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後氷期の海面上昇により、栽培民と漁民の遺跡が消滅した

1、氷期と間氷期

地球は300万年前から寒冷化し始め、氷期と間氷期(温暖期)を繰り返しながら、氷期はより低温化していった。100万年前から、氷期と間氷期が10万年サイクルで繰り返される様になり、氷期の寒冷化が更に甚だしくなった。この寒暖サイクルは、地球の公転や自転の周期的な偏移に起因すると考えられ、その発見者に因んでミランコビッチサイクルと呼ばれている。現在は、温暖な間氷期が始まってから1万年経過している。

 下図は最近の40万年間の、南極の気候変化を表すグラフ。左端が現在で、kyrは千年単位の時間軸である事を示し、BPは時代を遡る事を意味する。

 

下図は2万年前から現在までの、南極の気候変化と降雪量を示すグラフで、右端が現在。15千年前に氷期が終了すると同時に、急激に温暖化した。しかしその後寒冷化への揺れ戻しがあり、1200011500年前に再度急激に温暖化した。その後更に緩やかに温暖化し、8000年前に温暖化のピークを迎え、現在はピーク後の寒冷化の過程にある。これは南極の温度変化であって、北半球も同様に変化したとは限らないが、同様の傾向があった事は確認されている。北半球は海陸の地形が複雑に入り組んでいるから、地域によって気候変動に濃淡があった。

氷期の末期は、10万年続いた氷期の中で最も寒冷だった時期で、欧州北部は氷河に覆われ、フランスは永久凍土地帯になった。しかしその時期にもシベリアには草原が維持され、マンモス動物群が繁殖していた。日本列島は亜寒帯林に覆われ、沖縄は温帯性の気候だった。

 

欧州が厳しい寒気に晒されていたのに、シベリアや日本列島はそれほど寒気が厳しくなかったのは、地形的な理由があったからだ。大西洋と太平洋には、大きな違いがあった。

北大西洋の両岸が、氷期に厚い氷床に覆われたのは、北極海の流氷が大西洋だけに集中的に溢れ出て、北大西洋が冷たい海になったからだ。その影響で両岸が冷涼な気候になり、大陸や海面が氷床で覆われた。するとその氷が太陽光を反射し、更に地表が暖まらない状態を作りだしたから、北大西洋の沿岸は更に寒くなり、夏になっても氷が解けずに氷床が厚さを増し、氷床に覆われる面積を拡大し、寒冷化を一層促進する作用が生まれた。その結果北大西洋の両岸は季節に関係なく、厚さ数キロメートルの氷床に覆われ続けた。その氷床は、蒸発した海水が転化したものだったから、氷期末期の海水面は、現在より120m以上低下していた。

太平洋に眼を転じると、シベリアとアラスカを隔てているベーリング海峡は、氷期に海水面が低下すると陸橋化し、北太平洋と北極海を分離した。このため北太平洋は北大西洋程には寒冷化せず、両岸に氷床が発達することはなかったから、北米や欧州程には寒冷にならなかった。

北極

氷期には世界中の海も寒冷化し、水蒸気の発生が抑圧されて降雨量が減ったので、シベリアは現在より乾燥して夏は草原になり、マンモスやヘラジカなどの大型獣が生息する環境を提供した。マンモスハンターが活動する環境がそこに生まれたから、氷期の人類の一つの生息地になった。但しシベリアが全面的に草原化したのではなく、夏になっても融けない降雪に覆われていた地域もあり、一部が草原化したと考えるべきだろう。草原を含む気候帯は、気候変動によって南北に移動し、マンモスハンターはそれに従って、南北移動したと想定される。高緯度地域ほど、気候変動による寒暖の変異が激しいから、マンモスハンターが安定した機構条件に恵まれていたとは考えにくい。

ここまでは、科学的な背景を以て説明出来るが、以下は科学的背景の無い、マーケティング的な推測になる。科学が説明を放棄していても、マーケティングとしては可能な限り検証可能な仮説を用意し、全ての事実を包含した仮説が必要になるからだ。現在行われているマーケティングでは、工学ベースになる事が多いが、いずれにしても理工学的な仮説も必須である事に変わりはない。その観点で考察し、モンゴル高原の砂漠化が不可逆的に進行している事と、地球的な遺伝子の分布と、農耕の発達史を合理的に説明出来るマーケティング的な解釈を、以下に紹介する。当然ながら手法の限界として、現有の知識を組み合わせたものになる。

太陽光を反射する高緯度地域の雪原の消長が、シベリアで顕著に起った可能性がある。大西洋の両岸は、安定した厚い氷床を形成していたが、氷床が夏になっても全く解けないほどには、寒くなかったシベリアでは、厚い氷床は発達しなかったから、夏に黒い大地が露出する地域の面積が、気候変動によって大きく変ったと考えられる。それによって全地球的な熱収支が変わり、寒冷化や温暖化をブーストしただろう。氷期が終了して急激に温暖化した後に、寒の戻りがあった事も、一応この事情から説明出来る。地表に届く太陽光が増えると地表の温暖化が先行し、積雪が貧弱だったシベリアの雪原が急速に消滅し、それにブーストされて急速に地球が温暖化したが、遅れて生起した海洋の温暖化により、海洋からの水分の蒸発量が激増し、シベリアの降雪が激増して再び雪原に覆われ、再度地球が寒冷化したと想定できるからだ。シベリアでマンモスが生息出来たのは、雪原と草原が混在していたからだと考えられ、合理的な解釈を伴う仮説と言えるだろう。

シベリア・中央アジア・モンゴル高原が氷雪に覆われると、その地域の地中の水分蒸発が抑えられ、降雪と地表の界面に発生した融水は地下に浸透し、氷期の10万年間に膨大な地下水として蓄えられた。温暖化によって氷雪が失われると、それらの地下水が地表に浸潤して蒸発し、地域の湿度を微妙に高めたと推測される。しかしその地下水は徐々に失われ、間氷期1万年の間に、モンゴル高原の砂漠化が徐々に進んだのではなかろうか。この仮説が事実だったとしても、それを科学的に検証する事は困難だろう。計算機でシュミレーションするにしても、入力条件を検証できないからだ。

