中国の倭人伝が示す倭国 法則的に解釈出来る事象と難解な推理

邪馬台国の所在地

 古代の中国人は、東シナ海の沖に大きな島があり、その島に倭人が住んでいると考えていた。魏志倭人伝は、その島は朝鮮半島の東南から福建省の沖に連なり、邪馬台国は福建省の沖にあると記しているが、その認識は魏志倭人伝が初めて明らかにしたのではなく、従前から中国人が持っていた地理観を、より詳細に追認するものだった。それに関する論証はF  漢書地理誌、後漢書、魏志倭人伝に記された倭の位置に記した。中国人は、海に出てそれを確かめる手段を持たなかったから、情報源は全て倭人の証言でしかなかった。その状況を意識していた倭人は、組織的に口裏を合わせ、中国人にその様に誤認させていた。その目的は、漢民族が日本列島に渡航する事を、阻止するためだった。元々暴力的だった漢民族は、春秋時代になると政治的に不安定な社会を形成し、領土征服欲が強い危険な民族に変質していったからだ。

卑弥呼が魏の使者を招待し、使者が実際に邪馬台国に赴いたから、その使者の報告書を基に魏志倭人伝が記述されたが、倭人としては、従前から中国人に与えていた偽の海上の地理観を、魏の使者に追認させる必要があったから、魏の使者に正確な邪馬台国の位置を教える事はなく、伝統的な情宣活動から逸脱する知見は、何も与えなかった。

但し魏の使者は、実際に踏破した地名と距離を記したから、倭人がどの様に魏の使者を騙したのか再現すれば、邪馬台国の位置を検証することができる。

先にその結論を述べると、邪馬台国は大阪湾北岸の神戸付近にあった。その結論に至るには、断片的な材料を組み合わせ、総合的に判断する必要がある。

 

1、検証に用いる素材の選定

 魏志倭人伝に記された記事の中で、事実は何だったのか分離する必要がある。距離に関しては、海路が誇大表示になっている事が分かっている。魏の使者は倭人の船で移動したから、倭人の船頭が意図的に大回りする事は可能であり、船の速度を過大に申告する事もできたから、それによって距離の申告が異常に長くなったと考えられる。従って海路については、距離も方位も全く参考にならない。陸路も大回りすることにより、距離を過大に見せる事が出来たが、陸路に慣れている中国人を騙すには限界があったから、迂回を含めて陸路をトレースする事は、可能だと判断できる。

 各国の人口は、軍事に敏感な中国人にとって、最も重要な情報だった。当然倭人もそれを知っていたから、過大報告した可能性があるが、海路の距離の様に、何倍も過剰申告する事は難しかったと想定される。平地の広さや住宅の数を見れば、おおよその見当は付くからだ。

 魏志倭人伝から得られる情報は、上記の様に陸路と人口だけだから、そこから検証を始める。

主要大国だった奴国は2万余戸、投馬国は5万余戸、邪馬台国は7万余戸で、邪馬台国の南には、邪馬台国に匹敵する大国だったと考えられる、狗奴国があった。狗奴国も7万余戸だったとすれば、合計21万余戸になり、一戸平均5人と仮定すれば、全人口は100万人を超える。使者が行かなかったその他の国が21国あり、対馬や壱岐の様な小さな島でさえ、千戸と3千戸あったのだから、九州や本州を根拠地にしていたと想定されるそれらの国には、それなりの人口規模があった筈だ。その他21国の平均が5千戸だったとすれば、合計で10万戸になり、その他の国の合計人口を、50万人程度だったと想定しなければならない。弥生時代末期の九州に、150万人も住民がいたとは考えられないから、九州説は成立しない事になる。倭人の申告が過大で、実際には半分以下の70万人程度だったとしても、弥生時代末期の九州の倭人の人口としては、過大である事に変わりはない。九州には倭人の国だけでなく、東鯷人の国もあり、南部には熊襲や隼人の祖先となる人もいたからだ。後漢書に、「奴国は倭の最南端にある」と記されているのは、田舎者だった奴国が、うっかり本当の事を後漢に言ってしまったからだが、それが事実だった事は、飛鳥時代の革命時に九州の中・南部が、隼人を中心に大和政権に抵抗した事からも窺えるし、古代山城が北九州にしかない事からも、推察する事が出来る。従って九州の倭人国の総人口は、最大に見積もっても数十万人だったと想定される。

 弥生時代末期の日本の人口は、通説では100万人以下になっている。これは珍説だと考えられるが、堂々と学説らしく流布している事に、日本の歴史学者の蒙昧さを感じる。このHPでは、米の生産量と自給率の改善傾向から、弥生時代末期の人口を500万人程度だったと推測した。それは宋書に記述された倭国王の申告から、古墳時代の倭国王の動員力として、倭国王旗下に100万人の壮丁がいたと想定する事と合致する。現在の九州の人口は日本全体の1割だから、当時もその程度だったとすれば50万人程度であり、北九州にしかなかった倭人国の総人口は、その2~3割だったと考えられるから、最大数十万人という想定に合致する。

 以上の事から推測すると、邪馬台国連合と狗奴国合計の150万人は、西日本全体から割り出す必要があり、そこに東鯷人の20余国の一部も含む必要が生まれるから、概略200万人の人口を含む範囲の中から、邪馬台国と狗奴国の位置を考証する必要がある事になる。倭人や東鯷人は、都市国家を形成していた交易民だったから、地域の全ての農民を国家に編入していたとは限らない。古墳の章で説明するが、その様に考えられる状態が大阪湾岸にあり、200万人規模の倭人と東鯷人を考証するのであれば、少なくとも西日本全域から、邪馬台国と狗奴国の候補地を探す必要がある。

 34世紀には、人口稠密地に古墳が造られ始めたから、その時代に人口が集積していた場所に関する、凡その推測が出来る。古墳を造るか造らないかは、文化的な要素に依存するから、古墳がなくても人口稠密地だった可能性はあるから、34世紀の古墳の所在地だけでなく、古墳の築造が最盛期になった5世紀との差異を検証すれば、34世紀の人口の集積地が確定できる。従って以上の推論の帰結として、邪馬台国や狗奴国は、古墳時代に大型古墳が造られた地域から割り出す事が、妥当であるという結論になる。それと魏志倭人伝に記された距離情報から、邪馬台国を推定し、その推測の確度を上げる為に、魏志倭人伝のその他の情報を検証する事が、邪馬台国を割り出す妥当な手順となる。

 

2、3~4世紀の大型古墳集積地

 卑弥呼が亡くなった時、「大いに冢を作る。径百余歩。奴婢百余人が徇葬者となった。」と記されている。140m程の古墳だから、3~4世紀の大型古墳を参照する必要があるだろう。但し何を以て墓の径としたのか分からないから、以下の表に示す古墳の全長と、140mという数値の相関に拘る必要はない。墓の周囲に廻らせた、周濠も含んでいた可能性があるからだ。卑弥呼の墓が残っている保証はないから、表から卑弥呼の墓を探すのではなく、当時の大国が何処にあったのかを、読み取る事が重要な作業になる。

 

古墳名

所在地

規模

築造時期

全長

高さ

纒向勝山古墳

奈良県桜井市

115m

 

3世紀、詳細時期不明

纒向矢塚古墳

奈良県桜井市

96m

 

3世紀前半

ホケノ山古墳

奈良県桜井市

90m

 

3世紀中葉

箸墓古墳

奈良県桜井市

278m

30m

3世紀後半

西殿塚古墳

奈良県天理市

234m

 

3世紀後半~4世紀初

黒塚古墳

奈良県天理市

130m

11m

3世紀末~4世紀前半

中山大塚古墳

奈良県天理市

130m

 

4世紀初頭

柳本大塚古墳

奈良県天理市

94m

 

4世紀初頭

下池山古墳

奈良県天理市

120m

 

4世紀前半

行燈山古墳

奈良県天理市

242m

23m

4世紀前半

渋谷向山古墳

奈良県天理市

310m

23m

4世紀後半

那珂八幡古墳

福岡県福岡市

75m

6.5m

4世紀初頭

鋤崎古墳

福岡県

62m

7m

4世紀末

中山茶臼山古墳

岡山県岡山市

120m

12m

3世紀後半-4世紀

浦間茶臼山古墳

岡山県岡山市

138m

13.8m

3世紀末

金蔵山古墳

岡山県

165m

18m

4世紀末~5世紀初頭

西求女塚古墳

神戸市

98m

 

3世紀後半

処女塚古墳

神戸市

70m

 

4世紀前半

ヘボソ塚古墳

神戸市

63m

 

4世紀中期

東求女塚古墳

神戸市

80m

 

4世紀後半

五色塚古墳

神戸市

194m

18m

4世紀末~5世紀初頭

六呂瀬山古墳

福井県

140m

13m

4世紀末~5世紀初頭

網野銚子山古墳

京都府京丹後市

198m

 

