中国の倭人伝が示す倭国 > 法則的に解釈出来る事象と難解な推理 >

漢書地理志、後漢書、魏志倭人伝に記された倭の位置

1、漢書、後漢書、魏志倭人伝

正史とされる24史の筆頭は史記だが、黄河流域の漢民族の歴史に終始し、揚子江流域の文明を劣位に置いている筆致に、疑問を抱かざるを得ない。漢王朝の正統性を謳いあげる為に、歴史を捏造している疑いが濃いから、参照する事には大きなリスクがあると言わざるを得ない。従ってこのHPで扱う正史は、漢書から始まる。

漢書は75年~88年に班固、班昭らによって編纂され、前漢の成立から王莽政権までを記している。正史は王朝の記録やその時代の書籍を参照しているので、史料価値は高いが、意図的な欠落や作為が含まれるので批判的に読む必要がある。特に漢書は、史記の捏造内容を引き継いで辻褄合わせをしているから、それに注意する必要がある。

後漢書は、南朝宋の時代に范曄(はんよう、398年~445年)によって著述された。後漢書の倭伝は150年先行した魏志倭人伝を参照しているが、南朝宋に朝貢した倭人から知識を得て、訂正している箇所が多々ある。南朝代には戦国時代の記憶が失われ、史記の史観を正当とする風潮が生まれていたが、同時代の記述には客観性や厳密性が見られる。

魏志倭人伝は三国志/魏志/東夷伝の一部で、三国志は西晋の陳寿が280年~297年の間に著作した。後漢書に先行して記述され、同時代資料としての価値が高い。

この項では、漢書地理志が示す倭の位置表現の真意を、他の2つの書籍を参照して検証する。現代人が知っている事実を主題にすれば、古代中国人の認識の誤りを検証し、誤認した理由に迫る事により、各々の著作の執筆態度が分かる。それによって従来とは異なった角度から、春秋戦国時代の中国人が、どの様に倭人と接していたのか推測する事ができるが、その様な手法が極めて有効である事を、以下に示す。

 

1-1、漢書地理志

漢書地理志は中国全土を2種類の方法で地域化し、各地域について記述している。前半では、古代に12の州があったが、夏代に9の州を定めたと説明した後、漢代の行政区分だった郡県制を基に、各郡の戸数と人口を記している。漢王朝が行政区分毎に戸籍を作ったから、それを纏めた事になる。後半は春秋戦国時代の国名を使い、十三の地域に分割してその国の方角を記し、各地域の様子を簡潔に記している。後半の記述は、漢代の地理志としては不自然な形式だから、先行した地理志の区分法を、踏襲した事を示唆する。しかし先行した地理志の存在は知られていないから、散逸したと推察される。漢書地理志には、先行地理志があった事は記されていないが、中国の史書はその様な事情を記述しない事が一般的だから、先行地理志に言及がないことは不思議な事ではないが、「周の官僚だった職方氏が、古代の九州の国を掌していた」として、周礼の夏官司馬の記載をコピーした様な、九州の簡略な内容を転記している事は、先行史書があった事を暗に否定している様にも見えるし、九州の簡略な内容には、より詳細な出典があった事を示唆している様にも見える。

十三の国の中で、最も早く滅んだと史記に書かれているのは、紀元前473年に越に滅ぼされた「呉」になる。素直に解釈すれば、先行的な地理志はそれ以前に編纂された事になるが、史記の信憑性は低いので、秦以前である事以外は、何も分からないと言うべきだろう。以下では地理志は、「呉は揚子江下流域」としている事だけを事実とする。

「燕」の記事の最後に、「夫、楽浪海中に倭人有り、分れて百余国を為す。時を以って来たりて献見すると云う。危四度~斗六度の所謂析木の方角は、燕の分である。」と記されている。地理志の「燕」は、遼寧省と河北省を指している。「夫」の意味は分かっていない。「歳時」は毎年の決まった時期を意味し、倭人が長い航海を経て中国に出向く際、風向、台風、中国の雨期と乾期を考慮し、往路と帰路の季節を決めた事を示している。「献見」は身分の高い人と面会する事を意味し、「云う」は、正式な記録はないが、身分の高い人が指摘していた事を意味する。現代語訳すれば、「倭人の国は楽浪の沖にあり、百国以上に別れ、各国の倭人が中国の身分の高い人に会うために、毎年同じ時期に来ると言われているが、彼らは朝貢していない。」という事になる。楽浪は今のピョンヤン郊外に郡衙があった。

「危四度~斗六度の所謂析木の方角は、燕の分である。」を理解するためには、予備知識が必要になる。古代の中国では、天空の星座を28宿と呼んで地理的な方位とし、その方法は日本でも使われた。以下に漢書地理志に記載された地域名と、28宿の対応表を示す。上段が東西南北、中段が28宿の名前、下段が春秋戦国時代の国名で、2段に記述した。

 

東(青龍)   

北(玄武)    

西(白虎)   

南(朱雀)     

 

 

国の並び順は、史記が示す春秋戦国時代の国の位置とは、大きく異なっている。下に方位を90度右回転し、→で示す方位に直した図を示す。或る程度既存の知識に近づくが、食い違いは完全には解消しない。

 

西部 ←    南(朱雀)

 

北(玄武)  → 東海沿岸

 

西(白虎)  → 中原北部

 

 

 

東(青龍)  → 中原南

 

東海沿岸が斉、粤(えつ)、呉の順になっている事は、粤=越の稲作民が温暖化に乗って、山東半島南部まで北上した戦国時代の勢力図に見える。国がない「胃」は趙の邯鄲と魯の曲阜の間の、黄河が氾濫して人が住めない地域だったとすれば、事実と合致している可能性がある。

漢書の著者だった班固は、方位と国の関係が史記の記事と一致しない事を深く考えず、先行した地理志の知識を踏襲した事になるが、漢代の地理的な知識として、旅程は或る程度正確だったが、面的な位置関係はよく判らなかったから、班固にも判断出来なかった可能性が高いが、呉と粤は明らかに、地理志が示す地域と南北が逆転しているから、先行した地理志の形式を踏襲する事は、班固にとって至上命題だった事を示唆する。

「危四度~斗六度の所謂析木の方角は、燕の分である」は、明らかに不合理である事を、下表に示す。燕の条の冒頭に、「燕地は、尾、箕の分野也」と記しているから、その矛盾は際立っている。

 

 

析木之次

 

 

 

 

 