 

2、最終氷期の植生と農耕の萌芽

東南アジは氷期でも温暖湿潤で、樹木が茂って多数の動物が生息し、旧石器時代の人類に良質の生息地を提供していた事は間違いない。周辺には広大な草原もあり、農耕が始まっていたとしても不思議ではない環境だった。どの様な形態で植物が栽培されたのかという議論を措けば、農耕とは言えないまでも、植物栽培が始まっていたと考える事には、妥当性があるだろう。新石器時代になると、非常に速いテンポで農耕が進化したが、その事と東南アジアでの植物栽培の存否を対比した場合、旧石器時代の東南アジには、植物栽培の曙光さえなかったと考えるのには、無理があると言えるだろう。海面上昇で海底に埋もれ、残余もその後の温暖化で熱帯雨林化した地域の事は、考古学的な発見には期待できないから、論理的に考える事しか出来ない。考古学者の発見至上主義は、この様な場合には事態を混乱させる方向に働く。

東南アジアでどの様な農耕が始まっていたのかについては、(10)縄文時代/形成期の項で説明したが、簡単に言えば、色々な種類の植物の栽培が試みられ、カロリーベースではイモ栽培が成功しつつあったと想定される。イモとは言わず、根茎栽培と言った方が適切かもしれない。原初的な根茎栽培は、掘り出した根茎の一部を埋め戻し、周囲の樹木や雑草を除くだけの事だった筈だ。狩猟が成功して食料事情が一時的に豊かになった時、取って置きの根茎を保存するために埋め戻す行為は、極めて自然に発生しただろう。良質の根茎を埋めて置くと、良質の根茎が増えるという知見は、穀物の原種を栽培する知識や技量と比較し、より容易に得られた筈だ。

やがて麦や稲などの穀類の原種も、栽培のメニューに含まれたが、氷期の東南アジアでは栽培種に転化する事はなく、原種の状態で栽培されていたと考えられる。穀類の栽培化には、温暖化による栽培者の拡散過程が必要だったからだ。

イモや穀物栽培とは別に、温帯的な気候帯だった台湾平原で、堅果類が栽培されたと想定される。堅果類を食料とするためには、アクを抜く必要がある。土器がなかった時代には、水に晒してアクを抜く事しか出来なかっただろう。樹木の周囲に散乱していた堅果類は、アクが強く食料に出来ないと分かっていた人が、水中に散乱していた堅果類を口にし、アクが薄れている事に気付くには、無理な前提は必要ないだろう。アクを抜くために堅果類を拾って石で磨り潰し、水中に投じる様になった事は、必然とも言えるだろう。台湾で石を採取してその様な行為を行っていた人が、堅果類の林を求めて平地を北上すると、堅果類の林はあるが石がない環境に囲まれた。粘土の上で焚火すると下の粘土が固くなり、石の代わりに堅果類の殻を割る事ができる事に気付くのも、時間の問題だった筈だ。やがて粘度を丸めて意図的に焼くようになり、粘土を丸めるだけでなく、色々な形状に仕上げる様になる事も、時間の問題だったと考えられる。その土器に水を満たして割った堅果類を浸している内に、温水の方がアク抜きに適しているとか、灰を混ぜると早くアクが抜けるとかに気付いた人達は、効率的な食料源を得て人口を増やし、台湾平原の堅果類栽培者になったと想定される。メソポタミアでは7千年前まで土器が出土しないから、イモや穀類の栽培者には、土器は必須の道具ではなかった事になるが、メソポタミアは新石器時代の後半に、文明を牽引する地域になったのだから、土器と文明には直接の相関はなかったことになる。土器は堅果類栽培者の必須アイテムとして生まれ、東アジアで発達した道具だった。

以上の議論から農耕の始源をまとめると、旧石器時代の食料栽培として最も盛んだったのは、赤道直下でのイモ栽培で、次いで盛んになったのは、台湾平原の堅果類栽培だったと想定される。麦は比較的乾燥していたベンガル湾北西部、米は温暖湿潤なスンダランド、アワは台湾平原の内陸部に原生種があり、栽培が始まってはいた筈だが、主要食糧になる程の生産性はなかったと想定される。穀類は温暖化によって北上した栽培者が、栽培品種化して収量を増やす事により、農業に適した栽培種になったと想定される事は、(10)縄文時代/形成期の項で説明した。

シベリアでマンモスハンターの人口が増えたのは、防寒衣料を作る技術の進化があったからだろう。寒冷地では肉が腐敗しないから、大型獣を捕獲すれば長期間食料を保存する事ができた。長く寒冷な冬には、生肉を冷気に晒して乾燥させ、保存する事も出来ただろう。それにより、冬季にビタミンCが欠乏する事もなかったと想定される。

旧石器時代の海洋漁民は、日本列島だけに生息していたと想定される。氷期ではあっても、比較的温暖だった4万年~3万年前に、火山性の湖沼が沢山あった日本列島の内陸の湖沼で、仕掛けを使う漁労を始めたから、当時の磨製石斧が多数出土する。その後寒冷化が厳しくなり、氷結しない海岸に出て漁労を続け、海洋漁民になったと考えられるが、その様な環境を提供したのは日本列島だけだった。

土器と磨製石器の出土が、新石器時代の遺跡の指標になっているが、それは考え直す必要がある。

 

3、氷期から後氷期への変化

3-1 海水面の上昇

間氷期に入ると北大西洋両岸の氷床が徐々に融け、海水面が徐々に上昇した。8千年前に海水面の上昇が停止すると、現在より海水面が数メートル高い状態になった。日本ではそれを縄文海進と呼んでいる。その後海面が低下して現在の状態に落ち着いたが、海面低下は再度氷床が発生したから起きたのではなく、増えた海水によって水深が増し、海底への水圧が増したので、世界の海底が徐々に沈降したからだ。海水面が高位安定した時期は、高緯度地域に残っていた氷床の融解による、海水の微増と、海底の沈降による海の容量の増大が、見掛け上均衡していた時期だった。その状態が数千年間続いた後、海水の増加が減少して海底の沈降が顕在化したから、海水面が数メートル低下した。海底の沈降は2千年前頃に沈静化し、現在に至っている。

