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日本人の遺伝子分布とその由来

過去の民族移動を推測する手段として、遺伝子解析を活用する事が出来る。解析可能な遺伝子は、Y遺伝子とミトコンドリア遺伝子で、Y遺伝子は男性の移動を示し、ミトコンドリア遺伝子は女性の移動を示す。技術が進化した現在、それ以外の遺伝子の分析も可能になったが、数値解析の基本が完了していなければ、分析力だけ深めても意味がない。分析と解析の違いを説明する必要があるが、分析とは理化学的な違いを分離して認識する機能であり、解析はそれらを論理的に体系付ける作業を指す。

基本的な分類を完了していなければ、高度な技術を使って細分類する事に意味がないのは、誰にでも分かる事だ。数値解析の基本は、背景にある法則と数値との関連を調べながら、関連性を精緻化して行く事で、それなしに無前提に分類を精緻化し、傾向分析だけに終始しても、神学論争に陥るだけだ。法則の把握なしに数値解析を行う事は出来ないから、先ず仮説的な法則を見出し、その理論化を試み、それを確認しながらデータを緻密化する必要がある。コンピュータが普及し始めた頃、コンピュータが出した結果は無条件で正しいとする信仰が生まれたが、遺伝子の分析能力さえ向上すれば、遺伝子解析能力が向上すると考えるのは、明らかな迷信だったコンピュータ信仰と変わらない。精緻化したデータをコンピュータで処理すれば、有用な結果が生まれると考える迷信は、全く同じ精神に根差していると言えるだろう。

マーケティングに関わる者にとって、これは常識的な感覚で、その危惧は、Y遺伝子の分類の方向性に関して生まれつつある。余りに詳細な分類を行っても、骨格的な理解が完了していなければ、過去の人々の移動の軌跡は得られないからだ。

この項では、氷期と後氷期前半の人類の移動を地球規模で概観し、日本人の形成に関わった部分を詳細に検証する。東南アジアが、旧石器時代の栽培民の遺伝子プールだったという、根本的な認識から出発すれば、後氷期の温暖化に伴って栽培民族が、ユーラシア大陸全域に拡散した様子が浮かび上がる。但し日本人の形成に関しては、栽培民の移動だけで民族移動を解析する事が出来ない。島嶼という地形的な特殊性に起因する民族集団が、氷期から先住していたからであり、栽培民の中の極めて限られた者だけが、先住民の援助で日本列島に渡ったからだ。従って日本人の歴史を解析するためには、氷期に東南アジアにプールされていた遺伝子だけでなく、東南アジ以外にも小さなプール地域があった事を加味する必要がある。氷期のユーラシアには三つの小プールがあり、原日本人はその一つだった地中海沿岸から旅に出て、暫くシベリアのプールに留まり、最終的に日本列島に辿り着いて第三のプールを作り上げた。

後氷期の島嶼内では共存的な環境が形成され、生存競争が緩かったので移住した遺伝子が保存されたので、西南諸島から北海道・青森に至るまで、新石器時代の人々の移住の軌跡を、かなり明瞭に描く事ができる。解析者にとって甚だ幸運な環境が、提示されていると言えるだろう。

長年数値解析に従事した者として、この解析の結果に自信を持っているが、解析の過程は複雑で、専門的な技巧を必要とするから、結果に至るすべての論旨を、論理的に説明する事は難しい。以下では結果を説明する手法として、先ず結論を述べ、そこに至るまでに必要なデータを開示する。説明の論旨としては、仮説論理を使いながら法則性を提示し、仮説候補群から真正仮説を抽出する過程を含むものとする。結論に飛躍する場合もあり、すべての過程を論理化する事は出来ないが、考古学的な発掘結果、及び史書との整合性が万全である事を判断頂きたい。日本書記との整合性がない事を、必然の結果として理解できるだろう。

 

目次

1、Y遺伝子分布から想定される、日本人の由来

2、Y遺伝子の世界的な拡散

3、ミトコンドリア遺伝子の世界的な拡散

4、ミトコンドリア遺伝子の日本列島への流入

 

1、Y遺伝子分布から想定される、日本人の由来

1-1、結論

Y遺伝子は分子索が大きく、発掘遺体から抽出できないので、調査時点の分布しか得られないが、男性の移動は生業の遷移を意味し、石器時代には地理的・環境的な制約が大きかったので、女性の移動が拡散的だったのに対し、極めて制限的だった。そのため、生業を共有する民族集団としてY遺伝子を捉え、環境要因の変化の必然としてその移動を補足し、解析する事ができる。以下は、序論に用いた論文をベースに、日本人のY遺伝子の流入過程を解析した結果になる

Y-chromosomal Binary Haplogroups in the Japanese Population and their Relationship to 16 Y-STR Polymorphisms I. Nonaka, K. Minaguchi, and N. Takezaki 

この2007年の論文は、遺伝子の分布を公表しているだけで、その由来については推測していない。遺伝子分類の一部に旧符号が使われ、分類に曖昧な点が生じているので、その部分は2013年の分類表記に変えた。2014年以降の分類表記では、D2D1bに変更され,C3C2に変更され、その他も大幅に変更されているが、この論文に使ったマーカーでは、その変更に準拠する事は難しい。しかし人々の移動に関する重要な情報が、この論文には沢山含まれているから、この論文を参照して以下の検証を行う。2014年以降の些細な変更に部分的に追従すると、却って状況を混乱させる恐れが高まるので、以下では論文と同様にD2C3の符号を使う。

先ず日本人が保有している上記の遺伝子について、その由来を簡単に説明する。

O1xO3xの故郷はスンダランド東部で、旧石器時代末期に北に拡散して台湾平原に進出し、氷期末期の最寒冷期に、温帯的な気候だった台湾平原で、人口を膨張させたと想定される。台湾平原は氷期でも温暖湿潤で、森林に覆われていたからだが、人口を急激に増やした理由を詮索すれば、麻を栽培して弓を使い始めた可能性を指摘できるかもしれない。狩猟だけでなく植物性の食料への依存度を高めていた事も、ほぼ確定事項だった。その様な集団が後氷期の温暖化に伴って北上し、中国大陸の内陸部に拡散したが、その一部が日本列島にも渡来したものが、上の表のOxの一部になる。

O1については、台湾の山岳民族は殆どO1だから、旧石器時代末期に山岳狩猟民として台湾や福建省に分布し、海面上昇に伴って一部が台湾の山岳部に取り残されたと想定される。山岳地に拘って居住していたのは、狩猟に必須であって消耗が激しい打製石器の、石材を得る必要があったからだ。広大な沖積平野では、その様な石材を採取する事は不可能だった。

O2a系は稲作民の祖先だったと想定され、現在も華南以南に偏在している。旧石器時代末期に稲の原生種が野生していた環境として、亜熱帯性の気候を想定すれば、スンダランド東部から台湾平原南部の、低緯度地域に居住していたと考えられる。彼らは稲作を武器に人口を増大させたのだから、旧石器時代に限定すれば、彼らが地域の最大集団だったとは限らない。

O2b系は、台湾平原の北部で堅果類を栽培していたと想定される。その中の小数が、沖縄を中継地として日本列島に上陸し、人口が増えてO2b1になったが、大勢は未分化のO2bとして大陸に残り、後氷期の温暖化と海面上昇に追われて大陸沿岸部を流浪した後に、遼寧省に辿り着き、鉄器時代に朝鮮半島に南下し、歴史時代に韓族と呼ばれた。

O3系は台湾平原に広く分布し、新石器時代に中国大陸内に広く拡散したので、細分化された人々の詳細な故郷を割り出す事は難しい。海面が上昇して台湾が孤立した時、O1が山岳地を占有する一方で、O3は平原の住民だったと想定される事と、O3の一部が後世アワを栽培品種化したと想定される事から、旧石器時代末期には狩猟・栽培民になり、山岳地に近い沖積平野に展開していたと想定される。彼らが栽培しながら人口を増大させていたのは、キビだった可能性が高いが、キビなどの栽培者は女性だったから、それはY遺伝子O3の属性ではない。

日本に上陸した遺伝子について概観すると、

O3a2aは台湾平原の北部の海岸で、弓矢を使って狩猟を行いながらO2b1と同化し、堅果類を栽培して土器を作る様になっていた可能性がある。彼らはO2b1と共に沖縄を中継地として日本列島に上陸し、人口を増やして現在に至っているからだ。

同じO3系のO3a2c1は、全く違う経歴で日本に来た人達だった。旧石器時代末期には、浙江省近辺に分布していた狩猟・栽培民だったが、新石器時代前半に海進と温暖化に追われ、大陸に逃避して縄文時代前期以降に遼河文明を形成したが、縄文時代後期の寒冷化で華北に南下し、漢民族の構成要素になった。寒冷期だった古墳時代に農耕に行き詰まり、帰化人として日本列島に来た。

C系とD系の経歴を理解する為には、Y遺伝子の系統樹を認識して置く必要がある。

CFはアフリカを出てからインド洋を東に周回し、Fは東南アジアの豊かな植生の中で、人口を増大させて沢山の子孫を遺した。上記のO系は、Fの子孫の末端に位置する。O系は東アジアに展開したが、その他のFの子孫は、後氷期の海進に追われて東南アジアに上陸し、そこから南アジアに逃れ、インド西部から更に西進した組と、北上した組に別れた。その詳細は2章で説明する。

Cの大勢は東南アジアに定着せず、一部はオーストラリアに渡ってアボリジニーになったが、一部は早い時期に北上してシベリアに達し、マンモスハンターになって多数のC3遺伝子を遺した。寒冷なシベリアでは、大型獣の肉を冷凍保存する事が可能だったから、毛皮の衣類を作る技量を発展させれば、安定的な食料の確保が可能な地域の住民として、人口を増大させたと想定される。常識的には食料の確保が困難になる冬季に、大型獣も半冬眠状態になれば、容易に捕獲してその莫大な肉を長期保存できただろう。それは単なる推測に過ぎないが、それに類した食料の調達が可能な地域だったから、厳しい寒気の中で生き抜く事が出来たと想定される。

旧石器時代末期に、シベリアで盛行していた細石刃文化が、急速に日本列島に展開した。その頃多数のC3が、シベリアから日本列島に来たからだと想定される。15000年前に急に温暖化したから、シベリアが乾燥して動物が減少したという様な契機が、彼らの移動を促したと想定されるが、それ以前の日本列島の狩猟民も、シベリアから来たC3だった可能性がある。

C1は現在日本にしかいない。C1O2b1O3a2aと共に新石器時代の海進に追われ、沖縄を経て日本に上陸した。しかしC系は農民民だったのかさえ不明で、生業を連想する素材がない。唯一のヒントは、日本上陸後の北上のパターンがO2b1とは異なり、O3a2aに似ている事だ。O2b1は、器用な栽培民としてクリを栽培しながら青森まで北上し、ヒエの栽培化に成功したが、O3a2aC1は、温暖な東海地方まで北上し、以北の北上を諦めた様に見える。栽培が得意ではない民族だったのだろうか。穀物の栽培化は、女性が主体の作業だった可能性が高いが、男性の協力も影響した可能性は高い。

D2は日本人特有の遺伝子で、アフリカを出てから地中海沿岸に留まったDEグループに属す。4万年以上前に欧州を離れ、中央アジアからシベリアを経て沿海州に到達した。そこから陸続きになっていた樺太と北海道を経由し、4万年前頃に日本列島に拡散し、内陸の湖沼で漁労を行って人口を増加させた。3万年前に寒冷化が厳しくなり、湖沼が凍結すると海岸に進出し、旧石器時代には稀有な民族として、沿岸漁民になった。現在の日本にはD2が圧倒的に多く、C3が少ないから、漁労に従事して人口を増やしたのは、D2だけだったと考えられる。C3はその後日本列島に来たのか、4万年前から日本列島で共存し、D2だけが漁民になったのかは分からない。

D1D2の類縁で、現在チベット人の一部にこの遺伝子を持つ人がいる。チベット人にはD3もあり、やはりチベット人にしかない。日本人の祖先がシベリアから沿海州に向かった際に、彼らと別れて中国の内陸部に、南下した人達がいた事になる。氷期の中緯度の内陸部は、極度に乾燥していたと考えられるから、多少降雨があって低温で乾燥しにくかった高地に展開し、チベット人になったと想定される。気候的にはシベリアに近かったから、シベリアの狩猟民の文化を継承していた事になり、南下したのは民族的なテリトリー問題だった可能性がある。その一部がD2と一緒に日本列島に来たが、北海道に留まって本州に南下しなかったのは、彼らが特定部族集団を形成していたからだろう。彼らが北海道に留まって本州とは交流しなかった事は、北海道のD1/D2集団は、単に統計的な気紛れで南下しなかったのではなく、北海道を好む理由があった事になる。この頃北海道の北部の白滝で、黒曜石の尖頭器が盛んに作られ、樺太や沿海州と交易を行っていた。北海道では、この頃の漁民の痕跡を示す局部磨製石器が発見されていないから、漁民集団は生まれていなかった。氷期の北海道は温暖期であっても寒く、湖沼での漁労は不可能だったから、本州と同一民族でも地域的な違いが生まれたと考える事も出来るが、それを望んだ人達の幾分異なる文化圏だった様だ。シベリアから日本列島に到着したD2の人達は、複数の部族に別れた、或る程度の規模を持った集団だった事になる。但しそれは合計数であって、同時に来たとは限らない。

 

1-2 結論に至った証拠

1-2-1 旧石器時代の日本列島と沖縄の関係

日本最古の土器は、津軽半島の16500年前の、大平山元I遺跡(おおだいやまもといちいせき)で発掘された。陸奥湾や青森湾は当時は平原で、大平山元はそれらの平原から5km以上奥まった、当時の海抜130m程の山中にあった。住居址は発見されていないから、住民はテント生活をしていたと想定されている。本州北端の狭い谷間で、どの様な生活をしていたのか窺い知る事はできない。狩猟民系の石器も発掘されているが、狩猟民の集落だったと決め付けることは出来ない。ここの狩猟民が土器を作ったのであれば、付近の旧石器時代の遺跡にも土器が分布している筈だが、その様な状況に至るのは、数千年後の事になる。

16500年前の寒冷期には、北海道の渡島半島と津軽半島の間には、津軽海峡は存在せず断崖で隔てられていたと想定される。その渡島半島から、土器のない旧石器時代のものとして、12千年前までの遺跡が出土するが、その遺跡の住人には石製装飾品を持つ豊かさがあった。近辺で土器が製作されていれば、土器に鈍感だったとは考えにくい。この頃以降のものとして、細石刃を伴う遺跡が日本全土から発見されるが、その遺跡にも土器は含まれてない。当時の日本列島では、土器を持たない状態が一般的だったと言えるだろう。

以上の事から言えるのは、原日本人が16500年前に土器を作ったのではなく、神津島から黒曜石を内地に持ち込める様な外洋船を持っていたから、台湾近辺まで南下して土器を入手し、津軽半島に持ち込んだと想定する方が、現実的な回答になる。

大平山元I遺跡で、他の遺跡に先駆けて石鏃が発掘されている事に、土器以上に注目する必要がある。細石刃が使われた時代であり、この遺跡の使用者は、その中でも比較的早い時期に矢尻を持っていた事になり、そこに重要な視点を注ぐ必要がある。土器と同様に時期が合わないのだ。土器に関する付随情報は少ないが、石鏃は弓で飛ばす矢の部品だから、弓が無ければ使えないという、付随情報を持つ道具だった。弓には弦が必要だが、強度を必要とする弦には、植物性の繊維が必要になる。大麻か苧麻の様な植物の繊維が、16500年前の津軽半島で使用された事を示している。氷期の最寒冷期がまだ終了せず、亜寒帯的な寒冷気候だった津軽半島で、アジア南部が原産と考えられているアサや苧麻に類する植物が、自生していた筈はない。栽培者がいたとしても、耐寒品種化が未熟だった当時のアサ類は、温暖な地域でなければ栽培出来なかっただろう。日本列島で矢尻が発掘される様になるのは、12千年前頃の遺跡からであり、温暖化し始めた15千年前からは、3千年も経た時期だった。その3千年間に、日本列島でアサが栽培できる様になったから、矢尻が発掘される様になったと想定する事に無理がない。12千年前まで遡る鳥浜貝塚から、アサの繊維が検出された事は、その事情を示唆している。矢尻の普及は、アサの普及と一体でなければならないから、アサが狩猟民に不可欠な素材になった時点で、アサの交易が始まっていた事になる。その交易がなければ、日本より寒冷なシベリアで、狩猟民が弓を使う事は出来なかった筈だ。

大平山元I遺跡の話に戻ると、未だ氷期が終了していなかったこの時代の弓は、植物性の繊維を入手できる南方の文化だったから、同じく南方系の文化の産物だった土器と共に、南方から込まれたと考えるべきだろう。大平山元I遺跡の居住者が日本列島の他者に先駆け、南方起原の土器と矢尻を4千年早く所持していたのは、南方の民族と関係を持っていた証拠になるだろう。その証拠は、漁民が台湾近辺に出掛けていた事を示している。津軽にいた漁民だけでなく、日本列島の他の地域の漁民も、少なくとも沖縄には出掛けていただろう。

旧石器時代の狩猟民は定住せずに、数100km程度の距離を遊動していたと想定されているから、船を持っていた漁民の遊動範囲は、更に広かったと想定される。大平山元I遺跡の住民が、直接自身で沖縄に出掛けていたのか、間接的に入手していたのかは分からないが、沖縄から最も遠い青森から土器と矢尻が出土した事は、多数の漁民が沖縄に渡っていた事を示唆する。漁民は土器よりも、船や漁具の素材になる、アサが欲しかったと推測される。船に舷側板を取り付ける材料として、アサは皮革より格段に優れた素材になるし、縄文遺跡から出土する回転式の離頭銛は、獲物に銛を突き刺してから紐で銛を引っ張る道具として、大型の海獣や魚の捕獲に有効だった。

アサは彼らの漁獲量に直結する生産材だったから、日本列島の漁民は、困難を押しても沖縄に出向く価値があった筈だ。更に言えば、日本列島の漁民が豊かになるためには、沖縄や台湾平原の栽培民との友好は、欠かせないものだった筈だ。それ故に漁民としては、日本列島が温暖化すれば、喜んで栽培民を日本列島に迎えた筈だが、未だ寒冷期だった16500年前には、九州も亜寒帯に属する状況だったから、万難を排しても定期的に沖縄や台湾平原に出向く必要があったと想定される。氷期の気候や、沖縄と台湾平原の地形に関する詳しい情報は、A  後氷期の海面上昇により、栽培民と漁民の遺跡が消滅した、の項参照。

 

1-2-2 沖縄を経由して日本列島に来た人達

南方から来た縄文人の軌跡を、遺伝子分布から推測する事が出来る。

現在沖縄にいるD2がまとまって沖縄に渡った時期が、3回あったと想定される。初回は、旧石器時代に遊動しながら沖縄を本拠地とした人達が、その儘定着した時期、2回目は、海洋縄文人が沖縄を経由して大陸と交易した際に、中継基地の役割を果たす人達が移住した時期、3回目は、倭人政権が崩壊して倭人が沖縄に亡命した時期だった。漁民の本拠地は、一貫して日本列島にあり、縄文時代の沖縄の籠の編み方は、関東の手法だった事を考慮すると、縄文時代初期の沖縄には多数のD2は居住せず、縄文時代になって移住した者達が、縄文時代の沖縄のD2の、主要構成員だったと想定される。そこに飛鳥時代の倭人が、亡命者として押し掛けたが、聞得大君の制度や巫女の大きな権威など、多分に倭人的な統治形態を遺している事を考慮すると、亡命者の数も少なくなかったと想定される。在住者の2倍程度の移住が2回あったと仮定すると、縄文時代初頭の沖縄にいたD2は、現在のD2の1/9だった事になる。縄文人は北海道に移住しなかったので、北海道を除いた元データと、沖縄のD2の数を1/9に操作したグラフを、以下に並べて示す。沖縄のD2を大幅に減少する事が目的だから、数値的な根拠は薄弱でも構わない。

 

上記の操作後、上右図で沖縄の方が本州より密度が高い遺伝子は、沖縄から拡散した遺伝子だと考えると、上右図から、縄文時代初期に縄文人が、日本列島に渡って来た状況を読み取る事が出来る。沖縄から日本列島に拡散した遺伝子の候補として、O3a2aO2a1O2b1C1が挙げられるから、縄文時代の初頭を想定するために、それらとD2だけを抽出したグラフが下図になる。

O3a2aO2a1C1には、明らかに沖縄から拡散した兆候が見えるが、日本で2番目に多く、日本にしかない遺伝子O2b1に関し、その傾向は見えるが明確とまでは言えない。それについては、少し解説が要るだろう。先ず言葉を定義して置く必要があり、この項では堅果類栽培者だけを縄文人とし、D2は漁民だったとする。縄文時代の用語として海洋縄文人を使うが、これは海洋民族化した漁民と、職人化して商品を生産していた縄文人が、合体して形成された交易者集団を意味し、必ずしもピュアな漁民を指すわけではない。

結論から言えば、O2b1もこの時代に沖縄から拡散した遺伝子だったと考えられる。その最大の理由は、O3a2aO2a1C1だけが縄文人だった場合には、堅果類栽培者の数が少なすぎるからであり、日本にしかいないO2b1の遺伝子分岐の深さから考えて、1万年程の人口維持が必要だったと考えられるからだ。O2b1も沖縄から一緒に拡散した遺伝子だった事を、上記のデータは明確示していないという事であって、否定しているわけではない。日本列島で人口を増やす特別な要因として、先進的な栽培者として高い食料生産性を示した後に、西日本で本格的な穀物栽培を行い、人口を増加させたと想定される。弥生時代以降O2b1が中軸的な稲作民だったのであれば、現代日本人としてD2より多くなければならないが、そこまで多くないのは、遅くとも弥生時代には、D2にも稲作や雑穀栽培に従事する者が多数出現していた事になる。

O2b1は、渡来稲作民だったとする説があるが、弥生時代の大陸民には日本列島に渡航する船がなく、台湾に関する知識が貧弱だった事を、漢書、後漢書、三国志、隋書が示しているから、O2b1稲作民渡来説は成立し得ない。稲の遺伝子解析でも、その説は否定されている。

縄文時代の初期には、沖縄から渡来した栽培民は少数派だった筈だから、縄文時代初頭から前期頃にかけての日本列島のY遺伝子分布を想定すると、上記のグラフから、沖縄から日本列島に上陸した遺伝子を半減し、O2b1だけを更に半減したイメージになるだろう。但しこの時代の沖縄に、大陸の狩猟民だったC3がいたとは考えにくいから、沖縄のC3は除外して置く。

 厳密に言えば日本列島のC3は、D24万年前に日本列島に辿り着いた時に随伴して来た可能性があり、その後に五月雨的に日本列島に来た可能性もあるが、旧石器時代末期に末期の日本列島に、シベリア起源の細石刃が盛行したから、15000年前の急激な温暖化によってシベリアが乾燥化し、その際に日本列島に雪崩れ込んだC3が、日本列島で最も多いC3である可能性が高い。この時期にシベリアのC3は、陸地化していたベーリング海峡を越え、アメリカ大陸にも拡散した。

 

1-2-3、東アジア南部のO1~03系民族

東アジアに多いO系遺伝子は、東アジアでどの様に分布しているのか確認する。但し華南以北の中国大陸のO系は、新石器時代の海面上昇に追われて台湾平原やその内陸部から、華南以北の地域に無秩序に拡散したと想定される。O3系は、台湾平原の内陸部から無秩序に内陸や北方に拡散したから、中国大陸の遺伝子分布を検討しても、彼らの原郷や移動ルートは解明できない。そう言われても実感が湧かない場合は、現在のUSAを想定すれば良いだろう。黄河下流域と淮河流域は広大な沖積平野だったから、石器時代はほぼ無人の地域で、旧石器時代には砂漠化し、新石器時代には森林に覆われていた。台湾平原と中国南部にいた人達は、温暖化すると内陸の山岳部を周回して遼寧・内モンゴルまで拡散し遼河文明を形成したが、寒冷化で南下する際に、山東の山塊部と山西の山地方面に別れ、鉄器が普及した春秋時代以降に、漸く平野部に展開した。その様な移動の末に地域的な民族が生まれたから、旧石器時代に食料生産を担っていた民族概念すら、歴史時代まで維持されていた保証はないから、旧石器時代末期から新石器時代初頭の民族移動を追跡するために、華中以北の遺伝子を検証しても意味がない。