4世紀末~5世紀初頭

観音松古墳

神奈川県横浜市

90m

 

4世紀後半

白山古墳

神奈川県川崎市

87m

10m

4世紀後半

宝莱山古墳

東京都大田区

97m

11m

4世紀前半

亀甲山古墳

東京都大田区

107m

10m

4世紀後半~5世紀前半

大覚寺山古墳

千葉県千葉市

63m

 

4世紀後半

姉崎天神山古墳

千葉県市原市

130m

 

4世紀前半

遠見塚古墳

宮城県仙台市

110m

6.5m

4世紀末~5世紀初頭

 

  古墳が造られる環境の必要条件は、倭人に経済力があった事と、農民の労働力が得られる場所だった事の、相乗になる。倭人は交易者として、都市国家的な居住形態を取っていたが、安全な日本では城郭を構築する必要はなく、散村的な都市だったと想定され、倭人の集落跡は一つも発見されていない。豪華な建築物で権威を飾る必要がなかった倭人は、フナクイムシの害を避けるために河川の河口に港を設定し、それを中心に散在していたと想定されるが、河川は沢山あり、時間の変遷と共に河口の地形も変化したから、倭人の集積地は時期によって、変遷していた可能性が高い。その様な河川の河口には堆積土砂が溜まり易く、それによって洪水も発生し易くなり、遺跡は水に流されたり堆積土砂に覆われたりするから、倭人の集落跡が発見できないのは、一種の必然であるとも言える。古墳が発見されやすいのは、倭人がその様な危険性を熟知し、その様な危険がない場所に古墳を造ったからだ。今回の東北大震災でも分かる様に、漁民だった倭人は、津波や洪水の危険があっても、作業が便利な場所に住居を構える傾向があっただろう。倭人の機動性の高さを考えれば、大国の倭人の集積地は、複数の河川の河口に分散していた可能性が高い。

一方の農民に関しては、土木技術が未熟だった当時の稲作適地は、平地や盆地の縁辺部に散在していたと想定される。従って倭人の集住地が移動すれば、古墳の位置も変わったと想定されるが、農民と倭人が共に移動したのではなく、倭人の拠点が変わるだけで巨大古墳の立地も移動し、稲作的地に集住していた農民は、集落の位置は変えなかったと想定され、或る程度の広さに分散していたと考えられる。

邪馬台国の7万戸という規模は、その様な漁民と農民の集合体だったと考えなければ、解釈出来ないだろう。従って上記の地域と、56世紀の大型古墳の集積地に厳密な一致はなくても、大まかな地域的な一致がある場合には、倭人の拠点が移動したと考える事ができる。大阪湾岸の場合には、34世紀には神戸が中心だったが、56世紀に藤井寺や堺に拠点が移動した事が、藤井寺の古墳の変遷から追跡できる。従って34世紀の神戸の倭人集団は、大阪湾岸の集団のその時点での中心だったとして、一まとめに括る事が出来る。

関東の場合には、その様な明確な追跡はできないが、34世紀には横浜・川崎が中心で、56世紀になると埼玉・群馬に拠点が分散移動したと考え、関東として括る事ができる。歴史事象からも、その移動が合理的に説明出来るからだ。詳しくは(12)古墳時代(13)飛鳥時代参照。

以上の観点から考えると、邪馬台国時代の日本の人口密集地は上記の表から、北九州、岡山、大阪湾岸、奈良盆地、関東、若狭湾沿岸だった事になる。

結論を言えば、北九州は奴国(2万戸・10万人)、岡山は投馬国(5万戸・25万人)、神戸が邪馬台国(7万戸・35万人)で、奈良盆地・紀伊に狗奴国(7万戸・35万人?)があり、関東・東海には卑弥呼に属さない倭人国があった。若狭湾沿岸は、東鯷人の地域だったと想定される。

 

3、倭人と東鯷人

 漢書は、「楽浪沖に倭人の国が100余、会稽の海外に東鯷人の国が20余ある」と記し、後漢書東夷伝は、「韓の東南に倭人の国が100余あり、その内の30国が漢に交易者を派遣し、その30国の統治者が邪馬台国にいる。会稽の海外に東鯷人の国が20余ある。」と記し、魏志倭人伝は、「帯方郡の東南に倭人の島があり、昔は100余国あったが、今使者が来るのは30国。」と記し、「倭の女王卑弥呼に従わない狗奴国が、邪馬台国の南にある。」「邪馬台国の東千里(400km)にも倭人の国がある。」と記している。どの史書の著者も、倭人と東鯷人が福建省の福州に、沖から船で来る事を知っていたが、海上の島の地理に関しては、倭人の説明以上の知識はなかった。従って倭人の島の中で、倭人地域と東鯷人地域がどの様な位置関係になっていたのか、中国人は知らなかった。倭人は漢に朝貢しなかったから、漢の朝議録に倭人に関する記述はなかったが、班固は地理誌にその存在を特記した。倭人は後漢と魏に朝貢したので、朝議録に倭人に関する記載があった。東鯷人は、漢、後漢、魏、呉のいずれにも朝貢しなかったから、朝議録には記載がなかったが、漢書が倭人ではない海洋民として、倭人と稲作民との関係を否定するために特記した。漢書がその様な事をしたので、後漢書はその引用を明らかにし、東鯷人ついて説明したが、その出典は宋に朝貢した倭人の言葉だったと想定される。三国志/呉志が東鯷人について触れていないのは、呉の朝議録にその名がなかったからだと想定される。推測して補足すると、倭人は項羽と劉邦の争いに参加したから漢王朝の朝敵になったが、東鯷人にはその様な動きはなかったから、漢王朝は彼らには寛容だったが、朝貢する程の強力な政治集団ではなかった。後漢になって倭の奴国が朝貢したのは、後漢王朝は前漢王朝とは異なる王朝だったから、倭人を朝敵と見做す必然性が失われたからだと想定される。魏や晋に朝貢したのも、その様な思惑があったからだと想定されるが、倭の奴国の後漢への朝貢は倭国連合に非難されたから、金印が秘匿された状態で発見されたと考えられる。その意味で卑弥呼の魏への朝貢も、前例を破る破戒的な行為だと、倭国の100余国の総連合から、非難される恐れがある行為だった。

魏志倭人伝は、「其の(邪馬台国の)南に、狗奴国有り。男子を王と為す。その官に狗古智卑狗有り。女王に属さず。」と記している。上で説明した関係から推測すると、狗奴国は東鯷人の国だったと想定される。邪馬台国は、卑弥呼が死ぬ直前に楽浪郡に使者を送り、「(狗奴国と)相攻撃する状を説いた。」 狗奴国も、邪馬台国連合30国と同規模の、国家連合を統括する国だったから、戦闘を行って攻略する対象と見做されていたと想定される。帯方郡の太守の督促により卑弥呼は、この様に狗奴国と戦争していると、帯方郡の太守に申告しなければならない事態に陥ったのは、狗奴国も中国に出掛けていた、海洋民族の国だったからだろう。呉の国に出掛けていた民族だったから、魏は狗奴国が呉に朝貢していると勘違いし、卑弥呼に狗奴国の征討を要求したと考えるのが筋だからだ。

邪馬台国は、魏の版図に交易に出掛けていた30国を統括していた。その邪馬台国が魏に朝貢したのだから、呉の版図だった会稽に交易に出掛けていた東鯷人も、呉に朝貢して呉の為に活動していると見做したとしても、不思議な事ではない。魏志倭人伝には、「東鯷人」という名前が出てこないのは、倭人が魏の使者にその名詞を使わなかったからだが、「東鯷人」呼称が華南の中国人のローカルな用法だったのであれば、華北を商圏としていた邪馬台国連合の倭人が、その名称を使わなかった可能性は高い。仮に魏の使者の報告書が、推測からそれを匂わせていたとしても、魏志倭人伝の著者だった陳寿にしてみれば、魏志の読者である中国の知識人は、皆漢書地理誌を読んで東鯷人の存在を知っているから、敢えて狗奴国は漢書に謂う「東鯷人」の国であると、証拠を並べて注釈する必要はないと判断したとしても、不思議な事ではない。

以上の論証から、狗奴国が東鯷人の20国を代表した国であれば、漢書、後漢書、魏志倭人伝の内容は、互いに整合する事になる。4章の末尾で詳しく説明するが、学術的態度が顕著だった陳寿は、東夷伝全体の筆致でも示した様に、全てを網羅的に記述し、読者に論理的に納得させる手法が、史書のあるべき姿だと考えていた様だ。倭人伝でもその発想が顕著に発揮され、倭人の島の全勢力を記述する意欲を示しているから、陳寿のその発想に従って消去法で推理しても、狗奴国が東鯷人を代表する国だった事になり、狗奴国が東鯷人を代表する国だった確度は、極めて高い。