 Wikipediaから転写

 

3-2 氷期から後氷期への地形変化

最も寒冷だった2万年前には、海水面は現在より120m以上低下していたから、当然海岸線は現在より沖にあったが、その度合いは地域によって大きく異なった。氷期であっても温暖多雨だった低緯度地域では、低下した海水面に応じた沖積平野が氷期にも形成され続けていたから、海面の上昇によってその沖積平野が海底に沈んでしまった。特に東南アジアは、温暖だった上に豊かな降雨に恵まれていたから、大河の河口に広大な沖積平野が形成されたが、沖積平野は、概ね海抜十メートル以内に形成されるから、氷期に形成された沖積平野は全て海面上昇によって水没した。現在の水深を地図化すれば、氷期の大陸の形状をある程度復元できるから、下図にユーラシア大陸東南部の、現在の水深120m線を示す。赤線の大陸側は、氷期には陸地だったと想定される。

氷河期

東シナ海西部、南シナ海南東部、タイランド湾、ジャワ海は、現在水深100m未満の浅い海だから、氷期に広大な平原が広がっていた事になる。その事は、この地域は氷期であっても極めて豊かな降雨があり、大河が多量の土砂を運び込んでいた事を示す。この様な氷期の豊かな降雨は、ミャンマーのイラワジ川まで認められるが、バングラデシュ、インド、パキスタン沿岸では殆ど認められない。全く沖積地の痕跡がないわけではないが、現在の河川の流域に広大な平原を持ち、海底平原はあまり広くない場合には、気温が先行して上昇したから降雨量が増えて河川は増水したが、海面が未上昇だったから、現在の平原の土砂が流れて海岸に沖積地を形成したものだったと考えられるから、極めて広大なものだけを、此処での議論の対象にする。

上記から、ベンガル湾東部には氷期になってもモンスーンがあり、現在より南下した氷期のモンスーン地帯と、赤道直下には豊かな降雨があったが、それ以外の地域は乾燥し、砂漠化していたという結論になる。モンスーンは、温暖なベンガル湾の海水から蒸発した水分が、北東風によって中国大陸南部や日本列島に、豊かな降雨をもたらす現象だが、氷期のモンスーンは現在より南下し、メコン・メナム川と揚子江の上流に雨を降らせたが、バングラデシュ以西は乾燥していた事になる。氷期の海水は現在よりも冷たく、水分の蒸発量は現在より少なく、従って降雨量は現在より少なかったから、乾燥した地域は大きく東に広がっていた。現在も乾燥している西南アジアは、氷期には砂漠化していたと考えられ、そこに麦の原種が繁茂していたとは考えられない。

東シナ海西部や、南シナ海東南部の広大な氷期の平原は、最終氷期だけの堆積で形成されたのではなく、繰り返された氷期に徐々に堆積が進み、現在の海底平原を形成していると考えられる。更に言えば、氷期にその平原に流れ込んだ土砂は、温暖な間氷期の激しい降雨期に山間部の岩石から削り出され、一旦間氷期の高い水面に合せて現在の海岸線に堆積したが、氷期の降雨でその軟らかい土砂が浸食され、氷期の海水面に合った高さの平原を形成するべく、より低位の沖積平野に堆積したと考えられる。10万年前の前回の間氷期にも、間氷期特有の盛んな降雨の結果として、現在と同様の沖積平野が形成されたが、氷期になって海水面が低下すると、その沖積地は海抜100m以上の台地に変わり、台地の柔らかい堆積土壌が河川に浸食され、氷期の海水面に見合った沖積平野を形成する、土砂になったと想定される。間氷期の平野は氷期には、河川が刻む深い峡谷が縦横に走る地形に、変わっていただろう。

氷期のユーラシア大陸西北部は氷河に覆われ、西南部はツンドラやタイガになり、中近東は乾燥化した砂漠だったので、パキスタン以西では河川の浸食は殆どなく、海岸に広大な沖積平野は形成されなかったと想定される。

 

4、ユーラシア東南部の地形変化に着目し、原日本人と原縄文人の足跡を検証する

4-1 原日本人(後の海洋民族)

上図を詳細に検討すると、北海道は樺太と共に、シベリアと陸続きだった事が分かる。原日本人はその陸橋を経て、シベリアから日本列島に渡って来た事が、東アジアの遺伝子分布から読み取れる。黄海はすべて陸地で、東シナ海も半分以上が陸地で、台湾は岬の様に海洋に突き出ていた。黄海の海底の沖積地は、氷期の降雨によるものではなく、黄河が膨大な黄土を運んで来たので、後氷期初期の急速な堆積を何度も繰り返しただけで、この様な広大な平原を形成したと想定される。華北平原そのものが、嘗ては広い内海であり、山東半島は島だったが、黄河に埋め立てられて平原になった。

朝鮮海峡は、日本海(日本湖?)と東シナ海を繋ぐ海水の通路として、潮汐流に削られながら日本列島と大陸を隔てていた。朝鮮半島と日本列島の動物相の違いから、最終氷期には両者は海で隔てられていたと想定されている。津軽海峡は、マンモスの様な大型獣は超えなかったが、ヘラジカなのどの敏捷な動物は渡った事が分かっているから、陸続きの時期があった事になる。原日本人もこれらの動物と一緒に、4万年ほど前に津軽海峡を徒歩で渡ったと想定されるが、当時の津軽海峡の様子は判然としない。海峡の過去の状態を推測する事が難しいのは、狭い海峡に潮汐流が流れると河川の様な浸食が起き、過去の地形を留めない事があるからだ。潮汐流によって海峡の深さも変わるから、海峡の現在の水深は、必ずしも氷期の標高の指標にはならない。氷期の津軽海氷は陸橋化したが、断崖によって遮られていたから、マンモスは本州に侵入出来なかったと想定される。冬の寒さで淡水化していた日本海が氷結し、疑似的に陸橋化した可能性もあるが、その仮説では諸事情を説明できないから、崖で隔てられた陸橋だった可能性が高い。