移動する前の状態を維持している福建省以南の、分布を確認する事に意味がある。O系遺伝子を解析する人達にも同様の見解を持つ人が多く、その趣旨で纏められたデータがネットに公開されている。

http://www.biomedcentral.com/1471-2156/15/77の数値をグラフ化

 

上図から言える事は、以下になる。

●台湾の山岳民は純粋なO1で構成されている民族で、平地にはO1O3が混在している。

●台湾の平地民のO1O3比は、フィリッピン人と類似の比を示している。

●インドネシア人は、台湾の平地民やフィッリピン人に、O2比率が高い民族が流入した分布に見える。

O2はインドシナ半島の稲作民に多いから、インドネシア人のO2は、インドシナ半島から移住した事を示唆する。

●台湾の漢族(Han)の分布は、福建(Fujian)の漢族の分布と類似し、福建省から移住した事を示している。

●台湾の平地民は、台湾の山岳民と台湾の漢族が混成した結果に見える。

 

インドシナ半島の稲作民は、新石器時代早々からそこで稲作をしていたのではなく、揚子江流域で栽培化された稲作を抱え、縄文時代後期以降に南下した人達だった。インドシナ半島には現在でも稲の原生種が繁茂しているから、栽培化して自家受粉率が高まった品種でなければ、インドシナ半島で稲作を行う事は出来なかったからだ。厳密に言えば、ジャポニカ稲は揚子江流域で栽培化されたのではなく、温暖化につれて台湾平原を北上しながら稲を栽培品種化していった人達が、海進に追われ、沿岸部として最終的に到達した場所が、浙江省の平坦部だったと想定される。その亜流の稲作民が、新石器時代の前半に揚子江流域で原初的な稲作を行い、その痕跡が稲作遺跡として発見されているが、沿海部の平坦地で最先端の稲作を行っていた人達の遺跡は、水没してしまったから発掘できない。

稲にはジャポニカ種とインディカ種があり、両者は交配できない程に分化しているが、元は類似の原種が分化したもので、西のインディカ種と東のジャポニカ種に分化した時期は、旧石器時代だったと考えられる。インディカ種が西に拡散して原生種から隔離され、ジャポニカ種が北上して原生種から隔離された事が、現在の両品種を特徴付けている様に見える。インディカ種はインドのビハール州かネパール高地(標高1300m)に西進した辺りで原生種から切り離され、温暖な環境で栽培品種化されて高い収穫が得られる品種になったから、インドシナ半島に南下した稲作民は、ジャポニカ種を捨ててインディカ種の栽培者に転向したと推測される。

後氷期の温暖化が進行して台湾平原が完全に水没した後、稲作民だったO2は揚子江下流域に拡散し、O3はキビを栽培しながら遼寧・内モンゴルに北上し、アワ栽培民に転化した後に寒冷化と乾燥化が進むと、華北に南下して漢民族になったと考えられる。華北にはO3が多く、O1O2が少ない。温暖化による北上前に、O3O系の中で最も北に分布していたからだと想定される。但し北と言っても現在の感覚とは大いに異なり、福建省や浙江省が北限だったから、温暖化してもそこに留まっていたO3は、O2に出会って稲作民になったと想定される。これらの想定には不確かな部分が多々あるが、事象を合理的に説明出来るマーケティング仮説として、これを訂正する仮説が生まれるまで正統性を持が、大幅な訂正仮説は出て来ないと思われる。

 

台湾平原の、旧石器時代から新石器時代への移行期に関する仮説を、少し詳しく以下に展開する。

●稲作民だったO2は旧石器時代末期に、川の水位が安定して洪水の危険がない台湾平原南部の沿海部で、漁労を行いながら原初的な稲作を行っていたが、後氷期の海面上昇に追われて北上を余儀なくされ、揚子江の沖積平野に拡散したと想定される。海面上昇期には、沖積平野は次々海に飲み込まれて消失したから、新たな土砂を多量に流し出す揚子江は、稲作に適した沖積平野を新規に提供し続けていたと想定される。しかしその沖積平野も次第に海面に飲み込まれ、8千年前の河姆渡遺跡に辿り着いた時点で、海面上昇が終了したから、それ以降の遺跡は発掘可能な状態で保存された。河姆渡遺跡の稲作民が、貝殻を加工した道具で稲穂を刈っていたのは、石器が乏しい沖積平野の沿海部で稲作を行った伝統を、引き継いでいたからだと考えられる。

 

●石器が採取できる台湾の山地で、打製石器を使って狩猟を生業にしていたO1は、海面上昇によって台湾山地に閉じ込められた。旧石器時代にも、台湾山地は広大な沖積平野に囲まれ、石器が採取できる山岳地として孤立していたから、O1は海面上昇を意識することなく台湾山地に留まり、島に取り残されたと想定される。鋭利な打製石器を使って狩猟を行うためには、豊富な石材から鋭利な石片を打ち欠き、使い捨ての石刃として使う必要があったから、多量の石材を消費する民族として、沖積地には居住していなかったからだ。福建省にもいるO1は、福建省の山岳地で同じ生業を行っていた者として、旧石器時代から割拠していたと推測される。

 

O3は旧石器時代には、台湾平原の内陸部(浙江省、福建省)の石材が確保できる場所で、狩猟を行いながらキビを栽培していたが、温暖化によって中国の内陸部や北部が降雨にも恵まれると、徐々に内陸に拡散していった。安徽省や江蘇省の沖積平野では石器が入手出来ず、狩猟が出来なかっただろうから、石が採集できる陝西省や山西省を経て更に北上し、8千年以上前に遼寧や内モンゴルに到達し、遼河文明を生んだと想定される。広大な沖積平野では石器が入手できないから、旧石器時代も温暖化した新石器時代も、無人地域であり続けたと考えられる。山東省では石器が得られたから、山東省方面に分岐した者達もいたかもしれないが、この地域から発掘された最も古い遺跡は、7千年ほど前のものになる。

内陸の山岳部に、少数のO3やその他の民族が、旧石器時代から居住していた可能性はあるが、氷期の低緯度内陸部は砂漠化して居住に適さなかったと考えられ、チベット人の祖先となった高地民のD以外の動向は、後から拡散したO3によってかき消された。元々少人数だったからだろう。継続的に砂漠化していた地域では、遺跡が保存されやすい環境にあるが、その地域の住民の痕跡を追求する事は、歴史的には意味がない。氷期だった旧石器時代には、寒冷だが僅かの降雨によって砂漠化しなかった雲南や四川の山岳高地に、シベリアでD2と別れて南下したD1D3だけが割拠し、現在も高地を中心にチベット人がその子孫として展開していると考えられ、氷期の中緯度の大陸奥地は、人が居住できる環境ではなかった事を裏書きしている。

 

●台湾平原の、北部沿岸で堅果類を栽培していたO2b1、O3a2aO2a1C1は、当初は石器が入手出来る台湾近傍にいた筈だが、敢えて石材が入手できない沖積平野に北上したから、対岸の沖縄に渡航し、最終的に日本列島に来た事になる。沖積平野に北上する事が出来たのは、漁民だった原日本人のサポートによって、沖縄から石器を調達する事が出来からだろう。それ以外の環境は考えられない。沖縄で発見された17千年前の港川人や、久米島の洞窟の生活痕や幼児骨は、その様な事情を反映したものだったと想定される。港川人は、東南アジア的な形質を持っていたと指摘されているが、それもこの状況に合致する。

堅果類栽培者だった者達は、石器が得られない不利な場所に移動したのだから、それに見合った有利な状況が得られずに、北上と云う栽培な不利な選択をしたとは考えにくい。堅果類は、成樹を得るまでに10年以上を要するから、彼らの北上は気紛れではなく、強い動機があった事になる。人種や部族の対立があり、粗暴な民族の略奪から逃れるために、北上を余儀なくさせられた可能性があるが、それとは全く異種の可能性として、漁民だった原日本人から豊富な海産物を入手出来たから、原日本人が集積する場所として、沖縄の対岸を選んだ可能性もある。原日本人は、船や漁具を改善するために麻が欲しかったから、彼らの為に彼らの居住地で漁を行った可能性は高い。4種の遺伝子が沖縄に渡航した事は、少なくとも4つ以上の集団が、原日本人の勧誘に応じて、台湾平原を北上していた事を示す。4種の集団の中には、堅果類栽培とは異なる生業を持つ集団があり、原日本人も交えて互いの収穫を交換し合う関係が、旧石器時代末期に成立していた可能性が高い。

縄文時代初期の南方系文化が、この集団の中で形成されていたとすれば、1万年前の高度な縄文文化として発掘された、土器、丸鑿型磨製石斧、弓矢、燻製技術、竪穴式住居、麻、漆、緑豆、瓢箪などは、4種の文化の複合体としてこの地で形成されていた可能性がある。日本列島には、堅果類を実らせる樹種が沢山あるが、その多様性も、この複合民族が持ち込んだ可能性が高まる。氷期の末期に、原日本人の船で沖縄に渡航した人達は、それほど大人数ではなかったとすれば、その中に4種の民族が含まれていた事は、極めて人的だったと考えざるを得ない。漁民として遠距離遊動を習俗としていた原日本人が、既に海洋民族的な気質を備え始め、これらの民族が混住する環境を提供し、民族間の交易を発展させていた可能性も高い。この様な環境は、各民族の生存に極めて有利な状況を提供し、そこに人口の集積を人為的に形成していたと結論付けても、確度が高い仮説になるだろう。C1O2b1の分布が、南西諸島を含む日本列島に限られている事は、大きな人口集積があった訳ではない事を示唆するから、原日本人に勧誘された有志集団が、沖縄の対岸に豊かな集落を形成していた情景を描く事も、不自然な想定ではなくなる。

上記の堅果類を栽培していた集団は、海面上昇が始まると原日本人の船で沖縄に移住し、数千年後に温暖化した日本列島に移住したが、彼らの出身母体だったO2bO3a2a系は、海面上昇に追われて大陸に逃げ上がった筈だ。O2b1の母体になったO2bは、歴史時代の雑穀栽培民だった、韓族として登場する。史書は彼らが殷代に遼寧省に居住し、漢民族に圧迫されて朝鮮半島に南下した事を示唆し、韓では大きなクリを産出すると記し、堅果類栽培者の面影を遺していた事を示している。この事実は、旧石器時代の末期のO2bは、全員が堅果類栽培者だった事を示唆する。その事は同時に、大陸で大勢を占めたO3は大きなクリを栽培していなかった事、即ち堅果類栽培者の子孫ではなかった事を示唆する。

O3の住居跡だったと想定される遼河文明の遺跡から、クルミの殻が多量に発掘されている。クルミの栽培適地は、クリ栽培地より冷涼で雨が少なく、昼夜の気温差が大きい場所だから、遼寧や内モンゴルに北上したO3の祖先は、旧石器時代末期には沖縄より冷涼な内陸部で、温帯性の雑草であるエノコログサを栽培していたから、それを原生種とするアワを栽培化した事になる。O2bの故地より寒冷で乾燥した地域に住んで、人口を増大させていたから、現在O3系の人口が極めて多いと考えられる事をそれに重ねると、彼らはアワより古いざっこくであるキビを栽培化して、人口を増加さていた可能性に帰着する。雑草を栽培種に転換するためには、その雑草が繁茂しにくい更に北方で、改良品種と雑草の交配を避けながら栽培品種化する必要がある。遼河文明が寒冷な内モンゴルや遼寧で進化したのは、アワにとってその様な環境だった上に、森林が脅威にならない程度に冷涼で乾燥した地域として、内モンゴルや遼寧適地だったからだろう。アワが栽培品種化して生産性が高まるまでは、キビがO3民族の主要穀物だった事になる。当然の事であるが、冷涼少雨で密林化しない地域は、狩猟に適した鹿などの草食動物が繁殖する環境を、提供していただろう。

大陸に拡散した民族は、稲作民であれアワ栽培民であれ、早々に食料を穀物に頼る民族になった。しかし日本列島に拡散した堅果類栽培者は、土器や植物繊維などを漁民の海産物と交換し、不足する食料を補う事ができた。漁民は豊かな海産物を得る事ができたが、収穫が不安定で貯蔵が難しかったから、貯蔵できる堅果類と交換出するメリットが享受出来た上に、アサを得て船や漁労手段を改革し、生産性を高める事ができた。堅果類栽培者と漁民の交流により、彼らの日本列島での新生活は、新石器時代前期に大陸に逃げ上がった栽培民と比べ、かなり豊かだったと推測される。それにより、堅果類栽培者の人口は爆発的に増えたから、日本列島の縄文時代の遺跡の密度は、同時代の世界各地と比較して、極めて高い状況が生まれた。自然が豊かだっただけでなく、異文化を持った民族の共生が、食物や文化の質と量を高めたからだ。発掘されるのは縄文人の遺跡だけで、漁民の遺跡は殆ど発掘されないが、現在のD2が移住して来た4種の遺伝子の合計に匹敵している事を、弥生時代以降の稲作民の人口増加率の高さを考慮して勘案すれば、縄文時代を通して漁民の方が人口が多かった事は明らかだ。

 

1-2-4 東アジア南部のO3系民族の内訳

縄文時代の開幕時に、日本列島に来たO3系の遺伝子の大陸での位置付けを明らかにするためには、東アジアのO3系遺伝子の分布を見る必要がある。原郷に近い中国南部沿岸部と東南アジアのO3を細分化し、その分布から彼らの移動の痕跡を確認する必要がある。タイの稲作民は、揚子江流域の稲作民が有史時代にタイに南下したと言われているから、タイ人のO3の起原は、元々浙江省近辺にいた人々だった可能性が高い。

http://www.biomedcentral.com/1471-2156/15/77 の数値をグラフ化

 

 O3遺伝子を細分化しても、台湾平地民、台湾漢族、福建省漢族の分布は、O1O3の分布の傾向と同じである事が分かる。台湾海峡を挟んでO3の遺伝子構成が類似している事は、同じルーツの人達が海面上昇に追われ、両岸に逃げ上がった事を示す。

フィリッピンは、氷期の海面低下期にも島であり続けたから、氷期終了時は無人の島だったと想定される。海面上昇後に、台湾起原の海洋民族がフィリッピン、インドネシア、南太平洋の島々に拡散し、オーストロネシア語族民と呼ばれる人達になった。南太平洋の島々に渡った海洋民族はO3で、フィリッピンに渡ったO3ではO3a2cが際立って多い事は、最初に海洋民族になったのは、O3a2c中心の特定部族だった事が分かる。フィリッピンの最大集団がO1である事は、漁民の遺伝子だったD2が最大集団である日本とは違い、内陸の農工民集団が、最終的に最大人口になった事を示す。日本より温暖な気候が、日本より植物性食料への依存度を高める事を、許した結果だと推測される。逆に言えば、日本は寒冷でありながら豊かな漁場を控えていたから、オーストロネシア語族海洋民と比較した特徴として、縄文時代を通して漁民が優勢で、漁民的な価値観が強い民族だったとも言える。日本を瑞穂の国と呼ぶ不合理さを、再考する余地があるだろう。東アジアで最も非農民的な価値観を持った民族である筈だから、この呼び名は、倭人文明の亡霊に対抗した大和政権の、政治的プロバガンダだった事になる。

東南アジアとインドネシアにO3a2bが多いのは、彼らが稲作民として東南アジアからインドネシアに移住したが、フィリッピンにはあまり移住しなかったからである様に見える。インドネシアは氷期に、スンダランドとして大陸と一体化していたから、氷期から居住していた人々の子孫も含まれている筈であり、それを明らかにするためには、更にO3を細分化する必要があるが、それに資するデータは公開されていない。

オーストロネシア語族民は、縄文時代中期まで台湾の住民だったが、縄文時代後期以降海洋民族になり、東南アジアの島嶼部に拡散した。彼らは台湾に残留した人々と言語を共有したが、稲作民になった福建省の人々はシナ語系やタイ語系の言語者になり、海洋性が皆無の民族になった。言い方を変えると、海面上昇によって大陸から台湾が分離し、類似した民族構成の人々が大陸と台湾に別れたが、台湾の平地民の一部だけが、海洋縄文人と交流して海洋民族になった。漢書、後漢書、三国志に依れば、大陸の民族は弥生時代になっても海洋性が皆無で、日本列島に渡る事が出来なかっただけでなく、台湾の存在さえも良く知らない人達だったが、トンキン湾の北岸で海洋民族と交易を行っていた。その海洋民族が求めていた先進文明は、インド・オリエント方面の文化だったから、彼らは中国に近い台湾に何の地理的な優位性を認めず、台湾には有力な海洋民族がいなかったという事になる。漢代の中国が先進文明の地だったと認めていなかった認識は、彼らの先輩格だった倭人も、当然共有していた筈だ。

以上から導かれる結論は、旧石器時代のO系民族に海洋性はなかったが、台湾が島嶼化した縄文時代に、島民の一部が海洋縄文人に触発されて海洋民族になり、台湾の他の住民と共に東南アジアの島嶼部に拡散した事になる。海洋民族の一部は南太平洋の島々に拡散したが、インド洋沿岸にも拡散した。彼らは元々同族だった漢民族の文化を評価せず、遥かに離れたオリエント・インド系の文化を導入した。現在フィッリピン人にイスラム教徒が多いのは、その延長線上の出来事だと言えるだろう。中華とオリエントのどちらにもアクセスできた民族として、遠方のオリエントの文明レベルの方が、格段に高いと判断した事になる。

O3a2cが海洋民族になりつつあった時期に、縄文人が沖縄に進出していた事は、オーストロネシア語族海洋民は、縄文人から航海術を伝授された事を示す。台湾~太平洋の島々のオーストロネシア語族の方言を調査し、言語年代学的な解析を行うと、彼らは縄文時代後期以降に台湾から南下し、フィリッピン以南の南太平の島嶼や、インド洋のマダガスカル島に拡散した事が明らかになり、海洋縄文人が縄文時代前期から、沖縄で活動していた事と符合する。オーストロネシア語族海洋民と和人だけが、後世棚構造と呼ばれる特殊な構造の船を使った事も、この想定を補強する。日本列島は、旧石器時代に漁民を生み出す環境に恵まれていたが、台湾にはその要素はなかった事も、縄文時代開始期の項で説明した。島嶼民族になって間もない台湾の住民が、数千年で世界最大の海洋民族になる為には、海洋縄文人の航海術を学ぶ必要があったと想定される。

フィリピンの多数派がO1である事は、台湾の平地民のO3a2cが海洋民族になったが、当初はO3a2c1O3a1cも、海洋民族にならずに栽培民に留まっていた事を示唆する。

 

1-2-5、北上したO3a系民族

15千年前に始まった温暖化と海面上昇により、旧石器時代には寒冷で乾燥し、殆ど無住の地だった大陸の中緯度平坦部が温暖化し、降雨に恵まれて草食動物が繁殖し、農耕が可能な土地になった。逆に旧石器時代に人口を養っていたスンダランドや台湾平原が水没し、そこにいた人々は大陸に追い上げられた。新石器時代前半には、ダイナミックな民族移動があったと想定されるが、温暖化の速度が速く、海面上昇によって広大な大陸が消滅したから、栽培民は生存適地を求めて移住し続けなければならなかった。人々は無秩序に北や西に拡散したから、個々のO3遺伝子の移動の軌跡は追跡出来ないが、自然現象としての拡散の一般則から考えれば、中国の中緯度平原部に先ず拡散速度が速い草原が広がり、拡散速度が遅い氷期から沿岸部にあった樹林が、草原を塗り替える様に徐々に内陸に拡大していった筈だ。

福建省や浙江省近辺から北に拡散した狩猟・栽培民は、草原で繁殖する草食動物を狩りながら、石材が確保できる山地と平原の境界に拡散し、豊かな草食動物の恵みを受けて人口を爆発させたと想定される。山地と平原の境界は内陸で帯状に分布し、広大な平原で繁殖した動物は、常にその地域に拡散し続けただろうから、獲物を幾ら狩っても資源が枯渇する事はなかった筈だ。彼らに食料危機が訪れたのは、森林が押し寄せて草原性の草食動物が減少した時だったと想定される。彼らは仕方なく、より寒冷であるか、より乾燥して草原が維持されていた地域に徐々に押し出され、黄河上流、内モンゴル、遼寧・満州平原に人口集積地を移した。内モンゴルや遼寧・満州平原に達した頃、彼らはアワの栽培品種化に成功し、雑穀栽培の比重を高めて再度人口を増やした。

この頃黄河上流が再度乾燥し始め、インド西部から中央アジアに拡散していた東南アジア西部起原のR系が、黄河上流から陝西省に進出し、浙江省から内陸部に拡散していたO3系と遭遇して文化を交流し、仰韶文化が形成されるが、土器のモチーフから判断すると、仰韶文化を担ったのはO3系ではなくR系の人々だった。彼らはスンダランド西部起原の原始的な麦を栽培していたが、アワと比較して高い収穫が得られなかったから、麦栽培が優越する事はなくアワ栽培に飲み込まれた。しかしアワより麦の方が食味が良かったから、高級穀物として栽培され続け、新石器時代末期の中国でも、その麦が栽培され続けた可能性があるが、次第に東西の交流が盛んになっていったから、インダス地方から優れた品種が導入された可能性の方が高い。但しインダス地域やオリエントでの麦栽培は、黄河流域より温暖な地域でのみ高収穫を得ていたから、彼らの品種が導入されても新石器時代の終了時まで、黄河流域のアワ栽培の生産性を凌駕する事はなかった。新石器時代の後半期には華南で稲作が盛んになり、アワと比較して高い生産性を得たから、新石器時代の中華文明の中心地は、華南だったと想定される。

福建省や浙江省には、海面上昇後も継続して定住していた人々がいたから、台湾と福建の遺伝子構成が類似している。彼らの一部は北上して人口を増やしたが、福建省や浙江省に残留していた住民は、台湾平原を北上していた稲作民に出会い、稲作民になって一緒に北上した者もいた。続いて北上して来たイモ栽培民にも出会ったが、イモ栽培に転向した者は、縄文時代後期以降の寒冷化で南下した可能性が高い。この様な人々の拡散を、民族移動だったと捉える事が適切なのか疑問がある。人々は、従来無住の地だった新天地で拡散と増殖を繰り返し、稲作やアワ栽培の北限に挑戦した者が人口を増やし、彼らが更に農地を求めて無秩序に拡散したから、見掛け上栽培者が北に民族移動した様に見えるが、移動先で栽培に成功し、そこが新たな拡散ソースになったから、拡散の軌跡を追跡する事は出来ない。特に稲作民に関しては、住居址だった河姆渡遺跡の特徴として、穂首刈に貝殻を使っていた様子から考えると、石器の使用実績が貧弱だった事を示している。稲作民の性格上、沿岸部の低湿地を求めて移動していたから、石材が豊富な山塊に近付く事が出来なかったからだろう。彼らは動物性の食料を河川漁労から得ていたから、鋭利な打製石器を必要としていなかった。華南にありふれていた竹は、魚を捕獲したり調理したりする程度の、鋭利な刃を持つ道具の素材として十分な鋭利さがあったから、森林が押し寄せていた沖積平野の沼地で、稲作を行う事が出来たと想定される。しかし樹木が繁茂していない沼地の面積が、それほど広大だったとは考えにくいから、日本列島から来た漁民と出会って蛇紋岩製の磨製石斧を入手し、機能は劣るが地元産の砂岩などの磨製石斧の製法が伝授されるまでは、稲作民として多数の人口を養う事は難しかったと想定される。