 

 

危四度~斗六度

 

 

「度」表示は28宿を更に細分化する方位で、以下の議論には重要な要素ではないから、説明は割愛する。「危四度~斗六度」が析木の方向ではない事は、一見して明らかだ。上に示す析木之次は、漢書律歴志に記載されている方位だから、漢書の中での不一致になり、班固自身の矛盾になる。この様な間違いは、地理志の他の地域の方位に関しては犯していないから、少しづつ違う方位を順に並べ、「危四度~斗六度」は燕の方角であるかの様に、誤解させようとした意図が見える。その目的は、倭の位置を誤解させる為だったと考えられる。倭に関する記述の冒頭に「夫」が付いている事も、地理志の他の記述と異なるが、ここで使っている「夫」の意味は分からない。読者を幻惑させる目的での、平素は使われなかった漢字の用法だったのかもしれない。

漢書地理志の倭人に関する記述には、もう一か所不可解な場所がある。地理志の「呉」の記事の最後に、「会稽の海外に東鯷人有り、分れて二十余国を為す。時を以って来たりて献見すると云う。」と記し、倭人について燕の条で書いた文と、明らかな対句にしている。地理志に似た文形は他にないから、著者は倭人と東鯷人に特別な関係がある事を、意識していた事が分かる。しかしその説明は全くない。地理志後半の各地の記述は秦から始まり、途中に燕があり、斉、魯、宋、衛、楚、の次に呉について記載しているから、漢書地理志を読んだ人は、対句になっている事に気付かない可能性が高い。「会稽」は揚子江の南の沿海部を指し、現在の浙江省と福建省に重なる。「鯷」は現在「カタクチイワシ」を意味するが、昔の中国人は海の魚を殆ど食べなかったから、得体の知れない魚を食べる人を意味したとも考えられるが、カタクチイワシは各処で多量に撮れる魚で、目刺や煮干しの原料として、古代から日本人のポピュラーな食料だから、「鯷」は倭人が作った漢字だった可能性が高い。

漢書地理志の「粤」の記述の中に、「(海南島では)皆、一枚の布の様な服の中央に、穴を穿って頭を貫く。男子は耕農でイネと紵麻を栽培し,女子は桑で蚕を飼い織績する。」と記されている。粤は越と同じ音で同じ民族を示し、春秋時代に福建省近辺にその名前の国があり、戦国時代に東シナ海沿岸を北上した「越」と重なると考えられるが、地理志の粤は広東省以南からヴェトナム北部を指している。

魏志倭人伝に、漢書地理志のこの記述を引用している文があり、「(倭人の)婦人は一枚の布の様な服の中央に、穴を穿って頭を貫く。イネと苧麻を植え、蚕を飼い、糸を紡いで上質の絹布を織り・・・」と文型を類似させて記し、漢書地理志を引用した事を示している。中国の史書はこの様な引用手法を多用し、引用を明らかにして説明を省略したり、前史の誤りを訂正したりする。

3世紀の倭人女性の衣装は貫頭衣で、漢代(BC12世紀)の海南島の、男女の民族衣装も貫頭衣だった上に、民衆の生業や栽培種が同じだった事になるから、海南島の住民と弥生時代の倭人は、極めて類似した生業と習俗を持っていた事になる。魏志倭人伝は、「物産も同じ」と記している。この場合の物産は、道具や人工的な生産物を指している。

漢書地理志の「粤」に、「日南の障塞の徐聞、合浦から船行五ヶ月で都元國に行ける。又船行四ヶ月で邑盧沒國に行ける。又船行二十餘日で諶離國に行ける。步行十餘日で夫甘都盧國に着き、その甘都盧國から船行二ヶ月餘で黃支國に着く。民俗は概略珠崖(海南島)と相い類す。」と記されている。船で1年近く掛かって辿り着く黃支国の人は、海南島の人達と同じ民俗だという事は、黃支国は東南アジアの何処かの国で、それはオーストロネシア語族海洋民の国であって、倭人とオーストロネシア語族海洋民は同じ民俗だった事を示している。距離が異常に長い事は、魏の使者が邪馬台国に行った行程が、異常に長かった事と同じ状況で、オーストロネシア語族海洋民も倭人の様に、漢民族の渡来を嫌っていたから、漢の使者を招いた際に異常に長い航路を演出して見せたと想定される。実際にそれらの国はそれほど遠くなく、南シナ海沿岸の島嶼や、マレー半島にあったと考えられる。倭人とオーストロネシア語族海洋民は、習俗や文化を共有していたのだから、漢民族に対処する仕方も共有していたとしても、不思議に思う事はない。倭人は中国に出向いて交易していたが、オーストロネシア語族海洋民は漢民族の商人の町だった広東には出向かず、そこから離れた徐聞や合浦で、船の上で取引していたから、漢民族に対して倭人より、数段臆病だった事になる。

漢書地理志の「粤」に、「其の君主は禹の子孫で,(夏王朝の)帝少康の庶子だった雲が、會稽に封じられると文身(入れ墨)斷髮し、蛟龍の害を避けた。」と記されている。蛟龍は蛇。

魏志倭人伝はその文も引用し、「(倭人は)大人も子供も男子は皆黥面文身する。昔から其の使いが中國に詣でる際には,皆自から大夫と称す。夏后少康の子が、會稽に封じられると斷髮文身して蛟龍の害を避けたが、今の倭の水人は好んで水に潜り、魚蛤を捕える。文身は大魚水禽に、それを嫌がらせて遠ざけさせる。後になると飾りになり、諸國の文身は各々異なり、左とか右とか,大きいものや小さいものがあり、尊卑によって差がある。」と記している。

魏志の著者の陳寿は、各種の書籍を読み込んで博識である上に、幾分生真面目な人だった様だ。陳寿の言いたかった事を翻訳すると、「漢書地理志には、夏代の会稽には文身する住民がいて、夏后少康の子がそれを真似て文身したのは、蛇の害を避ける為だったと記されているが、それと同様の目的であれば、倭人は何時も水に潜って魚や貝を取っているから、大魚や水鳥の害を避ける事になる。しかし今はその様な目的で文身するのではなく、飾りとして身体の色々な部分に、色々な形で文身し、身分の違いも文身で現わしている。」となるが、夏后少康の子も、蛇の害を避けたのではないだろうと暗示している。しかしそれは確かな事ではないから、長文を使って婉曲的に表現したところに、陳寿の生真面目さが見える。