諸事情とは、4万年前に大陸から渡って来た当初の原日本人には、海洋性は皆無で、日本列島の本州の湖沼で漁労を行う事により、海洋性を獲得したと想定されるから、津軽海峡は徒歩で渡る事情があった事を指す。4万年前は、2万年前頃の最寒冷期程には、海面は低下していなかったし、湖沼で漁労ができる程には温暖だった筈だ。湖沼で漁労を行うために、灌木を伐採して仕掛けを作り、筏を汲んで湖面を往来したから多数の磨製石器が必要になり、世界でも類を見ない旧石器時代の早い時期に、多数の磨製石斧を作った。

原日本人の湖沼漁労は、最も寒冷だった3万年前に困難になり、25千年前には、海洋漁民にならざるを得なくなっていた。湖沼での操船術を転用して海洋漁民になったが、その様な環境を提供出来たのは日本列島だけだった。海洋民族を育てた日本の特徴は、①火山性の日本列島には多数の湖沼があった。②氷期の日本列島には雨量が少なく、湖沼の寿命が長かったから、日本列島各地に多数の湖沼があった。③多少の雨があり、湖沼の水が循環して魚類の生息を可能にしていた。④湖沼の近辺に海岸があり、湖沼と海洋の漁労を季節的に選択する事が可能だった。

 

3-2 東南アジアの栽培民族の北上

台湾の南北に帯状に広がっていた沖積平野を、以後「台湾平原」と呼び、マレー半島、スマトラ島、ジャワ島とボルネオの間に広がっていた「スンダランド」と区別する。両者は南シナ海が分離していた。

インド以西には、氷期の沖積平野と想定される海底地形がないが、ベンガル湾以東には、氷期の広大な沖積平野を想定出来る海底地形が複数ある。広大な沖積平野の存在は、豊かな降雨があった事を示し、氷期の東南アジアに豊かな植生があった事を意味する。現在湿潤な熱帯や温帯に生育する植物は、栽培種の原種を含め、殆どが此処に集約されていたと考えられる。大陸の他の地域は、寒冷だったり乾燥したりしていたから、地中海沿岸とシベリア以外には、旧石器人を多数養う環境にはなかったと想定される。氷期の東南アジアに匹敵する温顔湿潤な環境は、赤道直下のアフリカ東海岸にもあったが、広い沖積平野は形成されなかった。地殻が沈降しているからだと推測される。

台湾平原は温帯性の湿潤な気候で、スンダランドは亜熱帯性の湿潤な気候だったから、そこで原始的な農耕が始まっていたと想定されるが、海底から痕跡を発掘する事は出来ない。

海面上昇に伴い、氷期の沖積平野から栽培民が追い出され、中緯度の沖積平野に拡散したと考えられる。気候の温暖化により、中緯度地域でも農耕が可能になったが、海岸近くの平坦地が農耕適地だったから、新石器時代前期の栽培民の遺跡は、海面上昇で消滅し、発見できない前提で議論する必要がある。海面上昇が停止した8000年前に、突然文明的な営みが開始されたという話は余りに不自然だから、水没した大陸の遺跡と、8000年前までの農民の主要遺跡は、存在したが発見は出来ない前提で議論する必要がある。

世界最古の農耕遺跡とされる、11500年前のシリアのテル・アブ・フレイラ遺跡では、湖岸の沖積地で麦を栽培し、狩猟と漁労も行っていた。湖岸の遺跡だったから、保存されていた事になる。後述するが、湖岸の遺跡が保存される事も、稀な事ではあったが、海岸の遺跡の様に確実に消滅したわけではなかったから、稀に後世に遺跡を遺す環境があった。但し大きな湖では遺跡が残る可能性が低下するから、小さな湖沼の狭い平坦地の遺跡の発掘から、当時の先端文明を推測する事になり、誤解を招きやすい事になるだろう。

オリエントの農耕は、オリエントで自律的に発生したと考える人が多いが、氷期のオリエントは寒冷で乾燥していたから、後氷期の温暖期に生産性が高い麦栽培が、亜熱帯的なエジプト・メソポタミア・インダス川流域で始まった事と矛盾する。氷期のオリエントに、麦の原生種が繁茂していたとは考えにくいからだ。2万年前の最寒冷期には、麦の原生種はスンダランド周辺だけに繁茂していたと想定され、栽培していた人達もそこから移住して来たと考えられる。氷期のメソポタミアには、麦の野生種が繁茂していなかった事を認めても、温暖化して中近東に自然拡散した後、土着していた狩猟民が12000年前に栽培を始めたとの反論も予想されるが、その反論に根拠があるわけではない。

オリエントや欧州の栽培民の祖先とされる、Y遺伝子I,J,K系の成立は38500年前と想定され、東アジアの栽培民であるO系がKから分離したのは、32000年~28000年前と想定されるから、氷期の寒冷化が厳しくなった際に皆がスンダランド近辺にいて、その後I,J,K系が西に拡散し、O系とKの一部が東に拡散したと考える方が、合理的だろう。彼らの共通の祖先であるFは、南アジアが起原とされているが、氷期にも緑が豊かだった東南アジアの方が、農耕民族の共通の祖先の繁殖地としてはふさわしい。

ミトコンドリア遺伝子は、その様子を更に濃厚に描いている。非アフリカ集団のルーツであるMN、及びその娘達は南アジアと東アジアに濃厚に分布し、その娘であるRも南アジアに分布し、Rの娘達であるUHが、オリエントと欧州に分布している。端的に言えば、西ユーラシアのミトコンドリア遺伝子は、南アジアと東アジアにルーツがある。

