古事記・日本書紀が書かれた背景

中国の倭人伝が示す倭国 > 古事記・日本書紀が書かれた背景

古事記と日本書紀は、倭人の歴史を抹消するために創作された歴史書で、古事記が著述された後、それを原本にした歴史書が沢山作られ、それらを編纂して日本書紀が成立した。古事記は飛鳥時代末期に、大和政権が倭人政権を倒して成立した直後、円滑に日本を統治するために成立した。従って日本の歴史上重要な意味を持つ書籍だが、日本書紀は京の貴族が、王朝貴族の権威を高める目的で編纂した、捏造書に過ぎない。古事記は事実を伝えているわけではないから、倭人政権を倒して日本を形成した人々の、考え方を読み取る事ができる書籍に過ぎないが、隠された意図が色々あるで、倭人時代の歴史を覗く重要な資料になると同時に、新生日本で何が起きたのか窺う事が出来る。

古事記を精査すると、倭人政権が崩壊した直後に成立した原古事記と、712年に太安万侶が改訂した古事記があった事が分かる。奈良時代に両書籍は併存していたが、現存しているのは改訂古事記だけで、原古事記は散逸した。

原古事記は、小国が分立する倭人体制から、中央集権制に移行させる事を、皆に納得させる為に創作された。その成立の重要性を認識するためには、先ず倭人体制が如何に長く続き、その体制の下で倭人が如何に活躍したのかを、理解する必要がある。次いでその体制がどの様に行き詰まり、新生日本国の政権がそれを打破するために、何を目指したのか知る必要がある。その上で原古事記の内容を推測し、古事記の改定事情を検証すると、中央集権制を目指す事によって日本国がどの様に生まれ、その政権がどの様に変質し、その結果どの様な勢力が実権を握って、奈良・平安王朝に繋げたのか推定する事ができる。

倭人の歴史は長く、倭人の祖先である海洋縄文人の時代から、その活動を記録した史書がある。竹書紀年に「九夷来御」と記されたのがその初出で、貨幣として使う宝貝を、夏王朝(BC18世紀頃)に納入した記録だったと想定される。「九夷」は大陸民が、日本列島から来る海洋民を指した名称で、その中の組織化された集団が倭人と呼ばれた。竹書紀年のその前後の記事に、「于夷来賓。方夷来賓。商侯が殷に遷る。白夷・玄夷・風夷・黃夷に命した。九苑を伐つ。皮氏を滅す。」などの記事があり、夷は王朝外の集団を指す漢字だった。

論衡は「成王(BC11世紀)の時、越常は雉を献し、倭人は暢を貢す。」と記しているから、周代の初めに倭人と呼ばれた集団が成立していた事が分かる。

BC4世紀頃の様子を示す山海経は、「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。」と記し、漢書地理誌は、「楽浪海中に倭人有、分かれて百余国を為す。歳時を以って来りて献見すると云う。」と記しているから、100以上の交易集団が倭を形成し、大陸の豪族と交易した事を示している。

後漢書は、AD107年に、倭国王師升等、生口(奴隷)160人を献じ、請見を願う。」と記して、倭の中核に倭国王がいた事を示している。

魏志倭人伝は、「邪馬台国の倭人の道具や習俗は、東南アジアの海洋民に類似し、中華と異質だが秩序立った文明社会を形成している」事を示している。

倭人は大陸の富裕な豪族を相手に、奢侈品を中心とした交易を行ったが、大陸に漢帝国が生まれると経済活動が停滞した。古墳時代前期に寒冷化が厳しくなり、華北の農業が不振になって華北王朝が崩壊し、人々が華南に大移動すると、倭人の船を活用した移民事業が活況を呈し、日本列島は空前の好景気を迎え、有り余る財貨を使って古墳を林立させた。しかし古墳時代後期に大陸の民族移動が終ると、外需に依存した倭人経済は主要な収益源を失しない、外需に依存した日本列島の経済活動は行き詰まった。

飛鳥時代に日本列島は深刻な不況に陥り、好況時に急成長した物部と呼ばれた内需商工業者に、不況のしわ寄せが厳しく及んだ。しかし倭人政権は、外需に依存する伝統的な経済活動に固執し、その成果が見えない中で不況が深まった。その苦境を打破する為に、関東の倭国王の宮家が中央集権制への転換を目指し、苦境に陥っていた物部と連携して武力革命(壬申の乱;672年)を起こし、日本国を樹立した。

新政権の具体的な政策は、内需を活性化させるために、各小国に分断されていた市場を統合し、調の制度によって特産品の価格を公定し、優良商品を全国に販売できる様にする事と、不況で売れなかった米を租税とし、それを原資に公共事業を興す事だった。その代表的な公共事業が、藤原宮の建設だった。それらの制度は唐に倣ったものだったが、唐は商工業を抑圧していたから、日本的な中央集権制を創出し、商工業の活性化を図った。革命を達成した主体が物部勢力だったから、それは当然の事だった。