 狗奴国は邪馬台国の南にあったと記されているから、邪馬台国が神戸にあったのであれば、狗奴国が紀伊・奈良盆地南部にあったという位置関係は、実際に南部であり、倭人の島の奥地でもあるから、魏志倭人伝の記述と整合する。

岩永省三氏(岩波講座日本歴史1)は、1世紀後半以降に、地縁的集団の再編成と、親族集団的紐帯の弛緩が同時進行した結果、・・・・(倭人の2大勢力は)集団の共同性の強化と、集団指導者層の権能の強化の、二つの方向に分かれた。」「北部九州・・近畿中央部では・・首長制社会の移行は生じていない。それに対して四国北部、山陽・山陰、近畿北部、北陸の諸集団は、集団指導者の権能・利害調整機能を強化していった。近畿中央部は、2世紀に入ってからこの方策に移行した。」と、考古学的な見解を述べている。北部九州と大阪湾岸の農民が、共同祭祀に熱心だったのに対し、四国北部、山陽・山陰、近畿北部、北陸の農民集団には、早い時代から権力統合的な首長がいたと指摘している事になる。この2つの集団は、倭人と縁が深かった農民集団と、東鯷人と縁が深かった農民集団だったと想定され、上記の考古学的な解析と魏志倭人伝の内容が、一致する事になる。銅鐸や銅剣などの祭祀具を沢山作り、共同体祭祀を重視した農民集団と、首長制社会に早く移行した農民集団の違いは、倭人と東鯷人の違いとして、解釈する事が出来るからだ。

以上をもう少し詳しく説明すると、倭人自身は、縄文時代から統制的な集団を形成していたが、その傘下の農民集団や、倭人との通商を通じて間接的に統治していた農民集団は、共同体祭祀を重視し、東鯷人自身は、倭人ほどに統制的ではなく、「倭」の様な政治集団としての名称を、中国人から貰う事はなかったが、東鯷人の影響下にあった農民集団は、首長制社会に早く移行した事になる。倭人の諸王は倭国連合の統治に関心が向き、農民の統治に関心がなかったか、漁民的な能力主義や、平等感が高い価値観を濃厚に持っていたから、傘下の農民も共同体的な意識が強かったが、東鯷人傘下の農民は共同体意識が弱く、共同作業としての土木工事が不足して農地が十分確保できず、個々の農民の耕作権を保証する権力者が、比較的早い時期から必要になっていた事を示唆する。倭人集団の方が交易で高い収益を上げていたから、農民への銅器や鉄器の配給が豊富だったと言う様な、経済的な要素もあった可能性が高い。

以上の観点から倭人国と東鯷人国を特定すると、北九州と大阪湾岸は倭人国で、四国北部、山陽・山陰、近畿北部、北陸が東鯷人の国だったが、2世紀に近畿中央部が東鯷人の国として、頭角を顕した事になる。文章は引用しないが岩永省三氏の分析によれば、東鯷人諸国は複雑な事情を抱え、代表する国も変遷していた様だ。2世紀に狗奴国が、東鯷人の代表国として急浮上したのは、移民事業に中核的に参加し、急速に財貨を蓄えたからだと想定される。交易民としての狗奴国は、紀ノ川河口が発祥だったと想定されるが、奈良盆地に拠点が移行したのは、そこが狗奴国傘下の農民の、人口密集地だったからだと考えられる。古墳・飛鳥時代の東鯷人は、海洋交易民であると同時に織物や工芸品の製作に熱心だったから、この時代からその様な傾向を持っていたと想定される。政治力では倭人より劣位にあったから、経済力で倭連合に対抗する事を目指し、新商品の開発や品質の向上に敏感になった結果、より多くの農民集団を取り込む事になり、奈良盆地南部が中核地になったとすれば、現代人の感覚でも理解出来る発想だった事になる。

下図に銅鐸の分布を示すが、銅鐸の発掘地から倭人と東鯷人の区域を、明瞭に分別する事は難しい。日本の農民が、銅鐸や銅剣を祭祀具として製作し始めたのは、大陸や東南アジアに鉄器が普及して銅が余り、青銅の商品価値が乏しくなったから、倭人が農民に放出した時期だったと想定される。漢代の中国で製鉄が盛んになり、武器、農具、樹木伐採具が鉄器に変わり、それらの道具の素材として使われる事が、なくなったからだ。倭人は銅を農民に放出し、農民から米を得たと考えられる。

http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/dotaku/dotaku00.htmlより拝借しました。

 

奈良盆地と大阪平野を仕切る生駒山系の、東西両側から銅鐸が発掘される事は、銅鐸が盛んに作られた弥生時代後半期には、そこまで大阪湾岸の倭人勢力が及んでいた事を示唆する。紀ノ川を遡って奈良盆地南部に到達した東鯷人勢力は、当初は極めて限られた地域を支配していた事になる。紀ノ川の河口にも銅鐸が分布している事は、紀ノ川の河口に新天地を切り開いた東鯷人は、銅鐸が盛んに作られたAD2世紀以前には、極めて弱小勢力だった事を窺わせる。北陸・山陰を起点に、瀬戸内に進出した東鯷人が紀ノ川河口に入植したのは、鉄器時代になって船が大型化し、船腹数も増やす都合上、丸木船様の船底材を作るための巨木を、紀伊半島に求めたからではなかろうか。古事記が紀伊国を木の国と表現している事は、その辺りの事情を示唆する。紀ノ川は、大木を搬出する木の川だったのだろう。東鯷人は紀ノ川流域に進出したが、そこに土着していた農民には、東鯷人の傘下だという意識が弱かったらしく、飛鳥時代末期の革命戦争時に、東鯷人の倭王を擁護する意識が弱かった様に見える。従って畿内に散在する銅鐸の発掘地から、倭人と東鯷人の勢力分布が読み取れない事は、東鯷人の畿内への浸透が、弥生時代末期だった事を示唆する。

倭人と東鯷人の地域区分は、古事記の記載からも読み取る事ができる。古墳時代に、東鯷人の国は倭国連合に統合されたが、民族的な違いは飛鳥時代まで温存されたから、古事記はその違いを出雲系の国、又は根の国として区分している。スサノオは出雲で国造りし、大国主は木の国のスサノオを訪れてスセリヒメを、因幡のヤガミヒメ、越のヌナカワヒメ、宗像のタキリヒメと共に娶り、それらの地域がスサノオの子孫である大国主が、差配する国だったとしている。スサノオ神話は、東鯷人の祖先神話を変形して作成したと想定されるから、北陸、山陰、宗像、紀伊・飛鳥が、東鯷人の主要な地だった事を示唆している。それらを総合すると、倭人の地域と東鯷人の地域を区分する事が出来るが、両者は都市国家を形成した交易民族だったから、領域的に都市国家が分布していたのではなく、湊を中心に発展した都市国家が、地域によってはモザイク的に入り組んだ状態で、共存していた。魏志倭人伝には、瀬戸内海の航行時に停泊した国として投馬国しか登場しないのは、投馬国以外の瀬戸内の国は、東鯷人の国だったからだと想定される。

魏の使者は倭人だった卑弥呼が招聘したが、東鯷人の倭王が招聘した隋の使者の、報告書を参照した隋書は、「都斯麻国のはるかに大海の中にあるを経て、又東して一支国(壱岐)に至り、竹斯国(宗像?)に至り、又東して秦王国に至る。・・・又十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は皆倭に属す。」と記し、東鯷人の国だけが倭であるかのように記している。魏の使者が帰港した対馬には上陸せず、壱岐は倭ではないかの様に記し、竹斯(宗像)より東の国が倭王に従っていると記しているからだ。奴国には行かなかったのだろう。瀬戸内海でも、東鯷人の10国には停泊したが、投馬国(吉備)の様な大国には、停泊しなかった雰囲気がある。

秦王国は中国人の国で、阿蘇に関する隋書の記述は、そこの中国人から得た情報だったと想定されるから、秦王国は宇佐か別府湾岸にあったと想定される。しかし魏の使者は、行橋で乗船して邪馬台国に船で向かったと想定され、中国人の国の存在を知らなかった。秦王国の中国人は、秦末漢初に渡来したと想定されるから、魏代には同じ場所にいた筈だが、東鯷人が移民させた人達だったから、倭人は魏の使者に合せなかったと想定される。

