸民族に関する捏造史は、百済の入れ知恵だった可能性も高いからだ。

范曄の愚説を逐一解説する事に価値はないが、東夷列伝の序を読めば、范曄の編纂方針を理解する事ができる。

「王制」(礼記王制編)に云う、「東方を夷と曰う」と。 夷とは柢(根と同義)なり。 仁にして好生(すばらしい生きざま)し、万物は地に柢して(根をしっかりと張って)出ると言う。 故に天性柔順、道をもって御(ぎょ)し易く、君子が不死の国が有る(状態)に至る。(山海経の記述) 

夷に九種有り。 畎夷(けんい)・于夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷と曰う。 故に孔子は九夷に居らんと欲した。(字義の解釈は「古代史獺祭」から引用)

上段は漢代の捏造書から、范曄にとって都合の良い文言を切り出し、訳の分からない屁理屈を展開している。

下段は竹書紀年に記された「夷」の名称の一部を、范曄の論旨に合わせて都合良く切り出している。

竹書紀年は夏王朝期のアワ栽培者を「夷」と呼び、各地域集団に名称を着けて区分した事を示している。それが殷人の祖先集団だったが、竹書紀年は未開の蛮夷であると認識している。後漢書はそれが中華民族の根源であり、黄河文明の本流であると主張し、「天性柔順、道をもって御(ぎょ)し易く、」は、漢書が誤魔化した濊に関するものを、これは殷人の祖先に関する記述であると再び主張し、山海経が記す海の彼方の「君子が不死の国」でさえも貪欲に取り込み、殷人の祖先の国であると主張している。また九夷は殷人の祖先の事だから、孔子が九夷に居らんと欲したのは、その様な殷人の道徳を評価したからであると、荒唐無稽な主張を展開している。

後漢書東夷列伝の「序」は、冒頭からこの様な嘘をてんこ盛りにしているが、現在の東洋史家は、この荒唐無稽な前半部分は無視し、夷に九種有りの部分だけを採用し、歴史事実であるかの様に解説している。文献史学者にとっては、文献に記された文章の断片だけが事実であり、それを知っている事を権威の根源としているから、敢えてその背景に何があるのかを考える事はしないからだ。文章の存在だけを事実化し、それらの矛盾や出典の信憑性には眼を瞑る、論理性が欠如している人達である事を、端的に示す好例になっている。

史記の夏本紀に登場する夷は、夷、萊夷、淮夷、島夷、和夷で総てだから、後漢書の出典は竹書紀年だったと推測されるが、竹書紀年には上記の嘘の根拠になる様な記述はない。竹書紀年の夏王朝期に登場する「夷」はこの九種だけではなく、真っ先に登場するのは、後漢書には記されていない「淮夷」であり、その他に「馮夷」もあり、殷商代に「藍夷」「昆夷」「伯夷」も記されている。夏王朝期の「夷」だけでも九種をオーバーするから、史記に記されたものは無視した事になり、後漢書には矛盾がある。

後漢書が史記に記された「夷」を無視した事は、後漢書が記された宋代の南朝人は史記より竹書紀年に、歴史の事実性を求めていた事も示唆している。

竹書紀年では五帝代~夏代の異民族の地域集団を夷と呼び、夏王朝の征討対象になったり酋長が来朝したりしたから、人種や文化を共有する民族集団ではなく、酋長を戴く規模の小さな地域集団に名称を与え、それらを識別していた事になる。

「夷」は弓矢を使う人を象形化したものだから、彼らはアワを栽培してはいたが、男性達は狩猟を専業とする人達だった事を示している。

中華の農耕民族に大きく2種があり、縄文早期から稲作や交易によって生計を維持していた稲作民族と、穀物だけでは生計が維持できない生産性が低いアワ栽培民族がいて、アワ栽培者は鉄器時代になるまで、狩猟などの副業を止める事ができなかったので、このHPではその様な狩猟民族を、「栽培系狩猟民族」と呼ぶ。殷人の祖先である「夷」は、その様な集団だった。

漢族の祖先もアワ栽培者で、春秋時代以降に政治集団化したが、夏代や殷代の呼称はだったと想定される。彼らはアワだけではなく里芋も栽培し、アヒルを飼う先進的な農耕民族だったので、狩猟民族ではなかったが、弓を武器とする殷人の祖先の暴力により、優良なアワ栽培地から追い出され、収穫を略奪されていた。従って華北の漢族にとっては、殷人は不倶戴天の敵だった。

周王朝が漢族を屯田させて殷人を華北から追放すると、漢族が河北の多数派になったから、殷人の子孫である漢王朝の官僚は、殷人の子孫である事を隠しながら、殷人の歴史的な名誉を復権したい願望があり、後漢書/東夷列伝はその双方を満たす為の著述であり、その方針は史記や漢書の編纂にも貫かれている。

竹書紀年が記すそれらの夷は、孔子の時代である春秋時代には、華北から追放されて存在しなかったから、孔子が使った九夷には後漢書の指摘とは異なる意味があったと考える必要があり、後漢書の論旨はこの点でも矛盾している。

史記の周本紀には夏代の夷は登場せず、東夷が一度だけ記されているが、それは周によって華北から追放された、殷王朝の末裔を暗に指す言葉として使われている。史記は殷人の末路についての記述を避け、漢代には一般人の一部になっていたかの様に装い、東夷は殷人の末裔を曖昧に指す言葉だったからだ。つまり歴史を誤魔化す為に使った言葉だから、特定の民族を指す当時の言葉ではなく、周代には「夷」と記されるべき集団は華北から消滅し、彼らの子孫は東の遼寧に逃れていたと、間接的に指摘している。

竹書紀年と史記の両方の記事として、殷王朝最後の紂王の事績に、九侯と呼ばれた諸侯があり、周侯、邘侯と併記されて登場する。周侯は周王朝の祖先の事だから、と呼ばれた著名な集団がいた事と、九夷は殷末に九侯と呼ばれる身分になった事を示している。この原文は「帝辛元年 王即位、殷に居す。九侯、周侯、邘侯を命じた。」で、意訳すると、「九、周、邘に、殷の諸侯になる様に命じた(叙任した)」で、これも後漢書の主張を否定する証拠になる。

竹書紀年に帝芬三年 九夷來御」と記され、帝芬3代前の帝相の時代から、多数の「夷」との交渉が記されている。それを列記すると、

淮夷を征す、

風及黃夷を征す、

于夷來賓、

方夷來賓

した夷に來御を使うのは不可解だから、范曄の論述はこの指摘でも破綻する。

帝芬の2代後の帝泄の事績に、畎夷、白夷、玄夷、風夷、□□、黃夷を命じたがあり、この「命」は上記の帝辛の事績と同様に、異民族の状態から「夏王朝の配下に組み入れた」事を意味するから、その様な者達に來御を使う筈がなく、范曄の論述はこの指摘でも破綻する。

□□は判読不可能を示しているが、范曄の陽夷がそれである可能性がある。

「九」は多数を意味するから、九夷は「多数の集団が合体した夷」で、それを統括する者がいたから九夷と自称した事になる。その族長が夏王朝の帝芬を訪問したから、「九夷來御」と記されたと考えられ、彼らも弓矢の扱いに習熟した人々だった。

日本列島には多数の海洋民族集団があり、各々の集団に族長がいたから、夏王朝がそれを九夷と呼んだと推測されるが、むしろこの集団が「九」を名乗ったと解釈するべきだろう。

日本の歴史を論理展開すると、九夷は九州の海洋民族集団で、複数の部族が参加していただけではなく、この時代には部族内に地域部族が生れ、それぞれの交易活動が分裂していた事が判るので、実際に9個の集団で構成されていた可能性もある。九州と呼ぶ日本の島の名称も、本州と九州を区別する名称で、「州=洲=島」だから「九の島」を意味し、九夷を起源とした名称である可能性が高く、これらの想定の傍証になる。