陳寿がその事に拘ったのは、史記の越王句踐世家に、「越王句踐の祖先は禹の苗裔で、夏后帝少康の庶子である。會稽に封じられて禹の(祭)祀を奉守し、文身斷發し、草萊(雑草の茂った土地)を披(ひらく)いて邑を作った。」と記されているから、漢書はそれを引用し、文身の目的を付記した事になるが、陳寿はその目的は違っていると言いたかった事になる。一見些細な事を言って居る様に見えるが、陳寿が本当に主張したかったのは、史記と漢書双方に、重要な誤りがある事だった。但しそれが何だったのかは、これらの史書の文章を幾ら読み込んでも、分からない。陳寿は真実を知っていた、という事だから。真実というのは、漢民族文化は昔の稲作民文化の模倣で、稲作民文化は倭やオーストロネシア語族民などの海洋民文化の影響を受け、共に発展したものだった事を指す。つまり陳寿が否定したかったのは、史記の「草萊(雑草の茂った土地)を披(ひらく)いて邑を作った。」という文だったから、長文を使ってそれを暗示したと考えられる。

夏代の会稽には海洋民族が住んでいて、文身は彼らの作法だったから、夏王朝の王族がその文明を尊重して文身したとしていた伝承を、史記が歪曲して海洋民族を野蛮人の様に記し、漢書はその表現をその表現を蛟龍の害を避けた事に変えた。陳寿は、文明人の居住地が、雑草が茂った辺鄙な場所であった筈はないと言いたかったから、先行史書だった漢書の表現を否定し、間接的に史記の認識を否定したと考えられる。

中華の歴史に関し、史記の内容を訂正する事は憚られたが、周辺民族の事まで捏造しては中華の為にならないし、東夷伝を書く価値がなくなってしまうと陳寿が考えた事は、一流の学者として当然の見識だったと言えるだろう。魏志倭人伝には、倭は文明国として記述されているから、それと矛盾する先行文献を訂正する事を、陳寿は必要だと判断した筈だ。

漢書地理志の「燕」に戻ると、「夫、楽浪海中に倭人有り、」の直前に「東夷は天性柔順で、三方(東以外の外部民族)と異る。故に孔子は道の行なわれざるを悼(お)しみ、浮(ふ)を海に設け、九夷に行って住みたいと欲した。ゆえ有るかな。」という文がある。その文の少し前に「武帝が玄菟楽浪を設置した時、朝鮮濊貉(高)句麗は皆蛮夷である」と記しているから、地理志が東夷と呼ぶ民族は、当時現在の北朝鮮以北にいた濊貊、高句麗、韓族などの、野蛮な民族ではなかった事になる。孔子は海を越えて九夷に行きたいと言ったのだから、九夷の候補は倭しかない。九夷は倭ではなく、9個の夷族の総称だと主張する人がいるが、竹書紀年の夏王朝の記事に、「九夷来御」と最大の敬意を示した表現があるから、特定の民族を指している事になる。倭は100余国ある海洋民族だったが、代表者の下に統制がある集団として、九夷と呼ばれたと想定される。最大の敬意を示したのは、秩序をもって宝貝を運んで来たからだろう。

九夷以外に東夷として、どんな民族がいたのか陳寿は気にしたから、魏志東夷伝に朝鮮、濊貊、高句麗も含めた東夷諸民族を網羅し、結論として倭しかない事を学術的に証明した。地理志が記す東夷は、九夷の事であり、それは倭の事であると結論付けたが、史官の常として、漢書を露骨に引用して誤っていると注釈する事はせず、東夷伝をその答えにした。それを分からせるために東夷伝に前文を着け、その末尾に「夷狄の邦といえども儀礼は心得ているから、中国が乱れたら彼らに教えてもらう事もあるだろう。新しく分かった東夷の国の特徴を区分けし、今までの歴史書に欠けていた処を補う。」と記した。三国志に先行し、東夷について触れている歴史書は漢書しかないから、陳寿は漢書の欠けていた処を補い、誤りを訂正した事になる。そこまで記せば、漢民族だった晋王朝の知識人には分かると、陳寿は判断したと想定される。しかし晋が滅んで漢民族が四散してしまうと、漢民族の暗黙の伝承は失われ、陳寿の真意を理解する人がいなくなってしまった。

 

1-2、後漢書東夷列伝

後漢書東夷列伝/倭の条に、「倭は韓の東南大海の中にある」「(倭は)大略会稽東冶の東にあり、海南島に近く、それ故に法、俗は同じところが多い。」と記されている。「倭は韓の東南大海の中にある」「倭人は帯方の東南の大海の中」と記した魏志倭人伝より起点が南に下り、日本列島の位置をより正確に示しているが、「(倭は)大略会稽東冶の東にあり」は、相変わらず魏志の誤解を引き摺っている。「海南島に近く、それ故に法、俗は同じところが多い。」は、魏志倭人伝が曖昧にした事を論理的に明確にしたが、魏志倭人伝が曖昧にした理由が忘却されていたから、魏志倭人伝を文面通りに解釈し、この様な結論が当然だとしている。陳寿の様な慎重さがなく、理知に走る才気が感じられるが、結論は正しくない。

陳寿はなぜ范曄の様に結論付けなかったのか、そちらを考える必要があるだろう。魏志倭人伝を読んだだけであれば、当然范曄の様な結論になる事を、范曄自身が示しているが、陳寿はその様には記さなかった。陳寿は海洋民族の機動性の高さを知っていたから、文化を共有していても、島の位置が近いとは限らない事を認知していたからかもしれない。蜀の人だった陳寿は、四川盆地は許昌や洛陽より倭人の島から遠いのに、四川の稲作民は倭人文化に理解があると、認識していたかもしれないという事だ。雲南の文化と日本文化に共通性があると指摘する人が多いのは、倭人がこの頃揚子江を遡上し、四川に交易に出掛けていたからだと想定され、可能性が低い話ではない。それは陳寿の個人的な事情だが、漢民族の史官として漢民族の優位性を否定できないまでも、中華とは別の海洋民族文明が東シナ海や南シナ海を支配し、交易民文化を形成していた事を、陳寿は知っていた事が挙げられる。その事情は既に上に述べたが、陳寿の時代の知己人も、漢に降伏した稲作民の豪族から、海洋民族についての知識を得ていたから、或る程度の事は知っていたという事だ。しかし陳寿から150年後の范曄は、華北王朝が滅んで華南に亡命し、知的な伝統を失っていた。文献だけで判断するしかなかった王朝の、知識人になっていたと言い換える事も出来る。范曄の歯切れの良い姿勢は、後者の事情を浮かび上がらせるが、前者の可能性も並行的に存在したかもしれない。