その観点で”Y-DNA Haplogroup Tree 2016”を見ると、稲作民の祖先と考えられるO2aに相当するO1b1a1aは、O3に相当するO2と比較して、それ以下の分岐が非常に少ないから、比較的新しい時代に人口を増加させた事を示唆する。O1に関しては更にその傾向が強いから、稲作を始めたのは更に遅い時期だった事になる。しかしOから分岐後の深さはO1が一番浅く、旧石器時代の人口が安定していた事を示している。それと比較し、旧石器時代に栽培民になった、稲作民のO2aO1b1a1a) 、縄文人のO2b1O1b2a1a)、韓族のO2b*O1b2a1b1)のサブフィックスの多さは、栽培技術が進化するまでの間に何度も、人口のボトルネックを経験した事を示唆している。旧石器時代には、狩猟を中心とした食料獲得手段を維持していた民族の方が、人口が安定していた事を示しているから、その裏を考えれば、栽培に走った者達は、優良な狩猟地に恵まれていなかった、即ち優良な狩猟地から閉め出されていた者達だった事になる。マンモスハンターだったC3の分岐が浅い事も、狩猟民の生活が比較的安定していた事を示唆する。

根拠は乏しいが単純に地形から判断すれば、ジャポニカ米栽培民の旧石器時代末期の故地は、トンキン湾に水没した沖積地だった可能性が高い。西に拡散した稲作がインディカ米だったと考えられ、その分離は旧石器時代に完了していたと想定されるから、大本の原生種はスンダランドにあり、少なくともジャポニカ種は、旧石器時代の内に北上を開始していたと想定されるからだ。それがO2a系の民族だったと想定され、O2b系の民族が沿海部で先進的な樹木栽培を行っていた事から考えると、O2系は新石器時代に栽培と河川漁労及び海浜での貝類の採取に、傾斜した民族だった可能性がある。

新石器時代の中頃になると、揚子江の河口を形成していた沖積地やその周辺の河川の沖積地に、稲作民の集落が次々に形成されていったと想定される。彼らは磨製石斧を入手して稲作地を広げ、人口を増加させただろう。

https://html1-f.scribdassets.com/7k177y3ghs3v23b6/images/2-27e0bacb89.jpg 

Late Neolithic expansion of ancient Chinese revealed by Y chromosome  haplogroup O3a1c0026111 ChuanChao WANG et al

 

左上図は、福建省で最多の密度を持つO3a1c002611はそのマーカーの識別記号)が、現在どの様に拡散しているのか示している。遺伝子の濃度が高い場所が、当該遺伝子の発祥地ではない事は言うまでもない。O3a1cの中で更に変異したO3a1c2の分布を、右上図に示す。O3a1cに更に変異が発生し、新しい変異の系統であるO3a1c2が、O3a1cの分布と概ね重なっているのは、既に分岐が発生していた集団が、中国全土に拡散した事を示す。2016年版で上記はO2a1cO2a1c1b1という関係になり、3段階も分岐した関係になっている。

既に説明した様に、黄河と揚子江に挟まれた広大な沖積平野には山塊がないから、森を拓くために必要な、磨製石斧の石材が入手出来なかった。山東半島は山塊だから、そこにはある程度の人口の集積があったと想定されるが、その他の沖積平野は、石器時代には手付かずの森林に覆われていたと想定され、沖積平野に人々が進出したのは、鉄器が普及した春秋時代以降だった筈だ。従って現代の様な分布になったのは、歴史時代になってからの事で、それを含めてO3系は何度も大移動を繰り返し、上記の分布になった。移動の軌跡を追跡する事は不可能である事が、実感として分かるだろう。

O3a系の拡散の広さから考えると、旧石器時代から、ある程度の人口の集積があったと想定される。既に栽培が始まっていたと想定しなければ、考えにくい人口だが、米や麦はまだ主要なカロリー源になっていなかった筈だから、堅果類は有力候補になるが、O2b系以外の民族が、堅果類を栽培していた証拠はなく、消去法で探せばキビが残る。キビの発掘例は、11000年前のメソポタミア、9000年前の黄河流域、90006000年前のニューギニア高地、50004000年前の南北アメリカとアフリカ中央部にあり、原生種は特定されていない。キビは寒冷な気候にも、乾燥した気候にも耐える種だから、25千年前頃の、氷期の最寒冷期の台湾平原で栽培が始まったとしても、否定する根拠はない。ソバも原生種がユーラシア南部の高地で発見されているから、台湾平原で栽培された雑穀に含まれていた疑いがある。開始期の農耕の主要穀物は、キビだった可能性が高く、ソバも含まれていたかもしれない。新石器時代により生産性が高い穀物種が開発され、生産性が低いキビやソバは脇役になったと想定される。

遼河文明が縄文時代前・中期に出現したのは、当時の遼寧や内モンゴルの気候が、原生種が繁茂しない寒冷地として、アワの品種改良に適していたからだろう。アワの栽培種化に成功した後、縄文時代後期前半の寒冷化で南下し、黄河中上流域にあった仰韶文化(7千年前~5千年前)領域を併呑しながら西進し、華北に龍山文化を形成したと想定される。仰韶文化を担ったR1は、龍山文化期に人口的にアワ栽培民に吸収され、龍山文化を担う一員になったのだろう。

新石器時代前半の文明史は以上の様に展開し、遼河文明を担ったのはO3a系だったと想定される。左下図に、東アジアの各地のO3a系の割合とその詳細分布を示し、右下図にO3a系内の詳細割合を示した。O3a1cは未分離で、O3a*に含まれている。ネットのデータを合成した数値なので、特定の出典はない。

 

 

Zhuang(チワン族)やThai(タイ人)にはO1O2が多いので、O3a系は少ない。稲作民の特徴だと言えるだろう。先に掲げたデータと数値上の厳密な整合性はないが、少数者のサンプリングではその様な不一致は一般的な現象だから、そんなものだと割り切るしかない。S Hanは華南の漢民族、N Hanは華北の漢民族。

華北の漢民族とモンゴル系の少数民族が、O3aの詳細分布に関し、同様の傾向を示しているから、モンゴル系の少数民族が含むO3aは、遊牧民化した華北の漢民族だった可能性が高い。

満州系の少数民族が持つO3a2c1a2O3a2c1bなどのO3a2c1系はO3a系の基底要素として、中国全土に万遍なく拡散している。現在の満州とチベットにO3a2c1系の比率が高いのは、農耕民にとって辺境であるという特殊性を共有している事から考えると、特定遺伝子の浄化作用が働いた可能性を示す。満州に限って言えば、元々C3狩猟民のテリトリーで、農耕民勢力の北限だったから、サバイバル環境が厳しかった結果として、この様に純化した可能性がある。但しその真偽はあまり重要ではなく、ここで注目すべきは、日本にも少なからずいるO3a2c1系が、満州の少数民族に極めて多い事だ。O3a2c1aの遺伝子が濃厚だった漢民族が、気候変動で南下や北上を繰り返す中で地域的に孤立し、この様な状態になったと考えられる。その結果として、遼寧省などの渤海湾沿岸部にO3a2c1系の遺伝子が極めて濃厚な民族が、少なくとも歴史上の長い期間、遼寧や満州にいたと想定される。モンゴル系は黄河中流域の漢民族と接し、ツングース系は東夷と呼ばれていた沿海部の漢民族に接していた期間が長いから、O3a2c1系の遺伝子が極めて濃厚であるのは、北方の東夷の特徴だった可能性がある。此処では大雑把に、「中国には多種のO3系遺伝子が混在するが、ツングース系の民族との境界に居た人達で、歴史時代に満州や遼寧に居た人達には、O3a2c1系への極端な純化が見られたと想定される。」という指摘に留める。上掲の現在のO3a1cの分布とは一致しない事になるが、それは歴史時代に漢民族が移動を繰り返した結果だった事になる。

 

1-2-6 古墳時代に移民して来た人々

日本人のY遺伝子分布を調査した論文に戻ると、この論文では台湾と韓国の調査も行っているので、それを合わせて掲示する。

この論文の著者が調査した台湾人は、台湾の漢族であるとの注記がある。この論文の「台湾」は、先に掲げたBiomedcentralのデータに近い数値だから、この論文データとBiomedcentralデータの双方が、信頼性が高い事が確認出来る。

韓国のO3a系の殆どがO3a2c1系である事は、満州の少数民族の中の漢民族系遺伝子の殆どが、同様にO3a2c1系である事と共通する。古代の河北省や遼寧省にいた漢民族が、そのタイプの遺伝子を濃厚に持っていたからだろう。戦国時代に燕と呼ばれ、漢代に幽州、青州、冀州と呼ばれた地域に住んでいた雑穀栽培民は、この遺伝子を濃厚に持っていた可能性が高く、その一部が狩猟民になり、北から朝鮮半島に浸潤したと考えられる。遼河文明系の遺伝子と言えるかもしれない。渤海湾岸から黄海沿岸は韓族のテリトリーだったが、漢民族に圧迫されて徐々に朝鮮半島に移動しつつあったが、新石器時代の朝鮮半島は森林に覆われ、農耕は難しい環境だった。日本列島で農耕が可能だったのは、蛇紋岩製の磨製石斧が容易に入手出来、海岸に沖積平野が形成され続けていたからだと推測される。

O3a2c1系が日本列島に大挙して来た時期は、古墳時代だった。寒冷化して華北の農業が不振になり、異民族が流入して華北の治安が悪化したから、華北から移民として日本に来た人達だった。古墳時代に多数の帰化人が来た事は、新選姓氏録に記載があり、倭人が大陸で交易していた事は、複数の史書に記述がある。後漢書と三国志には、倭人が生口(奴隷)を中華に献上した記事があるから、豪族の一族がそのまま移民した場合と、個人が隷属民として売買されて移民した場合があった事が分かる。倭人がこの時期に移民事業を行った事は(11)弥生時代で論考し、(12)古墳時代で移民数を検証した。

N Hanとモンゴル系にはその他のO3a系も多く、その詳細は分類されていないが、それが何であろうと、日本のO3a系にはそれに該当する他のO3a系遺伝子がないから、古墳時代の倭人が連れて来た移民は、山西省や陝西省の様な内陸の奥地ではなく、渤海湾の沿海部だった事になり、日本のO3a2c1系は、遼寧省・河北省・山東省の漢族だった事になり、中華的に言えば、東夷系の漢民族だった事になる。中華では四方の蛮族に如何わしい漢字を使ったが、東夷はその例外になっている。古代から海洋民族と接していた東夷は、古代から文明人との評価があったと推測され、倭人はその様な民族を、日本列島に移民させたと言えるかもしれない。

魏志東夷伝の扶余伝・高句麗伝から考えると、朝鮮半島のO3a2c1系は、満州で雑穀を栽培していた濊族と、秦末以降に遼寧や河北から流入した漢民族だったと想定されるから、濊族と漢民族に人種的な違いはなかった事になる。濊族はアワ栽培者ではなく、キビ、ソバ、高粱などの、寒冷地向きの雑穀栽培者だったと想定され、アワ栽培に転向して漢民族になった者達とは、遅くも竜山文化期に分離したと考えられる。但しその後の推移を概観すると、狩猟文化の生産性が低かったわけでもなく、アワ栽培に特化して南下した漢民族の方が、豊かになったとは言えない。漢帝国滅亡後、漢民族は被支配民であり続けたが、濊族やツングース系民族は中華民族化を拒み、民族国家を形成し続けたからだ。

弥生時代末期の濊族は、漢民族とは言語が大幅に異なる民族だった事が、魏志東夷伝に記されている。異系の言語集団になっていたとすれば、新石器時代前半にシベリアまで拡散し、C3狩猟民の文化的な影響を色濃く受け、言語も狩猟民的になった民族だった可能性がある。トルコ系の民族は、その様な民族だったと考えられるから、その極東モデルがあっても不思議ではない。寒冷地で雑穀を栽培していた農耕民族が、狩猟・遊牧民と比較して文化的に優位になった時期は、千年単位で考える程には古くなかったと想定される。

高句麗は濊族の民族国家で交易による高い収益があり、古墳時代には倭と敵対関係にあったから、飛鳥時代の高句麗滅亡時の亡命者を除けば、日本列島へ移民する者はいなかったと考えられる。百済の支配者の一部は濊族だったが、百済は高句麗の南下を阻止するために倭に雇われた傭兵集団だったから、倭人には彼らを日本列島に移民させる動機はなかった。新羅は温暖な弁韓を中心に展開していたから、寒冷化や治安の悪化による移民はなかったと想定される。

O2bは韓族だったと想定される。韓族は弥生時代から倭と親和的で、古墳時代に高句麗との境界部にいた韓族は、寒冷化で農業が不振になった上に、高句麗の侵攻によって戦乱に巻き込まれたから、倭人が古墳時代に日本列島に移民させたと想定される。韓族は漢族と同様にアワ栽培民だったから、耐寒性が高い穀物を栽培していた濊族より農業生産性は高かったが、寒冷気候に対する耐性は弱かったと推測される。

この論文の著者は、韓国のO2b1比率が他の調査と比較して多過ぎると感じ、簡略化した検出手順に問題があった可能性を指摘し、実際の韓国のO2b1比率は、10%以下ではないかと想定している。D2と同程度であれば、弥生時代以降の朝鮮半島南部への倭人の移住や、古墳時代に出兵した倭兵の子孫である可能性がある。倭国王は5世紀初頭から1世紀以上の間、高句麗の南下を阻止する為に、万単位の倭兵を朝鮮半島に駐在させたと想定されるからだ。

O3a2c1系とO2bが古墳時代の移民だったとすると、縄文由来ではないそれ以外の遺伝子O1aを加え、以下にその3者の分布を示す。このグラフから、3者は均一に日本列島に分布している事が分かる。各地域に幾分の差異があるが、沖縄以外の地域のこの程度の差は、サンプリング統計の誤差の範囲内とも言える。旭川のこの3者の遺伝子は、明治以降の内地からの移住者のものだったと想定される。沖縄にも移民があった事を示すのは、沖縄で農業を振興するための移民だったと推測されるが、沖縄には後世、中国からの移民が別途あったから、この時期の移民の性格については何とも言えない。本土での分布の均一性は、倭人の主要国は各地の人口に応じて、それぞれに移民を均等に受け入れていた事を示唆する。横並び的に協調する日本人的な特徴が、倭人時代にも発揮されたのだろうか。

この図だけから判断すると、O1aの出身地は台湾だった様に見えるが、華北から漢人が流入した韓国でも、O1aO3a2C1との比が日本と同じである事は、元々東夷系の漢民族には、この程度の割合のO1aが含まれていた事になる。過去数千年間の歴史を考えると、温暖期に稲作民が山東省まで北上し、その稲作民が寒冷化しても残留してO1aの遺伝子を遺し、戦国期に漢民族の様に振る舞っていたとしても不思議な事ではない。

韓国のO3a2a系は、東南アジから製鉄技術と海洋民的な文化を持ちこんだ、弁韓人の遺伝子である疑いがある。それであれば、インドネシアにもフィリッピンにも少しあり、ヴェトナムに最も濃厚に分布しているから、出身地はその3地域のいずれかである事になる。しかしこの3地域では、O3a2c1の方が占有率が高いから、弁韓人もO3a2c1だった可能性は高い。それを追跡するには、遺伝子情報の詳細化が威力を発揮するが、それはこのHPの趣旨ではないので、その追求は割愛する。

以上の議論により、縄文時代初頭に沖縄経由で渡来したY遺伝子と、それ以降に渡来したY遺伝子について、その全ての来歴が判明した事になる。その事は、縄文時代と弥生時代には、Y遺伝子の目立った流入はなかったとの仮説と整合する。遺伝子分布だけでなくその他の諸事情に関しても検証すれば、より事情が鮮明になる。その検証は、この仮説を補強するだけでなく、検証の説明に用いる仮説の妥当性性を担保する事にもなる。

 

1-3 各時代のY遺伝子分布を復元する

1-3-1 縄文時代と弥生時代に、Y遺伝子の大きな流入はなかった事を確認し、新しい仮説を提唱する

縄文時代の草創期と早期に海面が上昇し、沖縄から大陸が遠退き、黒潮が沖縄の西側を流れる様になると、沖縄は大陸からも日本列島からも黒潮に遮断された島になり、速度が遅い手漕ぎの船では到達する事が困難になった。沖縄に到達する船に求められる速度は10kmh程度に高まったから、櫂を両舷に複数備えた船でなければ、沖縄には到達出来なくなったと想定される。このために、沖縄と日本列島との交流は、縄文時代草創期に一時的に途絶えたと想定される。その後縄文時代早期に、縄文人が栽培したアサを使った高速の船を開発し、遅くも前期には再び沖縄に渡航していた事は、九州で盛行した曽畑式土器が沖縄で多量に発掘され、確認されている。縄文時代前期の丸木船と一緒に、櫂も発掘されているから、その辺りの事情は整合している。遅い船でも大陸の沿岸を航行すれば、距離は数倍長いが華南や南シナ海の沿岸に行く事は出来たが、敢えてこの様な高速船を開発した事は、その必要があったからだと考えられる。一つの要因として、季節要因だった可能性が高い。南下と北上に適した季節があり、それに同期した南北移動するためには、西南諸島を南下する必要があったという事であり、移動者は少数ではなく、大挙して移動する必要があった事になる。家族を交えた集団移動だったのか、男性集団の移動だったのかは分からないが、海洋縄文人の活動が少数者の冒険的な移動ではなかった事は、流入した女性の数から想定出来る。その計算は、(10)縄文時代/活動期の項で示した。常時120隻が出航済で、600人が船上にあったと結論付けたが、これは男性集団が渡航していた前提だから、家族が移動していたとすれば全く異なる計算になり、出航済の船の数は格段に増える。

海洋縄文人との接触により海洋民になった、オーストロネシア語族海洋民の遺伝子O3a2cは日本にはないから、彼らが日本列島に渡航して来る事はあっても、日本に定住する事はなかった事になる。話を拡張して考えると、東南アジアや大陸からD2が検出されない事は、縄文人を文化ルーツとした東アジアの海洋民族は、先住民がいた渡航先には、定住しない習俗を持っていた可能性が高い。何時でも船で故郷に帰る事が出来たから、移住先に農地を切り開いてしまった農民とは、異なる習俗を持っていたのだろう。その習俗の基幹となっていた船を作り、その船で漁労を行って生計を立てるのは男性の仕事だったから、日本列島にD2が固着され、大陸にはD2が存在しない状態が生まれたと考えられる。

狩猟民もその様な習俗を持っていたから、やはり生業とY遺伝子に強い関連が生まれ、シベリアの狩猟民やモンゴル人にC3が多いと考えられる。これはミトコンドリア遺伝子にはない特徴だから、父親が男系子孫に狩猟や漁労の技能を伝授する事により、生業を共有する民族集団を形成していたと言えるだろう。

栽培者を目指していた大陸の農民集団は、かなり事情が異なった。新石器時代前期までは、男性が狩猟を行う陰で、女性が植物を採取しながら栽培を取り入れ、農業に進化させていたと想定される。狩猟には高度な技能が必要だから、農業と兼業では成績が劣る事になる。狩猟が食料の重要な部分を占めている限り、男性は息子達に技能を伝授し、高度な狩猟技能は維持されなければならなかったが、季節による狩猟場の変更は、最大の収穫を得るための重要な技能の一つだった筈だ。しかし栽培を行うためには、定住する必要があった。栽培の主体だった女性の発言権が強くならなければ、栽培地に定住する事は出来なかった筈だから、栽培期間が長いが高収穫な栽培種が生まれるためには、先ず男性が、播種と収穫時期と同期できる狩猟場の選定に、知恵を絞る必要があった筈だ。地理的な優位性も働く難しい選択の中で、成功者と失敗者がいただろう。現在の様な、社会的な教育システムがない社会では、成功者の子孫だけが繁栄する事になるから、農耕民の祖先は皆、その成功者の子孫だった事になる。但しO3aに関しては、拡散前の遺伝子の多様性が現在も保存されているから、狩猟と両立する行為は、偶然の成功者だけが到達できる難しい知恵ではなかった様だ。

狩猟と両立する事ができた女性の手で、穀物の栽培品種化が進み、農業技術が進化して食料の重要な部分を、穀物が占める様になっても、主体的に農業を行っていた女性が、その技能を娘に伝授する形態は、狩猟の価値が失われるまで継続したと考えられる。植物性の食材だけに頼る事には、健康上の問題もあっただろうから、狩猟の価値が完全に失われたのは、家畜が導入された後の事だったと推測される。

優良な農地の傍らに集落が生まれ、母系家族が農耕に従事する様になる状態が、大陸の農民社会の必然の成り行きだった筈だが、歴史時代の農耕民族は、極めて男尊女卑的になった。どの時点でその逆転があったのかについて、フェミニストは感情的に、女性の生業が男性に奪われたと主張するが、技能者から力で技能を奪う事は難しいし、一旦できた秩序を改変する事も難しいから、何らかの歴史的な必然性があったと考えるべきだろう。

一旦出来上がった女性優位社会を、男性優位社会に切り替える事は難しい例を、倭人社会に見る事が出来る。倭人は大陸で交易を行い、極めて男尊女卑的な漢民族に長らく接していたが、倭人社会の女性優位は、倭人社会の崩壊まで失われなかった。沖縄に亡命した倭人が作った琉球王朝では、明治時代まで女性優位が継続した。その事から考えると男性優位社会は、単純に男性の暴力から生まれたのではない事が分かる。倭人社会は漁民的な価値観に支配されていたからだとすれば、男尊女卑を農耕民社会の特徴だったと仮説化する事が出来、優良農地の争奪戦の中から生まれた習俗だったと想定する事ができる。日本でも農民社会になった中世には、男性優位の社会が形成されていたと考えられる。そのきっかけは、漁民優位の倭人社会から、農民経済を根幹とする中華的な制度に変えた、大和朝廷の成立だったと言えるだろう。「一所懸命」という言葉も、その様な時代背景から生まれ、領地を争う日本の戦国時代が生まれた。

新石器時代の栽培民女性は、生業に固着していたY遺伝子とは対照的に、民族の枠を超えて狩猟民や漁民に拡散した。農耕民族から農耕民族への拡散に関しては、広大な地域に人々が拡散したから、その傾向は分かりにくいが、ミトコンドリア遺伝子の拡散は、狩猟民族の境界面だけの拡散だった様には見えないから、女性が民族の枠を超えて拡散する動向は、新石器時代の一般的な傾向だった様に見える。栽培地に固着する筈の女性が積極的に拡散した事は、論理矛盾の様に見えるが、女系家族の定員が充足していれば、それ以上の女性の人員は必要ないのだから、余剰の女性が新しい栽培地を求めて積極的に拡散する事情を考えれば、女性も拡散する動機を持っていた事になる。男性の民族的な膨張は、孤立を恐れる臆病なものだったのに対し、女性が新たな農地を求めて拡散する行為の方が、気軽なものだったとも言えるかもしれない。但し女性優位の社会意識が普及していなければ、栽培女性の積極性は発揮されなかっただろう。

その辺りをもう少し詳しく検証すると、現在北方系と考えられているミトコンドリア遺伝子の中に、幾つもの栽培民起源の者がある事を、この過程から説明する事ができる事が分かる。ミトコンドリア遺伝子は、農耕技術の進化に従って、複数波の北方拡散があった事の証拠になるからだ。旧石器時代の初期に、原初的な栽培技術を持って北方に拡散したミトコンドリア遺伝子が、より高度な農耕技術を持ったミトコンドリア遺伝子に南から蚕食され、現在の農耕地帯から駆逐されたから、駆逐されずに残った古い栽培系のミトコンドリア遺伝子が、生産性が高い農耕が到達できない北方に遺され、あたかもその遺伝子が狩猟民のミトコンドリア遺伝子であるかの様に残っているものが、シベリアの狩猟民にある。その詳細はミトコンドリア遺伝子の章に譲るが、その様な現象を引き起こした事情として、先に狩猟を中核とする栽培民として北方に拡散した民族の領域に、南からより高度な栽培技術を持った女性を伴った民族が拡散し始めた場合、女性だけがその栽培種の北限まで急速に拡散したが、男性は先住民族との軋轢の中で、北上が足踏みしていた場合、見掛け上農耕が北上しても、実際は女性だけの拡散だった事になる。ここで単純に北上と言ったが、それは新石器時代初頭の原初的な北上と、寒暖を繰り返した気候変動の中で、北上と南下後退を繰り返した穀物栽培の中で、次第に栽培品種化して行った過程の中の、各々の北上波動を含むから、実際の個々の状況には複雑なものがあった筈だが、マクロ的に見れば、生産性が高い穀物種の栽培は北上した様に見えた筈だから、半万年の歴史としては、その様な言葉で表現する事が適切だと考えられる。

