縄文人の海洋性を認知していなければ縄文時代は評価できないので、この項でそれを確認する。

中国の歴代史書は、「倭人は海の彼方から来るが、中国人は倭人の島が何処にあるのか知らない」と指摘しているから、縄文人と倭人が海洋民族だった事は明らかだが、歴史学者はそれを無視し、縄文人は日本列島に閉じ篭って狩猟採取をしていたと主張しているので、その主張は事実に反している事を確認する。

 

1 縄文人が優れた航海術を持っていた証拠 (項目番号がジャンプスイッチ)

1-1 奄美・沖縄で縄文前期の九州の土器が発見され、縄文時代の奄美の遺跡から、本土との交流を示す遺物が発見されている。

1-2 奄美は九州から300km以上離れ、屋久島から200km以上離れ、島伝いに航路すると島間距離は最長60kmある。

1-3 九州から奄美に渡る為には、黒潮が太平洋に噴出するトカラ海峡を横断する必要がある。黒潮の平均流速は5/h、最大流速は7km/hで、幅は100㎞。

1-4 黒潮を横切るには10kmh以上の速度が必要で、鎌倉時代来襲した元寇の船も、種子島に鉄砲を伝えたポルトガル人も、黒潮は横切っていない。

1-5 中国の史書は、倭人の島は会稽東冶(福建省福州)の東にあると記し、倭人の主要航路は、黒潮を2回横断する九州~沖縄~台湾~福州だった事を示している。

1-6 縄文時代の遺跡から丸木船の様な船材と、櫂が多数発掘されている。丸木船の様な船材は、海洋船の船底材だったと考えられる。

1-7 三重県で発掘された5世紀の舟形埴輪は、立派な構造船の形状を示し、19世紀まで中国の外洋船だったジャンクと同じ構造だから、その祖型だったと考えられる。

1-8 好太王碑文に、朝鮮半島を南下した5万の高句麗軍が、倭と戦ったと記されている。宋書は倭が半島南部を守り切った事を示し、倭には強力な海運力があった事を示している。

1-9 複数の旧石器時代の遺跡から、伊豆半島から50㎞以上離れた、神津島産の黒曜石が発掘されている。縄文時代の南関東では、神津島産の黒曜石が多用されていた。

 

2 縄文人は優れた商品の生産者で、それを使った海洋交易者でもあった証拠

2-1 各地の縄文遺跡から、滑石や蛇紋岩で作った規格生産的なペンダントや、耳飾りが多数発掘されている。

2-2 各地の縄文遺跡から、精巧な磨製石斧が多数発掘され、それを作る工房が新潟・富山から多数発掘されている。

2-3 全国の縄文遺跡から、ヒスイを使った規格生産的な加工品が多数発掘され、その工房は北陸にあった事が確認されている。

2-4 縄文遺跡から特定産地の黒曜石で作られた、精巧な矢尻が多数発掘されている。

2-5 漆の加工技術は、縄文時代の日本で発達した。

2-6 多彩な技巧を凝らせて籠を編む技術が、縄文早期に成立していた。

 

3 倭人の海洋性を指摘している中国の史書

3-1 漢書地理誌 「楽浪海中に倭人有」(倭人の地は楽浪の沖にあるが、それ以上の事は知らない。)

3-2 後漢書倭伝 「倭は韓の東南の大海中に在り。山島(山が多い島)に依り居を為す。」「所在絶遠にして(中国人には)往来できない。」

3-3 魏志倭人伝 「倭は帯方東南の大海中に在り。山島に依り国邑を為す。」「其の道里を計ると、会稽東冶(福建省福州)の東に在る。」

3-4 晋書倭人伝 「倭は帯方東南の大海中に在り。山島に依り国を為す。」(魏志倭人伝の転記)

3-5 宋書倭国伝 「倭国は高麗東南の大海中に在り。」(晋が滅んで帯方郡がなくなったので、基準地を高句麗に変えて転記)

3-6 隋書倭国伝 「倭国は百済・新羅の東南、水陸三千里(1500㎞)に在り。大海中の山島に依り居す。」

3-7 旧唐書倭国伝 「倭国は新羅東南の大海中に在り。山島に依り居す。」(旧帯方郡は新羅領になったので、基準地が新羅になった。)

3-8 新唐書日本伝 「日本は新羅東南にあり、海中の島に居す。」11世紀になっても認識は進化せず、日本に渡来できなかった事を示している。)

以上のタイトルだけで、倭人は海洋民族で大陸人には海洋性が皆無だった事が分かるが、納得できない場合は以下を確認して頂きたい。

 

1-1 縄文前期の九州土器(曽畑式土器)

沖縄の伊礼原(いれいばる)遺跡で、縄文前期(70005500年前)の曽畑式土器が発掘された。

下の地図は曽畑式土器が出土した主な遺跡と、想定される曽畑式土器文化圏

曽畑式土器が発見される地域は,朝鮮半島南部の釜山市にある東三洞(とうさんどう)貝塚から九州全域,更に沖縄県の読谷(よみたん)村の渡具知東原(とぐちあがりばる)遺跡や、北谷(ちゃたん)町の伊礼原(いれいばる)C遺跡など,南北950キロメートルに及ぶ広大な範囲に及ぶ。そのため,この土器の起源及び伝播ルートの解明は,長年,考古学研究の焦点となってきた。

屋久島の一湊松山遺跡で発見された曽畑式土器は,屋久島には無い滑石(かっせき)を混ぜて作られた搬入品が出土し、その形状を模しながら屋久島に特徴的な、長石と金雲母が混ざった土で焼き上げられた、独自の地元産の土器も上下の地層から発見されている。これは島外産の土器と地元産の土器が、時期をずらして交互に使用されたことを意味し,曽畑式土器の南下を考える上で注目されています。

by鹿児島県上野原縄文の森

http://www.jomon-nomori.jp/no18.htm

 

沖縄の土器は奄美の土器と共通するものが多く、奄美では本土との活発な交流を示す遺物が多数発見されている。奄美は九州から300km以上、屋久島から200km以上離れているが、縄文前期は九州文化圏に属していた。沖縄は奄美から150km離れているが、最大の島間距離は30㎞しかなく、沖縄と奄美は曽畑式土器の文化圏の中で、更にローカルな文化圏を形成していた。

 

1-2 南西諸島

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1-3 黒潮の流路

http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KANKYO/KAIYO/qboc/5current/5current.png

 黒潮は平均流速5/h、最大流速7km/hで、幅は100㎞ある。

1-4 黒潮を横切るために、必要な速度を求めるベクトル図

 流速7/hの黒潮(青い矢印)を直角に横切る場合、海流の流路を遡る方向に舳先を45度西に向け、10/hで進行すると(青い矢印)、7/hの速度で(橙色の矢印)目標に近付く。このベクトル図だけでは、10/hの速度は必要ない様に見えるが、屋久島から口之島に向かう56㎞は、更に30度西向きの角度で黒潮を遡る必要があり、それでも上の図の山吹色の破線で黒潮に押し返されるから、目標に近付く速度は3.5/h以下になる。この状態で56㎞の海峡を横断する為には、16時間漕ぎ続ける必要があり、人間の体力の限界を超えただろう。最大流速7/hは最悪の場合だから、もう少し現実的に平均流速5㎞/hを採用すると、実効速度は4.3㎞/hに改善されるが、それでも56㎞の海峡を横断する為には、10/hの速度で13時間漕ぎ着ける必要があった。但し偶然7/hの海流に遭遇すれば海難のリスクが高まったから、縄文人もその様な事態は避けたかっただろう。黒潮の上流に当たる口永良部島から一旦西に漕ぎ進み、海流の流れに乗る様に口之島に向かったかもしれないが、その場合には航路が100㎞近くに及び、それが楽な航路選択だったのかについては疑問がある。

屋久島には標高1936mの山、口之島には標高628mの山があるから、地球が丸い事による島の隠蔽を考慮しても、屋久島の海岸から口之島の山の、400m以上の部分が見えるから、この山を進路の目標とする事に問題はない。縄文人が島を目指して直線的に漕ぎ進んだ場合は、黒潮の中で漕ぐ手を止めると、太平洋に押し出されて遭難するから、休まずに漕ぎ進む必要があった。

時速10km/hの速度では黒潮の流速が5km/hであっても、屋久島から口之島までの所要時間が1020時間になるから、漕ぎ手の交代要員を準備する以外にも、簡単には想像できない色々な工夫が必要だった。次項に示す様に、彼らが使った船底材の長さは10m未満だから、それが船の長さを制限し、多数の交代要員を準備する事は難しかったから、現代人には容易に想像できない技を巧みに使ったと推測される。

