地理学者の阪口豊氏が、尾瀬の泥炭層の花粉から古気候の復元を試みた。データがノイズに埋もれていたので注目されなかったが、数値処理によって抽出される寒暖周期や温度振幅は、歴史事実と整合する。

古気候は、湖底泥の花粉を調べる事によって推測できるが、温暖な地域の湖は周囲の植生が多様だから、個々の植生の盛衰は多様な環境条件に影響され、温度変化だけを分離する事が難しい。自然界の植物には遺伝子の多様性があり、それによって環境変化に適応するが、その適応力には種によって違いがある上に、日本列島には多数の外来種が存在し、観測対象の時代に生存していた種を特定する事ができない。従って現在の日本の植生分布を気候の寒暖だけで分類しても、過去の状態を復元できるわけではなく、10℃単位の大きな寒暖は推測できるが、1℃単位の変化には対応できない。

年輪分析も有力視されているが、樹木の生長には気温だけでなく降水量や日射量も影響し、気温の影響は北限地以外では大きくないだろうから、それらの効果を分離できない限り、気温変動だけを抽出する事はできない。

海底泥の酸素同位体比から、海流表面の温度変化を読み取る事も行われているが、海流の温度はその地域の環境で決まるのではなく、海流の流路も固定していたわけではないから、湖底泥以上の精度を求める事は難しい。

阪口氏は樹相の垂直分布の境界が、気温の変化によって変わる事に着目した。この場合には、侵食する樹種と侵食される樹種が常に固定され、温度変化に対する感度が高いだけではなく、温度変化を連続的に捉える事ができる。しかし阪口氏が取得した尾瀬の花粉データはノイズに埋もれ、周期性が読み取れなかったので、世間の注目を集める事ができなかった。しかし数値解析技法を使うと、周期性が検知されるだけではなく、縄文時代の時代区分や、稲作の歴史的な北限移動と一致し、データの確度が高い事を示している。

阪口氏のデータは気候を数値的に表現しているから、穀物栽培の歴史的な北限移動を使い、緯度による温度変化と照合する事ができる。それが確認できるのは、大陸に歴史記録が残されている弥生時代末期~古墳時代に限られるが、9千年前から現在に至る変遷を同じ基準で示しているから、尾瀬の気候変化を数値で示している事になり、東ユーラシアの気温の変化を推測する有力な証拠になる。それを世界規模に拡大できれば、世界各地の歴史解析にも応用展開できる。その結果世界の気候は一様に変化したのではなく、太平洋と大西洋では気候変動の規模も時期も異なり、それには理由があった事が判明する。

古気候の温度振幅を、穀物栽培の歴史的な北限移動によって確認する事は、馴染みが薄い手法だから、先ずそれについて説明する。

穀物栽培者は1万年ほど前から、雑草や昆虫の脅威が軽微で乾燥しにくい栽培地を求めて北上し、寒冷期になると南下後退した。野生種であれば、遺伝子の多様性によって克服できる軽微な寒冷化でも、穀物栽培者は大きく南下した。その理由は以下による。

穀物栽培者は、生産量を極大化するために品種改良を続けたから、栽培種は次第に収穫が多い遺伝子に純化され、それによって遺伝子の多様性を失い、軽微な寒冷化でも生産量が劣化する様になった。農耕を生業にした民族は、収穫が減少すると生活が立ち行かなくなったから、栽培種が絶滅するには至らない軽微な寒冷化でも、収穫が確保できる地域まで南下した。

時代が進むと穀物種の耐寒遺伝子が精選され、冷涼な気候でも栽培できる様になったが、それは遺伝子純化の成果でもあったから、穀物の気候感度が更に高まり、寒冷期になると斉一的に南下する傾向が生まれた。弥生時代の大陸の稲作は降雨量が多い沿海部に集中し、華南から山東省までの、南北が長く東西が狭いエリアを稲作地にしたので、古墳時代に寒冷化すると稲作の北限は、山東省から揚子江以南まで800㎞ほど、緯度では5度ほど南下した。

周礼と漢書地理志が、弥生温暖期の山東省の主要穀物は米と麦だった事を示し、漢書地理志の戸籍統計は、その状態の人口分布を示しているから、それを寒冷期になった古墳時代の晋書の戸籍と比較すると、稲作が寒冷化によって山東から揚子江以南に後退した事を、人口の激減として検出する事ができる。現在の山東省北部と上海の平均気温の差は3℃だから、この時期の寒冷化に伴う温度変化を数値化する事ができる。

その方式をアワ栽培にも適用すると、漢代の漢民族のアワ栽培は遼寧省(幽州)が北限だったから、5度南下すると黄河流域が北限になり、晋代に黄河流域のアワの収穫が激減した事を、数値的に確認できると同時に、気候の変化と歴史事象の因果関係が明確になる。つまりこの時代の漢民族が、華北から揚子江流域に南下して南朝を樹立し、代わって騎馬民族や北の栽培民族が、華北に南下して北朝を樹立した事も、気候変動から生まれた必然的な結果として理解できる。

尾瀬の花粉が示す気候グラフで過去に遡ると、縄文早期は現在より平均34℃温暖だった事が判明し、それに3℃程の寒暖振動が重畳されると、揚子江流域が稲作の発祥地である事の、決定的な根拠を示す事になる。つまりイネの原生種であるOryza rufipogonの、現在の北限は福建省南部(北緯23度)だから、縄文早期の温暖期のイネの原生種の北限は、揚子江流域(北緯31度)に届き、寒冷期には北限から外れたから、9千年前の温暖期に揚子江流域でイネの原生種を栽培していた人達は、気候が寒冷化すると栽培を継続するために、雑草を除去したり湿度を保ったりして、栽培環境を整える必要に迫られ、周囲に繁茂する原生種や野生種の花粉に影響されない環境で、品種改良と栽培技術の高度化を創出する事ができたから、稲作の起源地になったと想定される。

気候は縄文早期から、寒暖振動を繰り返し乍ら徐々に寒冷化したが、稲作者は時代の進展と共に品種改良を進めたから、その結果として揚子江流域での収量は高まったが、その栽培種に適す気候範囲は狭くなり、寒暖の変化に応じて南北移動しなければならなくなった。それ故に稲作の北限の探究は、東アジアの古気候を復元する上で重要な役割を果たす。

 

1、  尾瀬の泥炭に封じられた花粉の分析

1-1 尾瀬の環境

阪口氏は「尾瀬ヶ原の自然史」(1989年、中公新書)に、尾瀬ヶ原の泥炭層の、花粉分析の結果を掲載した。尾瀬ヶ原は群馬県、新潟県、福島県の県境にある標高1400mの湿原で、泥炭は9000年前から連続的に堆積し続けている。以下の青字は阪口氏の著述の要約で、黒字は21世紀の知見を加えた解説。

3万年以上前に、北東の燧ケ岳(ひうちがたけ)の溶岩流が只見川を堰き止め、湖沼が生まれた。氷期に湖底が埋まって湿原になり、泥炭層が蓄積されたが、氷期末に再度湖沼になり、泥炭層の上に土砂が堆積した。

9000年ほど前に再び湿原になり、泥炭層が蓄積され続けて現在に至る。尾瀬ヶ原の様に、湿原特有の微地形がまとまって発達している泥炭地は稀で、世界的に最も赤道寄りに位置する。

氷期に生成された古い泥炭層は、層序が破壊されて時代が確定できないが、姶良火山灰層(29千~26千年前に形成)付近の泥炭層は、ハイマツ花粉が全花粉の70%を占めるから、氷期の最寒冷期(3万年前)の尾瀬ヶ原の環境を考察すると、北アルプス旭岳のハイマツ帯(標高2800m)の、表土中のハイマツ花粉が88%である事から、氷期の尾瀬ヶ原はハイマツに囲まれた湿原だった事になる。

ハイマツ以外の花粉にトウヒ、モミ、ツガがあり、これらはハイマツの下部に垂直分布する樹種だから、現在とその時期の気温差を推測するには、現在2800mのハイマツ花粉帯が、1400mの尾瀬ヶ原の標高まで1400m低下した事が参考になる。標高差100mで気温が0.6℃低下する事を考慮すれば、氷期の最寒冷期は現在の平均気温より、9℃以上低下していたと想定される。現代の地域別平均気温は、札幌8.0℃、東京15.3℃、福岡16.0℃、鹿児島17.3℃、那覇22.4℃だから、氷期最寒冷期の鹿児島は現在の札幌より寒く、緯度に換算すると12度以上寒冷化した事になり、九州は現在の北海道北部の様な気候で、本州は現在の樺太の様な気候だった事になる。

氷期最寒冷期の地中海北岸は、永久凍土に覆われて樹木はなく、北欧は厚い氷床に覆われていたから、現在のシベリア北部の様な気候だったと想定され、日本と比べると低温化が激しいから、氷期の気候は地域によって異なっていた事になり、古気候の解明には地域別の検証が必要になる。従って先ず氷期の尾瀬の気候から類推される、氷期のシベリアの気候を想定し、氷期の遺跡の発掘事実と比較する。

植生を左右する夏期の気温を比較すると、札幌(北緯43度)の7月の平均気温は20.2℃に対し、緯度が16度高いオホーツク海北岸のオホーツク(北緯59度)が12.9℃で、オホーツク付近の平地は森林に覆われているから、氷期の北海道も、低地は森林に覆われていたとする発掘実績と合致する。バイカル湖岸のイルクーツクは(北緯52度)18.3℃だから、氷期最寒冷期に10℃低下して8℃だったとすると、氷期のバイカル湖周辺には森林がなかったとしても、最寒冷期になっても夏は草原になった可能性があり、マンモスやヘラジカが繁殖していた状況と合致する。富士山頂の7月の平均気温は4.7℃で、富士山頂には氷床も永久凍土もないから、氷期の最寒冷期のシベリア南部にも、永久凍土はなかったと想定されるからだ。

 

1-2 9000年間の気候変化

阪口氏は、泥炭は容易にC14年代が測定できる事に着目し、泥炭に含まれるハイマツ花粉の割合をグラフ化した。

以下は阪口氏の著書からの転写。

image002

高山植物であるハイマツの、泥炭中の花粉割合が氷期に増えたのは、気候が寒冷化してハイマツ相の標高が下がったからだ。従ってハイマツ花粉の減少は、気候が温暖化して他の樹種が増加した事を示している。資料の平均の8%よりハイマツ花粉の割合が多ければ、その時期は寒冷で、8%より少なければ温暖だったとして、温暖な時期を黒塗りで示した。ハイマツ花粉の割合を数値化したが、気温と花粉量が逆比例するわけではないから、花粉割合を示す縦軸を平均気温に読み替える事はできない。

現在の尾瀬ヶ原の周辺では、ハイマツは至仏山(2228m)に群生している。花粉が飛散する6月は、尾瀬ヶ原では北西から南西の風が卓越するから、尾瀬ヶ原のハイマツ花粉は、西南にある至仏山から飛来したと考えられる。

北アルプスでは、ハイマツ相は28000m以上の標高で成立しているのに、それより低い至仏山にハイマツ相があるのは、至仏山が蛇紋岩の山だからだ。蛇紋岩帯では生育が困難な植物種が多く、独特な高山植物相が形成される。このため至仏山の標高は余り高くないが、通常より標高が低い場所からハイマツが群生している。ハイマツは樹林の垂直分布の最高位の樹で、ハイマツ帯には他の樹木はない。尾瀬ヶ原の周囲の山にハイマツがなく、至仏山だけにあるのは、至仏山だけが蛇紋岩の山だからだ。蛇紋岩が植物の生育を阻害する理由は分かっていない。

上記の表に、AD1800年以降のデータは表示していない。1800年以降は、ハイマツの花粉量が異常に増大するからだ。具体的には、1810年は26%、184419%、190029%、194410%だった。その傾向は尾瀬ヶ原だけでなく、他の報告からも読み取る事ができるが、その原因は不明

阪口氏は原因不明とし、このデータをグラフ化しなかったが、これもデータであるから、何らかの解釈によりグラフ化する努力が必要だろう。ハイマツ花粉の急増は、低温化が原因だった可能性が高いが、酸性雨の様な近代特有の攪乱であれば、データから除外する必要があり、酸性雨を例として近代の攪乱について考察する。

酸性雨の原因は石炭に含まれる硫黄だから、先ず硫黄とハイマツの関係を検証する。至仏山を構成する蛇紋岩は、シリコンとマグネシウムを主体とする岩石で、鉄、カルシウム、マンガンは豊富に含むが、硫黄は極度に欠乏する。植物の生育に必須な大気外元素として、リンとカリウムが知られているが、それに次いで必要な元素として硫黄、カルシウム、マグネシウムがあり、石炭に硫黄が含まれているのもそのためだ。安山岩や花崗岩は金属の硫化物を豊富に含み、その岩塊から流れ出る川から硫黄が供給されるが、至仏山は全山が蛇紋岩だから、産業革命以前のハイマツは硫黄不足に陥り、石炭の燃焼による硫酸雨は、至仏山のハイマツに不足していた硫黄を供給した可能性はある。

原因が硫酸雨であれば、その発生要因は石炭燃焼だから、産業革命以降の石炭需要の拡大を復習すると、ジェームスワットは1776年に実用的な蒸気機関を開発し、1781年に円運動に転換する機構を開発し、産業需要として本格的な石炭の消費が始まった。産業革命の進展と共に新興都市は成長を遂げ、暖房用と相俟って西欧や北米での石炭消費量は、1800年以降に急増した。日本では1868年に明治維新があり、産業革命は19世紀末に発生したから、日本の産業革命はハイマツ花粉の急増には影響していない。従って19世紀初頭にハイマツ花粉が急増したのは、欧米で発生した硫化物が偏西風に乗り、日本列島まで影響した事になるが、1810年に26に突発的に増加した事と、時期的な整合性は良くない。従って硫黄が原因だった可能性は低い。

硫黄以外の希少元素の可能性もあり、それであれば、近隣の火山噴火や遠方の巨大噴火が、ハイマツ花粉を増大させた事になる。浅間山はその有力候補になり、被害が出るほどの浅間山の大噴火は、685年、1108年、1532年、1596年、1647-1649年、1720-1723年、1754年、1783年、1803年、1909年、1911-1914年などが記録にあり、恒常的に噴火していたから、単なる大噴火はハイマツの生育に影響を与えなかった事になる。1783年の大噴火は天明の大噴火として知られているから、それによってハイマツ樹の成長が短期的に促進された疑いは否定できないが、ハイマツ樹の増加には時間が掛るから、1810年の激増は時期が接近し過ぎている。過去にその様な際立った増加が見られない事から、噴火がハイマツ花粉の割合に大きな影響を与えた可能性は薄いと考えられる。従って希少イオンの一時的な増加と、ハイマツ花粉の増加は結び付かないと考えて良いだろう。そもそも希少イオンの一時的な増加は、ハイマツの下部の植生にも有利に働いた筈だから、ハイマツだけが増えた理由にはなりにくい。

19世紀なってハイマツの花粉量が異常に増加したのは、低温化に伴う副次的な効果が高まったからである可能性もあり、その理由として、降雨の減少や風向風速の変化が挙げられる。その要因も9000年前から継続的に存在したが、観測されない微弱な影響だったものが低温化によって顕在化した可能性もあり、数値解析はその様な要素も取り込めるから、数値解析の説明の中で論考する。

その他の背景事実として、現在至仏山のハイマツ相の下限をオオシラビソが制限している事に、着目する必要がある。オオシラビソはマツ科モミ属の樹木で、東日本の冬季多雪地帯でハイマツの下部樹林を形成しているが、日本列島のオオシラビソの歴史は、2500年程しかなかったと考えられている。乾燥した太平洋側では、日本の固有種であるシラビソが同様の樹林を形成しているから、オオシラビソは2500年前以降に、冬季多雪地帯でシラビソを排除して優勢になった事になる。東北北部でのオオシラビソの歴史は千年以上遡らないから、オオシラビソの歴史は中部山岳地帯から始まった可能性が高く、海洋縄文人が3千年ほど前に、シベリア辺りから持ち込んだ疑いがあるが、オオシラビソも元々日本の固有種で、気候が寒冷化して豪雪の融解が遅くなってから、優勢になった疑いもある。但しその場合、東北への拡散が遅い事が説明できないから、外来種である可能性が高いが、海外にも群生地はないらしいから、移植樹種とシラビソの雑種かもしれない。

その真偽を究明する必要はなく、尾瀬の様な豪雪地帯では、オオシラビソが優勢になる以前はシラビソがその位置を占め、至仏山のハイマツの下部樹林も、シラビソが形成していたとして、数値解析を行う事ができる。ハイマツは降雪に強く、シラビソよりオオシラビソシラビソの方が降雪に強いから、ハイマツの下相がオオシラビソに代わったと想定される紀元後は、ハイマツ相の下限が高所に押し上げられ、ハイマツ花粉の割合が低下したと考えられる。降雪が中間的な環境では、シラビソとオオシラビソが混生している事が一般的らしいから、オオシラビソの至仏山への浸透によるハイマツ花粉の減少は、阪口氏が示すグラフで数%程度だったと推測され、その効果を繰り入れ、AD年代のハイマツ花粉の割合を補正する必要がある。この補正は、減少したハイマツの花粉量を増やす補正だから、19世紀以降のハイマツ花粉の激増を説明する素材にはならない。

ハイマツの寿命は100年程度で、シラビソとオオシラビソの寿命は数十年だから、樹林境界の遷移は、気候の変動から100年程度の遅れがあったと想定される。

グラフの攪乱要因はそれだけでなく、巨大火山の噴火などによる地球規模の短期的な寒冷化により、樹相の境界は変わらずに、花粉量が変動しただけで終わる事などもあった筈で、それらの事情を加味すると話はややこしくなる。その議論に深入りする事を避け、火山やその他のノイズ的な環境要因を除外し、統計的なばらつきを緩和するために、議論を100年以上に亘る長期的な気候変動に絞る必要がある。

数値解析の実作業に入る前に、上図のC14年代は校正する必要がある事を、指摘しておく必要がある。この本の執筆時には校正に関する認識がなく、阪口氏のデータも未校正状態になっているからだ。校正する必要があるのはBC1000年より古い時期で、以下の式を使って校正した。

BC1000年以前の校正年=C14測定年+(C14測定年―1000)*0.25 (単位はBC年)

 

1-3 数値解析

上図は9千年前から徐々に寒冷化した事を示しているが、その寒冷化傾向は一様ではなく、相対的な寒冷期と温暖期を繰り返しながら、徐々に寒冷化している。図中の何処から何処までを相対的な温暖期と判定するのか、個人的な見解が分かれる状況だが、主観的に下左表を作成した。グラフでは、最初の温暖期の開始期は分からないが、以後の説明を簡略にするために、未校正のBC6000年と仮設した。

未校正年

校正年

中央年

中央年の間隔

 

未校正年

校正年

中央年

中央年の間隔

BC6000

BC7250

BC6800

 

 

BC6000

BC7250

BC6900

 

BC5200

6250

 