その様な女性の北上波が北方の古い栽培女性を駆逐し、波状的に北方の栽培民族のミトコンドリア遺伝子分布を変化させ、やがてその栽培民族の当初ペアを失わせ、最も先行した栽培女性の痕跡を、狩猟民族にだけに遺す結果を生んだから、狩猟民独特の栽培民ミトコンドリア遺伝子を生んだと考えられる。現在のシベリアには、その様なミトコンドリア遺伝子の方が多い事は、新石器時代の栽培民女性の、拡散力の強さを想定させる。その背景として、純粋な狩猟民社会であれ、狩猟が優先していた栽培社会であれ、栽培が優位性を獲得していた栽培社会であれ、女性優位の社会だった事を想定する必要があるだろう。それでなければ、女性の生業として栽培技術を持ち込む事は困難だったと想定され、それであれば、栽培系のミトコンドリア遺伝子が、強力に拡散する事はなかった筈だから。

但しそれは農耕技術が高度化し、食料としての重要性を高めた後の話であり、新石器時代前半の、狩猟優位の時代の女性の拡散には、異なった動機を想定する必要があるかもしれない。女性の拡散を単一の動機に求める必要はないから、別の側面として、女性が伴侶として生産性の高い狩猟者を求め、拡散する動機も考慮する必要があるだろう。新石器時代の栽培民女性が、積極的に狩猟民に拡散した理由としては、こちらの方が尤もらしい。

その様な状況が展開していた大陸で、日本から出向いた漁民が、男性を含む民族を、日本列島に招聘する動機があったのかが、縄文時代の民族渡航の有無に関する、重要な観点になるだろう。南方の栽培民の娘を日本列島に導入し、栽培技術を獲得していた海洋縄文人とって、彼女達とは別の民俗文化を、男性を含む民族単位で日本列島に導入する動機を、漁民が持っていたのかが議論の焦点になる。旧石器時代末期に、シベリアから狩猟民が陸路渡来していたから、狩猟と漁労に関しては既に高い文化レベルを得ていただろう。しかし温暖な南方の島々や大陸には、多種の有益な栽培種があり、東南アジアの人々が次々栽培品種化していたから、それらの栽培種を盛んに導入する必然はあった。現在の日本の豊かな植生は、沢山の栽培種が栽培技術と共に導入された結果だろうから、実際にその様な行動が、活発に行われたと想定されるが、元々栽培技術の起原は女性だったから、栽培民から各種の栽培種を導入するためには、男性より女性の流入の方が、効果的だっただろう。現実に、縄文時代に多種のミトコンドリア遺伝子が流入し、その需要が賄われたと推測されるから、その観点で男性が流入する必要はなかった。ミトコンドリア遺伝子の流入の詳細は、4、ミトコンドリア遺伝子の日本列島への流入で説明する。海洋縄文人の必然として、男性を日本列島に導く必然性はなかったと考えられ、縄文時代にはY遺伝子の流入はなかったと結論付ける事に、問題はないだろう。

弥生時代以降に、製銅や製鉄の技術が導入される際に、多数の小集団の流入はあった筈だが、その様な技術導入では、日本人の遺伝子構成を大きく変える事にはならなかった。技能者集団が千人単位で複数流入しても、それを薄めてしまう人口のバックグラウンドが、既に日本列島にあったからだ。(10)縄文時代/活動期で説明した結果を、ミトコンドリア遺伝子の項で改めて掲載するが、縄文時代末期の日本列島の人口は、100万人を優に超えていたし、弥生時代末期には数百万人に達していた。その様な豊かな人口を抱えていたのは、日本列島が豊かな海産物に恵まれ、生産性を高める意欲が強く、その活動に積極的だった漁民が、漁労に従事していたからだ。縄文時代後期以降には、西日本で雑穀や米の栽培が盛んになり、栽培民も漁民に匹敵する人口を擁する様になっていた。

弥生時代末期から古墳時代にかけ、華北や朝鮮半島から多数の移民があった事は既に指摘した。寒冷化による農業の不振と治安の悪化が大陸にあり、その時日本列島では稲作技術が進化していたからだが、古墳時代と同様な寒冷化は縄文時代晩期にもあったから、その時代にも、男性を伴った移民があった可能性を、検証する必要があるだろう。この時代の水田稲作遺跡として、北九州に菜畑遺跡や板付遺跡があるから、華北から同様の労働力移民があった可能性は否定できない。当時の日本列島では、未熟な稲作や雑穀栽培が寒冷化で不振になり、海産物にカロリー源を頼る傾向が高まっていたのであれば、移民を受け入れる環境は整っていなかった事になるが、立派な水田跡は、その仮定に疑念を与える。夏王朝期の温暖期に、江蘇省辺りに北上していた稲作民が、寒冷化で移住を余儀なくされた結果、倭人の船で日本に移民して来た可能性は否定できない。縄文時代晩期や弥生時代初頭に、瀬戸内や大阪湾岸で稲作が行われていたとしても、瀬戸内や大阪湾岸は地殻の沈降帯だから、BC10世紀頃の水田跡は地中深く沈降してしまっているから、発掘される見込みは薄い。倭人は当時既に華北の政権と宝貝交易を行なっていたから、古墳時代ほどに大規模ではなかったとしても、気候の寒冷化に誘発された大陸からの移民が、全くなかったと断言する事は難しい。その痕跡を示す稲作民系の遺伝子はO2a1になり、アワ栽培民の遺伝子はO3a2c1になり、古墳時代の移民と区別する事は出来ない。鉄器時代になって間もない時期だから、輸送力は古墳時代ほど高くはなかった筈だから、縄文時代晩期に移民があったとしても、現在の日本人のY遺伝子構成に、大きな影響を与える程ではなかったと言えるだろう。

 

1-3-2、日本列島のY遺伝子分布の変遷(まとめ)

 以上の結論として、日本人のY遺伝子分布は以下のように変遷したと想定される。

 

4万年前にD1D2が、シベリアから樺太を経由して北海道に到着した。D2は本州に拡散し、湖沼漁民として人口を増加させ、寒冷化が厳しくなると凍結する湖沼を捨て、海洋漁民になった。D1は、D2とは異なる民族として北海道に留まり、狩猟民であり続けた。C3は狩猟民としてシベリアから日本列島に拡散し、D2とは異なる民族として狩猟民であり続け、比較的温暖だった西日本で人口を増加させた。漁民だったD2と棲み分け、縄張りを主張する先住民が居ない状態で、旧石器時代末期に急速に拡散したから、日本列島で発掘される旧跡時代の狩猟民の遺跡は、C3の遺跡だった疑いが濃い。D1C3の存在を考えると、民族文化と人種には密接な関係があった事が分かる。技能の男系継承が、強く意識されていた事が窺われる。その状況を示すのが、上左図の「旧石器時代末期」の分布になる。

D2の痕跡を旧跡時代の遺跡から追跡すると、比較的温暖だった43万年前の、磨製石斧を伴う群馬県平坦部、東京湾岸、沼津、北九州、西都原の遺跡は、湖沼漁民だったD2の遺跡である可能性が高い。野尻湖の様な内陸の遺跡は、狩猟民だったC3の遺跡だった可能性がある。その場合には、野尻湖から発掘された多数の磨製石斧は、狩猟民と漁民の交易の痕跡だった疑いもある。旧石器時代の内陸の遺跡から神津島産の黒曜石が発見され、既に両者が交易を行っていた証拠になるから、文化的な交流があっても不思議ではない。蛇紋岩製や透閃石岩製の磨製石斧は、野尻湖周辺の狩猟民が白馬近辺で原石を採取し、野尻湖周辺で石斧化し、黒曜石の様に交易品としていた疑いがあるという事だ。白馬で採取されていた蛇紋岩は、中部地方では最良の品質だった可能性があるからでもある。狩猟民が海獣の皮革を入手する為には、漁民が欲しがる商品が必要だっただろう。

D2海洋漁民は、オホーツク海沿岸から東シナ海まで船で遊動し、季節に応じた漁獲を得たり海獣を捕獲したりしながら、沖縄や対岸の台湾平原にいた栽培民から海産物の代わりにアサなどの栽培資源を獲得し、サハリンやシベリアの狩猟民から、塩や黒曜石の尖頭器の代償として毛皮などを得ていたと考えられる。すべての漁民が遊動していたわけではなく、一部は定住していたかもしれないが、D2海洋漁民の痕跡は全て、海面上昇によって海底に沈んだから、集落跡が発掘されることはない。

17千年前から海面上昇が目立ち始め、沖縄の対岸にあった大陸が水没し始めると、大陸の岬にいたO3a2aO2a1O2b1C1は洪水が頻発し始めた大陸を捨て、D2の船で沖縄に退避した。

 海面上昇が更に進み、沖縄が狭くなり始めた15千年前に、急速に温暖化して九州も堅果類が栽培できる気候になったので、沖縄に移住していた堅果類栽培民の一部が、D2の船で九州に渡った。しかし再び寒冷なヤンガードリアス期になり、九州に上陸した堅果類栽培民は、九州の南端に逼塞させられた。しかし日本列島では、ヤンガードリアス期が終了する以前の12000年前頃から、土器や石鏃が発掘され始めるから、寒冷なヤンガードリアス期であっても、栽培文化は日本列島に浸透していた。縄文人は九州の南端に逼塞しながらも、栽培活動を行っていたからだろう。

ヤンガードリアス期を乗り切った堅果類栽培民は、温暖化が急速に進んだ縄文時代早期~前期に本州に進出し、C1は温暖な東海地方まで拡散した。O2b1は本州の北端にある青森まで北上したが、津軽海峡は超えなかった。温暖な気候に恵まれた縄文時代前期~中期には、D2も増えたが、それ以上の増加率でO2b1が増え、西日本ではD2と人口的に拮抗した。内陸にある縄文遺跡は、すべてO2b1の集落跡だったと想定される。漁民だったD2の住居は海岸にあり、住居跡が発掘される事は殆どないが、現在のO2b1の人口が、D2の人口を超えていない事は、縄文時代の最大民族は漁民であり、縄文時代の主要カロリー源は海産物だった事を示す。

O2b1が、三内丸山の様な寒冷な東北の北端まで拡散したのは、D2との交易で海産物を得る事が出来たからだろう。但し通婚が進んで栽培文化を身に着けてしまった漁民は、早期には土器や麻を自給する事が出来る様になった。その状態が定着した縄文時代前期になると、栽培民が海産物を得る為に漁民に提供する物産は、石製装飾品や矢尻・磨製石斧などの高度な手工業品に変わり、漁民はそれを海外に持ち出して文化的な優位性を誇り、多数の女性を海外から招聘した。縄文時代後期以降、栽培民は穀物栽培地を求めて西南に移住し、漁民も運命共同体の一員として一緒に移住した。その移住過程で、栽培民と漁労民の民族的な垣根が低くなり、生業と遺伝子の混濁が発生し、D2O2b1などの栽培民のY遺伝子分布は、固定化されたと推測される。それ故に農耕が盛んになって農民人口が増えても、D2遺伝子優位の遺伝子分布が日本列島で固着され、現在に至っていると考えられる。その固着した分布が、下左図の「縄文時代中期~弥生時代」の分布になる。固着したと言っても、民族が完全にマージされたわけではないから、D2比率はもう少し高かった可能性が高い。

 

寒冷期だった弥生時代末期から古墳時代に、華北の漢族だったO3a2c1系とO1aの農業が立ち行かなくなり、倭人の船で日本列島に移民した。寒冷化による移民は、弥生時代末期から古墳時代中期までの300年間続き、その間に100万人以上が流入した。新選姓氏録の漢系の中で、秦末の亡命者で始皇帝の子孫だと主張する秦氏以外の、仰々しい出自を主張する漢系帰化人は、日本に来ても一族の秩序を保って生活していた、渤海湾沿岸の漢民族だった。全てがその様な移民だったのではなく、漢書や魏志倭人伝に記された様に、生口(商品)として授受された移民もいた。

飛鳥時代に唐に滅ぼされ、日本に亡命して来た高句麗人も、渤海湾沿岸の漢民族と、同じ遺伝子分布だったと想定される。高句麗は長らく倭と対立していたから、平時の移民は殆どなく、亡国時の亡命者が主体だったと考えられる。短期間の移住だったから、数万人程度の移住だったと想定されるが、元々高句麗の人口は数十万人程度で、ツングース系民族の労働者や傭兵を多数含んでいたから、主要な高句麗人は皆、日本列島に来てしまったかもしれない。魏志東夷伝によれば、高句麗の人口は3万戸しかなかったが、倭には倭人伝に記された大国である奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸の他に、大小併せて100余国あり、その上に東鯷人の国が20余国あった。

百済の支配者だった濊族は、高句麗に対抗するための傭兵集団だったから、日本に移民させる理由はなかった。百済には倭との確執があり、百済滅亡時に支配者だった濊族は、倭に亡命しなかったと推測される。O2bは、倭人と親和的だった韓族の遺伝子で、新選姓氏録に記載されている百済系移民の大半は、倭人と親和的だった韓族だった可能性が高い。百済が馬韓を支配していたのは、古墳時代末期から飛鳥時代の150年程であり、新選姓氏録で百済に分類されている氏族の一部は、百済が馬韓を支配していなかった古墳時代前期の移民だから、倭が支配していた馬韓の韓族土豪として、王を名乗っても不自然な事ではない。

飛鳥時代の高句麗からの亡命者を最後に、海外からの移住はなくなり、日本人の遺伝子分布は固定化された。

 

1-5、沖縄に渡った海洋縄文人は、本州の何処から渡ったのか

この論文には、D2の細分化した分布も記載されている。

沖縄にはD2b1/-M125*があり、西日本には居ないから、沖縄に渡航した海洋縄文人は、東海地方を含む東日本の海洋縄文人だった事が分かる。この事実は、(10)縄文時代/活動期の項で検証した、籠の編み方の地域性から考察すると、沖縄の海洋民は関東出自になると想定した事と合致する。但し関東や名古屋と比べると、沖縄にはD2b*が多くD2aが少ないから、このグラフにはない北陸や山陰の縄文人も、沖縄に渡航した可能性が高い。D2b1/-M125*が西日本に欠落しているのは、その割合が少ない事と併せて考えると、比較的最近の変異遺伝子だったからだと考えられる。最近とは言っても、縄文時代前期頃の事ではあるが。

但しD2b1/-M125*の分布が関西に欠けている事は、原倭人が縄文時代後期に関東から大阪湾岸や北九州に移住し、その機縁から倭と呼ばれた政策集団を結成した事と、一見矛盾する様に見える。その説明として考えられるのは、大阪湾岸や北九州にも元々多数の漁民がいたから、関東から移住した原倭人は少数派だったという事だろう。倭人時代が始まる頃、大陸との交易を組織的に行う都合上、関東からの移住者が倭人連盟を主導し、各国の王や貴族階級を構成したと想定すれば、上記の矛盾は解消する。倭国連合は、地域集団の自発的な同盟ではなく、縄文時代の早い時期から交易を主導していた関東から、各地に派遣された海洋縄文人がいて、彼らが宝貝交易に参加する地域の漁民団を募り、倭人連合が結成されると、各国の交易集団の指導者になった事になる。倭国王家の始祖が、鹿児島県の笠沙の御崎を開祖の地としている事は、彼らも関東から派遣された形の、海洋縄文人集団だった事になる。派遣と自発的な出張に区別がなかったのは、漁民的な能力主義の結果であり、利益が出せる交易ネタを探す事が、彼らの使命だったと推測される。

 

2、 Y遺伝子の世界的な拡散

2-1 アフリカ起源説の落とし穴

人類の祖先は68万年前にアフリカを脱出し、先ずユーラシア大陸に拡散し、氷河時代末期にアメリカ大陸に拡散した。この認識に間違いはないが、現在の分布に収斂する方向に、継続的に移動していたとする発想が根底にあると、誤解を生みやすい。以降その発想を根底にした諸説を「収斂説」と呼ぶ。それに対し、改善した発想を根底にする仮説を「氷期閉塞説」と呼ぶ。「氷期閉塞説」に従うと、寒冷化していた氷期には、人類は温暖な生息地に追い込まれていたと考える事になる。旧石器時代は氷期で寒冷だったが、一様に寒冷だったのではなく、寒暖の大きな振幅の中で徐々に寒冷化が厳しくなり、氷期の末期に最も寒冷化した。従って旧石器時代は、寒冷化に向かって気候が収斂していた時代であり、新石器時代は、最も寒冷だった氷期末の長い冬が終了し、突然温暖化して気候が安定した時代だったと考える事ができる。そこまでは「収斂説」と「氷期閉塞説」には差がないが、「氷期閉塞説」では、旧石器時代には寒冷化した気候や地形に適合した人口の収斂があり、温暖化して降雨量も増えた新石器時代とは、異なる発展史があったと考える立場になる。農耕の進化についても、旧石器時代には氷期に適応した栽培があり、新石器時代の農耕はその延長線上にあると考える事になる。新石器時代の温暖化により、地球上の殆どの地域に人類が生息できる様になり、旧石器時代の栽培文明が拡散したから、現在の様に農民が分布していると考える事になる。

収斂説では、旧石器時代は狩猟だけに留まった、停滞的な社会だったと結論付けるが、氷期閉塞説では、人類は氷期に生存可能地に追い込まれたが、それぞれの地域で文化を進化させ続けたから、旧石器時代から新石器時代への進化は継続的だったが、旧石器時代人の生存痕跡は、殆ど水没して失われたと考える。氷期閉塞説によれば、失われた遺跡は復元できないから、歴史の復元は思索的にならざるを得ない。それは一見、事実に基づかない復元の様に見えるが、現在の歴史観では多分に含む矛盾を明快に解決できるから、長短それぞれと言えるだろう。論理性に傾斜する必要があり、極めてプロパガンダに弱いが、研究者が心理を探求する意欲に燃えていれば、自然科学の様に学会を構成し、真理を追究する事ができるだろう。それを都合が悪い事態の進行と捉える勢力が、現在の歴史学会を支配しているから、この状況が打破されない限り、人類の歴史が正しく評価される道は、閉ざされたまま放置され続けるだろう。

氷期の閉塞地は何処だったのか、先ず地理学的に探す必要がある。

後氷期の海面上昇により、栽培民と漁民の遺跡が消滅した、の項で説明した様に、氷期の最寒冷期に西ユーラシアは氷河に覆われ、南部が僅かに永久凍土地帯になっていたから、そこには人類は殆ど生息していなかった。中央ユーラシアの北部も極めて寒冷で、中央ユーラシアの南部は乾燥して砂漠化していたから、中央ユーラシアにも人類は殆ど生息していなかった。僅かな数の人類が生息していたとしても、新石器時代の人口爆発の中でその痕跡はかき消されたから、人類史として解釈する意味はない。

例えて言えば、西欧人が入植した後のUSAの歴史を研究する者が、アメリカインディアンの遺跡を幾ら研究しても、その成果と目的はリンクしない事と同じなのだ。西欧に逼塞していた西欧人が、どの様にUSAに拡散してどの様な政治形態を採り、どの様な文化を発展させたのか研究する事が、現在のUSAを理解する為に必要である様に、旧石器時代に特定地域に逼塞しながら、文化を進化させて人口を増加させていた人々の活動を理解し、その人達の中央ユーラシアや西ユーラシアへの拡散を理解する事が、人類史の研究には重要なのだ。現在ユーラシア大陸で生活している殆どの人類にとっての西欧は、氷期でも温暖な気候が維持されていた、東南アジアだったのだから。

しかし東南アジは、後氷期の温暖化によって熱帯雨林に覆われる地域になり、大平原だったスンダランドは、海面上昇によって海中に沈んでしまった。従って「氷期閉塞説」に従えば、文明の揺籃期の実態は、考古学的な発掘からは得られない事になる。文化の痕跡は、人類がそこから持ち出した栽培種と、後氷期に現在の大陸上に拡散した人類の足跡しかないが、後氷期前半のその足跡も、海面の上昇によって海洋に飲み込まれてしまったから、海面上昇が終了した後氷期後半の足跡から、漸く人類の足跡を探求できる。海面上昇が終了した後氷期後半の開始期は、8千年前になるが、人類の遺跡はその頃から急速に豊かになり、この仮説が正しい事を示唆している。逆に言えば、それ以前の人類の足跡は、発掘実績の額面通りに評価する事はできないのだ。文明の先端は、海底にあるのだから。

以下ではその僅かな足跡を追跡すると同時に、東南アジア程ではないが、特記すべき閉塞地が東南アジア以外にもあったので、そこの様子も概観する。漁民集団だった原日本人は、その小さな閉塞地の一つだった、日本列島にいた。日本文明の特殊性は、そこに起源があったからだと言えるだろう。

ここで再度、Y遺伝子の系統樹を確認する必要がある。

Y遺伝子系統樹

 

Y遺伝子CnDEGHIJKが、具体的な逼塞地を示している。Fの系統は皆東アジア南部に逼塞していたが、温暖化した後氷期に逼塞地から北に拡散し、欧州まで到達する複雑な流れが発生した。その結果としての遺伝子分布が下の地図に記されているが、数値解析に習熟していない人は、この地図から何らかの意味を見出す事は出来ないだろう。しかし数値解析に習熟している人に「氷期閉塞説」を提示すれば、人種移動の痕跡を下図から読み取る事ができるだろう。

Fの子孫は唯一の農耕民族として、ユーラシア大陸を席巻しただけでなく、ベーリング海峡を越えてアメリカ大陸にも拡散した。後氷期になった直後のその複雑な流れを解析するためには、ミトコンドリア遺伝子を含めた詳細な検証が必要になるから、ここでは概論の説明に留め、詳細な検証はミトコンドリア遺伝子の章で行う。小さな逼塞地に関しては、生業を維持していたY遺伝子の痕跡に注目する必要があるので、この章で扱う。

YDNA

 

2-2 小さな逼塞地

2-2-1 地中海沿岸からアフリカ大陸に分布しているY遺伝子E

Y遺伝子Eは、地中海沿岸に逼塞していた人々の痕跡だと推測される。地中海は氷期にも氷結する事なく、漁業資源を提供し続けていたから、漁民集団が生活していた可能性が高い。ナイル川は氷期の最寒冷期でも、熱帯地方から豊かな水を流し続けていた筈だから、河川漁民から海洋漁民に発展する環境を備えていた。Y遺伝子Eの出アフリカに関しては、アラビア半島南端を経由してアフリカを離れたとされるY遺伝子CFの人達と、一緒にアフリカを出たとは限らない。東地中海の海岸にあった遺跡は、海面上昇によって破壊され、発掘されないのだから、永久に判定できないだろう。

Y遺伝子CFの人達は、アフリカを出てから海岸を生活の場としてインド洋沿岸を周回し、東南アジアに達したと考えられている。塩分の補給だけでなく、貝類や海洋性の動物を、海岸で捕獲できたからだろう。その理屈を援用すれば、地中海沿岸にも人口の集積があった事になる。氷期でも地中海の海岸にはある程度の植生が期待出来たから、Y遺伝子CFの人達が移動したアラビア海沿岸部より、内陸は良質な環境だったと推測される。中緯度高圧帯は現在より南下していたから、アフリカ大陸北岸にも降雨があり、人類が生存できる環境を提供していただろう。