ボート競技の国際大会は2000メートルで競われ、世界記録は以下。

舵手付きフォア(艇長12mで漕ぎ手は4人)で6分/2=20km/h

舵手付きエイト(艇長17mで漕ぎ手は8人)で520秒/2=23km/h

縄文人の船はこれらの競艇の半分程度の速度で、太平洋の波間を長時間航行した事になるが、それは可能だった事を以下に示す。

陸上競技では、400m走で44秒程度(33/h)が最速で、マラソンで2時間4(20km/h)が最速だから、速度を全力走の半分に落とせば、長距離走が可能になることが分かる。従って全力で船を漕いだ場合に、競技用ボートに近い性能が出せる船であれば、10/hで長時間航行できた事になる。実現不可能な数値ではないが、知恵を絞って人力の限界に迫らなければ実現できないから、古代人を侮ってはならない良い例になる。縄文時代には多数の海洋漁民がいて、彼らは毎日船で沖に出て漁をしていたから、体力が優れた者を選抜すれば、この様な驚異的な航行ができたと考えるべきだろう。

この事情を帆船に置き換えると、10/hは帆船の終末期だった19世紀の速度だから、それ以前の漕ぎ手がいない帆船では、黒潮を乗り切る事はできなかった。帆船は風頼みだから終末期の帆船であっても、帆の推進力だけで黒潮を横断する事はリスクが高く、不可能だったと言っても過言ではないだろう。

縄文人の漕ぎ手は日頃から筋肉を鍛錬する必要があり、漕ぎ方にも技術が必要だったから、安易な再現プロジェクトは馬鹿げた企画になる。歴史学者が古代人を貶めるから、その様な発想が生まれるのだろうが、縄文人はこの他にも優れた認識力を発揮した例があり、自然に対する対処技能は、現代人より優れていたと考えるべきだ。科学的な知識はなかったから、それを補う為にも合理的な発想で自然と対峙しなければ、生き抜く事ができない時代だった。

船の推力は漕ぎ手が多い程高まるから、ある程度の規模の船でなければ、この難所を通過して沖縄に渡航できなかった。それができる船であれば、大陸に出向くだけではなく大陸河川を長躯遡上できた事を、上記の結論とする。

 

1-6 縄文時代の遺跡から、丸木船様の木材と櫂が多数発掘されている。

千葉県市川市の雷下遺跡で、7500年前(縄文早期)の丸木船と櫂が発掘され、以下の記事が新聞に掲載された。

ムクノキをくりぬいた丸木舟で、全長約7.2m、幅約50㎝、厚みは船底部の端で約8㎝だった。船尾は破損しているが、船首部は約40㎝あるから、少なくとも7.6m以上の大型舟だった。櫂(かい)とみられる木製品は全長約2m。これまでの最古は、島根大構内遺跡(松江市)の約7000年前だった。(20152月)

先史時代の丸木船の発見は200例ほどあり、関東地方の150例が最も多く、千葉県の100例は日本全体の半分を占める。発掘された丸木船の多くは腐食によって形が崩れているが、福井県の縄文博物館に形状が確認できる遺物が展示されている。下の写真はユリ1号遺跡出土の丸木舟で、縄文中期~後期(50003500年前)のものとされ、船底材だったと想定される形状を示している。

波切りがなければ海上航行はできないから、この形状の儘では海では使えないが、河川で使う船としては手が込み過ぎているから、船底材だったと想定される。櫂が一緒に発掘される事例もあるが、この構造で2mの櫂は使いにくいから、これを船底材としてその上に、櫂を支える舷側板があったと想定される。舷側版が一緒に発掘されないのは、海洋船の基幹部材である船底材を神聖視し、埋葬儀礼を行ったからではなかろうか。海洋船と川舟を分ける構造の違いは、頑丈な船底材の有無だから、縄文人もそれを認識して船底材を神聖視していたと想定される。釘がなかった縄文時代の船は、航行前に縄で組み立てるものだったと想定されるから、舷側板と船底材は別々に保管していたと推測される事も、この判断に合理性を与える。

ユリ1号遺跡出土の丸木舟 ↓

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アイヌが使った海洋船である「イタオマチブ」が、縄文人の船を考察する参考になる。

イタオマチブ製作の詳細は、下記URL参照。

http://www.frpac.or.jp/manual/files/2002_06.pdf

イタオマチブの存在は弥生時代までしか遡れず、縄文人の船と全く同じ構造ではなかった筈だが、船底材として使われている丸木船が、ユリ1号遺跡出土の丸木舟に極めて類似しているから、復元の参考にはなる。釘などの鉄材を一切使わず、ヒモや松脂などにより組み上げられた、棚構造の構造船だった。

下の写真と解説は、札幌市のHPから転記した。

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チプ(丸木船)に板を貼り、容積を大きくしたものがイタオマチプです。積丹半島にある5世紀ころの遺跡「フゴッペ洞窟」の壁画に、イタオマチプが描かれていることから、かなり古い時代からイタオマチプを利用して、外洋に出ていたことが分かります。アイヌの人々が持つイタオマチプという造船技術が、広範囲な交易を可能にしました。必要に応じて、帆として大きなゴザを張ることもできました。 

一木造りの丸木船を船底材にしたのは、海洋の波に乗り上げた際に船が壊れないためだ。船が波に揉まれると、波の力や自重によって強烈な力が船体に掛るから、頑丈な船底材がなければ船は容易に破壊される。河船にはその危惧がなく、海流に逆らう高速も必要ないから、板を張り合わせて大きな船を作る事もできる。黄河や揚子江で帆を張った大きな河船が使われたが、それで海洋に乗り出せるわけではない。

棚構造は和船に特有な構造で、オーストロネシア語族民の船がこの構造を採用している以外に、世界に類例がない。オーストロネシア語族民は縄文早期の台湾で、海洋縄文人から造船技術や航海術を学び、縄文前期にはフィリッピン、インドネシア、南太平洋に進出した民族だから、伝統的な船に共通性があるのは当然だろう。

イタオマチプは釘などの鉄材を一切使わないと指摘しているが、鉄器がなければ、紐を通す穴を多数鑽孔する事は難しい。従ってこれは鉄器時代のアイヌの船で、縄文人は他の手段で木材を固定していたと考えるべきだ。論理的に考えれば、細い紐で板に開けた穴を留める程度では、荒波に耐える強度は得られないから、鑽孔して紐で板を固定する事が、海洋船を作る上で重要な技術だったとは考え難い。出土した丸木船様の船底材にも、鑽孔した痕跡は見付かっていないから、縄文時代の船は鑽孔していなかった事になるが、それを以てトカラ海峡を横断する船として、イタオマチプより劣った船だったとは言えない。

王朝史観を信奉している考古学者の中に、鑽孔の痕跡がないから構造船の船底材ではないと、馬鹿げた主張をする人がいるので、鑽孔しなくても作れる構造船を以下に示すが、これが縄文人の船だったと主張する積りはない。アイディアだけで良ければ、他にも色々な形状があり得るからだ。

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この様な船は樽を作る要領で周囲を綱で巻き、樽の半身しかない状態の強度を補うために横板を使えば、立派な構造船を作る事ができる。樽枠には綱ではなくしなやかな生木を使う事も可能で、船首や船尾の構造には色々なバリエーションが有り得る。舷側版と横木を重ねて棚構造を数段積み上げれば、船の容量を拡大する事もできる。舳先の木柱をもっと水平に傾ければ、船の長さを稼ぐこともできるから、船底材の長さが7mであっても、その要領で人が座れる程度の空間を作れば、船長を10m以上に拡張する事もできる。

舷側版を作る際には、木材を割り割いて砂岩などで断面を擦れば、粗面を平坦に整形する事は容易だから、平坦に仕上げるだけではなく、溝や凹みを付けた板材を密接に重ね合わせ、綱で締め上げれば防水する事は難しくない。

描画には示していないが、棒を絡めて綱を巻き上げれば、強い引っ張り強度を確保できる。船底が堅固で丈夫な綱があれば、この様な単純な構造でも頑丈な船を造る事ができる。船底材には強度が高い材質の木を、舷側版には多少しなりが生じる軽質の木材を使うなどの、きめ細かい工夫は当然あっただろう。

日本の固有種であるシナノキは、丈夫な綱を作る良質な樹皮を提供したから、アサが入手できなかった氷期の原日本人も上記の様な船を作る事ができたが、日本海の海洋民族と関東の海洋民族では、船の組み立て方に違いがあった可能性もある。