Y遺伝子の分布とミトコンドリア遺伝子の分布を総合して解釈すれば、氷期の東南アジアに人口の集積があり、後氷期の温暖化と湿潤化で植物栽培地が拡大すると、人々は北と西に拡散したが、西回りはヒマラヤ山脈や雲南・貴州の山岳地に北進を阻まれたから、インドを経由してオリエントと中央アジアに拡散した事になる。温暖化した後の東南アジアは熱帯雨林に覆われ、貧弱な石器しか持たなかった人々には、農耕が出来ない地域になったから、西回りの人達のルーツがインドにある様に見えるが、実は後氷期に一旦人口が希薄になった東南アジアこそが、氷期の人口プールだった事になる。

Y遺伝子は比較的鮮やかに東西に分かれるが、ミトコンドリア遺伝子に関しては、全体の分布が東に軸足を移動した後、特定集団が西への移住に従った事になる。Y遺伝子を持つ男としては、多彩な集団が移住したが、ミトコンドリア遺伝子を伝えた女性の多くは、遠方への移住を望まずに、地元で配偶者を得る傾向があった様だ。

以上を分かり易く解説すると、アフリカから出て東に移住した集団は、東南アジアに辿り着いて定住したが、一部の冒険的な男性がより東に移住し、より豊かな食料を獲得して人口を増やしたので、一旦定住した女性はそれに魅力を感じ、全般的に東に拡散する傾向があった。男は一旦獲得した生業に固執し、移住に消極的だった様だ。氷期が終了して海面が上昇し、東南アジが熱帯雨林になって生存に適さない状況になると、男は積極的に西に移住したが、それに従う女性は少なかった。しかし西に移住して成功した者は人口を増やしたから、Y遺伝子は多彩だったがミトコンドリア遺伝子は単調になった。一方温暖化が始まった時に、現在のヴェトナムや中国南部に達してしまっていた者は、Y遺伝子としてはO系が主で、それにKが少し含まれる程度だった。その単調なY遺伝子と多彩なミトコンドリア遺伝子が北上し、東アジアの農耕民になったと考えられる。Y遺伝子とミトコンドリア遺伝子の拡散の詳細は、C)日本人の遺伝子分布とその由来参照。

津軽半島の遺跡から発掘された16千年前の世界最古の土器は、東アジアで土器が発明された事を示している。16千年前には、穀類は本格的に栽培されていなかったから、土器の発明と穀類の調理には、直接の関係はない事になる。堅果類を調理する為に、土器が進化したと考える事ができるだろう。土器は矢尻と共に発掘されているから、矢を飛ばす弓に不可欠な麻の繊維と土器に、文明的な関連があった事になる。麻の実は食用にはなるが、土器を使って調理する必要性は穀物と同程度だから、麻の実と土器に直接の関係はないが、共に東アジアの栽培文化だった事になる。但しその遺物を津軽半島まで運んだのは、原日本人である漁民だった。津軽半島のこの遺跡は、当時の標高で200m近い場所にあるから、何故その様な場所に漁民が遺物を遺したのか、甚だ疑問になる。毛皮と交換にこれらの物を漁民から得た、狩猟民の遺跡だった可能性が高い。沿海部にあった当時の漁民の全ての遺跡は、海面上昇と共に消滅してしまっているから、当時の日本列島の沿海部に、どの程度の密度で漁民集落があったのか窺う事は出来ない。

中近東には7千年前まで土器がなく、7千年前の黄河上流に、進んだ土器を持って麦栽培する仰韶文化があった事は、麦栽培がベンガル湾からオリエントや中央アジアンに拡散し、中央アジアから更に黄河上流に拡散し、東シナ海沿岸から黄河上流に拡散した土器製作と合体し、仰韶文化が成立したと考えられ、上記の人の移動と整合する。

エジプトやオリエントの遺跡から、石製の矢尻が発掘され始めるのは7000年前からで、土器が発掘され始める時期と一致している。土器、麻、石鏃は、新石器時代初頭の東アジアの文化として、新石器時代に西に伝わった事になるが、東アジアが後氷期開始直後の、文明先の進地だったと考えるのは早計だ。青銅器は、オリエント世界では5500年ほど前から使われたが、東アジアでは4000年以上遡るものは発見されていないからだ。文明にはそれぞれの特徴があったという事であり、栽培文化が先進文化だったわけでもない。トルコのアナトリア南東部、ギョベクリ・テペで発見された11千年前頃の石造の宗教建築(神殿)は、狩猟採集民によって建立されたと考えられているし、日本には麻や土器を南方から持ち込んだ漁民の海洋文化があった。

 

3-3 縄文人の日本列島への渡来

台湾平原で堅果類と麻を栽培し、土器を製作していた原縄文人が、どの様な経路を経て日本列島に来たのか検証する。

上の地図の水深120mラインで判断すると、2万年前の沖縄は大陸から260km離れ、久米島は180km離れていた事になる。大陸棚は更に数十km延伸し、沖縄との間に水深1000m以上の海が横たわり、現在はそこに黒潮が流れている。最終氷期に海面が低下しても、大陸と沖縄は海で隔てられていた事は間違いない。

現在の黒潮は数百メートルの深さがあり、流速は5kmほどあって黄河や揚子江の中・下流より速いから、巨大な土砂運搬力がある。氷期のこの辺りの陸地は、揚子江が運んだ土砂で形成された沖積地だから、水面が上昇して黒潮が現在の様に流れると、その土砂を削り取っただろう。氷期の狭い海峡に黒潮が流れていなかったか、狭隘部を流れる事によって流速が弱まっていただろうから、氷期の大陸は現在の120mラインより、張り出していた可能性が高い。グーグルアースを参照すると、東シナ海の海底地形はそれを示唆しているから、2万年前の大陸と久米島の距離は150kmほどだっただろう。