後漢書/東夷列伝/倭伝にもう少し深く立ち入ると、魏志倭人伝のダイジェストの様な説明に続き、AD57年に倭の奴国の使者が貢物を奉じ、後漢の光武帝のもとに挨拶に来た。使者は自ら『大夫』と名乗った。」 から始まる、後漢朝の記事がある。年号は西暦に換算した。光武帝が奴国の使者に金印を下賜した記事だが、使者が「大夫」と名乗った事に注目する必要がある。「大夫」は春秋戦国時代の、各国の重臣身分を意味する言葉で、複雑な職制になった漢代には、使わなくなっていた称号だった。倭人は春秋戦国時代に使われた中国の身分称号を、中国で使わなくなって300年経ても、依然として使っていた事になる。後漢初頭の倭の奴国の使者だけでなく、更に200年後の邪馬台国を記した魏志倭人伝も、「昔から中国に来る倭の使者は、皆自分から『大夫』と称す。」と記し、卑弥呼配下の複数の者の名前に、この称号を付けて記載している。魏志倭人伝に記された事を、後漢書がこの記事を掲げて追補した事になるが、その意図は、邪馬台国の倭人が使っていたその称号は、漢王朝から伝わったのではなく、倭人が昔から使っていた事を、明示したかったからだろう。春秋戦国時代の倭人は、中国の一つの国であるかのように振る舞っていた事になる。これを見ると、范曄も陳寿の認識に迫っていた様に見えるが、陳寿が見た伝承記録は晋の滅亡と共に失われていたから、范曄には春秋戦国時代の事情が、具体的には分からなかった事になる。

後漢書にも、漢書地理志を引用した東鯷人に関する記述があり、それを追補・訂正している。

「会稽の海外に東鯷人有り、分れて二十余国を為す。」と漢書地理志と同じ文を冒頭に配し、追補・訂正である事を明記し、以下の文が続いている。

「又夷洲及び亶洲有り。伝承によれば、秦の始皇帝が徐福を遣わし、童男童女数千人を将いて海に入り、蓬莱の神仙を求めたが、得ず。徐福は誅を畏れて敢えて還らず、遂にこの洲に止まり、世々相承して数万家有る。(亶洲の)人民は時に会稽の市に至る。会稽の東冶県の人が海に入って行って風に遭い、漂流して亶洲に至る者有り。(亶洲の)所在は絶遠だから、往き来することは出来ない。」

会稽の東冶県は福建省福州の事で、倭人が南西諸島を経て台湾から福建省に向かえば、最初の寄港地になる場所だった。後漢書では、東鯷人は倭人とは別の条である様に記されているが、後漢書の文頭に「(倭は)大略会稽東冶の東にあり」と記しているから、倭人と東鯷人は同じ島か、別の島としても近接した島に居たと判断していた事になる。南朝宋代には東鯷人という区分は消滅し、皆倭人になっていた。范曄は倭国王の使者から、漢代から引き続いて後漢時代にも東鯷人という別種が、会稽に来ていた事を確認し、この記事を書いたと考えられる。その様に判断できるのは、後漢書のこの文が三国志を引用しているからで、それはこの記事の出典が、後漢の朝議録にはなかった事を意味するから、范曄の東鯷人に関する知識の出典は、宋を訪問した倭国王の使者だった事になり、倭人からそれを聞いたのであれば、東鯷人は倭人に吸収されていた事も、倭人から聞き知っていた事になるからだ。

後漢書の、東鯷人に関する記述の先行文献としての、三国志呉志の呉主伝の記事は、以下になる。

「(呉の孫権は)将軍衞溫と諸葛直を遣し、(両名は)甲士万人を將いて海に浮び、夷洲及び亶洲を求めた。亶洲は海中に在り、長老が伝えて言うには、『秦始皇帝が方士の徐福を遣し、(徐福が)童男童女数千人を将いて海に入り,蓬萊の神山及仙藥を求めたが、(徐福は)此の洲に止まって還らなかった。世相承けて數萬家有り、其の上の人民は、時に会稽に至って上等な布を売買する者が有る。会稽東県の人が海に行き、その中に風に遭って流移し亶洲に至った者が有る。』(亶洲の)所在は遠だから、(将軍衞溫、諸葛直)はそこに至る事なく止めてしまった。但し夷洲で数千人を得て還った。」

三国志呉志は、徐福の行き先は亶洲だったと記しているが、東鯷人の国だったとは記していない。東鯷人は三国時代の呉に朝貢しなかったから、呉には東鯷人に関する記録がなく、呉志には東鯷人も倭人も登場しないと考えられる。陳寿は魏志を著述してから呉志を著作したと想定され、倭に関心があった陳寿は当然、呉の記録の中から倭や東鯷人に関する記述を探した筈だが、それは一切なかったのだろう。陳寿は記録に忠実な人だったから、この想定は確からしい。

この呉志の記事には後世の注釈がある。この時代の揚子江流域には、未開墾地が沢山あったので、呉は奴隷狩りを行って農民人口を増やし、国力を増強しようとしたと説明されている。東鯷人が来る「会稽の東」の海に、軍隊を出して奴隷狩りを行なった事は、呉と東鯷人の関係が良くなかった事を示唆する。その状況で呉が危険を冒して大軍を派遣した事は、確かな情報を呉が持っていた事を意味するが、その情報は会稽に来る其の上の人民の言葉ではなく、其の上の人民が奴隷(生口)を売っていたからだと想定され、後漢書や魏志倭人伝が、倭人が中国の皇帝に生口を献上したと記している事と、辻褄が合う。東鯷人が販売していた生口は、倭人が華北から得た人々だったが、呉の人はそれを知らずに、倭人の島に攻め入ればより多くの奴隷が入手出来ると判断し、この暴挙を決行した事になる。この呉志の記事により、呉の支配者だった漢民族の野蛮さも分かり、倭人やオーストロネシア語族海洋民が漢民族を恐れていた事が、実感として分かるだろう。