夏代以降は夷とは別の集団との交渉も始まり、それらの民族の呼称として「戎」が多用されたが、夏王朝期の「戎」は漢族の祖先を指していた。「夷」が弓矢を使う栽培系狩猟民族を指したのに対し、「戎」は戦闘の際に戈()(ほこ)と干(かん)(たて)を使う人を意味し、弓矢の使用に習熟していなかった事を示している。青銅が高価だった夏王朝期には、「戎」は矢を避ける盾と棍棒や石斧を持って戦う人だったと推測される。

弓矢を使う集団である「夷」が生れたのは、沿海部のアワを栽培する栽培系狩猟民族が、関東部族との間で獣骨と弓矢を交換する交易を行い、関東部族は獣骨から漁労用の銛を作り、夷は弓矢を入手して効率的に狩猟をしていたからで、その様な殷人の祖先によって交易に有利な地域から追い出された漢族の祖先は、アワの他に里芋も栽培し、アヒルを飼う多角的な農耕によって生き延び、「戎」と呼ばれていた。夏王朝最後の帝の事績に登場する「踵戎」は、その様な漢族の祖先だったと推測される。

殷商代になると「西戎」「鬼戎」が登場し、の政治集団化が進展した事を示し、内陸の西安を拠点とした周代になると、「離戎」「犬戎」「徐戎」「條戎」「奔戎」「姜戎」などの多数のが登場する。が西方の内陸に多かった事は、内陸のアワ栽培者は関東部族と交易する機会に乏しく、弓矢の使用に習熟していなかった事を示している。弓矢を使う為には高度な熟練が必要で、道具さえあれば使えるものではなかったからだ。

後漢書東夷列伝の「序」は、魏志東夷伝によって東夷の地であると指摘された朝鮮の歴史を、以下であると記している。

秦が六国を并せると、淮夷と泗夷は皆散り、民戸になった。陳勝が挙兵すると天下は崩潰し、燕人の衛満が戦乱を避けて朝鮮に逃げ、その王になった。百余年後に武帝がこれを滅ぼすと、東夷は京(長安)と通交し始めた。王莽が皇帝位を簒奪すると貊人(高句麗)が辺境を寇したが、建武(後漢の光武帝の時代)の初めに復び朝貢した。遼東太守が北方を威嚇し、海表を哨戒すると、濊、貊、倭、韓は万里の彼方から朝献し、故に章帝、和帝の時代まで交流が行われた。永初に多難があり、攻劫や掠奪が始まり、桓帝と霊帝期に失政が蔓延る様になった。(後漢の)中興の後は四夷が来賓し、時には対立して叛く事も有ったが、使駅が絶える事はなかった。それ故に(東夷の)国俗風土を略記することができる。東夷はあるがままに皆各地に土着し、飲酒や歌舞を憙び、弁を冠し錦を着て俎豆を用いる。所謂「(魏志東夷伝の)中国失礼、求之四夷」はそれである。凡そ蛮、夷、戎、狄と呼ばれる四夷の者は皆、今になっても公、侯、伯、子、男を号す諸侯であると云う。

注目すべき個所にアンダーラインを付けたが、淮夷と泗夷は皆散り、民戸になったとの記述は、この時代にも「〇夷」と称す集団がいたかの様に記しているが、春秋時代以降の各民族集団や地域集団にはそれぞれ名称があり、竹書紀年には登場しない。最後に登場するのは西周末期の宣王の時代に、未開な集団である淮夷徐戎を討伐する記事があり、両者は周王朝によって追放できなかった殷人系の民族集団だった事を示唆している。

その様な事情にも関わらず敢えて淮夷と泗夷を挙げたのは、孔子がいた春秋時代まで「〇夷」と称す9個の集団がいたのであり、徐州を出自とする劉邦とその一党は、春秋戦国時代には身分のある者だったと主張している事になる。史記にも記されていない嘘を持ち出しているが、范曄の祖先も淮夷だった事を示唆している。

(後漢の)中興の後は四夷が来賓し以降の文で、自分は後漢代の文献を渉猟したから、陳寿の論説を訂正できるのだと主張しているが、魏は後漢の皇帝から禅譲によって帝位を得た王朝だから、王朝の書庫は保全された状態にあり、魏の官僚は楽浪や遼東に赴任する際に、漢代の文献まで読了してから報告書を記した筈だから、同じ文献を根拠に陳寿の見解を真っ向から否定した事になり、范曄の主張には矛盾がある。

これを厳密に言えば、魏の官僚や陳寿も後漢王朝の文献は読んだが、彼らは東夷諸民族の伝承を重視し、後漢代の官僚の報告書は無視した。しかし范曄は改めてそれを読み直し、後漢書東夷列伝を期したと主張している事になり、その可能性は皆無であるとは言えないが、後漢~晋の都だった洛陽は、西晋滅亡時に大々的に略奪されたから、文献は失われていた可能性が高い。王朝の朝議録にはコピーがあり、それが地方の官僚にも回覧されたから、それらの写しを范曄が搔き集めて後漢書を編纂したと推測されるが、諸官僚の膨大な報告書は灰燼に帰していた可能性が高く、灰燼に帰さなくても散逸していたから、范曄の手元にはなかったと考えられる。

范曄が後漢書を編纂する事ができたのは、先行していた後漢代に関する史書と、范曄も含めた東晋系譜の官僚の中に、後漢朝以来の官僚の家系が残存し、彼らが抱えていた祖先伝来の文章を集めたからである事になるが、それらの直接的な資料は報告書の断片であり、先行史書には他者の認識のフィルターがあり、歴史を編纂するに足りる資料とは言えないものだった。従って陳寿の様に官僚の報告書を正確に転記したとは考えられず、それだけでも偏った史書になる事から免れ得なかったが、漢王朝の官僚の体質を濃厚に継承していた范曄の編纂では、更に多量の創作が混入した疑いが濃い。

後漢書東夷列伝に記された扶余の起源伝承は、後漢代に著述された論衡と同じである事が、漢王朝の官僚が創作した嘘の歴史の焼き直しだった証拠を示しているが、多少の食い違いがあるのは、宋に朝貢した百済の使者の嘘も混入したからである疑いがある。

百済は扶余の残党が樹立した政権だから、范曄の歴史捏造に積極的に参加する動機があり、その証拠として以下を指摘する事ができる。

後漢書東夷列伝の高句麗伝は、高句麗は扶余の別種であると記しているが、好太王碑文が示す高句麗の始まりとは全く異なっているから、これは范曄の創作だった事になる。好太王碑文は、高句麗の始祖は北扶余(シベリア)から南下した、交易民族だった事を示しているが、扶余は交易性がない農耕民族だったからだ。

扶余に関する記述の変遷を追跡すると、

論衡/吉験篇では「北夷橐離国の王の侍婢の子が、扶余の始祖である東明になった」と記している。

魏略では「北方に高離の国が有り、其の王の侍婢の子が東明」と記し、遠く離れた国で名称は不明であるとし、漢代の影響から脱してはいないが、事実を求める姿勢を示している。

後漢書東夷列伝では「北夷の索離国の王の侍兒の子が東明」と記し、後漢代に記された論衡のプロパガンダを復活させたが、橐離国索離国に変っている。

東明が王になるまでの神話的な説話は、皆酷似している。

隋書に高句麗と百済の始原に関する記述があり、高句麗の出自は扶余であると明記され、その逸話は扶余の始祖伝説の焼き直しになっている。百済の始原説話も高句麗のものと類似し、百済の始祖は高句麗になっている。高句麗の始祖の名が「朱蒙」で、これは好太王碑文の「鄒牟王」と音が似ているが、漢字が意図的に変えられている。百済の始祖の名が「東明」である事は、隋にこれらの嘘を申告したのは、扶余の後継集団である事を隠さなくなった、百済の使者である事を明示している。

つまり百済の朝貢使節は、近隣国に関する嘘を振り撒く常習犯だった事を示し、漢王朝、扶余、百済を形成した殷人が、どの様な体質の民族だったのかを示している。百済のこの様な体質を暴いているのは隋書だけではなく、梁書はもっとあからさまに、「百済の使者がこの様に言った」と明示している。隋書や梁書は唐の太宗の命令によって編纂された史書だから、太宗の国際戦略の特異性を示している事になり、詳細は(8)隋書参照。