古事記が竺紫と筑紫を区別している事から、竹斯は筑紫ではないと考えられる。筑紫は北九州一帯を指しているが、竺紫の岡田の宮は、宗像市の東にある遠賀川の河口にあったとされているから、竹斯と竺紫は同じ場所を指し、宗像を指したと推測される。魏志倭人伝では、漢字で記された地名は万葉仮名で読むべきだが、隋書に記された地名は、必ずしも万葉仮名で読む必要はない。時代が降っているのに、漢字に対する認知度が低下しているから、邪馬台国の倭人が漢字を知っていた事に、疑念を感じるかもしれないが、その矛盾は合理的に説明ができる。漢民族は漢字しか使わなかったから、漢民族と交易していた倭人は漢字を熟知していたが、東鯷人は漢民族とは殆ど交易していなかったから、漢字が使える者は殆ど居なかったと想定される。東鯷人が使っていたのはオリエント系の表音文字で、東南アジアの海洋交易民と文字を共有していた。揚子江以南の稲作民も、漢王朝に征服された漢代になっても、使い続けていた可能性がある。それ故に、東鯷人の拠点になっていた飛鳥はともかく、地方の小国では、漢字を使える者が殆ど居なかったから、地名を漢字で表記する習俗がなく、隋書には発音だけを表記する地名が並んでいる。この様な事情の解釈が混乱し、多くの歴史学者が、日本列島での漢字の使用の開始は、古墳時代以前に遡らないと錯覚しているが、それは史書を無視する日本書紀史観に迎合し、怪しげな科学趣向に毒されて、文献に記述されている事のみを事実とし、解釈がそこから逸脱しない様に相互監視しているからだが、各史書を熟読すればそれは明らかになる。

隋書と魏志倭人伝の差異に関し、更に別の着目点がある。魏の使者は、船行して邪馬台国に着いたが、隋の使者は海岸で、倭王の派遣した者に迎えられたから、そこは倭国の都ではなかった。紀ノ川の河口に着いたのだろう。10日後に別の者が、儀仗兵を連れて隋の使者を出迎え、倭国の都に向かったから、隋代の倭国の都は内陸にあった事になり、飛鳥にあったと想定される一つの根拠になる。隋書は「その都は邪靡堆にあり、魏志に謂う邪馬台なり」と記しているが、隋の使者も隋書の著者も倭人に騙され、その様に錯覚したと考えられる。靡堆の読みは「ひと」だったと推測され、邪馬台国ではなく飛鳥だった事を、(8)隋書の項で論証した。

倭人が中国人を騙していた事は、当時の倭人が嘘を言う事に罪悪感の無い、堕落した民族だったという誤解が生まれる恐れがあるから、少し説明が要るだろう。倭人は漁民を母体とした海洋交易民族だったから、漁獲に関する情報や、天候・地理に関する情報の正確さに、敏感な民族だったと想定される。中国人は農耕民族として強い権力を求め、政権から耕作権を認めて貰う事を望んでいたから、政権の権威を高める為には、政権やその構成員に関する虚偽申告を推奨し、対抗勢力を虚偽の情報で貶める事にも、積極的だったと想定される。個人としては誠実であっても、自分の主人の権威に関する事であれば、積極的に嘘を言う人になる事が、中国人の模範的な君子だったのだ。それは「避諱(ひき)」という儒教上の概念として、知る人には知られている。

それぞれの文化を継承した現代の日本人と中国人にも、その傾向が色濃く顕れている。倭人は中国に交易に出掛け、中国人のその様な虚偽の申告を、違和感を持って聞いただろう。漢民族が中国を征服し、史記や漢書などの歴史書を編纂すると、倭人は益々、中国人の政治的な嘘に辟易する様になったと想定される。それ故に倭人としては、中国人に政治的な嘘を吐く事に対し、罪悪感を持たなくなったと想定される。現代日本人も、倭人の心境が理解出来るだろう。

 

4、魏志倭人伝に記された邪馬台国への旅程

4-1 朝鮮半島

「倭人は帯方の東南、大海の中に在り。」「郡より倭に至るには、海岸に循い水行し、韓国を歴て(たちまち)南し乍東し、其の北岸の狗邪韓国に到る。7千余里。」

帯方郡も楽浪郡も現在の北朝鮮にあり、漢書地理誌に記された「楽浪海中に倭人有」と同じ認識を示しているから、この間300年程の間に、倭人の島に関する中国人の知識に、変更はなかった事になる。魏の使者を乗せた倭人の船は、帯方郡を出港して黄海に浮かび、馬韓を南下した後に東に方向を転じ、島の多い半島南岸を、船の方角を頻繁に変えながら航行した。狗邪韓国は金海市にあったと想定され、航行した距離は1000kmを超えるが、7千余里=3000kmは過剰見積りになる。魏志東夷伝の韓伝に、韓(朝鮮半島南部)は方4千里=1600kmと記しているから、魏の使者は韓(朝鮮半島南部)の一片を、実際より45倍長いと考えていた。

漢代の1里は400m程だったが、この食い違いを説明する為に、魏代の1里は100m程度だったと主張する人がいるが、魏志高句麗伝に、高句麗(集安)は遼東(瀋陽)の東千里と記し、直線距離250kmを、道の長さ千里=400kmとしている事に違和感はない。同じ東夷伝に、異なった単位が用いられる事はないから、1里は400m程だったとして問題は無い。倭人は倭人の島への距離だけでなく、朝鮮半島南部の一片の長さも、中国人に過大に申告していた事が分かる。その過剰申告が始まったのは、遅くとも春秋戦国時代だったと想定される。

河北省と遼寧省を領土していた燕が、気候が温暖化して農業が盛んになり、国力が強大になったBC4世紀頃から、狗邪韓国があったと考えられる金海市周辺で、弥生土器が使われ始めた。漢民族の南下を恐れた倭人が、何らかの手段で漢民族に対抗するため、朝鮮半島南部に渡ったからだと考えられる。その頃の状況を記した山海経に、「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。」と記されているから、山東省にあった蓋国の南に、倭人の島があるという誤解を、戦国時代の燕の人が持っていた事が分かる。倭人が燕に朝貢し、その様に申告したから、倭人の島は東シナ海の沖にあると考える地理観を、持つに至ったと想定されるが、それは魏志倭人伝の地理観と同じだから、倭人の島の位置に関する誤解を中国人に与えていた歴史は、戦国時代にまで遡る事になる。その誤解を与えた究極の目的は、燕などの中国人の、朝鮮半島南下を阻止する事だったから、朝鮮半島南部の面積に関する誤解も、この頃倭人が燕に流した可能性が浮上する。燕が強大化した事により、倭人は漢民族の朝鮮半島流に入に危機感を持ち、半島南部に拠点を設置すると同時に、半島のサイズを呉大宣伝したと推測される。半島南部のサイズを誇大表示する事が、何故漢民族の南下を阻止する事になったのか検証する為には、魏代までの倭人と半島との歴史的な関わりを、概観しておく必要がある。

倭人が黄海や渤海湾沿岸に関わり始めたのは、良渚文明が洪水で衰退し始めた縄文時代後期に、山東の雑穀民に玉加工品と加工技術を、伝え始めた事から始まる。中国的な玉の原料となる石材が、遼東半島で採取出来たからだ。商王朝が殷虚に都を遷すと、倭人が沖縄の宝貝を殷墟に持ち込むためには、黄海・渤海湾を航路にする必要が生まれ、倭国王家の祖先が鹿児島県の笠沙の岬に、拠点を設けた。殷墟の墓から、遼東産の石材で造られた玉器も発掘されているから、倭人は宝貝だけでなく玉加工品やウコンなども、その航路を使って貢納していたと想定される。

周代には貢納先が洛陽に変わり、再び倭人の主要航路は沖縄から福建省に出て、淮河の支流を経由するものに変わったが、北九州の倭人は黄海・渤海湾を、大陸への航路にし続けていたと想定される。

戦国時代から秦代にかけて、漢民族が燕や趙から朝鮮半島北部に流れ込んだ。湿潤だった朝鮮半島の森林を切り開くためには、鉄器が必要だったから、遼寧省が鉄器時代に入った事になる。淮河流域が開拓された春秋時代より、鉄器時代が始まるまでに数百年の遅れがあったのは、河北省や遼寧省は淮河流域より緯度が高く寒冷だったから、アワの生産性が高まる時期に、差があったからだ。温暖期になって河北省や遼寧省の農業生産性が高まり、豊かになって鉄器時代が始まったから、燕が突然強国になった。日本的な表現を使えば、縄文時代晩期の寒冷期が終わり、暖かくなり始めた春秋時代に、淮河流域に宋、魯、斉が国力を高め、更に温暖化した弥生時代に、青森でも稲作が行われる様になった頃、河北省や遼寧省の農業生産性も高まり、燕が強国になった。強国になれば、盛んに製鉄を行っただろう。

春秋戦国時代の遼寧では、殷系の箕氏朝鮮が韓族を支配していたが、鉄器文化の波及が遅れていたから、秦末の混乱期に、漢民族に国を奪われた。その顛末が、魏志韓伝に記されている。

「侯準(朝鮮侯箕準)が既に僭号していて、王を称するも、燕の亡人衛満の攻撃するところとなり、其の左右の宮人を将いて走り、海に入り、韓地に居して自ら韓王と号す。その後(朝鮮侯の系譜は)絶滅するも、今でも韓人は猶、其の祭祀を奉じる者有り。漢の時は楽浪郡に属し、四時朝謁した。」