5万~4万年に氷期としては温暖な気候になり、欧州南部で人口が増え、オーリニャック文化と呼ばれる遺跡が多数発掘される状態になった。しかし2万年前の最寒冷期には、欧州は人が住めない極寒の地になったから、Y遺伝子Eの人々は、アフリカ側に移動していたと想定される。その移動の状況を想定する場合、地中海北岸の人々は死に絶え、地中海東岸を周回してアフリカに逃れた少数の者達と、元々アフリカにいた人々が生き残ったと想定するのか、日本列島に似た気候だった地中海沿岸にも、海獣の捕獲や漁労によって生活していた人が少なからずいたのであれば、彼らの船で幅10kmのジブラルタル海峡を渡ったり、60km程に近付いていたシシリアとチュニジアの海を越えたりして、欧州とアフリカを往来していたかもしれない。その渡航は原日本人が沖縄と台湾平原を往復したり、伊豆から神津島に渡ったりした事に比べれば、遥かに容易な行為だった。日本列島の漁民事情と同様に、地中海沿岸の海洋性民族の挙動も、遺跡が残っていないから何も分からないが、原日本人と同様に、船を操って地中海を南北に移動していた海洋民がいたと考えた方が、現実的ではなかろうか。チュニジアまでの地中海南岸と、イタリア以東の地中海北岸は、プレート境界の造山帯だから、日本列島で実現した湖沼漁民から海洋漁民に転換するプロセスが、地中海沿岸にも存在したとしても、不思議な事ではないからだ。

出典は Wikipedia Aurignacian culture

 

Y遺伝子Fの子孫達が後氷期に再びオリエントに戻り、農耕民として定着した時、東アジとの類似性の視点で推測すれば、彼らは配偶者を栽培民の女性に変え、しかし栽培民には転向せずに狩猟漁労民であり続けながら、交易活動に従事したと想定される。その結果として、エジプトや東地中海での交易活動の初期の活性化は、彼らが支えた可能性が高いという結論になる。大西洋岸にいたヴァイキングなどの漁民は、その発祥を厚い氷床に覆われた旧石器時代に遡る事はできない。地中海沿岸から黒海周辺にまで北上したY遺伝子Eと、西進してきた栽培民系のR1が接触し、オーストロネシア語族民が倭人から造船や航海術を学んだ様に、海洋技術を学んだ後に大西洋沿岸に進出し、海洋民族になったと想定される。オーストロネシア語族民の様に、弟子の方が師匠を凌ぎ、荒波や流氷に悩まされながら、アイスランドやアメリカ大陸にも進出したというシナリオが想定される。

フェニキア人やギリシャ人の海洋性も、Y遺伝子Eの石器時代からの海洋性があり、その伝統をY遺伝子Rが継承し、海洋民族に発展した可能性が高い。オーストロネシア語族と彼らの接触は、2千年前には確実にあったが、縄文時代に遡る可能性が高い。製銅、製鉄技術は、オーストロネシア語族民が東アジアで最も先進的だった可能性が高く、彼らがその様な技術を得る傍ら、フェニキア人やギリシャ人に、地球は丸いと言う知識を与えたのではなかろうか。地球は丸いと言う知識は、地球を半周以上航行していたオーストロネシア語族民にとって、常識とも言える知識だった筈だが、地中海世界で活動していたフェニキア人やギリシャ人にとっては、必ずしも必要な知識ではなかった筈だから。

 

2-2-2 マンモスハンターになったY遺伝子C32014年版以降はC2

現在Y遺伝子C3が最も濃密に分布しているのは、モンゴル人、ツングース系民族、シベリアの少数民族で、彼らの祖先は寒冷な氷期のシベリアで、狩猟を行って生活していた。氷期のシベリアには、夏季に草原になる場所があり、そこに大型の草食動物が繁殖していた。寒冷な気候は人類の生存には厳しかったが、天然の冷凍庫として獣肉の保存を可能にし、天日で干し肉に加工する事もできたから、シベリアを食料事情が豊かな逼塞地にしたと想定される。

C3が何時からマンモスハンターだったのか良く分からないが、5万年以上前だったと想定される。ミトコンドリア遺伝子の系譜も併せて考えると、アフリカから出て間もなく、しかしCの変異が形成された後に、他のCFと別れて北上し、シベリアに到達したと推測される。彼らは旧石器時代の内陸で生き抜いた、唯一の民族だった。他にも内陸に拡散した人々はいたが、彼らは氷期に絶滅したか、新石器時代に栽培民によって淘汰された。シベリアの寒冷な気候が、内陸で人類を生き延びさせた唯一の環境だった事は、旧石器時代の内陸での生活が、如何に厳しいものだったかを示している。C3の遺跡だったと考えられるバイカル湖畔のマリタ遺跡から、トナカイの骨が沢山出るから、彼らがトナカイを食べていた事は間違いない。マンモスの象牙で作った像などが発掘されているが、彼らはマンモスハンターではなく、トナカイを主に食べていたと推測する向きもある。しかしマンモスは狩っても遺体を運ぶ事は出来ず、肉片にして持ち帰る事しか出来ないから、居住地にマンモスの骨がなくても、マンモスを狩ってはいなかったとは言えない。トナカイは敏捷で樹木の皮も食べ、季節に応じて長距離移動する動物だから、人もそれを追って移動したのだろうが、冬季の見通しの良い平原で敏捷なトナカイを狩る事は、槍や棍棒しかなかった時代には難しかった可能性が高い。投石器があれば有効な狩猟具になった筈だが、その狩猟具は革紐でしかないから、発掘される事はないだろう。マンモスが分厚い皮膚を持ち、谷間で疑似的に冬眠する動物だったのであれば、冬季はマンモスの肉で凌ぐ事ができただろう。棍棒に歯を埋めた細石刃は、平原でトナカイを狩るには不向きだが、疑似冬眠中で動きが鈍くなったマンモスを、撲殺する道具として最適だった様に見える。また肉食獣から身を守るためにも、有効な武器だっただろう。

 

2-2-3 日本列島の漁民

日本列島の漁民のY遺伝子Dは、オーリニャック文化を形成したDEから、分岐した遺伝子だったと想定される。言い換えれば、オーリニャック文化を形成したDEの中で、氷期の地中海沿岸で生き残ったのがEであり、シベリアに拡散した後に生き残ったのが、Dだった事になる。C3の様に寒冷な気候に順応したのではなく、温暖期にシベリアに進出した人達だった。しかしシベリアで子孫を遺す事は出来ず、更に東に流浪して沿海州に至り、大陸と陸続きだった樺太と北海道を経て本州に渡り、湖沼で漁労を行って子孫を繁栄させる事に成功した。長い流浪の旅の最中に、目的地があって移動していた筈はないから、全方位に拡散しながら、移動方向とトレースされる方向に拡散した少数者だけが、最寒冷期を乗り切った事になる。

彼らが漁労をした痕跡は、関東平野、群馬平坦部、沼津、北九州、西都原で、濃密に発見される局部磨製石器になる。磨製石器は樹木を伐採する石器だから、湖沼漁労のために仕掛けを作ったり筏を作ったりする事に、局部磨製石器を使ったと想定される。上記の場所は、旧石器時代に大きな湖が存在していたと想定される場所になる。

3万年前から寒冷化が厳しくなり、湖沼が氷結したり、魚の繁殖が不十分になったりし始めたから、湖沼で蓄積した造船・操船技術を使って海洋に進出し、海洋漁民になったと想定される。神津島に渡って黒曜石を採取し、沖縄に渡って麻などの植物資源を入手し、最寒冷期だった2万年前には、遠距離地域と交易を行っていたと考えられる。交易者として出向いたのではなく、海洋民族として遊動しながら、交換によって物資を得ていたと想定される。

漁民の遺跡は皆、海面上昇によって水没してしまったから、日本列島で発見される3万年前以降の遺跡は、シベリアから拡散して来たC3狩猟民の遺跡だった可能性が高い。それらがC3D2いずれの遺跡だったかに拘わらず、旧石器時代の遺跡密度が非常に高いのは、漁民との交易の成果だったと推測される。原日本人が漁民になった後も、シベリアや沿海州にも、東シナ海沿岸にもD2の痕跡を遺さなかった事は、漁民にとって日本列島が最適地だった事を示す。旧石器時代や縄文時代の遺跡の多さが、その根拠を示しているが、その理由は推測するしかない。火山列島である故に、蛇紋岩や黒曜石などの石材が豊富だった事、海流の関係で海産物が豊富である事は、その理由になるが、それだけで説得性が高いとは言えない。

縄文時代になってからではあるが、海洋縄文人とオーストロネシア語族民は、台湾を境界に南北の海域を、明確にテリトリー分けしていた節が見える。海洋縄文人は原日本人の直系の子孫であり、オーストロネシア語族民はその孫弟子だったから、彼らの習性から旧石器時代を推測することも出来るだろう。狩猟民や漁労民には、民族的な縄張り意識が明確にあった可能性が高い事が、貧弱な理由を補強する様に見える。内陸にC3狩猟民がいたが、彼らとも良好な人間関係で住み分けていたから、その一旦できた関係に関しても、壊したり浮気したりする事に積極的ではなかったのだろう。氷期の厳しい環境を生き残るために、現代人には想像できない程の深い人情を、旧石器時代の狩猟漁労民が持っていたとしても、不思議な事ではない。

その論旨で紐解くと、日本人のY遺伝子D2の類縁者として、チベット人に異種のDが多数いる。彼らはシベリアで原日本人と別れ、大陸に残留した人々ではあるが、シベリアから南下して雲南の山中で生活していたと想定される。南下した高地であれば、シベリアと類似した気候環境が得られたから、シベリアのC3に似た文化を以て生活する事が可能になり、2万年前の最寒冷期を生き延びたと推測される。雲南・チベットにはC3は殆どなく、モンゴル以北にDが殆ど居ない事は、チベット人の祖先になったDも、旧石器時代のC3のテリトリーを避け、類似の寒冷な気候帯だったユーラシア南部の標高が高い山岳地に拡散し、テリトリー分けした疑いがある。

 

2-2-4 東南アジアの栽培民

アフリカを出てインド洋を周回した人類は、何処かでCFに分岐し、Cはシベリアやオーストラリアなどに拡散したが、Fは東南アジアに留まって人口を爆発させ、多数の変異を生んだ。東南アジアに留まったCは殆ど残っていないが、Fだけが爆発的に増えたのは、気候条件だけでは説明できないから、農耕に関わる特別な技能を身に着けたと考えるべきだ。新石器時代に温暖化すると、Fの子孫達がユーラシア大陸の各処に拡散したが、何処に拡散したのか詳細にチェックすると、氷期末に東南アジアの何処に誰がいたのか類推できる。

パプアニューギニアなどの熱帯の、スンダランド東端の島嶼に取り残されたKは、旧石器時代にスンダランド平坦部でイモ栽培に成功したから、気候が温暖化してもそのまま残った人達だったと推測される。進化に取り残された人達の様に見えるが、旧石器時代末期には最も優れたイモ栽培者だったから、温暖化して降雨も増えて樹木が繁茂しても、赤道直下に残る事ができたのではなかろうか。

そのKを祖先とするOは、新石器時代に東アジア全域に拡散したから、旧石器時代末期には台湾平原を中心に散在していたと推測される。Oは3万年前頃にKから分離したNOの子孫だから、イモ栽培に成功したKは、急速に人口を増加させた事になる。OKの子孫の集団から離れて北上し、台湾平原に至って人口を増加させたと想定される。

2万年前にはOは多数の民族に分裂し、O1は台湾を含む山間部で狩猟に専念し、O2aは台湾平原南部の沿海部で、河川漁労を行いながら稲の原生種を栽培し、O2bは台湾平原北部の沿海部で、河川漁労を行いながら堅果類を栽培していたと想定される。O3aは台湾平原のやや乾燥した内陸部で、草原の草食動物を狩りながら、キビとアワの原生種を栽培していたと想定される。O1O2aの分岐がそれほど深くないから、それらの人口が増えたのは稲作民になってからで、2万年前の人口は少なかったと推測される。O2bの人口も、同様の理由で更に少なかったと考えられが、O3aの多数の分岐はこの頃形成され、それが現在に遺されていると考えられる。

同じ狩猟民だったO1と比較し、O3aの桁違いの分岐の多さ、即ち当時の人口の多さの理由を探す過程で、狩猟技術に着目すれば、アサの栽培に成功した女性を伴侶とし、弓を使い始めていた事が原因だった事になる。アサの栽培が東アジアで一般化していたのであれば、キビとアワの原生種を栽培し、食料の安定に重要な役割を果たしていた事が、O3の人口増大に大きく寄与した事になる。

原縄文人はアサと弓の存在を知っていたから、16,500年前の津軽半島の遺跡から、矢尻が発掘されたと想定されるから、アサと弓は東アジアでは、2万年前頃に普及した技術だった可能性があるが、キビとアワの栽培は、比較的乾燥した草原でしか出来なかったから、沿海部には普及しなかった可能性が高い。従って確度はそれほど高くないが、O3が浙江省辺りで狩猟を行い、女性がキビを栽培していた事が、O3aだけが人口を増やした理由だったと想定する事ができる。

O2bが開発した土器技術は、環境に左右される事無く製作出来るが、温暖期の開始と共に北方に拡散したと想定されるミトコンドリア遺伝子Dが、C3と共に旧石器時代末期に日本列島に来たが、その痕跡と考えられる細石刃に土器は随伴していないから、土器技術が堅果類栽培民以外の民族に拡散したのは、東アジアといえどもやや遅れがあり、12,000年前頃だったと想定される。その頃の平底の土器がシベリアから発掘され、煮炊きとは別の用途として拡散した疑いを感じさせる。

南シナ海北部は氷期も海だったから、スンダランドにいた人々が、後氷期の海面上昇に追われて北上する際の大きな障害になった。南シナ海の西にあるインドシナ半島を北上すると、その北にある貴州、雲南、ヒマラヤの高原が障害になり、それらを避けて北上するためには一旦インド方面、つまり西に進むしかなかった。東アジアでは北方に平坦な大陸があったから北上したが、スンダランドやインドシナ半島にいた人々にとっては、当初は西に進む事が未開の大陸に進む事になり、降雨が増えて温暖湿潤な気候帯になったインドやベンガル湾が、彼らにとって最初の新天地になった。しかしインダス川を渡ると行く手を山脈に阻まれ、海岸に沿って西に向かった人と、現在のカブールを抜けてカスピ海西部のトルキスタンの平原に抜けた人に別れた。異なったルートを採った人々それぞれは、氷期の東南アジアのどの気候帯にいたのかに応じての、選択だったと推測される。言い換えれば、インドを抜ける際に、海岸や沖積地を好んだ栽培系の人々と、山際の山岳地に展開していた比較的寒冷な丘陵地で、狩猟を中心に生業を展開していた人々の、それぞれの選択だったと想定される。

トルキスタンに拡散したPQNは、旧石器時代には比較的気候が寒冷で乾燥していた、現在のバングラデシュ辺りにいたから、トルキスタンから更に北方のC3のテリトリーまで北上し、ヤンガードリアス期の寒冷化でC3の狩猟文化を吸収し、最終的に北方の狩猟民になったが、QC3と共にアメリカ大陸に渡った後、再び農耕民族になったから、農耕民的な文化要素は失っていなかった事になる。

旧石器時代のRIはその南の、当時は標高200300mの温帯的な高原で、比較的温暖だった現在のタイ辺りにいたと想定され、トルキスタンに拡散した後、一部はC3の文化圏まで北上して狩猟民文化に同化し、トルコ系民族になったと想定される。RIの中軸は中央アジアで狩猟を行いながら穀物の栽培文化を高め、東に拡散して仰韶文化を生み、中央アジアで増殖してアリーア系民族と呼ばれ、欧州にも拡散して西欧人を形成した。彼らが羊などを家畜化する文化を成長させ、その中から遊牧民文化が生まれ、C3にも伝播したと想定される。

インドから海岸に沿ってオリエント方面に拡散したJは、最も沖積地の穀物栽培に拘った人々だったから、旧石器時代にも、水没したスンダランドの平原部にいた人々だったと想定される。旧石器時代に既に、或る程度高度な農耕技術を持っていたからだろう。新石器時代に先陣を切って麦栽培民になった経緯は、Jを特徴付ける遺伝子変異の多さと、さほど深くない分岐から考えると、東アジアで稲作を成功させたO2aと、類似した経過を辿った可能性が高い。麦を栽培化したのは女性だったから、彼らも遊動する狩猟民ではなく河川漁労民として、彼女達への援助を惜しまなかったから、戦略が成功した民族として人口を急膨張させた事になる。その成功の基底には、旧石器時代に育んだ農耕の技術的な基幹があったからだと想定される。

旧石器時代に麦栽培の技術が進化していた事は、RIも麦栽培を行っていた事を証拠として、確度が高い仮説になる。異なる民族が麦を栽培していた事は、東アジアの稲作がO2aだけで進化したとの想定とは、対極的な関係性が見られるからだ。旧石器時代に麦の耐寒品種化が進み、タイやビルマの高地まで北上していたから、RIも麦栽培を抱えて北上したと言えるだろう。Jは農耕民として低緯度地域を西進し、アラビア海北東岸で麦の栽培化に成功し、オリエントの麦栽培を開花させたが、RIは麦栽培にそこまで成功していなかったから、仰韶文化期にはアワも栽培し、結果的に麦も栽培するアワ栽培民になった。

FHLがインドに留まったのは、降雨が多いインドでしか栽培出来ない穀物種を栽培していたか、新石器時代初頭の狩猟技術に未熟性があったり、独自の栽培品種の獲得に失敗したりしていたから、人口の膨張圧力が弱く、インドから更に拡散しなかったからだと想定される。降雨が多いインドでしか栽培出来ない穀物種としては、インディカ米がその候補になり、遺伝子としてはHLがその候補になる。Hはパキスタンに多いから、Hが麦栽培民としてインダス文明を形成したと想定すれば、Lが有力候補になり、アーリア系民族の南下によって根拠地を追われ、インド南部に逼塞させられた事になる。

オリエントが新石器時代のユーラシア文明の中心になり、欧州が歴史時代の文明中心になったが、それらの文明を創造した人達は、インドで高い人口膨張圧力を生み、ユーラシアのより広い世界に拡散した人達だった。その膨張圧力こそが、ユーラシア文明を生んだ根源的な活力だったと言えるだろう。その膨張圧力は、豊かな食料生産力に支えられた人口の膨張が、主要な要素だった事は間違いないだろうが、西進を山岳地に阻まれたインダス川流域からの膨張だった事を考慮すれば、人口膨張だけではない活力が、民族性として形成されていた可能性も高い。新石器時代の拡散は、先ず男性の広域拡散から始まり、栽培者としての女性がその中の、栽培適地に拡散して行ったとモデル化する事ができれば、民族の膨張圧力は、男性が先導した文化だった事になる。民族を形成したのは男性の生業意識だったとすれば、西欧人を形成しているRは、最も活動的な民族を形成した遺伝子だった事になる。

 

3、ミトコンドリア遺伝子の世界的な拡散

細胞内に沢山あるミトコンドリアは、細胞とは別の遺伝子を持っている。精子は受精時に細胞の遺伝子だけを卵子に注入し、子供は卵子のミトコンドリアを受け継ぐので、男女に関係なく子供は母親のミトコンドリア遺伝子を受け継ぐ。ミトコンドリアは遺伝子構成が単純なので、発掘遺体からも遺伝子を検出する事が出来る。

ミトコンドリア遺伝子は単純な構成なので、Y遺伝子程には変異の細分化が出来ない。科学の進化によって詳細な遺伝子分析が可能になった現在、分析をとことん詳細化すれば、いつかは何らかの答えが出るのではないかと期待する、あまり賢くない人々が無視し始め、その風潮が蔓延して軽視され始めている。女性は民族的な枠を超えて拡散したので、民族の移動を追跡するには向かないという制約が、別の側面からその風潮を強めている。新石器時代の女性の拡散は、暴力的な略奪に関係していたと恐れる人々もかなり多いと考えられ、彼らは暴力的なフェミニズムからの攻勢を恐れている様に見える。

以上の様な理由で、ミトコンドリア遺伝子の解析はY遺伝子程の熱意をもって行われていないが、古人骨の遺伝子解析はミトコンドリア遺伝子しかできない場合が多いので、古代人の移動を追跡する道具としては有効になる。しかしミトコンドリア遺伝子の拡散を追跡する事は、民族移動を追跡できるY遺伝子の解析程には、価値がないと考える人が多そうだ。民族移動はY遺伝子が実施し、民族文化もY遺伝子と共に移動・拡散し、民族に取り込まれた女性は略奪に依る移動だったのであれば、その方法論には妥当性がある事になるが、日本列島を中心に東アジアのミトコンドリア遺伝子の移動を解析すると、全く違った情景が浮かび上がるから、Y遺伝子とは別にミトコンドリア遺伝子を解析する事は、重要な意味を持っている。

新石器時代の最大の技術革新は農業革命であり、新石器時代前半の農耕文化を支えていたのは女性文化だったから、ミトコンドリア遺伝子の拡散は、栽培文化の拡散を示す事になり、非常に重要な解析要素になる。農耕民族の形成をテーマにするのであれば、ミトコンドリア遺伝子の拡散を追跡した方が、有益な結果が生まれる可能性がある。狩猟や漁労技術は男性優位の生産形態だから、狩猟・漁労民社会に関しては、Y遺伝子の追及の方が有益である事は誰にも分かるが、狩猟優位から農耕優位に転換した農耕社会の遷移を研究するためには、ミトコンドリア遺伝子の拡散経路を追及する事は、必須の要素になるだろう。実際にミトコンドリア遺伝子の系統を見れば、麦栽培者の遺伝子は特定グループに収斂するから、麦栽培は彼女達が、母から娘に伝えた技術だった事が分かる。そして彼女達は、地中海沿岸の狩猟・漁労民のミトコンドリア遺伝子を置き換えているから、遺伝子的に見れば、彼女達の方が侵略者だったと言えるだろう。言い換えれば新石器時代前半は、かなり女性優位の社会だったと考えられ、頑迷なフェミニストの感情的な攻撃には、十分対抗できると考えられる。

遺伝子の解析技術が進化し、全遺伝子の比較さえ可能になると、包括的な遺伝子比較の方が、民族の移動の解析には高い精度が得られると、怪しげな幻想を持つ人がいるかもしれないが、その考えは間違っていると断言できる。人類の進化は文化の進化であり、文化はそれを共有する民俗の属性であり、石器時代の様な未開社会での文化伝承は、父子や母娘の性別の伝承に限定されていた筈だから、文化の伝承経路を追跡するためには、全遺伝子の比較より性に伴って伝承される遺伝子を追跡する方が、文化の伝搬を解析するには有益な手段になる。具体的に言えば、ある女性が栽培文化を持って狩猟民男性の配偶者になり、その娘に技能を伝承し、その娘が狩猟民男性の配偶者になってその娘に技能を伝承し、それを数世代繰り返せば、その娘のミトコンドリア遺伝子は栽培民の遺伝子だが、その他の遺伝子は狩猟民の遺伝子に限りなく近づいただろう。しかし母から娘に伝えられた栽培民の文化が、確実に娘に伝承され、その文化に優位性があれば、栽培民女性のミトコンドリア遺伝子は、狩猟民の中に急速に拡散した筈だ。その事実を追跡するためには、全遺伝子解析を行うのではなく、ミトコンドリア遺伝子やY遺伝子を、個別に追跡する事が重要になる。仮に遺伝子の詳細解析が可能になって、前掲の狩猟民女性の遺伝子は、99%狩猟民種と共有するものだったとしても、ミトコンドリア遺伝子の痕跡は、栽培文化と狩猟文化の融合を解き明かすカギになるのだ。彼女の遺伝子がほぼ狩猟民の遺伝子だったとして、そこから何が分かると言うのだろうか。