 

BC5200

6250

 

寒冷期

 

 

1400

 

寒冷期

 

BC6100

1600

BC4700

BC5625

BC5400

 

 

BC4700

BC5625

BC5300

 

BC4400

5250

 

 

BC4400

5250

 

寒冷期

 

 

1800

 

寒冷期

 

BC4500

1600

BC3300

BC3875

BC3600

 

 

BC3300

BC3875

BC3700

 

BC2800

3250

 

 

BC2800

3250

 

寒冷期

 

 

1400

 

寒冷期

 

BC2900

1600

BC2400

BC2750

BC2200

 

 

BC2400

BC2750

BC2100

 

BC1500

1625

 

 

BC1500

1625

 

寒冷期

 

 

1800

 

寒冷期

 

BC1300

1600

BC550

BC550

BC400

 

 

BC550

BC550

BC500

 

BC150

150

 

 

BC150

150

 

寒冷期

 

 

1400

 

寒冷期

 

AD300

1600

AD700

AD700

AD1000

 

 

AD700

AD700

AD1100

 

AD1300

1300

 

 

AD1300

1300

 

左表の各温暖期の中央年の間隔値に類似性があるから、数値解析の一般的な手順として、中央年の間隔を定数として、周期的な寒暖振動を仮定する。右表はその仮定に基づいて各温暖期の範囲を微妙に変え、中央年の間隔を1600年に揃え、寒冷期の中央年も記入した。中央年を寒暖のピーク時とする根拠はないから、次に実際の寒暖の様子を論考する。

阪口氏は、千葉県野田市の台地の谷底から採取した泥炭の分析から、BC250年(未校正年)に突然、モミ、トウヒ、ゴヨウマツなどの針葉樹が出現した事を、急激な寒冷化があった証拠と考え、それは未校正のBC2800年に始まった寒冷期と合致すると指摘している。しかしこの極端な寒冷期は、100年ほどで停止したとも指摘しているから、ここでは扱わない短期間の事になる。従ってこれは、1600年周期の気候変動に起因する寒冷化ではなく、巨大噴火や隕石の衝突などによって太陽光が遮蔽され、地球が短期間寒冷化したと云う様な、他の要因が重畳されたものである疑いが濃い。上のグラフが示す当該時期は、一般的な気候変動の範囲内に収まる寒冷期で、極端に寒かった寒冷期ではない事を示しているから、指摘された期間に何かの要因で寒冷状態が強調されたと想定される。従って寒冷期と温暖期の温度振幅は結構大きかったと想定し、この時期は周期的に繰り返された寒冷期の最も寒冷な時期にあたり、そこに何らかの特殊要因による寒冷化が100年ほど重畳されたと考えると、阪口氏の指摘をほぼ満足する。

厳しい寒さを示した未校正年のBC2502400年は、校正するとBC28752750年になり、その前後を含めた時期が寒冷期の底だったと想定される。過去の気候変動を論考している論文は、徐々に寒冷化が進展して最寒冷期に達し、それがしばらく続いた後に急激な温暖化を示すものが多いから、それを適用して寒冷期を150年ほど前後に拡張し、区切り良く校正年のBC3000年~BC2600年を寒冷期、BC2500年代を寒冷期から温暖期に急変した100年間とし、その後の温暖期を寒冷期と同じ400年間とし、いずれにも含まれない期間を過渡期として、機械的に1600年周期で展開し、縄文前期以降の時代区分と並べた表を下に示す。寒冷期と温暖期の温度に絶対的な基準はなく、前後の気候との相関関係になる。阪口氏のデータはBC7000年まで示しているが、ある程度様子が分かっているのは縄文前期以降だから、前期以降を比較する時代とした。

校正年代

相対的寒暖

日本の時代区分

中国の時代区分

BC5000

 延長温暖期

縄文早期

 

BC4900

 

 

 

4800

 

縄文前期

 

4700

 過渡期

 

4600

 

 

4500

 

 

西 仰韶文化期

4400

前期寒冷期

 

 

4300

 

 

東 遼河文化期

4200

 

 

 

4100

 

 

南 河姆渡文化

4000

 

 

   ~良渚文化

3900

 前期温暖期

 稲作開始

 

3800

 

 

3700

 

 

 

3600

 

3500

 延長温暖期

 

 

3400

 

縄文中期

 

3300

 

 

3200

 

 

 

3100

過渡期

 

3000

 

 

 

2900

 

北 竜山文化

2800

 オリジナル

 

南 良渚文化

2700

   寒冷期

 

  ~屈家嶺文化

2600

 

 

 

2500

急変期

 

 

2400

 

縄文後期

 

2300

 オリジナル

稲作民の北上?

2200

   温暖期

 

2100

 

 

2000

 

 

 

1900

 延長温暖期

 

 

1800

 

 

夏王朝・三星堆

1700

 

 

1600

 

 

殷の鄭州時代

1500

 

 

華北 殷周時代

1400

 

 

華南 盤龍城(武漢)

1300

 

縄文晩期

稲作民が湖北省に南下

1200

 晩期寒冷期

 

1100

 

~呉城文化(江西省)

1000

 

 

稲作民の文化中心が

900

 

 

   更に江西省に南下

800

 

弥生時代

 

700

 弥生温暖期

 

春秋時代

600

 

 

 

500

 

 

稲作民が山東省に北上

400

 

青森で稲作

300

 

 

戦国時代

200

 

 

100

 

 

0

 

 

 

0

 

 

 

AD100

 

 

 

200

 

 

 

300

 古墳寒冷期

古墳時代

晋 →華北王朝の崩壊

400

 

稲作の北限は

南北朝時代

500

 

関東に南下

600

 

飛鳥時代

700

 

奈良時代

800

 平安温暖期

平安時代

 

900

 

 

1000

 

稲作が青森に北上

1100

 

奥州藤原氏の栄華

 

1200

 

鎌倉時代

1300

 

室町時代

 

1400

 

1500

 

戦国時代

 

1600

 

江戸時代

1700

 

天明の飢饉

 

1800

 

天保の飢饉

 

1900

 近代寒冷期

明治・大正・昭和

中華民国

2000

 

平成

 

左表の「相対的な寒暖」が示す寒冷期と温暖期は、考古学的な根拠に基づいて設定された縄文時代の区分と、偶然とは言えない良好な一致を示し、温暖期の下限を300年延長すると、更に一致度が高まる。阪口氏が、平安温暖期は鎌倉時代まで続いたと指摘している事とも一致するから、各温暖期を300年延伸した。

縄文早期は延長温暖期の終了と共に終了し、寒冷な縄文前期が始まったが、次の延長温暖期の終了時に縄文前期が終わり、寒冷な縄文中期になった。縄文中期は温暖期の開始に同期して終り、後期は温暖期として始まった。縄文晩期は寒冷期そのもので、考古学者も寒冷期だったと指摘している。

縄文時代の時代区分は気候の寒暖と良好に一致し、温暖期や寒冷期への転換時に、気候が劇的に変わった事になる。

弥生時代の稲作を南北移動から検証すると、青森県で発掘されたBC4世紀頃の水田は、温暖期に北上した稲作民の痕跡になる。温暖化した直後に青森まで北上したのではなく、新しい農地を求めて徐々に北上し、温暖化から数百年遅れて青森に達したとも解釈できるし、BC4世紀に青森の気候が幾分冷涼になり、稲作方法を変える必要が生まれたとも言えるが、いずれであっても整合している事になる。

中国史との整合性を検証すると、縄文後期に稲作民が華南から北上し、黄河流域で夏王朝を樹立した事と整合する。夏王朝はBC1700年頃まで健在だったが、延長温暖期が終わるとアワ栽培者の殷王朝になった事とも整合する。殷王朝期に南下した稲作民は、春秋戦国時代に再度河北省まで北上し、その状態がBC100年代まで続いたから、その状態が漢書地理志に記載された事も、左表と良好に一致する。

 温暖期の名称として、新しい順に平安温暖期、弥生温暖期、縄文後期温暖期と命名する。縄文前期は後半が温暖期で前半は寒冷期だったから、縄文前期温暖期と前期寒冷期を使い分ける必要がある。寒冷期は前期寒冷期以降を、中期寒冷期、晩期寒冷期、古墳寒冷期、近代寒冷期とする。

 東アジアの歴史との良好な整合は、この寒暖周期表の確度の高さを示すが、日本の通説では縄文中期が温暖期で、後期に寒冷化したと説明しているから、それとは決定的に矛盾する。しかし通説の根拠は、寒暖を示す直接的な事実ではなく、間接的な推測に基づく矛盾した説明をしているから、通説が誤っている疑いが濃い。

通説は、竪穴住居の増減が人口の増減を示すと決め付け、縄文中期の東日本で竪穴住居が増加し、縄文後期にそれが減少した事を根拠に、縄文中期は温暖だったから人口が増えて竪穴住居が増え、縄文後期に寒冷化したから人口が減って竪穴住居も減ったと説明している。しかしその解釈には無理があり、通説はそれを糊塗するため、次の様な矛盾した説明をしている。

西日本では、縄文時代の竪穴住居跡の発見例が乏しいが、それは西日本が人口稀薄地だったからで、その原因は、温暖過ぎて堅果類の生産性が低い、亜熱帯性の照葉樹林に覆われていたからだ。冷涼な東日本は、堅果類の生産性が高い温帯性落葉樹林に覆われていたから、縄文時代の人口は東日本に集中し、温暖な縄文中期に東日本の人口が増えたが、縄文後期に寒冷化したので人口が減少した。

温暖化して人口が増えたのであれば、西日本の人口は更に多かった筈であり、寒冷化して植生の生産性が劣化したのであれば、温暖な西日本に移住すれば良いのであって、縄文人にそれが出来なかった筈はない。通説はこの様な致命的な矛盾を抱えているから、誤った判断であると考えて良いだろう。

照葉樹林の生産性が低い事は事実だが、三内丸山遺跡が示している様に、縄文人はクリなどの堅果類を栽培していたのだから、西日本でも照葉樹林を伐採すれば、コナラやクヌギが生える里山を容易に形成できた。縄文時代に農耕が始まっていた事から考えれば、温暖な西日本の方が植物性の食料が豊かだった筈であり、通説は間違った認識を無理に説明しようとして、大矛盾を生んでしまう典型的な事例になる。

比較的冷涼な東日本や中部山岳地帯で、寒冷化した縄文中期に竪穴式住居が増えたのは、竪穴住居は耐寒住宅だったからだと考えられる。温暖だった西日本では、考古学的に発見が困難な平地式住居が使われていたと考えれば、矛盾の無い歴史解釈が生まれる。それは考古学の無力さを暴露する事になるから、考古学者には気に入らないかもしれないが、高い精度で縄文時代を区分したのだから、自信を持って仕事をして頂きたい。

 

上表の様に機械的な周期表を作成すると、歴史事象と良好に整合するが、この表には阪口氏のグラフから逸脱する部分がある。グラフでは、BC2300BC2500年は極めて温暖だった事を示しているが、周期表では縄文中期寒冷期だから、本当に温暖だったとすれば、1600年の寒暖周期から生まれた温暖期ではなく、他の要因による短期的な気候変動だった事になる。但し実際に温暖だったのではなく、他の理由でハイマツ花粉が減少した可能性が高い。蛇紋岩体の大規模な崩落が、樹林に大きな損傷を与えて花粉の飛散量が減少した可能性があり、病虫害によってハイマツが衰弱した可能性もあり、それらの想定は無理なこじつけではない。数値解析ではこの様なイレギュラーをノイズとして扱い、その原因は追究しない。ノイズの原因は無数にあり、本質的な状況とは無縁の単発事例が多いからだ。それをノイズと判断する事の妥当性は、色々な歴史事実との比較検証から明らかにし、根拠なく削除するわけではない。またこの時期に短期的な温暖化があったとしても、1600年周期の寒暖振動があったとする想定が、否定されるわけではない。

阪口氏のグラフではノイズが邪魔になり、簡単に周期性を読み取る事ができない。阪口氏が著書で、1600年周期の存在に言及しなかったのも、グラフから読み取れなかったからだと推測される。周期性を読み取るためには、阪口氏のデータが内包するノイズについて理解する必要がある。

阪口氏の測定試料は、尾瀬ヶ原の泥炭層を筒状に掘り出したコアから、輪切りに切り出した資料片だが、その断面積は極めて狭いから、各資料片に飛来した花粉の数には、大きなばらつきがあった。湖岸の桜並木をイメージし、風が吹いて湖面に花びらが舞い落ちた情景を想定すると分かり易い。その湖面を茶碗大の面積で分割し、特定の分割面の花びらを数える事により、湖畔の桜並木の数千年間の変遷を推定する事が、この測定と同じ行為になる。花粉の径は小さく数が多いから、茶碗ではなくバケツを想定するべきかもしれないが、それでも一つのバケツでは、毎年の総飛散総量を正確に推測する事は難しい。多数散った年でありながら、特定面には殆どない事もあり、逆に少なかった年に偶然塊になる事もあっただろう。花粉アレルギーの人を悩ませるスギ花粉の飛散量は、気候に大差がなくても年毎に何倍も違う様に、ハイマツ花粉の飛散量も年によって大きく異なっただろうし、風向きや風速のばらつきによっても変わったと想定される。

阪口氏のデータは、少なくとも10年程度の累積値だから、年単位のばらつきや位置的なばらつきは、ある程度平準化されているが、ばらつきの大きさから見ると、数値のブレから有効に解放されていない様に見える。離れた複数の場所からコアを採取し、それらを平均すればこの問題は緩和されるが、阪口氏が計測した時代には、一つのコアのデータを採取するのも大変な労力だったから、それは仕方がない事として諦めるしかない。

データを平均化して傾向を見出すために、前後の数値を平均化する手法がある。平均化する範囲が狭ければノイズは解消されず、広すぎると、傾向のみが示されて微細な構造は失われる。色々試した結果、前後3個と自身を併せた合計7個の平均を取ると、ある程度傾向が分かるグラフが得られた。21世紀にはエクセルが使えるので、この様な作業を簡単に行う事ができる。

上のグラフから、1600年周期の気候変動が、太線で示す寒冷化トレンドに重っている事が読み取れる。折れ線の変動が時代区分より遅れているのは、樹木相の境界の移動が、寒暖の変化から遅れたからだと推測される。

オオシラビソの花粉減量効果は、弥生温暖期より平安温暖期の平均気温を僅かに下げるため、紀元後の数値に一律2%加算した。縄文前期、後期、弥生時代と、時代が降るにしたがって温暖期の気候は低温化しているから、そのトレンドを維持する最低補正量が2%になる。それにしても、弥生温暖期より平安温暖期の方が寒冷だったと、判断する根拠は必要になる。

弥生温暖期も平安温暖期も、稲作は共に青森まで北上した。共に北限を津軽海峡で区切られたから、本当の差は分からないが、平安時代の稲作は、弥生時代の稲作より品種や農法の改良が進んでいた筈だから、それ以前の稲作の北上トレンドから考えると、弥生温暖期と平安温暖期が同程度の気候だったのであれば、平安温暖期の稲作は津軽海峡を越えた可能性が高い。しかし実際には、北海道南部に北上した気配はないから、平安温暖期は弥生温暖期より低温だったと考えられる。

次に、ハイマツ花粉の割合と気候の関係を推測する。

ハイマツ花粉の割合が、平均気温に対して線形関係だったとすると、氷期のハイマツ花粉の割合は70%だから、平均気温が50℃以上低下した事になり、平均気温の低下は910℃だったと見積もった事と矛盾する。従って花粉の含有量と気温の関係は、線形ではない事は明らかだ。この様な場合の数値解析の常套手段として、花粉割合を自然対数に変えて様子を見る。自然界の物理現象は、自然対数を含む関数に従う事が多いからだが、根拠になる理論はないから、単なる近似式になる。

縦軸を対数目盛に変え、1800年以降のデータも加えた図を以下に示す。但し7点平均と云っても、一番端は4点平均になるから、左端3点はイレギュラーな数値になり、それは右端の数値にも言える。

阪口氏が異常なデータとしてグラフから排除した、19世紀以降の急激な含有率の上昇は、17世紀以降のトレンドの延長にも見え、江戸末期から昭和初期までの極めて寒冷な気候と整合する様にも見えるから、事実と矛盾するわけではない。江戸時代の後半期に、東北を中心に天明・天保の大飢饉が起こったからだ。それ以前にも日照りによる飢饉は西日本で多発していたが、東北の飢饉は寒冷化の影響だった。明治以降は暫く寒冷化による大飢饉はなかったが、化学肥料を使うなどの近代農法の導入により、厳しい冷害の危機が一旦去ったからだと解釈出来る。しかし1930年以降の4年間、東北で冷害による深刻な不作に陥ったのは、更に寒冷化が進んだからだと推測される。その様な1800年以降の寒冷化に対し、尾瀬のハイマツ花粉が同様の寒冷化傾向を示しているとも解釈されるから、1800年以降の測定値も組み込んで、以降の解析を進める。

次に、花粉割合を平均気温に換算する。花粉割合の自然対数と平均気温は、近似的な線形関数であると想定し、ハイマツ花粉の割合を平均気温に変換する手順を、下の模式図で示す。図中に記載されている数値は、下記の手順で算出する。

上図の縦軸は平均気温で、横軸はハイマツ花粉の割合の自然対数になる。F1は至仏山から飛来するハイマツ花粉の割合を表す関数で、F2は至仏山が蛇紋岩ではなく、北アルプスの様な通常の岩体だった場合の関数になる。F2F1と同じ傾きとは限らないが、それほど違わないと考えられるから、ここでは一応同じ傾きとする。至仏山は蛇紋岩の山だが、尾瀬ヶ原の周辺は北アルプスと同じ通常の岩石で覆われているから、F2は尾瀬ヶ原周辺の関数でもある。

気候が寒冷化すると至仏山のハイマツ相が下降し、ハイマツ花粉は増加するが、ハイマツ相の境界が通常岩体に達すると、それ以上低温化してもハイマツ相の下限の下降は停滞し、ハイマツ花粉の割合は増えない状態になる。更に気温が低下し、通常岩体のハイマツ相の下限の標高が、至仏山の蛇紋岩帯のハイマツ相の下限の標高まで下降すると、言い換えれば、平均気温がF2に従うポイントまで低下すると、ハイマツ花粉はF2に従って低温化と共に増加する。

現在の至仏山のハイマツ限界は、標高2050m近辺から始まっている。ハイマツの寿命が100年程度あり、1950年の日本はまだ人為的な温暖化が始まっていなかったと想定されるから、阪口氏の最後の測定から60年後になる、21世紀初頭の至仏山のハイマツ相の下限は、未だ上記のグラフの左端の様相を示していると考えて良いだろう。従って坂口氏の言う北アルプスの2800mのハイマツ相は、蛇紋岩の山である至仏山では2100mで、蛇紋岩帯と通常岩体のハイマツ相の下限の、現在の標高差は700mだから、上の模式図で示すF1F2の温度差は、