縄文人が使った構造船の船底材は、海面上昇が終わった直後の7500年前のものが発掘されているから、更に古い時代からこの様な海洋船が作られていた事は間違いない。この様な構造船は磨製石斧とシナノキの樹皮と砂岩があれば、誰でも何処でも製作できたが、磨製石斧とシナノキの樹皮は、日本にはあるが大陸にはないものだから、常識的に考えても海洋構造船の歴史は、日本の方が古かった事は間違いない。

縄文時代の構造船は発掘されていないと主張する人がいるが、この様な構造船はシナノキのロープで締め上げる事により、初めて構造船の形状になるから、海に浮かべて使用する際には船の形状に仕立てたが、使わない時期にはバラバラの素材として保管していたと想定され、材質の樹種によって保管方法が異なった可能性が高いから、構造船の状態で発掘されない事に何の不思議もなく、発掘される可能性は低いと云うべきだろう。

海上で長期間使用すればロープが緩むから、長い航海の途上で何度も船を組み立て直す必要があり、船が荒波に揉まれてロープが緩んだ場合には、その都度組み立て直す必要があった可能性が高い。その様な縄文人が船の基幹材である船底材と櫂を重視し、特別に保管する事もあっただろうし、それらを神聖視して特別な場所に埋納したとしても何の不思議もない。

 

1-7 三重県で発掘された5世紀の舟形埴輪は構造船の形状を示し、19世紀まで中国の外洋船だったジャンクと同じ構造。

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三重県宝塚一号墳(5世紀初頭)から、構造船を象った舟形埴輪が発掘された。通説を信奉する史家は、これは準構造船だと強弁するが、立派な構造船に見える。準構造船と呼ばれるものは下段の様な船で、丸木船に波切りと舷側板を取り付けた船を指す。

5世紀の倭人の船と、下に示すアヘン戦争時の中国の典型的な外洋船だったジャンクを見比べれば、ジャンクはアヘン戦争時から1400年も前の、倭船の構造を継承した船である事が分かる。舟形埴輪の「¥」の様な形が、粘土では表現できない帆の象形だったとすれば、大小二本の帆柱を使う構造まで引き継いでいた事になる。

日本では平安時代から外洋船が多様化し、関船、安宅船(あたけぶね)、伊勢船、北国船、北前船、高瀬舟、二形船(ふたなりぶね)、ベザイ船 (弁財船)などがあった。発祥地では形態が多彩になる法則があり、日本では法則通りに多様化したと考えられる。

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支那で大軍を海上輸送した歴史的な事績は、三国時代(3世紀)の呉が台湾(航路150km)に1万の兵を送り出した事が初見で、大きな損害を出したと記されている。揚子江の河船を使ったから海洋の波浪で構造が破壊され、多数の船が難波して多大な犠牲者を出したと推測される。
 台湾にさえまともに渡航できなかった呉が、遼寧の公孫氏との戦役で水軍を使ったとの記録がある。それが中国の海洋能力を証明していると主張する人がいるが、公孫氏と敵対していた高句麗は、黄海沿岸を航行する海運力を持っていたから、呉が高句麗の船を傭船した可能性がある。高句麗の水運力はシベリア起源の粛慎のものだから、同じ大陸民族と言っても区別する必要がある。東南アジアの海洋民族から傭船した可能性もあり、こちらは立派な海洋民族だった。
7世紀後半に唐が百済を滅ぼす際に、唐の水軍が山東半島から7千の軍を送り出し、黄海を300km横切って忠清南道に至った。旧唐書には、新羅と協力して百済を滅ぼした後で、錦江の河口(白村江)で倭の船と交戦したと記されている。日本書紀は、この白村江の戦いは華々しい海戦だったと記しているが、旧唐書の記述はそれとは全く異なり、百済の陸上軍はその海戦の前に、唐と新羅の連合軍によって壊滅し、唐船は錦江の河口で偶然倭船と遭遇した。倭船は百済の敗残兵を収用するため、錦江を遡上していた可能性が高く、百済難民を乗せていた倭船には戦意が無く、錦江の河口を塞いだ唐船を避けながら逃げ散っただけだったと想定される。若し倭船に戦意があったのであれば、快速船を持っていた倭人が、広い海上ではなく狭い錦江の河口で戦う理由はないからだ。
通説の信奉者が、白村江で戦った唐船は倭船より大型だったと主張し、マスコミを通してそのデマを拡散しているが、上記の舟形埴輪を見る限り、倭船の方が大型だった可能性が高い。若し唐船が倭船より大型だったのであれば、川船を転用した危険な船だったのだから、倭人がそれを見抜いていなかった筈はなく、若し倭船に戦う気があったのであれば、波がある沖合に誘い出すなどの戦法が使えただろう。

 

1-8 好太王碑文に、倭が5万の高句麗軍と戦ったと記されている。

 好太王碑は、高句麗の都だった丸都(吉林省集安市)にある。好太王(391年~412年)の功績を顕彰するため、息子の長寿王が建てた碑は、同時代性が高い第一級の歴史資料になる。以下は碑文の一部で、「?」は判読不可能な文字。年次は西暦に直した。

396年、王は自ら水軍を率いて科殘国(百済)を討ち、18の城を取った。

賊が服従しないので大いに戦い、阿利水(漢江)を渡って城に迫った。百殘王(百済王)は困って男女千人の生白と布を献上し(百済の王族は白族だから、同族民を差し出した)、服従を誓った。58の城と700の村(漢族と韓族の村)を得て、王弟と大臣十人を残して都に帰還した。

398年、軍を派遣すると都合よく、新羅城の加太羅谷の男女三百余人を掠め取る事ができたので、以後朝貢するようになった。

399年、百殘が誓いを違えて倭と和通した。王が(丸都から)平穰に移ると、新羅の白王(被支配民族だった白族の王)は使いを遣わし,「倭人が国境に満ち、城や防御池を破って潰し、私達を支配民にし、帰順した王は命乞いをしている」と云った。

400年、步騎五万を派遣し、新羅(白族が住む地域名)を救援するために往くと、男居城から新羅城までの間は倭が満ちていた。王の軍が進むと、倭の賊は退いた?????任那加羅まで追い、城を抜いたので帰服した。安羅人の守備兵が新羅城と?城を抜いた。倭が多数いて城を潰し???。

404年、倭は反逆し、帯方界に侵入した。王は自ら兵を率いて戦い、倭寇は潰敗し、無数の敵を斬殺した。

 碑文を意訳すると、「好太王は百済と新羅を帰順させる事により、勢力圏を半島南部に広げようとしたが、百済も新羅も隙を見せると倭と提携するので、400年に5万の兵を派遣して任那に侵攻させた。そこで和約が成立したが、404年に倭が旧帯方郡の領域を急襲したので、王自ら兵を率いて撃退した。」

この意訳では、高句麗の言い分が濃厚に滲んでいるので、公平な立場で解釈する必要がある。

碑文では最後に勝利宣言しているが、高句麗の穀倉地帯だった帯方界(大同江下流域)に攻め込まれたのだから、辛うじて帯方界を守ったと読める。倭兵は好太王の5万の南下軍を、この戦役以前に北に押し戻していたか、この戦役によって撤兵させた筈だから、倭兵は少なくとも高句麗と同格の兵力を投入したと考えられる。この戦闘を最後に高句麗と倭は戦いを止め、倭との戦闘記事はこれで終わり、朝鮮半島南部は倭の勢力圏だった事を、宋書によって確認できるからだ。

それらの事情を勘案すると、侵入した倭は船で兵員を輸送(九州から8001000km)し、朝鮮半島北部の帯方界を、不意に急襲したと想定される。それを防いだ高句麗は、必死の総動員体制を敷いた筈だから、この戦役には5万以上動員したかもしれない。

高句麗がこの戦役以降南進しなかったのは、高句麗軍が南進しても帯方界が倭の水軍に占拠されると、糧道や退路を断たれた南進軍が孤立するから、それを恐れて停戦協定に応じ、従来の領土に戻ったからだと考えられる。

この様な倭の作戦は20世紀の朝鮮戦争時に、マッカーサーが指揮した仁川(ソウル近郊)上陸作戦を髣髴とさせる。怒涛の様に南進して釜山を包囲した北朝鮮軍は、連合国軍の仁川上陸によって補給路を絶たれ、戦線が崩壊して半島北部に逃げ帰った。この様な作戦は圧倒的な海運力を持つ場合に成立したが、帯方界は仁川より北にある事に留意する必要がある。

高句麗は北朝から渤海の支配権を認知された、華北最大の海運国家だったから、高句麗に水軍がなかったわけではない。しかし倭と比較すると圧倒的な差があり、倭は東アジア最大の海運国家だった事が分かる。