倭国王家には、祖先の活躍を伝える伝承があり、諸王家の伝承と共に、倭人体制を権威付ける素材になっていた。しかし関東の宮家が天皇家になると、中央集権制に転換するためには、民衆の意識改革が不可欠だと考え、そのために天皇自らが、倭国王家の伝承を捨てて古事記を創作し、日本人は昔から海外交易などは行わずに、天皇家を中心に国内統治を目指してきた事にして、内需中心の経済に切り替える事を宣言した。

倭人時代の地域主権に馴染んでいた地域住民を、大和朝廷を中心とする集権的な体制組織に組替えるためには、新しい心情的な合意も必要不可欠だった。倭人時代の各国の王は神と呼ばれ、その神格的な王権を各国の伝承が支えていたから、民衆の秩序観を失わせずに諸国王の伝承を否定し、新しい秩序を確立する必要があったからだ。現代人には、その感性を実感する事はできないが、革命直後の大和朝廷は、倭国王家と諸国王家の伝承を否定し、それに代わる神を古事記が生み出し、それを民衆に配布する事によって、新しい秩序観を樹立した。古事記はその方針に従い、天皇の祖先神やその周囲の神々を沢山創作し、神である王を失った地域集団に、その新しい神々を配布した。

古事記は、神代と天皇統治時代の2部で構成され、神代に倭人時代の史実を反映した。但し現在伝わっている改訂古事記は、天皇統治時代に沢山の創作説話を追加したから、神代の記述比率が小さくなった。

神代に史実を反映させたのは、それが倭国王家の伝承の書き換えである事を、読み手に示すためだったと考えられる。倭国王家の伝承から重大事件を抽出し、それを天皇家の事績として書き替え、書き換えた事を周知した。飛鳥時代末期の人は、倭国王家の伝承を知っていたから、嘘である事が明らかな書き換えを行なった目的は、彼らを騙すためではなく、古い体制を否定して体制変革に向かう決意を促す為に、倭国王家の正統な後継者である天皇が、自らの伝承を書き換えた事を、民衆に示すためだったと考えられる。

この様な大胆な発想を企図したのは、漢王朝が実施した歴史の捏造が成功し、新しい歴史認識が中国に浸透した経緯を、倭人が交易に従事しながら、観察したからだと考えられる。その事情を確認するためには、真の中国史と漢王朝による歴史の捏造を確認し、大和朝廷の認識を検証する必要がある。

中国の歴史は、黄河流域に王朝が展開した事になっているが、それは史記が捏造した歴史だった。それを検証するためには、夏王朝以前の石器時代の歴史から、考証を始める必要がある。

黄河南部の広大な平原には、周囲に山がなく、森林を拓く道具になる石器の素材が、入手できなかった。従って鉄器が普及する以前は、中国の大平原は人の居住に適さず、未開の森林に覆われていた。その森林によって、南の稲作民と北の雑穀民の居住域が分断され、両者は異なる文化圏を形成していた。しかし春秋時代に鉄器が普及し、広大な森林が開墾されてアワが栽培出来る平原に変わると、雑穀民がそこに武装国家群を形成した。アワは生産性が低く、収穫量は気候変動に敏感だったから、雑穀民は古代から農地や収穫物を略取し合う、武闘的な集団だった。その様な雑穀民が鉄器を獲得して人口を増やし、春秋戦国時代に武闘的な性格を一層高めた。

一方の稲作民は、河川の流域で稲作を行っていた。稲作の労働は厳しかったが、安定して豊かな収穫が見込める上に、河川が豊かな漁獲をもたしたから、食料を奪い合う習俗は生まれなかった。灌漑水路の整備には共同作業が必要で、その実務指導者が必要だったから、小国が共存し、地域の意思を重視する社会観を持ち、地域毎に特徴ある商工業を発達させ、高度な文明を形成した。しかし権力の集中を生まなかった稲作民社会では、豪華な宮殿や皇帝が独占する奢侈品を生み出さなかったから、考古学的には貧弱な文明だった。華北の武闘的な政権は、その様な稲作民とは異なり、武力的に集団を統合して権力を集中し、権力を装飾する建築物や奢侈品を求めたから、見栄えがする考古遺物を遺した。発掘された考古遺物だけで、南北の文明を比較する事はできない。

春秋時代に淮河流域の森林が消滅し、雑穀民と稲作民が接する様になると、中国の平原全体で武力衝突が頻発する様になり、やがて武闘的な雑穀民の武力が優勢になり、最後に秦や漢などの帝国が中国を統合すると、強力な皇帝が権力を行使する中華帝国を形成した。しかし中央集権制や帝国主義は、経済や文化を発展させるためには極めて非効率な制度だから、稲作民の文明が消滅した後、文化や技術の向上は停滞した。しかし中国全土が統一されなければ、鉄の武器を手に入れた雑穀民は戦争を止めなかったから、中華帝国の成立は歴史の必然だった。