箕氏朝鮮の最後の王だった箕準は、漢民族の衛満に攻撃されて海路馬韓に逃げ、馬韓の韓族の王(韓王)になった。海に入って逃げたと記されているが、韓族が船を持っていたとは、魏志韓伝に記されていないから、倭人の手引きによる逃亡だったと想定される。山海経に、「朝鮮は列陽の東に在り。列陽は燕に属す。」と記されているから、箕氏朝鮮は戦国時代から、燕と境界を接していた。魏志韓伝に、「(韓族は)瓔珠を財宝と為し、衣に綴って飾りと為し、首に掛けたり耳に垂らしたりするが、金銀錦繡は珍としない。」と記され、山東半島で産出する石材を使い、玉器を製作していた民族だったと想定されるから、春秋戦国時代にも玉器を製作していたのであれば、箕氏朝鮮は依然として遼東を拠点に、韓族を支配していたと想定される。ちなみに遼東は、現在でも中国最大の翡翠(日本名は透閃石岩)の産地として知られている。朝鮮と呼ばれた集団が、戦国時代に注目されていた理由は、玉加工者だったからだろう。玉加工品を財貨とする概念や加工技術は、海洋縄文人が中国人に伝えたものだったから、箕氏朝鮮や韓族は、千年以上倭人と接していた事になり、倭人が王や王宮の人達の逃亡を助けた事も、納得出来るだろう。

余談になるが、金銀を財貨とする概念は、オーストロネシア語族海洋民がオリエントから伝えたと想定され、漢代以降の中華には、両方の概念が混在した。輝く宝石を財貨とする概念はオリエントにもあったが、倭人が中華に伝えた玉の概念は、色々な形状に加工したものを尊ぶ事に特徴があり、中国人は透閃石岩を翡翠と呼び、削孔したり複雑な形状に加工したりした。その様な玉加工の起原は良渚文化にあり、金銀の財貨概念に先行して形成された。

漢代になると、漢民族の衛満が興した土着勢力を武帝が征討し、楽浪以下の4郡を置いた。それを説明した文が、「(箕準は)韓地に居して自ら韓王と号し、浪郡に属して四時朝謁した。」になる。漢の武帝が設置した4郡の一部が、半島南部を含んでいたとする説があるが、それはあり得ない。郡は軍人の駐屯地で、距離は重要な軍事情報だから、郡があれば距離を正確に把握していた筈だが、魏志韓伝が韓(朝鮮半島南部)のサイズを45倍も間違っていた事は、朝鮮半島南部に漢民族の軍が侵攻した事は、一度もない事を示しているからだ。

韓族は楽浪郡の圧迫を受け、次第に南下したから、魏代には馬韓の住人になった。韓族は鉄器文明化が遅れていたから、魏志韓伝は、韓族が未開の民族だった様に記述している。その様な未開の民族だったのであれば、半島南部の森林地帯に追い込まれても、森林を拓いて農地を開墾する事は出来なかった筈だが、魏志倭人伝は、韓族はそれを成し遂げていたと記している。弁韓人の製鉄によって、韓族に鉄器が支給されていたからだ。魏志韓伝に、文明化した民族として記された弁韓人は、入れ墨をするなど倭人と習俗が近かったが倭人ではなく、孤立していた少数民族だった。魏志韓伝は他の民族について、それぞれ出自を説明しているが、弁韓人の出自については何も説明していない。陳寿独特の説明手法から考えれば、弁韓人は出自不明の民族だった事になる。

結論から言えば、弁韓人はオーストロネシア語族民で、当時の製鉄先進地だった東南アジアから、倭人が移民させた人達だった。オーストロネシア語族民だったが海洋民族ではなく、植物栽培や商品の加工を行っていた内陸民で、寒冷な朝鮮半島の南端で、北限地としての養蚕も行っていた。海洋民族と内陸の農工業的な民族が分離する状態は、海洋縄文人や倭人の在り方と同じだったと想定される。その様な生業の民族的な分離がなければ、海洋交易と交易品の生産を同時に行う事は、古代にはできなかったと想定される。現代の様な教育システムがなかった古代には、高度な技術は親子相伝するしかなかったから、民族と生業が固定していたからだ。

魏志韓伝は、「(弁韓の)国は鉄を出し、韓、濊、倭、皆従いて之を取る。諸々の市買には皆鉄を用い、中国で銭を用いる如くする。又以て二郡(楽浪・帯方)に供給する。」と記している。鉄が貨幣の様に使われていた事は、当座の必要以上に、鉄が供給されていた事を示す。韓族や倭人だけでなく、濊族や楽浪・帯方郡にも供給していた事は、弁韓の鉄がなければ朝鮮半島での鉄の供給は、極めて限定的だった事を示している。従って弁韓人が製鉄しなければ、韓族は鉄を得る手段を持たなかっただろう。弁韓人が韓族に多量の鉄を供給していたのは、倭人がそれを希望していたからだと想定される。倭人が弁韓人を移住させたのは、韓族の人口を増やして武装させ、漢民族の南下を阻止する為だったから、倭人は弁韓人の出自や移住の目的を、魏の使者に話さなかったと推測される。

鉄器を持っていた漢帝国は、より温暖な森林地帯である朝鮮半島南部に、南下したかったが、弁韓人の鉄によって韓族が森林を開墾し、人口を増やして鉄器で武装し、漢代・後漢代に強勢になったから、4郡の領域は北朝鮮に留まったと考えられる。半島南部の面積を過大に偽り、その情報を中国人に信じさせた裏には、この様な実務が伴っていた。半島南部の面積が大きく、韓族の人口が多ければ、漢民族は迂闊に南下する事はできなかったから、漢民族を委縮させて南下を思い留めさせるために、韓地は誇大に宣伝されていた事になる。

この一連の計画が作成された段階で、朝鮮半島南部の面積の詐称は、実行に移されていたと想定されるから、倭人が詐称し始めたのは、弁韓人が移住して来る以前の事だった事になり、弁韓人が移住した時期を割り出す事が、次の課題になる。

その回答になる文章が、前掲の「(箕準が)左右の宮人を将いて走り海に入り、韓地に居して自ら韓王と号す」ではないかと考えられる。秦末に箕準が馬韓に逃げた時には、既に韓王と号す事が出来るような、韓族の集落が馬韓にあったことを示しているからだ。韓族が馬韓の森林を拓いて、集住している状態を形成する為には、或る程度潤沢な鉄器の供給が先行していなければ、実現していなかったと考えられる。従って結論としては、弁韓人は遅くも秦代に、多分戦国時代に、移住して来た事になる。弁韓人は東南アジアから、稲作も持って来た筈だが、それは熱帯ジャポニカだった筈だ。但し品種そのものは、温暖期の青森でも栽培出来る様に、日本列島で耐寒改良されているものだっただろう。それが栽培出来るという情報があったから、弁韓人が東南アジアから移住して来たと想定される。それであれば朝鮮半島南部は、北関東と同じ気温だから、温暖期のピークだった戦国時代末期が、移住時期だった可能性が高まる。

魏志倭人伝には、倭人の国として狗邪韓国が記されているが、どの様な国だったのか何も記されていない。魏の使者の報告書に、何も書かれていなかった筈はないから、何らかの理由で説明が削除された事になる。使者の報告書に、倭が狗邪韓国を通して韓族を支配していると記されていても、楽浪郡や帯方郡が提出した報告書に、郡が韓族を支配していると記されていれば、それと矛盾するものとして、記載されなかった可能性がある。邪馬台国に出向いた魏の使者は、帯方郡の太守が派遣した者だったから、陳寿は上位者である太守が記載した報告書を、採用したのかもしれない。しかし魏志倭人伝は、狗邪韓国に関する使者の報告を何も記していないのは、余りにも不自然だ。魏にとって狗邪韓国に関する情報は、軍事的にも意味があったと考えられるからだ。一番高い可能性は、陳寿は太守の報告書を否定するような何らかの叙述をしたから、それを誰かが監査し、削除を命じたのではなかろうか。太守が支配していると報告しても、その実態はまるで違っていたというのでは、中華として示しがつかないと考えたのかもしれない。検閲者の主張が、時として理性的ではない理不尽さを伴う事は、しばしばある事だから。時代は降るが、隋書に記された隋の使者と倭王の会見内容は、明らかに記述後に削除された。後漢書に記された、倭国王に対する皇帝の対応にも、不自然な削除が感じられるから、史書は王朝の検閲を経てから発行される事が、一般的だった疑いがある。

倭人が狗邪韓国を建設した目的は、弁韓人の生活をサポートしたり、鉄を韓族に配分したりしながら、楽浪郡や帯方郡の動静を監視する事だったと想定される。箕氏朝鮮が継続していれば、その王が韓族を統治していただろうが、王統が絶えれば、誰かが韓族を束ねる必要があった。魏志韓伝が、統治者について何も記していないのは、実際の統治者が倭人だった事を示唆する。但し倭人の統治は、小国が連合状態である事を基本としていたから、中国人には理解出来なかった事も、記載がない理由として挙げる事が出来るだろう。狗邪韓国の成立も燕が強勢になった、BC4世紀頃だった可能性が高い。