つまり百済は范曄と利害関係を共有する民族集団で、范曄に必要な情報を提供できる存在だった。

范曄は南朝の官僚だから、晋の史観だった陳寿と比較すると歴史文章の備蓄量は大幅に劣っていた。晋の都は後漢と同じ洛陽だったが、宋は晋が滅んでから華南に逃げた漢民族が、南京に樹立した王朝だったからだ。晋が滅んだ際に、戦乱の中から誰かが朝議録を持ち出し、健康(南京)まで運んだから范曄が後漢書を執筆できたか、華南に逃げた官僚がその控えを持っていたか、華南の在地官僚がその転記を持っていた事になるが、膨大な書籍を総て持ち出したとは到底考えられない。

従って范曄が集める事ができた直接的な資料は、陳寿が参照した官僚の膨大な報告書ではなく、漢王朝系官僚の転記メモや、倭や高句麗や百済の使者から聴き取った、後漢代の彼らの事情だけだったと想定され、それ故に(東夷の)国俗風土を略記することができるは、嘘だったと断じざるを得ない。転記メモには転記者の意図が織り込まれていたし、使者の記憶は曖昧だったから、それを聴き取った范曄の創作が話の欠落を埋めた可能性もあるが、范曄の捏造創作も多々ある事を嘘に塗れた序の文章が示し、嘘や捏造を平気で公言する気質は殷人由来の民族性だったからだ。

現在の中華や朝鮮半島の民族も、同様の民族性を発揮しているのは、中華は漢王朝に400年間支配された結果であり、朝鮮半島はその様な中華民族が南下し、高麗と李氏朝鮮を形成して千年朝鮮半島を支配した結果、人々の倫理観が殷人的になったからだと考えられる。全羅道はそれ以前に殷人直系の百済に300年近く支配されたから、更に状況が歪んでいる可能性があり、韓国人が全羅道を特別視する原因である疑いも濃い。

所謂「(魏志東夷伝の)中国失礼、求之四夷」以降の主張を意訳すると以下になる。

陳寿が魏志東夷伝の序の末尾に、「中国失礼、求之四夷」と記したが、凡そ蛮、夷、戎、狄と呼ばれる四夷の者は皆、春秋時代の古い価値観に囚われ、今になっても中華から諸侯の称号を得ている様な連中だから、彼らに礼を教えて貰う事などナンセンスだ。

これが後漢書東夷列伝の序の〆の言葉だから、范曄が後漢書東夷列伝を編纂した目的を、この文章によって宣言していると言っても良いだろう。陳寿に対する敵意を剥き出しにしているのは、南朝の北伐を正当化する為ではなく、漢王朝の官僚の末裔として漢王朝は偉大だったとの嘘を、人々に印象付ける為でしかなく、殷商民族の最後の遠吠えとして解釈する必要がある。従って後漢書東夷列伝を史書と見做す事に問題があるだけではなく、史記、漢書、後漢書の全てについて、記述毎に批判的に解釈する必要がある事を、再認識させる書籍でもある。

通常の民族は価値観を共有する同族の支配を望むが、漢民族にはその意思がなく征服王朝軍の蹂躙に任せ続けたのは、中華民族と言っても文化が異なる民族の寄せ集めだった事も、その原因の一つではあるが、漢王朝の統治を経た全ての民族の文化的な統治能力が、彼らが常々侮蔑していた、北方の遊牧民族より酷く劣っていたからだ。その原因は漢王朝に支配された400年間に中華人の倫理観が失しなわれ、本来であれば民族が異なっても共有できる筈の基底的な秩序認識さえも、維持する為に必要な共感できる倫理に乏しい民族に、なってしまったからだと考えられる。(10)縄文時代以降で論考するが、稲作民族は高度な秩序認識を持っていた事を、竹書紀年の合理的な歴史観が示しているからだ。

北方の騎馬民族(唐、元)や農耕民族(宋、清)はシベリア起源の先進的な文明を継承し、北方にいる間は地域自治が維持されていたから、征服時の彼らの統治能力は漢民族より高かった。しかし多数派である中華民族に埋没すると、彼らも当初の民族文化を失い、民衆に支持される王朝になる事はできなかった。

 

2-2 後漢書が記す朝鮮

史記と漢書は、海洋民族が中華文明の形成に重要な役割を担った事実を抹殺する為に、稲作民の国と共に箕氏朝鮮の存在も無視した。しかし真実を求める風潮が高まった魏・晋代の魏略と三国志は、殷周革命の発端を作った箕子を輩出した、箕子朝鮮の存在を史実とする見識を示した。それを受けた范曄が、箕子朝鮮をどの様に扱ったのか検証し、范曄の立場や意図を明らかにする事により、後漢書倭伝を冷静に判断する基礎資料にする。

後漢書/東夷列伝/濊伝に、以下の様な記述がある。

漢初に大乱があり、燕、齊、趙人が乱を避けて数万人が往き、そして燕人の衛満が準を撃破して自分が朝鮮の王になった

孫の右渠に至った元朔元年に、濊君の南閭等が右渠に叛き、二十八万人を率いて遼東に逃げ込んだので、武帝は其の地を蒼海郡とし、数年後の元封三年(BC108年)に朝鮮を滅して楽浪、臨屯、玄菟、真番の四部を分置した。

昭帝の始元五年(BC82年)に、臨屯と真番を廃止して楽浪と玄菟に併合した。玄菟は再び高句驪の居住地に遷り、単単大領より東の沃沮と濊貊は皆楽浪に属した。その後、境の地域が広く遠いので、領東の七県を復た分割し、楽浪東部都尉(軍事拠点)を置いた。

郡県に内属する事が終わった後は風俗が薄くなり、法で禁じられる事を浸す者が多くなり、六十余條も有る状態に至った。

燕人の衛満が準を撃破して自分が朝鮮の王になったと記した事は、朝鮮は単なる地名だったとの史記や漢書の主張を踏襲しているが、朝鮮を滅して楽浪、臨屯、玄菟、真番の四部を分置した滅したという表現は、朝鮮衛満の王朝名に変わった事を示すのと同様に、朝鮮と呼ぶ政権があった事を暗黙裡に示し、歴史を捏造した者の陥穽に陥っている。

朝鮮は地名ではなく、統治組織の名前だった。その事情を説明すると、夏・殷・周代の朝鮮は遼東にいた韓族の混成集団で、殷末に朝鮮の指導者だった箕子が、稲作民族の微子と共に殷墟に出向いたのは、夏王朝の規律を乱していた殷の紂王を咎める為だった。当時の箕子朝鮮は、殷王朝に玉器を納める集団であり、海洋民族と稲作民族が作り上げた、中華の海洋交易文化圏に属す民族だったからで、その文明圏を統括していたのが夏王朝だったから、殷王朝も夏王朝に参加する民族集団だった。つまり箕子微子は夏王朝が派遣した、夏王朝の法規に従わない殷王を詰問する使節だった。

朝鮮は遼東を拠点としていたが、遼東と遼西は遼河の右岸と左岸を示す地名で、当時の渤海は現在より遥かに内陸に湾入していたから、瀋陽辺りが当時の遼東で其処が朝鮮集団の拠点だった。遼東半島は倭人の船が渤海に入る玄関口で、多数の船が往来する場所としてと呼ばれ、朝鮮は遼東半島の付け根で産出する岫岩を加工する集団でもあった。つまり遼東と韓が地名で、両地域を領有する朝鮮が政権の名称だった。

濊君の南閭等が右渠に叛き、二十八万人を率いて遼東に逃げ込んだので、武帝は其の地を蒼海郡とした事は、魏志扶余伝が、漢王朝が扶余の王に与えた玉器に「濊王之印」の印文があると指摘している事と符合し、濊君は扶余王だった事を示している。これは漢書武帝期の、「東夷の薉君南閭等口二十八萬人が降り、蒼海郡を為す」の追記になり、范曄はそれを事実認定する事によって情報量の豊かさを示す積りだったと考えられるが、その情報源は百済だった事を示唆し、衛氏朝鮮が扶余を支配していた事を不用意に暴露している。