旧唐書によれば、百済滅亡時に唐が白村江に投入した軍船の輸送力は、7千人に過ぎなかった。白村江の戦いを250年遡った古墳時代の倭は、その710倍の兵力を朝鮮半島に送り込んだが、その倭兵は九州の人員だけでは足りず、本州から多数の人員を送り込んだと想定されるから、その際の海上輸送距離は、百済滅亡時に唐が派遣した船の航路の5倍以上だった。海洋国家だった倭と大陸国家だった唐の、海上輸送力には圧倒的な差があった事が分かる。

 

1-9 伊豆半島から50㎞以上離れた神津島産の黒曜石が、複数の旧石器時代の遺跡から発掘され、縄文時代の南関東では、神津島産の黒曜石が多用されていた。

この事実によって原日本人は、3万年前には海洋漁民になっていた事が確認できる。縄文時代の黒曜石の流通については、次章の交易品の生産に関する説明を参照。旧石器時代は海面が現在より120m以上低かったから、海岸にあった海洋漁民の遺跡が遺っている筈はないし、考古学者の発掘技術は、縄文時代の漁民の痕跡さえ発見できるレベルに至っていない。

日本書紀史観を墨守している考古学者はそれを悪用し、旧石器時代から続く海洋漁労の存在を無視し、日本書紀史観を墨守している。回遊魚の魚骨が縄文遺跡から多量に発掘されているから、それを素材に海洋漁労の発達史も描ける筈が、誰もそれには触れずに、縄文人の食生活には四季による変化があったと事実を矮小化し、縄文時代に漁民はいなかったかの様に誤魔化している。

 

2-1 縄文時代早期・前期の各地の遺跡から、滑石や蛇紋岩で作った、規格生産的なペンダントやイヤリングが多数発掘されている。

縄文時代の石斧職人は、石製装飾品も沢山作った。石製装飾品は石斧より、微細な形状を削り出す必要があったから、石斧の素材より柔らかい滑石から始め、やや硬い蛇紋岩に進み、石斧に使っていた角閃石を飛ばし、縄文前期後半には最も硬いヒスイの加工に至った。日本最古の滑石性の石製装飾品は、福井県あわら市の桑野遺跡から発掘された。

「あわら市郷土歴史資料館」のHPから転載 ↓

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桑野遺跡が営まれた時期については、縄文早期とする国土交通省と、早期末~前期前葉とする文化庁の異なる見解がある。

縄文時代区分

早期

前期

中期

時期

12千~7000年前

70005500年前

55004500年前

国土交通省近畿地方整備局のHPには、以下の記述がある。

九頭竜川流域の縄文早期の遺跡としては、勝山市古宮遺跡・破入遺跡・三室遺跡、金津町桑野遺跡がある。縄文時代早期の遺跡は、九頭竜川の河岸段丘や扇状地に集中して存在している。

縄文時代早期後半から前期にかけては、「縄文海進」と呼ばれる海水面上昇の時期があり、福井平野一帯が「古九頭竜川湖湾」と呼ばれる内湾を形成し、その岸辺に沿って福井市北堀遺跡(早期・前期)や深坂小縄遺跡(前期)が立地していた。その後、古九頭竜川湖湾は、九頭竜川・日野川・足羽川からの流出土砂によって埋められていき、沖積平野が形成されて徐々に縮小していった。

 国土交通省は、桑野遺跡は縄文海進期以前(8千年以上前)の遺跡だから、早期末ではなく早期だと説明しているが、文化庁は早期末から前期前葉としている。文化庁は桑野遺跡を縄文早期の遺跡として認定しまうと、遺物が世界最古の石製装飾品になり、石製装飾品の発祥地は日本列島だったと認定する事になるから、それを避ける為に、桑野遺跡の時代を意図的に繰り下げたと推測される。次枠で説明する遼寧省査海遺跡の玦状耳飾りが、7800年前のものとされているので、それより古い遺物は日本にはなかった事にしたい意図が透けて見える。

 

新潟県大角地(おがくち)遺跡(7000年前頃:早期末~前期前葉)  

桑野遺跡は石製装飾品を所持していた人々の遺跡だが、それを製作していた工房も発掘されている。

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大角地遺跡は、糸魚川市の姫川河口に近い海岸にあり、海岸で採取できる蛇紋岩を素材に磨製石斧を製作する工房だった。蛇紋岩は磨製石斧の素材として最も好まれ、完成品10点に対して未完成品が133点出土し、石斧を製作する工房だった事を古示している。

この遺跡から長野県産の黒曜石も出土し、異種の石製品の産地間交易が行われていた事を示している。近くの海岸でヒスイの原石を拾う事ができただけでなく、近くの山に滑石もある。

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大角地遺跡から、滑石で作った玦状耳飾りなどの石製装身具だけではなく、その加工途上品が多数出土し、磨製石斧と装飾品を作る工房だった事を示している。硬いヒスイは製品としてではなく、加工用の道具として使っていた。

1kmほど離れた所に、縄文中期の磨製石斧の大工房だった寺地遺跡がある。寺地遺跡では工房に使用した竪穴住居7基が発掘され、そこからヒスイ製の玉類も発見され、ヒスイの加工も行っていた事が分かった。

新潟県南部や富山県東部には、蛇紋岩やヒスイを加工していた縄文遺跡が多数あり、この辺一帯はそれらを製作する産業地帯だった。

 

山梨県天神遺跡(縄文前期)

石製装飾品の素材として、縄文早期には柔らかい滑石が使われたが、縄文前期前半には滑石より硬い、しかし滑石より美しい蛇紋岩に変わり、縄文前期後半には最も硬いヒスイの加工が始まった。

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天神遺跡は山梨県北杜市大泉町の、標高800-850メートルの八ヶ岳南麓の尾根上にあり、周辺には縄文前期の山崎・御所・原田・寺所などの集落跡もある。天神遺跡は墓坑群を伴う大規模集落跡で、中心の墓坑域を囲んで環状に50軒以上の住居跡がある。土坑の中から縄文前期後半(60005500年前)の土器と共に、ヒスイの加工品が発見され、時期の分かる最古級のものに位置付けられている。円形の穴の精巧さが光る。

ヒスイ加工品は、八ヶ岳山麓の縄文遺跡から多数発掘されているから、それらの遺跡群と関連がある集落だった事を示している。

 

長者ヶ原遺跡(縄文中期:55004500年前)

新潟県糸魚川市の長者ケ原遺跡は、13.6haの面積を有する縄文中期の大規模遺跡で、広場を中心に環状集落を形成していた。ヒスイ加工品と角閃石岩の石斧を生産する工房があり、交易の拠点でもあった。発掘調査された面積は遺跡全体の3%で、集落跡の10%に過ぎないが、多くの竪穴住居、掘立柱住居、貯蔵穴、墓坑跡が重複して発掘され、膨大な出土品が得られた。角閃石岩は蛇紋岩系の岩石で、普通の蛇紋岩より硬く、磨製石斧の石材として優れている。

長者ケ原遺跡の出土品には、ヒスイ製敲石、砂岩製砥石、角閃石系磨製石斧、ヒスイ大珠が多量に含まれ、専業的な生産が行われていた事を示している。製造工程が復元出来るほど、膨大な数の磨製石斧の未完成品が発掘された。

遺跡の南部分は早期末から前期(7000年前頃)に形成され、中期と後期前半に規模を拡張したと推測される。

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新潟県で発掘されたヒスイ加工品。秀逸な加工品は出荷されたから、工房に残されたものは習作か仕損品になる。

 

  海外でも同様な石製装飾品が発掘されている。

★遼寧省、査海遺跡(7800年前頃)

遼河文化は興隆窪(こうりゅうわ)文化(8000年~7000年前)から始まり、趙宝溝文化(74006500年前)を経て紅山文化(50004500年前)で終わり、残影として夏家店下層文化がある。査海遺跡が属す興隆窪文化は、まだ狩猟と採取が中心で、趙宝溝文化期から本格的な農耕が始まったと考えられている。遼河文化の中心地だった内モンゴル東端~遼寧省北西部は、紅山文化期以降は寒冷化して乾燥・砂漠化したので、アワ栽培者は華北に南下した。

査海遺跡は、興隆窪文化圏を形成した台地の中心にあるのではなく、遼河文化圏の東端にあり、海洋縄文人と接触しやすい場所だった。興隆窪文化期は海面上昇が終了した直後だから、渤海が遼河や大凌河の中流域まで拡大し、査海は海辺に近い河川流域にあったと想定される。遼河中・下流域を形成している現在の平野は、海面上昇後に遼河などが運んだ、土砂が堆積した沖積平野だから、現在の地形に幻惑されない注意が必要。

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http://www.ipc.tohoku-gakuin.ac.jp/~orc/sympo/20040201-r-2.htm