以上の結論としては、燕が強勢になったBC4世紀に、倭人は狗邪韓国を形成して燕の南下を阻止するプランを策定し、弁韓人を移住させて韓族に鉄を支給して貰い、韓族を朝鮮半島南部に定着させて、漢民族の南下に対抗する藩屏として育成する傍ら、燕に朝貢して燕の意図を探りながら、「倭人の島は東シナ海にあり、朝鮮半島南部は広大で、勇猛な韓族が占拠している」という嘘の情報を、燕に流したと想定される。それ以降中国人は、朝鮮半島南部は実際より45倍広いと信じ続け、倭人もそれらしく演出し続けた事になる。韓族は倭人と共に、漢民族の南下を快く思わない人達だったから、倭人の騙し作戦には進んで協力しただろう。

 

4-2 朝鮮・対馬海峡

「始めて一つの海を渡り、千余里(400km)にして対海国に至る。」「又南して一つの海を渡る。千余里なり。名づけて瀚海と曰う。一大国に至る。」「又一つの海を渡り、千余里にして末盧国に至る。」

対海国は対馬、一大国は一支国(壱岐国)だったと考えられ、末盧国は唐津市の名護屋近辺にあったと想定される。実際の距離は、金海から対馬まで100km未満、対馬から壱岐まで100km未満、壱岐から唐津まで50km未満だから、倭人の船はわざと大回りして距離を稼ぐために、島影が見えない沖に出て荒波に船を揉ませ、魏の使者の肝を冷やし、朝鮮海峡や対馬海峡は広いから、魏の軍隊が遠征する事は難しいと、魏の使者に思わせた。瀚海は広い海を意味するが、倭人がその名称を魏の役人に教えたと考えられる。対海一支(大は支の誤植であると考証されている)などの地名漢字は、倭人の音を魏の役人が漢字にしたとの想定では、類似した漢字が現在の地名として使われている事を、説明出来ないから、倭人が提示したものだったと想定される。従って瀚海も、倭人が示した名前だったと考えられる。その他の地名も、呉音で読むべきだろう。その場合末盧の読みは、「まつる」であり、万葉仮名では「みる」「みろ」「める」「めろ」などが候補で、「まつら」ではないが、を呉音で「る」と読む音が飛鳥時代に消滅し、漢音である「ろ」に移行したと考えれば、問題は解決する。は古事記では古い歌謡にしか使わず、万葉集には用例がない一方、古事記の神功皇后の記述の中に、「末羅県の玉島里で年魚を釣った」とする記述があり、唐津市の玉島川流域とされているからだ。現在の唐津市域を邪馬台国時代に末盧と記し、「まつら」に近い音だったが、飛鳥時代にの音が「る」から「ろ」に変遷し、末盧表記では音が合わなくなったので、漢字表記を末羅に変えたと想定される。奈良の大仏を呉音で「盧舎那仏」と呼ぶ習俗と逆行しているが、奈良時代の仏教が意図的に呉音に拘泥した事と、飛鳥時代末期の北九州の倭人は、仏教には興味がなかった事を加味すれば、納得出来る解釈に収斂する。

倭人は末盧国が、九州の北端にあると演出する必要があったから、魏志倭人伝が記す末盧国は、唐津市の名護屋近辺だったと想定される。山が迫っていたとする魏志倭人伝の表現も、名護屋にふさわしく、平坦地がある松浦川の河口である唐津市街や、玉島川河口部ではなかった事を示している。

魏志倭人伝に記された距離と方角を、現在の地図に落とせば、狗邪韓国は奄美大島付近にあり、末盧国はルソン島沖の海上にあった事になり、中国人の船では到底行く事が出来ない島になる。朝鮮海峡と対馬海峡は非常に広く、渡航が困難だと思わせる事が、漢族の侵攻から日本列島を守るために、一番肝要な事だったから、倭人はその目的のために、魏の使者を騙した事になり、魏志倭人伝に書かれた海峡の距離は、誇大表示になっている。

対馬、壱岐、末盧国は、漁民と交易者の集落だから、穀物の貯蔵は乏しく、軍隊が侵攻しても食料の調達ができない事を、魏の使者に認知させるために、倭人は色々な説明をした様だ。対馬では「良田なく、海の物を食して自活し、南北の市で米を買う」と説明し、壱岐では「田地があって田を耕すが、猶食すに足りず、ここも亦、南北の市で米を買う」と説明した。魏の使者にとっては、侵攻戦略に欠かす事ができない情報だから、意欲的に情報を蒐集した可能性が高い。南北の市は、狗邪韓国末盧国の市を指したと想定される。

 

4-3 九州

「末盧国に至る。四千余戸有り、山海に浜して居す。草木が盛んに茂っているので、行くに前の人が見えない。」「東南に陸行すること五百里(200km)で、伊都国に到る。千余戸有り。」「東南百里(40km)で奴国に至る。二万余戸有り。」「東行百里で不弥国に至る。千余家有り。南に水行二十日」

伊都国は糸島市、奴国は春日市、不弥国は行橋市だったと想定される。

九州に上陸しても、倭人の騙しが続いた。朝鮮海峡と対馬海峡は非常に広いから、中国人には渡れないと思わせても、それだけでは不安だった様だ。末盧国は山が迫る浜辺の集落だから、此処にも穀類の蓄えはなかった。

伊都国が糸島市だったとすれば、本当は海岸に沿って50km程の旅程だが、故意に内陸の山岳地に分け入り、険しい山中を200km程引き回した。その道には草木が茂り、前を行く人が見えなかったのは、方向感覚を狂わせて東南に向かったと錯覚させると同時に、行進を蛇行させて距離を稼いだからだろう。末盧国から伊都国に行く道を迷路にしておけば、万が一魏の軍隊が侵攻して来ても、道に迷う恐れがあると思わせた。その上に、対馬、壱岐、名護屋では糧食の調達が出来ない上に、この様な道で内陸に分け入っても、食料を略奪する事はできないと認識させた。

実際に魏の使者が歩いたルートは、地図上に再現する事が可能だ。正確にトレース出来なくても、候補地が幾つかある。例えば名護屋から海の見えない山中を南下し、玄海町、北波多、厳木に進み、糸島市南部の山塊を北上し、糸島市の平坦部の、南端に達したと想定される。糸島市は海岸にあるが、海岸にある丘が視界を遮り、海の近くとは気付かれなかっただろう。

糸島市から博多までの30km程は、奴国までの距離と大きな違いはないが、海岸線を避けて内陸の山地を辿ったと想定される。海岸を見せれば、其処まで船を回す事も可能だったのではないかと、疑いを持たれる恐れがあるからだ。

不弥国は行橋市だったと推測され、距離の詐称は殆どない。

九州に上陸してから延々山地を歩かせ、周防灘で瀬戸内海に船出したのは、関門海峡の存在を隠したかったからだと考えられる。万が一魏の船が侵攻し、奴国まで征服したとしても、邪馬台国まで侵攻するための船が行橋にはない事を、魏の使者に示すためだったと考えられる。

地図から離れて魏志倭人伝の記述から、魏の使者に与えられた地理を想像すると、玄界灘から九州北端に上陸し、広い山塊の中の悪路を東南に横切り、伊都国奴国に着いた事になる。そこから東に行って周防灘に出ると、その海から邪馬台国に行くことができた。玄界灘と周防灘の間に、東西に長い陸地があって船の南北通行が阻まれるから、一旦陸地を歩いて次の海に辿り着いた。それを例えて言えば、敦賀湾から東京に往く感覚だろうか。敦賀湾に上陸して伊勢湾に抜け、そこから船で東京に行く様な感覚を持たせるために、倭人は魏の使者に倭の地理を詐称した。魏の軍隊には遠征出来ないと思わせるため、魏の使者に嘘を信じ込ませたのだから、魏志倭人伝の地理を辿っても、邪馬台国を探す事はできない。

 

4-4 瀬戸内

「南に水行二十日で、投馬国に至る。5万余戸。」「南に水行十日、(又は)陸行一月で、邪馬台国に至る。女王の都がある所なり。7万余戸。」

投馬国は岡山で、邪馬台国は神戸だった。他にこの様に大規模な人口を抱えた地域は、西日本の沿海部にはない。

実際に東に向かったのに、魏志倭人伝が南に向かったと記しているのは、倭人の島は会稽の沖にあると、倭人が中国人に宣伝してきた内容と、一致させる必要があったからだ。邪馬台国が九州の東にある事が露見すれば、九州ではなく山陰の海岸に上陸すべきだった事になり、九州以東に邪馬台国への最適航路があると、中国人に邪推される恐れがあった。朝鮮半島の日本海沿岸に住んでいた沃沮は、漢や魏の支配下に置かれた時期があり、沃沮の地から邪馬台国に行く事が出来ると気付かれれば、邪馬台国だけでなく日本海沿岸全域が、漢民族の侵攻に晒される恐れが生まれた。その様な事を漢民族に気付かれないためには、朝鮮半島の南端から九州の北端までは、非常に長い航海が必要である上に、九州は日本列島の北端にあり、邪馬台国に往くには南下する必要があり、倭人の島は東シナ海にあるが、大陸とは広大な海で隔てられているという虚構が、倭人には必要だった。