実際に起った事はもう少し複雑だが、縄文人とその子孫の倭人について言えば、旧石器時代の漁民が持っていたミトコンドリア遺伝子は、殆どすべて縄文時代に入れ替わり、大陸の南北から来た非漁民的な女性のミトコンドリア遺伝子になったが、Y遺伝子D2を引き継ぐ父子関係が継続する限り彼らは漁民であり、海洋交易民であり続けた。Y遺伝子以外の遺伝子を幾ら比較しても、彼らが海洋民族だった事は分からないのだ。男性文化を継承する民俗の拡散を扱うためにも、全遺伝子解析ではなく、Y遺伝子の拡散と移動を追跡する事が重要になる。全遺伝子解析は、混成民族の混成割合を査定する事には有効だろうが、文化の融合には優劣関係が大きく左右するから、全遺伝子解析の結果が活用できる分野は、非常に些末的な事象の解釈に限定されると推測される。

ミトコンドリア遺伝子の分類にもアルファベットを使うが、Y遺伝子の分類とは関係がないので、混同しない配慮が必要になる。以下ではY遺伝子D2YD2と記し、ミトコンドリア遺伝子M7amtM7aと記して区別する。ミトコンドリア遺伝子は複雑な拡散をしたので、その全貌を把握する事は困難だから、以下の議論はユーラシア大陸内の拡散に限定する。

左図は「日本人になった先祖たち」篠田謙一著(NHKブックス)に記載されているmtDNAの系統図だが、この図から無前提に彼女達の拡散経路を復元する事は、不可能だろう。

体系的に彼女達の拡散を追跡するためには、幾つかの原則を理解した後、ペアだったY遺伝子群を時代に応じて特定し、彼女達の拡散の軌跡を復元する必要がある。その原則は以下になる。

1、石器時代の男性は、生業を共有する民族を形成していた。

2、石器時代の女性は、民族を超えて自発的に拡散した。

3、東南アジに達した女性は、栽培技術を身に着けた。

    mt-Mmt-Rが、栽培技術を身に着けた。

4、新石器時代前半の栽培技術は、女性の拡散によって移転した。

5、栽培技術は、穀類に限定されない。

6、現在ユーラシア大陸に拡散しているミトコンドリア遺伝子に関しては、Y-C3と一緒にシベリアに向かったmt-Nのサブグループ以外は、すべて旧石器時代に東南アジアにいた遺伝子の子孫になる。

 

 

3-1 シベリア集団

Y-C3と共にシベリアに向かったmt-Nのサブグループは、mt-Amt-N9bmt-Yだった。mt-N9aはそのグループにならず、東南アジアの栽培民になったから、シベリア紀行に出掛けたのはmt-Amt-N9の一部だったと想定される。Y-C3がシベリアに向かったのは、アフリカを出た直後ではなく、mt-Mmt-Nが分岐し、mt-Nからmt-N9が分岐した後だった事になる。しかしY-Dがシベリアに到達した時には、Y-C3mt-N9がシベリアにいたから、原日本人だったY-D2mt-N9aとペアを組んで、4万年前に日本列島に辿り着いた事から逆算すると、Y-C3のシベリア紀行は5万年ほど前だった事になる。日本のmtDNAの項で説明するが、北海道や東北の縄文人からmt-Aが検出されていない事は、シベリアのC3も複数の民族に別れ、mt-Aを配偶者とする民族と、mt-N9を配偶者とする民族に別れていた事を示唆するが、現在のmt-Amt-N9の分布から当時のテリトリーを推測する事は危険だ。

 

3-2 東アジア集団

Y遺伝子と同様に、温暖化によって北上した位置から、東南アジアの何処にいたのか推測する事が出来る。

 mt-M7については、以下のイメージ図が篠田氏から提起されている。

mt-M7が氷河時代の台湾平原にいたから、温暖化による海面上昇によって各地に拡散し、現在の分岐と分布が生じたと想定される。mt-M7aは、Y-O2b1と一緒に沖縄を経由して日本列島に渡った。篠田氏が、「mt-M7aは沖縄で最も多様性を示し、沖縄がmt-M7aの発祥地の様に見える」と記している事は、旧石器時代末期にY-O2b1mt-M7aが沖縄に一旦定着し、その一部が九州に再上陸した想定と整合する。

 日本人の祖先になった他のミトコンドリア遺伝子に関して篠田氏は、

mt-Bmt-Fは東アジア南部~東南アジアに多い

mt-Gはオホーツク海の沿岸に多い

mt-M10はシベリアのバイカル湖周辺に多い

mt-M8aは漢民族起原

mt-Dは東アジア全体に広がっている、と指摘している。

これらのミトコンドリア遺伝子を持った女性が、台湾平原やスンダランド東部にいた事になる。

 スンダランド西部からインドを経て、西や北に拡散したミトコンドリア遺伝子を追跡する前に、栽培系の女性としては異常に北に拡散したmt-M系の、mt-D mt-Gmt-M8の娘のmt-Cmt-M10について、考えてみる必要がある。彼女達は皆、元は東南アジアにいた栽培系の女性だったが、旧石器時代にY-Oa系と一緒に台湾平原に北上し、台湾平原の最も北に分布していたと考えられる。

15千年前に急速に温暖化すると、台湾平原にいた上記の女性達は、浙江省辺りからY-Oa系と一緒に、モンゴル高原や満州平原辺りに北上したと想定される。そこでY-C3狩猟民に出会い、彼らの狩猟の技量に惚れ込んで狩猟民社会に拡散し、狩猟民社会に栽培技術を持ちこんだと想定される。具体的にどの様な植物種を持ち込んだのか分からないが、彼女達の逞しい生命力は狩猟民社会に歓迎され、mt-D mt-Gmt-M10mt-Cが狩猟民に拡散し、mt-Amt-Ymt-N9を置き換えた。栽培民女性の遺伝子が、狩猟民の女性の遺伝子であるかの様な状態になったのは、栽培民からその遺伝子が失われたからだという事になる。その過程を推測すると、彼女達の元々のペアだったY-O3aの運が良ければ、更に高度な栽培技術を持って、後の時代に北上して来た別の遺伝子を持つ女性を配偶者にしたから、Y-O3aの配偶者からその遺伝子が失われた事になるが、配偶者だったY-O3aの運が悪ければ、ヤンガードリアス期の寒冷化の最中に、モンゴル高原か満州平原辺りで絶滅した事になる。

北海道で発掘された縄文人にはmt-Amt-Yはなく、mt-Dmt-Gだけがあるから、北海道縄文人のY-C3がシベリアから渡って来た時期は、15千年前を遡らない可能性が高い。アイヌのY-C3比率とmt-D比率が一致しているから、シベリア南東部ではmt-Dを配偶者にする事が出来たY-C3だけが生き残り、温暖化した日本列島に来た可能性が高い。温暖化すると肉が腐敗するから、保存するには燻製技術が必要だが、燻製技術は栽培民の文化として、12千年前の九州の縄文遺跡から発掘されているから、mt-Dが燻製技術を使って狩猟民を生き残らせた可能性がある。しかし肉を焼いたり燻製にしたりすると、ビタミン類が失われるから、栽培系の女性の指導で植物性の食物を摂取出来た者だけが、温暖化した南シベリアや満州で生き残ったのかもしれない。北に退避した狩猟民は、従来ペアを維持する事ができたと想定されるが、氷期と同じ場所に留まり、凄まじい温暖化の中で生き残るためには、夫婦の協力は欠かせなかった筈だから、拉致や誘拐などの略奪行為から生まれた夫婦関係では、激しい気候変動がもたらした厳しい環境変化は、乗り越えられなかったと推測される。言い換えれば、mt-D mt-Gmt-M10が急速に狩猟民に拡散したと言うよりは、彼女達を配偶者にした狩猟民の子孫だけが、寒気の緩んだ地域で子孫を遺し、皮鞣しは得意だったが植生に関する知識を欠いていた、mt-Amt-N9bmt-Yを配偶者としていた保守的な狩猟民は、人口を大幅に減少させたのだろう。12千年前頃のシベリアの多くの遺跡から、土器が出土する様になる。それも栽培民の女性の拡散の痕跡だったと考えられるが、その様な技術を持って北上して来たのは、別の遺伝子の女性だった筈だから、上記の遺伝子の塗り替え劇は一度のイベントではなく、mt-D mt-Gmt-M10の北上は、波状的に実施された可能性があり、更に言えば、その様な波状的な塗り替えの中で、失われた遺伝子もあった事になり、mt-Gは現在栽培民と接触していないから、比較的早い時期の拡散だった可能性がある。受け入れ側のY-C3の人口が多かったから、遺伝子的には、ミトコンドリア遺伝子の拡散だけが目立つ結果になっているが、男性にとっても女性にとっても、新石器時代の初頭の気候の大変動期は、厳しい時代だった様だ。

日本の細石刃文化から土器は出土していないから、急激な温暖化で栽培女性を配偶者にして、南方に拡散した第一波の狩猟民には土器技術はなく、土器の製作技術をもたらしたのは、第二波、第三波の女性だった事を示唆し、狩猟民と接した栽培民の北上波は、複数あった仮説を支持する。シベリアに土器が普及した12000年前には、海水面は最寒冷期より50mほど上昇していたから、台湾平原の沿岸部で堅果類を栽培していた民族は、続々と内陸に退避していた筈だから、彼らと浙江省起原の狩猟・雑穀栽培民が接触し、堅果類栽培民の女性が土器文化を持ってそこに嫁入りし、土器文化が東アジアに拡散したとすると、12000年前にシベリアに土器が普及した時期と符合する。

mt-Dは東アジアで最も多い遺伝子で、栽培民の中にも濃厚に分布している。適者生存の観点から考えると、mt-Dには複数回の増殖チャンスがあったから、分布を拡大した事になる。篠田氏は、mt-Dの生命力の強さに言及しているが、それは生物学的な強さではなく、文化的な強さだった可能性が高い。石器時代は母親が娘に文化を伝える社会だったから、一旦狩猟民に拡散したmt-Dが何らかの文化的な優位性を持って、栽培民族だったY-O3aの生存に有利な条件を提供し、栽培民に逆拡散したと想定される。最も安易な推測は、旧石器時代に既に内陸系のY-O3aのペアとして最大の人口を有し、温暖化して真っ先に北上したグループの主要勢力として狩猟民に拡散し、寒冷化したヤンガードリアス期に栽培技術の北上が不可能になっただけでなく、むしろ栽培種の南下後退が発生したから、mt-Dが持つ栽培種の南進が有利になった上に、狩猟民に拡散してから皮鞣し技術を獲得したから、寒冷化した内陸の冬の寒気を暖かい衣類で防ぎ、子孫の生存率を高めたと類推する事は可能だろう。マーケティングではその事実を証明する以前に、起った事を説明出来る矛盾がない仮説が提起できるのか如何かが問題になる。それをクリアする説明として、上記は受け入れ可能だろう。

mt-Dは新石器時代初頭に、アメリカに渡った唯一の栽培系ミトコンドリア遺伝子だったから、アメリカにもキビ栽培があった事は、彼女達はキビ栽培の文化を持っていた事になる。但しベーリング海峡によってアラスカとシベリアが分離したのは、1万年ほど前の事になるから、新石器時代初頭のmt-Dが、キビ栽培文化を持っていたとは限らない。寒冷な北東ユーラシアの栽培文化を考察しても、この様な複雑な関係が見えるから、東アジア内陸部でミトコンドリア遺伝子がどの様に拡散したのか追跡する事は、不可能に近いと言えるだろう。

 

3-3 中央ユーラシアと西ユーラシアに拡散した集団

東アジアで起きた事は、西回りの人々にも起きたと考えるべきだろう。その観点で、西回りの人々の拡散を追跡する。

海面上昇によって広大なスンダランドが消滅し、インドシナ半島は新石器時代に熱帯雨林に覆われ、河川による浸食と密生する樹木の根により、旧石器時代の東南アジアの文化の痕跡は、悉く消滅したと想定される。鉄器時代になって稲作民が南下し、熱帯雨林を切り開いて水田を作ったが、石器時代からそこに住んでいた人々ではないから、新石器時代初頭の人類の拡散に関しては、除外して考える必要がある。

インドシナ半島の周辺に住んでいる人達の遺伝子から、旧石器時代の痕跡を探すと、mtDNAからもY遺伝子と同様に、栽培民だったmt-Mmt-Rの系譜が東南アジアを取り巻いているから、新石器時代初頭に東南アジアから拡散した人々の、痕跡を読み取る事ができる。O系が東アジアだけに拡散した事と異なり、西回りの遺伝子にも東アジアの遺伝子にも、両者の系譜が含まれているのは、mt-Mmt-Rの分離が、東アジア独特のY-Oの分離より早かった事と、mtDNAは民族の枠を超えて拡散したからだ。

やはりY遺伝子同様に、インダス川流域で拡散を停止したmt-M系と、そこから山岳地や海岸を経て拡散したmt-R系のmt-Hmt-Tmt-Uが区分できる。但し現在の遺伝子分布は、山岳地や海岸を経て拡散したY遺伝子Y-JY-RY-Iと、上記のいずれかのミトコンドリア遺伝子が、ペアになって拡散した事は示していない。その理由は、Y遺伝子集団は狩猟・牧畜・遊牧・漁労・交易などの、生業を共有する民族として拡散したのに対し、ミトコンドリア遺伝子は男性的な生業には関係なく、栽培技術を栽培適地に拡散する傾向があったからだと考えられる。栽培技術は、民族とは異なる文化体系を持っていたと、言い換える事ができるかもしれない。但し既に説明した通り、実際に女性が他民族に次々と拡散したのではなく、見掛け上も遺伝子的にも全く民族内女性と見做される娘が、ミトコンドリア遺伝子と母親から伝授された栽培技術を伴って民族内の男性に嫁げば、それが栽培文化とミトコンドリア遺伝子の拡散になる事に、留意する必要がある。彼女の母系の先祖が異民族だったのは、数十世代前の事で、彼女は外観も言語も習俗も、ミトコンドリア遺伝子以外の遺伝子も全て、その民族の娘の要素に満ちていたとしても、ミトコンドリア遺伝子と母親から伝授された栽培技術に特徴があれば、それは数十世代前の異民族の娘と見做す事が、ミトコンドリア遺伝子の拡散の重要な概念要素になる。

彼らの拡散ルートをイメージする地図を、下図に示す。黒字がY遺伝子で、オレンジの文字がmt遺伝子になり、細線でその拡散の軌跡を示す。青い線は南回りの麦栽培民族の拡散、紫の線は中央アジア周りの麦と雑穀栽培民族の拡散を示すが、栽培技術は実際にはミトコンドリア遺伝子の拡散として、複雑な様相を呈していた。

欧州は後氷期なって何千も経てから、厚い氷床が後退し始めたと想定され、温暖化して栽培民が居住可能になった時期は、1万年以上遡らないと推測される。氷床が消滅して現在の様な景観になったのは、海面上昇から考えれば、8000年前だった事になる。無人の辺境だった欧州も緑豊かな大地に変わると、スンダランドから拡散した栽培者達の、西の最終到達点になったから、欧州にY-R1が到達する事により、ユーラシアのフロンティアが消滅したと考える事になる。

Ymtchro

Y遺伝子の拡散を簡単に復習すると、Y-JY-Iがインダス川流域から、アラビア海沿岸を周回してオリエントに達し、高収穫の麦栽培を始めて人口を増やし、欧州にもその麦栽培が広がった。

ヨーロッパ人の祖先でアーリア民族として知られるY-R1は、兄弟だったY-Qや従兄妹のY-Nと共にインドから中央アジアに北上し、中央アジアから改めて西に進んで欧州に拡散した。拡散距離が長いのは、食料を農耕に頼り始める時期が遅く、狩猟地を求めて拡散したからだと考えられる。

シベリア北部に拡散したY-Q Y-Nは、元々彼らが随伴していたmt遺伝子を失って中国から北上したmt-Cmt-Dに配偶者を変え、Y-Q1万年前頃にベーリング海峡を越え、アメリカ大陸にも拡散したと想定される。配偶者を変えたのは、mt-Cmt-Dが耐寒性の高い栽培技術を持っていたからだろう。

この時代の異民族婚姻に関しては、男女それぞれ父子や母娘間で伝承された技術の、配偶者の組み合わせの優劣が、子孫の繁栄の可否を決めたと想定される。最初に異民族間でペアを形成した契機は不明だが、一旦組み合わせが確立すれば、以降の増殖は民族内での拡散だった事になる。厳しい自然環境で生き残りを賭けた人達には、技能が高い配偶者を持つ事が、子孫の繁栄に最も有効な手段だった事を示しているから、最初の異民族間の、言語や習俗を共有しなかったペアでは、男女双方に相応の配慮がなければ、子孫は繁栄できなかっただろう。生殖を快楽と考える概念が強い略奪婚は、この時代には殆どなかったと想定される。

狩猟民がトナカイなどを狩る場合、単独で狩猟する事は難しかったと考えられるから、狩猟民集団に栽培民女性が迎えられた場合、集団の合意が必要だった筈だ。女性が栽培技術を持ってその集団に参加した場合、種子や農具を持って参加する必要があり、栽培地も確保しなければならなかった筈だから、母系社会だった農民社会が父系社会に変わり、豊かさが生まれて生産の単婚化が進展した時代以降に、また狩猟民や遊牧民が土地争いを始めた時代以降に、略奪婚という習俗が生まれた可能性が高い。

ミトコンドリア遺伝子を含め、西回りの拡散を概観すると、Y-Jと当初ペアだったmt-Hが、高度な麦栽培技術を持ってオリエントに拡散し、Y-RY-Iの当初ペアだったmt-Jmt-Tmt-Uが、寒冷地向きの収量の低い麦栽培と共に、トルキスタンに拡散したと想定される。Y-Iはその後西北に拡散し、Y-Rは東西に拡散した。mt-Jmt-Tは原初的な栽培技術を持ってY-Iと共に西に拡散したが、mt-UY-Rと共に東に拡散して仰韶文化を形成し、東アジアの雑穀栽培を身に着けると、Y-Rと共に中央アジアで人口を増やした。両者はその後共に西に拡散し、先行して西に拡散していたmt-Jmt-Tを、栽培技術の優位性を武器にmt-Uは置換して行った。黒海沿岸に到達したY-R1bは、先住していたY-Eから造船技術を習得し、ドニエプル川を遡上してバルト海に抜け、黒海と大西洋を結ぶ海洋民族になったと推測される。ドニエプル川は古代バイキングの交易路として知られ、途上のキエフは交易の町として発展した事は、ドニエプル川は、旧石器時代から黒海とバルト海の海洋民族を結ぶ、船を操作する民族の交易路だった事を示している。

温暖で降雨が多い西欧の深い森は、石器で開墾する事は困難だった上に、耐寒性を獲得していなかった高収穫の麦栽培を行うには寒冷な気候だったから、Y-R1bは日本列島の縄文時代の漁民の様に、漁労によって主要な食料を得たが、黒海沿岸で内陸民と接し、栽培民と共存する便利さを知って、乾燥した内陸で栽培を行っていた栽培民を、大西洋岸に呼び込んだと想定される。森林化していない河川の沖積地などで、農耕を行わせたとしても、農業生産性はかなり低かったと推測されるが、Y-O2b1が三内丸山の様な北の果てに大集落を作った様に、黒海沿岸から移住した栽培民も何らかの決断の末に、大西洋沿岸に集落を作ったと想定される。

日本列島の漁民は、全く異人種だったY-O2b1を呼び込んだのと異なり、Y-R1bが大西洋岸に呼び込んだのは、同族に近いY-R1aだった。現在西欧のY-R1bが、人口比でY-R1a圧倒しているのは、Y-R1aが高収穫を得る事ができる麦栽培者ではなく、雑穀や生産性が低い麦の栽培者だったからだと想定される。日本では栽培者だったY-O2b1の人口比が高いが、Y-O2b1が西日本で高収穫の雑穀やイネを栽培し、人口が増えてからY-D2との民族の混濁が起ったからだと考えられる。その事情の違いを検証するには、南からmt-Hが拡散した過程を、検証する必要がある。

Y-Jと当初ペアだったmt-Hが、オリエントで高収穫が得られる麦栽培を始めると、温暖期になる度にその北限が北上した。BC2千年頃の温暖期には、クレタやアナトリア南部にその麦栽培が北上し、BC5世紀頃の温暖期には、西欧にも到達した。その麦栽培技術を持ったmt-Hが西欧に拡散する際に、Y-R1bY-R1a双方に拡散したと想定されるが、経済的に豊かだったY-R1bの方に、より多くのmt-Hが拡散したであろうことは想像に難くない。Y-R1bの一部は漁民を止め、農民に転換する程に、mt-Hがもたらした麦栽培は、高収穫だった筈だ。それによってmt-Hは、欧州全域を席巻する勢いで拡散したと考えられる。その結果として、西欧が最もmt-H濃度が高い地域になったが、その濃度を理由に、mt-Hの発生は西欧だったと結論付ける事は出来ない。その拡散が鉄器時代と重なり、農業生産性の高さがクローズアップされた事と、Y-R1bが遠隔地から選択的に優良な栽培者を西欧に導入した事が、この様な結果を生んだと考えられる。

 

4、ミトコンドリア遺伝子の日本列島への流入

「日本人になった先祖たち」篠田謙一著(NHKブックス)と、「日本人起原論」篠田謙一著(岩波書店)のデータを合算し、議論を進める。データは参照させて頂くが、結論は全く異なる。但し篠田氏の本意は、以下の結論に近いものである疑いがある。

           ミトコンドリア遺伝子の地域別・時代別分布

mt-N9bmt-M7aは縄文時代当初からの遺伝子で、mt-Dからmt-M8aまでが華北、満州、沿海州、シベリア起源で、mt-Bからmt-M7cまでが南方起原になる。

南方起原とか北方起原とかの区分は、縄文時代(新石器時代)現在での区分であり、旧石器時代にはmt-Amt-N9bだけが北方に居住し、その他は南方に居住していた。

関東縄文人のmt-Dmt-Gは分離されていない。

関東以西から縄文人の遺体が発掘されないのは、縄文遺跡が殆ど発掘されていないからだが、縄文時代の人口が希薄だったからではなく、台風による土壌の攪乱などの気候的な要因の他に、樹木栽培から穀類の栽培への転向が早く、集落が発掘されない沖積地に集中していたからだと推測される。

この章でも先に結論を述べ、根拠と詳細な解析については、その後で説明する。

 

4-1 結論

旧石器時代の原日本は、Y-D2mt-N9bだけのペアだった。Y-C3もいた可能性があるがあるが、そのペアは不明。

旧石器時代末期にY-C3mt-Dを伴ってシベリアから南下して来た。

縄文時代の初頭にY-O2b1Y-O3a2aY-C1Y-O2a1mt-M7aを伴い、沖縄を経由して九州に上陸した。

縄文時代前期までに、mt-M7aは漁民だったY-D2に拡散し、Y-O2b1mt-M7aを伴って青森まで北上した。

   mt-M7aは北海道のY-D2にも拡散した。

縄文時代前期までに、関東の縄文人は沖縄を経由し、台湾・福建省に到達していた。

   台湾でオーストロネシア語族民と出会い、彼らに造船と漁労・航海術を教えると、mt-Bmt-M7cが関東縄文人に拡散した。

   福建・浙江省で稲作民に出会い、彼らに磨製石斧の技術を教えると、mt-Fmt-M7bが稲作技術を伴って日本に拡散した。

   シベリアの狩猟民に造船と航海術を教え、黒曜石の矢尻を付けた弓矢を交易すると、mt-Amt-G/Dが流入した。

      シベリアとの交易に北海道の縄文人も関わり、北海道にもmt-Gが流入した。

縄文時代後期に、黄河流域の政権と宝貝などを交易し、華北からmt-Dmt-M8aが流入した。

縄文時代晩期に寒冷化すると、シベリアの中央部からmt-M10が流入した。

縄文時代が終わる頃、女性だけが日本列島に流入するイベントは終了した。

古墳時代に大陸から移民を受け入れたが、移民のmtDNAは日本列島に既存していたので、痕跡は残っていない。

倭人がオホーツク海沿岸にツングース系民族を招き、海獣の皮革を採集させたので、北海道にmt-Ymt-Amt-Dが拡散した。

 