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中国の史学者は査海遺跡から発見された石製装飾品を、「東アジアで一番古い玉器(7800年前)である」と主張し、黄河文明の存在や尊厳を守ろうとしている。査海遺跡から小石を帯状に並べた遺構が発掘されると、中国人はそれを最も古い「龍」の形象だと考え、ナショナリズムを高めている。

玉器は中華文明圏の特徴的な遺物で、龍は中国人の精神文化の象徴だから、中国人はこの遺跡に特別の意味を持たせている。査海遺跡で発掘された玉器が日本産である事は、中国人には受け入れられないから、日本の学者は桑野遺跡の年代を偽り、中国人の希望的な歴史観に迎合している。

しかしそれより遥かに古い石製装飾品が、日本やカムチャッカ半島の旧石器時代の遺跡から発掘されているから、東アジアの石製装飾品のルーツとして、査海遺跡の価値は高くない。

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左は北海道南端にある知内町の湯の里4遺跡の、細石刃を伴う14千年前の墓から発見された、琥珀製(赤色)とダナイト製の装飾品で、「国内ではピリカ遺跡でも類例が認められ、大陸では石製・琥珀のビーズを副葬品として墓に入れる例が、カムチャツカ半島などで見られる。玉類の原材であるダナイトは、バイカル湖周辺の蛇紋岩地帯の原産と考えられている。」by 文化庁

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←ピリカ遺跡出土品(今金町教育委員会HP
 ピリカ遺跡は北海道の渡島半島の中央部にある旧石器時代の遺跡で、2万年~1万年前の居住域として継続的に使用された。一部が発掘されただけで、細石刃や尖頭器などが20万点も出土する、巨大遺跡。細石刃はシベリア系狩猟民族の持ち物で、湯の里遺跡もピリカ遺跡も、原日本人の痕跡ではないと考えられる。

この時代の北海道はシベリア系狩猟文化圏で、そこでは既に規格化された石の加工品を、交易財貨と見做す流通文化が生まれていた事を示している。縄文人のヒスイ加工品も穴を開けた石だから、その形状に財貨意識を持つ感性は、シベリアの狩猟民族発祥だったと推測される。

★沿海州、チョールタヴィ・ヴァロータ洞穴(6000年前)

桑野遺跡や大角地遺跡が示す石製装飾品が、狩猟民族の遺物とは異なる重要な変化点は、工房で職人が作っていた事になる。専業者が作る物品は品質が高いから、その作品が交易ルートに乗って拡散した。

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チョールタヴィ・ヴァロータ洞穴は、ウラジオストックの北西200km程の日本海に近い場所にあり、洞穴から石製装飾品が発掘された。

石材は蛇紋岩らしいから、日本産である疑いが濃い。大陸には蛇紋岩の産地がなく、6000年前(縄文前期)の日本列島では、蛇紋岩製の装飾品が作られていたからだ。これらの規格化されて整った器形は、ピリカ遺跡の時代にあった石を財貨的に扱う文化の継続性を示し、精巧な作りは北陸の工房で生産された事を示唆している。

 

★浙江省、河姆渡(かぼと)遺跡(7000年~5000年前/縄文前期~中期前半)

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河姆渡(かぼと)遺跡は浙江省寧波(にんぽう)市にあり、海に近い小山に挟まれた谷にある。稲籾が大量に出土し、稲作民の遺跡だった事を示している。動物の肩甲骨で作った鋤で土地を耕し、骨製の穂首狩り器で収穫する、石器の使用に習熟していない人達だったが、甑を使って米を蒸し、ブタを飼っていた。高床式の建物に住んでいたから、石斧を持っていた事になり、石材の使用に関してアンバランスな状態にあった。

遼寧省、沿海州、日本の石製装飾品は、形状に共通性がある規格量産品だから、交易品として北陸で製作された可能性が高いが、江南のものは時代が降るのに作りが稚拙だから、他民族が製作した模倣品だった可能性が高い。

海に近いこれらの遠隔地を繋いだのは、海洋民族だった事は間違いない。関東縄文人は縄文早期に浙江省のmt-B5を取り込み、縄文前期には湖北省に達していたから、浙江省の稲作民と交易関係があった事は間違いないが、台湾の海洋民族も縄文前期には浙江省に来ていた。

縄文前期の北陸部族は、関東部族と比較した海洋文化に遅れがあり、縄文前期には台湾に到達していたが、浙江省には到達していなかった事を、これらの稚拙な石製装飾品が示している。これらの稚拙な石製装飾品は、関東から発掘されていないから、これらを浙江省の稲作民族に渡したのは、台湾の海洋民族だった可能性が高い。

 

2-2 各地の縄文遺跡から精巧な磨製石斧が多数発掘され、それを作っていた多数の工房が北陸で発掘されている。

http://www.max.hi-ho.ne.jp/sundaymorning10/102index.files/image077.jpg

磨製石斧の機能は、木を削る刃部と柄に固定する部分で成り立ち、全面的に研磨する事は過剰品質になるから、これらの磨製石斧は自分が使う為ではなく、商品の付加価値として整形されたと考えられる。それが多量に発見される事は、交換経済が活性化していた事と、生産者が過当競争状態にあった事を示している。現代人であれば、成形して価値を高めた商品を見れば、流通量や競争状態を読み取る事ができるだろう。

 

2-3 ヒスイ加工品

下の画像は典型的なヒスイ加工品で、綺麗な丸い穴を一つ開け、磨いて全体の形を整えた事に共通の特徴がある。形状規格に基づく量産品であって、装身具として美的価値を求めたものではない事を示している。中部山岳地帯の土器は、多彩な形状を造形して個性的な美を求めたが、同じ中部山岳地帯から多量に発掘されたヒスイ加工品は、規格生産品的な形状しか示していない事は、価値が規格化された財貨だった事を示している。現代人が見ると形状はバラバラだが、奇麗な円孔が一つだけ空いている事に、財産価値があったと推測される。

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円形の穴を開けた加工品に財貨価値があるとする認識は、湯の里遺跡やピリカ遺跡から発掘された旧石器時代の装飾品にも見られ、財貨には綺麗な穴が一つ必要であるとの認識は、旧石器時代のシベリア狩猟民に起源があったと考えられる。

縄文後期の北海道の礼文島の遺跡から、貝殻製のリングが多数発掘され(下図)、このリングはシベリアでも多数発掘されている。礼文島の遺跡から膨大な数のリングが、膨大な数の加工具と共に発掘され、この遺跡から、上記の規格型のヒスイ加工品も発掘された事は、両者が貨幣的な財貨として製作された事を示している。

貝製品

この貝殻製のリングはシベリアで発掘されるが、日本列島の縄文遺跡からは発掘されないから、シベリアの漁労系交易民族が、シベリアに流通させた貨幣だったと考えられる。縄文後期は宝貝貨が使われ始めた時期でもあるから、豊富に採取できる貝殻を素材とした貨幣が、同時期に広がった事になり、その背景には縄文後期に始まった、農耕文化の興隆があったと考えられる。縄文人はその先駆けとして、規格加工したヒスイを標準財貨とする価値観を縄文前期に確立し、縄文後期にそれが大陸に拡散した事になる。

下図はヒスイ加工品が発掘された場所

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ヒスイ加工品が発掘された地域は、品質が高い黒曜石の産地だった八ヶ岳山麓、其処と関東平野や新潟を結ぶ街道沿いの地域、それを最終的に弓矢に仕立てていた関東や新潟の山沿いの平野部、八ヶ岳山麓とは別の黒曜石産地だった、高原山を水源とする那珂川流域などの、弓矢産業が立地する地域だった。

伊那谷や秩父の様に蛇紋岩が採取可能で、磨製石斧の生産地だった場所も含むから、焼畑農耕でアワを収穫すれば、ヒスイ加工品を入手できる豊かさが得られた事を示している。

西日本の発掘事例が少ないのは、竪穴住居を使わなかった地域として、縄文集落が発掘できない事も理由として挙げられるが、輸出用の弓矢を生産していた産業地帯ではなく、コメやアワなどの生産地だった事は、更に重要な要因だったと考えられる。つまりヒスイ加工品は弓矢産業に付随して流通したが、それに参加していなかった西日本では、穀類が物品の流通を媒介したと考えられる。弓矢の生産が輸出産業だったと推測する根拠は、海洋漁民が獣骨を必要としていた事だけではなく、西日本ではサヌカイトの原石が流通し、精巧な黒曜石の矢尻の流通量は限定的だった事も挙げられる。西日本の縄文人にとって、矢尻は黒曜石で作られている必要はなく、サヌカイト製でも良かったが、東日本では加工が難しい黒曜石から、職人が作り出す高い品質が必要だっただけではなく、それが重要な産業の素材として大量生産されたからだ。