700m0.60/100m =4.2℃ になる。

標高の増減に伴って気温が変化する割合を、以下では気温標高勾配と呼ぶ。その値は概略0.6/100mとされているが、それが気候の寒暖によってどの様に変化するのか確認する。下の左図は、富士山の山頂(3776m)、5合目(2305m)、河口湖(860m)、富士市(10m)の、1月、5月、8月の平均気温を示すグラフで、3本の線は各月の標高と平均気温の関係を示し、各々のグラフの傾きがその月の気温標高勾配になる。右図に富士市の各月の平均気温と、その月の気温標高勾配の相関を示す。これもほぼ線形だから、麓の平均気温から山岳地の気温標高勾配を見積る右下のグラフの直線を、氷期の低温域まで拡張する事ができる。

  

標高が高いと気温が低下する原因は、上昇気流が気圧の低下によって膨張し、ボイル・シャルルの法則として知られる低温化が発生する事の他に、気圧が低いと水の蒸発が促進されるから、標高が高いほど気化熱が奪われやすい事が挙げられる。気温が高いと気温標高勾配が低下する理由は、気温が高いほど大気は多量に水蒸気を含むから、気流が上昇して低温化する際に、大気が高温であるほど沢山の水滴を発生させ、その凝固熱が空気を温めて気温の低下を抑制するからだ。飽和水蒸気圧は、気温に対して指数関数的に増加するから、海に囲まれた日本列島ではその効果が高いと考えられる。

現在の尾瀬ヶ原の気温標高勾配は、尾瀬ヶ原に近い前橋の平均気温13.8℃を、右図の富士市の平均気温にあてはめる事によって得られる。その値は0.60/100mだから、上で使った0.6℃は妥当だった事が確認できる。

次に、氷期の最寒冷期だった姶良火山噴火時の、前橋の平均気温を推測する。実際には仮に設定した値で以下に示す計算を行い、その結果と状況証拠を突き合わせて原因と結果が同一になる値を探したのだが、此処ではそれを省いて結果だけ示すと、11.5℃低かったと算出された。前橋の現在の平均気温は13.8℃だから、氷期の最寒冷期には2.3℃だった事になり、その時の尾瀬ヶ原の気温標高勾配は、区切り良く6.4/100mだったとする。

次に、「現在」の平均気温を決める。最近の温暖化は短期の事象であり、100年以上のロングタームを扱うグラフでは使えないから、最近の温暖化が及んでいない時期を「現在」とする必要があり、坂口氏の一番新しいデータである1944年が、近年の急激な温暖化以前であれば、両者が整合する期待がある。東京の年平均気温の、観測開始以来の推移を以下に示す。

東京では、1930年以降徐々に温暖化し始めた事を示しているが、先に述べた様に1930年以降の4年間は、東北を中心に冷害が多発した時期だから、実際には寒冷な気候だった筈であり、東京のこの時期の気温上昇は都市化によるヒートアイランド現象だった可能性が高い。ヒートアイランド現象の主要因は、家庭や工場の排熱から生じる暖気でなく、森林を畑に変えて黒土をむき出しにしたり、市街地にしてコンクリートやアスファルトで覆ったりしたからだ。従って東京のヒートアイランド現象は1930年頃に始まった事になるが、それは東京に限った話で、尾瀬には及んでいなかった事が期待される。1945年をボトムにする寒冷化が、太平洋戦争時に関東平野の広いエリアで畠が放置され、雑草が蔓延って東京のヒートアイランド現象が緩和されたのであれば、尾瀬の様な辺鄙な場所では1945年まで、温暖化の影響は及んでいなかったと考えられる。従って阪口氏が最後のデータとした1944年のサンプルを含む、1800年以降の値を「現代」の花粉割合とし、現在の尾瀬の状態と景観は、それに一致している事にする。

次に3万年前の尾瀬の環境を確認する。先の説明では、尾瀬ヶ原の標高は3万年間変わらなかった事を前提にしたが、尾瀬は浅間・八ヶ岳を経て南アルプスに連なる、日本で最も隆起が激しい地域の末端にあり、最近100年間で15㎝隆起した。この静かな隆起が9000年続き、尾瀬ヶ原に連続的な泥炭層が形成されたと考えられ、そのペースであれば3万年間に45m隆起した事になるが、現実には3万年前の泥炭は、層序が分からない程に破壊されているから、3万年前から9000年前の間に激しい地殻変動があり、その隆起は100mを降らなかったと推測される。従って静かな隆起の45mと併せ、3万年前の尾瀬ヶ原は現在より、少なくとも200m低い場所にあった事にする。

3万年前の尾瀬の平均気温を決める根拠として、姶良火山噴火時の泥炭層に含まれる70%のハイマツ花粉は、北アルプスのハイマツ相の地面の88%と、等価であると安易に判断したが、尾瀬ヶ原の湿原にハイマツが生えていたのではなく、その周囲をハイマツの樹林が囲んでいたのだから、サンプルの採取地は飛散源であるハイマツ樹林の直下ではなく、湖岸のハイマツ樹林から離れていた事を、数値化する必要がある。

個々のハイマツ樹を花粉源と考えるのではなく、尾瀬沼の岸に花粉源が線状に並び、それより奥の地面は88%のハイマツ花粉を含んでいたと想定すると、阪口氏が採取した3万年ほど前の泥炭サンプルの花粉量は、採取された位置とその線状ソースとの距離に反比例する。湖岸から離れた採取場所のハイマツ花粉量が70%である事は、北アルプスの花粉濃度から計算すると、阪口氏が計測したサンプルは、岸から40m離れた場所で採取した事になる。現在の尾瀬ヶ原は数㎞四方あるから、当時もその様な状況だったとすると、採取した場所のハイマツ花粉割合は異常に多い事になり、偶然ハイマツ林に極めて近い場所だったか、他の花粉が飛散し難い、特殊な環境だった事になる。一般的な数値解析の手順として、可能性が低い特殊な環境は想定しないから、それに従うと、他の花粉を飛散させた樹林は、当時の尾瀬からかなり離れた場所にあった事になる。

ハイマツ花粉が88%だった北アルプスでは、他の樹林はサンプル採取地から数百メートル離れていたとすると、氷期の尾瀬では1㎞ほど離れていた可能性が高い事になるが、花粉の飛散環境も考慮する必要がある。北アルプスは吹き曝しの場所だから、総ての花粉はオープンな空間に拡散され、飛散密度は距離の2乗に反比例するが、尾瀬では谷間を抜けた風が、他の樹種の花粉を運んで来た筈だから、他の樹種の樹林からの距離とその花粉数は、極めて緩い減数関係になり、実際は10㎞程度離れていた可能性がある。

従って氷期の最寒冷期のハイマツ相の下限標高は、当時の尾瀬ヶ原の標高だったのではなく、数百メートル低い場所にあった可能性が高まる。その標高差を抑え気味に見積もり、氷期の最寒冷期のハイマツ相の下限標高は、当時の尾瀬ヶ原の標高より100m低かった事にする。

谷間のフェーン現象も考慮する必要がある。フェーン現象は、湿った空気が周囲の山で雨を降らせた場合に、雨になった水蒸気の凝固熱の分、その空気が暖まるから、空気が谷に下降して気圧が高まると、風上の同じ標高地より温度が高くなる現象を指す。

夜間の放射冷却についても、考慮する必要がある。山上では、天頂に向かって180℃以上の放射角があるが、谷間ではそれが制限されるから、夜間の低温化は制限される。吹き曝しの北アルプスと谷間の尾瀬ヶ原を比較した場合、谷間の方が暖かいという当り前の事を言っているのだが、数値化する事は難しい。しかし尾瀬ヶ原の周囲の山は、尾瀬ヶ原と比較した標高差が大きく、その影響は無視できないから、その換算値も抑え気味に100mだったとする。但しフェーン現象や放射冷却の補正をすべての計算に使うと、話が複雑になって徒に仮定を増やす事になるが、計算値に大きな偏差を生むわけではないから、ハイマツ相の下限の計算だけに用いる。氷期最寒冷期の計算温度はその分高めになるが、それは以下の理由で妥当であると考える。

F1F2を同じ傾きと想定したが、蛇紋岩帯の方が気温に対する感度が高い可能性があり、その場合にはF2の傾きが低下し、氷期の気温を実際より低く設定してしまうから、それを緩和すると同時に、センセーショナルな数値を避ける事ができる。

以上の補正を合計すると、氷期最寒冷期の尾瀬ヶ原付近の、ハイマツ相の下限は標高1000mだった事になり、3万年前の平均気温と現在の平均気温の差は、

2800m1000m*0.64/100m11.5211.5

阪口氏が測定した1800年以降の平均値は23%だから、それを「現在」の値とし、氷期と現在の温度差11.5℃を4.2℃移動して7.3℃とし、それと横軸の幅のLN(70)-LN(23)からF1の傾きを求めると、6.58になって以下の式が成立する。

F1306.58LN(ハイマツ花粉の割合)

定数30は場所に依存する数値で、平均気温を示す縦軸の数字目盛りを、上下動するだけの数値になる。

この計算に高い精度は見込めないが、古墳寒冷期の大陸の稲作の南下から、弥生温暖期と古墳寒冷期の温度差は3℃だったと想定され、それと比較すると良好に一致するから、誤差は数10%以内に収まっている事が期待できる。

グラフ左端の急落が相変わらず気になるが、幕末は江戸時代初期より23℃平均気温が低下した可能性が高い事は、既に説明した。個々のポイントは前後の7点平均だから、ポイントがその時期の温度を示しているわけではないが、1930年代の寒冷化と一致している事も、平均気温のトレンドを示している様に見える。但し温暖化した21世紀の平均気温は、このグラフの12℃辺りに上昇し、古墳寒冷期と同程度の気温になった可能性が高く、このグラフの他の値はそれを加味した平均化を行っているから、それが一般的な気候変化だった可能性もある。つまり100年未満の短期的な気候変化にも、1600年周期の気候変化に匹敵する温度振幅があり、過去にもその様な状態があった可能性を示唆している。

古墳寒冷期の日本の稲作は、前橋に巨大古墳を複数遺す生産力を示したから、それと同じ気候の下で現在の進化した農業技術が、北海道南部まで稲作を可能にしている事に違和感はない。

それでもこのグラフが示す1800年以降の低温化を、現実的ではないと感じるのであれば、近似式を変更して実感に近付ける事はできる。気温と花粉の関係を1次の自然対数として上のグラフを作成したが、自然対数を2次化すると下のグラフが得られる。以下では弥生温暖期と古墳寒冷期の3℃差を保存し、平安温暖期のピーク温度を、縄文前期以降の下降トレンドに乗せるために、オオシラビソの効果を3%にし、樹木相の遷移期間を100年として横軸の時期を100年早くし、温度目盛りは関東の実情に近付けた。

上図では温暖期や寒冷期の下降トレンドが線形だから、実感としては受け入れやすいが、理論的な根拠はない。その上の図と比べてどちらが実態に近いのか判断できないが、実際の自然現象は自然対数の1次関数と2次関数の中間である可能性が高く、グラフが示す各時代の相対的な温度差は、信憑性が高いと言えるだろう。

BC3500年(5500年前)まで高温期が続き、それ以降低温化している事から、東ユーラシアの気候は地軸の傾きと連動していると考えられる。

出典 Wikipedia

上のグラフの縦軸は、地軸の傾きの度数表示で、横軸は、中央の赤点をAD2000年現在とする年表示。8700年前に地軸の傾きが極大になり、現在は最も変化が激しい低温化期になる。

地軸の傾きが大きくなると気候が温暖になる事は、氷期と間氷期の原因説として著名なミランコビッチサイクルの最大要素で、その周期は4.1万年である。海洋より陸地の方が太陽光によって温まり易いから、高緯度地域に陸地が集積している北半球では、地球が傾くと夏季の大気温が高まって地球が温暖化するが、陸地面積が少ない南半球ではその効果が薄く、地球全体としてはそれが平均化され、地軸が傾くと温暖化すると考えられている。

地軸の傾きから期待される東ユーラシアの温度振幅は、上のグラフから以下の様に算出される。

縄文早期から現在まで4℃弱低温下し、それが地軸の傾きの振幅の半分弱に相当するから、フル振幅では8℃になる。氷期の最寒冷期は現在より12℃低温だったから、その内訳は地軸の温度差が4℃で、氷期メカニズムに依る低温化が8℃になる。従って東ユーラシアの氷期と間氷期の寒暖振幅は、地軸の傾きによる8℃と氷期の寒冷化メカニズムによる8℃が半々寄与し、それに1600年周期の寒暖振幅3℃を加え、フル振幅は19℃になる。

この事から、日本人の祖先が日本列島に到着した氷期の温暖期(5万年前)は、現在より4℃ほど寒冷化していただけで、凍て付く厳しい寒さではなかった事になる。氷床に覆われた北大西洋に近い、寒冷な西ユーラシアが出発地だったと想定される日本人の祖先は、温暖湿潤な地域を求めてユーラシア大陸を東に横断した事になる。彼らが日本列島に漂着した5万年前は、何時でも漂着可能な状態の或る日ではなく、氷期の中では稀な、移動可能なタイミングだったと考えられる。それ以前も以後も湖沼が氷結し、河川漁労民として食料が確保できなかったからだ。9万年前にも同じ環境があったから、その頃の日本列島にも人類が到達していた可能性があるが、8万年前の阿蘇山の大噴火や、7万年前のスマトラ島のトバ火山の大噴火の影響により、絶えてしまった可能性が高い。

1600年周期の寒暖表は、23世紀まで寒冷期が続く事を示しているから、現在の温暖化は人類の文明活動の結果である可能性が高いが、現在程度の気温上昇では、縄文時代の平均気温には至っていない。

以下に各都市の平均気温を示す。どの程度南北移動すると、縄文時代のどの時期の気候になるのか、この表から地域毎に読み取る事ができる。

都市

稚内

札幌

青森

仙台

前橋

東京

金沢

京都

岡山

松江

福岡

長崎

鹿児島

那覇

平均気温()

6.3

8.0

9.6

11.9

13.8

15.3

14.0

15.2

14.6

14.4

16.0

16.6

17.3

22.4

但し上の表の平均気温は、阪口氏の測定時に近付けるため、1982年の理科年表の数値を掲載している。温暖化した現在の気温ではないが、この時点で東京は既に1℃ほどヒートアイランド現象の影響を受けている。

この様に生々しいグラフがあると、グラフが実態を正確に把握しているかの様な錯覚に襲われるが、寒暖表の方が歴史事象との一致度が高く、折れ線は逐次追跡できる代物ではないから、長期的な温度傾向を読む事に留める必要がある。

 

1-4 1600年周期の寒暖表が、通説と一部乖離している事に関する補足説明

1600年周期の寒暖表は、縄文中期が寒冷期で後期が温暖期だった事を示し、それは通説と相容れない事と、通説には矛盾があるから、1600年周期の寒暖表が正しいと考えられる事を上で説明し、その根拠として、竪穴住居は耐寒建築だったと考えられる事を指摘したが、縄文中期寒冷期より低温化した縄文晩期寒冷期や、古墳寒冷期が始まっていた弥生時代末期に、東日本や中部山岳地帯の竪穴住居が増えなかった理由も明らかにしなければ、寒暖表の方が正しいという説明は竜頭蛇尾になる。以下にその概論を紹介するが、詳細は(10)縄文時代(11)弥生時代参照

先ず分かり易い弥生時代末期について説明すると、その時代の満州・朝鮮半島の民族事情を記した魏志東夷伝に、竪穴住居を使用していた東夷は、沿海州の挹婁(ゆうろう)と馬韓(京畿道~全羅北道)の韓族だった事が記されている。冬の寒さが厳しい沿海州の挹婁の竪穴住居は、寒気を防ぐために深く掘られ、大きな家には9段の階段があり、中に便所があって住居は不潔であると具体的に記している。馬韓の韓族の家は、「塚(中国の墓)の様な草の屋根がある土の室で、戸口は上にあり、家族全員がそこに住み、(住居内の空間には)年齢や男女の区別はない。」と記されている。馬韓の平均気温は日本の東北と類似し、弥生時代後期に寒冷化が始まったから、馬韓でも冬は耐寒建築が欲しくなったと想定される。韓族が竪穴住居を用いた事は気候的には妥当だったが、もっと寒い満州や満鮮境界にいた高句麗や扶余は、竪穴住居を使っていなかったから、魏の役人は竪穴住居を未開民族の住居と考え、上記の様な蔑視的な表現を使った。魏志倭人伝は文明人だった倭人の住居について、「内部に仕切りがある立派な家屋に住み、父母兄弟(それぞれ)が臥息するのに、別の個室を使う。」と記し、邪馬台国の倭人は、竪穴住居に住んでいなかった事を示している。従ってそれより温暖だった晩期寒冷期や弥生温暖期に、西日本に竪穴住居がなかったのは当然だったと言える。

一部の考古学者が、弥生時代まで日本の住居は竪穴式が主流で、一部は古墳時代まで使われたと主張しているが、魏志倭人伝に示された立派な建築物を発掘できない問題を棚に上げ、考古学の成果を誇示するために誤魔化しているとしか思えない。考古学者は竪穴住居の発掘は得意だから、弥生時代末期の西日本にあった朝鮮式竪穴住居跡を沢山発見し、それを根拠に半島から文明人が移住したと主張する人まで現れたが、魏志東夷伝を読みさえすれば、その様な解釈は噴飯ものである事が分かる。弥生時代末期の朝鮮式竪穴住居は、寒冷化した朝鮮半島北部でアワ栽培が立ち行かなくなった韓族を、倭人が日本列島に移住させた痕跡に過ぎない。韓国に多いY遺伝子O2bが日本人の1割近く存在しているから、多数の朝鮮式竪穴住居跡が弥生時代末期に出現した事は、彼らの移民を示していると考える事が、魏志東夷伝の必然的な解釈になる。

縄文後期温暖期に東日本の竪穴住居が減った事は、温暖化の結果として説明できるが、縄文晩期寒冷期の東日本に竪穴住居が増えなかったのは、縄文後期から晩期にかけて、中部山岳地帯や東北地方の人口が激減したからだ。それには理由があった。

中部山岳地帯に、縄文前期・中期の集落が多数あったのは、八ヶ岳山麓で黒曜石を採取し、矢尻を製作していた集落が複数あり、その集落に食料や生活必需品を供給する集落や、矢尻や生活必需品を運搬する街道と宿場があったからで、縄文後期以降大陸が青銅器時代になり、黒曜石の矢尻の製作が斜陽化したから、矢尻の製作が廃れて過疎化した事が最大の理由だった。