三国志の呉志には東鯷人と亶洲の関係が記されていないが、後漢書は呉志からの引用である事を明らかにして、亶洲は東鯷人の島である事を明らかにした。それは漢書地理志を追補している事になるが、倭人と東鯷人が会稽の東の海上の島から来ると、それぞれの記事の冒頭に記しているから、暗に漢書地理志の記述は、間違っていると指摘している事になる。両者は同じ島にいると、倭国王の使者から聞いていた筈だが、引用文を直接転換する様な訂正をしていないのは、漢書地理志に特別な配慮があったからだろう。漢書地理志の著者だった班固には、それが分からない曖昧な知識しかなかったのかと言えば、倭人について記した文章と対句の文章を使って、東鯷人を説明しているのだから、班固も実は明確に知っていた事になる。燕の条でおかしな方位を記した事と併せ、班固は、倭人は燕に近い島にいる人達で、会稽に来ていた人達ではないという嘘を、世間に印象付けたかった事になる。

後漢書は、徐福を東鯷人と結び付けた様に見えるが、徐福が活動したのは斉(山東省)だったから、そこは倭人の商圏だった。戦国時代の様子を記した山海経に、「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。」と記され、蓋国は斉の蓋県(山東省)だったから、斉は倭人の商圏だった。

この記述は、現在の地図上では誤りだから、この文の意味を把握できないかもしれないが、当時の中国人は、倭人の島は会稽の沖にあると考えていた事が分かれば、表現に不自然さはない事に気付くだろう。

徐福が始皇帝に上程した文に、倭人の島の名前である蓬莱・方丈・瀛洲が記されていた事も、斉は倭人の商圏だったとの想定を支持する。後漢書も、「徐福は蓬莱に神仙を求め」、そこに留まったと記し、その情報をもたらしたのは、そこから来た人だと記し、蓬莱と亶洲の違いを曖昧にしている。呉志も曖昧だったから、それを引用した後漢書も曖昧になったのだが、訂正のためには余り元の文章を変える事が出来なかったから、その様な曖昧な文章になったと想定される。後漢書が訂正したかったのは、呉の将軍が「遠いから止めた」と呉志が記した事を、「遠すぎて(中国人には)行き来する事はできない」と訂正したかったからだ。

范曄が言いたかった事は、呉は倭人の島が近くにあると誤解し、「遠いから止めた」と朝議録に記したが、実際にはとんでもない遠方にあって、中国人の船では到底行けないと、訂正すべきだという事だった。それは倭人が、范曄に入れ智慧した結果だったとも言える。倭人は野蛮な漢民族を日本に渡来させないために、その様に中国人に宣伝する事が、弥生時代以来の方針だったからだ。その中でも、日本列島が朝鮮半島と接近している事を隠す事が、特に必須事項だったが、それだけでなく沿海州と北海道が近い事、樺太を経由すれば狭い海峡を渡るだけで、日本列島に到達できる事も知られたくなかったから、その解決策として中国人に、日本列島は東シナ海の遥か沖にあるから、中国人には行く事が出来ないと組織的に宣伝していた。従ってこの項で明らかにするべきは、倭人がどの様に説明していたのか理解した上で、各史書の著者が倭人の島の位置をどの様に認識していたのか確認し、その差が何故発生したのか検証する事になる。

その観点で見ると、陳寿も范曄も暗黙裡に、亶洲と蓬莱・方丈・瀛洲は皆遠い島だと、見做していた事になり、倭人の意図に合致している。但し夷洲は、倭人は自分達の島だと言っていたのだが、呉が勝手に台湾を夷洲だと決め付けてしまったから、陳寿も范曄もその様に記している。

邪馬台国に関する後漢書の記事は、魏志のダイジェスト版のように見えるが、古墳時代の倭国王の使者から色々な事を聴取したらしく、魏志倭人伝を色々訂正している。但し後漢書の著者と接した倭人は、古墳時代の倭国の使者であり、邪馬台国時代の倭人ではなかったから、訂正には古墳時代の事情が反映されている。

その典型が、後漢書が「女王国の東千余里、狗奴国に至る。皆倭種なりといえども女王に属さず。」と記し、魏志倭人伝の「邪馬台国の南に狗奴国が在り、狗奴国は女王に属さない。女王国の東、海を渡って千里(400km)の場所にも倭人の国がある。」を訂正した部分に見られる。邪馬台国は大阪湾岸にあり、狗奴国は奈良盆地にあったから、魏志倭人伝が正しい。「女王国の東、海を渡って千里」は関東を指し、そこに弥生時代の倭国王が居た事も、魏志倭人伝は正しく記述している。卑弥呼の統治は30国にしか及ばず、100余国あった倭の一部しか統治していなかった上に、魏志は卑弥呼が倭国王だったとは記していないからだ。范曄が誤解した理由は、倭国王の使者の言葉が、曖昧だったからだと推測される。

その事情を詮索すると、古墳時代初頭に邪馬台国の王が倭国王に就任し、狗奴国は倭国王に従属して国名を変えた事が挙げられる。隋書に「靡堆=ひと=飛鳥?」と記されているが、隋の使者が来たのは宋の150年後だから、当時も同じだったのかは分からない。范曄と接した倭国王の使者は、200年前に存在していた狗奴国の名前を知らなかったか、知っていても弥生時代末期の込み入った事情は知らなかったと推測される。弥生時代の倭国は狗奴国同様に、卑弥呼に属す存在ではなかったから、両者に共通点があり、混同される可能性があった。また古墳時代の狗奴国は、旧邪馬台国に従属する国になったから、范曄の聞き方次第で、女王国に属さなかったのは関東の倭国だったと誤解する可能性があった。

東鯷人の詳細は(11)弥生時代/転換期の項とG)邪馬台国の所在地に譲るが、東鯷人は北陸を根拠地とし、華南以南と交易する海洋民族で、倭人は関東を根拠地とし、華北王朝との宝貝交易を契機に組織化し、淮河以北を商圏としていた海洋民族で、両者は縄文時代から気質が違っていた。漢代・後漢代の東鯷人の中核国は不明だが、魏代の中核国だった狗奴国は、は奈良盆地と和歌山を根拠地としていた。