 

2-4 黒曜石などの流通

日本列島には100近い黒曜石の産地があり、産地によって品質に大きな差がある。上質の黒曜石は広く流通し、北海道の白滝・十勝、長野県の和田峠・星糞峠、栃木県の高原山、東京都の神津島、島根県の隠岐、佐賀県の腰岳、大分県の姫島が有力な産地だった。瀬戸内と畿内の矢尻には黒曜石ではなく、主にサヌカイトと呼ばれる石材が使われた。黒曜石より品質は劣るが、加工が容易だった。

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「発掘された日本列島2009」文化庁編 から転写。

 

神津島は伊豆半島から50km離れた海上にあり、島から60㎞離れた、伊豆半島東岸の河津町段間集落を中継地とし、南関東一円に流通した。西は三重県まで発掘実績がある。

佐賀県腰岳の黒曜石は、北は朝鮮半島南部から南は沖縄本島まで運ばれた。

北海道十勝の黒曜石は、幅20kmの津軽海峡を経て青森の三内丸山遺跡に運ばれた。三内丸山遺跡では、長野県霧ヶ峰、佐渡、山形県月山の黒曜石の矢尻も発掘され、新潟県のヒスイ、岩手県の琥珀、秋田県のアスファルトも発掘されている。

北海道礼文島の船泊遺跡では、主に東北の太平洋岸で採取できるビノズ貝を加工し、シベリアに出荷していたが、南西諸島産のイモ貝も持ち込まれていた。

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国立科学博物館

 http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/4/4-08.html

 

黒曜石は長い年月が経ても原形を留め、産地を特定する事ができるが、黒曜石や貝だけが流通していたのではなく、植物性の素材を用いた物品も流通していたと考える必要がある。

 

2-5 漆の加工技術は、縄文時代の日本で発達した。

これは常識になっているから、敢えてここでは論証しない。漆加工品は商品になる物品だから、発掘地と生産地は異なっていたと考える必要がある。

 

2-6 籠を編む多彩な加工技術は、縄文早期に成立していた。

下のページは「さらにわかった縄文人の植物利用」 国立歴史民俗博物館編 新泉社 85ページの転写

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現在知られている編み方の殆どが、7500年前には成立していた。

東名遺跡(ひがしみょういせき)は、佐賀県佐賀市の7500年前(縄文早期)の低湿地にあり、太平洋が湿潤化して気候が安定し、海進が終了した頃の遺跡。遺体のタンパク質同位体分析により、陸上植物を主食とし、魚介類を副のタンパク源とする食生活だったと推定され、漁民と共生する縄文人の遺跡だった事を示している。矢尻の材料には鬼ノ鼻山(佐賀県多久市付近)産のサヌカイトが主に使用されたが、腰岳(佐賀県伊万里市)産の黒曜石も出土し、交換の広域化が進んでいた事が分かる。出土した精緻な加工品は網籠だけではなく、鹿角を素材とした装飾品や、櫛(日本最古)も発掘されている。

この様な多彩な編み方を考案したのは、交換価値を高める為だったと考えられ、交換品に付加価値を付ける意識、即ち商品意識が生れていた事、それが競争的に行われていた事を示している。この地域が籠編み技術の発祥地だったとは考えにくいから、7500年前の日本では既に商品意識が芽生え、この様な技術が日本全域に広がり、競争的にそれらの技巧が使われていたと考えるべきだろう。この様な技巧は縄文人が漁網や魚籠を製作し、漁民に供給していた結果として、生まれた可能性が高く、これらの技法から漁網の進化を類推する必要もある。

 

3-1 漢書地理誌 「楽浪海中に倭人有、分かれて百余国を為す、歳時を以て来たりて献見すると云う」(倭人は海から楽浪に来る。)

倭人は楽浪だけに来ていたと主張する史家がいるが、漢書地理志/呉の条に「会稽(浙江・福建省)の海外に東鯷人有、分かれて二十余国を為す、歳時を以て来たりて献見すると云う(東鯷人は海から会稽に来る)と対句の様に記され、東鯷人(日本海系の海洋民族)が沖縄・台湾を経て福建省に来ると記している。東鯷人が会稽に来ていたのであれば、航海術に優れた倭人も会稽に来ていた筈であり、会稽の海外の記述に倭人が欠落しているのは、漢書の著者だった班固の、意図的な欠落だった可能性が高い。詳細は(2)漢書・後漢書の項に記したが、漢書/王莽伝に「越裳氏は白雉を献じ、黃支は生きた犀を貢じ、東夷王は大海を度って国珍を奉じた。」と記し、東夷王だけが国名で記されていない事と併せて考えれば、班固が倭人に偏見を持っていた事が分かる。班固は倭人や東鯷人が中国に出向き、東鯷人の商圏は華南に偏重していた事を知っていたと解釈される。

 

3-2 後漢書倭伝 「倭は韓の東南の大海中に在り。山島(山が多い島)に依り居を為す。」「所在絶遠にして(中国人には)往来できない。」

 後漢書の著者だった范曄は古墳時代の人で、南朝宋の官僚だった。魏志倭人伝より後に記されたから、卑弥呼についての記述は、魏志倭人伝を訂正するために記した事になる。

范曄が帰属した宋王朝について記した宋書に、この時代の倭人が宋に何度も朝貢したと記されているから、范曄は朝貢した倭人から邪馬台国の歴史や倭の事情を聴取し、この様に記したと考えられる。倭人から聴取しなければ分からない倭の事情が、後漢書には記されているから、この推測は間違いないだろう。中国人は倭人の島に渡航できないという認識は、中国人と倭人の共通認識だった事になる。倭人の島が楽浪に近いという漢書の認識は、後漢書では韓の東南の大海中(=会稽の沖)に訂正され、魏の役人を騙した邪馬台国の倭人と、同じ認識を示している事も、倭人と大陸人の認識が古墳時代も引き続いて、邪馬台国の創作通りに継承されていた事を示している。古墳時代の范曄は、倭人が朝鮮半島に何万もの軍を派遣した事を知っていたから、倭への距離の起点を朝鮮半島とした事は、当然だったと言えるだろう。

 

3-3 魏志倭人伝 「倭人は帯方の東南の大海中に在り。山島に依り国邑を為す。」「其の道里を計ると、当に会稽東冶(福建省福州)の東に在るに違いない。」

 邪馬台国の卑弥呼に招待され、倭人の船で渡来した魏の役人が、倭人の島への距離や南北観を倭人に騙されたので、その役人の報告書を転記した魏志倭人伝も、邪馬台国の位置を勘違いしている。その事実が倭人は海洋民族だった事を示し、魏の使者は倭人の船で邪馬台国に来た事を示している。漢書も倭人に騙された誤った知識に基づいてはいるが、楽浪海中との表現では、倭人の島が朝鮮半島の近くにあるとも読めるから、それを訂正するために魏の使者を騙し、朝鮮半島からは3千里(1200㎞)もあって、むしろ会稽に近いと中国人思い込ませ、宝の島だった倭人の島に、獰猛な華北の中国人が侵攻する企図を挫いた。

 

3-4 晋書倭人伝 「倭人は帯方の東南の大海中に在り。山島に依り国を為す。」

単なる魏志倭人伝の転記に過ぎないから、倭人の島に関する認識は進歩していなかった事を示している。

晋書は初唐期に編纂された史書だから、これは晋代の中国人の認識であると同時に、初唐期の中国人の認識でもあったから、日本書紀に記されている様な唐の脅威を、倭人や日本人が感じる事はなかった。旧唐書には唐の太宗が倭の使者に対して、「倭は余りにも遠方だから、毎年朝貢しなくても良い」と言ったと記されている。

 

3-5 宋書倭国伝「倭国は高麗の東南の大海中に在り。」

 南朝の宋が滅んで斉になった直後の、古墳時代の中国人の認識になり、時代としては後漢書が著作された時期に近い。この時代には、朝鮮半島の強国が高句麗に代り、帯方は高句麗の領土になったから、基点が帯方から高麗(高句麗)に代わった。この様に歴史事象と連動している事が、これらの史書の記述の信憑性を高める。

 

3-6 隋書倭国伝 「倭国は百済・新羅の東南、水陸三千里(1500㎞)に在り。大海の中に於いて、山島に依り居す。」

 隋書は初唐期に編纂された。同時期に編纂された晋書とは見解が異なる。隋の使者が倭国に招かれたので、その報告書から転記したと推測され、編者にはどちらが正しいか判断できずに、報告書を転記したと推測される。その使者の報告書の他の転記として、「(倭にあった中国人の国である)秦王国の人が、自分達は夷洲に居ると(隋の使者に)言ったが、言っている事が理解できない。」と記している。理解できない背景は、他の史書を参考にする事によって判明するが、使者が理解できなかった事は、使者が事前に色々な史書から学習し、事実に対して正直だった事を示している。