東行を南下と錯覚させる為に、倭人が具体的にどの様な手練手管を使い、魏の使者を騙したのか分からないが、魏の役人の先入観を肯定すれば良かったから、困難な状況ではなかった。倭の島は江南の様に暖かく、邪馬台国の倭人の習俗、衣装、その他の物産は、当時の海南島の住民のものと同じだったから、華北風の習俗を取り入れていた北九州から、倭人の島の奥地にあった邪馬台国に近付くに従い、海南島的な習俗になっていったから、魏の使者には南下している実感があったと想定されるからだ。

瀬戸内海は島が多く、船の方向が定まらないから、実際にどの方向に向かっていたのか、魏の役人には分からなかった可能性もあるが、南ではなく東に向かっていた疑いがあると、報告書に記した可能性もある。しかし先入観を持っていた魏志倭人伝の著者は、その疑念を無視しただろう。中国人の伝統的な常識や、漢書以来の文献知識を否定する事は、文献だけを参考にしていた陳寿には、難しかったと想定されるからだ。

行橋から岡山まで、地図上の海路は直線距離で200kmほど、岡山から神戸まで100kmほどだから、110km程度を、方向感を狂わせながら東に進んだ事になる。倭人の船は沖縄に出掛けていたから、時速10km程度で何時間も航行する能力があった。トカラ海峡を横断するためには、時速5kmほどで太平洋に向って流れ出す黒潮を、横断する必要があったからだ。色々な細工を弄しながら東に進んだと想定され、魏の使者も、侵攻は全く不可能である事を悟っていたから、距離情報に興味を持たなくなっていたと想定される。

邪馬台国7万戸の過半は、漁民か交易民だったと想定される。彼らは対馬や壱岐の交易民の様に、大阪湾岸の稲作民から米を買う事ができた。3~4世紀の古墳の分布から想定すると、古墳時代初頭の大阪湾岸には、神戸近辺とは異なる勢力があった様だ。それらは農民国だったと想定され、彼らを加えると大阪湾岸の総人口は、7万戸を大幅に超過していたと想定される。5世紀の倭国王が、大山古墳に代表される巨大古墳を造ったのは、古墳時代に邪馬台国が、大阪湾岸の農民も取り込んだからだと考えられる。漁民が4万戸という推定も過大だから、交易者だった倭人の都市国家には、農民もいたと推測される。魏志倭人伝に「稲と紵麻を栽培し、蚕桑して緝績(糸繰り)し、細紵、縑緜(高級な絹布)を出荷する。」と記されたのは、稲作以外に桑を栽培して養蚕を行う農家があり、上等な絹布や苧麻布を織るなどの、職人も多数含んでいたと考えられる。鍛冶や造船に従事する職人もいただろう。その様な混成集団として、7万戸の邪馬台国があったと考えられ、不足する米は都市国家に属さない農民集団から、調達していたと想定される。それらの農民集団が、弥生時代中期に銅鐸などの祭祀具を作り、共同体の祭祀を行っていた事になる。米と鉄器などを交換する両者の経済関係が定着し、邪馬台国などの倭人国と取引していた農民集団は、共同体意識が強くなり、東鯷人と取引していた集団では、首長制が成長していた事になる。物品の取引関係が密接になると、交易者だった倭人の強い影響を受ける事情は、中華だけでなく日本でも発生していた筈だ。縄文時代には、農民と漁民はY遺伝子が異なっていたが、弥生時代には相互の人的な交流が進み、文化の交流も活発化したと想定される。現在の日本人の最大集団が、漁民だったY遺伝子D2である事は、米の増産によって農民人口が急増したと考えられる弥生時代には、漁民や倭人出身の農民が多数いた事を示唆している。彼らが養蚕や苧麻栽培などの農耕経済を主導したと想定され、その豊かさに応じた人口の増加があり、農民にも漁民的で交易民的な価値観が浸透したから、現代日本人が持つ、中国などの大陸農耕社会とは異なる独特の発想が、その様な経緯で形成されたと想定される。

箸墓古墳があった奈良盆地南部を、邪馬台国の有力候補地だと主張する人が多いが、邪馬台国には水行だけで行く事ができたから、奈良盆地は候補としてふさわしくない。邪馬台国の南にあったとされる狗奴国が、奈良盆地にあったとすれば、魏志倭人伝は日本列島の勢力を完結的に網羅していることになり、諸勢力の配置が完結する。その観点から、邪馬台国は神戸にあったと判断できるが、その論証には証拠と説明が必要になる。

その証拠の一つとして、神戸の沿岸部にある西求女塚古墳を検証する。当時の海岸から100mほどの場所に築かれ、築造時期は3世紀後半だと考えられているから、卑弥呼と台与の合葬墓か、台与の墓だったと想定される。その副葬品に着目すると、墓の主室から銅鏡、目釘孔がある短剣または槍先、小札革綴冑の部品が発掘され、副室から鉄剣、鉄鏃、鉄鉾、ノミ、鉄斧、ヤリガンナ、短剣または槍先、ヤス(漁具)、碧玉製紡錘車が出土した。古墳の墳頂部および墳丘裾部から、「山陰系土器」と呼ばれる土師器が多数出土した。

副葬品から考えれば、埋葬された王は海洋交易民だった倭人の王で、農民を支配した王ではない事は明らかだ。木工具であるノミ、鉄斧、ヤリガンナは、造船に必須の工具だったと想定され、ヤス(漁具)は漁民が重視されていた事を示唆する。鉄剣、鉄鏃、鉄鉾、目釘孔がある短剣または槍先は、交易者が大陸で身を守る武器だったと考えられ、海洋交易民的な武器や道具が、副葬品の全てだった。碧玉製紡錘車の存在は、被葬者が女性だった事を暗示する唯一の道具だが、倭人国の女王の副葬品としては、それで十分だろう。

古墳を山陰系の土器が飾っていた事は、生口の販売を通して山陰の東鯷人と結び付く動きが、邪馬台国でも始まっていた事を示唆し、魏志倭人伝に、卑弥呼や台与が魏の皇帝に、生口を献上したと記されている事と符合する。

魏志倭人伝は邪馬台国連合以外の日本列島の勢力として、女王国の南に狗奴国があったと記しているが、狗奴国が紀ノ川の河口を湊とし、飛鳥付近を第2の根拠地としていた東鯷人集団だったとすれば、狗奴国の位置は魏志倭人伝の記載と一致する。

魏志倭人伝は、倭の習俗や地理について色々説明した末尾に、「女王国の東、海を渡って千余里、また国あり、皆倭の種なり。」と記している。と記している事は、国が複数あった事を意味し、それが関東の倭人国を指したのであれば、漢書地理誌に記された100余国の内、邪馬台国に帰属していた30国以外の、70余国を統治していた倭国を含む国々があった事を示唆する。それを明らかにする事は魏にとって嬉しくなかったから、末尾にさりげなく記したと想定される。

1章、2章で説明した前提条件と、西求女塚古墳の立地、副葬品、魏志倭人伝に記された国の規模と旅程、魏志倭人伝が日本列島の勢力を、あれこれ記載している事などを考慮すれば、邪馬台国の所在地は神戸だったと考える事に、合理性があるだろう。

 

4-5 日本全土の勢力分布

魏志倭人伝が、邪馬台国連合以外の日本列島の勢力を、魏志倭人なりに色々記載している事について、詳しく検証する必要がある。

魏志倭人伝の記載から、人口集積地だったと、古墳分布から判定した地域である北九州、岡山、大阪湾岸、奈良盆地、関東の政権がどの様な性格のものだったのか、読み取る事ができる。北九州の倭人集団の中核国は奴国で、岡山に投馬国があり、大阪湾岸の神戸に邪馬台国があり、紀ノ川河口を拠点湊として奈良盆地南部に狗奴国があった。関東の多摩川と鶴見川の河口に、邪馬台国連合に含まれない倭人国70余国の、中核国があった筈だが、魏志倭人伝に記されている「女王国の東、海を渡って千余里、また国あり、皆倭の種なり。」が、それに触れている記述だったと考えられる。

魏志倭人伝に記されていない「倭国王」について考察すると、時代が前後する後漢書と宋書には登場するが、魏志倭人伝は卑弥呼を女王とか親魏倭王と呼び、邪馬台国を女王国と記し、倭国王や倭国とは記していない。隋書は、倭国は昔の邪馬台国であると記し、唐書は、倭国は昔の奴国であると記しているから、隋唐代には、倭人を統括する国として倭国があった。倭国の規模は、戸数7万戸程度の地域国だった事も示している。