八ヶ岳山麓では、縄文人が組織的に黒曜石を採取した痕跡が発掘され、彼らが製作した膨大な数の矢尻は、今でも中部・関東の畠で拾う事ができる。八ヶ岳山麓を囲む南信地域には、矢尻製作集落に食料を供給していた集落も多数あり、彼らに海産物を運んだり、製作した矢尻を関東に運ぶ街道沿いには、宿場の様な集落も生まれていた。八ヶ岳周辺から、当時の繁栄を示す芸術的な装飾が施された華麗な土器や、ヒスイ加工品や琥珀が沢山発掘されているが、街道沿いの宿場だったと想定される集落跡からも、その様な遺物が多数発掘され、人々が交易を伴う豊かな生活を享受していた事を示している。その豊かさを示す遺跡は矢尻の生産・交易ルートと一致しているから、その豊かさの背景に頻繁な交易があり、交易品は矢尻や塩だけでなく、種々の生活財も含まれていたと考えられる。その様な集落を地図上で結ぶと、関東平野と繋がる街道の存在が浮上するが、最も芸術的な装飾が施されたと認知されている火炎土器は、信濃川流域で多数発掘されるから、日本海の海洋民族の根拠地だった新潟県域と、八ヶ岳山麓を結ぶ街道が信濃川流域にあったと考えられ、八ヶ岳山麓の矢尻は関東だけでなく、新潟県にも出荷された事が分かる。信濃川流域も関東も、ヒスイ加工品が多数発掘される地域だから、関東や新潟県で矢尻が弓矢に仕立てられ、交易財として大陸に出荷されたと考えられる。シベリアからインドシナ半島まで、大陸では黒曜石は採取できないからだ。しかし縄文後期になると大陸は青銅器時代に移行し始め、黒曜石の矢尻の需要がなくなったから、中部山岳地帯に多数の縄文人が住む理由が失われ、人口が激減した。従って縄文後期後半~晩期の中部山岳地帯は、過疎地になっていた。

東北には異なる事情があった。

縄文後期に海退が始まり、各地の河川の河口に沖積平野が広がり始めた。西日本では縄文後期から、穀類の栽培が盛んになった事が指摘されている。この時期の西日本に、東日本型の大型集落が複数生まれた事が、考古学的な発掘から明らかになっている一方で、東北北部では三内丸山などの大きな縄文集落が消滅し、道南でも同様な現象が見られる。この時期の大陸では、山東省南部や河南省北部の遺跡から、温帯ジャポニカの栽培者が北上した痕跡が発掘されている。ミトコンドリア遺伝子mt-Fは、大陸で温帯ジャポニカを栽培していたと考えられる遺伝子で、それが関東縄文人の遺体から多数発見されているから、彼女達が関東に渡来して稲作を行った事を示唆している。関東は山東省と同緯度だから、同じ稲作が可能な気候だった。しかし未だ石器時代だったから、畔がある水田ではなく、水溜りを土手で塞ぐ簡単な湿田で稲作したと考えられ、それらの痕跡は考古学的には発掘できない。BC5世紀頃の大陸の稲作事情として、その様な湿田の作り方が周礼に記されているから、その千年以上前に関東に渡来した稲作民女性が、それより進化した稲作を行っていた筈はなく、ミトコンドリア遺伝子mt-Fが見付かっている以上、考古学者お得意の言い訳である、「水田が発掘されないから、稲作は無かった事にしよう」は通用しない。

その様な状況下で、稲作民女性達が温暖な西日本に移住しなかった筈はなく、当時の稲作には適さない冷涼な気候だった東北から、多数の縄文人が稲作を目指して西日本に移住したから、上記の様な事態が生まれたと想定される。縄文後期に海退が始まって沖積平野が拡大し始めたから、稲作者を受け入れる未開地が広がりつつあり、東日本でのんびり堅果類を栽培している時代ではなかった。栽培者が西日本に移住すると、東北は狩猟者の土地になって人口は激減したが、東北の狩猟者はブームに取り残された貧しい人達ではなかった。縄文晩期の亀ヶ岡式土器は、青森に豊かな狩猟者集団が生まれていた事を示している。寒冷化して毛皮の需要が増大すると、亀ヶ岡が北海道と本州を結ぶ毛皮の集積地になり、毛皮の加工者が集積する地域になったからだと考えられる。1600年周期の寒暖と古代産業を結び付けると、縄文時代の人口推移が明らかになる場面が多々ある。

 

1-5 古気候に関する考古学者の見解

数値解析を行って近似式を作成した場合、出来るだけ多くの事実と擦り合わせ、その近似式の有効範囲を確定する事が、次に行うべき重要な課題になる。そのためには、古気候を体系的に解説している書籍の選定が重要になるが、イデオロギーを排し、真面目に取り組んでいる考古学者にも諸説ある。その様な書籍として、甲元眞之氏の「東アジア先史学・考古学論究(2009年)」(慶友社)の記述を以下に示す。以下の青字は著述の要約で、黒字は著述と上表の食い違いの説明。

 

1-5-1 年輪による古気候の推定

C14年代測定は精度が高いとは言えないが、年輪は実年代を精度よく追跡できる。年輪の間隔は温暖期に広く、寒冷期に密になるから、過去の気候変動が追跡できる。カリフォルニアとネバダの研究から、年輪の成長に抑圧があったのは、BC2170年前後、BC1800年前後、BC1450年前後、BC1200年前後、BC750年前後、BC350年前後、AD150年前後だった。

年輪から、気候の寒暖変動を読み取る事を期待しているが、現実には難しい。樹木の生育には寒暖だけでなく、降雨量や日照時間も影響するから、その樹種の北限でなければ、寒暖が年輪の粗密の主原因になるとは言えない。年輪の成長に抑圧があったBC2170年、BC1800年、BC750年、BC350年は温暖期だから、この時期の成長抑圧は寒冷化ではなく、乾燥化だった可能性が高く、気候変動の解釈に却って混乱を招いている。

 

1-5-2 縄文後期中頃の気候

黒海に注ぐドン川流域のラズドルスカヤでは、BC3000 年紀まで松を中心とする森林だったが、BC2200BC2000年に急速に森林が後退して草原になり、BC1700年以降に森林が回復し、穀物花粉が増加する。

クリミア半島のカラダシンスキー沼の花粉分析では、7000年以上に亘って森林景観が継続していたものが、BC3000 年紀後半からBC2000年紀前半に、草原が森林を侵食し、乾燥化に伴って開拓した畠地は、森林に復帰しなかった。

ウズベキスタンのリャブルヤカン湖周辺に、狩猟採集民と牧畜民の集落があったが、BC2200年頃に激しい乾燥化があった事が報告されている。

中央アジア東部のバルハシ湖(流出河川がない湖)でも、BC2260年頃に湖面の水位が23m低下し、BC1860年頃に上昇し、BC770年頃に再び低下している。この地域ではBC3000年紀の前半に草原が広がり、移牧民が水辺を根拠地として居住していたが、BC2200BC2000年に河川流域の落葉樹林が消滅し、住民は4輪馬車を使用する恒常的な移動民になった。この段階で遊牧騎馬民族になった証拠はなく、農耕と牧畜が併存していた可能性があるが、BC1000年紀初頭の次の寒冷期を経ると、遊牧騎馬民族のスキタイ文化が生まれていた。騎馬ができる様になると、管理できる羊の数が飛躍的に増え、豊かになった事が、遺物が豊富なスキタイ文化の背景にあったと考えられる。

甘粛省ではBC2070年頃を境として、喬木類の花粉が減って草本類の花粉が増え、土壌の有機物の含有量が低下し、寒冷化・乾燥化の兆候が読み取れる。また渭水の支流域の遺跡では、この時期以降に黄土の堆積が始まり、淡水産のカタツムリが消滅し、付近の沼沢地が減少した。キビとアワを栽培して豚を飼っていた住民は、BC2000年紀以降は牧畜的な要素が高まり、羊を飼養する様になった。

内モンゴルでも同様な傾向を議論できるが、明確な発掘事例はなく、黄河流域に関してはデータの整理段階にある。

甲元氏は文頭でC14年代測定の校正に触れ、校正によって正確な年代が判明するわけではないと主張しているから、ここで使われた年代は、校正されたC14年代だと考えられる。

バルハシ湖の湖面は、気候の乾燥化や降雨量の増減に直ちに反応したと考えられる。BC2260年頃に乾燥化が始まり、BC1860年頃に乾燥化が終了して湿潤な気候に回復したが、BC770年頃に再び乾燥化が進行した。森林の衰退と回復はそれより少し遅れ、BC2200BC2000年に衰退し、中央アジアでは回復しなかったが、ドン川流域のラズドルスカヤではBC1700年頃に回復した。

甲元氏は、乾燥化は寒冷化に伴って発生したと考えているが、1600年周期の寒暖表を参照すると、バルハシ湖が乾燥したBC2260年頃とBC770年頃は、温暖化に伴う現象だった。バルハシ湖の水位が上昇したBC1860年頃と、ラズドルスカヤの森林が回復した1700年頃は、寒冷化による湿潤化だった事になる。湿潤でさえあれば、かなり寒冷な地域も森林化するから、森林の消滅と再生は寒暖ではなく、乾湿に依ったと考える事に妥当性がある。

温暖化と寒冷化の転換時期は、1600年周期の寒暖表と良好な一致を見せるが、厳密に言えば、バルハシ湖の水位が低下したのは温暖化して200年後で、森林が消滅して乾燥化が顕著になったのは、それからさらに200年ほど遅れた。しかし湿潤化による森林の回復は、延長温暖期の終了とほぼ同じ時期だから、この食い違いは以下の様な事情によると想定される。

大地が森林に覆われていれば、森林の腐葉土に保水力があり、水は樹木の葉からコントロールされながら徐々に蒸発し、無駄な蒸発は抑止される。特に乾燥に強い松などの樹木の葉は、肉厚でありながら風に当たる面が広く、空冷によって昇温が抑えられる上に、葉の光沢が太陽光を反射するので、少ない蒸散で葉の昇温を抑止できる。樹林に積もった松の枯れ葉は、下層に水を貯えながら表土の高温化を抑止し、生樹の葉は太陽光を遮って表土の蒸発・乾燥を防ぎ、水分を樹林の表土に蓄える体制を整えている。従って樹林では、草原と比較した総蒸発量が抑圧され、雨が恵んだ水分を巧妙に維持する仕組みが働くから、ある程度の乾燥に耐える事ができる。

しかし一旦森林を失って草原化すると、雨水は河川を通して流出し、地表を湿らせた水も直射日光を受けて早々に乾燥するから、降雨量が減って一旦草原になると、森林が維持された降雨量に戻っても森林は再生しなかった。更に降雨量が増え、樹林を再生できる雨量に達すると、森林は急速に増殖したと推測される。言い換えると、極度に乾燥すると樹林が失われ、限定的に降雨が回復しても樹林は再生しなかったが、樹林が回復できる降雨があれば、樹林は急速に拡大した。樹林の拡大が寒冷期の開始期と軌を一にしている事は、縄文晩期寒冷期に向かう寒冷化は、急速に進んだ事を示し、縄文後期温暖期の温暖化はそれほど急激ではなかった事を示し、尾瀬の花粉グラフが示す事情と一致している。

甲元氏が寒冷化に伴って乾燥化したと考えたのは、BC7000年以降一貫して地球全体が低温化し、大陸の内陸部は一貫して乾燥傾向にある事から、特定時期の特定地域の乾燥化や湿潤化も、同様の現象として捉えたからだと想定される。氷期と間氷期の対比としても、氷期に海水が冷却されて蒸発量が少なくなり、内陸は乾燥したが、間氷期に海水温が上昇すると降雨量が増大し、内陸が湿潤化したから、その連想としても、乾燥化と寒冷化は結び付きやすい。しかし現実には、7000年間維持された森林は温暖期だったBC2200年頃に消滅し、温暖期が終わったBC1700年頃に再生したから、百年単位の短期的な寒暖は、逆の現象を生んだ事になる。

 

1-5-3 寒冷化すると湿潤になり、温暖化すると乾燥化するメカニズム

1600年周期が生み出す温暖期に、大気は陸地によって即座に温められたが、熱容量が大きい海水は、大気温の上昇に短期間に追従できないから、温暖期になると大陸内部は乾燥したと考えられる。ここで云う「短期間」は、500年未満の時間を指す。寒冷期にはその逆の現象が起こって湿潤化したが、これはユーラシア大陸の内陸部の気象であって、モンスーン地域の事ではない。

この現象を解釈するためには、海水の蒸発量の増減は、大気温と海水温の相対関係によるのであって、大気が高温になっても海水温も高くならなければ、蒸発量は増えない事を理解する必要がある。大気温が海水温より高ければ、海水表面の大気は海水によって冷却され、上昇気流が発生しないから上空の大気は湿潤化しない。逆に大気温が海水温より低ければ、海水表面の大気は海水によって温められ、湿った空気が上昇して上空の乾燥した空気と入れ替わるから、上空の湿度が高まって雲が発生し、降雨をもたらす。この現象は、海水と空気の相対的な温度差で決まり、絶対的な寒暖とは関係がないが、双方が高温であるほど現象は顕著になる。気候の状態は地域毎に大きく異なるが、地球全体をマクロシステムとして捉え、地球規模の寒冷期から温暖期に変わった場合、変化した直後は大気温だけが急上昇して海水温は追従していない状態が生まれ、地球全体としては短期的に乾燥化する。中央アジアの森林の消長を、その様なマクロ視点で捉えると、寒暖と乾湿の関係が理解され、海水温が大気温に追従するのに何百年も掛かった事が分かる。

熱容量が大きい大洋は、5500年前から続く緩やかな寒冷化の中で、緩やかに低温化し続けているが、そこに1600年周期の寒暖が重畳されると、温暖期の大陸が急速に大気を温めても、海水温は何百年も追従できていない状態が続くから、相対的に低温の海水を高温の大気が覆う状態が続き、海水の蒸発量が減って乾燥し、森林が消滅して草原化したと解釈できる。温暖期に大気の温度が上昇すると、陸地表面の蒸発量は即座に増えたから、温暖期になると内陸の大気は直ぐに乾燥したと考えられる。寒冷期には逆に、陸上の蒸発量が減少し、温暖期に温めた海水を相対的に低温の大気が覆う事により、海の蒸発量が増えて内陸が湿潤になったと想定され、内陸の乾湿関係は、降雨量の多寡以上に増幅されたと考えられる。

中央アジアの湿潤を概観すると、BC8700年に地軸の傾きが極大になる前に、大気の温暖化の勢いが鈍ったから、海水温が大気温に近接した状態が生まれ、1600年周期の温暖期に温められた海水が、低温期に大気より相対的に高温になる時節が到来し、中央アジアに降雨をもたらしたと想定される。それによってサハラから中央アジア・モンゴル高原に至る大陸内部が森林化し、中央アジアではその後7000年間、森林が維持されたが、地軸の傾きが緩和していく緩い寒冷化の中で海が徐々に低温化すると、温暖期に発生する水蒸気は時代が進む毎に減り続け、大陸全体が徐々に乾燥化していったと考えられる。そしてBC3000年紀後半の温暖期(縄文後期温暖期)に極度に乾燥し、森林を失った事になる。

1600年周期の寒暖変化に対する、海水温の追従速度を求めるためには、海水の表面温度と表層水(深度700mまで)の温度が参考になるから、気象庁のHPから以下の4つのグラフを抜粋した。

http://www.data.jma.go.jp/cpdinfo/temp/fig/an_wld1.png

上のグラフの赤い直線は、大気温の上昇トレンドを機械的にエクセルで計算させたものだから、それは無視してグラフを見る。1930年から1934年は、東北で冷害が発生する寒冷な気候だったが、観測点が置かれていた世界の都市部ではその寒冷化が隠れ、1920年頃から温暖化が始まった事を示している。その頃の温暖化は単なる観測地のヒートアイランド現象だったかもしれないし、自然現象だったかもしれないし、地球規模の農地の拡大を原因とする、真正の温暖化だったかもしれず、それらがミックスされた現象だったとしか言えないが、1970年代後半から明確な温暖化が始まり、先進国の経済成長、発展途上国の工業化、低緯度地域の農地の拡大などが、急激な温暖化をもたらしたと推測される。

年平均海面水温(全球平均)の平年差の推移

上図は世界の海面水温を示す。海面水温は、局部的なヒートアイランド現象の影響は受けないが、1940年代以降は大気温の上昇に追従し、大気温と同じ昇温を示している。大陸の乾湿は、海面水温の追従遅れから生じると云う観点で、この現象は一見矛盾に見えるが、理論も観測結果も正しいとすると、過去100年間は、海面水温が大気温に追従する特殊な時期だった事になり、ここまでの認識と矛盾しない。

表層水温平年差の推移

表層水は水深700mまでの平均海水温で、海面水温ほどは大気温の上昇に追従しない。明らかに上昇し始めたのは1995年頃からで、海面水温の上昇が1930年頃から始まった事と比較すると、50年ほどの遅れがある。大洋の深海底は1.5℃の海水で満たされ、表層水を含む1000mほどの深さまで、海表面に近い程温度が高い遷移層がある。表層水はその遷移層の主要部を構成する、膨大な水量を有する部分だから、大気温が上昇して海面水温がある程度追従しても、簡単には温まらない。しかし表層水が、深海と海面水温とのバランスを保つ中で、温暖期の大気は表層水を温める筈だから、1980年以前の海面水温は表層水を温めていなかったが、1995年から急速に温め始めた事になり、過去100年間は特殊な時期だったと考える、上の説明と合致する。つまり1995年以前の深層水は、その時の大気温と平衡状態にあったが、1995年以降の大気の昇温が、その平衡状態を破って高温化したから、表層水を温暖化し始めた事になる。

左下の模式図は、表層水が年間を通して下部の海水と熱交換する仕組を示す。日本近海の冬季の混合層は100mで、夏季は1020mになる。 

右下の図は深海までの海水温で、1は極地域の状態、2は低緯度地域の状態。

表層混合層https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/20/Deep_Sea_chart_-2%28Temp%29_NT.PNG

 

上右図から言える事は、表層水として定義される700mまでは、海流などによる攪拌によって表面温度の強い影響が現れている領域で、1500m以上の深度には深層水が満たされている。深層水の上面は常に上昇しているから、1500m以上深い部分は深層水の温度になり、その上層の温度グラデーション領域で、海面から熱が伝達されて温暖化している。

深層水の供給源は北大西洋北端で冷えたメキシコ湾流だから、その沈降がなかった氷期には、深層水の表面はもっと深い場所にあった。従って深層水の表面は、現在上昇中なのか定常状態なのかは、長期的には大きな問題だが、短期的な1600年周期の話には関係しないから、この議論はメキシコ湾流の項で論考する。

海面水温はある程度大気の温度上昇に追従するが、海は極低温の深層水に満たされているから、海面水温は無限に大気温の上昇に追従するのではなく、何処かで乖離する事になるが、現在は完全に近い状態で追従し、表層水の影響を殆ど受けていない事になる。表層水の温度が変化しなかった1980年まで、両者は熱的な平衡状態にあって熱を交換しなかった事になるから、これを時系列的に解釈すると以下になる。