これを歴史に即して説明すると、春秋時代に燕が盛大になると、周に追われて遼西~満州にいた扶余に対する攻勢を強め、燕が遼西に侵攻して扶余を追い出し、燕の領地にした。鉅燕の名称はその様な燕を指したと考えられる。秦が滅んで漢王朝が生れると、華北から殷人を追放して強大になった燕、斉、趙の統治者は、身に危険を感じて遼東に逃げ込んだ。彼らが統一政権として衛氏朝鮮を結成し、温暖期が終わって気候が冷涼化し、満州から撤退して人口減減少した扶余を支配下に置いた。

その様な窮状に陥った扶余は、政権が安定しつつあった漢王朝に助けを求めた事情が、濊君の南閭等が右渠に叛いた事に繋がる。華北の漢族は扶余を不倶戴天の敵であると認識していたから、彼らは支配民とする漢王朝は、漢王朝が扶余を助けた事や、扶余は殷人の子孫である事を隠す必要があったから、史記や漢書は当時の歴史的な経緯を巧みに隠したが、後漢書は百済の民族意識を受けいれ、この表現によって一部を暴露した事になる。

范曄のプロパガンダは漢書が示す繊細な誤魔化しとは異なり、不用意な記述によって漢書が隠した事を暴露しただけではなく、嘘が大胆なものになっている。漢代には真実を知っている人が沢山いたが、南朝時代になるとその様な人は極めて少数派になり、范曄自身でさえ真実を掴む手段がなくなっていたからだと推測され、范曄のこの姿勢は現在の韓国人や中国人の先駆者の様に見える。

 

2-3 後漢書/東夷列伝/倭伝

後漢朝の朝議録の倭に関する抜粋として、以下が記されている。

「建武中元二年(AD57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てする。」 

「安帝の永初元年(AD107年)倭国王師升等、生口(奴隷)160人を献じ、請見を願う。」

これは朝議録の全文ではなく、范曄の恣意的な切り取りか、或いは漢王朝系譜の官僚の私的なメモだった疑いもあるが、いずれにしても朝議録の転記だったと考えられるから、以下にその語句の意味と背景を検証する。

「使人自ら大夫と称す」

「大夫」は春秋戦国時代(BC8世~BC3世紀)の、諸侯の重臣身分に使われた呼称だが、秦が中国全土を征服して官僚が統治する帝国を形成すると、その様な身分はなくなったから、その呼称も使われなくなった。

しかし倭人は後漢代になっても邪馬台国の時代になっても、春秋時代の様な小国分立制を維持していたから、その身分呼称を使い続けていた。後漢朝の役人はそれに驚き、朝議録に特記したと思われる。驚いたとは記していないが、驚かなければ朝議録に記されなかっただろう。中華ではその呼称を使わなくなってから300年近く経っているのに、倭ではまだ使っていたからだ。

范曄もその様に解釈して後漢書に特記したと考えられ、魏志倭人伝が古より以来、其の使者が中国に詣でる際には、皆、自から大夫と称した」と、倭人の使者が中国で大夫と称したのは夏代の事であると記している事に対し、「後漢の人が驚いたのだから違うのではないか」と主張する為に転記したと考えられる。東夷列伝の序の末尾に記した、春秋時代の古い価値観に囚われている」との主張の、根拠になっている可能性が高く、范曄と接した倭国王の使者も、自身は大夫であると言った可能性も高い。

倭人の「大夫」身分は、史記や竹書紀年が記す春秋戦国時代の用例と同じだから、春秋戦国時代に倭人が中国に出入りしていた事、その時代に倭人も身分制度を持っていた事、中国の地域国家と関係を持っていた事を示し、范曄の意図と合致するものではない。魏志倭人伝が「古より以来」とした「古」は夏王朝期で、陳寿は倭人がその呼称の起源だと言っているのだから。

日本では平安時代になっても、高官の身分呼称に「大夫」が使われ、呉音で「だいぶ」と発音する場合は高官を意味し、漢音で「たいふ」と発音する場合は、五位という低位の官位を意味した。呉音の起源は春秋時代まで存続した呉に遡り、呉音は当時の国際語になっていた漢文の発音だったから、呉音で発音しながら漢文を読めば会話も成立したからだ。

漢代~唐代に呉音は標準音ではなくなり、呉音を習得する意味は薄れたが、倭人社会では別の意味で呉音を堅持する動機があったから、倭人社会には過去の文化を尊重する伝統がある事と相俟って、現代になっても呉音と漢音を明瞭に区分している。

呉音を堅持する動機が生れたのは、倭人政権が崩壊して唐に倣った奈良朝が成立すると、奈良朝の女性天皇が漢音を奨励し、政策に関する決定権がなかった官僚がそれに従ったが、平安朝の官僚はそれとは異なり、特に大夫には天皇を凌ぐ強い権限があったから、それが奈良朝と平安朝の違いの象徴になり、「だいぶ」と「たいふ」の違いが生れたと推測される。

通説では、漢音を使う隋唐の文化を遣唐使が取り入れ、日本の文化が発展したと主張しているが、平安朝の貴族は唐文化に高級性を感じていなかった事を、上記の呉音重視が示している。大夫の制度は倭が発祥地であり、倭人文化を継承した平安朝にとって、倭人体制の復活を象徴する意味があった事を示し、平安文化の和風化と遣唐使の中止には、直接的な関係はなかった事も示している。

端的に言えば奈良時代の70年間は統治の仕方を唐王朝モデルに求めたが、唐の統治の乱脈状態に嫌気が差したたから、奈良朝の政治体制が平安朝のものに変ったのではなく、女性天皇に中華の皇帝の様な強大な権限を付託した、奈良朝の政治体制には問題点が多かったから、大夫(高級貴族)を中核とする倭人時代の合議制を重視し、象徴天皇制に切り替える為に平安朝を興したと考える必要がある。

「倭国の極南界なり」

魏志倭人伝の指摘とは異なっていたから、意味不明な言葉として特記したのではなく、魏志倭人伝を否定したかった范曄はこの記述に飛び付き、宋に朝貢した倭国王の使者にも確認したが、邪馬台国の後継国だった当時の倭国の使者は、邪馬台国が魏の使者に示した地理観と同じ認識を示したから、范曄には「倭国の極南界」の意味は理解できなかったが、魏志倭人伝を否定する有力情報である事に変わりはなかったから、後漢書東夷列伝に特記したと考えられる。

奴国は邪馬台国より200年早く朝貢したが、この頃の倭人には未だ中国人を騙す統一見解がなく、交易に不慣れだった奴国の使者が、不用意にこの事実を後漢朝に示してしまったと想定される。

山海経/海内北経にBC4世紀頃の事として、「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。」と書かれ、倭人の島は山東省にあった蓋国の南、即ち台湾の沖にあると記しているから、この認識はこの頃からあった事になる。三国志の呉志が示す様に、卑弥呼の時代に三国時代の呉が、倭人の島であると勘違いして台湾に侵攻したから、当時の倭人が魏の使者を招き、漢書が示す「楽浪海中に倭人あり」との認識を訂正させた事は、(1)魏志倭人伝の項で指摘した。

魏志倭人は、「(邪馬台国は)當に會稽東冶の東に在り」と記しているから、倭人の思惑通りになった様に見えるが、范曄に接した倭国王の使者にとっては十分ではなく、更に范曄を騙した事を以下の文が示している。

倭は韓の東南の大海中に在り・・・其の大倭王は邪馬臺國に居す。楽浪郡から一萬二千里、拘邪韓國から七千餘里、其の地は大較(およそ)、會稽東冶(福州)の東に在り、朱崖と儋耳に近い。故に其の法俗に同じものが多い。