夷洲は何処を指したのかについて、隋書にそれを示す記述がある。

「倭の島に中国人の『秦王国』があり、秦王国の人が『自分達は夷洲に居る』と言った」と隋書に記されているから、東鯷人が居た夷洲及び亶洲は、隋代の倭人の島だった事が証明される。会稽から見て手前が夷洲だったから、夷洲が台湾に誤解されたと想定されるから、夷洲が九州で亶洲は本州だった事になる。四国が欠落しているのは、四国には東鯷人の国がなかった可能性を示唆する。倭人の島の名前は、史記始皇本紀に記された徐福の掲げた、蓬莱・方丈・瀛洲(ほうらい・ほうじょう・えいしゅう)だった。倭国王の子孫だった天武天皇の異称に、「天渟中原瀛真人天皇」があるから、「瀛」は本州だった事になり、中国から見た並び順として辻褄が合う。蓬莱が九州で、方丈は四国だった事になるが、確認手段はない。

 

1-3、魏志倭人伝

魏志倭人伝に記された倭の地理に関する記述は、「倭人は帯方の東南の大海の中」から始まり、漢書地理志の「楽浪海中に倭人有り」を引用している事が分かる。帯方は楽浪に隣接し、漢代にはなかった群だが、隋代には半島統治の拠点になっていた。海中東南の大海と補記し、距離が離れている事を示している。それに続けて概略以下を補足した。

「山の多い島に国を作っている。魏には30の国が使者を送って来る。邪馬台国の卑弥呼に統治される国が30在り、邪馬台国はそれらの国の南の端に在る。邪馬台国の南に狗奴国が在り、狗奴国は女王に属さない。女王国の東、海を渡って千里(400km)の場所に、他の倭人の国がある。」

この説明から少し離れた箇所に「(邪馬台国は)当に会稽・東冶の東にあるべし。」と記している。更に離れた箇所に「倭の地は海に囲まれた複数の島にあり、周回すれば五千余里(2000km)である。」と記している。五千余里は関西以西の、日本列島の周回距離に近い。当時の一里は415mだったのか否かが、邪馬台国論争のひとつの焦点になっているが、魏志東夷伝の高句麗伝に、「高句麗(の都集安)は、遼東(瀋陽)の東千里」と記しているから、高句麗伝では直線距離の250kmを千里(400km)としている。曲線的な道の長さから判断すれば、魏志高句麗伝の1里は、415mだった事は間違いない。魏志倭人伝は魏志東夷伝の一節だから、同じ東夷伝の中で違う単位を使う事はないだろう。

魏志倭人伝は、邪馬台国がフィリッピンの東方沖にでもあるかの様な道程を記した後、漢書地理志に記された、海南島の風俗に関する文章の引用と分かる書き方で、邪馬台国の男女の生業は海南島と同じだと示している事を、漢書地理志の章で説明した。魏志倭人はそれに追い打ちを掛ける様に、「その他の物産も海南島と同じだ」と記している。物産は、人口的に製作した諸道具と解釈すべきだろう。倭人の島が会稽の沖にあると推測したのは、習俗も物産も会稽の南方にいる人達と同じだからと説明している風に読めるが、「その旅程から鑑みれば(其道里を計し)、当に会稽東冶の東に在る」と記しているだけで、習俗の因果関係から、倭人の島の位置を推測しているわけではない。

魏の使者がその様な報告書を提出し、陳寿はその中から重要な文章を転記し、魏志倭人伝を編纂・著作したと想定されるが、魏の官人が、交戦中だった呉の南端にある海南島に行く筈はなく、海南島の住民の習俗など、本来は全く知らなかっただろう。しかし当時の常識として、倭人と海南島の住民は同じ習俗だと知っていたから、海南島の習俗を下調べし、それが邪馬台国の倭人の習俗と同じである事を、邪馬台国で確認したと想定される。その様な経緯を明記しない事も、当時の史書の著述作法だった。しかしその様な事情を知っていた社会に対しては、暗黙の了解事項で済むが、事情を知らない人達には曖昧で分かり難く、誤解されやすい。

後漢書はその曖昧さを排し、「海南島に近く、それ故に法、俗は同じところが多い。」と、因果関係を明確にする積りで誤解した。後漢書は「倭は韓の東南大海の中にある」とも記しているから、倭人の島は中国大陸の平原に匹敵する広さを持っていると、認識していた事になる。倭は大変な大国だと認識されていた事になるが、范曄が突然その様な認識を持ったのではなく、漢代・後漢代からその様な認識があり、范曄はそれを根拠に断定したと想定される。

魏志倭人伝は、「夏王朝の后(帝)の少康の子が会稽に封じられ、刺青をして大蛇の害を避けたが、倭人が刺青をするのは大魚や水鳥を抑えようとするからだ。」と説明した事は既に説明したが、陳寿はこの文章で、倭王の家系は夏王朝の系譜であるかのように匂わせた。魏志倭人伝に先行する文献として「魏略」があり、魏略にはこの夏王朝の話と、倭王は「呉」の系譜の可能性があるとも匂わせる説話と並置したが、魏志は夏王朝の話に絞る訂正を行った。博識な陳寿は、越は海洋民族と文化を共有していたが、呉は内陸的な稲作民政権だったから、倭人と文化を共有した筈はないと考えただろう。史記も漢書も、呉の王族は陝西出自の周王朝の派生だと主張しているからだ。陳寿は他に有力な資料を持っていたかもしれないが、史記や漢書との整合性から考えただけでも、海洋民族文化の存在を認知していれば、その様な結論になる。

魏略が倭と呉を結び付けた根拠は、倭人が呉の始祖の子孫だと言ったという逸話になるが、その呉の始祖とする「大伯」には嗣子がなく、弟が呉を継いだのだから、その子孫という話は眉唾だ。陳寿は倭人の冗談の意図を読み、倭人がその様に言ったのは、史記は嘘の歴史を書いていると指摘するためだったと、理解しただろう。倭人は友好的だった呉を、漢民族が滅ぼした事を恨んでいたから、漢民族に対して、この様な発言もあったかもしれない。

博識で高潔だった陳寿は、魏略の著者の不勉強に怒り、魏志倭人伝にこの文を挿入した結果、漢書批判を強める事になったかもしれない。史記や漢書が歴史を捏造しなければ、この様な過ちを犯す史家が登場し、漢民族の恥を倭人に晒す事もなかったと、陳寿は考えたのではなかろうか。

魏志東夷伝を読むと、陳寿の高潔な人柄と広い見識が窺われ、その様な陳寿だからこそ、学術的な東夷伝を纏め上げたと考えられる。陳寿がいなければ、日本の古代史は永遠に闇に包まれるだろう。倭人の歴史を研究する者としては、陳寿を敬慕したい思いに駆られる。その東夷伝を曲解し、意図的に無視している歴史学者が多い事に、憤りを感じざるを得ない。