大気は15世紀から19世紀まで低温化し続け、表層水もそれに連れて低温化してはいたが、表層水の低温化の追従は大気の低温化より何百年も遅く、19世紀の表層水は19世紀の大気より高温だった。しかし20世紀前半に大気が温暖化し始め、海面水温と表層水が平衡的になると、表層水の温度は変化しなくなった。1995年以降に大気が更に温暖化すると、海洋と大気の温度関係が逆転して表層水の温度が上昇し始め、現在の海面水温は大気温にほぼ100%追従して昇温している。しかし700mの深さの表層水は熱容量が大きく、その下部の冷たい遷移層の海水と平衡状態になるのに長い時間が掛るから、このまま大気が昇温し続けると、やがて海面水温と深層水の温度乖離が大きくなり、海面水温の上昇が鈍り始める。従って表層水の温度が更に上昇しなくても、最終的に温暖化した大気との平衡状態に落ち着くまで、海水表面は表層水に昇温を制限された状態になり、表面水温と大気温が微妙に乖離している状態がしばらく継続すると考えられる。

以上の話を定量的に検証すると、大気温は1920年から0.8℃上昇し、表層水は1980年から0.15℃上昇したから、表層水と大気温の乖離は1980年頃から始まり、その時の海面水温はグラフ上の-0.2℃で、1995年頃にそれが0.0℃に達してから、表層水が目立った昇温過程に入り、その後の20年間に海面水温は0.2℃上昇し、表層水は0.1℃上昇した。

表層水が目立って高温化し始めた1995年以降、表面水温と大気温の高低関係が大きく逆転した事になるから、その頃から中央アジアが乾燥し始めたと想定される。中央アジアと乾湿が連動する北京の降雨量は、1999年から顕著に減少し、その近傍の地域を含めると1995年頃から降雨の顕著な減少傾向が見えるから、上記の理論を裏付けている。

温暖化した状態の現在の平均気温は、古墳寒冷期の平均気温に近付いたとすると、20世紀になってから1980年頃までの表層水は、古墳寒冷期の平均気温よりやや低い状態だった事になり、尾瀬沼の花粉グラフから、それは400年前の平均気温だったと推測される。従って平安温暖期が終了したAD1300年頃から19世紀末までの600年間に、大気は平安温暖期の平均気温から4℃低温化し、それによって1980年以前の表層水は、古墳寒冷期の平均気温まで低温化した状態だったが、20世紀の温暖化によって表層水の低温化は停止し、1990年から上昇し始めた事になる。

表層水が低温化した温度の追従は、1800年頃に始まった寒冷期の大気温の低下の半分だった。鎌倉時代から江戸時代までの低温化状況が分からないから、明確な事は言えないが、大気の温度変化に対して表層水が追従する「時定数」は、300500年程度であると推測される。変化に追従するのに500年掛かると言っても良いが、「時定数」を使うと説明が簡明になるから、それについて説明する。変化した側が変化後に固定値化した場合、追従する側が新しい均衡点に移動する過程で、最終均衡点までの残余が1/e(e=2.7)になる時間を、「時定数」と呼ぶ。eを2とすれば放射性物質の半減期と同じだが、eを使うと、「時定数」時間が経過した時点で63%目標値に近づき、時定数の2倍の時間後に86%になってほぼ目標状態になり、時定数の3倍で95%になって遷移がほぼ完了するから、目安として分かり易い。実際の減衰が指数関数に従うとは限らないから、これは飽くまでも目安ではあるが。

温暖期と寒冷期は時定数と同程度の長さだから、表層水は1600年周期の温暖期の末期に、その平衡点の70%ほどに達し、その後寒冷期になると直前の寒冷期より大気が4℃寒冷化し、その末期に表層水は、直前の温暖期末期の温度から23℃低温化した事になる。

この認識から推測すると、縄文時代前期温暖期以降、次の様な状況を経て寒冷化した事になる。

BC1万年頃の1600年周期の温暖期に、海水温が大気温に近付いたから、BC9400年頃に始まった1600年周期の寒冷期に、大気温が海水温より低下して中央アジアの降雨量が急増して、森林に覆われた。地軸の傾きはBC6700年に極大になってそれ以降減少に転じたが、中央アジアはその後も暫く湿潤状態を維持し、大森林地帯である状態が続いたが、地軸の傾きが緩やかになるに連れて徐々に低温化すると、BC2400年に始まった縄文後期温暖期に極度に、海水温より大気温が高い状態が生まれて中央アジアが乾燥し、先ず湖沼の水位が低下し始めてBC2200年にそれが顕著になり、BC2000年頃になると森林が消滅した。BC1700年頃に縄文後期温暖期が終わって寒冷化し始めると、一部の地域では森林が復活したが、森林が復活しない地域もあった。次の平安温暖期に、中央アジアは現在以上に乾燥したと想定され、18世紀に寒冷期になって湿潤化したが、20世紀の温暖化によって乾燥化が始まった。現在の大気温は湿潤だった古墳寒冷期に近いが、海が古墳寒冷期より低温化しているから、北京が乾燥化し始めたと解釈される。しかし花粉グラフを見ると、大気が表層水をそこまで冷やす機会があった様に見えないから、水深1500m以下にある冷たい海水によって、徐々に冷やされたと考えるべきだろう。それが顕在化したのが縄文後期だったとすると、紀元後の世界の寒冷化は地軸の傾きの緩和だけでなく、深層水が形成している低温域海水面の上昇もある程度寄与し、今後それが顕在化していく疑いがある。

日本を含むモンスーン地域の気候は、上記とは異なる事情に依拠している。モンスーン気候は、ベンガル湾や南シナ海の海面が周囲の大陸の夏季の暖気によって温められた上で、インド洋と太平洋の海洋性高気圧が、低温の風をその海面上に送り込んで多量の水蒸気を生み出し、その風下の地域に多量の降雨をもたらす単年の現象だから、低緯度地域の初夏の平均気温によって降雨の総量が決まる。モンスーン性の降雨量も地軸の傾きの影響を受けるが、南シナ海の北端にある香港の緯度が22度で、ベンガル湾も南シナ海とほぼ同緯度にあるから、低緯度地域の夏季の昇温は、地軸の傾きにあまり影響されない可能性がある。むしろ東南アジアの森林が伐採され、地表の大意気温が上昇してベンガル湾や南シナ海の水温が高まると、モンスーン性の降雨量が増大する可能性がある。海洋性高気圧の状況は、大陸と海洋の地理的な関係によって決まるから、モンスーン気候域の南北移動は気温の高低には大きく影響されないと想定され、氷期の日本列島もモンスーン気候域だったと考えられる。

甲元氏の説明に戻ると、

中国黒竜江省西端の半砂漠地である泰来県に、黒褐色土層と細砂層が交互に4層堆積している場所がある。黒褐色土は植物性の有機物を含んでいるから、それが堆積した時期は温暖湿潤で、細砂が堆積した時期は寒冷な乾燥期だったと推測される。C14を用いて黒褐色土層の年代を計測し、併せて花粉を分析すると、最下層を形成したBC5000年頃には、樹木や草本が豊富で温暖湿潤だった事が分かる。第2層のBC2400年頃は更に温和な気候だったが、第3層のBC900年頃は、温暖ながら乾燥化が進んでいた。この層から出土した土器は、殷代と戦国期の中間期のものだから、その上層の砂はBC8世紀以降に積もったと考えられる。第4層はAD600年頃で、更に乾燥化が進み、最上層は現在の乾燥した気候条件と類似している。以上から、BC8世紀以降に寒冷で乾燥した気候があった事が窺われ、第2層の上層の砂層は、BC3000年紀末の寒冷で乾燥した時期と符合する。

甲元氏は、上記の年代は炭素年代だと記しているから、未校正年の様だ。校正すると黒竜江省泰来県の黒褐色土層は、BC6000年、BC2750年、BC900年、AD600年になり、前二者が寒冷期の中央期で、後二者は温暖期に変わる直前の寒冷期という特徴がある。寒冷期と言っても温暖で湿潤だった古い時代には、腐葉土が厚く積ってそれが炭化したが、地軸の傾きが減少して海水の温度が低下し、乾燥化が進んだ新しい2層の黒色土層には、寒冷期末期の腐葉土だけが残った事になる。密度が高い森林が形成された古い時代には、表土が沼地の様に極度に湿潤だったから、落ち葉が泥炭化して炭素が累積的に残ったが、時代が降った森林は疎林で、湿気があるという程度の表土で腐敗が進行し、有機物は地中の雑菌や虫によってCO2化したから、気候が乾燥した際に炭化した有機物だけが残ったと考えられ、1600年周期の寒暖表と整合するだけでなく、地軸の傾きの低減に対応した大気温の低下とも良好に整合する。

しかし黒竜江省泰来県の地層は、縄文前期寒冷期には森林化しなかった事を示している。尾瀬沼の花粉グラフは、縄文早期温暖期乙から続く寒冷期に、大きな気温の低下があった事を示し、縄文早期温暖期甲の温暖化は低調で、それに続く寒冷期である縄文前期寒冷期には、大きな気温の低下がなかった事を示しているから、黒竜江省泰来県は縄文前期寒冷期に湿潤化しなかった事と整合し、尾瀬沼の気候グラフは、朧げに周期性を示しているのではなく、細部に亘って事実と整合している事が分かる。

 

1-5-4 縄文晩期寒冷期から弥生温暖期へ

BC1000年以降の中央アジアのステップ地帯では、急速な乾燥化と寒冷化が森林の後退と草原化を誘導すると、東西2000㎞に及ぶ牧畜民の移動が起こり、騎馬によるヒツジの飼養が一般化してスキタイ文化が生まれた。BC8世紀に始まるアルジャン古墳(ロシアのトゥーバ共和国)は、最も古いスキタイ文化として知られている。

ヨーロッパではこの頃が、青銅器時代と鉄器時代の境界に相当する。キビ、オート麦、ソラマメが主要穀物になり、ライムギも加わったが、地域によってはハダカオオムギが一般的になった。家畜としては、大陸ではウシの比率が低下し、ヒツジ、ヤギ、ブタが増えたが、イギリスではウシが増加した。しかしイギリスの食料事情としては、狩猟のシカが増えて家畜の比重が低下した。

起こった事の時系列が混乱しているが、縄文後期温暖期に中央アジアの森林が消滅し、その地の人々が農耕者から遊牧者にならざるを得なくなると人口が激減し、東西2000㎞に及ぶ牧畜民の移動が起こったと考えられる。即ち中央アジアで農耕と牧畜を行っていた印欧語族の人々が、縄文後期温暖期に中央アジアが乾燥して農耕ができなくなったから、周辺地域に逃避せざるを得なくなり、ヨーロッパにもその波が押し寄せた。しかし欧州は未だ寒冷だったから、中央アジアから西に向かった人々は黒海西岸をバルカン半島に南下してギリシャ人の祖先になり、畜産を併用する農耕を継続したと考えられる。

但し中央アジアで農耕と牧畜を行っていた印欧語族の人々の大勢は、縄文後期に中央アジが乾燥するとカスピ海西岸を南下し、ヒッタイト人やペルシャ人になり、カスピ海東岸を南下した人はパキスタンに入ってインドア―リア人になったと想定される。印欧語族の言語分岐は、縄文前期だったと想定する人もいるが、彼らが中央アジアにいた縄文中期寒冷期に、広大な中央アジアで均一な言語を使っていた筈はないから、印欧語族は縄文後期に中央アジアから拡散したと想定する事と、印欧語族の分岐は縄文前期だったとの推定は矛盾しない。但し後で説明するが、海洋民族になったゲルマン系は上記の農耕者とは全く別の行動を採り、縄文前期には、北大西洋沿岸に拡散していたと考えられる。

言語族は男性が形成した民族集団とほぼ同義で、印欧語族の拡散はY遺伝子Y-Rの拡散と同義だが、ミトコンドリア遺伝子の拡散はそれとは連動しない。欧州に多いミトコンドリア遺伝子mt-HVは小麦の栽培者として、メソポタミアから欧州に拡散したと考えられるからだ。ミトコンドリア遺伝子の拡散については、(0)序論(16)/C)日本人の遺伝子分布とその由来参照

縄文晩期寒冷期になっても、中央アジアの森林は殆ど再生しなかったから、中央アジアの農耕は復活しなかったが、草原の牧草が増えた事により、遊牧民の人口は増加したと推測される。

縄文晩期寒冷期はBC1400年頃に始まったが、尾瀬沼の花粉グラフは、BC1200年頃に急激な気温の低下があった事を示しているから、この頃黒海西南の小麦栽培が壊滅したと推測される。この頃地中海に暴力的な流民(海の民)が発生し、ヒッタイトを崩壊(紀元前1190年頃)させ、製鉄文化が拡散した。遊牧民がそれによって鉄器文明化し、轡を発明して騎馬によるヒツジの飼養が一般化したと想定される。

弥生温暖期になると中央アジアは再び乾燥し、縄文後期以上に草原の砂漠化が進行すると、遊牧民は牧草地を求めて北上し、モンゴル高原の北の山岳地帯に拡散した。スキタイ文化の嚆矢とされるアルジャン古墳の発見により、それが明らかになった。アルジャン古墳の北にはシベリアの森林が広がっていたから、冷涼な森林と砂漠に挟まれた草原として、現在のカザフスタンの北縁が、騎馬遊牧民の活動域になったと想定される。モンゴル高原にも拡散したと推測されるが、遺跡は発見されていない。モンゴル高原にも拡散した騎馬遊牧民が、匈奴の祖先だったことになるが、この頃トルコ系やモンゴル系民族も騎馬遊牧民になったと推測され、匈奴の民族系譜は分からない。漢代以降、匈奴、東胡、鮮卑などの騎馬民族が東アジアで跳梁するが、漢代は弥生温暖期の末期で、寒冷化が始まった時期だから、中央アジアやモンゴル高原が湿潤化し、その地の騎馬民族にとっては牧草地が増え、人口が増大して勢力が拡大した時期でもあった。余談になるが、チンギスハンが活躍した時代も、平安温暖期が終わって寒冷化し始めた時期だった。

弥生温暖期に中央アジアが乾燥して遊牧地が乏しくなると、遊牧民達による遊牧地の争奪戦が日常的になり、武闘的な騎馬民族集団としてのスキタイが生まれたと想定される。農耕民族による農地争いは地域的に限定されたが、遊牧民の高い機動力は闘争を広域化させたから、遊牧民政権は広大な地域に覇権を求める必要があったと考えられる。その結果多くの文明に接し、豊かな物質文明と先進的な権力機構を習得し、その後2000年間、ユーラシア大陸の覇者になる基盤を形成したと考えられる。

ヨーロッパとイギリスでは、異なった事情が進行していた。ヨーロッパ大陸は縄文後期温暖期になってもまだ寒冷で、耐寒性が高い麦しか栽培できなかったから、定住するには牧畜を兼業する必要があり、この時期にヒツジ、ヤギを飼養した人々は、乾燥した中央アジから湿潤なヨーロッパに、移住した人々だったと推測される。縄文中期寒冷期の欧州は、その様な人々でさえ定住できない冷涼な地域だったから、縄文後期に移住して来た人々は幾分冷涼な無人の地に入植した事になる。

イギリスはメキシコ湾流に洗われ始めてヨーロッパ大陸より早く温暖化し、湿潤でもあったから、植生が豊かで牛が飼える環境だったが、小麦栽培もして野生動物も豊富だったから、大陸から移住して来た農民には、家畜を飼う必要が乏しかったと想定される。その様に豊かな地域には、中央アジを追われた人々が殺到した筈だが、海洋民族の仲介がなければドーバー海峡が渡れなかったから、移住者が殺到する事はなかったと考えられる。次章でイングランド南部のストーンヘンジについて考察するが、弥生温暖期に漸く穀物栽培が盛んになった欧州大陸と比較し、イングランドでは縄文後期温暖期の初頭に、ストーンヘンジを形成し始めたから、1600年周期の寒暖サイクルの1周期以上早く、小麦栽培を始めていたと考えられる。イングランドでは早い時代から海洋民族が卓越し、彼らが島に招いた農民により、大陸が農業時代になる前に農耕が盛んになったと考えなければ、イングランドの歴史は説明できない。

河北省で掘られた墳墓抗に関し、褐色土のみ掘って墳墓を形成し、その上層に黄土や砂が積った時期と、墓の上層に積もった黄土や砂も掘って、墳墓抗を形成した時期を区分し、各々の墓が掘られた時代を出土遺物から考証すると、乾燥化が始まった時期を精度良く知ることが出来る。西周末期から春秋前期の墳墓は、褐色土のみ掘っているが、春秋中期以降の墳墓抗は黄土や砂も掘っているから、春秋前期末から乾燥化が顕著になった事が分かる。

春秋時代は、弥生温暖期の開始から100年ほど遅れた770年に始まった。温暖期になって乾燥化すると、甘粛省や西域に残存していた森林が徐々に消失し、剥き出しになった黄土が風に舞って河北省に積もり始めた事になるが、それは森林が消滅した後の事だから、温暖期が始まってから200年ほど経た時期になる。770年から始まった春秋時代前期末には、未だ黄土が積もっていなかったが、BC600年頃から始まる春秋中期以降の墳墓抗では、黄土や砂も掘ったという事実は、1600年周期の寒暖表と整合する。

甲元氏は、周代末期は寒冷期に向かう時期だったから、この不安定な気候変動に西安盆地の農民が翻弄され、農産物の収穫が激減して周の威令が衰え、周辺異民族が周の本拠地に肉薄していた事が、竹書紀年や金文から読み取れる事を具体的に指摘している。この指摘は1600年周期の寒暖表と一致するだけでなく、尾瀬沼の花粉グラフが示す晩期寒冷期の気温は、徐々に寒冷化して弥生温暖期の直前に厳しい低温化があった事を示しているから、ここでも尾瀬沼の花粉グラフの細かい構造と、歴史事実が一致する。

甲元氏の指摘にはないが、縄文晩期寒冷期が終了して弥生温暖期が始まった直後の、西周末期の厲王(BC9世紀中頃)の時代の天候不順が、竹書紀年に異様に沢山記されている。

厲王二十二年,大旱。陳幽公薨。

厲王二十三年,大旱。宋僖公薨。

厲王二十四年,大旱。杞武公薨。

厲王二十五年,大旱。楚子嚴卒。

厲王二十六年,大旱,王陟于彘。周定公、召穆公立太子靖為王。共伯和歸其國,遂大雨。

幽王四年,秦人伐西戎。夏六月,隕霜。陳夷公薨。

平王四十一年春,大雨雪。

弥生温暖期が始まったBC9世紀中頃に、頻繁な旱ばつがあった事を示唆している。平王はBC8世紀中頃の、春秋時代になってからの初代の王だから、700年代後半に寒の戻りがあった様だ。その短期の寒の戻りも、尾瀬沼の花粉グラフは示している。

 

1-5-5 中国南部の稲作事情

中国南部では、有肩石斧と有段石斧は、稲作栽培の拡大に伴う標識的な遺物になるが、広東省にこれが拡大するのはBC2000年以降だから、中国南部を含む東南アジアでの稲作の開始は、BC2000年以降である。