以上の括りは、大きなイベントを伴って流入した女性達を示すが、女性は旧石器時代から、民族の枠を超えて拡散する傾向があったので、男性の生業の区分としての民族とは、分布が一致していなかった。従って上記のイベントは、ミトコンドリア遺伝子の大きな流入と拡散を示すが、実際の状況はもう少し混沌とした状態で、流入の時期には幅があったと想定される。現代女性も異民族へ拡散しているが、貧しい民族から豊かな民族への拡散が一般的であり、その逆は殆どないから、この時代も同様だったと想定される。

縄文時代を通じて日本列島には、Y遺伝子は殆ど流入しなかったが、大陸の南北から多数の女性が流入したから、旧石器時代にY-D2とペアだったmt-N9b(以降当初ペアと呼ぶ)は、現在Y-D235%に対し、2.1%しかいない。縄文時代初頭に流入したmt-M7aについても、当初ペアだったY-O2b1が現在20%以上いるのに対し、7.5%しかいない。この様な状態になったのは、縄文時代初期にmt-M7aが漁民に拡散し、一時的に日本列島のメジャーがmt-N9bからmt-M7aに変わったが、その後海外から多数の女性が日本列島に流入し、mt-M7amt-N9bを置き換えたからだ。その状況を、直接的な証拠を使って証明する事はできないから、数値解析の手法を用いて分析する必要がある。

数値解析の基本は、先ず特徴的な事象から大まかな仮説を設定し、歴史事象からその仮説を検証する事から始める。次の段階として、その仮説が成立する事によって展開できる新しい仮説を探し出し、新しい仮説を他の素材と擦り合わせながら検証する事により、大まかな仮説の真実性を検証する。n次仮説に矛盾がなければ、n-1次仮説の真実性は高いと考える論証法になる。n次仮説は仮説の状態に留まるが、歴史事象と矛盾がなければ、有力仮説であると言える。

 

4-2 おおまかな仮説(1次仮説)

北海道縄文人の65%はmt-N9bで、アイヌのY遺伝子は9割がY-D2で、1割がY-C3だった。アイヌはY遺伝子に関し、原日本人の直系子孫だったと考えられるから、mt-N9bも原日本人女性の直系子孫だったと考えられる。

地理的に北海道に近い東北縄文人のmt-N9bも、原日本人の直系子孫だったと考えられ、三内丸山遺跡で栽培されていたクリや、筒型の土器を主体とする文化は、1万年の鹿児島県定塚遺跡出土の土器や石器群との類似性が高いから、東北縄文人に多いmt-M7aは、九州から北上した縄文人の遺伝子だったと想定される。

東北の縄文人になく、北海道の縄文人だけにあるmt-Gは、北海道の特殊性として、オホーツク海沿岸から流入した遺伝子だった事になる。旧石器時代末期に、日本列島に細石刃文化を持ち込んだのはY-C3だった筈だから、Y-C3と共に日本列島に流入したミトコンドリア遺伝子は、mt-Dだった事になる。

関東縄文人の多彩なミトコンドリア遺伝子は、旧石器時代からあった遺伝子ではなく、縄文時代初頭からあった遺伝子でもなく、関東の特殊性によって、縄文時代に流入した遺伝子だった事になる。

関西以西から縄文時代の遺跡が発掘されていないので、関西以西の縄文人の遺伝子構成は分からないが、北九州の弥生人からmt-N9bmt-M7aも発見されていない事は、海外からミトコンドリア遺伝子が多数流入した特殊性は、関東だけにあったのではなく、西日本全域に広がっていたと考えられる。

縄文時代が終わる頃、女性だけが日本列島に流入するイベントは終了した。

弥生時代以降、日本人のミトコンドリア遺伝子分布を、大きく攪乱するイベントはなかった。

 

上記のグラフに示されていない弥生時代以前の断片情報として、以下の情報が篠田氏から提示されているから、先ずそれとのすり合わせが必要だろう。

  2万年前の石垣島の遺跡に、mt-Bmt-R系各一体があった。東アジアで一般的なmt-R系は、mt-Bmt-F

石垣島に上陸するためには、原日本人の船に乗る必要があったと想定される。台湾にはmt-Bが多いから、台湾近辺の栽培民と原日本人の交流は、2万年前には始まっていた事を示唆する。海水面が上昇し始めた17千年前頃、原日本人の船で沖縄に渡った人達の中に、mt-Bが含まれていた可能性があることになるが、日本固有種としてmt-M7aがある様に、mt-Bの固有種がないことは、mt-Bが含まれていたとしても少数で、検出不能な状況という事になる。歴史を流れとして評価する場合には、雑音として無視する。2万年前の原日本人は、台湾も含めた広範囲の栽培民と接触があり、17千年前頃の原日本人は、台湾平原を北上して沖縄から石材を採取する様になった人達、即ち原日本人と運命共同体的な関係を持った人達と、より密接な関係を持ち、彼らを沖縄に導き、日本列島に上陸させたと解釈した方が、現実的ではなかろうか。原日本人と運命共同体的な関係を持った人達の中で通婚が進み、mt-M7aの濃度が高まったと想定されるが、いずれにしても、1次仮説と矛盾しない。

  4万年前の北京近辺の遺跡に、mt-Bが一体あった。

    4万年前は温暖期だったから、最寒冷期に浙江省にいた民族が、河北省に北上していても不思議ではない。

  4千年前の石垣島の遺跡に、mt-M7aが一体あった。

沖縄本島でmt-M7aが優勢だった時代だから、本島から渡った可能性がある。17千年前に、沖縄に渡った人達と同系だった可能性もある。いずれにしても、1次仮説と矛盾しない。

  沖縄伊江島の貝塚時代(縄文時代)の遺跡に、mt-M7aが三体あった。

      1次仮説と矛盾しない。

  縄文時代前期の富山の貝塚に、mt-N9b五体、mt-M7a一体、mt-M7x一体、mt-M9a三体、mt-A一体、mt-G一体があった。

関東の縄文人は、縄文時代前期から晩期までの累積だが、この遺跡は前期に限定されている遺跡だから、関東の特殊性と同様の傾向があるが、未だそれほど顕著ではないという解釈で、1次仮説と矛盾しない。但し関東から発掘されていないmt-M9a三体に、着目する必要がある。mt-M9aは現在チベット、ネパール、シッキムに多く、新石器時代に北上しなかった遺伝子だと考えられる。北陸は後世の東鯷人の発祥地で、関東発祥の倭人が揚子江以北の人々と交易したのに対し、東鯷人は揚子江以南の人々と交易を行っていたと推測される。mt-M9aが縄文時代前期に属していた民族は、南シナ海沿岸部か、南シナ海に注ぎ込んでいる河川の流域に居住し、北陸の縄文人は南シナ海に進出していたとする仮説が生まれる。これは縄文時代の項で説明した流れとは少し違うが、関東を拠点とした倭人を中心とした話だったから、矛盾する話ではない。

具体的に言えば、縄文時代の項で説明した流れとは、オーストロネシア語族海洋民が、フィリッピンに定着したのは4000年前、つまり縄文時代後期だから、稲作民の南下は中期頃から始まったとの想定と異なるという事だが、オーストロネシア語族海洋民が南下する以前に、北陸の縄文人が南シナ海沿岸に進出していたとしても、何かが矛盾する訳ではない。縄文時代前期には、まだ南シナ海沿岸に稲作が南下していなかったとしても、イモ栽培はあった筈だから、住民がいた事が否定されるわけではない。中国大陸の民族移動は、複雑すぎて追跡が困難である上に、女性は民族を超えて拡散したから、上記の解を得る事は難しい。しかし縄文時代前期以前のmt-M9aの定住地が何処であろうと、1次仮説と矛盾しない。

 

「縄文時代が終わる頃、女性だけが日本列島に流入するイベントは終了した」、という仮説が成立しなければ、このHPで行う議論の多くが無効になるから、議論を複雑に展開する前に、その確度を確認して置く必要がある。

その第一の証拠として、漢書、後漢書、三国志が倭人について記術しながら、倭人が海洋上の何処から来るのか知らなかった上に、誤った地理認識を示していた事が挙げられる。後漢書は踏み込んで、「倭人の島は遠すぎて中国人は行けない」と明記している。漢帝国は遼寧省からヴェトナム北部まで支配したが、支配民に海洋民族はいなかった事になる。厳密に言えば、南シナ海沿岸にいたオーストロネシア語族海洋民は、漢の征服によって大陸から逃げ出してしまった様だ。倭人のコロニーもあったが、同様の憂き目に遭ったという状況だった可能性が高い。

鉄器時代になっても、全く海洋に乗り出す事が出来なかった大陸人が、石器時代に海洋に乗り出していたとは考えられない。従って石器時代大陸の民族が、自分達の意志で日本列島に渡来する事はなかったと、言えるだろう。稲作民が日本列島に渡来し、彼らによって弥生時代が始まったという虚構は、あり得ない話になる。稲の遺伝子解析や朝鮮半島の稲作跡の発掘から、「弥生人は朝鮮半島から渡航した」とする説は、既に実質的に否定されているが、揚子江沿岸から稲作民が北上し、山東半島から渡航したという説を頑強に主張する学者は、何故か跡を絶たない。その説には根拠がない事を、漢書、後漢書、三国志は示しているし、Y遺伝子を史書に従って解析すると、稲作民に該当する遺伝子はないから、稲作民渡航説は虚構であるという結果を示す。

最も古い稲作遺跡が北九州で発掘されたが、それだけで日本の水田稲作は北九州から始まったと解釈する事は、無謀である様に見える。水田稲作が早かったとされる北九州と四国南部が、隆起地殻の上にあるのに対し、瀬戸内は沈降地帯だからだ。特に瀬戸内西部の沈降速度は速く、100年で40㎝も沈降しているから、板付や菜畑の様な遺跡があったとしても、3千年で10m以上沈降しているから、それらが発掘される見込みはない。特に沈降が早い大阪平野は、地殻の沈降の上に、沖積平野特有の沈降現象が重畳されている。縄文時代は広い大阪湾があり、山崎の琵琶湖側に、土砂が堆積した広い湖沼があった筈だが、弥生時代頃に山崎の堰が切れて大量の土砂が流出し、大阪湾の堆積が急速に進行したと考えられる。水より数倍重い堆積土砂は、その重みで地盤の沈降を促すから、弥生時代以降大阪平野は急速に沈降し、現在もその余韻で周囲より沈降速度が速いと考えられるからだ。朝鮮半島伝来説を主張する考古学者が、水田稲作の開始が遅いと判断している場所は、地盤の沈降地帯と一致しているから、事情を誤解しているのではないかと推測される。

釜山でさえ、関東平野北部並みの寒さだから、寒い朝鮮半島から稲作が伝わったのであれば、水田稲作が北九州から始まったのは、温暖な気候ゆえではなかった事になり、北九州で停滞した理由が説明出来ない。論衡によれば、日本最古の水田遺跡が発掘された頃、倭人は西安近傍にあった周の都に出向き、「成王の時,越常は雉を献し,倭人は暢を貢す。」と記された事を行っていた。その機動力から考えれば、水田稲作に関する情報は、日本全土を駆け巡っていなかった筈はないのだ。朝鮮半島伝来説は、発掘至上主義の弊害と言えるだろう。

その第2の証拠として、新石器時代の大陸の女性は、民族の枠を超えてミトコンドリア遺伝子を拡散した事が、ミトコンドリア遺伝子の拡散から読み取れる事が挙げられる。日本列島へのミトコンドリア遺伝子の拡散も、それと同一の動きと見做す事ができるからだ。日本と揚子江流域や雲南とは、発酵食品などに文化的な共通性があり、女性が照葉樹林文化を持って渡航して来た証拠になる。新石器時代の栽培文化は、女性文化だった可能性が高い事を考慮すれば、稲作や焼畑農耕、或いは梶の繊維の衣類なども、南方から渡航した女性達が持ち込んだ文化だったという結論に、帰着するだろう。彼女達が自身の文化を持って渡航した事は、隷属的な身分として渡航して来たのではない事を示唆しているだけでなく、弥生時代末期に、倭人が女王を輩出した実績を考慮すると、倭人社会では女性の地位が極めて高かった事が想定され、彼女達が優位性を持つ人間関係の中で、彼女達の意志で渡航した可能性が高い事になる。魏志倭人伝には、「会合の席で男女の振る舞いに差がない」と記されているから、男女は平等だった。

食料生産者としての漁民は、栽培とは違って男性主体の生業だったし、倭人が行った経済活動も、男性主体だった筈であるにも拘わらず、男性に劣らない発言権が女性にあったのは、陸上での倭人社会が、女性優位社会だったからだろう。食料生産が男性に委ねられていた社会で、その男性は中国の男尊女卑社会をよく知っていたにも拘らず、陸上生活での女性優位を長い間許していたとすれば、以下に想定する事情からその様になったと結論付ける以外に、説得力のある仮説はないと考えられる。

石器時代の農民社会で、穀物栽培の重要性が高まって行く中で、狩猟文化を主導していた男性の生産性が劣化して行く中で、女性の地位は向上して行った筈だ。その様な状況下で、収量の高い農業は誰でも行えるわけではなく、栽培者の女性の中にも、技能に優劣があった筈だ。農地にも優劣があっただろうから、栽培に優れた女性は自分の娘にその農地を譲渡しようとし、母系家族化が進んだと考えられる。その家族の人口が増え、優れた穀物栽培技術を持った女性の娘が、分家する事になれば、彼女は周囲の家族に請われる形で、他の家族に拡散しただろう。その女性の嫁ぎ先の家族内で、彼女は高い地位を得たと想定される。その様な事情が繰り返されれば、農民社会は女性優位の、女系家族的な社会に移行して行ったと考えられる。狩猟中心の社会が、男性優位の社会だったのか不明だが、栽培が食料の過半を占める時代になると、女性優位が確定したか、女性位優位が一層強まったと想定される。漁民をベースにした倭人社会が、女性優位社会だった事は、狩猟漁労民社会も、男性優位社会ではなかった可能性が高い。

女性優位の社会に住んでいた栽培民女性を、多数迎え入れた日本列島の漁民は、日本でも同様な女性優位社会が、少なくとも陸上で営まれる事を許容したから、倭人社会の男女平等が生まれたと考えられる。沖縄に倭人社会が化石の様に、明治時代初頭まで残っていたとすれば、倭人社会では女性が陸上の宗教、即ち陸上での倫理観を、独占していた事になる。男性が差配していたのは、海上での活動と交易業務だったと想定され、それが石器時代の農民社会の、男女関係だったと考えられる。海上も交易もなかった農民社会の男性は、極めて低い地位にあった可能性が高い。

大陸と日本列島に形成された女性優位社会の下で、大陸の多数の女性が日本列島の豊かさを求め、各々の習俗や文化を持って渡航して来た事により、日本の縄文文化が形成された事になる。八ヶ岳の西南麓で発達した華麗な縄文土器群は、その様な女性達が出身民族の文化を披歴し合い、自己主張した成果だったとすれば、彼女達の心境をその器形から窺う必要があるだろう。自己主張がぶつかり合う、喧噪の世界さえ想起させる。

しかし鉄器時代になって生産性が一層高まり、政治制度が確立した時代の典型的な農耕民族だった中華王朝では、男尊女卑意識が強く、女性の皇帝は生まれなかった。唯一の例外は唐の則天武后だが、唐は遊牧民だった鮮卑族の征服王朝だから、農耕民族の皇帝とは言えない。そこから考えると、厳しい男尊女卑社会を成立させたのも、農耕民族だった事になる。その劇的な変化の原因は、人口密度の増加に伴って農地の争奪が生まれ、耕作既得権を確保してくれる権威が、農民にとって必須の存在になったからだと、このHPで何度か指摘した。人口密度が高まって優良農地の争奪が武力的になり、騒乱を回避する為に耕作権を保証する権力が必要になり、その権力を育てている内に権力が肥大化して暴走し、遂に見渡す限りの領土を領有する、絶対的な権力を持った皇帝が誕生してしまった。この権力機構を運営したり、暴力機構を構成したり、権力神話を創造する才能は、女性より男性の方が格段に優れていたから、農民社会は急速に、極端な男性優位社会に変貌したと想定される。栽培技術が男性に移転する事とは、全く違った次元での出来事だから、どちらが先に進行したのかを判断する事も難しい。

男性優位だった筈の漁民社会を基盤にしながら、倭人が東アジアで最も遅くまで女性優位社会を維持していたのは、栽培民をルーツにする女性が、多数流入していたからだと考えられる。倭人社会で女性優位が崩れなかった理由は、漁民社会には農民的な必然性がなかったからだと想定される。日本にも農民はいたが、漁民出身の倭人が長い間日本列島を統治していたから、農民にも漁民的な価値観が浸透していた。実際の統治は、交換経済を通した価値観の支配だけで、農民を文字通り統治していたのではないと想定されるが、経済主体として価値観を強制する事は、強力な支配関係を作り上げていたと推測される。それ故に飛鳥時代の農民による革命が、単なる制度改革だけでなく意識改革も含み、大和政権は中華的な男尊女卑思想を、農民政権思想のパッケージと見做し、日本に普及させようとしたと推測される。農地の相続が、男系系譜に限定される制度になっていたからだろう。

一方漁民の価値観の特徴は、以下の様なものだった筈だ。

現代の様な高い生産性を持たなかった漁民にとって、漁場には無限に魚がいるから、利権的に確保する必要はなかった。生産地の利権化を保証する権力を、求める必要はなかった事になる。海産物の貯蔵は困難で、富を食料で蓄積する事が出来なかったから、豊漁時には気前よく配分し、互いに助け合う人間関係を維持する方が、合理的だっただろう。貧富の差を求めるのは人間の本能だから、それを表現する手段は漁労の腕であり、豊かさが増した社会では、商工業的な成果に傾斜せざるを得なかっただろう。その様な社会では、貧富の差は絶対的な意味を持たず、能力主義的にならざるを得なかったから、大陸的な権威や権力は発達しなかったと想定される。大陸では権力の強さが社会を安定させる重要な要素だったから、権力を実力以上に見せかける必要があり、人々はそれに協力的になり、虚飾的に権力を強める過程で、嘘も重要な要素になった。しかし漁民にはその様なものは必要なかった上に、漁労情報には正確さが求められ、漁労や交易には多数の誠意ある統制的な強力が不可欠だったから、倭人は女性から切り離された男性社会を独自に作り上げていた。それ故に一旦形成された女性優位社会は、容易に壊れなかったと考えられる。

飛鳥時代の価値観革命により、中華的な男性優位社会を目指したが、倭人的な価値観は地方に根強く温存されたから、中世に日本を訪れたキリスト教の宣教師でさえ、日本女性の権利の強さを特記している。

この様な社会変化を想定すると、大陸の農耕民族が女性優位だった時代には、多数の女性が自発的に日本に渡航したが、民族政権が成立して男尊女卑的な家族制度が生まれると、女性の自発的な婚姻によってミトコンドリア遺伝子が拡散する時代が終焉し、日本列島に流入する女性は途絶えたと考えられる。農民や狩猟民の男性が、海洋縄文人の船で日本列島に渡航する必然も、なかったと想定される。

この推測とミトコンドリア遺伝子の流入時期に関する解析結果が一致するから、この推測と解析結果は2次仮説の証拠になり、その存在が1次仮説の証拠になる事を、節を改めて次節で検証する。歴史事象の詳細は、縄文時代の項参照。

 

 4-2 縄文時代の項で検証した2次仮説とその検証

 縄文時代の早期~前期に海外から流入した女性は、南からオーストロネシア語族民の女性、北から狩猟民系の女性だったと想定した。当時の貧弱な船では、女性を合意なしで同乗させ、数か月の長い航海を行う事は難しかっただろう。人身売買を行う様な、財産概念もなかっただろうから、南北から来た女性は、海洋縄文人の食料生産能力や文化力を評価し、当時の価値観で自発的に、日本列島に渡航したと推測される。現代的な価値観で、男性が強引だったのか女性が押し売り的だったのか、判断する根拠も必要もないだろう。現代社会でさえ、その境界は曖昧で表裏がある事項であるし、リベートを取る斡旋業者がいるのだから。

日本語には、オーストロネシア語族的な表現や類似の単語が沢山あると指摘されている。縄文人や倭人が、オーストロネシア語族的な表現を取り入れる機会は、縄文時代前期の女性の大量流入を含め、2回あった。現代日本語の持つオーストロネシア語族的な表現は、この時の流入の影響だったとは断定できないが、彼女達が各種の南方系の植生と共に、言語文化をこの時期にもたらした可能性は、否定できない。他の機会は、縄文時代末期から弥生時代にかけて発生した。この時期のオーストロネシア語族海洋民は、南太平洋やインド洋に進出し、オリエント文化を摂取し、製銅、製鉄技術を含む各種の生産技術や、アラム文字を導入していた上に、豊かな南方の植生から生まれた多種の工芸品を持っていたから、倭人の方が、文化的に劣位にあった可能性があるからだ。苧麻や養蚕、柑橘類や薬草、椿油や染色技術などの多くは、その時代に東南アジアから流入したと考えられるから、その時代にも、オーストロネシア語族海洋民の言語が、倭人の言語に影響を与えた可能性が高い。

海洋縄文人はオーストロネシア語族海洋民だけでなく、北の民族にも海洋技術を教えがら交流を深めたから、南からmt-Bmt-M7cが、北からmt-Amt-Dmt-Gが流入した。彼女達のミトコンドリア遺伝子は、mt-N9bmt-M7aを置き換えたが、その後流入した海外女性の、別のミトコンドリア遺伝子に置き換えられもしたから、縄文時代早期や前期の占有率は、現在の比率よりかなり高かったと想定される。その数値解析には複雑な手順が必要だから、次節で3次仮説として説明する。

関東の縄文人は、関東周辺で得られた黒曜石製の矢尻から弓矢を作り、黒曜石が得られない東ユーラシアの狩猟者に広く販売し、その成果として、大陸の南北から多数の女性を迎え入れた。北方の女性の流入理由としては、造船・航海術の伝達より、こちらの要素の方が大きかった可能性が高い。

関東各地から、八ヶ岳西南麓や栃木県の高原山で産出した黒曜石の矢尻が出土し、それらが商品として多量に出回っていた事を示している。中部山岳地帯と那珂川流域から、新潟県産のヒスイの加工品が多量に出土する事は、そこに展開された縄文集落の豊かさを示している。八ヶ岳西南麓の多彩な縄文土器は、大陸の各地から集積した女性達が、各々の民族意匠をもって個性を発露した結果だったと想定され、中部山岳地帯の縄文集落は、国際都市的な空間を形成していたと推測される。関東縄文人の多彩なミトコンドリア遺伝子の集積には、複数の交易要素が関係していたと想定されるが、最大の交易素材は、矢尻と弓矢だったと推測される。

東北や北海道の縄文人は、その様な交易に参加しなかったので、東北と北海道の縄文人には旧石器時代由来のmt-N9bが色濃く残り、東北の縄文人には、縄文時代初頭に北上した沖縄由来のmt-M7aも色濃く残り、海外由来のミトコンドリア遺伝子は流入しなかった。東北と北海道の縄文人に、関東縄文人ほどの、交易に賭ける気質がなかったのは、民族的な気質というよりは、人口の集積が不十分だった上に、有効な輸出商品を生産する素材がなかったからだと考えられる。漆塗は東北で発達したが、漆器の様な奢侈品を受け入れる貧富の差は、縄文時代前期・中期の大陸に生まれていなかった上に、寒冷な東北では、上質な麻が栽培出来なかったからだと推測される。北海道白滝の黒曜石は、尖頭器には向いていたから沢山製作されたが、矢尻の製作には不向きだった疑いがある。しかしそれは必ずしも品質問題ではなく、尖頭器より高度な技量を要する矢尻の量産技術が、確立する条件が、北海道には揃っていなかったからかもしれない。