朱崖と儋耳は、漢代に海南島に設置した郡の名称。倭国王の使者は、邪馬台国が台湾に近い場所にあるとの認識では、華南の漢民族の侵攻を再発させる恐れがあったから、台湾から1000㎞離れた海南島の方が近いのだと騙し、范曄もそれを受け入れた事を示している。

奴国の使者の正直な申告は、倭人の掟に反していた事になるが、これによって海洋民族の緯度認識の精度を見極める事ができる。

倭人の国は北九州、備讃瀬戸両岸、大阪湾岸、駿河を含む関東にあり、九州では筑紫がそれに該当し、肥、熊曽、豊の地は倭人の国ではなかったから、北九州の奴国が、倭人の国としては最も南に位置していた事は間違いないが、讃岐平野の南端と大宰府市の緯度は1/2度違うだけから、海洋民族だった倭人はそれより高い精度で緯度を測定し、奴国は最も南あると認識していた事になる。

魏の使者にはその様な天文知識がなかったから、緯度が10度も違う大阪湾と福建省の南北関係が分からず、自ら出向いたにも拘らず邪馬台国は会稽の沖にあると騙された。漢王朝が朝鮮海峡の狭さを知れば、北九州の奴国は真っ先に征服対象になったにも拘らず、奴国の使者が正直に奴国の位置を申告した事は、奴国の倭人は倭人連合の交易ルールを知らない、交易者としては僻地の人だった事を示している。

魏の人は北極星の高度から緯度を推測する事を知らない人、つまり緯度の概念を知らない人だった事になると共に、倭人は華北のアワ栽培者はその様な人だった事を、確信的に知っていた事になる。

吉野ヶ里遺跡に城郭集落が形成された事を以て、文明の曙光が其処で生れたと考えている人が多いが、その様な発想は中国の史書とも相容れないし、遺伝子分布の解析結果とも矛盾する。城郭集落は発掘しやすいから考古学的に注目されやすく、それらの進化を、文明の発展と捉えたい気持ちは分からないでもないが、交易を経済基盤としていた海洋民族は、領土の争奪に興味がなかったから、魏志倭人伝が示す平和な社会が実現していたと考える必要があり、拠点都市に城郭があったのではない。

魏志倭人伝は倭人の国々に市があったと記しているが、城塞があったとは記していない事がその証左になる。卑弥呼の居館だけが城柵を設け、武器を持った者が守る事を異様な光景であるかの様に記している事も、この時期の日本の事情を示しているが、考古学者は城郭や都市がなければ文明はなかったと考える傾向があり、遺伝子分布を解析した結果が明らかになると、誤った歴史認識であると言わざるを得ない状況になった。

多くの歴史学者は朝鮮半島に近い北九州が、弥生時代の日本で最も先進的な地域だったと主張するが、魏志東夷伝を読めば、朝鮮半島には大した文明はなかった事が理解できる。魏志倭人伝や漢書・後漢書は、倭人は沖縄を経由して華南に至り、稲作民や東南アジアの海洋民族と交易し、文明的な情報を交換していたと指摘しているのだから、それを受け入れるべきだ。北九州はそのルートから外れた辺境だったから、奴国の大夫が後漢朝に、「(奴国は)倭国の極南界」にあると言ってしまったと考える必要がある。

彼らに託された使命は交易の活性化ではなく、扶余や漢族の朝鮮半島南下を食い止める為の、防人の役割だったからで、北九州が文化的な僻地だったわけではない。北九州の支石墓や甕棺から発掘される、戦闘行為によって傷付いた遺体は、防人として遼東や朝鮮半島に渡り、戦闘で斃れた人々を特別に厚く葬る為の、特別墓に埋葬された人々だったと考えられるからだ。その戦役に耐える為に北九州に鉄が集められ、戦死者を手厚く葬る為に、日本で最も早く墓制が進化した地域になったと考える必要もある。

北九州が経済的に繁栄したのは、奴国の朝貢によって後漢王朝との交易が盛んになってからで、それ以前の北九州の遺跡から発掘された奢侈品的な物品は、北九州の健気な貢献に対する他の倭人国からの、謝意を込めた貢納だった可能性が高い。

前漢代に弥生温暖期が終了し、華北の農耕が打撃を受けると、漢王朝には朝鮮半島を南下侵攻する国力が失われたから、奴国も交易に参加できる様になり、後漢が成立すると交易量を増やす為に朝貢したが、漢王朝に朝貢すること自体が倭連合の掟破りだった。奴国王としては折角始めた本格的な交易を、早く軌道に乗せたいと焦り、掟破りの朝貢を行ったから、倭人国が不文律としていた大陸政策を知らずに、後漢に朝貢したと考えられる。

「光武賜うに印綬を以てする。」 

博多湾の志賀島から出土した、「漢委奴国王」と刻印された金印を指す。奴国王の使者が金印を要求したのではなく、奴国の使者が貢いだ贈り物に対する返礼として、光武帝が恣意的に金印を選定した事を示している。倭連合に属していた奴国が、統治の根拠として漢帝国の認知を必要とした筈はないから、光武帝の政治的な意図により、無理矢理金印が下賜されたと考えられる。漢委奴国王は倭の上位に漢がある事を示しているから、倭人や倭国王が許容できる印字ではなかった事と、隠す様に金印が埋められていた事が合致する。

「倭国王師升等、生口(奴隷)160人を献じ、見 (まみゆる)を請願する。」 

奴国の使者が朝貢してから50年後に、奴国王の上位者だった倭国王が諸王を率いて洛陽に出向き、後漢の皇帝に贈り物をして「会見」を要求した。倭国王に従って洛河を遡上した諸王の船は相当な数に及び、壮観を示したと想定される。中華の正史は「見を請願する」と尊大に表現しているが、倭国王は対等な関係を求めたと推測される。范曄がこの記事を特記したのは、倭国王が朝貢した事を示し、後漢皇帝の偉大さを示す為だったと考えられるが、倭国王と皇帝の接見は、奴国の使者を接遇した事より重大事件だったにも拘らず、それに関する記載はない。范曄にとって都合が悪い内容だったか、メモにはそれしか記されていなかったと想定される。

倭国王の行動は、百余国を統括する王として大胆過ぎる様に見えるが、漢書の章でも示した様に、漢末の倭国王は洛陽より奥にあった長安に出向いた可能性が高く、倭国王の気紛れではなかった可能性が高い。倭国王が交易相手国を訪問する事は、珍しくなかったのではなかろうか。

漢代の中華には倭国王しか訪問しなかったが、秦によって中華を追い出される以前の春秋時代の越や、黄支国などの東南アジアの海洋民族とは、頻繁に訪問し合っていたと推測される。

 

3、後漢書東夷列伝から推測できる事

3-1 魏志倭人伝の訂正

倭人伝を訂正した范曄の情報源は、宋に朝貢した倭国王の使者だったと考えられるから、魏志倭人伝を訂正した真意を読み解くと、古墳時代の倭の事情を推測する事ができる。

魏志倭人伝の「旧百余国有り、漢(前漢と後漢)の時に朝見する者有り、今使訳の通じる所三十国なり。」を、後漢書は「凡そ百余国あり、使駅の漢に通じる三十ばかりの国があり、国ごとに皆王と称し、世々統を伝える。」と加筆訂正している。

魏志が記す使訳は通訳を随行させた使者を意味し、後漢書の使駅は転記ミスであると見做す説があるが、范曄は序にも使駅を使い、他の場所と併せて3回使っているが、使訳の用例はないので魏志を訂正する為に使った、范曄独特の熟語だったと解釈される。

使駅は公用宿舎である駅を使う役人を意味し、通訳が付く意味はない。貿易立国だった倭や高句麗の使者は、通訳を使わずに中国語で話したと想定され、倭人は移民事業を行っていたから、会稽や南京に商館を持っていた可能性が高く、それを意識した言葉だったと考えられる。漢書が示す様に「毎年『献見』(貴人に合う)する」為には、言葉が通じるだけでなく漢字を使う事ができ、典籍の素養も必要だったと推測される。