BC2000年以降の稲作民には、二つの南下動機があった。BC2500年頃、浙江省で繁栄していた良渚文化が洪水によって滅んだから、稲作民は洪水を恐れて南下した可能性がある事が一つ動機で、BC1800年頃に温暖期が終わったから、寒冷化による稲作民の本格的な南下が始まった事が、もう一つの動機になる。BC2000年以前から、洪水に悩まされていた揚子江下流域の稲作民には、移住圧力が高まっていた筈だが、温暖な中国南部には進出できなかった。寒冷化すると漸く南下し始めた事は、その時期の品種改良が不十分だった事を示している。福建省以南には、稲と交配可能な原生種が雑草として繁茂しているから、自家受粉率を高めた品種が生まれなければ、稲作が南下する事はできなかった。BC1800年に縄文後期温暖期が終わると、稲作民が過去に経験した事がない冷涼な寒冷期になったから、揚子江以南に南下せざるを得なくなり、本格的な南下が始まったと考えられる。この事実も、1600年周期の寒暖表と一致する。

弥生温暖期になると、稲作民は湿潤な東シナ海沿岸を北上し、山東省に達した。BC5世紀頃の事情を記した「礼記」に、青州の主要穀物は米と麦だと記されている。青州は山東半島の内陸部だから、当時の耐寒性に乏しい稲作事情から考えると、BC5世紀は温暖だった事になり、1600年周期の表と一致する。山東省はモンスーン気候帯の端にあるから、山東省の乾湿は中央アジアの乾湿モデルでは議論できないが、現在の山東省は乾燥して稲作に向かない事から考えると、沿海部の乾燥化も、時代が進むと共に厳しくなった事が実感される。言い換えると、地軸の傾きが緩くなって寒冷化すると、モンスーン地域の範囲が南下し、降雨量が少なくなった事が分かる。

遼東半島南部の花粉分析から、この時期(春秋時代前半?)は、寒冷化していたとする報告がある。

これは1600年周期の寒暖表と一致しないが、平地での花粉分析には、1600年周期の寒暖を検出できる精度はないから、何かの誤解があると推測される。BC5BC10世紀は、C14の年代精度が下がる時期だから、そちらにも課題がある。

イギリスでも、この時期の遺跡やその周辺に泥炭層の形成が見られ、寒冷化していた事が想定される。

イギリスの泥炭層の形成は、寒冷化だけが原因ではなかった疑いがある。イギリス特有の湿潤化によって沼地が生まれ、そこに溜まった草本の遺骸が、腐食しないで泥炭化した疑いがあるからだ。阪口氏によれば、腐敗速度より堆積速度が優る事が、泥炭の形成条件になり、温暖な地域でも降雨が多く清澄な沼地があれば、泥炭層が形成される場合がある。

以上、信憑性が高い歴史事実と擦り合わせると、1600年周期の寒暖表はそれらと整合している事が確認された。弥生温暖期と古墳寒冷期の温度差が3℃である事の確認の前に、東アジアの稲作事情をもう少し詳しく検証する必要があるが、その検証に入る前に、1600年周期の寒暖振動は東ユーラシア特有の現象ではなく、北半球全体の現象だった事を確認する。

 

2、西ユーラシアとの整合

下表に寒暖周期と西ユーラシアの歴史を併記し、温暖化によって起こった事績の背景色をオレンジとし、文明の崩壊に関する事績をブルーの背景色とした。西ユーラシアでは、小麦栽培の北上と文明の消長に深い関係があるから、特記すべき文明の緯度を右端に付与した。但し北大西洋の温暖化が不十分だったBC3000年以前は、西ユーラシアの歴史はエジプトとメソポタミアのみで展開し、寒暖周期表との相関が読み取れないから、下表はBC3000年から始まる。歴史事象と1600年周期の寒暖が、説明する必要はないほど良好な一致を示している。

年代

相対的寒暖

日本の時代区分

中国の時代区分

西ユーラシアの都市国家の形成開始期

緯度

BC2900

 

縄文中期

北 竜山文化

シュメールウルク初期王朝

2931

2800

 寒冷期

 

南 良渚文化

 

 

2700

 

 

  ~屈家嶺文化

 

 

2600

 

 

 

エジプト古王国時代開始

2531

2500

 過渡期

 

 

 

 

2400

 

縄文後期

 

 

 

2300

 

稲作民の北上

 

 

2200

 温暖期

本格的稲作開始

 

 

 

2100

 

 

エジプト中王朝時代開始

2531

2000

 

 

 

 

 

1900

 

 

古アッシリア時代

3236

1800

 

夏王朝・三星堆

バビロン第1王朝

3236

1700

 

 

 

 

 

1600

 過渡期

 

 

ヒッタイト古王国

3637

1500

 

 

北 殷周時代

ミケーネ文明の繁栄

3637

1400

 

 

南 盤龍城

ヒッタイト新王国

3637

1300

 

縄文時代

 呉城文化

 

1200

 

晩期

 

ドーリア人の南下、ヒッタイト、ミケーネ滅亡

 

1100

 

 

海の民の侵攻による、東地中海沿岸諸都市の滅亡

 

1000

 

 

 

ギリシャ史の暗黒時代

 

900

 

 

 

 

 

800

 

弥生時代

 

ギリシャのポリス形成開始

38

700

 

水田稲作開始

春秋戦国時代

 

 

600

 

 

 

 

500

 

 

アケメネス朝ペルシャ成立

38

400

 

 

 

ギリシャの繁栄、黒海沿岸に植民

41

300

 

 

 

マケドニアの興隆・アレグザンダー大王遠征

42

200

 

 

共和制ローマの興隆・ポエニ戦争

44

100

 

 

 

 

0

 

 

 

ガリア戦争・イングランド征服

55

0

 

 

後漢

 

AD100

 

 

 

 

 

200

 

 邪馬台国

三国時代

ローマ帝国の混乱開始

 

300

 

古墳時代

ローマ帝国の東西分裂

 

400

 

 

南朝

ゲルマン民族の移動・西ローマ帝国滅亡

 

500

 

 

 

 戦争と黒死病の時代

 

600

 

飛鳥時代 

隋の南朝征服

 イスラム教徒のペルシャ征服

 

700

 

奈良時代

 

 

800

 

    王朝時代

 

 

 

900

 

平安時代

 

中世温暖期

 

1000

 

 

 

 

1100

 

 

 

 

1200

 

鎌倉時代

モスクワ大公国成立

55

1300

 

 

 

カルマル同盟/スウェーデン王国成立

58

1400

 

室町時代

 

 

1500

 

 

小氷期

 

1600

 

江戸時代

 この時期は寒冷だった事が分かっている。

 

1700

 

天明の飢饉

 

 

 

1800

 

天保の飢饉

 

 

 

1900

 

明治・大正・昭和

中華民国

 

 

2000

 

平成

 

人為的な温暖化の時代?(メキシコ湾流北上)

 

 

欧州ではBC9世紀から始まる弥生温暖期に、パン小麦栽培の北限が急拡大したが、縄文後期温暖期を含むそれ以前の温暖期には、目立った北上は見られなかった。パン小麦は米より耐寒性が高く、栽培者の数も多かったから、品種改良や栽培技術の改良は稲作より進んでいた筈だが、弥生温暖期まで目立った栽培地の北上が見られないのは、縄文後期までメキシコ湾流の北上が弱く、欧州は寒冷だったからだと考えられる。

氷期が終わっても北大西洋沿岸には氷床が残り、氷床の融水が北大西洋の塩分濃度を下げたので、氷床が残存している期間はメキシコ湾流が北上せず、温暖化しなかったからだと想定される。後氷期の海面上昇はBC6000年頃に停止したから、北大西洋両岸の氷河はその頃消失した事になる。

氷床の融水が北大西洋に流れ込まなくなり、北大西洋の塩分濃度が回復してメキシコ湾流の北上が開始されたが、現在の状態にまで北上するには時間が掛ったから、上表の様な事情になったと推測され、それ故に西ユーラシアの小麦栽培の北上が遅れ、温暖なインド洋に近いエジプト・メソポタミア・インダス川流域では、縄文前期からパン小麦の栽培が可能だったが、大西洋に近い欧州の温暖化は遅かったと想定される。メキシコ湾流の北上メカニズムは後の章で説明するが、メキシコ湾流は1600年周期の寒暖や地軸の傾きに関らず、恒常的に強化され続けたから、西ユーラシアでは、寒冷期が始まるまで温暖期が継続した様な状況が生まれたと考えられる。

メキシコ湾流が北上した状況を、イングランド南部のストーンヘンジから読み取る事ができる。

ストーンヘンジはBC2600BC1900年の建造物で、縄文後期温暖期の初頭に建造が開始された。ストーンヘンジを囲む土塁と堀は、BC3100年頃まで遡るが、その土塁は形成された直後に放置された。BC3100年は、縄文中期寒冷期が始まる100年前だから、その頃にイングランドも、寒冷化が顕在化して土塁の建設が放棄されたが、温暖化した500年後に、同じ民族が構造物の建設を再開したと考えられる。下表にイングランドの歴史と寒暖周期を示し、西ユーラシアの歴史も併記するが、記述は縄文早期末から始める。既に指摘した様にゲルマン系民族は、縄文早期末には海洋民族として、北大西洋沿岸に集住していたと考えられるからだ。

年代

相対的寒暖

日本の時代区分

イングランド

西ユーラシア

BC5500

 

 

 

シュメールウバイド期の始まり

5400

 

縄文時代

 

  (メソポタミア南部の最古の文化)

5300

 

早期

 

 

5200

 

 

 

ナイル川流域で農耕が始まった。

5100

 

 

海面上昇期だったから、

  エンマー小麦、六条大麦、豆類、亜麻等を栽培

5000

 

 

 この頃の海洋漁民の遺跡は

 

4900

 

  破壊されているから発掘できない

 

4800

 

 

 

メソポタミアに大型集落が生まれた。

4700

 

 

この頃新石器時代開始

 

4600

 

 

 

 

4500

 

縄文時代

 

4400

相対的寒冷期

前期

 

 

4300

 

 

 

 

4200

 

 

 

エジプト原始王朝

4100

 

 

 

 

4000

 

 

 

 

3900

 

 

 

 

3800

 

 

 

 

3700

 

 

 本格的な農耕の開始?

 

3600

相対的温暖期

 

 

 

3500

 

 

 

エジプト上下王朝

3400

 

縄文時代

 

 

3300

 

中期

 

 

3200

 

 

 

 

3100

過渡期

 

土塁形成

エジプト第一王朝

3000

 

 

スカラ・ブレイ住居址(スコットランド)

 

2900

 

 

BC3100BC2500年の耐寒住居)

シュメールウルク初期王朝

2800

 

 

 農耕の一時的衰退?

 

2700

 

 

 

 

2600

 

 

 

エジプト古王国時代開始

2500

 

 

ストーンヘンジ建造開始

 

2400

 

縄文時代

(青銅器時代)

 

2300

 

後期

 農耕の活発化?

 

2200

 

本格的稲作開始

 

 

2100

 

 

 

エジプト中王朝時代開始

2000

 

 

 

 

1900

 

 

ストーンヘンジの巨石化

古アッシリア時代

1800

 

 

社会の階層化

バビロン第1王朝

1700

 

 

中央ヨーロッパと交易

 

1600

 

 

 

ヒッタイト古王国

1500

 

 

ミケーネと交易

ミケーネ文明の繁栄

1400

 

 

錫の採掘と輸出

ヒッタイト新王国

1300

 

縄文時代

 農耕の衰退?

1200

 

晩期

 

ドーリア人の南下、ヒッタイト、ミケーネ滅亡

1100

 

 

 

海の民の侵攻による、東地中海沿岸諸都市の滅亡

1000

 

 

 

ギリシャ史の暗黒時代

900

 

 

 

 

800

 

弥生時代

 農耕の復活?

ギリシャのポリス形成開始

700

 

水田稲作開始

  西欧の鉄器時代/本格農耕

 

600

 

 

 

500

 

 

 

アケメネス朝ペルシャ成立

400

 

 

ケルト人の侵入?

ギリシャの繁栄

300

 

 

 (海洋民族が招いた農業移民?)

マケドニアの興隆・アレグザンダー大王遠征

200

 

 

 

共和制ローマの興隆・ポエニ戦争

100

 

 

 

 

0

 

 

ローマ人による征服

ガリア戦争・イングランド征服

0

 

 

  →ブリタンニア時代

 

AD100

 

 

 

 

200

 

 

 

ローマ帝国の混乱開始

300

 

古墳時代

 

ローマ帝国の東西分裂

400

 

 

ローマ人撤退

ゲルマン民族の移動・西ローマ帝国滅亡

500

 

 

ヘプターキー(7王国時代)

 戦争と黒死病の時代

600

 

飛鳥時代

(アングロサクソンの支配)

 イスラム教徒のペルシャ征服

700

 

奈良時代

 

 

800

 

    王朝時代

 

 

900

 

平安時代

イングランド連合王国 ヴァイキング

中世温暖期

1000

 

 

(ブレトワルダ制:王の中の王)

 

1100

 

 

  

 

1200

 

鎌倉時代

 

モスクワ大公国

1300

 

 

 

カルマル同盟/スウェーデン王国

イングランドの説明は2段階に分け、前段でストーンサークルの建造過程と小麦栽培の北上過程を検証する。

ストーンサークルの建造と小麦栽培

BC5000年以前の北大西洋は寒冷で、イングランドの植生は貧弱だったが、漁民の島になっていたと考えられる。日本の事情から連想すると、原日本人や縄文人の主要な食料が海産物だった様に、寒冷なイングランドでも海産物でそれなりの漁民人口を維持し、漁労や海洋航行技能を進化させていたと考えられる。

BC6000年頃に氷床の融解が終了し、北大西洋の表面の塩分濃度が回復すると、BC5000年頃からメキシコ湾流の北上が始まり、高緯度地域としては不相応な、西欧の温暖化が始まったと想定される。縄文前期温暖期(BC4000年~)に農耕が始まり、その終末期には、土塁を構築する程に農業生産性が高まったが、BC3000年に始まった縄文中期寒冷期に、農耕の生産性が低下して土塁の建設は放棄された。しかしBC2600年に縄文後期温暖期に入ると、即座にストーンヘンジが作られたから、農耕は縄文中期に低調になってはいたが、放棄はされていなかった事情があり、温暖化と同時に農耕活動が再び活発になった事を示している。

気候の寒暖と文化活動の盛衰に、明確な関連が認められるから、イングランド人の食生活がある程度穀物に依存し、縄文前期末には穀物に余剰が生まれていた事、縄文後期に本格的な農耕が始まった事を示していると考えられる。但しイングランドの漁民は、食料の過半を海産物に頼っていただろうから、寒冷化して農耕が低迷しても、食料に窮して飢えに襲われたとは考えにくい。それでありながら、土木事業が気候の変動に大きく依存したのは、農業者が土木事業を好んだが、漁民は土木事業に関心がなく、気候の寒暖に関係なく、両者が共存していた事を示している。縄文人もその様な人達だったから、イングランドでも、気候の変動によって小麦の収穫が大きく増減する中で、食料生産の主導者が漁民になったり小麦栽培者になったりした結果、この様な事態が生まれたと想定される。縄文中期寒冷期のイングランドは、小麦栽培の北限を越えていた事を示しているが、縄文後期温暖期になっても、穀物を主食とした農耕民族と同等の、農業生産性が得られていた可能性は高くない。

漁民は海産物を主要な食料としていたから、縄文前期温暖期のイングランドでは、穀物栽培に農耕民族が定住できるほどの生産性があったのか疑念はあるが、海洋民族にとっては内陸に栽培民族がいて、亜麻などの植物性資源を提供してくれる事に価値があり、穀類も不漁期の保存食として機能すれば十分だった。栽培者もその様な漁民と、食生活を共有していたと想定される。

縄文後期温暖期になっても、農民が漁民と共存しないで生活できるほどに、農業生産性が高かったのか疑問がある。漁民にとって穀物は、不漁になっても食料に不自由しない保存食であれば良く、多量の穀物は必要なかっただろう。漁民と共存していた穀物栽培者も、豊漁時に過分の配分を得る事ができれば、穀物に多くを頼る必要はなかったと想定され、その様な共生は双方にメリットがあったから、彼らは異業種の異民族でありながら、硬い絆で結ばれていたと想定される。

小麦栽培が本格化すると少なくとも農耕民にとって、主要カロリーの生産者が漁民から栽培民に移行して農耕民の意気が上り、ストーンヘンジの建造意欲が高まったと想定される。土塁やストーンヘンジの建設と温暖期が一致するのは、土や岩を移動する行為が農作業の延長線上にあり、それが農業者の存在を誇示する行為だったからだと想定される。倭人社会の同様な行為は、古墳の作成になる。倭人社会では古墳時代を経る事により、数千年続いた倭人社会が崩壊して農民的な大和政権が生まれた。大和政権が生まれると、農民的な権威主義の象徴とも言える、奈良の大仏を作ったほどに農民の自意識は強かった。但し倭人政権が崩壊したAD7世紀は、世界的な海洋民族の終末期で、ストーンヘンジが作られたのは、それより2千年以上前の、海洋民族の興隆期だったから、ストーンヘンジ以降も海洋民族の時代が続いた事に違和感はない。

縄文後期温暖期はBC1800年頃終わったが、欧州を温暖化するメキシコ湾流の北上は、継続的に強化されていたから、イングランドでは温暖期が終わっても寒冷化せず、交易活動はより活発化し、この時代に最も高い文明を誇ったミケーネとも交易した。ミケーネもギリシャ南部と共に、縄文後期温暖期に小麦栽培の北限地になり、東地中海で最も輝いた海洋文明を築いていたから、イングランドの海洋民族との交易は、海洋文明間の交流だったとも言える。

穀物栽培の北限で文明が輝くのは、雑草や昆虫に妨げられる状態が軽減して農耕の生産性が高まるだけではなく、労働が炎暑から解放されて食料の腐敗も和らぎ、人々がより活動的になったから、商品の生産を含む文明活動が、盛んになったからだと推測される。これは洋の東西を問わない温暖期の法則だったと考えられ、穀類の耐寒性が不十分だった古代には、特にその傾向が強かったと推測される。イングランドの漁民も、千里の波頭を越えた倭人の様な海洋民族として、イングランドとエーゲ海の距離の長さに、航行上の不都合は感じなかったから、文明中心だった東地中海の諸民族と、交易を行ったと想定される。

しかし縄文晩期寒冷期になると、小麦栽培の北限文明だったクレタ文明は消滅し、文明中心はより低緯度のフェニキアに南下した。この時期のイングランドも、農耕の生産性は低下しただろうが、大西洋はメキシコ湾の北上によって温暖化し続け、豊かな海産物にも恵まれていたから、小麦栽培の生産性が劣化しても農業者は小麦栽培を継続し、漁民も農耕者も食料に飢える事はなかったと推測される。文明が消滅したクレタと、継続したイングランドの海洋民族の違いは、漁場の豊かさと漁民の技能の差によって決まった面もあったが、海の民と呼ばれた略奪集団の有無も、その一因だったと想定される。