縄文遺跡から魚骨が沢山発掘されているから、縄文人が海洋漁業を行っていた事は間違いない。旧石器時代人も、伊豆半島から50km離れた神津島から、黒曜石を内地に持ち込んでいた証拠があるから、その程度の距離の海洋を航行出来る船を、持っていた事は間違いない。新石器時代という時代区分は、中緯度地域の気候が温暖になり、農耕が盛んになった時代を区分する発想であって、漁民や狩猟民に同様の区分を適用する事には根拠がないから、縄文人が海洋民族だった様に旧石器時代人の原日本人も、海洋民族だったと考える事に不都合はないだろう。

神津島から黒曜石を運んだ船を使えば、旧石器時代の原日本人が九州北岸から大陸に渡り、そこから台湾平原を南下して台湾山地に至ったり、西南諸島を南下して沖縄に至ったりする事は可能だった。沖縄から大陸に渡る事が可能だったのかについては、他の状況を考慮する必要があるが、現在の日本人の遺伝子分布と、沖縄県の人達の遺伝子分布を解析すると、縄文人は沖縄経由で日本列島に来た事が分かるから、2万年前の大陸と久米島も、船で往来していた事になる。

旧石器時代の狩猟民や漁民は、定住する事なく遊動していたと考えられているから、漁民は日本海や太平洋沿岸を、季節に応じて南北に遊動していただろう。その漁民の集落は、後氷期の海面上昇で全て海底に沈み、発掘できないが、日本人の現在の遺伝子分布を解析すると、縄文人や旧石器時代の原日本人が、海洋を航行する船と技量を持っていた事に疑問を差し挟む余地はない。考古学者の一部は縄文人の海洋性さえも否定しているが、それが如何におかしな主張であるのかを、(10)縄文時代/縄文人の海洋性と石材加工で説明した。発掘されない遺物や遺跡はなかった事にする態度が、現在の考古学を酷く劣化させている事は、理性的な人々が憂慮すべき課題だろう。

日本最古の土器と矢尻が、津軽半島の16千年前の遺跡から発掘されている。矢尻の存在は日本では、旧石器時代の狩猟民と新石器時代の狩猟民を区分する素材になっている。後氷期の温暖化により、高緯度地域でも麻の栽培化可能になったから、弓を作る事も可能になり、矢尻が発掘されると考えられる。しかし16千年前は未だ氷期だったから、津軽半島は言うに及ばず、九州でさえもアサが自生する気候ではなかった。麻も土器も、原日本人が台湾平原に遊動し、そこの住民から調達した筈だ。

原日本人が最初に台湾平原の住民に出会った場所は、現在台湾がある辺りだったと想定される。台湾以北の広大な沖積平野には、石器の素材になる石材が全くなかったから、石器時代人は生存出来なかったと考えられるからだ。粘土を焼いて堅果類を叩いていたにしても、全く石器が入手出来ない場所では、彼らも生存出来なかっただろう。樹木を切り開くにしても、石器は欠かせないアイテムになる。しかし原縄文人となるべく沖縄に渡った人々は、久米島の対岸の大陸で堅果類や麻を栽培し、原日本人の船で沖縄に渡って、石材などを入手していたと想定される。この想定により、17千年前の旧石器時代人の人骨が、沖縄の港川から発掘された理由を説明出来るだけでなく、日本人の南方系Y遺伝子の分布が、沖縄での一旦の定住と再北上を示唆している事も、説明出来るだからだ。

沖縄の対岸の大陸で堅果類を栽培し、縄文人的な生活を営んでいた人がいたとする想定は、気候的には考えられない事ではない。しかし台湾から北上する事になるから、元々石材が採取可能な台湾近辺にいた人々が、堅果類の実りが減少する寒冷な地域に北上した事に、何らかの説明が必要になるとすれば、三内丸山に縄文人が北上した事例を考察する事ができるかもしれない。三内丸山の縄文人は、沢山の海産物を食べていた事が、発掘によって確認されている。クリの実の収穫が少ない青森でも、海産物を得て豊かな食生活を満喫していた。台湾にいた堅果類栽培者も同様に、海産物が得られる沖縄の対岸や、沖縄に移住していた可能性はあるだろう。海産物だけでなく、黒曜石の尖頭器や海獣の毛皮の様な、台湾では産出できない日本の物産にも、興味を持った可能性がある。

原日本人が船で遊動する際、複雑な入り江を持つ大陸沿岸より、西南諸島を南下する方が容易だったから、複数の集団が季節的に沖縄に南下していたと想定される。その想定により、南方系縄文人の日本列島への移動が、遺伝子の解析結果と整合させながら説明できる。遺伝子解析についての詳細は、C)日本人の遺伝子分布参照。2万年前の久米島と大陸間の状況を検証すると、原日本人は2万年前には、始源的な海洋民族になっていたと想定される。

久米島の北部に、北西に23度の急傾斜、南に68度の緩斜面を持つ外輪山的な細長い山塊があり、現在の標高で309.5mの宇江城(うえぐす)岳がある。この山塊は、後氷期の15千年間に、台風などの激しい降雨によって山容が変化したと想定され、氷期にはもっと高い山だったと考えられる。水面が120m低下していた氷期の標高は、現在の山頂で430mになるから、氷期には600m前後に達していたと推測される。

氷期の海上の船からこの山を見た場合、どのくらい遠方から見えたのか計算する事ができる。構造が単純な船に乗った人の目線を、海水面上1.5mとし、久米島の山頂が標高600mだったとすれば、90km沖から見える。大陸の海岸に標高10mほどの台地があり、そこに樹高20mの巨木があれば、23km沖からその頂点が見える。目視を頼りに大陸から久米島に渡るためには、40kmほど目標がない航海をしなければならないが、古代人は気流や雲の状態から、島の存在を知覚で来たかもしれない。いずれにしても2万年前の原日本の航海術は、そこまで進化していた。