中部山岳地帯の繁栄は、縄文時代後期を最後に終わる。その終了期であるBC2000年頃は、中国の洛陽盆地に、青銅器時代の2里頭遺跡が出現する時期でもあるから、大陸で取引された高級な矢が、石鏃から銅鏃に変わっていった時期だったと推測され、その様な理由に依る黒曜石の矢尻生産の終焉と、時期的に一致する事も、石鏃産業が存在した証拠を提示している。

以上の想定から敷衍すると、九州の腰岳・姫島、山陰の隠岐などでも、良質の黒曜石が産出し、広域に流通していた事が分かっているから、そこにも海洋縄文人が居住し、大陸女性の流入があった可能性が高い。

 関東の海洋縄文人は最も交易に積極的だったから、沖縄を江南に渡航するための中継地とし、その拠点を維持するために沖縄に移住した。沖縄のY-D2は東日本的な特徴を示し、関東的な特徴を示す編み方の籠が発掘されている事が、その証拠になる。

 北陸の縄文人は、磨製石斧と石製装飾品の加工技術を高め、日本列島に普及させると同時に、石製装飾品をユーラシア大陸の南北に持ち込んだから、その痕跡が沿海州、遼寧省、浙江省で発見されている。しかし時代の進展と共に、交易相手として、多量の磨製石斧を求める豊かな稲作民に、傾斜して行ったと想定される。生産財の場合は需要が根強く、消耗品として多量に使ったからだ。但し石斧が発掘されているわけではないが、集落ではなく田園の縁辺部で使う道具だから、集落跡から発掘されなくても、使っていなかったとは言えないから、状況証拠から指摘している。磨製石斧に最も適した石材である蛇紋岩は、地殻プレートの境界で生まれる岩石だから、中国大陸には存在しないが、日本には沢山の採石地がある。稲作民が稲作地を開拓し、焼畑で雑穀を栽培するために、質の良い磨製石斧は必須の石器だったと想定され、稲作地が急拡大した縄文時代中期の華南で、大きな需要があったと考えられるからだ。北陸の工房で製作された磨製石器は、商品価値を高める為に全面研磨され、それが北陸・中部地域で多数発掘されている。江南と交易関係にあり、多数のミトコンドリア遺伝子を取り込んだ海洋縄文人が、蛇紋岩製の磨製石斧を、華南に持ち込まなかった筈はないと考えるべきだろう。

蛇紋岩は中国山地でも採取出来るから、磨製石斧は発掘されていないが、岡山も有力な生産地だった疑いがある。岡山で縄文稲作が盛んに行われた事は、プラントオパールが各地で発掘された事から指摘されているが、それは稲作民のミトコンドリア遺伝子であるmt-Fmt-M7bが岡山に流入したから、縄文時代の稲作を示すプラントオパールが発掘されると考えれば、事情は整合する。

 農耕の発生には、気候条件が重要な意味を持っていた。温暖多雨な気候帯で稲作が盛んになり、乾燥した気候で麦が栽培され、やや寒冷な疎林地域でアワが栽培化された。その様に、生産様式の発生や進化は環境条件で生まれたと考えると、焼畑農耕の発生は、日本列島だったと結論付ける事になる。樹木が盛んに生育する環境は、揚子江流域から日本列島に一般的に見える景観だが、焼畑農耕がその地域で発生したのであれば、樹木を伐採するには優秀な磨製石斧が必要で、最も優れた磨製石斧の素材は蛇紋岩で、日本列島ではありふれた素材だったが、大陸にはない素材だから、論理的に突き詰めれば、焼畑農耕は日本列島で発生した農法だった事になる。磨製石斧は砂岩などからも作られるが、両者には明らかな性能差があったと推測される。焼畑農耕では、定期的に多量の樹木を伐採する重労働が必要だから、石斧の素材は生産性に直結した筈だ。

 河姆渡遺跡の発掘結果から、縄文時代前期・中期の華南の稲作民は、石器の製造や使用に習熟していなかった事が判明している。そこから考えると、稲の栽培品種化は華南で行われたかもしれないが、稲作地の開墾や焼畑農耕が普及する過程で、縄文人が果たした役割は大きかった可能性が高い。稲作技術が発展して良渚文化期に発展する過程で、磨製石斧の製作技術が日本から移転したり、日本製の磨製石斧が輸入されたりして、多量に使われた可能性も高い。その結果としてmt-Fmt-M9bが日本に渡ったと考える事に、妥当性があるだろう。

 縄文時代後期から晩期にかけて、新しい遺伝子として華北からmt-M8amt-Dが、シベリアの奥地からmt-M10が流入した。mt-M8aは漢民族特有の遺伝子だから、宝貝交易を黄河流域の王朝と行った痕跡だと考えられ、その背景に数倍のmt-Dがあったと推測される。mt-M10は現在バイカル湖の周辺にあり、河川では到達できないシベリアの奥地だから、海洋民族が到達できる場所ではない。アムール川を倭人が遡上したとしても、粛慎などのツングース系狩猟民の交易者の仲介が必要だった筈だが、縄文時代後期にはその様な高度な交易経路が生まれ、それを経て狩猟民の女性が、日本列島に渡航して来たと推測される。青銅器時代になりかかっていたから、黒曜石の矢尻が、交易品として有効だったのか分からない時代だが、日本列島で漆塗りの装飾的な弓を沢山作っていた時代だから、弓と麻はシベリアとの有力な交易品であり続けていたと想定される。この時代の利尻島では、シベリアに送るために沖縄産の貝殻で作った装飾品が作られているから、シベリアに渡るために、間宮海峡を航行ルートとしていた可能性が高い。利尻島は縄文人の、最北端の出港基地だったのだろう。彼女達は、シベリアの狩猟民が遊牧民に転向して豊かになった時代に、更なる豊かさを求めて日本に来たのか、遊牧が始まって人口が増えた後に寒冷化し、食料危機の中で身売りされたのか、どちらだったのかは分からない。

 

4-3 3次仮説其の1 縄文時代には、西日本は東日本以上の人口を擁し、日本全域で100万人ほどだった

関東が最大の縄文人の集積地だったと想定されるが、西日本には農耕文化が展開し、その農産物を消費する海洋縄文人が多数展開していた事を、ミトコンドリア遺伝子の分布から検証する。東北・北海道は、縄文時代にも人口過疎地だった事は、現代人にとって常識的な感覚だが、現在の考古学会は、東北が縄文文化の中心地だったと主張している。それは間違いである事を以下に証明する。

下図で、関東縄文人、東北縄文人、北九州弥生人、現代日本人のミトコンドリア遺伝子分布を、改めて比較する。

  関東縄文人のmt-Dは、mt-Dmt-Gの合計。

 

時代が降ると、mt-Dの比率が高くなって行様に見えるのは、大陸のmt-Dの割合が、時代を追う毎に高まったからである可能性がある。その理由としては、ミトコンドリアの優生説や、母娘に伝承された特殊技能説、mt-Dの比率が高かった雑穀民の人口が増えた可能性が考えられるが、決め手に欠ける。漢民族に多いから、華北への窓口だった北九州に特に濃厚に流入した可能性もある。ということで、mt-Dに関する分布実態が分かり難いので、上記からmt-Dを除いたグラフを下に示す。関東縄文人はmt-Dmt-Gが分離されていなかったので、比較の公平さの観点からmt-Gも除外した。

東北縄文人のタイプに海外から遺伝子が流入し、関東縄文人の分布になり、更に流入して在来種がなくなり、北九州弥生人の分布になったといえるだろう。しかしそれは、海外女性を積極的に受け入れた縄文人に関する事であって、東北縄文人の様に全く海外女性を受け入れなかった地域もあった。縄文時代末期~弥生時代に、日本人のミトコンドリア遺伝子の分布がほぼ確定する段階で、関東縄文人・北九州弥生人型の人々と東北縄文人型の人達が、どの様な割合で混ざれば現代日本の分布になるのか、考えてみる事に重大な意味がある。関東縄文人と現代人は、殆ど同じ分布を示し、サンプリング誤差程度の違いしかないと言える状況にある。つまり東北縄文人の子孫は、現代日本人の中で極めてマイノリティーだった事を意味し、縄文時代の東北は過疎地だった事になる。

もう少し分析的な見方をすれば、関東縄文人が多数の移民を受け入れたために、最終的に九州弥生人の様になったと考える方が、より合理的だろう。それであれば、縄文時代末期の日本では海洋民族系が8割以上を占め、縄文由来の遺伝子を保持していた東北縄文人は、縄文時代末期には1割程度になっていた事になり、関東と東北が縄文時代の2大人口集積地だったという主張は、誤解だった事になる。西日本や北陸にも、東北に劣らない海洋縄文人の集積があり、海外から多数の女性を迎えていたのだ。

縄文時代/発展期の項で、各地域の人口を見積もったので、以下にそれを再掲示する。

 

縄文時代前期

中期

後期

東北

19,398

47,492

44,147

関東

42,146

97,260

51,872

北陸

2,146

12,622

8,078

中部

22,031

62,946

19,126

東海

5,174

13,710

7,890

近畿

1,367

2,187

3,554

中国

1,277

1,277

2,554

四国

366

183

2,562

九州

4,990

4,633

8,554

98,894

242,310

148,337

 

縄文時代前期

中期

後期

東北

48,495

94,984

88,295

関東

210,730

486,300

259,360

北陸

10,729

63,110

40,390

中部

22,031

62,946

19,126

東海

25,868

68,550

39,449

近畿

27,340

43,744

142,168

中国

25,536

25,536

102,144

四国

7,320

3,660

102,480

九州

99,792

92,664

342,144

477,841

941,494

1,135,556

 上段の表は従来説の数値で、竪穴住居の分布から人口を割り出した。

この手法の問題点は、以下であると考えられる。

1、竪穴式住居は寒冷地向きなので、西日本には普及していなかったと推測される。温暖だった西日本の住居は、平地式や高床式だったと想定される。

2、竪穴式住居は縄文人の住居であって、海岸にあった漁民集落は、ほとんど発掘されていない。

3、漁民出自のY-D2は、縄文人出自のO3a2aO2a1O2b1C1の合計と同じだから、東北であっても従来集計の少なくとも2倍の人口があった。

4、海産物を求めた縄文人が、三内丸山遺跡の様な大集落を作ったから、日本列島の沿岸部には三内丸山級の集落が沢山あった筈だが、沖積地の沈降と埋め立てや、巨大津波の襲来などにより、殆どが消失していると考えられる。(この推計を加味すると膨大な人口になるので、以下の補正値には算入しない。)

 

 下段の図は上段の補正値。上記4項の問題があるから、実際には更に多かった。

縄文時代後期前半と晩期は寒冷化し、東北・北陸・中部山岳地の人々の多くは、植生が豊かな西日本に移動した。彼らが移住直後に東北型の生活様式を捨て、海洋民族になったわけではないだろうから、縄文時代の東北型の人口比率は、中期の人口比で検証する必要がある。中期の東北の人口は、日本列島全域の1割になっているから、この補正にはある程度の妥当性があると言えるだろう。

 

4-4  3次仮説其の2  ミトコンドリア遺伝子の流入時期

沖縄にY-D2が多いのは、大陸への航路の中継地として、海洋縄文人が移住した事が一つの原因だった。もう一つの原因は、飛鳥時代に日本列島を追われた倭人が、沖縄に亡命した事による。

海洋縄文人の移住経緯を、沖縄と関東縄文人のミトコンドリア遺伝子分布からトレースし、ミトコンドリア遺伝子の流入イベントを追跡するために、以下では上記のmt-Dmt-Gを除いたグラフから東北縄文人を除き、現代沖縄人の分布を加えた。

 

沖縄にM7aが多いのは、縄文人と漁民が婚姻を伴う交流を行わなかった事を示す。沖縄の縄文系Y遺伝子は、4種の合計で3割以上を占めているのに対し、mt-M7a26%を占めているから、縄文時代初期のバランスが維持されている様に見える。mt-M7a以外の南方系遺伝子の一部も、縄文初期の移住者に含まれていたとすれば、それに関わるY遺伝子とミトコンドリア遺伝子はほぼ同数になり、沖縄では縄文時代を通して、縄文人と海洋漁民は婚姻関係を持たなかった事になる。本土ではmt-M7aが漁民に拡散したのに、沖縄ではそれが起らなかった事には理由があった。縄文時代の草創期や早期に、縄文人が九州に上陸して日本列島に拡散した頃は、縄文人の女性達が持っていた栽培文化は漁民に歓迎されたが、その栽培文化を身に着けた海洋縄文人が沖縄に移住したから、むしろ旧式になっていた沖縄の栽培文化に、海洋縄文人は魅力を感じなかったからだと推測される。豊かな海洋漁民の女性は本土同様に、沖縄の栽培民に拡散しなかっただろう。沖縄には、飛鳥時代の亡命倭人のミトコンドリア遺伝子も流入しているが、その遺伝子分布は北九州弥生人の様にm7-aを欠いていたと想定されるから、飛鳥時代の遺伝子流入による攪乱は、上記の推論には影響は与えない。

沖縄に移住した海洋縄文人の分布を復元し、海外女性の流入イベントを推測するためには、mt-M7aを除外した分布を作成する必要があるから、その処理を行った図を以下に示す。

 

海洋縄文人のmt-N9b比率が時代を追って低下し、最終的に北九州弥生人の様に、殆どなくなってしまったと想定する中で、沖縄には10%以上のmt-N9bが温存されている事から、沖縄への海洋縄文人の移住は、縄文時代の後期には停止していたと想定される。Mt-Bが関東縄文人の2倍もある事も、沖縄への移住時には関東の縄文人もその比率だったが、関東にはその後も多量の流入者があり、彼女達の遺伝子で置き換えられたから、その様な状況になったと考えられ、やはり海洋縄文人の移住は、縄文時代の後期には停止していた想定に合致する。mt-M7cmt-Aも同様の傾向を示すから、これらは海洋縄文人が沖縄へ移住する前に流入し、移住時と移住後には流入を停止していた遺伝子だった事になる。

mt-Bは、オーストロネシア語族海洋民の娘だった可能性が高い。mt-M7cはオーストロネシア語族民の遺伝子だが、海洋民ではなく、内陸民の女性だった疑いがある。現代日本人と沖縄人を比較すると、Mt-Bよりmt-M7cが相対的に大きく減少しているから、東南アジアの島嶼部の女性だったmt-M7cは、縄文時代中期以降には来なくなったが、Mt-Bは大陸の稲作民にも多数いたから、稲作民の娘として流入したから、mt-Bはあまり減少していないと想定される。その事は、オーストロネシア語族民の男性が、縄文人から造船・航海・漁労技術を習得している時期には、多数の女性が来たが、技術を習得して南北の海洋民族として独立し、温暖な気候の島々に拡散して縄文人より豊かになり、オリエント方面から高度な文明を摂取し始めると、日本列島に来る女性はいなくなったことを意味する。

mt-Aは、アムール川流域の狩猟民の娘だったと想定される。彼女達もmt-Bと同じ流入過程を示している事は、同じ様な経緯があった事を示唆する。現在シベリアにもあまり多くないmt-Aだが、縄文時代早期や前期には、栽培民系のミトコンドリア遺伝子に置き換えられていない民族がいて、海洋縄文人が彼らと造船技術を交換した事が想定される。造船技術だけでなく、黒曜石の矢尻が付いた弓矢を得て彼らも豊かになり、娘が日本に来る状況が失われたのか、その民族が豊かになると徐々にmt-Dが南から拡散し、mt-Aを駆逐してしまったから、結果としてmt-Aが多数日本列島に来るのは、縄文時代前期で終了してしまったかの、いずれかだった事になる。八ヶ岳山麓の繁栄は、縄文時代後期まで続いた事と併せて考えると、交易相手の民族のmt-Aが、mt-Dに置き換わったと考える方が、妥当性が高い。温暖化する気候の中で、栽培民は満州やモンゴル高原に北上して来たから、栽培民の中のmt-Dの膨張圧力も高まっていただろうし、狩猟民にとっても、栽培文化を取り入れる事は望ましい選択だっただろう。繰り返しになるが、民族のテリトリーの境界部分では、女性の異民族拡散があった筈だが、一旦狩猟民社会にmt-Dが取り込まれれば、数世代後のmt-Dは見掛け上狩猟民の娘であり、違いは母から栽培技術を受け継いでいる事だけだったから、mt-Dの拡散を民族融合と捉える必要はない。

Mt-Fmt-M7bは、現代日本人と沖縄人の比率が近似しているから、上記に遅れて稲作民の女性が多数来た事になる。台湾と福建省はあまり離れていないから、遅れて来た事は、海洋縄文人の到達が遅れた事を意味するのではないと考えられる。稲作民女性は海洋民族的な技能をあまり評価しなかったが、稲作民の活動の活発化と共に縄文人を評価した事を意味するか、縄文時代早期や前期の稲作民は、現在消滅している沖積平野で稲作の品種改良に苦闘していたが、まだ稲作技術が十分ではなかった上に、石器を十分活用できる技術を持たなかったから、稲作可能地が狭く、人口が少なかった事を意味する。彼らが河姆渡遺跡に定住した縄文時代前期に、漸く開墾のための石斧の供給とか、河川を遡上した開墾地への塩の搬入の様な運送能力を評価し始め、交流が深まると同時に稲作民の人口が増え、女性が渡航し始めたと想定されるから、上記の過程は時期的な前後関係を以て、同時並行的に起った可能性が高い。縄文時代後期になると、玉器の加工技術の移転なども富者に評価され、多数の女性が稲作技術を持って、日本列島に移民したと想定される。彼女達が焼畑農耕を発展させたのであれば、蛇紋岩製の磨製石斧がふんだんに入手出来る日本列島は、豊かな島に見えただろう。

関東縄文人は長い間に徐々にmt-N9b比率を下げ、縄文時代末期には北九州の弥生人の様に、殆ど失っていたと想定されるから、沖縄に1割ほどmt-N9bが残っている事は、移住の本流は弥生時代よりかなり早い時期だった事を示唆するから、一応縄文時代中期頃と想定して置く。本来この議論をするためには、縄文時代の移住者と飛鳥時代の亡命者の、沖縄人の中の比率を判断した後でなければならない。飛鳥時代の亡命倭人には、mt-N9bは殆ど含まれていなかった筈だから、亡命倭人が多数派であれば、沖縄への移住時期はそれに応じて繰り上げねばならないことになる。

海洋縄文人の沖縄への渡航時期を割り出す作業として、一番明確な指標となるのは、縄文時代前期の土器が、沖縄で発掘されている事になる。この時期には、海洋縄文人は間違いなく沖縄への再渡航に成功していた。

沖縄の縄文人と海洋民の間に婚姻関係がなかった事は、沖縄の縄文人と海洋民の間に、長期間の交流の断絶があった事を示唆する。沖縄は海面上昇後に黒潮に囲まれ、日本列島から渡航するためには、10kmh程度の高速の船が必要だった事を斟酌すると、海洋縄文人の沖縄への再渡航は、縄文時代早期末以上には遡れない可能性が浮上する。海面上昇は8千年前(早期末)まで続き、その間次第に黒潮の勢いが増していただろうから、黒潮による断絶説を採用すれば、沖縄への再渡航は1万年以上遡らないと想定される。

オーストロネシア語族海洋民との深い関係が成立したのは、台湾が島として大陸から切り離された後だったと想定される。それでなければ、彼らが海洋民族になる動機が生まれなかったと考えられるからだ。大陸の民族に全く海洋性がないのに、オーストロネシア語族海洋民は世界最大の海洋民族になったのだから、その仮説には妥当性がある。島となって切り離された後に、その島の平坦部が急速に縮小して行ったから、彼らは海洋に活路を求めたというシナリオを含めると、台湾が島になったのは1万年前の事だったから、彼らが海洋民族を目指して海洋縄文人に接した時期も、1万年以上は遡らない。

オーストロネシア語族民の女性だったmt-Bが、多数日本列島に来た後に沖縄への移住が本格化したと考えられるから、本格的な移住は縄文時代中期頃だったと想定する事に、違和感はない。その事実から逆に推測すると、飛鳥時代の亡命倭人の数は、沖縄のミトコンドリア遺伝子分布を大きく変える程には、多数ではなかった事になる。

現代人のmt-Fmt-M7bの合計は、稲作民女性の流入者のミニマム値を示している。Mt-Bの過半も、稲作民女性だったと考えられるからだ。関東縄文人と現代沖縄ではmt-Fが多数派だが、現代日本人では両者が半々になっているのは、沖縄は関東縄文人の移住先だったが、現代日本人の分布の背景には、mt-M7bを多数招き入れた、関東以外の海洋縄文人がいた事を示している。富山の縄文時代前期遺跡で、mt-M9aが高頻度で検出された事と併せて考えると、関東の海洋縄文人とは別種の海洋縄文人だった北陸山陰系の民族が、縄文時代中期以降に、関東縄文人のテリトリーとは異なる商圏から、多数のmt-M7bの女性を招いた事になる。

関東縄文人と現代人が持っているmt-M10は、北九州の弥生人にはない。これらは北方系の遺伝子だったから、北九州の弥生人になくても不思議ではないが、関東縄文人が移住者の主体だったと考えられる沖縄人にも、mt-M10がないことは、流入時期が比較的新しい事を示している。それはmt-M8aについても言えるが、北九州にはmt-M8aが多数ある。それは北九州が華北を商圏とする交易集団だったから、mt-M8aが漢民族の遺伝子である事で説明されるから、上記の違いは矛盾しない。

その他に分類した出自不明の割合が少ない遺伝子を除けば、関東縄文人と現代人はほぼ同じ遺伝子構成になっている。両者の割合が微妙に違うのは、関東以外にも海洋民集団がいて、関東の縄文人とは異なる地域から女性を招いたから、分布の割合が異なるとして説明できる。日本列島内でも地域によって、遺伝子分布は微妙に異なる筈であり、サンプリング統計には誤差が付き物だから、関東縄文人の分布と沖縄人の分布を比較し、流入イベントとその時期を推定すれば、それが縄文時代の日本全体を代表する、種々のイベントだったと考えても良いだろう。北九州弥生人には、北方起原である事が明らかな遺伝子が幾つかないが、全体としては関東縄文人の分布に近く、古い時代に流入した北方系のmt-Aは沖縄的に関東縄文人より多く、mt-Bも同様である事から考えると、北九州の海洋縄文人も縄文時代草創期や前期には、関東の海洋縄文人と全く同じ活動をしていた可能性が高い事になるが、見方を変えれば、沖縄に関東縄文人が移住した頃、北九州にも関東から多数の海洋縄文人が移住した可能性が高い。関東縄文人が倭人の元祖で、北九州も倭人集団を標榜していた事から考えると、その推測には歴史的な背景がある。Y-D2の詳細分布と併せて考えると、倭人と言われた人々は、縄文時代中期頃以降に、関東から北九州や大阪湾岸に適宜拡散していた人達で、一番拡散数が多かったのは縄文時代中期か、後期前半の寒冷期だった事になる。連続した時代だから、一連の流れだった事になるが、その種たる理由は、西日本で米や雑穀の栽培が盛んになったからではなかろうか。関東では植物性の食料は堅果類が中心だったが、西日本では米や雑穀が食べられるのであれば、移動が容易だった海洋民族としては、移住希望者がいたとしても不思議ではない。縄文人より華南から来た女性の方が、移住に積極的だった可能性もある。

北九州への移住が縄文時代晩期には終わっていた事は、北九州にmt-M10がない事から分かる。この時代は寒冷期だったが、温暖な南関東では米や雑穀が栽培出来たからだと想定されるが、交易者として、本社機能がある関東から離れる事ができなかったと云う様な、現代人にも理解出来る動機だった可能性もある。矢尻交易は急下降していたが、宝貝交易などの中華政権との交易が隆盛になろうとしていた、交易構造の過渡期だった。