蜀の出身である陳寿が知っていた西域の民族は、交易する際に漢字を使わなかったから、使者には通訳が必要だったと推測され、陳寿は倭人と面会した経験はなかった事を示している。従ってこの訂正については、范曄が正しかった。

魏略に「其の言い伝えでは、自ら太白の子孫だと言う」と記されたのは、史記の欺瞞的な内容を、揶揄した倭人がいた事を示している。これは嘘だから、陳寿はこの文を採用しなかったが、魏略がその記事を採用した事情は、以下の様なものだったと想定される。

史記の呉太白世家に、太伯が卒すと子が無く弟の仲を雍立して呉の仲雍としたとの記述があり、これは呉を貶める為に史記が創作した物語の一節で、太白は周王朝系譜の人であると詐称し、呉を周より下位に置こうとする捏造史だった。

漢書はそれをコンパクトに纏め、微修正しているのでその一部を以下に示す。

大伯が荊蠻に奔ると荊蠻が之に帰(属)したので、句号した。大伯が卒すると仲雍が立ち、曾孫の周章に至り、(周の)武王が殷に克ったことに因って之を封した。・・・・後二世の荊蠻の子の壽夢が、盛大になって王を称した。其少子(末子)の季札が賢材だったので、兄は弟に国を伝えるを欲したが、札は讓って受けなかった。大伯から壽夢の六世を王と称し、闔廬が伍子胥を挙げ、孫武を將と為し、戰勝攻取し、伯の名を諸侯に興した。子の夫差に至って子胥を誅し、嚭を宰に用い、王句踐が滅す所となった。

後半は著名な逸話で、中国の歴史物語に色々尾ひれが付いた逸話が書かれ、臥薪嘗胆などの四字熟語も生まれているが、これらは全て史記と漢書の捏造話に過ぎない。

100余の倭人国が「国ごとに皆王と称し、世々統を伝えている」事と、諸王が呉の王族の子孫である事は矛盾するから、倭人が自ら太白の子孫だと言った事は、魏略だけの指摘に終わって陳寿は無視した。その様な魏略の著者の認識力の低さが、後世に完本が遺らなかった理由を示唆している。

倭人は史記や漢書の記述は嘘である事を知っていたから、太白には子がなかったので弟が継いだと記されている事を皮肉り、何処かの倭人国の王は太白の子孫であると、訪問した何処かの豪族に冗談を言ったと推測される。

漢代の呉人の子孫は王朝の圧政に苦しんでいたから、この冗談が意図的に誤認識され、倭人待望論が拡散した可能性がある。漢書王莽伝に東夷王が王莽に国珍を貢いだと記されたのは、呉人の子孫が東南アジアに移住する便宜を図って貰う為であり、それが無理だと分かると、赤眉の乱の動乱に紛れて呉人の子孫を多数東南アジアに移住させたから、その理由として後漢代まで逸話が残っていた可能性もある。

その真偽を詮索する事は難しいが、この様な逸話が残っていた事に、倭人の交易戦略を窺う事ができる。交易者は情報の拡散者であったにも拘らず、この様な逸話しか残っていなかった事は、倭人は積極的に史記批判を展開していなかった事を示しているからだ。

倭の30国の商圏は漢王朝の支配領域だったから、史記を批判して漢王朝と敵対するのではなく、交易者の情報拡散力を隠然とした武器として隠し持ち、漢王朝が倭人を中華から排斥しようとしたら、漢王朝の嘘を世間に拡散する用意がある事を、各所で仄めかしていた事を、上記の冗談が示しているからだ。それに相応しい冗談であるとも言えるから、それが倭人の戦略の一端だった可能性も高い。毎年その年の交易を総括し、翌年の商品の配分を決める為の会議を開催していたから、その場でこの様な戦略が決まる事に違和感はないからだ。

後漢書が「国ごとに皆王と称し、世々統を伝える。」と記したのは、魏志倭人伝が各国の王を「官」と記し、倭を官僚制の国であるかの様に描いていたから、漢書地理志が「倭には100余国ある」と記した事と矛盾し、范曄はそれを倭人に質問したと推測される。

倭国王の使者は、「各国の王は官僚の様な任命制ではなく、王の系譜を維持する独立国である」と明言したから、范曄は魏志倭人伝の誤りを訂正できると意気込み、これを倭伝の冒頭に記したと考えられる。

この頃の漢民族は王朝に統合されて官僚制を採用する事を、進んだ統治形式であると見做す中華意識を膨らませていたから、倭も官僚制を採用していたとすると范曄の思惑に合致しないから、気になって確認した面もあっただろう。范曄が帰属した南朝の中華思想では、王朝統治が最高の文明形態だったから、この思想に準拠した価値観を東夷列伝の序の〆の言葉にしている。これは交易事情を知らない大陸の農業国家の誤解に過ぎなかったが、現代史家の多数派もこの思想を踏襲している事は、多くの人を誤解させる要素がこの思想にある事も示している。

倭人諸国は現代の企業と比肩するべき独立した経済単位で、交易の活性化を希求していただけではなく、交易組織の存続にも関心が高い地域集団だった。現代の日本でも紡績会社が化粧品会社になったりフィルム会社が電機メーカーになったりして、企業の存続を至上命題にする発想があるが、日本独特の発想であるとも言われているのは、倭人時代から受け継いだ発想だからであるとも言える。

現代まで伝承されているものが殆どない王朝統治と比較し、どちらが先進的だったのかは明らかだろう。王朝しか知らない中国人が歴史を議論するのであれば、王朝統治を以て文明の進化と見做す事も止むを得ない面もあるが、現代日本の史家が、小国が徐々に統合されて大和朝廷が成立したという嘘を、文明の進化と同義に見做しているのは、場違いの主張である事に気付くべきだ。

魏志倭人伝の、「其の(邪馬台国の)南に狗奴国有り。女王に属せず。」「女王国の東、海を渡って千余里、復た国あり、皆倭の種なり。」の記事を、後漢書東夷列伝は、「その大倭王は邪馬台国に居す。」「女王国の東、海を渡ること千余里、狗奴国に至る。皆倭種と雖も、女王に属せず。」と訂正した。倭人の島の内部事情に関するこの記述は、倭国王の使者の言葉の断片を拾い、勘違いしながら作文した可能性が高い。使者にとっても200年前の事だから、伝承記憶の正確さに疑念があるが、范曄と接した古墳時代の倭の使者は、「自分の主筋は邪馬台国系譜で、関東の旧倭国王勢力とは並立関係にある」と説明したから、范曄は使者の言葉を信用した事を、後漢書東夷列伝/倭伝が示唆している。「大倭王は邪馬台国に居す」は、当時の支配国だった倭国王も邪馬台国にいた事を示唆し、古市古墳群や百舌鳥古墳群を遺した倭国王が、邪馬台国系譜の王だったとの論理的な推論と合致するからだ。

狗奴国が倭種であるという事情は卑弥呼の時代にはなく、古墳時代に倭に統合されてその様になった事が宋書に記されているが、論理的な推論はその様な文献資料ではなく、日本列島の経済事情から導かれる。

使者の説明は邪馬台国と並立する関東の倭人国の事だったが、范曄がそれを狗奴国であると誤解した事は、時代が経ってから記された史書には、多くの誤りが含まれる実例を示している。

倭国王家に属した関東の倭人と、邪馬台国に属した西日本の倭人は同じ倭人でありながら、古墳時代にはライバル意識が常在していたから、范曄はその事と、魏代には邪馬台国と狗奴国が並立していた時代背景を、十分に理解していなかった事を示している。

 

3-2、後漢書が示す東鯷人

倭伝の付録の様に、「会稽の海外に東鯷人有り、分かれて20余国を為す。」との記述から始まる、東鯷人伝の様な一節があり、倭伝の続きなのか別な民族伝なのか曖昧な記述がある。

漢書が東鯷人を倭人とは別の海洋民族として扱ったから、それを引用して後漢時代にも東鯷人が居た事を示す為に、この様な記述になったと想定されるが、漢書は倭人と東鯷人を気付かれない様に離れた場所に記述したのに対し、後漢書は併記する事によって関連する民族である事を明示した。