沖縄の港川で、17千年前の人骨が発掘され、同時代の久米島からも、人類が生存していた痕跡が発見された事は、原日本人と原縄文人の関係が、17千年前には成立していた事を示す。広大な沖積平野の岬の住人は、石器を作る石材は入手出来ないが、石器を使わない旧石器時代人はあり得ないから、大陸の住民は久米島や沖縄本島で、石材を調達していたのだろう。沖縄に住めば石材の調達は容易だったが、大陸に住んでいれば石材は貴重品だった。貴重な石材を丁寧に研磨して使う技術がここで生まれ、12千年前の九州の遺跡から発掘された、異様に美しく成形された丸鑿に発展したとすれば、大陸の方が、日常的に生活するには都合が良かった事になる。陸上動物は大陸の方が多く、堅果類や麻などを栽培する土壌も、大陸の方が良好だったからかもしれないし、原日本人の船は作りが粗雑で転覆の危険があったから、堅果類栽培者は乗りたくなかったのかもしれない。勇敢な者だけが沖縄に渡り、石材を採取していたが、海面上昇が大洪水を引き起こし始めると、その様な事も言って居られなくなり、沖縄への本格移住に至ったと想定される。3種類のY遺伝子が移住したから、民族毎に少なくとも3つの集落があり、民族によって大陸と沖縄での住み分け方に、違いがあった可能性もある。

当時の港川は、海岸から数km離れた谷合の、標高100m以上の斜面だったから、港川人は漁民ではなく大陸系の原縄文人だった可能性が高い。久米島の石灰岩洞穴から、15千年~16千年前のシカ、ネズミ、ハブ、カルガモの骨、幼児の人骨、カニ化石が発掘されているが、漁民だった原日本人が陸上動物を狩ったとは考えにくいから、原日本人の船によって運ばれた、大陸住民の生活の痕跡だったと考えられる。堅果類栽培者は、大陸の沖積平野で河川漁労も行ったと推測されるが、旧石器時代の大陸人にとって、海上を150kmも移動する事は至難の業だったから、海上の往復には原日本人の船を使った筈だ。

その様な堅果類栽培者との交流の中で、堅果類栽培者が作った土器を原日本人が日本列島に持ち帰り、その一部が青森県津軽半島の遺跡から、16500年前の世界最古の土器として発掘された事になる。同時期の北海道南端の旧石器時代の遺跡から、土器は出土していないから、16500年前の青森で土器が作られたとは考えにくい。台湾平原から運ばれたのであれば、説明は明快になる。九州で土器が発掘されるのは、13千年前頃からの遺跡で、12千年前以降には、高度な縄文文化が営まれた。その時代的な軌跡は、地球温暖化によって九州でも堅果類の栽培が可能になった時期と一致するから、海面上昇によって沖縄が狭い島になって行く中で、それに恐怖を感じた人々が九州に北上した事が、上記の想定から合理的に説明出来る。発掘された最大の遺跡が、海岸に面した高台にある事は、彼らの解明上昇に対する恐怖感を示唆している。その様な恐怖感を持っていた人達だったから、標高が低い海岸に集落を営む事を嫌い、九州に沢山の縄文遺跡を遺したと想定される。彼らにその様な恐怖感がなければ、遺跡は海に飲まれて発掘出来なかったかもしれない。

更に温暖化した縄文時代早期に、縄文人は本州に拡散し、縄文時代前期には青森にまで達していた。しかしその後の海面上昇により、堅果類栽培者の痕跡は破壊された。日本列島に定着した縄文人は次第に海面上昇に対する恐怖感を失い、三内丸山の集落は海岸に形成された。その途上の本州沿岸の縄文遺跡は、徐々に海岸線が陸地を蚕食する中で、渚の波に洗われて破壊されたから、8000年以前の海岸の遺跡は発見されていない。

大陸の奥地に居た狩猟採集民の文化を再現する事は、従来通りの考古学的手法で良いかもしれないが、沖積平野を活動拠点とする栽培民や、海岸を拠点にする漁民に関しては、遺跡を発見出来ない前提で議論する必要がある。日本列島の縄文遺跡は、8000年前を境にして以降の発見例が急増するが、温暖化のピークでもある8000年前に、突然文明的な営みが始まったのではなく、遺跡の壊滅的な破壊が進行した時期が終了したから、発見される遺跡が増えたと考えるべきだろう。

 

4、栽培民と漁民の遺跡の消滅

海面上昇により、8000年以上前の海浜の集落跡は、例外なく全て消滅した。その後も、津波や土砂の堆積が海岸の集落跡を破壊し続けたから、現在まで保存された遺跡は極めて例外的な存在になる。海浜には漁民集落だけでなく、漁民から海産物を得るべく、漁民集落に近接して営まれた縄文人集落も含んでいる。三内丸山遺跡が示す様に、縄文時代の巨大集落は、漁民集落に近接して営まれ、住民の食料に占める海産物の割合が高い集落だったと想定される。それによって栄養バランスに優れた食事が可能になり、食料調達も安定したからだ。その結果として人口が増えた事を、三内丸山遺跡は示している。日本人の最多Y遺伝子であるD2は、縄文時代には漁民だったから、縄文時代の食料に占めるカロリー比率として、海産物が最多だった可能性が高い事と併せて考えると、縄文時代の人口は海浜に集中していただろう。中部山岳地帯などの例外を除けば、縄文時代の主要集落は海岸にあり、その殆どが消滅した事になる。

氷河期岩盤

 左上図は、海水面が低下していた氷期に、海浜にあった集落を模式的に示す。この集落が沖積平野にあっても岩盤上にあっても、その事情は変わらない。海水面が徐々に上昇すると、家屋の痕跡は汀の波に洗われて完全に消失し、何の痕跡も残さなかっただろう。海面が上昇途上にあれば、この状態が何度も繰り返され、その都度住居の痕跡は破壊された。

 下図は海面が上昇して新たな堆積土が積り、新しい沖積平野に集落が出来た状況を示し、8千年前以降の状況に相当する。海面上昇が停止すると、日常的に海岸を洗う波が、海岸にあった家屋の痕跡を破壊する状況はなくなったが、日本列島では数百年に一度巨大津波が襲来し、海浜にあった集落の痕跡は、その都度破壊されてしまった。