 

2、漢書地理志に書かれた矛盾が意味するもの

「漢書」「後漢書」「魏志」が扱った時代は、紀元前2世紀から紀元後3世紀に亘る400年間だから、その間に倭の様子が変わった疑いがあるだろう。しかし地理志の「会稽の海外に東鯷人有り」と、魏志倭人伝の「(邪馬台国は)当に会稽・東冶の東にあるべし。」を見れば、東鯷人の二十余国と邪馬台国は、会稽の東の海上にあると当時の中国人が考えていた事に変わりはない。中国人が東シナ海に乗り出す事はなく、海の地理は全く知らなかったから、倭人や東鯷人が東冶(福州)に出現するのを見て、福州の沖に倭人や東鯷人の島があると誤解していた事も、変わらなかった。当時の中国人の船は沿岸を航行する事は出来たが、外洋に出る事が出来ず、台湾の地理や風俗さえも良く知らなかったから、倭人の申告だけが彼らの知識だった。倭人はその様な中国人の誤解を利用し、東シナ海の沖に倭人の島があると、中国人に思い込ませていた。魏の使者は実際に倭人の島に渡ったが、同行した倭人に距離と方角を騙され、従前から倭人が申告していた地理観に、何の変更も加える事はなかった。

何時からその様な誤解を意図的に与えていたのか、文献を遡って検討すると、戦国時代の様子を記した山海経に、「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。」と記され、倭人のその様な嘘の申告は、戦国時代には既に効果的に働いていた事を示している。更に遡ると、孔子が「海に浮を設け、九夷に行って住みたいと欲した」事は、春秋時代に既にその騙しが始まっていた事を窺わせる。

孔子が九夷という古めかしい呼称を使ったのは、孔子に稲作民と対抗する意識があり、稲作民と政治的に密着していた倭を快く思っていなかったから、倭という名前の使用を避け、政治的な色合いが薄い九夷を使った可能性もあるが、孔子にその様な意図がなければ、九夷呼称の歴史的な変遷を、孔子の言葉から判断する事が出来る。孔子が生まれた曲阜は泗水の畔にあり、古代の泗水は淮河の一大支流だったから、交易を求めて中国の内陸の大河を遡上していた倭人は、泗水を重要な交易ルートとしていた筈だ。孔子は若い頃からその様な倭人と接する機会があり、倭の様子を聞いていただろう。倭人が孔子に説明した倭の秩序観と、倭人の島の社会的な実態は、孔子の思想に重大な影響を与えた可能性が高い。その倭人から東シナ海の沖に九夷(倭人)の島があると聞き、河川の渡し船でも倭人の島に行けない事はないと考え、この様な事を言ったと想定される。毎年同じ季節に倭人が来ていたから、移動性が乏しい農耕民族だった孔子や曲阜の人は、その様に考えただろう。九夷は古めかしい呼び名だが、周王朝に出入りしていた集団が倭人と呼ばれる様になっても、更に倭連合が結成されて100年以上経っても、曲阜の人達は昔ながらの呼称だった九夷を、使い続けていた可能性がある。裏を返せば倭連合の参加国は春秋時代には、未だそれほど多くはなかったのかもしれない。

孔子が倭の良好な秩序を羨んだのは、雑穀民社会が暴力に満ちていたからだが、逆に倭人から見れば、その様な中国人の暴力的な秩序観に、恐怖を抱いただろう。春秋時代は、小さな国家が武力的に統合されていった時代だから、元々粗暴だった漢民族が、国家の生き残りの為に極めて尚武的になった時代だった。倭連合が結成され、参加国が増加したのは、利益率が高かった宝貝交易に、倭人の小集団が群がったからではなく、その様な春秋時代の殺伐とした時代背景の中で、倭人の組織的な防衛志向が、加速した側面が強かった可能性が高い。中国の各地の小国が鋭く対立し始めると、各国の領土紛争に全く関与しなかった倭人連合は、最も有利な交易集団になった可能性も高い。どの様な規範を持っている組織であるのか明らかにすれば、その優位性は更に高まっただろう。その規範を順守する倭人の姿が、孔子に一層の影響を与えた可能性も高いが、権力志向の強い農耕民族文化を背景に持った孔子には、賤業と見做す商人だった倭人を、評価する気はなかったから、論語には倭人は登場しないだろう。仮に孔子時代にはその文言があったとしても、漢王朝が儒教として採用する段階で、その様な字句は史官の様な知識人によって、徹底的に削除されたと想定される。班固がその流れに逆らって地理志に、九夷を含む孔子の言葉を取り入れた事は、班固にも歴史捏造に関する、一抹の罪悪感があったからかもしれないし、世間の嫌悪感に対する緩和策だったのかもしれない。

以上の結論としては、論衡に、周初には倭が登場する事が記されているから、夏代に九夷と呼ばれた集団の中から、殷代に倭集団が生まれ、春秋時代に倭集団に参加する交易集団が急増し、倭連合が結成されたが、各地の中国人は依然として、九夷と呼び続けていたという構図が浮かび上がる。九夷の中の倭連合という、位置付けだったのだろう。春秋時代に倭連合が急膨張した可能性が高い事は、記紀が神武即位の根拠とした古い倭人伝承に、BC660年頃に倭国王が誕生したとする記憶が、含まれていた筈だと想定する事と一致するから、双方の歴史的な事象の確度を高める。

改めて漢書地理志の問題に戻り、「危四度~斗六度」は、「所謂析木の方角」ではない事の解析に進む。古代中国の史官は、天体の異変を皇帝に知らせる官人でもあったから、班固がこの様な間違いを犯す事は、極めて異例の事になる。これを解釈する説があり、文頭にある「夫」はそれに続く倭人に関する文を、「危四度~斗六度」に繋げる用語であるとし、「危四度~斗六度」は倭の事だとしている。それらしい説だがそれだけでは、「危四度~斗六度は所謂析木の方角」「所謂析木の方角は、燕の分」は、どちらも不一致である事は解決しない。

漢書に記す古代地名が実際の方角と矛盾するのは、古い時代に国と星座が結び付き、その後の国の移動で、地名と星座が示す方角が一致しない状態になったからだろう。史記とは違う歴史があった事を示唆し、その復元は困難を極めるが、以下の議論に復元の有無は影響しないから、ここでは復元作業は行なわない。方角が90度回転している事は、漢族の史官の認識力に疑問符を付けたくなるが、それも重要な意味は持たない。