三国志/呉志に、「呉が夷洲と澶洲(東鯷人が云う、東鯷人の島)を遠征するため、1万の兵を軍船に乗せて出港させ、夷洲(実は台湾)に上陸できたので人民を拉致し、一応の成果を上げたが、澶洲は準備不足で到達できなかった」と記されている。

呉は台湾を夷洲であると勘違いし、三国志/呉志は勘違いを記した朝議録を転記したから、それ以降の中国人は台湾が夷洲であると思い込んだ。後漢書の著者は倭人から知識を得て、夷洲澶洲は東鯷人の根拠地であると指摘しているが、東鯷人は古墳時代に倭に吸収され、南朝時代には東鯷人と呼ばれる人達はいなかった。

後漢書の著者の范曄が、後漢代には存在した東鯷人に付いての知識を得たのは、南朝に朝貢した倭国王の使者からだったと考えられる。しかしその使者は邪馬台国系譜の倭人で、東鯷人系譜の人ではなかったから、その倭人が范曄に伝えたのは、「昔は、東鯷人と呼ばれた海洋民族集団があり、彼らは自分の島を夷洲澶洲と呼んでいた。」「彼ら(狗奴国=奈良・紀伊)は倭(邪馬台国=神戸・伊丹)と対峙していた。」と云う様な、断片的な情報だったと想定される。

それを聴いた范曄は、後漢書に倭人が言った通りに記した積りだったが、古墳時代の邪馬台国系倭人がライバル視していたのは、東鯷人ではなく関東の倭人だったので、それらを聞いた范曄が、邪馬台国と対置していた狗奴国と関東の倭人を混同し、狗奴国は関東にあったと記したと考えられる。史書は基本的に、朝議録と他国に派遣された使者の報告書を転記しているが、范曄は役人の報告を転記したのではなく、倭国王の使者から直接不確かな情報を聞き取り、兼ねてから願っていた魏志倭人伝の誤りが訂正できると勇み立ち、先入観も手伝って誤った記事にしたと想定される。後漢書のこの様な記述は、夷洲澶洲は倭人の島でもあることを示している。

范曄の時代から150年後に、倭国に派遣された隋の使者は、魏志倭人伝や後漢書倭伝を読み込み、上記の勘違いを自分の知識としていたから、「(倭人の島にいる)秦王国の人が、此処は夷洲であると云うが理解できない」と正直に記し、隋書の著者もそれを転記した。従ってそれが、隋書が成立した初唐期の、中国人の認識だった事になる。

隋の使者を招いたのは邪馬台国系の倭人ではなく、東鯷人系の倭王だったから、自分の祖先が連れて来た中華人の国である秦王国に、隋の使者を訪問させて自分の権威を高めようとしたと考えられ、隋の使者を招いた倭王は東鯷人だった事が分かる。

秦王国にいた中国人は秦・漢代に渡来した中華人で、海洋を航行する能力がなく、三国時代以降の大陸事情を知らなかったから、自分達は夷洲にいると隋の使者に説明し、隋の使者にはそれが理解できなかったが、秦王国の人々には誤解を解く補足説明ができなかった事になる。

史書の記述にはこの様に、論理的に解釈できる事が多々あるから、使者の報告書の転記と考えられる部分は、極めて信憑性が高い。しかし全て正しいわけではないから、注意が必要になる。

隋の使者が倭国に来たのは608年で、地質学者はその100年ほど前に、阿蘇の大噴火があったと考えている。隋書には、阿蘇の大噴火時の騒動の見聞が記されているから、隋の使者は秦王国の人から、その話を聞いたと推測される。この一致も史書の信憑性を高め、秦王国は阿蘇の噴火や人々の騒動が見える場所にあった事が分かる。

隋書に阿蘇の話があるから、隋代の倭国は九州にあったと主張する人がいるが、隋の使者が阿蘇の噴火を偶然見たのではなく、誰かから聞いた事になる。倭人は火山を沢山知っていたから、火山の話をする際に阿蘇に絞る必然はなく、隋の使者に火山の話をする動機もなかった。噴火時の人々の騒動まで物珍しく観察し、100年間もそれを伝承し続けたのは、火山がない大陸から渡来した秦王国の人以外には考えられない。

秦王国を形成していた多数の中華移民は、秦・漢代の東鯷人が中国から移住させた事になるから、国を形成する程の多数の人々を、家族と共に大陸から日本に移民させる海運力が、秦・漢代には既にあった事になる。東鯷人の国は20余国で倭人の国は100余国だったから、倭人は日本列島の最大の海洋民族集団として、日本列島の海洋民族の代名詞になったが、東鯷人もこの程度の海運力を持っていた事から、秦・漢代の倭人の海運力の凄さを想像する事ができる。古墳時代に5万程度の兵力を、朝鮮半島に派遣する事が可能だった事と整合し、中国人は古墳時代になっても、日本列島に渡航する航海術はなかった事を後漢書が示し、他の史書と整合している。

大陸に鉄器が普及してから千年近く経た、隋・唐代になっても、中国人の海洋に関する知識はその程度だったのだから、新石器時代の中国人が、海洋に乗り出していたとは到底考えられない。つまり弥生時代初頭に、大陸から稲作民族が渡来したとか、古墳時代に先進的な大陸民族が、一族郎党を引き連れて渡来したという類の話には根拠がなく、お伽噺に過ぎない。

 

3-7 旧唐書倭国伝 「倭国は新羅の東南の大海中に在り。山島に依り居す。」

旧唐書は、唐が滅んだ後の混乱期に編纂された。唐代の帯方は新羅が占拠していたから、この表現は初唐期に編纂された史書の表現を踏襲しているが、初頭期に滅んだ百済は省略している。つまり唐代が終わった平安時代になっても、海洋の状況に関する中国人の認識は進歩していなかった。

鎌倉時代に蒙古が襲来した事とギャップが大きいが、唐が健在だった頃の朝鮮半島は新羅が支配し、新羅は最後の海洋民族国家だったから、彼らは海洋民族の仁義を守り、倭人の島に関する知識を訂正する情報を、唐に提供しなかったと推測される。しかし新羅が滅んで高麗が生まれると、漢族の王朝だった高麗にはその様な仁義はなく、新羅が持っていた正しい情報を元王朝に提供したから、元寇が成立したと考えられる。

通説を主張する人達は自分の矛盾を糊塗するため、事実を無視してそんな筈はないと空主張し、中国の史書から都合の良い部分だけを抜き取って、日本書紀史観によって組み立てた日本史に恣意的に追加している。恥知らずの行為であると言わざるを得ない。

 旧唐書は「倭国は昔の倭の奴国である。」と記し、邪馬台国の倭人に騙された魏の使者の様に、唐の使者も倭人になった東鯷人に騙された事を示している。その詳細は(9)旧唐書・新唐書参照。史書がこの様な状態なので、言い逃れする余地は色々あるが、学者と呼ばれる人々がすることではない。

 

3-8 新唐書日本伝 「日本は新羅の東南にあり、海中の島に居す。」

新唐書は遣唐使が提出した日本紀を転記し、神武が天皇を称した事を認めているから、日本は古い時代から継続していた政権であると、新唐書を編纂した宋の知識人は認知していた事になる。日本紀はBC10世紀以前の系譜から書き始めていたから、それを日本国伝として認めた新唐書の著者は、倭が転じた日本は縄文時代から続いた政権であると、認知していた事になる。その詳細は(9)旧唐書・新唐書参照。

 倭人は朝鮮半島から渡来した民族であるとか、江南から渡来した稲作民を起源するなどと主張する人がいるが、新唐書の著者はその様な事は認知していなかったし、遺伝子分布もその様な兆候は示していない。

 

以上の説明では、遣唐使船がしばしば難破した事と矛盾するという、指摘があるかもしれない。

奈良朝は遣唐使と言える使節を、702年に初めて派遣した。唐書もその様に記し、それ以前の倭や新生日本の使者とは区別している。具体的に言えば、倭人時代に派遣された倭王の使者は皇帝に謁見できたが、大率が派遣した使者は正規の使者とは見做されなかった。壬申の乱以降の使者は、皇帝に謁見する事もできなかったから、新生日本の使者の言葉は朝議録から転記した体裁を整えていない。しかし703年に朝貢した遣唐使は、皇帝だった則天武后に歓待されたから、その事情が唐書に詳しく記されている。