 海面上昇が停止しても沖積土が堆積すると、その重みで地殻岩盤が沈降し、沖積平野が徐々に沈降して、その上に土砂が堆積する現象が繰り返されたから、海岸の古い遺跡は厚い土砂に覆われ、発見する事が困難になった。

後氷期岩盤

 以上の事実から、縄文時代早期以前の海浜集落跡は、発見される見込みは全くない。縄文時代前期以降の海浜集落跡であっても、発見される見込みも殆どないが、津波の被害と土砂の堆積を免れた遺跡は例外的に発見された。三内丸山遺跡は、その様な例外的な遺跡だったと考えられる。

 三内丸山遺跡は、津軽半島と下北半島によって津波の被害から免れた。近くに大きな川はないから、土砂に埋まる可能性がなく、隆起気味の地殻上にあり、遺跡が保存される条件を備えている。しかしそれでも、クリなどの堅果類を栽培する、縄文人の集落だった三内丸山遺跡は保存されたが、近くにあった筈の漁民集落は、発掘されていない。

漁民の遺跡が発見されない事は、日本の旧石器時代と縄文時代を考察する上で、重大な支障になっている。縄文時代には、漁民は最も豊かな人々であり、人口のマジョリティだったから、問題は深刻だ。

その様な事情ではあるが、海面上昇が終わった直後から、漁民集落だったと考えられる真脇遺跡が、能登半島の富山湾側で発見された。イルカの骨が多量に出土し、魚類の骨も発掘され、漁民の集落だったと推測されるこの遺跡は、縄文時代にはクリ林に囲まれ、クリ林を囲むようにカシの林があった。海岸沿いの岩肌の露出する場所にはマツ、谷沿いの湿った場所にはトチノキが生育する環境だった。漁民集落でもクリを栽培していた事は、縄文人との通婚が進んだ結果だと考えられ、この集落の女性達は、漁民にふさわしい土器を作り、漁具に必要な麻を栽培していたと想定される。

石川県真脇遺跡

 真脇遺跡が保存されたのは、能登半島の裏側にあったからだ。日本海で発生した津波に襲われにくい上に、富山県は地震が少ない地域だから、富山湾を震源とする巨大な津波は、縄文集落が形成された後には、発生しなかった可能性が高い。

 下の縮尺を変えた2枚の地図は、真脇の詳細な地形を示す。現在の平坦部は、縄文時代には内湾だった。富山湾の内側に更に小さな湾があり、小湾内には島で仕切られた更に深い湾入部があったから、日本海の津波が富山湾内で反射しても、高潮が及びにくかったと想定される。

 遺跡がある平坦部には、流域が短い小川が流れ込むだけだから、5千年間の土砂の堆積量は少なく、遺跡が地中深く埋もれる事もなかった。

 能登半島は、隆起も沈降もしない地殻上にあった事も、遺跡が保存された重要な要因になる。瀬戸内沿岸は、真脇と同様の条件を提供できそうな地域だが、瀬戸内海は沈降地殻が形成する内海だから、1千年間に1メール以上の沈降が継続した可能性が高く、縄文時代の海岸線は、現在は深い地中に埋もれている事になる。瀬戸内では、海浜集落跡の発掘は困難だろう。

真脇遺跡の縄文前期の土器                        石川県埋蔵文化財センター

真脇遺跡の縄文中期の土器

漁民は、堅果類栽培者だった三内丸山遺跡の土器とは異なる器形の土器を使っていた。堅果類栽培者とは別の民族として、独自の文化を形成していたと推測される。前期から中期にかけて、土器の形状に多少の進化が認められるが、この進化を遺跡が発見できない時期にまで遡って推測すれば、海進時代だった早期にも、高度な土器を製作した集落があった事は、容易に推測できるだろう。マーケティング手法では、その推測を仮説化する事を推奨するが、現在の考古学は、発見されない過去に関する推測を禁止しているから、誰も何も考えない。

真脇遺跡が保存された特殊性を考えれば、縄文時代には、この様な漁民集落が日本各地にあったと考えるべきだろう。

 

 

5、内陸の湖岸の集落も、発見される見込みは少ない。湖岸の集落だけでなく、内陸の平地の遺跡はすべて消滅した。

例外的に、岩盤上の遺跡だけが保存されたと考えられるが、関東平野に遺跡が集中している事から、多くの縄文人は平地に集落を営んだと推測される。

 

 集落形成期の湖畔

 

 左上図は、隆起や溶岩流によって川の流路が塞がれたり、大地が陥没したりして形成された湖の模式図になる。日本列島の湖沼は全て、この型の湖だった。氷期は降雨量が少なく河川の浸食が限定的だったから、形成された湖沼の寿命が長く、縄文時代草創期にはこの様な湖沼が、日本列島の各地にあった。

湖水面よりやや高い位置に、沖積平野が形成された。一般的には平野と言える広さはなく、平坦地と呼ぶ程度の広さだった。北海道には現在も巨大湖が多い。気候が寒冷で台風が来なければ、湖が長期間保全されるからだ。旧石器時代末期の本州にも、北海道にある様な大きな湖が、各地にあったと想定される。湖畔の沖積地上に形成された集落を、左図に示す。湖で採れる魚や貝類は、縄文人の重要な食料源になったから、内陸の縄文人は好んで、湖畔に集落を営んだと考えられる。

しかし後氷期の本州には頻繁に台風が襲来し、その豪雨による増水が湖の流出河川を浸食し、殆どの湖は縄文時代に消滅した。左図に縮小途上の湖を示す。湖水面が高かった時期に形成された沖積平野は、その後の湖水面の低下と共に浸食され、平坦地は完全に失われた。それと共に遺跡も失われた。湖が残存している場合、湖底から石器などの遺物が発見される事があるが、それは湖底に遺跡があったのではなく、消失した沖積平野に遺されていた遺物が、土砂と共に湖底に堆積したからだ。諏訪湖底の曽根遺跡はこの例になる。

縮小湖

 現在の湖畔(湖が残っている場合)

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