メキシコ湾流が更に北上した弥生温暖期に、オリエントで発達した先進的な農耕が、漸く欧州に北上した。甲元氏は、縄文後期温暖期の西欧大陸では、小麦栽培を主体とした農耕はまだ開始されていなかったと指摘しているから、弥生温暖期になって初めて、西欧南部が小麦栽培地になった事になる。その北上も、弥生温暖期になって直ぐに達成されたのではなく、徐々に北上した事を、緯度を付記した表が示している。温暖期にもメキシコ湾流が徐々に北上していった軌跡を、示していると想定される。

下図に示すローマの占領地域は、弥生温暖期末期の、小麦栽培の北限を示していると考えられる。小麦がろくに生産できない冷涼な地域を、ローマ軍が占領したとは考えにくいからであり、ローマ軍がイングランドを侵攻したのも、イングランドの豊かな穀倉地帯を狙ったからだと想定されるからだ。穀倉地帯であれば、ドーバー海峡を越えてでも占領したローマ軍が、大陸の穀倉地帯を放置していたとは考えにくいからでもある。その観点からこの地図を見ると、弥生温暖期のイングランドは南部だけでなく、イングランド全域が穀倉地帯だった事を示している。西欧としては、突出した北上を示しているとも言える。

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http://hamashin311.web.fc2.com/ancientrome.html

ローマ人に征服された諸民族は、弥生温暖期になってから各処に入植し、小麦生産者として人口が急膨張した集団だったから、伝統的な民族文化や強固な部族組織はなく、易々とローマの版図に組み入れられて富を収奪されたという側面もあるだろうが、彼らを征服された被害者だったと想定する事には、大きな問題がある。農民は農地の確保に命を懸ける人々だから、社会秩序が未完成であれば、優良な農地は武力的に簒奪される恐れが常在し、ローマの整備された法が強制されて初めて、小集団の凄惨な土地争いが停止した可能性もあるからだ。既に優良な農地を確保していた集団が、耕作地を既得権として保証してくれる強力な権力者を望む事は、一般的な事象だったと考えられる。従ってローマ軍がその正義を掲げ、小麦の主要栽培地を版図に組み入れたのであれば、中部欧州のローマ領の斉一的な緯度分布は、小麦栽培地の北限を示している事になる。

その観点で上図を見ると、イングランドの小麦栽培の北限突出に違和感がある。現在のメキシコ湾流の暖気は、スカンジナビア半島だけでなく、同緯度のロシア平原も小麦栽培地にしているから、メキシコ湾流の北上による温暖化は、沿岸部に限定されていたとは考え難く、メキシコ湾流による温暖化だけでは、イングランドの北限突出は説明できない。しかしイングランドが、日本と同様に海洋漁民が支配する島だったのであれば、この違和感は解消する。

海洋民族が支配していた日本では、古墳寒冷期に中国の稲作が、山東省から揚子江流域に大幅に後退したにも拘らず、山東省と同緯度の関東で盛んに稲作を行い、大型古墳を多数遺したからだ。その事情が、イングランドの小麦栽培の北限突出と良く似ているから、倭人と共存した稲作民がその偉業を成し遂げた事に必然性があった様に、イングランドの小麦栽培にもその必然性が働き、北限突出が生まれたとすれば、両者の類似性を追求する事によってこの疑念は解消する。

両者の類似性を追求する事は、縄文晩期の日本で稲作技術が急展開した事と、類似の事がイングランドで起こったと考える事になるから、少なくとも縄文後期のイングランドで栽培されていたのは、パン小麦だった事を証明する事にもなる。活発な海洋民族は、常に高い商品性を追求したから、穀物にも質を求めた。東アジアではそれがコメであり、西ユーラシアではパン小麦だったからだ。

温暖期が来る度に栽培北限が北上した軌跡も、海洋民族が行った事として捉え、小麦栽培の北上の軌跡を、メキシコ湾流の北上速度に転換できる期待がある。それは以降の議論に極めて重要な情報を提供するから、丁寧に検証する。

倭人と古代イングランド人の共通性

倭人については、記録魔の様な漢民族が沢山の記録を遺したから、その動向をある程度再現できるが、イングランド漁民に関する記録は全くない。しかし考古学的な発掘結果に類似性があり、政治制度や国民性に共通点があるから、倭人の特殊性や活動の必然性を検証し、イングランド漁民の活動を疑似的に再現する事ができる。その作業の結果に妥当性があれば、倭人と古代イングランド人は共に、海洋民族だったと結論付ける事ができるだろう。

その類似性の筆頭に挙げるべきは、漁民の集落や居館が全く発掘されず、権威主義的な王朝史観を採用している史学者に相手にされない事かもしれない。木造船の製作に長けた海洋民族は木造の家屋に住んだから、船や建物の遺物は遺っていないし、王権を権威付ける王朝史も残っていないからだ。しかし古代イングランドの政治体制を見ると、小国が分立したヘプターキーや、イングランド王国のブレトワルダ制(王の中の王)は、倭人の小国分立型の政治体制に酷似している。遠く離れたクレタ島と交易した事や、穀物栽培技術が突出していた事も類似している。国王制や天皇制を現代に遺している感性も、酷似している。その理由は、倭国王やイングランドの王は農民政権的な絶対権力者ではなく、諸王の中から血統を以て選出された漁民的な価値観を持つ、交易活動の指導者だったからだと考えられる。漁民の権力者は集権的な制度を構築せず、権力を財貨で虚飾的に飾らなかったから、その拠点遺跡は発掘できないが、農業国家の農奴と比べると知的向上心が高く、真理を好んで嘘を排除する伝統がある。日本とイングランドには、それが共通的に残っている様に見える。

農民社会は耕作権を保証してくれる権力者を求め、一旦確立したその権力の維持を重視するから、そのために庶民も盛んにプロパガンダを発する事は、農民社会の必然的な現象になる。しかし情報の正しさが生命や漁獲を左右する漁民社会では、合理性を重視して嘘を排斥せざるを得ず、その様な努力を重ねても古代的な木造船を使用している限り、海難事故は頻出しただろうから、正しい知識を重視する姿勢を継続せざるを得なかったと考えられる。

(0)序論で、海洋民族が支配した日本で稲作技術が改良された事情を推測し、その成果として、古墳時代に大陸から多数の移民を受け入れ、コメの生産力を高め、多数の古墳が生まれた事を検証した。そこから類推すると、ストーンサークルを建設した背景に存在した農耕は、原始的な二粒小麦や、耐寒性が高いキビ、オート麦、ライ麦、大麦などの、商品性が低い穀物栽培ではなく、最高品質の穀物であるパン小麦の栽培だった事になる。言い方を変えると、縄文後期温暖期の欧州大陸では、未だパン小麦の栽培が行われていなかったが、それを飛び越えて地中海東部地域からイングランドに、直接パン小麦の栽培が導入されるためには、イングランドに海洋民族が成立していなければならなかった。イングランドに海洋民族が成立していれば、それは当然の帰結だった事になる。従ってイングランドの海洋漁民の成立、小麦栽培の導入、漁民の海洋民族化、小麦の品種改良について、日本の事情と比較しながらそれぞれの類似性を検証し、縄文後期温暖期のイングランドで、パン小麦が栽培された事を立証する。但し一般的な論証手法ではなく、その仮定が成立すれば何が起こったのか類推し、その類推の妥当性を検討する。

海洋漁民の成立

地中海北岸は1万年前まで、樹木が生育しない寒冷な気候に覆われていたから、地中海より寒冷だった大西洋に囲まれ、地中海北岸より北にあるイングランドでは、1万年前まで海洋船を作る樹木が入手できなかったから、その時期まで海洋民族はいなかったと考えられる。ゲルマン民族の祖先であるY遺伝子Y-Rは、中央アジアに森林が広がった11千年年前より新しい時代に、森林化した黒海北岸から甘粛省の間で、農耕と狩猟を行っていたと考えられ、それは既に定説になっているから、話はそこから始まる。

その様な内陸の人々が、造船・操船・漁労技術を獲得して海洋民族になるためには、その技能を持った他民族と接し、その技術を習得する必要があった。その候補者としては、地中海から黒海に北上したY-E漁民と、シベリアの河川・湖沼を遊動していたY-C3が挙げられる。後世のY-C3が、シベリアの河川・湖沼を交易路とする交易者だった事は、初耳かもしれないが、古代シベリアの交易者としてツングース系の粛慎が知られている事と、縄文早期以降の湿潤化したシベリアでは、河川・湖沼を船で往来する以外に、長距離移動の手段は考えられない事から、必然的にその結論に至る。シベリアの地図は、嘗ての大河の痕跡を縦横に示し、魏志東夷伝は弥生時代の粛慎を、沿海州に住む操船技量に優れた民族として記している事も、その証拠として挙げられる。

シベリアの河川交易が忘れ去られたのは、縄文後期に中央アジが乾燥すると、シベリアの降雨量も低下して彼らの交易路が寸断されたからだ。その傍らで、弥生温暖期に成立した騎馬民族によって草原の交易路が発達し、シルクロードと呼ばれる主要交易路になった。しかし縄文中期までの東西ユーラシアの主要経路は、シベリアを横断する水路だったと考えられる。メルカトール図法の地図に慣れている現代人は、彼らの移動距離は極めて遠距離だったと錯覚するが、カスピ海とバイカル湖の距離3700㎞は、エジプトとジブラルタル海峡の距離に等しく、バイカル湖から流れ出るエニセイ川からカスピ海までの距離は2800㎞で、エニセイ川の最も北の支流は、ツングースカヤ川と呼ばれている。

南の海洋民族だったオーストロネシア語族民は、縄文中期には南米大陸に到達していたと想定され、ニューギニアからペルーまで14000㎞もあるから、その偉業と比較すれば驚くべき距離ではない。縄文人は縄文前期に、沖縄を経て揚子江に達していた事は間違いなく、それ故に日本に、縄文前期の稲作遺跡があるが、関東から揚子江の河口まで、直線距離で3000㎞航行する必要があり、温帯ジャポニカが栽培されていた湖北省に行くには、更に揚子江を1000㎞遡上する必要があった。海洋漁民だった原日本人とツングース系民族は、石器時代から接触があり、縄文早期の原日本人は、ツングース系民族のミトコンドリア遺伝子mt-Aを多数取り入れたから、造船・操船技術の交換があったとしても不思議ではない。

縄文早期のカスピ海は、氷床の融解過程にあった北欧から流れ込むボルガ川から、多量の融水を取り込んで超巨大湖になり、溢れたボルガ川の水は、ボルゴグラードでドン川に注がれていたと想定される。ドン川も氷床の融水で溢れ返り、カスピ海や黒海の北には、氷床の融水が形成した湖沼群と大湿原が広がっていたと想定される。カスピ海の北岸にいたY-Rの一部はその様な環境の中で、湿潤化したシベリアから、ボルガ川を経てカスピ海に遊動して来たツングース系の河川・湖沼漁民から、造船技能や冷たい湖沼での漁労技術を、学ぶ事ができたと想定される。縄文早期前半の東ユーラシアは乾燥し、中央アジアは湿潤化していたから、その湖沼群は河川漁労を行うツングース系民族にとっても、主要な居住域になっていたと想定される。この時期の東ユーラシアは超温暖化し、栽培民がシベリアからベーリング海峡を経てアメリカ大陸に移動したから、狩猟民や河川漁民が、冷涼で湿潤な地域を求めて西ユーラシアに移動する事は、十分あり得る事情だった。東ユーラシアが湿潤化した縄文早期後半も、ツングース系民族がカスピ海沿岸やボルガ川で漁労を行っていた可能性は高い。

河川漁労民になったY-Rの一部は、穀物栽培者と共存しない漁民として、漁が腐敗しにくい冷涼な地域を選びながら、氷河の南に展開していたヨーロッパの寒冷な湖沼群を経由し、縄文早期が終了する以前に北海に達したと想定される。未だメキシコ湾流が北上していない冷たい北海で、海に漕ぎ出した腕の良い漁民だけがドーバー海峡を渡り、既に大陸から切り離されていたイングランドに、定着する事ができたと推測される。ドーバー海峡の最深部は50mだから、11千年前には大陸から離れ、彼らが北海沿岸に進出したと想定される9千~8千年前は、10㎞ほどの海峡によって隔てられていたから、海洋漁民になった者達だけが、渡る事ができる島になっていた。彼らの拠点が北海沿岸の何処にあったとしても、季節に応じて、沿岸を南北に遊動する漁民になったと想定される。氷期の原日本人も、関東を拠点に津軽半島から台湾まで遊動したから、彼らも北海やイベリア半島沿岸を、季節に応じて遊動したと推測される。

海洋漁民は、温暖な地域から植物性の繊維を入手しなければ、漁具を作ったり船を組み立てたりする事ができなかったから、栽培系民族との交易は必須だった。旧石器時代の原日本人は、台湾に南下してアサを入手していたから、イングランドの漁民も河川や湖沼を使って移動し、亜麻を入手したと想定される。当初はツングース系民族を介し、東ユーラシアのアサを入手していたかもしれないが、やがてカスピ海沿岸の同族から亜麻を入手したと想定される。そのためには、欧州の河川を使って定期的に黒海に出る必要があったが、やがてその交易路は、ジブラルタル海峡経由に変わったと想定される。河川は蛇行しているから距離が長く、未だ寒冷だった北欧を経由するには、長い氷結期間を避けなければならなかったが、海路は通年航行できた上に、やがて海洋民族の遊動範囲になった可能性もあり、海洋を航行する技能が向上すれば、必然的な成り行きだったと考えられる。

海洋民族の成立

彼らはこの段階では、まだ海洋漁民であって海洋民族ではなかった。海洋民族になるためには、内陸に栽培民族を確保して亜麻を入手する体制を整え、穀類を入手して食料事情を安定させ、栽培民族が作り出す各種の道具類により、漁具を高度化して生活を豊かにすると同時に、それを交易財として海洋交易に乗り出した人々を、このHPでは海洋民族と呼ぶ。

漁民の食料生産性は高いが、海産物は貯蔵できないから、短期的な不漁期でも致命的な問題になる恐れがあった。原日本人は温暖化した当初は寒冷な気候を好み、北方に遊動したが、堅果類の栽培者と共生する事により、貯蔵できる堅果類や穀類を補助食として、温暖な環境に耐えられる食料事情を獲得したと想定される。イングランドは、彼らが入植してから急速に温暖化していったから、冷涼な気候を求めて遊動先を北に変える者が出現する一方で、温暖化するイングランドに留まって栽培民と共生する者が出現する事は、歴史的な必然だったと言えるだろう。栽培民と共生する事は、亜麻などの植物資源を豊富に入手して船を大型化し、漁具を整えて豊かな漁民になる、必要条件でもあった。

縄文前期にメキシコ湾流の北上が顕著になり、イングランド南部が温暖化すると、カスピ海北岸~東地中海沿岸の、穀物栽培民と交流していた漁民は、穀物栽培民から移住者を募ったと想定される。それに応じたのは、カスピ海北岸で農耕を行っていた印欧語族Y-Rだった可能性もあるが、北欧に異常に多いY-I1だった可能性が高い。Y-I1は当時の地中海東部で、最も先進的な農耕を行っていたと想定される。

Y-I1だったと推測する理由は、ローマのイングランド侵攻時に、海洋民族はイングランドから北欧に逃げたが、ケルト人などの縄文後期以降の入植者は、ローマに支配される農民になったと推測されるからだ。Y-I1は古参の栽培民として、海洋民族と一体化していたから、海洋民族と行動を共にしたと考えられ、具体的に言えば、古参の栽培民族は商品生産者になって、支配階級の一角を占めていたが、新参のケルト人は農耕労働者だったと想定されるからだ。

ローマ帝国が衰退してイングランドから撤退し、アングロサクソンがイングランドに帰還するに際し、Y-I1の一部は移住性に乏しい栽培民の常として、海洋民族のイングランド帰還に同行せずに北海沿岸の北欧に残り、平安温暖期に北欧で小麦栽培ができる様になると、北欧の栽培民族として人口を増やしたと想定すると、北欧にY-I1が異常に多い事が説明できる。日本で言えば、それがY-O2b1だった。

縄文前期のイングランドへの移住者がY-I1だった場合、極めて遠方から栽培民族を導入した事になり、彼らの移住に際して、漁民集団が自分達の生産性の高さを示して勧誘したとしても、一大決意の下に集団的に実行した可能性が高い。その様な重大事を決断した動機として、ツングース系の漁労民族から、日本列島の縄文人がその様な民族構成により、豊かな社会を形成しているとの情報を得ていた可能性が高い。ツングース系の漁労民族は、最後までその様な社会を構成できなかったが、縄文早期後半の日本列島では、堅果類の栽培者と共生する豊かな海洋民族の社会が、既に成立していたからだ。

イングランド漁民は縄文前期温暖期だけではなく、海洋漁民になった後の縄文後期温暖期や弥生温暖期にも、栽培者をイングランドに移住させたと想定され、それは乾燥した中央アジアで農地に窮していた嘗ての同族や、欧州に展開していたケルト人だったと推測される。

栽培民を入植者として受け入れた漁民にとって、穀物は当初から交換品だったが、漁民と共生した栽培民も、その食物の多くを豊かな海産物に頼る必然性があった。日本の場合は、堅果類は味覚や栄養価の点で海産物より酷く見劣りし、漁業は生産性が高かったから、交換の主導権を握った漁民は恒常的に高品質の穀類を求め続けた。最高品質の穀物であるコメは冷涼な日本列島での生産性が低かったから、アワ・ヒエ・キビ・ソバなどによって食料を補完する必要があったが、漁民が欲しがるコメの生産性向上は栽培者の至上命題だった。コメの生産性がある程度高まると、漁民はコメでなければ海産物との交換を渋る様になる事は、証明する必要がない事実だったと考えられる。その様な状態では、栽培者が豊かな海産物を入手するために、コメの栽培は必須になったと考えられる。魏志倭人伝の元になった報告書を作成したのはは、アワを常食していた華北の知識人だが、その官僚が、壱岐や対馬の海洋民族は、九州や朝鮮半島南部からコメを購入していると指摘しているから、弥生時代末期にはその状態に移行していた事が分かる。

豊かな海産物が日本列島の主要カロリー源だった縄文時代には、穀物は主要カロリーになる必要はなく、良質な穀物が有利な交換条件を得る事情が当然の帰結として生まれ、コメの生産性は時代の進展と共に高まっていったと考えられる。日本人のコメ信仰は、この様な事情に端を発している可能性もあるだろう。20世紀になっても、山間部で雑穀を栽培していた人達もいたという反論があるかもしれないが、換金性の高い生産物があれば敢えてコメを作る必要はなく、商品経済が発達すればその様な機会は種々あったと想定される。

イングランドの漁民も栽培民との共生によって高い漁業生産性を獲得し、穀物を交換する関係を維持したと想定され、縄文前期にイングランドに入植した農民は、原始的な麦であるエンマー小麦や六条大麦の栽培者だったとしても、縄文後期にはパン小麦に変わっていたと想定される。その転換は必ずしも民族移動に依存せずに、海洋民族独特の手段に依ったと想定される。