つまり遣唐使として新生日本の王朝が派遣し、それを唐王朝が正規の使者として迎え入れたのは、702年に派遣した遣唐使が最初だった。「遣唐使」という名称が無前提に使われているが、このHPでは702年の遣唐使を初回の遣唐使とする。

遣唐使が使った船の構造示す、具体的な資料は発見されていない。しかし遣唐使船に関するまことしやかなデマが、書籍やネットを介して流れ、公金を使って実物大と称する偽物が作られ、映画も作られたが、それらには何の根拠もない。

飛鳥時代末期に物部と呼ばれた関東の商工勢力が、関東の倭国王家の宮家の当主に率いられ、出雲系の倭人政権を倒して日本国を樹立したが、政変によって邪馬台国系の天皇を担いだ農民派が実権を握り、奈良朝が成立すると、奈良朝の名誉をかけて遣唐使を派遣したものが、初回の遣唐使だった。

政権を打倒されたり政変で追放されたりした海洋民族の子孫が、農民政権の遣唐使の派遣にどの程度協力したのかは、続日本紀を読んでも分からない。初回の遣唐使だった「粟田真人」は、如何にも農民出身らしい名前の人物だから、海洋民族の子孫だったとは考え難く、遣唐使を派遣した奈良朝の実態を示唆している。

日本人であっても農民出身者であれば、海洋船を作ったり海洋を渡海したりする能力は、倭人時代の海洋民族と比べ、見劣りした事は間違いない。倭人政権が倒れても、海洋性がある人達は多数残っていたが、彼らは戸籍によって賤民身分に堕とされたから、どの程度政権に協力的だったのか疑問がある。

ウィキペディア「遣唐使」は、日本書紀史観に基づく説明に終始し、海難事故が多かった遣唐使について、以下の様に説明している。

「後期(奈良時代)の遣唐使船の多くが風雨に見舞われ、中には遭難する船もある命懸けの航海であった。この原因に佐伯有清は遣唐使船の大型化、東野治之は遣唐使の外交的条件を挙げている。東野によれば、遣唐使船はそれなりに高度な航海技術をもっていたという。しかし、遣唐使は朝貢使という性格上、気象条件の悪い6月から7月ごろに日本を出航(元日朝賀に出席するには12月までに唐の都へ入京する必要がある)し、気象条件の良くない季節に帰国せざるを得なかった。そのため、渡海中の水没、遭難が頻発したと推定している。」

諸説を並べる事により、良識に従っているかの様に装っているが、これが典型的な誤魔化しの手口になる。矛盾を孕んでいる事を知りながら、枯れ木も山の賑わいとして、王朝史観に基づいた諸説を幾つか挙げれば、学術解説としては尤もらしく見える事を、狙っている事が見え透いているからだ。

日本書紀史観を排除し、中国の史書を正統に解釈すれば、飛鳥時代までは倭人の時代だったが、飛鳥時代末期に日本国が生まれた事情が分かる。それを記した史書は(9)旧唐書・新唐書参照。具体的な歴史の展開については(13)飛鳥時代参照。

日本国が生れた事情を概説すると、672年の壬申の乱により、香取・鹿島の物部勢力を率いた関東の倭国王の宮家が、出雲王が宰領していた倭人政権を倒して日本国を名乗り、倭人の地域分権体制を中央集権制に変えた。しかし内需交易者だった物部を重視する、新体制に不満を持った稲作農民派が、邪馬台国系の宮家だった天智系譜を担ぎ、795年に政変を起こして関東の倭国王系譜を追放し、奈良朝を樹立した。彼らは物部も政権から追放し、自給自足的な農民社会の形成を目指した。

この様な革命と政変の中で、倭人政権を支えた漁民や海洋交易者は政権から追放され、沖縄や奄美は革命や政変で追われた倭人の、亡命拠点になった。奈良朝には彼らを征討する海運力がなかったから、沖縄や奄美の亡命政権は長期間延命し、奈良朝は倭人時代に使っていた、南西諸島を経由する航路を使う事ができなかった。

唐は遣唐使船が渤海に入る事を認めなかったから、初期の遣唐使は倭人時代にはあまり使われなかった、黄海を北に周回して江蘇省に向かう航路を使った。北九州の倭人はこの航路を使用していたかもしれないが、九州は奈良朝に最後まで抵抗した地域だから、九州の人々が遣唐使の派遣に協力的だったとは考えにくい。

初回の遣唐使の寄港先は楚州塩城県(江蘇省塩城市)だったと、続日本紀に記されている。粟田真人は寄港するとその地の役人に、「ここは何処か」と聞いているから、渡航先を明確に決めた航海ではなく、操船者は海洋民族系譜の者ではなかった事を示している。

新唐書に753年頃に新羅が海路を封鎖したので、日本は航路を変更して明州(寧波)、越州(紹興)経由で朝貢する様になった。」と記されている。奈良時代中頃に新羅との関係が悪化し、朝鮮半島沿岸を北上する航路が使えなくなった事を指摘しているから、遣唐使船には東シナ海を横断する航路しか残っていなかった様に見える。

その航路は目印がない海上を600㎞以上航行する上に、途上で対馬海流を横断する航路だから、倭人時代にも使わなかった危険な航路だったと推測される。具体的には、九州から済州島の漢拏山(ハルラサン:1950m)を目視で確認しながら半ば進み、それが見えなくなった後の300㎞は、島影が全くない東シナ海を西に向かい、江蘇省に到達する航路が最も方向を確認し易かった。しかしそれより南の浙江省を寄港地とし、目的地が初期の遣唐使より南に移動した事は、その様な航路は使わなかった事を示唆している。

つまり遣唐使船は、倭人時代の航路を模索したと考えざるを得ないが、南西諸島には寄港できなかったから、島影を遥か遠くに見ながら航路を確認しつつ、航行せざるを得なかったのではなかろうか。嵐にあっても港に退避できなかった上に、何処かで黒潮を横断しなければならなかったから、後期の遣唐使には難破する者が多かったと推測される。

鑑真が南の島に流された748年は、新羅との関係が明らかではない時期だが、渤海靺鞨が733年に、海を越えて山東半島の登州に侵攻したから、その余波によって上記とは関係なく、迂回せざるを得なかったのかもしれない。それから753年までの間に何があったのか、史書は何も記していない。この様な経済合理性がない事を推測するのは、権力闘争の推移を追跡する事と同類になり、歴史を論理的に追跡する事ができないから、この様な曖昧な結論にしかならない。これは日本が暗黒時代になったと、考えざるを得ない事情を示しているとも言える。

奈良朝は中央集権制について無知だった上に、奈良朝の政治は時間の経過と共に乱れていったから、唐から中央集権制の要諦を学ぶ必要があると考えた事には、経済合理性がある。また仏教を国家鎮護宗教としていた唐の制度を学び、倭人時代の価値観を一掃する必要があると考え、奈良朝が遣唐使の派遣に熱心になったと推測する事にも、経済合理性がある。奈良朝が東大寺を建立し、東洋一の銅製の廬舎那仏を製作した事は、農民政権特有の権力の装飾だったとして解釈できる。奈良朝は全国に国分寺を創建させ、唐の様に仏教を国家宗教にしたかった事を示しているが、神社勢力が台頭して国分寺が廃れた事が、奈良朝政治の宗教面での失敗を示唆している。その様な歴史の流れは、続日本紀の記事と一致する。

奈良朝は時間の経過と共に政治が乱れたから、王朝統治の処方箋が欲しかった奈良朝には、遣唐使の必要性は高かったが、一般人にとっては文化的に劣った唐から学ぶものはなかった。それ故に日本人は呉音で漢字を読み続け、王朝が変わった平安時代には高官を意味する「大夫」を、漢音で「たいふ」と発音した場合は最低の官職である五位を指すなど、唐文化やそれを追い続けた奈良朝を馬鹿にした。従って奈良朝の官僚は遣唐使の派遣に積極的だったが、庶民は唐文化に興味がなく、そのために航海術を高めるとか、必要な情報を集める意欲はなかったから、遣唐使の為の航行技術を高める企には人材が集まらず、技術が劣化していった事も、後期の遣唐使に難破する者が多かった理由ではなかろうか。

奈良朝は100年を経ずに崩壊し、物部と和解した平安朝が成立した。物部は倭人時代の価値観である商人道を維持していたから、平安朝は物部の価値観に依拠する事により、王朝倫理を修復して政権を延命させたが、物部に迎合した故に、浪費的で華麗な王朝になったと推測される。それによって大陸との交易が復活すると、平安時代末期~鎌倉時代に、宋の天目茶碗や禅宗が伝来した事が、海洋技術は失われていなかった事を示している。その詳細は(15)古事記・日本書記が書かれた背景/日本書紀参照。

 

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