雑穀民を母体とする漢民族は、帝国主義的な皇帝専制を正当化するため、分権制によって発達した先進的な稲作民の文明を、中華の歴史から抹殺した。雑穀民の文化は稲作民文明の亜流だったから、稲作民の先進的な政権の存在を抹消する以外に、雑穀民の皇帝権力を正統化できなかったからだ。漢王朝の史官はその目的に沿い、中華文明は黄河流域で発祥したとする嘘の歴史を捏造し、稲作民は辺境の未開な住民として、中華史の傍流に押し遣った。

それが捏造史である事は、漢代には知られていた。しかし後漢代にその記憶が薄れ、三国・晋代に捏造史が正当な歴史になり、南朝時代には、正しい歴史は完全に忘却された。

古事記の著者は、この様な中華の歴史を知っていたから、倭人時代の価値観を否定し、新しい秩序を形成するために、事実に立脚した倭人の伝承を抹殺し、新しい歴史観による新秩序を樹立する事を提唱し、古事記がその役割を果たした。

7世紀末に大和政権内で政変が起り、関東系の天皇が粛清されて難波系の天皇に替った。原古事記には、関東系の天皇を称賛する記述が沢山あったから、難波系の天皇はそれを削除・修正し、712年に改訂古事記として成立させた。しかし原古事記との差し替えは徹底できず、両者は混在し続けた。

大和政権は唐に、倭人政権の後継である事を認めて貰いたかったが、7世紀に何度も送った使者は、唐の皇帝に面接する事が出来なかった。唐としては、千年以上続いた倭人政権を倒したと、突然言われても俄かに受け入れる事ができなかった。大和朝廷は8世紀初頭に、唐に華々しく高官を派遣し、皇帝だった則天武后との会見に成功した。それを受けて、唐に日本国の歴史を認めさせるため、古事記を漢文にした日本紀を720年に作成した。但し中華では、神話は通用しない事を知っていたから、神代を置かずに当初から天皇の時代だった事にした。

この頃から日本人の歴史観が変質し始め、古代から難波系の天皇の一系だったとし、関東系の天皇を日本の歴史から抹殺し始めた。しかし日本紀の作成時点では、歴史の捏造技巧が未熟で、捏造論理の整合が出来ていなかった上に、その頃の倭人の様子を示す唐書は、未だ成立していなかったから、唐書と比較すれば矛盾が明らかになる記事が沢山あった。

歴史捏造の理論は時代の進展と共に進化し、平安時代になると日本紀の本格的な書き換え作業が始まり、沢山の試案が作成された。日本書紀がその集大成だったと考えられるが、日本書紀が成立したのは鎌倉時代以降で、江戸時代だった疑いもある。

捏造史の試案の作成が活発化した背景に、大和政権が手本とした唐王朝が滅亡し、後継の宋王朝も悲惨な末路を辿った事が、日本に伝わった事を指摘する必要がある。中央集権制は望ましい政体であるという主張が否定されると、王朝貴族が主張できる正統性の根拠は、天皇を頂点とする中央集権制は、古代からの一系の統治原理であるとする、虚偽の歴史だけになったからだ。

天皇家は倭国王系譜だから、真実の歴史に戻ってその系譜を主張すれば、天皇統治を正統化する事は出来たが、京の貴族は、天皇家と王朝貴族を権威の両輪とする政体でなければ、自分達が政権から疎外される事を危惧し、歴史の捏造に血道を上げた。しかし現代日本人は、日本書紀を日本の政体の根拠にする必要はないから、日本書紀の正統性に拘泥する必要はない。日本書紀を放棄しても、天皇家が古代から、日本統治の要だった事が否定されるわけではなく、天皇家の歴史が短縮されるわけでもなく、天皇の権威が低下する事もない。古事記が、天皇家の祖先である倭国王家の系譜は、BC14世紀まで遡る事を示しているからだ。

検討書籍

成立時期

目次

古事記

7世紀後半

712年改訂

古事記序文

古事記が成立した背景

倭国王家の伝承を参照し、それを変形した古事記神話

古事記が変えようとした、倭人の宗教と価値観

古事記改訂の痕跡から、改訂の意図を探ると同時に原古事記を復元する

古事記が大和政権に放棄され、忘れ去られた理由

日本書紀

13世紀以降

日本紀を復元する

日本紀から日本書紀への変遷

日本書記の編纂が企図された時代背景

日本書紀が編纂されたのは、鎌倉時代以降だった疑いがある

倭人文化の継承

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