「危四度~斗六度」は、「燕」ではない他の地域の方角だった事は間違いない。班固はその説明をせずに、不可解な文章を書いた事になる。班固が参照した古代の地理志には、倭人の国は「危四度~斗六度」と書かれていたから、班固もそれを記すしかなかったが、燕と倭を結び付けるのは無理があったという事だろう。記述の正しさを旨とする史官としては、嘘を書くにも限度があったから、矛盾は鮮明になってしまった。倭人の国が「危四度~斗六度」にあるという知識は、班固の書棚にしかない、古く貴重な地理志に書かれていただけではなく、知識人には知られた事実だったと想定される。福建省から朝鮮半島までの海岸に倭人が出没し、福建省の沖に倭人の島があると、倭人が交易の傍らで宣伝していたのだから。

班固は無理に倭を燕と結び付けようとし、怪しげな文章を作った事になる。班固が地理志の「呉」に、東鯷人の説明文を倭人の説明文と対句表現にした事は、この結論から解釈出来る。班固は倭を「燕」に括り、福建省に来るのは東鯷人であって倭人ではないと主張し、倭人と稲作民の歴史的な関係を否定したかったが、実態が分かっている人にそれを主張するのは、無理があると自覚していたから、読者の中の物知りから、「貴方は倭人と東鯷人が同種である事を知らないのですか」とか、「東鯷人だけではなく、倭人も会稽に来ていますよね。」と質問された場合に、「知っています。同じ文型を使っているのを見れば分かるでしょう。」と、言い訳する余地を残したと考えられる。班固が、倭人が斉や呉越と関係を持っていた事を、読者の眼から隠したかったのは、それらの地域に関して捏造した歴史を倭人が暴いても、関係ない者が事実を知らずに嘘を言っていると、一蹴する事が出来る事を期待したからだと想定される。稲作民の政権が滅んだ後、事実を知っている政権は、稲作民政権と親しかった倭人だけだったからだ。東鯷人は強力な政権を形成していなかったから、倭人の様に恐れる必要はなかったのだろう。

春秋戦国時代の華南の稲作民は、倭の島は「危四度~斗六度」の方角にある斉、呉、越の沖にあり、倭人には東鯷人と呼ばれる別種があると認識していたが、漢書を編纂した後漢代には、それを知っている中国人は限られた人になっていたから、班固はその歴史観を変更しようとした事になる。

陳寿は班固の意図を否定したが、学術的な表現を好み、漢書の記述を否定する事で知識は是正されると考えた様だ。しかし晋が滅んで漢民族の知的伝承が絶えると、陳寿の意図は理解されなくなった。范曄は魏志倭人伝の文言だけを解釈したが、倭人との接触があったので、誤解を含みながらも倭人が昔から主張していた地理観に戻ったが、地理志の嘘を指弾できる知識は失われていた。その後の中華は史書の字面を追う文献主義に堕落し、漢以前の歴史は、史記が示す文章に固定したと想定される。

 

3、漢書が示す漢王朝と倭人の関係

倭人は漢王朝に朝貢せず、班固は倭に好感を持っていなかった。春秋戦国時代の越人とは仲が良かったが、漢王朝とは反目していたからだが、その原因は秦末漢初の「項羽と劉邦の争い」に際し、倭人が項羽に協力したからだと想定される。項羽の最後の敗戦である垓下の戦いから、項羽が戦死するまでの経緯に関し、史記の項羽本紀と高祖本紀に矛盾があり、項羽の戦死の顛末を隠している疑いが濃い。この事実と、史記の始皇本義の徐福に関する記述に、本来あるべき倭人が全く登場しない不可解さは、史記が意図的に、倭人の存在を無視している可能性が高いという事実を併せて考えると、項羽の戦死には、倭人が関与していた疑いが濃くなる。垓下は淮河に近い場所にあるから、籠城中に項羽が脱出して華南に戻り、援軍を率いて攻囲を解くためには、淮河に待っていた倭人の船で華南に向かう事ができた。そもそも垓下に籠った理由が、淮河に近いからだった可能性がある。その推測が正しければ、項羽は倭人の船に乗る積りで行動したが、それが出来ずに河岸で戦死したという推測が成立する。

史記がその記述を避けたのは、漢代にも温存されていた倭人勢力が、稲作民の歴史を無視して捏造した史記に、異論を唱える事を恐れたからだろう。史記が倭人の存在を無視していれば、倭人からの反論を部外者の中傷として、無視する事が出来ると考えたのだろう。その姿勢の中で、呉・楚・越は中華文明の圏外にあったと主張し、その捏造史を掲載したが、倭は完全に無視したから、史記には倭は一切登場しないと考えられる。

稲作民の歴史を抹殺し、黄河流域の雑穀民だった漢族が、夏王朝を引き継いで以降の文明の牽引者になったとする、捏造史を作り上げて漢王朝の権威を高める最中に、稲作民の歴史を良く知り、稲作民の文明の後継者を自任していた倭人が、海外で漢から独立した政権を維持している事は、それだけでも甚だしく邪魔な存在だっただろう。しかし海上を航行出来ない漢民族は、倭人の島を征服する事が出来なかった。そのために史記は倭を徹底的に無視し、漢書は倭を燕とリンクさせ、会稽に来るのは東鯷人であって倭人ではないとの認識を広め、倭人と稲作民を切り離そうとした。

その様な中華帝国に、倭が盛んに交易に出掛けていた事は、現在の常識では考え難いが、漢帝国の統治はその様なものだったと、割り切って考えるべきだろう。征服された各地の民族は、王朝に面従腹背の姿勢を取っていた事になる。各地の豪族は、自分に必要な物資を運んでいる倭人を敵対視する事には、従えない事情があっただろうし、武闘的な政権の下で自分達の安全を確保するためには、倭人から広域的な情報を得る必要もあっただろう。倭人は従来から広域的な情報を拡散できる立場にあり、その立場を戦略的に利用していたから、漢王朝と倭人は、情報戦を戦っていた可能性が高い。倭人がその情報戦に半ば勝利していたから、漢書に「楽浪海中に倭人有り、分れて百余国を為す。時を以って来たりて献見すると云う。」と記された事になる。末尾の云うは、各地の豪族が自から申告したのではなく、王朝の官僚が密偵の様に調査した結果だった事になるだろう。漢王朝がそれを禁止する通達を出しても、史記も漢書もその事実を記す事はなかった筈だ。