縄文人は大陸から、穀物の栽培技能を持った多数の女性を迎え、多種の穀物を導入したから、イングランド漁民も、その様な手段を採用したと想定される。(0)序論でも説明したが、栽培は採取から発展した技能だから、新石器時代の農耕技能者は女性だったと考えられ、女性を島嶼に迎え入れる事は、栽培技能者をリクルートする事と同義だったと推測される。縄文人はオーストロネシア語族の女性に、高度な漁労技術を披露して生活力の高さを誇示し、日本列島に迎え入れたと推測され、磨製石斧の優秀さを稲作民やアワ栽培民の女性に示し、渡航を勧誘したと想定される。イングランドの漁民も、東地中海の栽培民女性に漁労の腕を披露し、イベリア半島やイングランドの特産品を示して、生活力の高さを示しながらイングランドへの渡航を勧誘したと想定される。

東地中海沿岸で穀類を栽培していたその様な女性達には、現代人の様な地理観はなかったから、イングランドの漁民が見慣れた人達であれば、「少々遠いが」程度の話で漁民の勧誘に乗り、温暖化し始めたイングランド南部に移住したと推測される。彼女達は穀物栽培だけでなく他の栽培種も移植し、漁民と長い間ペアを組んできたミトコンドリア遺伝子を駆逐したと想定され、イングランドに取り込まれたミトコンドリア遺伝子は、mt-Hを基軸に多彩な構成になったと想定される。現代の日本では、海洋民族のnt-B、熱帯ジャポニカ栽培者のmt-B、温帯ジャポニカ栽培者のmt-F、アワ栽培者のmt-Dなどの子孫が混在し、縄文晩期以降に渡来した、毛皮の皮なめしに優れたmt-M10、アザラシの皮革加工に優れたmt-Gも混在し、縄文早期から存在したmt-N9bmt-M7aは、痕跡を留めている程度の少数派になっている。

農耕技能者だった女性は、農耕が重要性を増していた新石器時代には、女性優位社会を形成していたと想定され、彼女達をその気にさせる事は難しかったかもしれないが、温暖期の地中海東南部には、乾燥して農耕が困難になった地域もあっただろうから、乾燥が進んだ温暖期は、温暖化したイングランドに勧誘する好機だったかもしれない。海洋民族の活動範囲の広さから考えると、彼らの活動範囲は地中海に留まらず、当時まだ閉じていなかったスエズを経由してペルシャ湾岸に至っていた可能性もある。魚が獲れる場所であれば、海洋民族は何処までも移動が可能だったから、冒険者が航路を開拓しさえすれば、何処にでも行く事ができた。

従って彼女達は、海洋縄文人に嫁した大陸女性の様に、栽培技能が発揮できる新天地を求めて自らの意志でイングランド渡航を決意したと推測され、渡航に当たっては、小麦以外の多種の植物種子を持参し、エジプトやメソポタミアから見れば最果ての地であるイングランドに、オリエントの農耕文明要素も転移したと想定される。ストーンヘンジの様な巨石文化は、エジプトのピラミッドやメソポタミアの神殿と関連付けられる、巨石信仰だったと推測される。ヨーロッパ大陸より早く、イングランドに巨石文化が出現した事を、この文脈から説明できるだろう。イベリア半島は寒流が南下する、乾燥して農耕に向かなかい地域だったから、農耕民族と共生する海洋民族の文化中心は、イングランド南部になったと推測される。大陸から切り離された島嶼は、海洋民族の安住の地でもあった。

ギリシャ人やローマ人は、弥生温暖期の地中海で活躍したが、大西洋を航行する技能には自信がなかった様だ。しかしその千年以上前の、縄文後期のイングランド漁民はジブラルタルを経由してエーゲ海に達し、ミケーネと高価な商品の交易を行った事が、発掘から確認されている。イングランドからミケーネに商品を持ち込み、それが高価であると判定されたから、その対価としてミケーネから高価な物品を得たと想定され、その様な関係が成立するためには、事前にイングランドでその商品が使われ、その価値が認められ、それを生産する者がいた事になる。従って縄文後期のイングランドでは、一部の商品に高額な価値が生まれる程に、交易経済が発達していた事になる。この時代のエジプトやメソポタミアに、強力な農民政権が生まれて巨大建造物を建設したが、それは農地の耕作権を確保してくれる権力を飾り上げ、強力なものに見せかけたかった、農耕民族の特徴的な文明だったのであり、海洋民族の経済活動と単純に比較する事はできない。自給自足的な農産物の生産高ではなく、交換価値を生み出す近代的なGDP基準で考えれば、どちらが文化的だったのか再考する必要があるだろう。

以上の提起がすべて真実であると強弁する必要はなく、イングランド漁民が、縄文人や倭人の様な海洋民族になる道筋があり、日本文化とイングランド文化に多数の類似性があるから、縄文後期には、イングランド漁民は海洋民族になっていた可能性が高いという結論に、なりさえすれば良い。

 

栽培技術の高度化

以上の話では、イングランドの縄文後期の栽培種が、パン小麦だったと結論付けるには証拠が弱いかもしれない。日本列島で稲作技術が高度化したのは、海洋民族独特の環境があったからで、それがイングランドでも発現したから、ローマ帝国統治下の、イングランドの小麦栽培の北限が突出していた状況証拠になると考えられる。

日本列島で稲作技術が高度化したのは、以下の事情に起因していた。

日本列島は揚子江河口域より冷涼だから、縄文前期に揚子江河口域から渡来し、稲作を始めた女性達は、農耕民族としては到底採算が合わない、低い生産性しか得られなかっただろう。しかし日本列島には豊かな海産物や堅果類があり、稲作の生産性が低くても食料に窮する事はなかった。栽培民と漁民が混住していた日本列島では、栽培者は堅果類やアサを栽培するだけでなく、籠や漁具なども作って海産物と交換する習俗が生まれ、それに伴って交換価値の概念が生まれていた。縄文早期末の佐賀で作られた籠(東名遺跡)の、精巧な編み方がその事情を示している。従って食味が良いコメは、堅果類や他の穀類より有利な比率で海産物と交換され、生産性が貧弱であってもその技能を持つ栽培者は、栽培者であり続けたと想定され、その様な環境下で生産性を高めるために、品種改良や農法の改良を行う事は必然の結果であり、改良の成果が徐々に上がる事により、やがて高い生産性を得るに至ったと考えられる。

寒冷な気候で無理に栽培を続ける事ができれば、耐寒性が高い優良遺伝子の選別効率が上がり、比較的容易に耐寒性の高い品種が得られたが、コメを主食にしていた大陸農民にはそれは出来ない事で、寒冷化すれば南下して生産性を確保しなければならなかった。日本に渡来した女性達は、大陸ではその様な稲作者だったが、日本では大陸時代より早い速度で品種改良を進め、改良された品種を更に冷涼な地域で栽培する意欲も、大いに湧いたと推測される。冷涼な地域の豊かな漁民が、その成果を期待していたのであれば、僅かな収穫の分配に対して過分の返礼があっただろうし、彼女の配偶者は漁民だったかもしれない。

日本では縄文後期に温帯ジャポニカが導入され、晩期寒冷期に日本独自の画期的な耐寒技術を生んだと想定される。弥生温暖期にその稲作は青森まで北上したが、史書は河北省で稲作が行われたと記しているから、津軽海峡で区切られた青森と河北省を比較しても、北限の緯度の差は明瞭ではないが、古墳寒冷期の南下後退に際し、その差は歴然とした。それがローマ時代のイングランドの、小麦栽培地の突出した北上と類似しているのだが、この話はそれでは済まない。日本で耐寒性が高い稲作技術が生み出されたのは、縄文晩期寒冷期の日本列島で、温帯ジャポニカの稲作が行われていたからだ。この主張はこのHPが初出だから、批判があるかもしれないが、縄文後期温暖期の大陸で、稲作は関東と同緯度の山東省まで北上していたし、関東縄文人に含まれるミトコンドリア遺伝子mt-Fは、その栽培者の遺伝子なのだから、批判される事に違和感がある。重ねて言えば弥生温暖期に、寒冷化技術のミソである田植えが日本全国で行われていたのだから、温帯ジャポニカの稲作が晩期寒冷期を経ていなければ、その様な事態は起こり得ない事は明らかだ。

イングランドにも同様な事態があったとすると、弥生温暖期に栽培地の北限が突出する状況を生むためには、晩期寒冷期の技術改良が必須であり、そのためには縄文後期のイングランドで、大陸より2000年早くパン小麦の栽培が始まっていなければならなかった。

日本の特徴を簡略にまとめると、コメはカロリーベースで何倍もの海産物と交換されたから、本格的な農業者より生産性が低くても、稲作を継続する価値が高まっていた。極論すれば、寒冷化して生産性が劣化すると、供給が減少して希少価値が高まったから、寒冷化による生産性の劣化は、周囲の漁民の理解さえあれば問題にならないという、大陸の農民社会では考えられない事態が発生したと考えられる。しかし日本列島内での生産性の優劣は、栽培者にとって克服すべき深刻な問題だったから、輸送が可能な地域内の生産者は、その地域での生産性を向上しなければならないという、厳しい競争の中にいたとも言える。その成果が温暖期に発揮される事は、必然的な結果だった。

日本列島と同じ状況がイングランドでも生まれたとすると、小麦の品種改良は以下の様な状況で進んだと想定される。

縄文前期温暖期に栽培された穀物は、耐寒性が高い麦や豆だったかもしれない。しかし縄文後期温暖期に、地中海の東部地域から多数の女性を招いて、パン小麦の栽培を始めたと推測される。この温暖期の末期に、クレタ島と交易していた痕跡が発掘されているから、海洋民族の属性としてこの辺りの麦栽培民女性を、イングランドに招聘した可能性は極めて高い。海洋民族の活動は単なる物の遣り取りだけではなく、技能を持った女性の交流も含まれた事が、関東縄文人のミトコンドリア遺伝子から読み取れる。

しかし縄文晩期寒冷期になると、イングランドの小麦栽培の生産性が劣化し、栽培民の経済的な地位が低下したから、農民的な文化活動は停滞した。しかし海産物で食料を補充できた栽培民は、農耕民族の様に栽培適地に移住する必要には迫られず、厳しい環境の中で小麦栽培を続けながら、小麦の耐寒性を高めたと想定される。その結果弥生温暖期には、ローマ時代の地図が示す様に、突出した北上を実現したと考えられる。

ローマ帝国は、寒冷期になった3世紀に現在のルーマニアであるダキアを放棄した。4世紀になると、それまで知られていなかったフランク族が、現在のフランスにあたるガリアの北部に南下した。従って当時のフランク族は、パン小麦の栽培者ではなく、耐寒性が高い他の麦類の栽培者だった可能性が高い。これらの事実は、ローマ帝政期の大陸で寒冷化が進んでいた事を示すが、ローマ人はそれらの地域より高緯度にあるイングランドを、5世紀まで支配し続けた。

5世紀にローマ人が撤退すると、アングロサクソン人が現在のオランダやデンマークから渡来し、イングランドを征服したが、これは海洋漁民が故郷に戻る活動だった可能性が高い。漁民文化は権力の集中が弱く軍事に弱いから、ローマの侵略に対する抵抗力がなかったと想定され、小麦の生産量が増えて人口が増えたケルト人が、海洋民族に経済的に支配される事を嫌い、ローマ的な農民統治を望んだ事が、それに重畳された可能性もある。

しかし古墳寒冷期に、小麦栽培者の食料事情が悪化すると、イングランドの栽培者はローマの税負担に耐えられなくなり、水産物を供給して食料事情を改善してくれるアングロサクソンの、イングランド帰還を歓迎したかもしれない。しかしローマ帝国から見れば、イングランドをアングロサクソンに取られたのだから、それを好意的に文章化する事はなかった筈だ。歴史文学の作成者は、常に王朝的な立場の人々だったから、非王朝的な民族は野蛮人でしかなかっただろう。中国の史書はその様な表現を、露骨に繰り返している。

アングロサクソンの七王国時代(499年~829年)が、平安温暖期の到来と共に終焉するのは、小麦の生産性が高まって栽培者が強気になり、海洋民族のイングランド統治が困難になる一方、平安温暖期になって小麦栽培地が北上し、ユトランド半島やスカンジナビア半島南部が豊かな農地になり、ヴァイキングの活動が活発化したから、海洋民族の覇権争いが起こったからかもしれない。

以上の結論として言えるのは、イングランドは縄文前期から海洋民族の島だった可能性が高く、それを証明する歴史記録はないが、想定される歴史は以下になる。

イングランドを支配していたのはアングロサクソン系の海洋民族で、その起源は縄文早期に遡る。彼らは縄文前期温暖期に、内陸栽培民としてメソポタミア系の農耕民族を入植させ、その後パン小麦の優れた栽培技能を持つ女性をリクルートし、生産性が高まるとストーンヘンジを造った。弥生温暖期に大陸からゲルマン系やケルト系の農民を順次入植させ、ローマ人には小麦の島だと見做される様になり、侵略を受けるに至った。

メキシコ湾流によって温暖化され、小麦栽培地になったゲルマン系海洋民族の地域は、縄文後期温暖期にイングランド南部(北緯50度)、弥生温暖期にイングランド北端(北緯54度)、平安温暖期にストックホルム(北緯59度)に北上し、各温暖期に45度の北上を達成した。この北上は、栽培技能の高度化と温暖化がミックスされているから、分離する事は難しいが、内陸の事情を考察すると、メキシコ湾流の北上の効果は大きかった事が分かる。

縄文後期温暖期の欧州大陸は、パン小麦の栽培には冷涼だったが、ギリシャや小アジでは文明化が見られるから、この時期のパン小麦の栽培北限は北緯37度近辺だったと考えられる。それが弥生温暖期の末期にルーマニア(46度)に達し、平安温暖期にモスクワ(55度)に達したから、優れた品種改良者だった海洋民族の北上速度と比較し、内陸の農耕民はその2倍の速度で北上した事になり、縄文後期末から弥生温暖期末へ、更に弥生温暖期末から平安温暖期末への小麦栽培の北上は、この時期の欧州大陸内部の急速な温暖化を示している。メキシコ湾流が北上しながら流量も増加し、内陸の奥深くまで温暖化する様になったからだと考えられる。

 

まとめ

BC6000年以降の西ユーラシアの気候変動も、1600年周期の気候変動と連動している。従って1600年周期の気候変動は、東アジアのローカルな現象ではなく、地球規模の寒暖周期である事が確認された。東ユーラシアの温暖化は縄文早期にピークを迎えたのに、北大西洋ではメキシコ湾流の北上が遅れ、欧州大陸はBC1000年頃まで寒冷な気候が続いた事も、確認された。

少し話が飛躍するが、北アメリカの古代農耕文明がBC2000年頃に、エジプトより低緯度のユカタン半島で発生したのは、北大西洋の温暖化が遅れていたからだと想定される。現在のユカタン半島は熱帯サバナ地帯だが、BC2000年頃は古代エジプトやメソポタミアの様に、熱帯と寒冷地の接点だった疑いがある。メキシコ湾流が北上して西欧を温暖化すると、赤道を横断して北上する海流も増えたが、その様な状態に至っていなかったBC2000年のユカタン半島は、現在ほど温暖ではなく、湿潤だったと考えられるからだ。

メキシコ湾流は現在その北上能力や駆動能力を高める過程にあり、西欧が温暖化し続けて北極海の海氷が減少しているが、これは地球の温暖化とは関係がなく、局地的な現象だと考えられる。日本でも20世紀後半から温暖化しているが、西欧ではもっと激しい温暖化が進行しているから、それに起因する危機感があると推測される。

 

3、稲作文明との整合

大陸では、弥生温暖期に北上した稲作が古墳寒冷期に大きく南下後退したので、尾瀬沼の花粉データの寒暖振幅を検証できる。但し数値的な確認ができるのはこの時だけで、稲作の北上の歴史は明確ではない。それには二つの理由があり一つは、華北は伝統的にアワ栽培地だったから、稲作地の北に別の穀物栽培地があり、稲作の北上の軌跡が見えないからだ。もう一つは、縄文早期以降の寒冷化と、稲作の耐寒改良の成果が拮抗したので、稲作は気候の寒暖振動の度に、同じ緯度を南北移動したからだ。その上に、史記が稲作民とアワ栽培民を意図的に混同し、その後の史書もアワ栽培地が宋代に麦栽培地になった事を隠し、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの起源を曖昧にしている。中国の熱帯ジャポニカ栽培地にインディカが拡散したから、現在は熱帯ジャポニカの栽培地がない事も、大陸の稲作史を分かり難くしている。従って分かり易い西ユーラシアの麦栽培を先に検証し、1600年の寒暖周期が中国大陸にもあった事を認識できると、以下の歴史解釈も納得して貰えるだろう。

下表の華北の欄で、稲作民の事績を暖色の背景で示し、雑穀民の事績を寒色の背景で示し、赤字で稲作北限を示した。

年代

相対的寒暖

日本の時代区分

揚子江下流・江南

湖北省・湖南省

華北

BC4900

 

 

河姆渡文化

大渓文化

仰韶文化

4800

 

縄文時代

馬家浜文化

 

(河南、陝西、山西省)

4700

 

前期

 

 

 

4600

 

 

北緯29

北緯30

 

4500

 

 

 (熱帯ジャポニカ)

 (温帯ジャポニカ)

 

4400

相対的

 

 

 

 

4300

 寒冷期

 

 

 

 

4200

 

 

 

 

 

4100

 

 

 

 

 

4000

 

 

 

 

大汶口文化

3900

 

 

崧沢文化

 

 (山東省)

3800

 

 

玉器、

 

 

3700

 

 岡山県

黒陶、灰陶

 

 

3600

相対的

(熱帯ジャポニカ)

紅褐陶

 

 

3500

 温暖期

北緯34

泥質紅陶

 

 

3400

 

縄文時代

 

 

 

3300

 

中期

良渚文化

 

 

3200

 

 

 

 

 

3100

過渡期

 

多様な玉器

 

 

3000

 

 

屈家嶺文化

竜山文化(華北)

2900

 

 熊本県

黒陶、赤陶

 

 

2800

 

(熱帯ジャポニカ)

集住

卵殻黒陶

 

2700

 

北緯32

 

 

 

2600

 

 

揚子江下流に洪水頻発

 

 

2500

 

 

江西・広東に南下?

石家河文化

 

2400

 

縄文時代

フィリッピンに南下?

河南省に北上→

→河南省 山東省、山西省 北緯35

2300

 

後期

  良渚文化消滅

山東竜山文化

2200

 

本格的稲作開始

 

 銅器・都市文明

  

2100

 

(熱帯ジャポニカ

 

三星堆文化

二里頭文化(夏王朝)

2000

 

 +温帯ジャポニカ)

 

 

(河南省洛陽)

1900

 

関東

 

 

 

1800