隋書も唐書も、当時の倭国と昔の国の同定判断を誤っているが、それには理由があり、当時の倭王が生粋の倭人ではなく、倭人から政権を預かった東鯷人の王だったからだ。その倭王が中国人に対して見栄を張り、正統な倭国王であるかの様に誤魔化したから、倭王の申告に意図的な曖昧さがあり、隋や唐の使者はそれに騙された。隋代の倭王の誤魔化しのテクニックは、(8)隋書の項で説明した。唐の使者が飛鳥にあった倭国を、昔の奴国と誤解した理由は明らかではないが、隋書の記した「倭国の都は『邪靡堆』で、魏志に書かれた『邪馬台』である。」は、誤解である事を倭人が指摘し、先行する史書に名前があると示唆していたから、その他の国を先行史書から探す過程で、漢が金印を与えた奴国を選定したと想定される。狗奴国だと判断する事ができなかった事は、常識的に理解出来るが、確度の高い推測ではない。飛鳥時代の倭の都が、飛鳥だった事は確かだから、唐の誤解はこれ以上追及しない。

以上の結論として、後漢代から倭を統括する倭国王がいて、倭国王が統治する国を倭国と呼び、倭国は一貫して同じ国に固定されてはいなかったが、卑弥呼は倭国王ではなく、邪馬台国は倭国ではなかった事になる。倭に100余国あり、邪馬台国連合は30国だったのだから、それは当然だろう。「海を渡って千余里」にあった倭人の国の中に、倭国があったと想定される。

当時の倭人が漢字を使いこなしていた事は、4-2 朝鮮・対馬海峡の節で説明したが、魏志倭人伝は更に、楽浪から来る使者が持参する文章と、卑弥呼が発した文章を末盧国の湊で臨検し、内容を検めるから食い違いは許されないと記し、倭人に漢文読解力があった事を示している。従って倭の地名は、卑弥呼や大率が発した文章に記されていたと考えられ、万葉仮名か呉音で読む必要があるから、邪馬台は「ざまと」であって、「やまと」ではない。

倭人が「やまと」と呼んだのは、「倭国」の訓読だったのではないかと考えられる。その理由は、奈良県を「やまと」と呼びながら、日本列島全域も「やまと」と呼ぶ混用が古い時代からあり、史書が示す倭と倭国の混用に、極めて類似しているからだ。史書は、倭国として邪馬台国規模の国を指しながら、他の倭人の国も含めた全体を倭と表現し、倭、倭国、倭人、倭国王を適宜使っているが、倭国の人ではない倭人がいることになるから、使い方として矛盾がある。それを歴代の史書が継承しているだけでなく、時に間違った使い方もしているのは、倭人に混用があったからだと想定される。但し話はそれほど単純ではない。

革命政権だった大和朝廷が中央集権制を敷いた際に、日本全土が倭国になったと考えたから、その時点で奈良県を「やまと」と呼び、日本列島も「やまと」と呼ぶ習俗が始まった可能性があるのだが、それであれば全国に国名が付与された時点で奈良県が大和になり、日本列島全域を「やまと」と呼ぶ事は、使い慣れない表現として消滅しただろう。しかし現代人でさえ当然の様に混用し、大和民族などと呼称しているのは、古い伝統があったからだと考えられる。それは倭と倭国の混用に端を発していたからだと想定され、倭と倭国は共に、倭人が「やまと」と呼称していたのではないかとの疑いに至る。

隋書によれば、東鯷人の倭王は飛鳥が邪馬台国だったと誤解させる為に、「邪靡堆」の漢字を使った。倭人はこれを「ざひと」と読んだと想定され、「ひと」=靡堆=飛鳥だったと考えられる。「ざ」は美称だったとすると、邪馬台=「ざまと」の「ざ」も美称だった事になり、「まと」が地名または国名になる。「まと」は「やまと」にも使われているから、「や」も異なる意味の美称だった可能性が生まれ、邪馬台と大和に共通する「まと」も、地名などの固有名詞ではなく、倭人国を指す一般的な名称だった疑いが生まれる。

古語の「まとひ」は、戦場で大将がそこにいることを示す旗印を指すが、「ひ」がサオを指し、「まと」が旗の様なものを指したのかもしれない。倭人集団毎に船に掲げる固有の旗があり、それが集団を識別していた可能性は高い。倭人国は農民国の様な領域はなく、使用する湊を変える事もあっただろうから、集団の名前に地名を使わず、旗印で識別した方が交易集団らしいと言える。この推測を発展させると、「やまと」は統括旗を、「ざまと」は副統括旗などの大旗を意味した可能性が浮上するが、推測の域を出ない。事の真偽は別にして、邪馬台国は大和国ではなかった事から、矛盾が生まれない事を確認する意味はあるだろう。

「女王国の東、海を渡って千余里、また国あり、皆倭の種なり。」に続いて、「またその南に侏儒国あり、人の長さ三、四尺、女王を去ること四千余里。また裸国あり、黒歯国もあり、その東南に船行一年にして至るべし。」と記されている。これを理解するためには、山海経の海外東経に記された「海外の、東南陬(すう)より東北陬に至るもの」の、具体的な内容を検証する必要がある。「陬」は片隅とか片田舎を意味する。

「大人国は其の北に在り。・・・坐して船を削る。・・・

奢比(しゃひ)の尸(し)、其の北に在り。獸身・人面・大耳。・・・

君子国、其の北に在り。衣冠帯剣して獸を食い、文様のある虎を使う。・・・

青丘国、其の北に在り。其の狐は四足九尾。・・・・

黒歯国、其の北に在り。人と為り黒し。稲を食し蛇を啖う。・・・・・」

以上の記述は中国の東の海の事で、倭人の島の外にあったものの説明だった事になる。倭人が中国人にその様に言わない限り、中国人が上記の知識を持つ筈はなく、誰かがその様に言っても倭人達が否定すれば、その話は立ち消えになっただろう。この様な話は、倭人が春秋戦国時代に、日本列島産の琥珀・翡翠・珊瑚・瑪瑙などの加工品を、中国人に高値で売るために、それらが何処で採取されたのか説明した内容だったと想定される。怪異に満ち溢れた神仙の世界から持ち出した宝だから、価値が高いと宣伝したのだろう。中国では産出しない品々だったから、その様な嘘を言って、購買欲を煽ったと想定される。大人が船を削る話があるのは、神仙世界で造られた倭人の船は、東シナ海を縦横に航行出来るが、中国人はその様な船を作る事ができないから、東シナ海に乗り出す事はできないと宣伝し、東シナ海に乗り出す事を断念させる目的が、あったからではないかと推測される。

黒歯国は、非常に遠方にある国だった。邪馬台国の倭人は魏の使者に、海外東経の記述順ではなく、侏儒国裸国を経て黒歯国に往く事ができると説明したから、魏の使者がそれを報告書に記したと想定される。実際には更に色々な国の話があり、陳寿はその抜粋を記したのかもしれない。聡明で理知的な陳寿が、山海経を信用していたとは考えにくいが、倭の地理の説明の最後に出典が分かる国名を記し、中国から倭人の島を経てその外にまで、魏志倭人伝の記述が及んでいる事を示した。それにより、倭人の島のすべての領域に関する記事を、魏志倭人伝に書き込んだとの自負を、示したと考えられる。陳寿が勝手にその様に判断したのではなく、魏の使者がその趣旨で倭人に質問し、倭人の島についての全貌を、倭人から聞き取ったと判断したからだろう。それを明示的に記述せずに、この様に暗示的に示したのは、この様に記して読者にそれを判断させる事が、品格ある史書の作法だと認識していたからだと想定される。倭に関する陳寿の記述は、東夷伝を記した真意を含め、この様な学術的な姿勢を一貫して示し、結論を断定的に述べない奥ゆかしさを示している。東夷伝を記した真意は前項F)漢書地理誌、後漢書、魏志倭人伝に記された倭の位置参照。

陳寿は、魏志倭人に日本列島の全ての政治勢力を、網羅したと主張しているが、古墳分布から、魏志倭人伝から読み取る事ができない勢力があった事が分かる。上掲の34世紀の古墳の分布からそれを拾えば、若狭湾沿岸と宮城県の勢力がそれに相当するが、若狭湾沿岸は東鯷人の勢力圏だったから、代表国だった狗奴国に関する記事に限定され、若狭についての説明はなかったとしても、違和感を持つべき事ではないだろう。

宮城県については、当時は寒冷化して稲作地ではなくなっていたから、北方交易の拠点集落ではあったが、倭人が集積する地域ではなかったから、魏志倭人伝に記載されるべき政治集団の、集積地ではなかったと想定され、記載されなかった事に違和感はない。

以上の観点で魏志倭人伝を読めば、邪馬台国の所在地は神戸だったと、結論付ける事ができる。