後漢書が書かれた古墳時代には、東鯷人は邪馬台国の後継国の王によって倭に統合されていたから、その王の使者の情報を基に記した事も、范曄の認識に影響を与えていた可能性が高い。

「倭の五王」の一人だった倭国王「武」が宋に上表した文章に、「武の祖先が日本列島の120余国を服属させた」と記したが、元々倭の100余国と東鯷人の20余国があったから、それを合算すると120余国になり、宋に上表した文章は東鯷人が倭に統合された事を示唆しているからだ。

但し倭人の国は東北にもあり、それも統合したとは考え難く、倭国王を輩出した邪馬台国の後継国は、倭人や東鯷人にならなかった九夷の九州中・南部や、四国南部も統合したから、この数字が完全に一致する事を期待する必要はない。

従って三国志/呉志には東鯷人に関する記述がないのに、范曄が東鯷人について知る事ができたのは、倭国王の使者が范曄に東鯷人に関する情報を与えたからであると考えられる。

後漢書東夷列伝に目新しい記述はないが、三国志/呉志を引用して幾つか訂正している。三国志呉志に記された以下の文には、東鯷人という名前は登場しないが、范曄が東鯷人の記事であると認識していた理由は、三国志呉志を読んでいた倭人が、日本列島を夷洲・亶洲(せんしゅう)と呼んでいたのは東鯷人であると教え、東鯷人に関する情報も与えたからだと推測されるからだ。

范曄がこれを記した目的は、陳寿が知らなかった事を范曄は知っていると宣伝し、魏志東夷伝の信頼度を貶める材料にしたかったからだと考えられる。

以下は三国志/呉志/呉主伝の一部。

(呉の孫権が)将軍の衛温と諸葛直を派遣し、甲士万人を将いて海に浮かび、夷洲及び亶洲(せんしゅう)を求めさせた。亶洲は海中に在る。長老の伝承では、「秦の始皇帝が方士の徐福を派遣し、童男・童女数千人を将いて海に入り、蓬莱・神山及び仙薬を求めさせたが、此の洲(亶洲)に止まって還らず、世相い承け数万家有る。」

其の上の人民が時々会稽に至り、布を貨している(注)。会稽東県の人が海に行き、また風に遭って流移し、亶洲に至る者が有る。(亶洲は)所在絶遠だから、(準備不足で)すぐには至ることができなかった。ただ夷洲の数千人を得て還った。

(注)「貨す」は、財産になる様な価値のあるものを売る意味。絹布を売っていた事を指すと推測される。は大きな島を意味した。

呉は台湾を夷洲であると勘違いし、略奪の為に侵攻したが大きな成果は得られなかったので、派遣された衛温と諸葛直は翌年処罰されている。処罰された原因は、多数の船と兵士を失ったからであるとの説があるが、真偽は分からない。

この事件により、卑弥呼が魏の使者を邪馬台国に招き、中国人の邪馬台国に関する地理認識を改訂させたと考えられる。(準備不足で)すぐには至ることができなかったとの認識は、漢書の「倭人の国は楽浪の沖にある」との認識と同程度に危険なものだったからだ。

この事件を通して中国人が、夷洲は台湾で東鯷人の本拠地は亶洲であると認識した事を、隋書が示している事を後述する。

魏志倭人伝に、「倭人の住地は大陸と繋がっていない事を、倭人から指摘されて初めて知った」と記されているから、倭人は魏の使者を招くまで、倭人の本拠地が島である事を中国人に教えていなかった事になり、魏の使者が邪馬台国を訪問する以前から、夷洲・亶洲と呼ぶ「島」を根拠地としていたのは東鯷人で、夷洲・亶洲は倭人が示した地名ではない事になる。

呉が滅亡しても夷洲は台湾であるとの誤解が解けず、その誤解が隋書にも登場する事は、東鯷人と「三国時代の呉」の間に、意思疎通がなかった事を示している。「三国時代の呉」は稲作民族の政権ではなく、漢王朝の官僚系の土豪の政権で、漢書が呉と呼んだ地域を支配したから呉と号した。その地にいた稲作民族だった呉人も、夷洲・亶洲と呼ぶ「島」の実態を知らなかった事になり、東鯷人も倭人と同様に、中国人を警戒していた事を示している。

(3)史記に書かれた徐福の項で詳しく説明するが、徐福が亶洲に渡航した事は、徐福は東鯷人の支配地に渡航した事になる。その様な徐福伝承を、会稽の中国人は信憑性が高い歴史の一コマであると考えていたから、呉の孫権が兵士1万人を動員し、夷洲であると見做した台湾に遠征した事になる。

しかし徐福の事績は三国時代の400年前の事だから、三国時代になっても中国人の間で伝承されていたのは、後日談が東鯷人によって適宜追加されていたからである事を、世相い承け数万家有るとの記述が示している。

其の上の人民が、時々会稽に至って布を貨しているとの記述が、その伝承が続いていた事に対する、陳寿らしい理由説明だったと考えられる。意訳すると、徐福を受け入れた海洋民族が時々会稽に現れ、市で絹布を売りながら徐福の後日談を伝えたから、三国時代にも信憑性がある事実として捉えられ、呉が大軍を派遣した理由だったと解釈していた事になる。

情報の伝達手段が対面会話だった時代には、遠隔地を往来する交易者は貴重な情報源だったから、海洋民族がもたらす徐福の後日談が事実であると受け取られ、徐福伝承が信憑性の高い伝承であると見做されていた事になる。

華南に渡航していたのは東鯷人だけではなく、倭人の船も河川沿いの豪族の館を訪れ、貴人に面会していた事を、安徽省亳州市の後漢代の豪族墓から、「倭人」と書かれた煉瓦が発見された事が示している。東鯷人が会稽に出没していた事と単純比較すると、東鯷人は沿海部にしか来なかったが、倭人は内陸の河川流域を大陸の奥深くまで交易圏にしていた事になる。

呉の遠征の目的は単なる人狩りではなく、倭人や東鯷人が宝とも云うべき高価な物品持ち込んでいたから、本拠地の島に侵攻してそれを根こそぎ奪う意図も本音としてあっただろう。この時期の東鯷人は絹布だけではなく、華北を交易圏としていた倭人が農業不振に陥っていた華北で調達した生口を、未だ稲作の生産性が維持されていた揚子江以南の、温暖な地域で販売していたから、それが人狩りへの動機付けになったと推測される。

東鯷人が生口を年間数千人販売し、呉が万単位の奴隷を獲得する為に兵士1万人を派遣したとすれば、孫権が派遣した兵士の数と、この時期に倭人と東鯷人が連携して販売していた生口の数に、経済合理性に基づく整合が生れるからだ。

漢帝国は中国全土を統治したが、王朝の官僚組織が発信した情報が、倭人ほどの組織的な収集力と拡散力を有していたのか疑問があり、肝心の動乱期にその能力が極めて低下した事は間違いない。各地の豪族と倭人が、大陸の状況に関する情報を交換していた事も極めて常識的な判断になり、安徽省亳州市の墓から発掘された「倭人」と書かれた煉瓦が、その事情を示している。

従って倭人の毎年の訪問は、単なる商品の売買者としてだけではなく、商人と顧客の関係が定期的な情報交換の場に発展していたと考えられ、その様な場合には、商品を買う意欲はなくても遠路訪問した倭人を大いに歓待し、来年も情報を持って来て貰う為の付き合いとして、商品を購入する事も多々あったと想定される。

東の海中に神仙世界があるという迷信は、その様な倭人と大陸の豪族の間で形成された、暗黙の合意事項だった可能性も高い。つまり情報を沢山持っている倭人言葉に、大陸の豪族が耳を傾けた事情が、東の海中に神仙世界があるとの、信仰の実態だった可能性もある。情報に従って行動する場合、倭人の言葉を信じる以外に、真偽を確認する手段がなかったから、その情報に基づいて豪族が何らかの決断を下し、行動を起こす場合に、情報の真偽を人々に説得する必要性を省略する事ができたからだ。

大陸には多数の民族が割拠し、その言語には強い地域性があったから、地域販社の機能を発揮していた倭人の100余国が、それぞれの商圏としていた地域の言語を習得していた事は当然であり、彼らが各地の情報を収集して日本列島に戻り、倭人の共通語で情報交換してそれを大陸に拡散すれば、極めて強力な情報提供者になる事ができた。実際に倭人や東鯷人がその様に振舞ったから、徐福の話が信憑性を伴って400年間も語り継がれた事になる。

以上の想定の下に、海洋民族の地域販社だった諸国を考察すると、倭人の各国は倭国王の統括の下で、大陸に商圏を配分されたが、大陸に販社を設置したのではなく、各国が日本列島を拠点にし、毎年船で商圏に出掛けて豪族の館を訪問し、商品の販売と情報の交換を行ったと推測される。それを可能にする為の倭の仕組みは、邪馬台国などの大国が品質の高い商品を生産し、小国が必要に応じてそれを仕入れ、決められた商圏に出向いて各地の豪族に小売販売していたと推測される。諸状況から推測すると、それ以外の仕組はあり得ないからだ。

地域毎に必要な商品やその量が異なったから、販売方針はその地域の習俗に合わせる必要があり、分国制はそれに自動的に対応する、機能的な組織形態だった。現代の高度に発達した通商システムでも、基本的な状況や対応手段は同じだからだ。

その様な販売員が日本に帰国し、一堂に会して情報交換する機会を設定する事は、自然の成り行きであり必要不可欠な行為でもあったから、それを文献によって確認する必要はないだろう。倭国王がその会議の議長になる事も、必然的な成り行きであり、その様な会を開催する事が、倭国王の権利であり義務でもあったと想定される。

その様な機能的な仕組みの下で、各地の特産物を商品に進化させる事が可能になり、その生産を合理化する事もシステマティックに実施できるから、倭人の交易体制は自律的に進化する仕組みであり、それが千年以上維持された事に違和感はない。つまり史書が100余国と記していると、在地権力者が農地を領有する、王朝期以降の地域集団を連想しがちだが、倭人の国はそのようなものではなく、特産品の生産集団とそれを販売する漁民集団の統括者が王と呼ばれた、近代的な企業集団に類似した組織体制だったと考える必要がある。

農産物が豊富な社会に暮らしている現代人は、農耕の生産性が低かった時代に、その様な組織が生れていた事に疑念を持つだろうが、農耕の生産性が低かったからこそ、人々は農耕以外の生産物に食生活を依存する必要があり、その為には日常的な交換経済が必要になり、日本列島では交換対象が海洋漁労による生産物だった。従って穀物栽培の生産性が低かった縄文時代の方が、交換経済は活発化していたと認識する必要があり、王朝期以降の自給自足的な農耕社会は、その様な社会が変質する事によって生まれたと認識する必要もある。それを見極める事が、(10)縄文時代の主要なテーマになる。

この様な商業活動にとって、地域の特殊事情に配慮しない中央集権制的な一元統治は、百害あって一利なしだから、倭人はその様な体制を否定していたが、鉄器時代になって農耕の生産性が飛躍的に高まり、人々が農耕だけでも食生活を賄える時代になると、交易至上主義的な倭人体制は崩壊する宿命にあった。

飛鳥時代末期に中央集権的な政権が成立した事は、日本列島が農耕社会に向かう中で、農地の確保を至上命題とする農民の為の政権が必要になり、農民は自給自足的な生産者になったから、それに対応できる政権の誕生が望まれた事により、社会体制や人々の考え方が根底から変わる革命的な事情があった。

漢民族が如何に凶暴で貪欲な民族だったのかは、「三国時代の呉」が行った事から理解できるだろう。倭人は漢民族のこの様な民族性を知っていたから、倭人の島が朝鮮半島のすぐ先にある事を、漢民族に知られる事を極度に恐れていた。それ故に組織的に偽情報を流し、その噓がばれない様に皆が同じ事を言っていたが、倭人がその様な組織力を持っていた事も、上記の倭人の交易力とその組織化の必然性から、容易に想定する事ができる。

後漢書は三国志/呉志の文章を引用し、以下の様に少し訂正して東鯷人の説明としたのは、宋に朝貢した倭国王の使者から、必要な情報を得る事ができたからだと考えられるが、東鯷人と言われた集団は既になく、それらの国々は倭国王傘下の倭人の国になっていた。

征服されたのではなく、交易的な経済活動を志向する地域集団だった事に変わりはなく、その統括者が越系の北陸部族から邪馬台国の後継国に変ったのだが、統括者が変わる事は主要な交易の内容が変わる事を意味した。言い換えると、効率的なビジネスモデルを構築できた集団が、衰弱するビジネスモデルで交易していた集団を傘下に収めた。これも現代社会で当たり前の様に起こっている事だから、時代に即して逐一検証する必要はないだろう。

会稽の海外に東鯷人あり、又夷洲及び亶洲有り。伝えて言う「秦の始皇帝、方士徐福を遣し、童男・童女数千人を将いて海に入り、蓬莱・神山及び仙薬を求めしも、得ず。徐福は誅を畏れて敢えて還らず。遂に此の洲に止まり、世々相承けて数万家有り。」と。(夷洲・亶洲の)人民は、時に会稽の市に至る。会稽東冶県の人、海に行き、また風に遭い流移して亶洲に至る者有り。(亶洲の)所在が絶遠だから、往き来できない。

范曄の最初の訂正として、止まって還らず、世相い承け数万家有るを、徐福は誅を畏れて敢えて還らずと記したが、史記は淮南衡山列伝で伝聞事実として、徐福は平原廣澤を得て止り、王になって不来と記しているだけだから、范曄の作文である疑いが濃い。

三国志/呉志の「其の上の人民が、時々会稽に至って布を貨す」を、「人民は、時に会稽の市に至る」に変えた。

弥生時代末期と古墳時代の、倭人の経済事情の違いを示している。弥生時代末期の東鯷人は会稽の市で絹布を売っていたが、古墳時代の倭人は会稽の市で絹布を売ってはいなかったと訂正しているからだ。宋代の倭人は移民事業によって大いに利益を上げていたから、大量の絹布を市で買い付けて日本に持ち帰っていたと推測され、それが范曄が見た宋代の倭人だったが、三国志が記述された卑弥呼の時代は、華北の農耕が寒冷化によって沈滞する中で、海洋民族が不況に突入していた時代だから、東鯷人も絹布を生産して輸出していた事になり、背景事情と一致している。

「(亶洲は)所在絶遠だから、(準備不足で)すぐには至ることができなかった。」を、「所在が絶遠だから、往き来できない。」に変えた。

この訂正は倭国王の使者の情報に依拠し、その意図に従った事を示している。

三国時代の呉の認識は、「夷洲に到達できたのだから、亶洲もそれほど遠くない場所に在り、呉が派遣した船が亶洲に行けなかったのは、準備不足だったからだ」と判断するものだったから、それに危惧を抱いた邪馬台国が魏の使者を招いたが、陳寿の認識は「當に会稽東冶の東にある=台湾の東にある」というもので、呉の認識を訂正するには至っていなかった。それを范曄が、「亶洲は遠すぎるから中国人には行けないのだ」と訂正した事は、台湾を得ても亶洲には行けないのだと認識させるもので、倭国王の使者も魏の使者を騙した祖先と同じ方針の下に、危うい表現を訂正させるべく范曄に働きかけた事を示している。

大陸人が台湾に侵攻しても倭人は被害者にならなかったが、台湾には航路の便宜を図って貰っている海洋民族がいたから、海洋民族同士の仁義もあっただろう。

范曄の訂正の根拠は倭国王の使者の情報しかなく、范曄が参照できる文献は、極めて貧弱なものだった事を示しているに過ぎない。

従って范曄が後漢書/東夷列伝を記述できたのは、南朝宋の役人として朝貢した倭人や高句麗・百済人と接触し、情報を収集したからだと推測される。

 

史書が示す倭人戻る